2009年3月31日火曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

A級戦犯たちは、拘置所にいる間に自分のやったことを反省するでもなく、反対に正当化する方向に傾いたようだ!広田を除いては。

『落日燃ゆ』(城山三郎:新潮文庫)より
 処刑はまず、東條・松井・土肥原・武藤の組から行われた。
Pマークのついたカーキー色の服を着た4人は、仏間で花山の読経を受けたが、そのあと、誰からともなく、万歳を唱えようと言う声が出た。そして、年長の松井が音頭をとり、「天皇陛下万歳!」と「大日本帝国万歳!」をそれぞれ三唱し、明るい照明に照らされた刑場へ入った。
 広田・板垣・木村の組は、仏間に連行されてくる途中、この万歳の声を聞いた。
 広田は花山に言った。
「今、マンザイをやってたんでしょう」
「マンザイ?いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣の棟からでも、聞こえたのではありませんか」
 仏間に入って読経のあと、広田がまた言った。
「このお経のあとで、まんざいをやったんじゃないか」
 花山はそれが万歳のことだと思い、
「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」と言い、「それでは、ここでどうぞ」と促した。
 だが、広田は首を横に振り、板垣に、
「あなた、おやりなさい」
 板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。
 広田は、意識して「マンザイ」と言った。広田の最後の痛烈な冗談であった。
 万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。
 万歳!万歳!の声。それは、背広の男広田の協和外交を次々と突き崩してやまなかった悪夢の声でもある。広田には、寒気を感じさせる声である。生涯自分を苦しめてきた軍部そのものである人たちと、心ならずも一緒に殺されていく。このこともまた、悲しい漫才でしかないー。
 刑場に入る。
 検視に立ち会う連合国代表や将校たちが立ち並んでいる。その前を、つぶやいたり、経文を唱えたり、ほとんど歩けなくなったりする中で、広田1人が、並んでいる異国の男たちの顔を1人ずつ眺めて通り過ぎた。それは、柔道場で相手チームの選手を見改めるようでもあり、また、パーティのの席で客の1人1人に目をこらす外交官当時の姿のようでもあった。
 広田の処刑は、12月23日午前零時20分。
 朝のラジオは、処刑のニュースを全国に流した。
 重光は獄中で詠んだ。
  「黙々と殺され行くや霜(しも)の夜」
 そして、
  「父は尚生きてあるなり寒椿(かんつばき)」
 この同じ日、広田と同期の吉田茂は、国会を解散した。
 野党である社会・民主・国協の各党は、昭和電工事件で傷ついたままの状態であり、総選挙では、吉田の党の大勝が約束されていた。
 その総選挙はまた、新憲法公布下の最初の総選挙である。
 「日本を滅ぼした長州の憲法」の終焉を告げる総選挙でもあった。


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 劉永興(男、71歳)の証言
 日本の軍隊は冬月11日にやってきました。そのころ私の家は張家衙19号で、裁縫を業としていました。家には62歳の父と61歳の母、21になる弟と私の19歳の家内とがいて、みんなで5人でした。私はその頃24歳で、その年の8月に結婚したのです。冬月10日の午前中に、一家そろって大方巷14号の後ろの難民区に移りました。
 冬月14日はよく晴れた日でしたが、5人みんな家の中に隠れていて、出られませんでした。午後3時ころ、日本兵が1人闖入してきて、私と弟に手を降りまわして、自分に付いて行くように命じるので、付いて出るしかなかったのは、前に銭という名の私塾の先生が日本兵の命令を聴かずに、銃殺されてしまったことがあるからです。外に出たら、売国奴の通訳官が私たちに、下関の中山埠頭へ行って東京から来た荷物を運ばせるのだと言いました。同時に出されてきた中に、私の家の近くの30何人かもいました。私たちはまず広場へ連れて行かれたのですが、もう暗くなろうとする頃で、いっぱい人が座っていました。日本軍は私たちを6人から8人の列にして、中山埠頭へと歩かせました。
 私と弟とは一般市民の隊列の先頭を歩きましたが、銃を手にした日本軍の一個小隊が一番前で、続いて捕虜になった国民党の軍人と警官が30数人、その後ろに捕まった一般庶民でした。隊列の両側を日本軍が護送し、馬の背に30何挺かの機関銃を担わせ、一番後ろが馬に乗った将校でした。道を行く間ずっと、両側にたくさん男女の死体が転がっていて、ほとんどが一般庶民でしたが、中央軍のも一部ありました。
 下関の中山埠頭の岸辺に着いたら、日本軍が私たちを長江の岸辺に座らせ、周りに機関銃を据えつけました。様子がどうもおかしい、屠殺してしまおうとしているみたいだと私は感じ出し、日本軍に撃ち殺されるよりも、長江に跳び込んで死んだ方がマシだ、と心に思い、傍らの人と一緒に跳び込もうと相談しました。日本軍が後ろで人々を縛り上げてから、機関銃で掃射し始めました。もう暗くなって、月も出てきましたが、たくさんの人が次々に河に跳び込み、私と弟も跳び込みました。日本軍は急いで、機銃掃射を続けたほかに、手榴弾を長江に投げ込みました。跳び込んだ人たちは、弾に当たって死んだ者もあれば、体じゅう傷だらけになった者もあり、悲惨なうなり声と、叫び声とが、辺り一面に響き渡りました。ひとしきり混乱して、私と弟と離れ離れになってしまい、それからもう見つかりませんでした。私は流されるままに軍艦の辺りまで近づいたかと思うと、又浪に打たれて岸辺まで押し返されました。死体の上に伏せたまま、恐くて身動きできませんでした。突然、弾が一発背中すれすれに飛んできて、長い綿入れがちぎれました。猛烈な機関銃の音が、耳をつんざき聞こえなくなり、今もまだ好くなっていません。。機銃掃射の後、日本軍は死体にガソリンをかけ、火を放って燃やし、死体を跡形も無くしてしまおうとしました。夜も、日本軍は岸辺で寝ずの番をし、岸辺に漂ってきた死体を見つけては、銃剣でやたらに突き刺しました。私は岸からかなり離れていて、銃剣が届かず、死を免れたのでした。
 夜が明ける頃に、長江から岸に這い上がり、幸運にも生き残れた者が10人にも達していないと分かったのですが、岸辺の人たちは1人1人みんな焼けただれて、見るに忍びない惨状でした。私はほとんど1晩長江に浸かっていたので、身体中がしびれ切ってしまい、恐がるのすら気付かずに、死んだ人の着物にすっかり着替えて、農民が掘った防空壕まで這っていき、その壕の中に1日中隠れていましたが、1日何も食べず、水も飲まず、飢え渇いてしまいました。(冬月15日)日が暮れようとする頃に、防空壕から這い出し、道を知らないので、ただやたらと走るしかありませんでした。三所村まで駆けてくると、尼さんの庵が1つあって、その庵の近くに少なからず農民が住んでいたので、その人たちによく説明して、やっと泊まらせてもらいました。それから又日本軍に捕まってクーリーをさせられたり、お茶を沸かしたりご飯を炊いたりさせられて、陰暦の12月28日になって、日本軍が小丹陽へ行くことになり、やっと家に帰ったのです。
 弟が捕まってから、父親がずっと杖を突きつつ涙ながらに方々尋ね歩きましたが、弟はもう帰って来ませんでした。あの時に殺害されたのだと思われます。後で知ったのですが、この時中山埠頭での大虐殺をやらかしたのは中島部隊でした。(陳小敏と湯雲龍が記録)

   
「Imagine9」【合同出版】より



武器をつくったり



売ったりしない世界



世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
 しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
 
 日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
 しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
 私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月30日月曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

『落日燃ゆ』(城山三郎著:新潮文庫)にA級戦犯のことが書いてある。本当にこの7人だけが戦犯なのか大いに疑問である。


 この結果、マッカーサーが諮問する形で、11カ国の在日極東委員会代表の会議が開かれたが、これは形だけのことで、すでに答えは決まっており、再審請求は却下。このあと、7人へのもとへの新聞の配布も止められた。
 7人は、他に誰もいない第一号棟で、死のときを待った。 
 死出の旅を共にする仲間として、広田にとって、残りの6人は、あまりにも異質であった。呉越同舟とはいうが、にがい思いを味わわされてきた軍人たちに、最後まで巻き添えにされ、無理心中させられるかっこうであった。
 土肥原、板垣の両大将は、満州・華北・内蒙古で謀略による事件を惹き起こし、外相広田の対中国和平交渉を挫折させた。
 武藤中将は、組閣本部にのりこみ、外相候補吉田の追放などを要求、広田内閣の組閣を妨害した男である。
 東條大将は、広田ら重臣の参内を阻止し、対米開戦諌止(かんし)論に耳をかそうともしなかった。
木村兵太郎大将は、その東條の陸相時代、次官として補佐した男であり、松井大将は、南京における麾下(きか)部隊を統制できず、結局、広田にまで「防止怠慢の罪」をかぶせる結果となった将軍である・・・・・。
 そうした軍部そのものである男たちと同罪に問われ、同じ屋根の下で、同じ死刑の日を待たねばならない。
 もちろん、ここでは、すでに6人とも憎めない男に帰っていた。ある者は、気のやさしい男であり、ある者は、腕白坊主のように無邪気なところのある男である。軍服を着こみ権勢を極めていた日々のことが、嘘のようにさえ思えてくる。
 だが、統帥権独立を認めた「長州のつくった憲法」のおかげで、彼らはたしかに猛威をふるい、その結果として、いま、たしかに死の獄につながれていた。背広の男広田という付録までつけて。
 同じ死刑囚とはいえ、広田と他の6人に心の底から通い合うものはなかった。

