2018年11月11日日曜日

兒嶋俊郎さんを偲ぶ

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(兒嶋俊郎報告)
「自衛隊は戦後何をやって来たのか‐核・化学・生物‐」というタイトルをつけました。問題意識はこの通りです。
テーマを3つ設けました。
1つは、旧陸軍と戦後自衛隊の人的つながり。2番目は、米軍の下での再軍備と、その過程における核戦争体制への自衛隊の編入。3番目は、核戦争体制下における化学部隊・衛生部隊の役割で、これらを少し見ておきたい。
いずれも体系的に論じるほどのほどの状況ではありませんが、いくつかの資料とか回想によって、事実の確認をしておきたいということです。そこでまず、資料の1をご覧ください。これは以前、私の大学の紀要に資料紹介として載せたのですが、『調査学校史』をいうのを、小平の調査学校が出しているのですね。調査学校というのは、情報関係要員を育成する学校です。53ページの真ん中にアンダーラインを引いていますが、これは自衛隊のホームページに書いてあることで、「陸上自衛隊唯一の教育機関であり、海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」」と言うんですが、要はスパイの育成学校です。これは内容的には、かつて情報関係の業務を行った自衛隊員が、ここ十数年どういうわけか回想録を出版したり、黒井文太郎さんという軍事誌編集者のインタビュ‐に応じられたりしているんですね。そういう回想を見ると、どういう風に、情報機関が戦後成り立ってきたのか、というあたりが見えてくるんですね。
資料1の54ページ、設立時の状況のところで、陸上自衛隊調査隊や調査学校の設立に関わった松本重夫の話をしています。彼は、陸士から陸大を出たエリートなわけですが、1946年の敗戦直後、彼は産経新聞の政治部の記者をやっていたんですが、その産経の中にいた人間を通じて、米軍の情報部にリクルートされるんですね。その下請けをやるようになったわけですね。エージェントになったわけです。つい数年前まで、鬼畜米英と言っていたわけですが、彼は国会内の左翼勢力の調査を行うのです。彼は、警察予備隊に入って、その後、「陸軍中野学校出身者を調査隊に多く入れました。」という風に語っているわけです。
次に調査学校長を務めた清水潤(ひろし)の場合です。東部方面総監部第2部、2の数字がついていると大体情報関係なんですが、そこに居たときに、F機関のトップだった藤原岩市に情報の基礎を叩き込まれたんですね。清水は、藤原の部下だったんですね。という風になっております。その後にも、いくつか書いてありますので、見て頂ければと思います。
次に、「調査学校の教育と情報活動の一端」というところで、いろいろと人物を挙げておきました。
例えば、佐藤守男という人は、1956年1月、調査学校に「幹部露華鮮語課程(1年間)」が開設された際入校し、ソ連情報勤務を予定してロシア語課程の一期生に選抜されている・・・その後、極東方面の局地ラジオ放送の受信、翻訳業務に従事する。
中には、いろいろとユニークな人がいまして、阿尾博政は『自衛隊日罪諜報機関』という本を出したり、山本舜勝(きよかつ)という人は『自衛隊「影の部隊」』という本を出しています。ちなみに山本喜舜勝は、陸軍中野学校の出身で、中野学校関係者は、分厚い『陸軍中野学校史』というのを出しているんですね。これは専修大学に1冊だけあります。これは行って見ることは出来るし、コピーも取れます。それを出すときに、旧中野学校関係者がグループを作るわけですが、「これを作りましょう。」という言い出しっぺ、企画メンバーの1人が山本舜勝です。
阿尾は、戦後、自衛隊幹部候補生学校に入る。そして彼は調査学校に入るわけですが、その時の校長が藤原だったのです。専属教官は、陸軍中野学校出身の諜報専門の教官が3名・・・こういう風になるわけですね。
それから山本舜勝、彼は、陸軍中野学校で教官だった人物で、それから戦後米軍で情報活動の教育を受けた後、調査学校教官になる。彼は、三島由紀夫の盾の会との密接な関係が問題にされました。三島が軍事訓練みたいなことをやるわけですが、この山本がアレンジをしてやるわけですね。私が紹介した『調査学校史第13巻』(昭和43年度)の年は、山本が研究長をやっている、まさにその時の『調査学校史』なんですね。ですからその『調査学校史』などの内容を見ても、日本国内で学生運動や公害反対運動が活発な時期だったので、そういうことをきっかけに内乱が起きるということを想定して活動をやっている。「学生たちが混乱しているところに、病人を送り込んで教育をやった」という風に彼は書いています。
