2019年7月1日月曜日

細菌戦の系譜!!


「琉球処分」から140年、今の沖縄を考えるパネル展
「琉球処分」140年 後田多敦さん講演
沖縄
戦争とは何だろうか??
軍事研究に関する学長声明  龍谷大学 学長 入 澤  崇
第24回  スタディツアー 事前学習会
文学者の戦争協力
香港の皆様へ!!
731部隊「講演と合唱の夕べ」
北宏一朗さんを偲ぶ
長崎731部隊・100部隊パネル展
京大 学位授与問題!!
長野平和の旅
日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
武蔵村山の国立感染症研究所問題!!
安倍政権の歴史改ざん政策(中国人ビザ発給拒否裁判)
「北東アジア国際関係の激変と日中関係」 大西広慶応義塾大学教授
731と米国の核戦略
防衛省731部隊情報公開裁判の途中経過から見えてきたこと




香港の皆様へ!!
北宏一朗さんを偲ぶ
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
海軍の毒ガス工場・相模海軍工廠 (寒川町)で、どのような化学兵器が作られていたのか、化学実験部=海軍技術研究所(平塚)では?

―毒ガス、化学戦、悪魔のネットワーク―

一本土決戦に備える毒ガス部隊一
環境省が発表した(`03.11.28)、昭和48年「旧軍毒ガス弾等の全国調査Jフォローアップ調査報告書によれば、神奈川県に於ぃては12ケ所、平塚(海軍技術研究所跡地)、寒川(相模海軍工廠跡地)、そしてその中に茅ヶ崎市の事案(神奈川14-9)がある。
 1983年6月4日付朝日新聞は「茅ヶ崎、旧軍の青酸ガス弾、学校跡地から発掘、作業の人やけどJと報じた。場所は茅ヶ崎市富士見町の私立「平和学園」(現アレセイア湘南)の敷地内、幼稚園の裏側、深さ2.5mの所から球状のビンが300個以上、旧海軍の青酸ガス弾と見られていたが、後に塩素系の催涙手投げ弾119個と発表され、自衛隊によらて処理されたとある。昨年平塚で発見された球状の青酸手投げ弾のことを考えると119本以外のビンの内容が不明にされたままが不自然である。この現場は昭和20年5月から海軍砲術学校があった場所とされ、 フォローアップ調査では現在の状況として、“鉄筋4階建の教育施設が建っていて、井戸水は飲用していない。旧海軍砲術学校について、学校そのものが存在していない"と記されている。


何で微罪で長期勾留する??
微罪で長期勾留?おかしくないか?日本も人権意識が欠如している!!
以前までは香港の日本領事館が南京大虐殺の抗議を受け取っていたが、去年は受け取らないので、日本まで抗議に来たという。
香港人「靖国神社」建造物侵入事件"長期勾留"の謎?

靖国神社でぼや、横断幕も=中国籍の男を逮捕


●徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
日本の医学界はなぜ謝罪しない???
又、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマと4度被曝した日本は、世界に先駆けて核兵器廃絶・脱原発と叫ぶべきではないか!!
なぜ、日本医学界は、先頭に立って「脱原発!!」と叫ばないのか!!
戦後、731部隊員はアメリカの核戦略に協力した!!

「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日
「日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか 」 田中利幸さん
日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか


●水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!

ビキニ「死の灰」世界各地へ


日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!

平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】

・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!!
なぜ、「731」と書かれた戦闘機に乗れるのだ???

2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影

オリンピックにお金をかけるのではなく、いじめ対策・貧困対策・戦争被害者対策にお金をかけるべきだ!!





●ニュース
エボラ出血熱のウィルスなど危険の高いものをなぜ輸入する?
日本は全く細菌戦の反省をしていない!!
危険性高いウイルスの取り扱い 住民に伝達 国立感染症研究所

危険性高い病原体扱えるBSL4稼働へ 武蔵村山の施設



鹿児島で猛烈な雨 土砂災害や氾濫など厳重警戒

トランプ大統領の安保条約発言 「現段階で静観」菅官房長官

籠池氏、森友問題は「『安倍守り』の対応」宮崎元議員と対談

トランプ氏が非武装地帯を視察


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と言っている国が、なんで空母を持つのだ???
防衛省、護衛艦「いずも」「かが」を空母化へ 自衛隊内部からも疑問の声


辺野古の埋め立て加速 玉城デニー知事「暴挙以外の何ものでもない」

自衛隊の不祥事!!
日航機123便墜落の真相 〜JALボーインング747に訪れた悲劇の全貌〜



このままでは終わらせない…“森友事件”のいま【ザ・ドキュメンタリー】



“私は不妊手術を強いられた” ~追跡・旧優生保護法~

医学界の反省の弁はないのだろうか???原因は何だ???
強制不妊、首相「反省とおわび」 救済法成立時、談話発表へ

福島第一原発の原子炉建屋 開けられる鍵が9000本以上


彼の無念晴らしたい 森友疑惑 自殺職員の元同僚


なぜ、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
「わざわざ自分らのことを『げんしりょくむら』とは?