 そのころ、巣鴨では、仏教学者花山信勝が、戦犯とくに死刑囚のための教誨師をつとめていたが、花山は、死刑宣告後のA級7人に対しても、順次、個人的な面接を持ち、死の心用意をさせはじめた。
 広田に対しては、11月17日、第1回の面接、1時間。花山は、B・C級戦犯の処刑前の心境の変化などについて話したが、広田はただ黙ってきくばかりで、これという発言をしなかった。早くから覚悟のできている広田にとって、いまさら教誨師に心用意させられることは、何もなかった。むしろ、わずらわしいばかりであった。
 仏間に集められ、死刑囚一同そろって、花山に合わせて念仏を唱えるときも、広田ひとり黙って経本を読んでいた。
 第2回の面接は、1週間後の24日でやはり1時間。
 署名運動や広田の家族の話などを花山が伝えると、広田はときどき微笑したが、このときも、広田からとくに話をすることはなかった。他の6人がしきりに仏教の話を聞きたがったり、あるいは心境や覚悟を語り、遺詠を伝えたりするのにくらべ、ひどく対照的であった。
 ただ、広田はこのとき、トイレット・ペーパーにくるんだ髪と爪を家族に渡してくれるように花山にたのんだ。
 第3回の面接は、11月26日午後3時から25分間。
 相変わらず無口な広田に、花山はたまりかねて、たずねた。
「歌か、あるいは詩か、感想か、何かありませんか」
「公(おおやけ)の人として仕事をして以来、自分のやったことが残っているから、今さら別に申し加えることはないと思う」
 広田のそっけない答えに、花山は重ねて訊いた。
「でも、何か御感想がありやしませんか」
「何もありません、ただ自然に死んで・・・・・」
と、そこで言葉を消す。花山はさらに、
「他に何かありませんか」
「・・・・・すべては無に帰して、いうべきことはいって、つとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何もいうことは事実ない、自然に生きて、自然に死ぬ」
 花山は真宗の僧侶でもある。広田のその境地が禅によるものかときくと、広田は、禅に近い、と答えるだけであった。
 広田が感情の動きを見せたのは、前日、広田の家族5人が面会にきたが、感謝祭の祝日のため帰されたという話を、花山がしたときであった。
 広田は、すぐ、立会いの将校に英語で、いつ面会できるかをきき、月曜日の9時という返事を得た。・・・・・・・


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺
 孫漢皋(男、71歳)の証言
 私は19歳の年に、南京に来て大工(臨時雇い)をしていましたが、国民党に徴発されて国民党参謀本部の造炮台へ行き、老虎山に何年か住んでいました。民国26年の冬月だったと思いますが、私が24歳の時でした。ある日の晩、国民党の上の人が私たちに入ってこさせはしても、出て行かせないでいて、私たちにこう言いました。「お前たち恐がらないでいい。日本兵が本当にやってきても、我々には岸辺に軍艦が3隻あるから、お前たちを重慶まで乗せて行ってやれる」。その日の夜12時に、飯炊きの男が岸辺に水を汲みに行ったところ、軍艦3隻がいなくなっていたので、帰ってきて私たちにそのニュースを知らせました。私は内心、やたらなことは言えんぞ、むやみなことを言うと銃殺もんだ、と思いました。3日目に、日本軍が中山橋と老虎山一帯を包囲し、教導隊が日本兵と銃剣で渡り合うのを老虎山の上からこの目で見て、私も山から石を日本兵にぶつけましたが、衆寡敵せずで、日本軍が老虎山を占領しました。日本軍は年取った人たちを集めて、ガソリンをかけて活きたまま焼き殺し、何とも見るに忍びないものでした。日本軍は私たち年若い者たちを一箇所に集めると、5人1組にしてしばりつけ、上元門まで連れて行って、一群又一群と機銃掃射で死なせていきました。午後の5時から9時までずっと掃射していたのです。私のいた一群の番になったのは、既に6時過ぎで、もうだいぶ暗くなっていました。機関銃が私に狙いを付けた時、私はもう腰をかがめていたので、私は機銃掃射に当たらず、私の前や後ろに立っていた人たちがみんな撃ち殺され、その血飛沫が私の身体中にかかりました。その時は私は死体に押し付けられて、死んでいないと分かりましたが、でもどうやったら逃げられたでしょう。私を縛っている縄が少しゆるんだので、親指の爪で手の上の綱を擦りに擦ったら、縄がいくつかに切れました。切れないところを、私の金歯3つで噛んで噛んで噛んだら、とうとう縄が噛み切れて、やっとのことで死人の累積から這い出したのです。そうしたら私の目の前は至る所死人ばかりで、国民党が宝塔橋から燕子磯まで掘った深さ3メートルに幅3メートルの塹壕の中に、全部死人が詰め込まれていました。。私は死人の下からそうっと這って行き、和記洋行まで駆けていきましたが、その頃そこが世界紅卍字会の場所だったので、そこで中国人がたくさん働いていて、門番の詰め所にいる者、清掃係、雑役など、みんな腕に紅卍字の標識をつけていました。私が門を叩いたら、門番さんが中国人で、門を開けるなり、私が全身血まみれなのを見て、体をきれいに洗うように、雑巾を一枚渡してくれ、外側の汚れた服を脱がせてくれました。その時私はチョッキ一枚と猿股を一つ身につけていただけで、冬だったのに、ちっとも寒く感じませんでした。そこの人たちがマントウ(饅頭=蒸しパン)を2つくれたのを、すぐに食べ終わり、水道の水を少し飲みました。丁度その時、日本兵がきて門を叩いたので、みんなは私に急いでテーブルの下に隠れさせましたが、テーブルの周りに布がぐるっとかかっていたものの、椅子がそばにあったので、みんなは日本兵が椅子に腰掛けて、足がテーブルの下に届くといけないので、急いで椅子をテーブルから遠く離れたところへ運びました。日本兵が入ってきても誰も見つからず、紅卍字会のドイツ人に追い返されていきました。紅卍字会で働いている中国の人たちが私の状態をドイツの人にはっきり話してくれて、私を留めて紅卍字会で働けるようにしてくれました。私たちはしょっちゅう屍を片付けに出かけていきましたが、宝塔橋一帯はあまねく機銃掃射で撃ち殺された中国人ばかりで、世界紅卍字会では屍を1つ片付けるごとに、数字を1つ書き入れました。これらの数字は日本軍が南京でやった大虐殺という犯罪の証拠です。翌年(1938年1月か2月)に、私は又日本兵に捕まりましたが、私が大工で、「中央軍」でないことが分かり、殺されませんでした。(甄秀が記録)

   
「Imagine9」【合同出版】より



武器をつくったり



売ったりしない世界



「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」

 これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
 世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月29日日曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