60年安保を想定した対応という事で、山梨県全域が敵に占領されたと想定し、調査学校に入校した自衛隊青年将校たちを、身分を偽って県内各地に潜入させる、こんなことをやっていたわけですね。
それから寄村武敏も陸軍中野学校出身者です。
このように、戦前の旧陸軍の情報機関の幹部たち、あるいは陸軍中野学校の人間関係が、戦後の陸上自衛隊の情報組織の基礎を作っていった大きな流れだったことが確認できるだろうと思います。と同時に、松本重夫に見られるように、米軍がそこに深く関わっただろうという風に思われるわけです。
次に「核戦争体制下の陸上自衛隊」のやや大仰なタイトルのところをご覧ください。
これは、ある方が残された資料の資料整理を何人かでやっておりまして、そこを代表するような形で私と松村先生の2人で、『戦争責任研究』に資料紹介を載せております。1回目の解説部分を皆さんに配っています。それから資料の3というのが、第2回に載せる資料という事になります。両方を使ってお話をしたいと思います。
新妻に関しましては、先ほど、松村先生のお話に合った通り、陸軍の中で電波関係の専門家で、チチハルあたりに行って電離層の研究をやったり、いろんなことをやっていたわけなんですが、彼に関わる資料を紹介します。資料2の86ページです。
1955年に陸上自衛隊幹部学校で新妻が講義をした時の資料だと思われるのですが、『部外秘 原子兵器の効力』、58年に『誘導弾と核兵器』これは中外出版から出版された一般の本なんですが、2月に出版されて、3月に国会で辻正信が、これを取り上げて、「ミサイル防衛をちゃんとやらなくてはならないのではないか?」という問題提起をしたわけです。それに対して、防衛庁長官の津島壽一(この人は元大蔵官僚で、戦争中いろいろやって、公職追放になって、それが吉田内閣で復帰して、フィリピンとの交渉にあたったりして、その後、防衛庁長官になる)は、「誠にもっともな意見である。是非参考にしたい。」というやり取りが交わされました。それに使われた本です。
以下は、新妻の名前が直接出て来ないものになりますが、1950年代にどういう資料が出ていたかという事ですね。
『CBR戦の参考』、『原子兵器の効果について予習資料』。
『参考資料プリントA 米軍戦術原子戦に関する原則 抜粋』これは米軍の教範を翻訳して利用したものですね。先ほど奈須さんのお話で衛生学校も教育資料として米軍の教範がたくさん使われたというお話がありましたけれども、こちらの方も、それが非常に幅広く自衛隊の中にあったという事を示していると思われます。
資料7『原子砲兵の運用について』これは、当時、戦術核弾頭を撃つアトミックキャノン(原子砲)という280㎜の長距離砲が開発されて、米軍はそれを使って本当にバンバン撃って戦争をやることを想定してたんですね。その為に日本の自衛官をアメリカに呼んで、そういう原子砲弾を撃つ教育をやってたんですね。それに関連した資料という事になります。
資料8『原子兵器の歩兵に及ぼす影響』、資料9『誘導弾』自衛隊幹部学校、資料10,11は『火(射)・・・誘導弾』これはミサイル関係の資料ですね。
資料12 新妻清一 これは彼がまとめたもので原爆攻撃を受けた場合にどう対処するかという話ですね。
資料13、14では、当時、自衛隊内部で核兵器についてどういう議論が交わされていたかを示す資料です。
こういうものが、50年代の半ばから後半にかけて、出ているという事になります。こういった資料をまとめる上で、新妻をはじめとする、旧軍の技術将校たちが大きな惑割を果たしたことは明かなんですね。
新妻清一の経歴というのは、資料をお読みください。
次に、「3、広島原爆調査への参加」をご覧ください。
