2018年11月9日金曜日

近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~

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近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
                                岩崎 稔

  はじめに
 今回、相州(神奈川県)の代表的な民権結社である「湘南社」講学会で行われていた憲法論議を例として、そこから、明治一五〇年の今を、即ち、明治以降の近現代史を《憲法視点》から問い直そうと試みた。いま、特に現日本国憲法の危機が叫ばれるなかで、自由民権運動のもたらした歴史的意義を再確認する作業の必要性を痛感し、改めて、自由民権運動を《憲法視点》から捉え直してみたいと思った次第である。

  ㈠ 近・現代史を理解するうえでの眼目とは何か?
 単刀直入に、日本の近現代史を、憲法視点から敗戦後の、日本国憲法下の現在に至るまで、三つの時代を経てきたと捉えるべきだと、私は考えている。大日本帝国憲法制定への過程は、国民の憲法論議を保障しつつ(吸収しつつ)進められたのではなく、逆にそれを弾圧し解体したうえに制定されたもので、大日本帝国憲法制定へのプロセスは、自由民権運動解体のプロセスと一体であったことを承認すること、そのことが、歴史を読み解く鍵と思うのである。なぜ?鍵なのか、について言えば、国民主権を目指した運動(自由民権運動)が「主体」を奪われ、国家主権(天皇主権)へと転落した分岐点をなしているという意味においてである。つまり、大日本帝国憲法の制定によって国民が、国家の手段=臣民化の途がこれによってつくられたからである。自由民権運動は、天皇制の成立によって政治的に敗北した。


 しかしながら、全国的な規模の、しかも長期にわたる日本で最初の、しかも最大の民主主義運動が長期にわたり人々を捉えたのは、日本史上、空前であると共に絶後でもあった。この運動がどのような意味で、空前絶後であったのか。それは結社数・憲法草案数・建白請願数などで空前絶後といえるだろう。①民権結社の結社数は、全国で二〇〇〇社を超える。神奈川では一四二社であった。それは②憲法草案数においても一〇〇を超えていた。③次に、その建白請願数においても、一八七四年から一八八一年の間、元老院に八〇件と太政官に四〇件と一二〇件提出されている。またこの間、④日本各地で行われた政談演説会などは数えきれない数であろう。

 この事実の示すものは、自由民権運動期の時代は「自分たちが国をつくる」という主権者としての意欲と熱意が漲っていた時代、われわれが、近代日本を主導していくという気概と意欲に満ちていた時代と特徴づけることができるだろう。いかに明治期の人たちが、次に来る新しい時代の到来を切望していたか、また新しい時代の到来に、どのような国家(憲法)構想を用意したのか、その切実な熱意の叫びが伝わる。しかしながら、それらの思いを圧殺したうえに明治体制がつくられたことこそが、問題にされなければならない。

  ㈡ 新しい時代の到来は、憲法論議をもって始められた
 ① 「湘南社」の憲法論議の歴史的意義
 湘南社では、「五日市憲法」などのような憲法草案の作成には至らなかったが、憲法を構成する基本原則についての学習と論議が活発に行われていた。そして、彼等の運動の遺産は、敗戦後の、日本国憲法の基本理念にしっかりと受け継がれている。講学会で講師細川瀏が与えたレポート「主権は何に帰属するや」に宮田寅治は、現日本国憲法第一条の象徴天皇論を彷彿させるような論議を提出している。

 宮田はまず「憲法は国家の基本を規定するもの」だとして「主権ノ何ニ帰属スルヤ否ヤヲ以テ、世ノ開未開ヲ知ルベキモノ」と規定したうえで王権神授説やフランス革命等の事例を引き、帝王主権説に反駁し「帝王ハ宛モ主権ノ預リ人カ、或ハ主権ノ強盗人タルガ如キ有様」と述べ、「国民ハ主権ノ権力ヲ以テ主宰者タル、統領・帝王ヲ置クハ之レ主権者ノ命ズル処ニシテ、之ヲ制スルニ憲法ヲ以テス、故ニ主権ハ国民ニ帰属スルモノナリ」と論じている。また同様のレポートで、猪俣道之輔は、国民主権論を展開している。


 私擬憲法草案の殆どが主権または立法権の帰属を「君民共治」の二元論においていたが、湘南社の憲法論議は、これら「君民共治」には同調せず、主権在民論を堂々と展開している点が注目される。


 ② 「憲法における国民の権利比較」の示すもの
 憲法視点からみた三つの時代の「国民の権利比較表」は、自由民権運動の遺産が、どのように現日本国憲法に受け継がれているか、比較表に示されている。日本国憲法制定の意義は国家主権から国民主権への転換、つまり自由民権運動の復権と顕彰が実現したと同時に、帝国憲法下に「奪われてきた人権規定」の復権という、二つの復権の実現を意味する。その意味で日本国憲法の国民の権利及び義務の構成が示すものは、再び人権抑圧の時代にしてはならないという、反省が起点となっている。


 ③ 自民党改憲案の比較表とその特徴点
 自民党の改憲案の特徴点の第一点は、人権の保障度をさげ、数多くの義務規定を盛り込むことで、立憲主義と決別している点である。第二点は、天皇を「戴く」という表現によって天皇の権威を強化している点で、国民主権を後退させるもの、すなわち、天皇の元首化と国民主権の後退である。第三点は、国民より国家を尊重し、国民主権を後退させている。「平和的生存権」を削除し「国民の防衛義務」が明記されている。平和主義を放棄し戦争ができる国へ、国民を動員しようとしている。総じて言えば、国家の義務放棄と国民の義務の強化がはかられている。権利保障には後ろ向きだが、義務の拡大には前のめりである。現憲法を「あってもなくてもいいように扱い」ながら、改憲案では「憲法尊重義務」を課せる。何ということか、唖然とせざるを得ない。