戦後の東京裁判で南京大虐殺を裁いたがそのときの様子が城山三郎著『落日燃ゆ』(新潮文庫)に描かれている。

 七月も終わりになって、法廷の冷房装置が完成し、涼風に洗われるようになった。
 だが、冷房になれないためか、被告たちは腹をこわし、平沼、白鳥が入院した。80歳になる平沼は、肺炎が治って病院生活から戻ったところで、また、再入院となった。
 涼しくなった法廷では、しかし、南京などにおける日本軍の虐殺事件についての陰惨な証言が、8月半ばまで続いた。
 広田が外相時代、その一部について報告を受け、再三、杉山陸相に抗議した事件であるが、いまは広田が「殺害の共同謀議」に関係ありとし、また、その「防止の怠慢」の罪を問われている事件でもある。
 慈善団体役員という中年の中国人が証言台に立った。
「私は死体が至るところに横たわっているのを見ましたが、その中のある者はひどく斬り刻んであったのであります。私はその死体が殺された時の状態のままに横たわっておるのを見たのであります。ある死体は身体を曲げており、又ある者は両足を拡げておりました。そうしてこういう行為は皆、日本兵によって行われたのでありまして、私は日本兵が現にそういう行為を行っておるところを目撃したのであります。。ある主な大通りのところで私はその死体を数え始めたのでありますが、その両側において約500の死体を数えました時に、もうこれ以上を数えても仕方がないと思って止めたほどであります・・・・・・・」
 アメリカ人宣教師が証言する。
「強姦は至るところにおいて行われ、多数の婦人および子どもが殺されたのであります。もし婦人が拒絶するとかあるいは反抗する場合には、それは突殺されたのであります。私はそういう写真および活動写真を撮ったのであります。すなわちそれによりますと、婦人が首のところを切られ、もしくは全身にわたって突刺されておったのであります・・・・・」
 南京大学教授が出廷する。
「約5万人の日本軍兵士は避難民から寝具・台所用具ならびに食料品をたくさん取ったのであります。占領してから6週間という間は、市内のほとんどあらゆる建物がそういう遊歩する兵士の団体によって侵入されたのであります。場合によってはこの略奪は非常に組織的に行われたものでありまして、軍用(トラック)の多数が使用され、将校の指揮に依ったものであります・・・・・」
 法廷は静まり返り、嘆息だけが漏れた。重光は日記に書く。
「醜態耳を蔽(おお)わしむ。日本魂腐れるか」
 また次の日の日記にも、
「その叙述惨酷を極む。嗚呼聖戦」と。
 証言は次々と続き、多くの宣誓口供書や証拠書類が出され、検察側のこの事件にかける並々ならぬ熱意が読み取れた。
 俘虜虐待という罪だけで、同じ巣鴨にいるB級C級戦犯たちが、折から次々に処刑されていた。旧日本軍占領地の各地でも、競い合うように処刑が行われている。それを思えば、この大量虐殺事件の責任追及は極刑でしかないことは、明らかであった。
 幸か不幸か、この問題の最高責任者である松井石根(いわね)元中支那派遣軍最高司令官は、ちょうどこのとき、胃病のため入院中で、松井の運命をゆさぶる陰惨な証言の数々を聞かないですんだ。
 このため、法廷で自分に関係あるものとしてきいたのは、広田だけであった。広田はもちろん、こうした「殺害」にも、「殺害の共同謀議」にも関係はなかった。「防止の怠慢の罪」を問われるわけだが、しかし統帥権独立の仕組みの下で、1文官閣僚として何ができたというのであろう。
 だが、検事団が広田にまで照準を当てていることは、明瞭であった。そして、広田が自己弁護に立たぬ気持ちも、はっきりしていた。その結果がどういうことになるか、広田に予感がないわけではなかった。
 法廷が開かれる日には、広田の娘2人が必ず傍聴にきた。これに気付いた法廷の警備隊長が親切な男で、記者席の最前部に2人の席を用意してくれるようになった。
 といっても、言葉一つ届くわけではない。入廷してくるとき、広田は娘たちと視線を合わせる。そして、閉廷して立ち上がるとき、娘たちは再び広田に目礼を送る。ただそれだけである。
 娘たちは、周りの新聞記者のように、そこで暴露される「歴史の真実」や法廷闘争に興味があるわけではない。ただひとときでも、同じ屋根の下に広田とともに居て、広田を見つめていることで、安堵を感じた。自殺した母静子の霊も、そのとき父娘とともに居る感じであった。・・・・・・


 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 萬澄泉(男)の証言
 1937年の冬に中国侵略日本軍が中国に攻め込んできた時、私は蕪湖の黄朴人医学校から南京第八陸軍病院に移ってきて抗日運動に加わり、医科中尉になりました。日本軍が上海を占領した後、外交部が南京から後方へ移転したので、我が陸軍病院が外交部のあった建物に移りました。日本軍が鎮江と句容と蕪湖との三方面から攻めてきて、南京の危機が旦夕に迫りました。唐生智が撤退した後、軍は大混乱し、12月のある晩に全軍が退却しました。日本軍が三方から攻め込んできたため、江北だけが活路で、何十万もの軍人と民間人とが長江を渡ろうと争っていて、私と病院の同僚何人かも、下関の挹江門から城外へ逃げ出しましたが、岸辺はただ波がゆらゆらするだけで、船は大きいのも小さいのも一隻も姿を見せず、どうしようもない状態で、みんな争って戸板をはずしたり、筏を組んだりして長江を渡ろうとしていました。とても寒い頃で、たくさんの人が長江の底へと沈んでいくのを目にしました。私は泳げないので、筏に乗ることもできず、ただ岸で死を待つばかりでした。明くる日、日本軍がやってきて、残酷にも機関銃で水面を猛烈に掃射したので、凡そ水面に漂っていた人たちはみんな射殺されました。私と同僚何人かは散りじりになり、1人だけになった私は同郷の蕪湖の人一人とぴったり離れずに、幕府山のふもとにある村まで逃げてきたところ、午後4時ごろに、既に3,40人にもなっていた人たちがある防空壕の前まできて、壕に隠れようと主張する人たちもいましたが、私は壕は安全でないと思い、別に見つけたあばら家に一晩泊まろうと言いましたら、5、6人が私に賛成しました。あばら家は防空壕から遠くなかったのです。2日目の朝、日本兵が村にやってきて、一般の人が村では見つからず、防空壕の前まで来て、通訳に壕の中へ「中にいる者はすぐに出てこい。さもないとブっ放すぞ」と叫ばせましたが、壕の中では何の声もせず、日本兵が中に向かって手榴弾を十数発投げ込んで初めて、痛ましい叫び声が壕の中いっぱいに響いただけでした。しばらくして、日本兵は私たちの泊まったあばら家も探して、私たちに手を挙げさせ、平服に着替えさせましたが、その時は私たちを殺害せずに、私たち6人を3組に分け、日本軍の小隊3つが村々に中国兵を捜しに行くのにいずれも私たちを連れて行けるようにし、その道々、中国人と見るやすぐに発砲して射撃して、少なからぬ人々を撃ち殺したのを私は見ました。下関の汽車の駅から遠くないところまで行くと、工事用のバラックが一つあり、日本兵が東側から火をつけてバラックを焼いていると、バラックに隠れていた中国人が逃げ出してきて、その人たちを日本兵が銃で撃ち射殺しました。それから岸辺まで行くと、岸から船まで渡る踏み板が1つ、長江へまっすぐに伸びていて、その踏み板の下に何百人もが殺されていました。岸辺にはここかしこに被害者の屍がうずたかくなっていて、見るに忍びない有り様でした。
午後3時頃に、日本軍は私たち2人を放してくれたので、2人で又ある村に戻って泊まりました。明くる日、一個小隊の日本兵が又やってきて、私たち2人についてくるよう命じました。途中で又中国人3人と出会い、日本兵は検査して、この3人は中国兵だとみなし、この3人を前に、私たち2人を後ろにして進んで行くと、屋根は焼け落ち土塀は四面とも倒れていない家屋の前まで来て停まりました。日本兵が1人目に家の中に入れと命じ始め、入っていかないので、日本軍は銃で無理に入って行かせようとし、まず銃剣で3度突っつき、それから発砲して撃ち殺しました。2人目も同じように押し入れようとして銃で撃ち殺しました。3人目は活きられないと知り、入口の外でひざまずきどうしても入っていかないのを、日本兵が入口の外で撃ち殺しました。4人目は私の番になり、私は活きれる見込みはないと見て、連中と命がけでとことんやってやりたかったのですが、身に寸鉄も帯びていなくて、闘っても死ぬんだし、逃げ出しても日本軍の銃口からは逃げ切れないと思いました。そんな風でボーッとしていました。すると、日本兵は銃剣が血だらけだったので、私の長い綿入れに銃剣をすり付けて血をふき取りました。どういうわけか分かりませんが。私には悪辣な手段をもてあそばしませんでした。私の後ろの1人も命を取り留めました。それから私たち2人下関の宝塔橋難民区に入って、ずっと安全でした。私は南京大虐殺からの生き残りで、その証人でもあります。(1991年1月14日に劉相雲が当人からの手紙を基に整理)

 
  
「Imagine9」【合同出版】より



軍隊のお金を



みんなの暮らしのために使う



世界



世界中の政府は、2000年に、貧困をなくすための一連の目標に合意しました。国連の「ミレニアム開発目標」と呼ばれるもので、2015年までに次のような目標を達成するとしています。

●極端な貧困や飢餓をなくす(1日1ドル以下で暮らす人を半減する)。
●すべての子どもたちが、女の子でも男の子でも差別なく、学校に行けるようにする。
●赤ちゃんが栄養失調で命を落としたり、お母さんが出産時に亡くなってしまうことを防ぐ。
●HIV(エイズ)、マラリアなどの感染症の広がりを止める。


 こうした目標を達成するためには、世界的に軍事費を減らし、人々の暮らしや発展のためにお金を回すことが不可欠です。
 国連憲章には、「世界各国は軍事費に回すお金や資源を最小限にしなければならない」(第26条)と書かれています。世界のNGO(非政府組織)は、この国連憲章26条を今こそ実行し「軍事を減らして人々の発展に回そう」という運動を始めています。そうした世界の人々の中からは「国連憲章26条と日本国憲法9条は、同じ目標のための双子のようなものだ。ともに発展させよう」という声が上がっているのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月28日土曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺の発生当時外相であった、広田弘毅が日本国内で軍部にいろいろと抗議していたとき、吉田茂駐英大使は次のようにコメントしている。(吉田は戦後5回総理大臣に任命されている。麻生総理の祖父、旧吉田邸は3月22日に全焼した。)
 『ノース・チャイナ・デイリー・ニュース』から(ラーベによる抄録)『南京の真実』より
 