当時、新妻は、陸軍省の軍務課で、陸軍が行っている様々な研究開発に目を通して、判子を押す係をしていました。したがって、核とかレーダーとか、そういうことについても彼は通暁していたわけです。それで、軍務課長という立場もあったかと思いますが、有末精三、当時参謀本部第2部長(諜報担当)を団長とする広島原爆調査に参加したわけです。米軍機が接近してくるという話があったので、仁科は科学面の責任者だったと思いますが。1日延期します。しかしながら、有末は大丈夫だと判断して、自分の部下(山田副官)と一緒に2人だけ予定通り2時過ぎに離陸して広島に向かった。広島で関係者に会って、作業を進めるわけです。翌日に仁科が来るんですが、仁科は7日にトルーマン声明を知って、これは20ktの核爆弾が落ちたという事は、はっきりして、非常なダメージを受けるわけです。ただ、ダメージというのは、彼は旧陸軍における原爆開発、2号研究の責任者だったわけです。結局失敗します。陸軍は仁科に依頼し、海軍は京大の荒勝研究室に依頼し、いずれも失敗するわけですね。原石のウランをどう確保するかという問題もありますが、私が、いくつかの本を本で確認した所では、そもそもきちんとした原爆の概念に、仁科の研究はどうも到達していなかったという可能性があります。それから京大の研究も、実際の原爆の設計とか、工学的に実現する手立てというのは全く立っていない状況だったように思われます。何よりもウラン濃縮が、全く展望がありませんでした。あきらめます。それで放棄するんですね。これは無理だろう。アメリカでも無理だと思っていたら、アメリカでは作ちゃったということで、そういう事で彼は打撃を受けていたという事です。「日本の科学者がアメリカの科学者に敗れた悔しさ」という風に、これは新妻清一を取材した保坂正康さんの文に出てきます。
次に、4大本営調査団・陸海軍合同研究会議のところです。仁科は、1日遅れで広島に行く。8月9日午前11時02分に長崎で原爆が炸裂。10日合同の会議が開かれることになります。この時には京都帝大の荒勝文策等も加わることになります。有末は、この時ソビエトが、宣戦布告したという事で、東京へ急遽取って返すことになります。新妻はこの会議の司会をするんですね。非常に重要な役回りです。そして最終的に「特殊爆弾広島爆撃調査報告」というのがまとめられていく事になるわけです。
その中で、新妻の手書きの原稿には、「人間ニ対スル損害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト。コレニ関連スル発表モ発表モ避ケルコト 中央ヨリ調査隊ヲ派遣ノコト」という風に隠蔽を図ったという証拠があるわけですね。
同時に新妻は、被害状況について、「新妻メモー損傷状況昭和20・8」というのを残していまして、そこに書かれている通りですが、非常に凄惨な実態を彼は目の当たりにしたわけですが、しかしそれを一切知らせるなという姿勢ですね。そして東京に戻って、「特殊研究処理要領」というのを発表します。
次に5、のところを見て頂きたいのですが、新妻は敗戦後、米軍の監視対象者になります。その関係の資料は、防衛省の図書館にありまして、これは見ることができます。それを見ると、サンダースから彼は尋問を受けているのですね。731についても聞かれているんですね。ウランの保有量についてもいろいろ聞かれているんですが、その間の45年11月10日に八木秀次から手紙を受け取っているんですね。八木秀次というのは戦争中に、軍と研究者と官のトライアングルを作る上で大きな役割を果たした大立者なんですね。よく知られているところでは、八木アンテナ、あれを開発した人ですね。この八木が『科学知識』という雑誌に、原子力の特集号を出すから、新妻さんに原稿を依頼したんですね。その内容を引用しています。
「寄稿を願うべき方として仁科博士に9月初め頃お願いいたしたることあり、総合的に原子爆弾については貴官が中心となり居られることを承知いたします。」とこういう風に書いていまして、新妻というのが戦争中の日本の核開発の中心にいた、また広島の原爆調査で仁科に同行している、そういう重要人物であるという事の1つの傍証になると思います。
しかしながら、彼は戦犯に問われることもなく、戦後、旧軍関係の業務の整理にあたった後、48年に復員局を依願退職して、54年には防衛技術研究所に入所し、55年には防衛研修所教官兼務となる。そしてミサイル、レーダー関連の専門家として活躍することになっていくわけです。
先ほど、紹介したような『誘導弾と核兵器』という本を書いて、その本が辻正信によって国会で取り上げられて、津島防衛庁長官がその通りだという答弁をして、ミサイル研究をしなければいけませんねという国家的な合意を後ろから下支えする資料提供の役割を果たしていたという事になるわけですね。
さらに50年代とはどういう時期だったかという事ですが、杉田弘毅さんが書かれた『非核の選択』という本があるのですが、それによるとこの時期、米軍が核戦争を想定して日本の自衛官を呼んで、戦術核を使用して戦争をすることを本気で考えていました。この時期には米軍で戦術核使用を想定した訓練を受けた三岡健次郎らの留学がきっかけとなって、「ソ連に自衛隊が核兵器で攻撃する研究が・・・・模索された」というわけですね。
