2018年11月11日日曜日

小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去

ブログ王ランキングに参加中!

小島三郎
『医学者たちの組織犯罪』(常石敬一著)より
メリットと業績
小島三郎について、石井部隊の部隊長も務めた北野政次は、その回顧録 「防疫秘話」(『日本医事新報』に連載)に次のように書いている。1936年5月15日、食中毒が発生した浜松に「東京より小島博士、石井博士も来られ・・・その後軍医学校の防疫研究室(主幹石井教官)の諸君が 研究に従事した。・・・各方面で研究され、小島博士の報告を始め、多数発表せられ」た。


 小島は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。嘱託であったために石井とともに浜松に赴いたものであろう。この浜松行きは小島のその後の研究者人生で大きな転機であった。戦後、1947年に伝研が厚生省の予防衛生研究所(予研)と伝研とに改組された時、副所長として予研に移るまで、伝研で研究を続けた。小島は1954年には予研の所長に就任した。


 小島はその回顧録で、率直に「・・・ 驚天動地の業績は、何にもない。何等鮮や(か)な、決め手のない、只判定勝ちの審判を持(待)っても、何も大したものはない」と述べている(『日本衛生学雑誌 第17巻)。小島のおもな業績は、日本で発生する食中毒の多くの原因であったサルモネラ系の細菌と赤痢菌の分類だった。サルモネラ系の細菌としては腸チフス菌とパラチフス菌をあげることができるが、この他に多様の菌がこの系統に合まれる。サルモネラ系の菌は通常人には飲食物を経由して感染する。おもに食肉、ネズミの排泄物が感染源だが、近年はペットのミドリガメなども感染源となっている。小島が食中毒の問題に取り組むきっかけとなったのが、浜松の集団食中毒事件だったようである。浜松の食中毒の原因となったゲルトネル菌も、サルモネラの一種である。



浜松の集団食中毒事件は、浜松第1中学校の運動会で配られた大福餅がもとで発生した。
最初の患者は5月11日午後に発病し、その後患者は増え続け最終的には2250人に上り、うち46人が死亡した。5月14日の『朝日新聞』は、上のような記事を載せている。記事にあるように初めはなんの病原菌も発見されず、毒物の混入が疑われ、浜松市はパニック状態に陥った。
 このパニックを救ったのが、14日夜7時15分のラジオを通じての軍医学校の発表だった。軍医学校では12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。
「・・・患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり・・・・尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず」。これによって食中毒が原因であることがはっきりし、原因不明による不安は解消された。


 


細菌が特定できればそれで食中毒であることが確定する。細菌を特定するためには、事前にその細菌を保有していることが早道となる。保有している細菌でその免疫血清を作っておき、その血清と分離された原因と思われる細菌とがどう反応するかで、菌の同定が行われるのである。当時軍医学校では腸チフス、コレラ、赤痢、ペストについて診断用血清を作っていた。



 軍医学校による原因の究明が手際よく行われたのは、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたためだった。その頃ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、前年、鳥取県でこの菌が原因の食中毒を経験し、死者4人を出していた陸軍だけだった。浜松での食中毒の原因究明にあたった西は、鳥取でのゲルトネル菌による食中毒の解明に従事していた。
 浜松の食中毒事件がきっかけとなり日本でもゲルトネル菌、さらにはサルモネラ系の細菌全体についての研究が開始された。腸チフスやバラチフスは別格で以前から流行があり、研究もされ、またワクチンも開発されていた。


『日本細菌学会雑誌』32巻6号、1977年には「日本細菌学会(時によりこの名称とは異なる)」
の第1回(1927年)から第20回(1947年)までの講演の一覧がある。 それによるとゲルトネル菌とかサルモネラという言葉が登場するのは第9回(1935年)が最初である。この年は、ゲルトネル菌についての報告とサルモネラについての報告がそれぞれ1本ずつ行われている。翌年の第10回の学会では陸軍の西による鳥取での食中毒についての報告「ゲルトネル氏腸炎菌に依る食中毒」1本だけである。


ところが浜松事件の翌年、1937年の第11回には合わせて10本の論文が発表されている。 そのうち6本は、石井四郎とその部下である江口豊潔、白川初太郎、内藤良一、佐藤俊二、井上隆朝、それに勝矢俊一らの共同研究である。これは北野が「防疫秘話」に書いているように、 防研が中心となって浜松の食中毒の解明にあたったのだから当然の結果であった。ただ、当初陸軍での原因究明の中心だった北野と西による報告がないことに気付く。北野は満州医大の教授に出、また西も研修を終わり第一線部隊に戻つていた。その後、西は1943年に石井部隊の孫呉支部長に就任し、翌年、同部隊の教育部長となり、敗戦後ハバロフスクでソ連の裁判を受けることとなる。