 1938年1月30日
 日本大使は懐疑的
 ロンドン、1938年1月29日。吉田茂駐英日本大使は、本日『デイリー・スケッチ』のインタビューで、中国で日本兵による言語を絶する残虐行為が行われたとの報道に遺憾の意を表明するとともに、次のように付け加えた。わが国の軍隊がかくも自制心を失い、伝統に反するとはきわめて考えにくいことである。そのような行為は我々日本人の伝統とまったく相容れないものであり、わが国の歴史始まって以来そのようなためしはなかった。日本軍は非常に規律正しいのだ。

 (日本人としては信じられない事件だった。外交官生活が長く、戦時中の本当の日本軍の姿を知らない人の発言だ。)
 
 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 劉喜権(男、55歳)の証言
 1937年には私はやっと8歳で、家は南京の下関区宝塔橋東家巷493号でした。
 1938年の1月末か2月初め頃のある日の午前、およそ10時頃だったと覚えているのですが、とても寒く、粉雪が降っているときに、私はお婆さんの劉桃氏と家にいて外で機関銃の音がするのが聞こえました。銃声が止んでから、お婆さんが私を連れて父を探しに外へ出ました。何日か前に父の劉城坤が、日本兵に捕まって連れて行かれ、私はお婆さんとどこを探しても見つからなかったのです。下関(シャーカン)の煤炭港で、この目で見たものは、煤炭港の至る所死人ばかりで、地が血でいっぱいだったことです。その日の午前10時過ぎから午後までの時間に、腕に卍字会の腕章を付けた少なくない人たちが屍を片付けていて、4人で屍1つを抱え、大きな溝まで運んで積み重ねるのを見かけました。溝は卍字会の屍を片付ける人たちが掘ったのです。
 父が日本兵に捕まって行った後、南京の下関煤炭港一帯で日本兵に殺されたというのが、叔父が自分の目で見かけたことでした。叔父が逃げてきて祖母にいろいろ話していたとき、私はそこにいてこの訃報を聞いたのです。(呉大興と章歩錦と朱玉静が記録)

  
「Imagine9」【合同出版】より



軍隊のお金を


みんなの暮らしのために使う

世界



1年間に世界で120兆円、日本で5兆円という、想像もつかないほど巨額のお金が、戦争のため、又はその準備のために使われています。1発数千万円ないし数億円もかかるようなミサイルを何百発も準備することが、「国を守るため」として正当化されています。
 世界の軍事費は、今世紀に入ってから特に増え続けています。世界の軍事費の約半分はアメリカの軍事費なのですが、そのアメリカが、2001年の「9.11テロ」をきっかけに、「テロとの戦い」と称してイラクを攻撃したり、世界中のアメリカ軍を強化したりして、軍事費を増やしているからです。
 その一方でアメリカ国内では、社会保障や教育すら十分に受けられない人々が増えています。ハリケーンがアメリカを襲った時、これらの貧しい人々が最も大きな被害を受けました。これによって「超大国アメリカ」の中の貧困問題が目に見える形で浮かび上がりました。

 世界的には、いわゆる北の先進国が莫大な軍事費を使う一方で、南の途上国では貧困が広がっています。「人類の5分の1が住む国々では、人々は1杯2ドルのコーヒーを当たり前に飲んでいるのに、別の5分の1が住む国々では、人々は一日1ドル以下で暮らし、子どもたちは蚊帳(かや)がないためにマラリアなどの病気で死んでいる」(国連開発計画=UNDP,2005年)というのが、世界の格差の現実です。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月27日金曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺事件の発生当時外相であった、広田弘毅をテーマにしたに小説城山三郎著『落日燃ゆ』(新潮文庫)がある。この本にはその南京占領時のときの日本の対応が以下のように書かれている。
 
 ・・・南京占領は、もう1つ厄介で、後に致命的となる問題を、広田の肩に背負わせた。虐殺事件の発生である。
 事件の概況は、占領直後、南京に入った総領事代理から、まず電報で知らせてきた。
 電報の写しは、直ちに陸軍省に渡され、三省事務局連絡会議では、外務省から陸軍側に強く反省を求めた。 
 知らせを聞いた広田は激怒し、杉山陸相に会って抗議をし、早急に軍紀の粛正をはかるよう要求した。
 また南京の日高参事官らは、現地軍の首脳を訪ねて、注意を促した。
 最高司令官の松井大将は、「ぼくの部下がとんでもないことをしたようだな」といい、「命令が下の方に届いていないのでしょうか」との日高の問いに、
「上の方にも、悪いことをするやつがいるらしい」と、暗然としてつぶやいた。
 悪戦苦闘の後、給養不良のまま軍が乱入すれば混乱の起こることをおそれ、松井は選抜部隊のみを入城させることにし、軍紀の維持についても厳重な注意を発しておいたのだが、いずれも守れなかった。 
 松井は作戦の指揮をとるのみで、各部隊の統轄は、松井の下の在る朝香宮(あさかのみや)と柳川平助中将の2人の軍司令官、さらに、その下の師団長たちに在る。
 柳川はもともと松井と仲がよくない上、上陸以来、「山川草木すべてみな敵」と、激しく戦意をかきたててきた将軍であった。また、師団長の中には、第16師団長の中島今朝吾(けさご)中将のように、負傷したせいもあって、かなり感情を昂ぶらせて(たかぶらせて)いた男が、南京警備司令官を兼ねるということもあった。
 日高参事官は、朝香宮も訪ねて、
「南京における軍の行動が、世界中で非常に問題になっていますので」
 と、軍紀の自粛を申し入れた。朝香宮自身は、司令官として着任されて、まだ10日と経たない中の出来事であった。
 南京に突入した日本軍は、数万の捕虜の処置に困って大量虐殺をはじめたのをきっかけに、殺人・強姦・略奪・暴行・放火などの残虐行為をくりひろげた。
 市内はほとんど廃墟同然で、逃げ遅れた約20万の市民が外国人居住地区に避難。ここでは、約30人のアメリカ人やドイツ人が安全地帯国際委員会を組織していた。残虐行為はこの地区の内外で起こり、これを日夜目撃していた外人たちは、その詳報を記録し、日本側出先に手渡すとともに、各国に公表。日本の新聞には出なかったが、世界中で関心を集めていた。
 現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、事務局連絡会議でも陸軍省軍務局に、強い抗議をくり返し、即時善処を求めた。このため、参謀本部第二部長本間雅晴少将が一月末、現地に派遣され、2月に入ってからは、松井最高司令官・朝香宮司令官はじめ80名の幕僚が召還された(とくに懲戒措置とはことわらなかったが)。
 朝香宮は、わざわざ外務省に広田を訪ね、堀内外務次官立会いの下で「いろいろ御迷惑をおかけしました」と、広田にわびた。
 現地南京では、ようやく軍紀の立て直しが行われ、軍法会議も行われた。
 だが、治安の回復の最大の理由は、主力部隊が南京を後にし、進発したことであった。さらに中国の奥地めがけて、戦局は拡大されて行く。そして、行く先々に日の丸の旗がひらめき、「万歳!」の声が上がる。それは、和平をいよいよ遠のかせる声でもあった。・・・・・・・・・・・・・・