その結果、自衛隊関係者や政治家に核容認発言が、頻発することになっていきます。
50年代にこのような議論が戦わされていた、まさにその時代に先ほど紹介した資料が出るわけですが、その一部を紹介したいと思います。資料3をご覧ください。
その中に、『米軍戦術原子戦に関する原則 抜粋』というのがありま。これは、「戦術原子兵器の事項を抜粋」という書き込みがあり、米軍の教範の翻訳なわけです。
一部の紹介だけなんですが、「2 陸軍の職種の特性」の中に「(4)化学部 戦闘行動支援における化学部の主任務は、CBR(化学、細菌、放射能)兵器の使用及防御の為の手段及技術的指導の実施である。」という風に、明確に規定されています。
つまり、化学部というのは、実は衛生関係も関連するわけですが、核戦争を遂行していく重要な要因の一部と認識されていたという事なんですね。
続いて大量破壊兵器とは何かという定義があります。
「大量破壊兵器とは原子的化学的生物学的放射能的(CBR)兵器あるいは広大な規模の荒廃もしくは無効化を遂行する為人員資材の集中に対して使用されるその他の兵器をいう。指揮官は大量破壊兵器の使用に関し自軍及び敵軍の能力を考慮しなければならない。」
このように大量破壊兵器の中に、核兵器、生物兵器、化学兵器などの利用を考えているわけですね。
また、「CBR行為に使用される兵器は攻撃的と防御的の両方に使用される。CBR行為は妨害計画、阻止作戦、及び原子兵器の戦略的使用法とともに使用する為これらの作戦に適応すべきである。これは汚染、敵機動の局限、敵軍の殲滅もしくは無力化及敵の保持できないように野戦築城を汚染すること等により地域の拒止及制限を容易にするための諸手段を指揮官に提出する」
大変にわかりにくい日本語ですが、CBRを積極的に利用して、攻撃にも使う、あるいは不利になった場合や撤退する場合にも敵の行動を遅らせるためにも使うという事を言っているわけです。
さらに、6、攻撃の(7)火力支援調整の(b)原子兵器の使用には
「ア 原子兵器は非常に強力な火力支援の1つである。原子兵器の戦術活動への統合はこれまでに述べられた火力運用についての戦術的法則を変更しない。」となってまして、今までの火力の運用についての原則の上に使われるわけです。
そして、「決定的戦果は機動部隊が原子兵器の破壊と心理的効果とを迅速に利用した場合に得られる。」
実際に、この資料や他の資料を見て行きますと、例えば戦術核で敵を殲滅したら、機動部隊を突入させて、広範な地域をいかに早く制圧するか、そうやって戦果を拡大していく事が重要だという事なんですね。
実は第1回で報告した資料の中では、核に汚染された地域が、どの位で、放射線が弱まるか、何分でこのぐらい弱まる、何時間たてば入れるとか、戦車で入った場合の被曝量は、トラックで入った場合の被曝量は、そういうのを細かく検証している資料が、1回目で紹介した資料なんです。それなどは、戦術核を打ち込んだところに、地上部隊を突入させるわけですから、当然被曝するわけですね。被曝を抑えるために、どうするかという事を、検討していることになります。
さらに、除染するための具体的な方法をいろいろ紹介している資料もあるんですね。したがって、放射線地を確認し、除染しながら、制圧していく事を、かなり本気で考えているという事なんです。
それから、資料7『原子砲兵の運用について』これは、陸上自衛隊幹部学校の資料で、幹部教育という事になるわけですが、これを見ていくと、「1、指揮責任及指揮関係」というところで、砲兵指揮官というのは、自分たちの上級指揮官に、幕僚として助言しなければいけないと言っているわけですが、驚くことは、「6目標分析」です。
「b 原子火力は巨大な威力を持っているので、これを作戦に投入する事は非常に重要である。故に原子火力の使用によって得られる戦術的利益は機動により迅速且十分に開拓されねばならぬ。これがため原子兵器の使用に関する最終的決定は部隊指揮官が行う。」
部隊指揮官が、最終的決定をやるんですね。
「この原子兵器の使用の決定は砲兵部隊指揮官が被支援部隊の一般幕僚と協議して行うところの目標分析に基礎をおく。」
いずれにせよ、大統領から一応戦術核を使ってもよいというような了解が出た上での話だと思いますが、それにしても、それが出ていれば、現場の指揮官の判断で撃てるという事だったわけですね。それをいったん撃ったら、機動部隊が展開し、CBRの要員が随伴するということになっていたわけです。