「あつまれ!げんしりょくむら」に批判相次ぐ サイト閉鎖

20190330 UPLAN 小出裕章「フクシマ事故8年 原子力を廃絶させる道」



731部隊の病理解剖の顧問をした清野謙治も、窃盗事件で京大を追われた後、戦後は東京医大教授になった。731部隊で細菌を製造していた柄沢も東京医大だ!!
日本の底にツルハシでも崩れない差別がある 東京医科大の不正入試提訴 会見詳報

イージス・アショア 田岡俊次 青木理



なぜ、日本は脱原発と叫ばないのか??
20181104 小出裕章と樋口健二のコラボ講演会


2005/12/25 【原発問題】推進派vs反対派 小出裕章氏


竹田恒和JOC会長、IOC委員を辞任




竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか
海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見

【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任


森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」

「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ

松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示

“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)


真実を隠すために死刑にしたのでは??
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活


京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)

731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に




●横浜「戦争の加害展」感想


2月13日
・初めて知ることがとても多く、驚かされました。明日以降ももう一度見に来ようと思います。(男性、30代)


●「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第3部

追われるもの

 連絡のためだろうか、尾藤属が、貨車の扉を開けて出て行く時に、騒々しくごった返している避難民と、貨車の周りをこつこつと靴音たてて歩きながら警備している憲兵を、ちらと見た。まだ、差し迫った事態には至っていないようである。そうした安心感から、私達はまた眠ってしまった。
 いつの間にか、夜が明け、列車は快調に走り続けた、新京を目指して、南下しているのである。昨夜、にわか雨があったせいであろうか、青々と続く平原は、今淡い霧に包まれ、その中を黒く長い私達の列車が大気を押し分けるように走っている。
「列車が、何だか、また長くなったようだねぇ。そうじゃないか」
「ハルビンで、継ぎ足したんじゃないか。製作工場の連中が合流したのかも知れんぞ」
 雇員たちが話し合っている。製作工場といえば、私達もいつか見学した、あの濾水機を作っていた工場に相違ない。
 その日の午後になると、ソ連軍が、第二松花江ともいう拉林河の鉄橋を破壊するに違いないという幹部の憶測が伝えられた。
 まだ、直接敵の攻撃を受けたわけではなかったが、双城駅を過ぎるころから、列車は頻繁に停止し始め、はやる私達の心をことさら不安にした。





●日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より

第6章 悪魔の兄弟たちの毒ガス網

共同の人体実験

1種のガス発生器(ガスチャンバー)と呼ばれる設備が両部隊が連携する主要な媒体だった。ガスチャンバーは実際には毒ガスを生産するとともに人体実験にも利用する1組の装置で、2つの部分によって構成される。1部分は5ミリの鉄板で囲まれた1辺が3.6mの正方形で、内側に毒ガス生産設備を備えている。その天井には扇風機があって毒ガスと空気を混合させる。もう1つの部分はやや小さく1辺が1.8mの正方形で、天井と床以外の四面は特種防弾ガラス張りで、外から中がはっきりと見える外部からの実験観察用である。その中の1面は片開のドアで、開けると小型台車をレールで押し込める。この2つの部分はパイプで連結している。


(広島県大久野島毒ガス工場)




●天皇制廃止に向けての第一歩:雲上人を人間化する運動を!
田中利幸
3)憲法前文、9条と第1章の根本的矛盾
さらには、全世界のあらゆる人々(日本語の前文では「国民」となっているが、英語の原文はPeople)が平和に暮らす権利=「平和的生存権」を有しているいことも確認している。つまり、この前文では、日本人が自分たちの政府に戦争を再び起こすことを許さず、世界のあらゆる人間が平和を享受する権利を持っているという認識に立って、国際社会で平和的な人間関係を創り出していくことに積極的に貢献していきたいと主張している。ここには、平和とは人権の問題、生存権の問題であり、地球的・普遍的正義論の問題であり、国際協調主義の問題であることが謳われている。