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 潘開明(男、67歳)の証言
 私の家は旧は双井巷6号でした。父も母も早く死にました。
日本軍が南京に入ってくる前に、私は叔母と弟と3人で鼓楼二条巷の難民区に引き移りましたが、番号が何番だったのかは覚えていません。私はその頃の職業は昼間は床屋で、夜は人力車の車牽き(くるまひき)でした。
 1937年12月に、日本軍が南京で人を見れば殺し、婦女を見れば強姦し、ありとあらゆる悪事をしました。日本軍が入ってきて2日目に、私の家に闖入してきて、二の句を継がせずに、私を捕まえ、華僑招待所まで引っ張っていって、そこに一日閉じ込めました。3日目の午後2時過ぎに、彼らは縄で私を縛り、300人余りの人と一緒に、下関の煤炭港まで連行しました。連行して行くとき、私たちが逃げ出すのを防止するために、私たちに通りの真ん中を歩かせ、日本軍が道の両側に、1メートル間隔で監視していました。凡そ4時になろうとする頃に、煤炭港に着いて、みんなを集め、機関銃で掃射しました。日本軍が掃射しているとき、私は目から火花が出るようでチカチカしていましたが、突然目が眩んでしまいました。しばらく、死体が私を地に押さえつけていて、晩の9時か10時頃になって、やっと気がつきました。月がとても明るかったのですが、私はまだ自分が活きているのかどうかわからないでいました。人間なんだろうかそれとも亡霊なんだろうかと、自分で自分に聞きました。日本兵が機関銃で掃射して、まだ生きていられるわけがあるだろうか、人間であるはずがない、と内心思いました。頭を上げて見ましたら、ほかにも座っているのが何人かいて、縄でしばられているのもいれば、しばられていないのもいました。「よう、助けてくれや。死んでないんだ。縄をといてくれよ」と、私は言いました。私たちは互いに縄を解き合った後、それぞれ東へ行ったり西へ向かったりで、ある者は長江を渡ろうと木のたらいを抱え、ある者は和記洋行へ駆けつけました。私はこの土地の者で、家にはまだ叔母と弟がいるので、逃げては行かれませんでした。私は線路に沿って、汽車が長江に差し掛かる所まで行き、岸辺で体についた血を洗い落とし、近くの人家まで行き破れた衣服をもらって着替えました。その頃はもう夜中で、どうにも歩くわけにはいかず、人の家の辺りにうずくまりました。夜が明けてから、駅の方向へ向かい、熱河路まで来たところで、日本兵4人に出くわし、何をしていたんだと聞かれました。私は「日本の先生たち」の荷物を引っ張ってきてあげて、その人たちが汽車の駅に入って行ったので、家に帰るのだと言いました。書き付けがあるかと又聞かれたので、無いと言いました。すると「クーリー(苦力=辛い役務を強いられた労働者)に使った」と紙に書いたのをくれました。その人たちについて行って挹江門を入ると、鉄道部まで来て、その人たちが入って行ったので、私は察哈尓路沿いに山を越えて逃げて行きました。道でお年寄りに出会ったので、その人に土下座し、物を乞うて食べました。今はどこにでも日本兵がいるから、行ってはいけない、日本兵に出くわしたら殺されるぞ、とそのお年寄りに言われました。夜まで隠れていて家に帰ったら、叔母は至る所私を探していたので、私はもうちょっとで命を落とすところだったんで、九死に一生を得たんだよ、と言ったのです。叔母と私は大泣きに泣いたのです。(蒋琳が記録)

 
「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、


戦争のない世界をつくる。



中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
 ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
 裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」

 ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
 スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
 こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月26日木曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺について中国と日本の教科書はどのように扱っているのだろうか?笠原氏の著書(『「百人斬り競争」と南京事件』)に中国と日本の教科書の記述が載っている。
 ・・・たとえば、中国の『新世紀ー義務教育課程標準実験教科書・歴史』(2001年に教育部が公布した「全日制義務教育歴史課程標準)に基づいて、北京師範大学出版社が2002年に発行)にはこう書いてある。

 【南京大虐殺】1937年12月、日本軍は南京を陥落させた。つづいて日本軍は集団銃殺、焼殺、生き埋め、斬首、軍犬に噛み殺させるなど、きわめて残忍な方法で南京市民や捕虜となった兵士に対して血なまぐさい虐殺を行い、この世で最も悲惨な南京大虐殺事件を引き起こした。12月16日、日本軍は華僑招待所に収容していた中国人市民と捕虜になった将兵5000余人を中山埠頭へ連行し、機関銃で射殺したの後、死体を長江へ捨てたり、焼却したりした。18日、日本軍は南京幕府山に拘禁した老若男女5万7000人を全員針金で縛り、下関の草鞋峡へ連行、機関銃で射殺した。さらに、倒れて血の海の中で呻吟している群衆を銃剣で刺し殺した。それから日本軍は石油をかけて死体を焼却し、骨となった死体を長江へ捨てた。
 日本軍はさらに常軌を逸した「殺人競争」をおこなった。日本軍少尉の向井敏明と野田毅は、南京を占領した時に、先に100人を斬った者が勝利者になるのだと決めた。2人の殺人魔が血に飢えた日本刀を持って紫金山の山麓で会見した時、野田は105人、向井は106人を斬り殺していた。どちらかが先に100人を斬り殺したか分からないので、勝負は決まらなかった。そこで2人は改めてどちらが先に150人を斬り殺すかで勝負を決めることにした。1937年12月、日本の『東京日日新聞』は「勝利者」の口調で「殺人競争」を報道した。日本軍側はこれを「国威発揚」の「光栄ある手柄」と考えたのである。
 統計によれば、日本軍が南京を占領した6週間の間に、寸鉄も帯びない南京市民と武器を放棄した中国兵にたいする虐殺は30万人以上におよんだ。南京大虐殺は日本の侵略者が中華民族にたいして犯した重大な暴行の1つである。(引用者訳)

 いっぽう日本の中学校歴史教科書は8社から出版されているが、全社の教科書に南京事件が記述されている。8社のなかで一番詳しい記述をしている清水書院のもの(2006年版)にはこう書かれている。
 

 日本軍の物資の補給体制はきわめて不十分だった。日本軍は、占領した地域で物資や労働力を徴発し、食糧などもその地で確保した。このため物資の略奪・放火・虐殺などの行為もしばしば発生した。とくに南京占領にさいしては、捕虜・武器を捨てた兵士、老人・子どもまでも含めた民衆を無差別に殺害した。戦死した兵士もあわせてこの時の死者の数は多数にのぼると推定されている。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどはこの事実さえ知らなかった。こうした日本軍の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。

 日本の歴史教科書には「百人斬り競争」については」まったくといってよいほど記述されていない。また、歴史学事典の類にもほとんど記述されていない。・・・・・・・・・・・


 ちなみに私の手元にある昭和53年版の山川出版の高校歴史教科書には南京大虐殺の記述はない。
    
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 陳徳貴(男、67歳)の証言
 1937年12月12日に、私は下関の「和記洋行」まで逃げて行って避難しました。13日に、日本軍が下関にやってきて、ここに私たち難民がいっぱいいるのを見つけました。翌日の朝、日本兵が200人近くきて、何千人もの難民の中から2千8百人余りの若い者を捕まえました。日本軍はみんなを4人1列に並ばせ、みんなに懐中時計や銀貨などの貴重品を出させ、その上で身体検査をしました。午後、私たちを和記洋行から煤炭港のある倉庫まで連行してそこに閉じ込めました。3日目の朝、日本軍が倉庫の門を開けて「これから仕事場へ行って仕事をする。十人ずつ出かける」と言いました。門の近くに立っていた十人がすぐに押し出されて行って、まもなく、ひとしきり銃声が聞こえました。少しして、門がまた開いて、もうあと十人が押し出されていき、またもやひとしきり銃声が響きました。出て行った人はみんな銃殺されたんだと、私には分かりました。日本軍が三番目のの人たちに出て行かせようとしたときに、私は出て行きました。それは午前8時過ぎ頃でしたが、倉庫を一歩出るなり、日本兵がずらっと両側に並んで、銃剣を斜めに構えているのが見え、後ろから日本兵が私たちを押していくのでした。長江の岸辺まで来た時に、倉庫の後ろの土手の上に30何人かの銃を構えた日本兵が並んでいるのが見え、虐殺が始まろうとしているんだと私はすぐ気付きました。私が水の中に立って、日本軍が射撃しようと銃を構えたその時に、私は思いっきり力を込めて河の中にひっくり返り、向こう岸までもぐっていって、河に倒れていた汽車の腹の部分に隠れ、そこから10人ずつ、10人ずつと日本兵に銃殺されていくのをこの目で見たのです。
 朝から夕方まで殺して、まだ銃殺されていない人が6,7百人いたので、日本兵はその人たちを一緒に河口まで追い立てて行き、機関銃で狂い撃ちにしました。暗くなり、日本軍が行ってしまってから、私は手探りで岸辺までやってきて、そうっと岸に這い上がりました。水に一日浸かって隠れていたので、寒くてがたがた震えどうしでしたが、地上に上がってから破れじゅうたんを一枚拾ってそれにくるまり、死体の真ん中で眠りました。あくる日日本兵が何人か桟橋からやってきて、私が震えているのを見つけ、私を狙って一発撃ちましたが、弾は私の太ももを抜けて、左手の薬指を傷つけました。今も傷痕が残っています。日本兵は私が死んだと思って、行ってしまいました。3日目になって、死体を片付ける人たちが私のまだ活きているのを見つけて、私を救い出してくれ、それで幸いにも一死を免れたのでした。(李文奎と劉雯と馮中美が記録)