そこで、CBRという事で、化学部隊という事になるわけですが、(3)の化学学校というところで、これは『化学学校のあゆみ』というものが出ていて、そこから紹介しています。
化学学校の歴史的な経緯という事なんですが、1953年6月29日に保安隊関西補給廠長監督下の臨時化学教育隊が出発点ですが、それ以前に保安隊内部に第750化学業務隊が存在していたことがわかります。ただしその詳細は不明です。いずれにせよ保安隊時代から化学部隊の原型があったということは確実です。
この部隊は53年8月3日に第1回のCBR教育を実施しています。それに先立って、教官教育が行われているんですが、この『化学学校のあゆみ』の11ぺージには、教育の詳しい内容は出ていないのですが、教官研修の写真が載っているんですね。それには米軍の教官が多数写っておりまして、明らかに米軍の指導下で行われた事がわかります。
翌54年7月20日、陸上自衛隊発足に伴い、陸上自衛隊化学教育隊として部隊が成立、組織としては、総務科、教育科、研究科からなり、その後も部隊の編成が続くわけです。
56年には1月25日には、第301化学発煙中隊の新設が行われます。この発煙中隊の任務の中に、「原子兵器の熱戦効果を減殺する」というのが挙げられています。
まさに50年代の半ばに、戦術核を使った戦争があるという想定で、教育訓練が幹部学校で行われている時に、それに対応した部隊編成、恐らく教育訓練が行われていたという事になると思います。
1957年10月9日、化学教育隊は大宮駐屯地に移って、10月15日に化学学校に改編される。初代校長は外山秀雄という事になります。
ごく簡単に触れてきましたが、化学学校についてはこのようになります。
衛生学校の方は奈須さんが詳しく説明してくださったので、余り付け加えることは無いのですが、ただ後ろに『ふかみどり』17巻4号に載っていた衛生学校の年表を4ページにわたって入れておきました。
これに基づいて、経緯を改めて確認しておきたいと思います。
1951年5月14日に、警察予備隊の中に、総隊学校というのが作られます。ここの第4部が後の衛生学校になります。5月14日から設立準備を開始するわけですね。
その時の状況は、レジメの1ページの下の方に書いてあります。
何人かの方の回想が載っておりまして、渡辺文雄という初代総務部長をやった人が次のように書いています。
発足時は幹部3名、士補4名でスタートし、まず豊川部隊のスタッフォードスクール(詳細不明)でアメリカ式訓練を4週間受けた。7月2日からは米陸軍病院(当時聖路加病院が接収されて、アメリカの陸軍病院になっていた)で、衛生科員として約3か月研修を受けた。したがって、完全に米軍式の教育を受けたわけですね。そして、第4部のスタート10日前に米軍顧問から英文をコピーを渡され、連日徹夜して、翻訳して教育に当たったと言っています。51年7月9日から、保安隊衛生学校となる。52年10月15日までに幹部282名、士補など845名、計1127名を教育したという風に語っています。
この後、先ほどの年表に戻って頂きたいのですが、7月9日、米陸軍病院での衛生教育を受けた直後か、あるいはその途中かもしれませんが、衛生教育がスタートする。10月には士補基本教育、11月には幹部基本教育、翌年2月に陸曹技術教育、こういうのが次々と始まり、そして第4部衛生教育担当が設置される。6月23日には、新任幹部特別教育が開始される。10月15日には保安隊発足と伴って、衛生学校となる。
この時の、初代校長が加納保安官補という人ですが、この人は総隊学校の校長を兼務していた人なんですね。総隊学校というのは、この衛生学校だけじゃなく、養護学校とか、先ほど紹介した調査学校のもととなる学校とか、そういうのがここから分岐していったわけで、それを全部見てた人ですね。この加納という人は、医者でもなければ、薬剤官でもなくて、そのことを国会で追及されたことがあると、回想でもちょっと触れてますが、代理校長だと友人に冷やかされたという事です。専門家では明らかになかったと思われます。
彼が初代で、2代目が松野、3代目は安西で、ここら辺は、保安隊時代で、警察関係から来ていた人物である可能性が高いと私も思います。
しかしながら、この段階まで基本的な教育教程というのが、急速に整理されてきているんですね。第3代までという事は、55年の7月まで安西の時代なんですが、安西の最後の7月に、三宿の現在衛生学校があるところに、移転しています。