 第11回の学会では、サルモネラその他のこれに類する報告は陸軍のものが目立ったが、その後は大学や研究所の研究者によっても数多く行われるようになった。
 石井とともに浜松に行った小島も、第11回の学会には「腸炎菌主としてゲルトネル菌免疫学的研究」を発表している。助教授時代とそれ以前の小島は、「日本細菌学会」では第4回に「抗毒血清の濃縮法に就て」を、第6回に「化学的に観たる微生物」いう報告を行っており、食中毒やサルモネラやゲルトネル菌についての発表はない。ところが第11回の学会以後、彼は日本各地の各種の食中毒とその原因となる菌について精力的に調査収集を行い、その結果を発表するようになった。そして1939年には、弟子の八田貞義と共著で『食中毒菌』(金原書店)を発表した。この本は日本でのサルモネラ学の基礎を築いたといわれる。またこの頃に小島は「日本国サルモネラ委員会」を作り、サルモネラ研究で日本と外国とを結ぶ役割を果たすようになっていた。この委員会は、コペンハーゲンの国際サルモネラ・センターから診断用血清のための株を多数贈られ、国内の研究の進展に貢献した。小島の主要業績であるサルモネラの分類も、この国際協力のひとつとして、学術振興会の援助を受けて行われた。



 藤野恒三郎大阪大学名誉教授は、その著『藤野・日本細菌学史』で、小島が浜松でゲルトネル菌による食中毒を実地見聞してからサルモネラ委員会を作るまでの経過を「浜松大福餅食中毒事件からはじまって・・・わが国のサルモネラ学発展の基礎ができた」と書いている。
 こうした歴史的な食中毒事件に小島が立ち会うことができたのは、彼が軍、特に石井と関係を持っていたからであろう。伝研の教授で浜松に出かけたのは小島1人である。食中毒は現在であれば厚生省の所管だが、当時は内務省が原因探求その他をすることになっていた。 内務省からも衛生課長と技師が現地に急行した。それは小島や石井が現地に到着したのと同じ日だった。ところがすでに陸軍ではその2日前の13日に、軍医学校の防疫学教室が原因がゲルトネル菌であることを突きとめていた。この事実は当時の日本の公衆衛生行政にとって、陸軍が大きな役割を果たしていたことを意味している。


 北里柴三郎が1892年に創設した伝染病研究所は、内務省の研究機関だったが、1914年に文部省・東大に移管されていた。そのため内務省には自前の研究・検査機関がなかった。他方陸軍は機動力もあり、徴兵検査を受け持ち、大量の兵隊を抱えてその健康維持・増進に責任を負っており、陸軍省医務局が公衆衛生に大きな役割を果たしていたのだった。その意味で、戦後伝研が改組され、一部が厚生省傘下の予研になったことは、公衆衛生行政からすれば当然のことだったかもしれない。



 こうした時代状況を考えると、小島が陸軍と密接な関係を持っていなければ、当時まだ食中毒の専門家ではなかった彼が、内務省の衛生担当者と同じ日に浜松入りすることも、また、原因となったゲルトネル菌の入手もありえなかっただろう。軍医学校の嘱託かそれに近い立場にあったために、いち早く食中毒の研究に着手できたことは事実である。研究者の側からすれば、これが嘱託研究者となることのメリットのひとつであった。そして小島の場合、このメリットがその後の医学者としての経歴を作ったのだった。


 浜松に出かけて調査をした感激を小島は、帰京からまもない5月27日に行われた「食物中毒に関する座談会」で「・・・今回は初めて私がゲルトネル氏菌を研究室以外で扱ったので、つまり街頭進出でありまして・・・」と述べている(『日本医事新報』第717号)。これ以前は、いつも事後に食中毒を知らされ、1度も現地調査をしたことがなかったのだった。だが、彼が死の直前1962年8月に高田で講演し、死後印刷された回顧録では「日本国サルモネラ委員会」については多くが語られているが、そのきっかけとなったはずの浜松への出張については、それ以外の出張と一緒にわずかに触れられているだけである。20年もすると感激が薄くなるということであろうか、あるいはまた石井とのつながりで出かけたことが、気持ちにひっかかりを生んでいるのだろうか。


 小島にとってもう1つのメリットは、自分の弟子の命を救ったことだった。彼の弟子で、戦後予研の所長や長崎大学の学長を務めた福見秀雄は、筆者に対して次のような話をしてくれた。自分が石井の防研に勤務したのは敗戦までの約1年弱だった。医者だから短期現役を志願すればよかったのだが、軍に行きたくなくて志願しなかった。そのため懲罰召集で1944年冬に、死ぬ確率の非常に高い南方に送られることとなった。小島先生と南京の多摩部隊に出張し、仕事が終わり1人で残っていた時に呼び戻された。和歌山で南方への船を待っている時に東京に呼び返された。これは小島先生が石井に話をしてくれて、防研に見習士官として勤務することになったためである。