  ㈢ 自由民権運動「解体」の落し穴
① 近代主義の陥穽
 大日本帝国憲法発布によって、自由民権運動に動員された民主主義的エネルギーが明治政府の仮借ない弾圧と巧妙な懐柔政策によって分散されることを通じて、体制内に吸収・併呑され、ここにおいて近代日本がその基礎構築を完了するに至った。大日本帝国憲法発布はそれを挙示する事件であったといえるだろう。
 日本の近代化の過程は、自由民権運動の解体過程をつうじて成し遂げられた。その過程は言い換えれば、民権論が国権論に呑み込まれる近代主義の陥穽によって、近代化=資本主化=殖産興業・富国強兵をはかり、日本が「アジアの盟主」として、アジアを侵略し、西欧列強の仲間入りをする「帝国主義」にのし上がっていくことを意味した。所謂「脱亜入欧」が日本の目指すべき目標になった。端的に言えば、近代化が「民主化」の方向にではなく、近代化が、侵略主義、帝国主義への道をたどったのが日本の近代史であったといえるだろう。
 ② 対外侵略への道―日清戦争と福沢諭吉
 帝国主義者・侵略主義者の典型として、日清戦争を扇動したのが福沢諭吉といえるだろう。幕末・吉田松陰の「一君万民」論から福沢諭吉の「絶対的天皇論」への道筋を示すまでもなく、福沢は、官民共存=民権と国権が共存していた『学問のすすめ』から、官権主義、すなわち「国民は手段」となった国権主義『文明論之概略』へ、さらに『時事新報』での侵略主義へと深化をたどっていくのは、まさに、大日本帝国憲法体制への道を準備するものであった。つまり脱亜入欧から『帝室論』(尽忠報国)は、福沢が、明治体制を下支えした思想家であったことを端的に、示している。日清戦争を「聖戦」と謳いあげ、野蛮を教化するための戦争とし、侵略主義を煽る。「文明と野蛮」という機軸でもってアジアを蔑視しかつ人権思想に離反したアジア蔑視を公言し、皆殺し(殲滅)を煽る。まさに侵略主義の思想である。
 これらの風潮は、かつての民権家たちが、甲申事変の際に、日本の大手メディアに同調し対朝・対清主戦論的な国民世論が醸成され、殆どの著名人が「清国討つべし」との熱狂的な戦争支持へ転回したことを、反映してか、自由党でさえも『自由新聞』で、日本の国威・国益を拡大する「国権」論こそ、大事だ、アジア進出を煽っていた。日清戦争を熱狂的に支持した人たちをここに列記してみると、福沢諭吉、陸奥宗光、内村鑑三、森鴎外、徳富蘇峰、堺利彦、夏目漱石などがいた。そのなかには湘南社の側にいた中島俊子らもいた。

  ㈣ いま、われわれに求められていることは何か?
 このような対外侵略への道をいとも簡単に許してしまったのはなぜ?だろうか。この点について最後に考えてみたい。先に、近代化が「民主化」の方向にではなく、近代化が、侵略主義、帝国主義への道をたどったのが近代史であったと述べたが、そうするためには「国民を国家の手段」(臣民)へと変えなければならなかったわけで、現憲法の、基本的人権の尊重(第一八条・二四条)をはじめとする基本権の保障の否定、つまり「生存権の否定」(名誉の戦死)のうえに個の国家への従属を強制する「国家主権と国家体制」の、国家主義の戦争体制(軍事体制)をつくらなければならなかった。その故に、個の身体的自由と内心の自由をも支配する国家主権の確立が戦争体制にはどうしても不可欠であった。

つまり、個を国家の道具として動員できる翼賛体制が必要であったのである。この意味で、いま国民主権を否定する「国家主義やナショナリズム」には最大の注意が必要であろう。幸徳秋水は『帝国主義論』において「愛国主義と軍国主義」による二つの織り成す世界を「帝国主義」と呼んだが、いまのわれわれにとっても、これは重要な意味をもっているように思う。個の尊厳と基本的人権を否定し、戦争へと煽るメディアによる世論形成や「国民的熱狂」には、特に注意をする必要があるだろう。ましては「個の尊厳を否定」し、愛国心と国家への義務」を国民に強要し、「戦争の放棄を否定」するような国家主義の策動を許してはならない。

 勝海舟は、日清戦争と台湾併合、朝鮮侵攻に反対してアジアの協力発展の道を説いたが、他方、田中正造らの足尾鉱毒反対運動を支援した。鉱毒は、田畑の害ではなく「いのち」の問題だ。「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし」。個の尊厳を核として、いのちが存在する。この生存権・人権の思想史のうえでの金字塔を打ち立てたのは、まさに、田中正造であった。

 中島俊子は、侵略主義的な漢詩「偶成」で「清奴 膺すべき師(いくさ)名あり」と詠んだが、勝海舟は、逆に「隣国へ兵交わるの日 其の軍(いくさ)更に名無し」と、戦争に大義がないことを述べている。『氷川清話』で「支那を懲らすのは、日本のために不利益であった、といふ事を世間の人はいま悟ったのか。それは最初から分かって居た事だ」と述べている。他方、俊子は逆に「清奴 懲さずんば国是(こくぜ)をいかにせん」と、日中戦争の時の「暴支膺懲」のような言葉を吐いている。その時の熱狂に流されて主体を失ってはならないと思う次第である(東京唯物論研究会『会報』投稿原稿)。

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