それで、注目されることは、55年5月10日に、幹部CBR教育が始まっているんですね。
まさに、核戦争を想定していた時期に合わせて、衛生学校でCBR教育が始まるという風になっているわけです。
したがって、第3代までで、基本的な教育の体系というのは、ある程度形をとったのではないかなと、この年表からは読み取れます。
その後、金原の代になりまして、『衛生学校記事』が創刊されたり、財政上の理由で休刊されたり、第6代中黒の時に、それは復刊されたりするわけですね。
園口の回想で、中黒時代が基礎を確立したという風に言っております。中黒の時代には、学校長自らが、アメリカに行くようになっています。63年の7月に第17回国際軍事医薬委員会に出席したり、あるいは64年11月にアメリカ太平洋空軍医学会議に出席したりという風になっています。
その後、園口の時代、9代、10代となりまして、第11代の泉陸将の時に、新しい隊舎が落成します。それに伴って、8月頃から、教育管理、特に教育体系、教育基準及び評価体系等の見直しが開始される。その後、ずっと、全課程の教育科目の集中審議とがあって、内部組織、教育課程そういうものが全面的に見直されたという事がありそうです。
奈須さんのお話の中に、泉の時に、「核兵器による大量傷者処理」のお話がありましたが、確かに泉の時に、中身はわからないのですが、相当本気で教育課程の見直しをやったことは事実のように思われます。
それから、初期の第1期の『衛生学校記事』の内容を見ると。泉が原爆関係の記事をたくさん書いているのを考えると、そこら辺は整合性があるのではないかという気がします。
次に、いくつか配った資料を紹介します。
お配りした資料「自衛隊は戦後何をやってきたのか―核・化学・生物」の3ページをご覧ください。
(4)「衛生学校記事」にうかがえるCBR活動教育という事ですが、
中村治が書いた「特殊武器戦とその影響」とか(資料3)、木村博夫「生物剤はこのように防ぐ」ということで、生物兵器関係の資料が載ったりしています(資料4)。
資料5は、これは近藤正文(衛生学校教育部第2科長 2佐)が、178ページに以下のように書いています。「昭和20年2月下旬と記憶しているが石井中将から直接電話で天皇陛下の不時の恐懼事態の際に乾燥血漿の製造を命ぜられた。早速準備して製造にとりかかった。製造は順調に行われ最後の仕上げである真空ポンプから焼き切り封入する日に(3月10日)あの第1回の大空襲(浅草地方)があった。幸い被害を被らなかったので予定通り完成し献上の手続きをした。次にこの献上に際しての御説明書を付け加えて思い出話をおわる。」という事で、説明書というのが右側にあります。拡大鏡で見て頂ければ、わかると思いますが、これは本当に説明になっているんですね。下に関係者の名前の一覧が載っています。
このように、先ほど新妻清一が、旧陸軍で電波関係をスタートにし、さらには核にも関わるようにようになり、それが戦後の自衛隊の技術面での中心人物の1人になったという話をしたわけですけれども、衛生学校の関係者も全く同じですね。近藤なども恐らくそうでしょう。彼らの頭の中が、こういう思い出話を書くことに見られるように、大日本帝国陸軍の軍医だった時と、全く変わっていないという事ですね。天皇陛下の為にこれを献上しましたと、3月10日の大空襲で何万人も焼け死んでいるんですよ。この人は、元は医者のはずです。しかしながら、天皇陛下に無事届けられたことがとても良かったという回想録なんですね。こういう人が、やっぱし衛生学校の幹部になって、教育をやってたというわけですね。衛生学校でも、調査学校でも、教育方針とか、学校長の訓示なんかを見ると、人間教育が大事だと繰り返し出てくるところがあるんですが、どういう人間教育を考えていたんだろうかという風に思わざる得ないものがあります。
最後に、『衛生学校史』という資料があるんですが、外見だけ、どんなものであるのか見てください。こういった資料です。これは昭和47年の『衛生学校史』です。陸上自衛隊衛生学校です。これは政策研究大学院大学の開架書庫に3年分(45、46、47)ありますから、誰でも行って、コピーできます。
歴史の史がついてますが、毎年の業務報告になっています。その業務報告の内容を見ていくと、いろいろと面白いことがありまして、それは今回丁寧に紹介できないのですが、改めてうちの大学の紀要に載せようと思っていますので、8月頃に原稿が出来て、ネットで検索がかかるようになるのは、多分10月か11月には検索でかかるようになると思いますので、そちらをご覧ください。