●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳

ベルリン医師会理事会を代表して  ヘルムート・ベッカー博士
                 エリス・フーバー博士
・・・・・・・
ベルリン医師会はまた1934年から1939年までの『国際医師報ー国際社会主義統一医師団機関誌』の復刻版(ナチズムの保健・社会政策の叢書第7巻、1989年、ベルリン、ロートブーフ社)を刊行し、これまで歴史の中で埋没してしまっていた、亡命医師たちに関する唯一のドキュメントを公開した。
 ベルリン医師会理事会は、たった9ヶ月でこれら全ての事業を成し遂げた全ての関係者に感謝の意を表したい。
 このプロジェクトは、多数の医師たち、バーデン=ヴェルデンベルグ州医師会、ブレーメン州医師会、ハンブルグ医師会、ノルトライン州医師会、シュレースヴィッヒ=ホルスシュタイン医師会および、いくつかの会社、銀行、ベルリン市参事会、ドイツ階級別宝くじ財団、州労働局およびその他のスポンサーから、寛大な財政的援助を受けた。とりわけベルリン医師会理事会は、第92回全国医師会の会期中、展示会の取りまとめに尽力された連邦医師会会長のカルステン・ヴィルマル博士に感謝申し上げたい。ベルリン医師会は、この展示の成果が医師の間で自分たちの過去を公然と論議するのに役立ってくれることを希望する。ナチズム時代の医学を思い起こすことによって、医師たちは、自己批判をおこない、今日の医療の倫理の諸問題に一層敏感にならざるをえない。


昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)


●「化学学校記事」情報公開裁判
9月4日 11:30~(522号法廷)

●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

次回 第23回『衛生学校記事』情報公開裁判
9月26日(木)11:30~419法廷

金原節三氏が寄贈した資料が、衛生学校庁舎3階の彰古館に1982年に「金原節三コーナー」として展示された。
その2000点を超える資料はその後どうなったのであろうか?
防衛省の回答では、金原氏の目録と一致する資料は、今現在は641点だという。
あとの資料はどこに消えたのか?
彰古館に勤めていた人(1996年から2013年)の聞き取りでは、彰古館では、きちんと整理していていなかったようである。
金原資料は、1995年に防衛庁戦史部に移管されたが、翌年また彰古館へ戻したという。
その時はすべてを戻したわけではなかったようだ。
2010年に、彰古館が学校庁舎3階から今の建屋になり、資料も移管されたが、金原資料の整理はきちんとされていないようだ。
金原資料の一部はあるようだが、その他の金原資料は、どこに保管しているのだろうか。
また、彰古館には旧軍資料しか置いていないともいう。本当に「衛生学校記事」や教範類は置いていないのだろうか?
次の裁判までに、勤めていた人の陳述書を防衛省側は出すという。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊


第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1

金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。


金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

「衛生学校30年のあゆみ」
校長在職時代の憶い出
第4代校長 金原節三
しかし、衛生学校というのは、率直に言って、部外に居って私が期待想像していたものとは、大分かけ離れたものであった。簡単に旧軍の軍医学校並みとばかり思っていたのに、来てみると、施設にしろ、装備にしろ、遥かにお粗末なもので、教育手段にしても、座学70%、野外訓練20%、技術実習10%という数字は驚くほかなかった。これでは、Medicalの名は付けられぬのではないか、field"non medical" service school か野戦下士官学校とすべきではないかと上司に訴えたものだった。

※細菌戦に関わった金原と、戦後日本医師会で権力をふるった武見。こんな2人に関係があると、日本医師会が細菌戦のことなど反省するはずがない。防衛医科大学校は、武見と金原の人間関係で設立された。もちろん、生物戦、化学戦、原子戦などを想定して、色々なことに取り組んでいるのではないかと思う。すべて防御のためと称して。


第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)





イタイイタイ病を究明した男 萩野昇

驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く

水俣病問題

小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去

小泉親彦と宮川米次の絆

ヒロシマからフクシマへ

宮川正

「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—

ビキニ「死の灰」世界各地へ

自衛隊とサリン

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場

日本の国家機密

兒嶋俊郎さんを偲ぶ



●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。





●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


第9章 聖戦

。しかし、天皇の「御下問」は、臣下に対する質問というかたちを取っているものの、奉答者に対して天皇の意思を示す場合が多く、事実上の命令に等しく、無視できないものだった。時に、天皇は進行中の軍事作戦を変更しようとして、反対論に遭遇することあったが、天皇が主張する以上、たとえ、統帥部長が天皇とは異なる方針を持つ作戦部長や重要な部局の長の意思を否定しなければならないとしても、天皇が最優先なのである。要するに、統帥部は精力的で、活動的な天皇に対して責任を有していたのであり、けっして、彼らが望むがままに日中戦争を遂行することはできなかった。陸海両大臣も同様であり、彼らもまた、昭和天皇の御下問に服し、時に天皇の叱責を受けることがあった。

小泉親彦と昭和天皇

近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~

近代天皇制の真髄は

福沢諭吉

神武と戦争




憲法9条を生かそう!!










0 件のコメント:

フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中