「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、


戦争のない世界をつくる。



「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月25日水曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 結びにかえてー今問われているのは何か(この本は1999年版です。)
国民が裁いてきた南京事件
戦後の西ドイツの政府と国民がナチスの戦争犯罪を追及し、裁いたように、戦後日本において、政府と国民が戦争責任を追求する国民運動を展開していれば、そうした南京事件の全貌と責任者の解明も可能であったと思われるが、日本政府ならびに国民はそれを回避してしまった。そのこともあって、東京裁判と南京軍事法廷で裁かれた南京事件の事実に対する歴史認識は、多くの日本国民には定着しなかった。
 戦後の日本政府は、西ドイツと違って、事実を解明し、その責任を問うということを回避したばかりでなく、逆に、80年代になると文部省は教科書検定において、日本軍の組織的行為であると記述した家永三郎著『新日本史』の南京大虐殺記述の書き替えまでも強要した。
 こうした日本政府の無責任な対応に対して、国民の側が南京事件を裁こうとした裁判が、家永教科書裁判であった。
 家永教科書裁判は、歴史教科書における南京事件の記述をめぐる裁判であっただけでなく、日本国民の南京事件の事実認識が問われた裁判でもあった。その証左が、裁判の審理と並行するかたちで、事実をめぐる「南京大虐殺論争」が展開されたことである。その意味では、家永教科書裁判は、日本国民の南京事件認識を裁いたものであったということができる。
 南京事件から60年目にあたる1997年8月29日、最高裁は32年間にわたった家永教科書訴訟にたいする判決を言い渡し、事件をめぐる文部省の教科書検定が違法であったことが最終的に確定された(南京事件をめぐる教科書裁判の経緯は、教科書検定訴訟を支援する全国連絡会編『家永教科書裁判・第三次訴訟地裁編4 南京大虐殺、731部隊』および同編『家永教科書裁判・第三次訴訟高裁編2 南京大虐殺、朝鮮人民の抵抗、731部隊』を参照されたい)。「南京大虐殺論争」も学問的にはすでに結着がつき、政治的な意図から南京事件の事実を否定しようとする一部の人たちを除けば、歴史事実そのものは否定できなくなった。中学校や高校の歴史教科書の南京事件記述も最近はだいぶ改善されてきている。
 今後の日本国民に求められているのは、センセーショナルな論争から脱却して、歴史事実とその全体像を冷静に認識していくことであるように思う。・・・・・・・

    
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

史栄禄(男、69歳)の証言
 私は史栄禄と言います。私の兄は史栄銘と言い、今年72歳です。私たち2人は日本軍が大○史でやった集団虐殺の証人です。「大○子」とは、土地の人が「史家大○子」とも呼んでいた、幅7メートル、深さ7メートルもの大きな巣で、今の棲霞区建築公司の採石場の近くにありました。
 1937年に、日本が南京を侵略した時、私は避難しに江北の方へ逃げました。やがて食べる米が無くなり、又米を取りに長江を渡ってきていました。ところがその後、日本兵が長江を封鎖したため、もう江北へは行かれなくなってしまい、家で隠れているしかありませんでした。12月のある日、私は日本兵がたくさんの「中央軍」と普通の平民とを下流の笆斗山から追い立てて老虎山の下の大○子に集めてきているのをこの目で見ました。あの長江の2百ムー(畝)もの浅瀬に、武装解除された「中央軍」と無辜の民衆とがびっしり詰まったのです。日本兵は外側にいる「中央軍」のゲートルをはずさせ、そのゲートルをまた結びつけさせて、逃げ出すのを防止したのです。それから、彼らは日の丸の旗が挙がるのを合図に、機関銃三挺で、右へ左へ交差させつつ掃射し、身に寸鉄を帯びていない「中央軍」と無辜の者とを全部射殺したのです。死なないのは、日本兵が銃剣で突き刺したのです。翌日にも日本兵は追い立てを続け、中国人を大○子の後ろに追いやり、初めの日に殺した死体を長江まで運ばせて捨てさせ、それから又その中国人を掃射したのです。こうして3日続けて虐殺し、銃殺された「中央軍」と無辜の者たちはおよそ2万人余りにもなったのです。(劉虎と姜秀華が記録)

     

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


9条がゆきわたった世界を。



Imagine,

A world filled with 

Article 9.



憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月24日火曜日

南京大虐殺

卒業式のシーズンですね。壇上には「日の丸」が飾られ、式次第には当たり前のように「君が代」が入る。戦時中と同じような光景だ。今ではWBCでも日の丸を持って応援したり、君が代の斉唱がある。甲子園の開会式でも女子高生が1人でマイクを通して歌っていた。あの戦争では日本軍は占領すれば日章旗を掲げ侵略していった。たくさんの日の丸がアジアの国々にはためき、日本の圧政が行われた。同盟国のドイツとイタリアは敗戦後国旗と国歌を変えた。ドイツでは戦犯に時効などなくずっと追い続けた。日本だけが国旗・国歌を変えなかった。ヒットラーは自殺をし、ムッソリーニは銃殺され、逆さづりにされて公衆にさらされた。一方の大元帥昭和天皇は裁判ににもかけられず、その地位にとどまった。敗戦が濃厚となっても一撃を加えたい一心で戦争を続けさせ、最後は国体護持にしがみつき降伏を遅らせ、多くの日本国民の犠牲を強いた。東京大空襲・いろいろな都市での空襲、沖縄戦、そして原爆2発、8月14日の大阪大空襲。
 その天皇の代がずっと続くようにとは私は歌えない!!
教育現場では、教員は歌わなかったり、着席すると処分される時代だ!!
この国に思想・信条の自由はないのか?

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 結びにかえてー今問われているのは何か(この本は1999年版です。)
国民が裁いてきた南京事件
 1951年9月に日本が連合国と調印した「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」の第11条には、「日本国は、極東国際軍事裁判所ならびに日本国内および国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」と明記されている。日本は、戦後世界に独立国として再出発するに際して東京裁判の判決を受け入れ、「南京暴虐事件」の事実を承認したはずであった。しかし、東京裁判や南京軍事法廷で陳述され提出された膨大な証言や証拠資料は、日本国民の南京事件の事実認識には結びつかなかった。それどころか、序に述べたように、南京事件は誤ったイメージで語られ、国民の間にはそれに対する反発から、否定論が少なからぬ影響力をもってきた。
 たしかに南京軍事法廷で裁かれた者とその判決については、他のBC級戦犯裁判と同じように、不公平な側面があったことも事実である。処刑された谷寿夫第六師団長が上申書において「南京大虐殺事件に関係ある、多数の部隊長をまず調査して事件の全貌を明らかにし、ついで真犯人を認定するを正当とするに係わらず・・・・・最高指揮官および直下の部隊長と切り離して、被告1人をもって審判の対象となし、しかもこれを真犯人と認定し論断さるるは・・・・・不合理、非合法なり」と抗弁していることはその通りであろう(「南京作戦の真相(熊本師団戦記)」。
 谷寿夫にとって不運だったのは、第16師団長中島今朝吾と第10軍司令官柳川平助が敗戦後すぐに他界し、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王は皇族ゆえに免訴されたことがあって、南京攻略戦に参加した師団長の中で谷だけが逮捕され、死刑判決を受けたことである。110人斬り競争をやったという向井・野田の2人の将校と300人斬りの田中軍吉も、捕虜・敗残兵を多数殺害した将兵として有名になったことが、逮捕・処刑される運命になってしまった。谷寿夫の言うように南京事件の全貌を解明し、真の責任者を本格的に究明しようとすれば、もっと上級指揮官、さらには軍中央と政府そして天皇にまでもその追求は及んだはずである。
 しかし、南京軍事法廷で裁かれた軍人が公平で妥当であったかという問題と、裁かれて明らかにされた南京大虐殺事件を認識することとは別である。南京軍事法廷でも多くの証言資料や調査資料が提出され、その一端は『中国関係資料編』に「第Ⅳ編 南京軍事裁判資料」として収録されている。(続く)
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 石明(男、1919年3月12日生まれ)の証言
 1937年に、私は国民党第5軍36師の108旅215団小砲中隊で一等兵をしていました。上海が陥落した後、私たちは続々と南京の和平門まで撤退し休憩待機していました。12月12日に撤退命令が出たので、私たちは中山埠頭一帯の岸辺に駆けつけ長江を渡ろうと待ち構えましたが、将校だった者はとっくに行ってしまっていて、私たちは武器を長江に投げ込み、部隊は全く雑然となり、何万人もが岸辺で押し合いへし合い、一日待っても渡れませんでした。午後に日本兵が岸辺にやってきて、何万人もを全部捕まえ捕虜にしましたが、その中には難民もたくさんいました。12月13日は、私の一生忘れられない日で、日本軍が私たちを豚を追い立てるように、草鞋峡一帯まで駆り立て、まず機関銃で掃射してから、銃剣で突き刺し、さらには大勢いる所に手榴弾を投げ込んだのです。私は頭部を機関銃で撃たれて、長さ10数ミリもの大きな穴があき、脳の部分までは傷が達しませんでしたが、昏倒して死人と折り重なりになった後で、日本兵がまた私の身体を銃剣で突っつき、顔と左の小手と二の腕とにやられました。夜になって、私が死体の重なりから這い出したとき、まだ死んでない人のうめいているのが聞こえました。私は夜陰に乗じ手探りしながら三汊川のある庶民の家までたどり着き、誰もいなくて、漬け物かめの脇に隠れたのですが、出血が多すぎて、眩み倒れてしまいました。晩になって、その家の主が帰って来、ある年とった人が私の血だらけなのを見て、死んでいると思い、やってきて私を引きずったので、ウウッと私が一声あげたら、私が息を吹き返したとわかり、「夜が明けないうちに、大急ぎで逃げな。そうでないと助からないぞ」と言いました。私はその人の言う通りに蕪湖の方向に逃げ、しばらくして小丹陽に着いて、やっと逃げ延びることがことができました。私は南京大虐殺の生き残り証人なのです。(安徽省郎渓県の人で、1992年4月7日にその口述に基づいて劉相雲が記録し整理)

    

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



ひとりひとりの安全を



大事にする世界を。



Imagine,


A world that values


the safety of each and

every human.