どういう資料かという事だけ、紹介したいと思います。
それから、『衛生学校記事』が衛生学校の中でどのように位置づけられていたかという事については、裁判に関わることですので、詳しくお話したいと思います。
そこで、最初のレジメの3ページのところをご覧ください。
(7)陸上自衛隊『衛生学校史』の1)『衛生学校史』昭和45年度 園口忠男が学校長の時です。ます、組織が出てくるんですね。2ページ目に組織編成が載ってまして、研究部の総括室に記事班というのがあって、その記事班が『衛生学校記事』の編集を担当しています。
それがわかるのが、資料6の「幹部配置状況」です。46年3月31日付けの資料ですが、この一番右の欄に、研究部長の下に、総括室というのがあります。そこに記事班長というのがあって、高橋清人になっています。これが『衛生学校記事』ですね。したがって『衛生学校記事』に関して、あれこれ防衛省が言い逃れをしていますが、衛生学校の正式の組織で、きちんと人員を配置して出していたことは、組織上明白なことになります。
ちなみに、この年にどういう教育をやっていたかという事を、資料7に付けておきました。「教育実施状況」というのがあります。
これを見て頂きますと、幹部教育の中に対化学衛生というのがあります。この時点で15期の教育ですね。人員は5名、期間は10週間、こういった教育が行われていたことがわかるという事になります。
それから、「他校等への教育支援状況」というのも出てまして、東京消防庁から受け入れて、救急救命措置の訓練をやっているのが圧倒的に多いのですが、それ以外に化学学校8時間、調査学校4時間という風に教育支援を行っています。
それから研究開発というところで、研究部の総括室に記事班があるわけですから、ここに明確に位置付けられていまして、資料8をご覧ください。
これは『衛生学校史』の55ページになるんですが、ここに「衛生学校記事に関する事項」というのがありまして、「第1 衛生学校記事については、会員の実務・訓練に真に役立つ内容の精選につとめ年4回発行した。」ということです。
また、衛生学校記事の発注部数、会員数及び編集内容については次の通りであるという事で、会員数は1800~1850、発注部数は1900~1930という事です。
したがって、業務報告にきちんと載る形で発行されていたという事になります。
ちなみに、研究部でどんな研究をやっていたかというと、「昭和45年度の研究課題担任表」というのがあるんですが、例えば上から2段目、実用試験「防護マスク」これは化学学校に協力、河合1佐というのは先ほど出てきた河合正計の事かもしれません。
それから、CBR防護(化学学校に協力)というのが出ています。
このように、化学学校とは非常に密接に連携を取りながら仕事をしていたことは、明らかだという風に思います。
次に、『衛生学校史』昭和46年度 門馬公道学校長の事ですが、この人は、面白くてつい書いてしまったのですが、着任時に、「衛生学校はなってない。」という演説をして、大改革をするんだとという事を言うんですが、そのせいか1年半ぐらいで替わるんです。
その下に、編成組織と幹部配置状況がありますが、資料9の左側の方に企画室が書かれています。そこに記事担当で高橋氏が記載されています。
資料10で、衛生学校記事が出ています。ここに、門馬が衛生学校記事の目的について述べた事が、書かれています。「第1線と直結する機関誌」とするというわけですね。10月における編集委員会から編集・発行委員長には副校長松尾将補を任命された。また、記事班は8月26日以降雑誌「防衛衛生」の編集・発行業務を兼ねて実施するよう命ぜられると共に、9月21日付をもって研究部から企画室に配置替えとなり、10月1日付をもって、総務部管理課から平井貞子事務官が補充され、云々となっています。12ページの右側の下のところに、衛生学校記事業務というのがわざわざ書いてありまして、高橋氏が記事担当で、その下に、編集・発行と、また『防衛衛生』の方も、高橋氏と平井氏が関わって発行していたというようなことがわかる資料になっています。
次に、『衛生学校史』昭和47年度 水上四郎学校長の時ですが、ここでも資料12の企画室のところで記事担当が高橋という風に名前が出ていて、位置づけが明確です。ちなみに右下に戦史室というのが設けられていて、これが『大東亜戦争陸軍衛生史』の編纂に関わっただろうと思われます。