 小島は何回か南京を訪れているが、『日本医事新報』の1004号(1941年)の「消息」欄には次のような記述がある。「小島三郎氏 (伝研所員)陸軍軍医学校の依頼により学術研究の為、約2週間の予定を以て南京に出張さる」。『小島博士追悼録』によれば中国には1941年と1944年1月に文部省から派遣されて出張、となっている。



人体実験の業績

E・ヒルとJヴィクターは、第1章で述べたように軍医学校の嘱託であった小島三郎、細谷省吾、内野仙治を「ハルビンあるいは日本で生物戦に関して研究していた人たち」の一員として尋問している。したがってヒル&ヴィクター・レポートにある尋問記録は、小島たちが石井機関との関連で行ったと述べた研究その他を記述したものと考えるべきである。
 彼らが軍医学校防疫研究室の嘱託として行った研究を見て行くと、嘱託であったからこそ可能だった研究をいくつか指摘することができる。その内容はワクチン開発など人体実験によって研究が著しく進展したもの、あるいは軍という機関と関係を持ったことで得た疫学情報が、研究の中核をなしてたもの、などである 。

  
 細谷の場合、情報の流れを軍医学校研究部の資料によって、もう少し具体的に示すことができる。1943年末に軍医学校研究部(部長稲垣克彦軍医少佐)は軍医学校調査室を前身として発足した。研究部の任務は「情報・文献の蒐集・配布、各研究所間の調査連絡に当り、研究要員・資材の供給に違算なからしめ、碧素(「ペニシリン」)、結核、マラリヤ等動員会議の運営を行い研究の催進に努め・・・」ることだった(『軍医学校研究部年鑑』昭和18年12月―昭和19年12月)。

小島三郎(ウキペディア)
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年(明治21年)8月21日 - 1962年(昭和37年)9月9日)は、日本の医師。医学博士。
岐阜県各務原(かかみがはら)市出身。
人物
・旧姓は厳田。岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)卒業後、実業家を目指して東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、21歳の時に羽島郡中屋村(現・各務原市)の叔母の小島家に養子にだされ、小島姓となる[1]。小島家が代々医者であったため、家業を継ぐために東京高等商業学校を中退している。

・医学界のみならず、スポーツ界においても、1938年(昭和13年)に全日本スキー連盟会長に就任、近代日本スキーの基礎をつくりあげている。
・伝染病予防、予防衛生学、公衆衛生など、病気の予防に対する研究を終生行っている。研究内容は防疫、予防、上下水道、大気汚染、食中毒と多岐にわたる。特に、予防衛生学の基礎確立に尽力している。コレラ、腸チフス、赤痢の消化器系伝染病の撲滅を目指し、赤痢についてはSS寒天培地、検査法の改良に力を注いでいる。
・インフルエンザに対してまだ国内で関心が無い時、インフルエンザウイルス研究を始めている。

来歴
・1888年(明治21年) - 岐阜県羽栗郡川島村河田(現・各務原市川島河田町)にて厳田弾之丞の三男として生まれる。
・1909年(明治42年) - 東京高等商業学校中退。第七高等学校造士館へ入学。
・1912年(明治45年) - 第7高等学校を卒業。東京帝国大学医科大学に入学。
・1916年(大正5年) - 東京帝国大学医科大学卒業。
・1917年(大正6年) - 伝染病研究所に入所。
・1920年(大正9年) - 医学博士。
・1926年(大正15年) - 細菌学、衛生研究の為、2年間ドイツへ留学。
・1935年(昭和10年) - 東京帝国大学教授に任じられる。戦時中は陸軍1644部隊にて細菌戦の研究に携わる。
・1947年(昭和22年) - 国立予防衛生研究所設立とともに副所長として就任。
・1954年(昭和29年) - 国立予防衛生研究所所長に就任。
・1958年(昭和33年) - 国立予防衛生研究所所長勇退。保健文化賞受賞。

その他
・幼少時より頭が良く神童といわれていた。事実特例として、満4歳で博文尋常小学校(現各務原市立川島小学校)に入学している。
・スポーツ万能であり、中学で野球、高校でボート、大学では馬術、水泳、スキーなどで活躍していたという。
・1919年(大正8年)に伝染病研究所を辞めて中屋村の家業の医院を継いでいる。しかし、伝染病研究所の再三の要請や、研究を続けたいという思いもあり、1年あまりで家業を譲り、再び伝染病研究所に入所している。
・娘の露子は東京大学医学部助教授・東京共済病院長中川圭一に嫁ぐ。参議院議員・環境事務次官の中川雅治は孫。
・彼の功績をたたえ、1965年(昭和40年)より、小島三郎記念賞が設定され、病原微生物学、感染症、公衆衛生学に対する優れた研究、技術に対し贈られている。
・使用していた医療器具、愛用品、手紙などは、各務原市川島ふるさと史料館(各務原市川島会館4階)に保管展示してある。また出生地には記念碑が建っている。








0 件のコメント:

フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中