教育訓練に関しては、衛生化学教室、化学については、各種化学物質の環境汚染について、更にRについては、医療用放射線の人体に及ぼす影響云々という風になっていますが、この様な化学、R、放射線、に関しての記述が見られます。
その下は教育課程の実施状況についての話です。
研究開発については、富士学校、化学学校と協力しながら進めていくが明らかです。
最後に、一番最初に松村先生が、大きな議論をする必要があると言われて、私も改めてその通りだなと思うのですが、4人で日本経済評論から『「満州国」における抵抗と弾圧』という本を出したんですが、そこで私も論文を書きまして、私は日本共産党満州地方事務局という日本共産党の公式の党史にも載っていない組織について書いたのです。
真面目に日本共産党満州事務局というのが、党中央に承認された公式の党組織として短期間ですけれども、大連を中心として活動するんですね。その記録を紹介したんですが、その中で、9月に満州事変があって、弾圧されて、10月に捕まって、救援活動をやる人もいるんだけれども、その救援活動も弾圧されて、日本共産党の組織的な活動というのは、中国東北、関東州から消えてしまうわけですね。その時、彼らが活動がうまくいかない大きな理由が、彼らは非常に優秀な人たちですね。旧制中学を4年ぐらいで終了して、大学に進学した人もいますしね、非常に優秀な人たちで、当時の情勢分析もしっかりしていたと思います。しかしながら、当面する課題をどうやって打開するかという展望はとうとう見つけることができなかったのですね。そして弾圧された。何故見付けられなかったかの大きな理由の1つが、植民地の支配者だっていう気分が、関東州とか大連にいる日本人に非常に根強くあったと思います。それが日本人と中国人の労働者の連帯という事を、共産党事務局、あるいは彼らは労働運動を組織しますからそちらの組織で訴えるですけど、届かないのですね。数十人規模に拡大するんですけれども、本格的にはならないのです。満州事変以降、反帝国主義の闘いを組織しようと働きかけても、あんな戦争はやらせておけばいいんだ、叩けばいいんだというような職場の反応で、却って我々の方がやられてしまうというような事で、日本人の中で圧倒的に孤立していったという風に思うんですね。
同じ時期に中国共産党もあそこで活動をやっている。その資料も別にありますので、その活動について、江田さんが以前に書かれた論文も参考にして、並行してみると、中国共産党も、日本共産党と同じ方向に向かって闘っているんですね。日本、中国、さらに言えば朝鮮の共産主義者はみんな目標は帝国主義打倒なんですね。帝国主義を倒して、苦しい状況にある人民の生活を建て直そうではないかという事では、基本的な理念、向かっている目標は同じだったんですね。しかし日本人の中では、それはただ単に弾圧だけではなくて、日本人自身の中に圧倒的に支持が広がらない。「植民地支配者である」そういう意識が非常にそこに足かせになっていると思うのですね。そのことが日本人のそういう活動を失敗に終わらせる。個別にはその後もいろんな動きが残ったわけですけれども、組織的な活動としては無くなっていく。それ以外にも自由主義者の活動、いろんな活動がどんどん無くなってしまって、当時の現状が抱えていた問題を直視して、それを変えなきゃいけないという問題提起を片っ端から日本の官憲が潰した結果、新しい時代を展開していくためのアイディアも人も自らの手で殺してしまったわけですね。残ったのは、際限なく軍事力と治安の力で目先の経済的利害だけを押し通すというそういう事に大日本帝国はなっていったという風に思うのです。そしてその大日本帝国を支えた人たちが、調査部門でも衛生部門でも恐らく化学部門でも、生き残って戦後を日本の自衛隊あるいはそれ以外の部分を支えて今日に至っている。そういう風な人たちが日本の国家権力の中枢にいるから、特定秘密保護法で、国民の目と耳を封じようと、共謀罪でああだ、こうだという奴らは、昔のように潰してしまえばいいと、こういう風な順番になってきているんだろうと思うのですね。まさに、そういう意味では、安倍政権の下で、大日本帝国時代の亡霊が具体的な形をとって立ち上がってきている状況になっているんじゃないかなという風に思いますし、それだけに、今回ここで進められている裁判というのは、非常に大きな意味があるし、他の様々な運動と手をつないで、進めていく必要があるんではないかと改めて思います。
どうも、以上です。ありがとうございました。

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