政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月23日月曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 世界に知られていた南京事件
 アメリカでは南京事件とパナイ号事件の報道を契機に、日本の中国侵略に抗議する運動が活発になり、日本軍の蛮行から中国民衆を守り、救済するための中国支援の運動の輪も広まっていった。さらには、ジョン・W・ダワー『人種偏見ー太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』が指摘するように、南京事件をはじめとする日本軍による中国民衆の大量殺戮の報道が、アメリカ国民の対日感情を悪化させ、「非人道的野蛮行為」を平然と行う日本兵に対する嫌悪・憎悪の感情を国民の間に醸成させ、それが日米戦争時の「敵国日本」のイメージを形成した側面もあった(笠原「世界に知られていた南京大虐殺」『アジアの中の日本軍』)。
 ドイツでは、2月末に南京を離れ、ドイツに帰国したラーベが、ジーメンス・外務省・国防省などの小集会において、マギーが撮影したフィルムや写真を見せながら、南京事件の事実を講演してまわった。彼は、南京で目撃した南京事件の真相を、ヒトラーをはじめ、ドイツ政府の指導者に知らせ、事実上の同盟関係を通じて日本兵の不法・残虐行為を阻止する方法を求めようとした。ラーベはそのために「南京事件・ラーベ報告書」をヒトラーに提出したが、同盟国日本の残虐行為を書いたことがヒトラーの逆鱗に触れ、逮捕・尋問されたうえ、南京事件について発言しないことを条件に釈放されたのだった。しかしラーベが人生を賭けて事実を伝えようとして記録した日記ならびに報告書は、事件から60年を経てドイツ、アメリカ、中国、日本(日本語訳の書名は『南京の真実』)で一斉に出版されることになる(笠原「発見された南京虐殺の証言」参照)。
 中国では、南京事件は新聞報道だけでなく口コミを通じてやがて中国人全体に知られた。中国国民政府軍事委員会は写真集『日寇暴行実録』を発行(38年7月)して、南京における日本軍の残虐行為をビジュアルに告発した。とくに日本軍の中国女性にたいする凌辱行為は、中国国民の対日敵愾心をわきたたせ、大多数の民衆を抗日の側にまわらせ、対日抵抗戦力を形成する源泉となった。当時の日本人が軽視ないし蔑視していた中国民衆の民族意識と抗戦意志は、さらに発揚され、高められていくことになった。南京攻略戦の結果、日本軍が引き起こした暴虐事件は、中国を屈服させるどころか、逆に抗日勢力を強化・結束させる役割を果たしたのである(笠原「中国女性にとっての日中15年戦争」『アジアの中の日本軍』参照)。
 第二次世界大戦において、南京事件は連合国側に広く知られた事実となり、日本ファシズムの本質である侵略性・残虐性・野蛮性を露呈したものとみなされた。東京裁判で、日中戦争における日本軍の残虐行為の中で南京事件だけが重大視して裁かれたのは、連合国側の政府と国民が、リアル・タイムで事件を知っており、その非人道的な内容に衝撃を受けていたからであった。
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 厳洪亮(男、79歳)の証言
 私は原籍は安徽省(あんきしょう)の桐城ですが、南京で生まれました。父は南京で料理人をし、母はお金持ちの家で女中をしていました。父は36歳でやっと結婚し、40歳のときに私が生まれたので、小さい時「厳40」と呼ばれていました。私は12歳で技能を学び、緞子や繻子を織りましたが、後には芝居で声高く歌うのを学びました。家は仁義里18号でした。
 1937年は私は32歳でした。冬月の初めに、南京要塞司令部(司令官は邵伯川)に捕まって、弾薬や薬品や綿花などの、軍用品を運ばされました。日本軍がもうすぐやってくるという時には、司令部の人たちはみんな逃げてしまいました。冬月11日に私は逃げ出してきて、江北へ逃げようと思いましたが、船が無くて行かれませんでした。和記洋行の職工長の徐志和と知り合いだったので、洋行に身を隠しました。日本軍の部隊は冬月11日の夜明けの2時に光華門から南京城に入って来ましたが、人を見れば殺し、婦女を見れば強姦し、火を放って家を焼きました。ある日の朝、日本軍が和記洋行に人を捕まえてやってきて、私も入れて、3000人以上を捕まえて行きました。私たちを老江口(草鞋峡)まで引っ張って行ったのですが、その岸辺には捕まってきたのが何万人もいて、びっしり座らせられていました。午前8時か9時から始まったのが、日本の賊どもがやってのけた大虐殺でした。彼らは縄で20人を一まとめにして、機関銃で掃射してから、死体を長江へ押し込んでしまう、という風にして午前から晩までずっと虐殺していったのです。日が暮れようとする頃に、日本刀を背にした軍人が3人私を検査し、手にたこが無いのを見て、私は「中央軍」ではないと言い、行きなさいと言いました。ところが私を見張っていた日本兵がカッときて、私の頭に一発ぶっ放したので、私は撃たれて鮮血がほとばしり、地にぶっ倒れました。続いて、又銃剣で腹を刺してきましたが、私は習練を積んでいて、すっと身をかわしたので、腹まで刺さらずに、すねに一太刀きただけでした。傷痕が今でもはっきり残っています。私は死んだ振りをして地に横たわっていて、暗くなって死人の積み重なりから這い出しました。道でなにがしかの米を手に入れ、老虎山の上まで駆けて行き、屍のうずたかくなった中に隠れて、飢えたら生米をかじりました。3,4日ごろごろしていて、それも続けられなくなり、山を降りてきて食べ物を人にせびり、又和記洋行に帰ってきましたら、徐志和の奥さんが門番をさせてくれました。一ヶ月余りして○月30日の晩になって、やっと家に帰りました(既に鼓楼三条巷の難民区に引き移っていました)。お母さんとお姉さんとが、私が死んでいないのを見て切ながったり嬉しがったりしてくれました。私はこうして九死に一生を得たのです。(戦国利と陳家栄が記録) 
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。



Imagine,


A world that instead 



of


preparing for war,



prevents war.



コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月22日日曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 世界に知られていた南京事件
 当時の日本社会はきびしい報道管制と言論統制下におかれ、日本の大新聞社があれほどの従軍記者団を送って報道合戦を繰り広げ、しかも新聞記者の中には虐殺現場を目撃したものがいたにもかかわらず、南京事件の事実を報道することはしなかった。また、南京攻略戦に参加した兵士の手紙や日記類も厳しく検閲され、帰還した兵士に対しても厳格な箝口令(かんこうれい)がしかれ、一般国民に残虐事件を知らせないようにされていた。さらに南京事件を報道した海外の新聞や雑誌は、内務省警保局が発禁処分にして、日本国民の眼には一切触れることがないようにしていた。
 しかし、本書で『ニューヨーク・タイムズ』や『シカゴ・デイリー・ニュース』の南京事件報道を紹介してきたように、アメリカやイギリス、ドイツなど世界においては発生当時から事件は報道されていた。当時南京から事件を世界に知らせた人々は、日本軍の南京占領前後に、南京に残留し、直接あるいは間接に事件を目撃した外国人だった。第一のグループは外国人ジャーナリストで、ダーディンとスティールのほかに、L.C.スミス(ロイター通信社)とC.Y.マグダニエル(AP)の4人の記者がいた(ただし、彼らが南京で取材していたのは12月15日まで)。第二のグループは南京の大使館員グループで、中でもアメリカ大使館とドイツ大使館の外交官は本国と関係機関に多くの報告を送っている(ただし、彼らは日本軍の南京城攻撃直前に南京を離れ、38年1月上旬になって南京に帰任)。第三のグループが、南京難民区国際委員会のメンバーたちで、彼らは国際世論に訴えて、外国からそのような蛮行を阻止させる行動が起こることを期待して、海外の報道機関やキリスト教団体に向けて、残虐行為に関する情報をさまざまなルートを使って送り出していた。
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 唐広普(男、68歳)の証言
 私の実家は江蘇省阜寧県の施庄公社二級唐大隊でした。15歳で南京に来て、中央陸軍軍官学校の第10期予備班で任務に就きました。一年余りして、中央陸軍軍官学校教導総隊の二団三営に加わり、兵営で雑務兵をしました。
 南京防衛戦の時、教導総隊の任務は「南京と生死を共にする」ことでした。1937年の12月、国民党守備軍は全線散りじりになりましたが、私たちは南京のどの城門も砂袋を詰め、城門の外側の道には塹壕を掘って、守ろうとしました。12月13日に、日本兵が中華門から南京に侵入したので、私は下関に駆けつけましたが、長江を渡る船が無く、燕子磯まで駆けつけました。燕子磯は街が人でいっぱいで、木の板や桶やらたらいやらを抱えて先を争い長江を泳いで渡ろうとしていました。私は肉屋の仕事机を1つ担いで、八卦洲まで渡ろうと思いました。ところが肉机は円かったので、浮いたり沈んだりするばかりで、どうにも泳いで渡れませんでした。やむを得ず、又街にとって返し、小さい棚を2つ探してきて、肉机をひっくり返し、4本の脚を上に向け、2つの棚をその脚にくくり付けて、、肉机が穏やかに浮くようにし、それから軍で使うシャベルで水をかくことにしました。ところが北風が強く吹いていて、右をかいたら左に曲がり、左をかいては右に回ったりで、同じところでぐるぐる回るばかり、一向に北へ進みません。「俺は江北で生まれたのに、いまや江南で死ぬんか」と私はため息をつきましたが、長江を渡れずに、またもや燕子磯に引き返すしかなく、そのときはもう疲れきってしまい、どこか見つけて眠ってしまいました。夜がまだ明けないうちに、日本兵が来て、若い者をみんな街の真ん中へ追いやりました。中国語の話せる日本人が「誰か幕府山の前を道案内できるものはないか」と言うと、誰かが道案内に立ち上がり、私たちを幕府山に連れて行き、空の兵舎に閉じ込めました。そこに収監されたおよそ2万人は、ほとんどが捕虜となった兵士たちで、一部が警官と一般庶民でした。3日3晩食べさせも、飲ませもせず、年寄りや子どもが飢え渇いてあいついで死にました。婦女子はすべて輪姦されました。四川の兵が1人、飢え渇きに堪えかね、大勢と打ち合わせて脱走したため、1000人以上が日本軍に外堀の中で射殺されました。12月18日に、日本人が朝の4時から人々を縛り始めたのですが、何枚もの大きな布を裂いて裂いてたくさんのひもにし、まず1人ずつ後ろ手に縛り、それから2人の腕を1つに縛るのでした。朝の4時から午後の4時までずっとしばり続けました。それからやはりあの中国語の話せる日本人が話をし、誰か老虎山の道案内ができるものはいないかと聞いてから、私たちを南京の町に送り返して「ミーシミーシ」(メシだメシだ 飯食わしてやる)と言っていました。上元門の大きなくぼ地の浅瀬まで行って、私たちを一列に座らせました。その時、まずい、虐殺しようというんだ、と言う者がいて、「鬼になるならばらばら鬼に成ってやろう」と、互いに縄を解いたのです。夜の8時か9時に、日本兵が虐殺を始め、機関銃が鳴り響くや、すぐに私たちは地に倒れ横たわりました。20分後に、機関銃がとまり、私は右肩を撃たれて感覚がありませんでしたが、死体が私の体の上にかぶさってきていて、とても重く感じました。5分ほどして、機関銃が又掃射を始めましたが、しばらくしたら、日本軍が乗っかってきて、銃剣で刺したり、木の棒で打ったりし、それからわらを石榴の樹の上に撒き、ガソリンをかけて燃やし始めました。その時私は堪えられなくなり、うんと頑張って、死人のうずたかくなったところから這い出し、、長江の岸辺に沿って、燕子磯の方へかけて行き、家が焼かれて住む人のいなくなったある村で、臼で挽かれた糠の山にもぐりこんで隠れ、着ていた物を一つ一つ脱いで火に乾かし、稲を生のままかじって飢えをしのぎました。ここで私はおじいさんが一人子どもと一緒に小舟を漕いで村にやってきてわらを引きずっているのを見かけたので、彼らの頼んで、八卦洲まで連れて行ってもらい、それから江北まで帰りました。
 江北で、私は幕府山から逃げ出してきたもう一人の生き残りに出会ったのですが、諸という人で、日本軍は銃殺した後、ガソリンで殺した者の死体を焼いてしまった、と言っていました。この人は焼かれて火傷しながら、火の中から逃げ出したのでした。諸さんは原籍が広東なのですが、後に、六合の竹鎮で新四軍に加わり、その後私との連絡はなくなりました。(段月萍と陳立志が記録)

  
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

女性たちが

平和をつくる世界を。



Imagine,

A world where

women create peace



戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。(アメリカ/先住民女性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月21日土曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について4
【概数の資料】
中国兵の犠牲者数については、日本と中国の資料から概数は推定できたが、きわめて困難なのが民間人の犠牲者数の推定である。総数を推定する参考になる当時の3つの資料を紹介する。
(1)ラーベの「ヒトラーへの上申書」(「南京事件・ラーベ報告書」に同じ)
「中国側の申し立てによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万から6万とみています。」(ラーベ『南京の真実』)。38年2月23日にラーベが南京を離れた段階での推定数である。南京城内にいたラーベら外国人には、城外・郊外の広い地域で行われた集団虐殺の多くをまだ知っていない。それでも、難民区国際委員たちが当時の情報を総合して推測した数として参考になろう。
(2)埋葬諸団体の埋葬記録(『中国関係資料編』の第Ⅲ編「遺体埋葬記録」に収録)
 南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は18万8,674体になる。これには戦死した中国兵の遺体も含まれているし、遺体の埋めなおしなど埋葬作業のダブりの問題もある。しかし、長江に流された死体の数が膨大であったことも考えると、南京攻略戦によってこうむった中国軍民の犠牲の大きさを判断する資料となる。
(3)スマイスの「南京地区における戦争被害ー1937年12月~1938年3月ー都市及び農村調査」
 同調査では、市部(南京城区)では民間人の殺害3250人、拉致されて殺害された可能性の大きい者4200人を算出、さらに城内と城壁周辺の入念な埋葬資料調査から1万2000人の民間人が殺害されたとしている。近郊区では4県半の県城をのぞいた農村における被虐殺者数は2万6870人と算出している。この調査は、38年3月段階でで自分の家に戻った家族を市部で50軒に1軒、農村で10軒に1軒の割合でサンプリング調査したものであるから、犠牲の大きかった全滅家族や離散家族は抜けている。それでも、同調査は当時行われた唯一の被害調査であり、犠牲者は間違いなくこれ以上であったこと、および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる。
 以上の犠牲者数についての資料状況と本書で叙述してきた南京事件の全体状況とを総合すれば、南京事件において10数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。日本軍側の資料の発掘・公開がさらに進み、中国側において近郊農村部の犠牲者数の記録調査がもっと進展すれば、より実数に迫る数字を推定することが可能となろう。
  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 葛仕坤(男、74歳)の証言
 私は葛仕坤といって、今年74歳ですが、日本兵が南京にやってくる前の晩に、私たち全家族で燕子磯の許家村から引っ越して長江の北へ行きました。けれども私はしょっちゅう燕子磯の許家村に戻って来ていました。1937年12月のある日と覚えていますが、許家村の月亮山で日本人が中央軍をしばりあげ、400人余りもいた中央軍を、日本人は強引に地にひざまずかせて、それから機関銃でみんな射殺したのを、この目で見ました。あの時は、烏龍山から許家村までの道はずっと死体が転がり、道行く人はみんな屍の上を踏みつけて行くのでした。私たちの村の村長の周明旭が人々に道沿いに壕を掘らせ、そこに死人を埋めました。旧の十○地で、日本人6,7人が葛という女の子を私たちの家に引きずってきて輪姦するのを、この目で見ました。(陶俊と李春明が記録)
 ※○は、日本の漢字にない字なので○にしました。

 
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


基地をなくして緑と海を


取りもどしていく世界を。


Imagine,

A world that gets rid

of military bases and reclaims

the forests and the oceans.



森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月20日金曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について3
【日本軍が虐殺した中国軍民の数】
日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外におかれたものの苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった(藤田久一『戦争犯罪とは何か』、同『新版・国際人道法』参照)。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民および非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道法的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善をいっそう明確化した「捕虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約)が1929年に締結されて、戦時国際法として存在した(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。
 ハーグ陸戦条約は「第23条[害敵手段、攻囲及び砲撃の禁止事項] ロ、敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること   ハ、兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること 二、助命せざることを宣言すること」と、「害敵手段」を規制していた。これは、直接戦闘外におかれた兵士を保護するための規定である。12月13日早朝に南京城は陥落し、南京攻略戦の直接の戦闘は決着がつき、南京防衛軍も完全に崩壊してしまっていた。したがってその後の中国兵は、戦闘員を人道的に保護するために、投降を勧告し、捕虜として収容すべき存在だったのである。日本軍が徹底した殲滅戦(せんめつせん)を強行したために、投降兵、敗残兵を殺戮したのは、同条約に違反する不法行為であり、虐殺行為であった。また、日本軍は、武器を捨て軍服を脱いで民間服に着替えて難民区や居住区に潜伏した中国兵を「便衣兵」として連行、処刑したが、南京には本来の「便衣隊」「便衣兵」は存在しなかった。
 「便衣兵」を処刑するにはそうと認定する軍事裁判の手続きが必要であったから、日本軍の「便衣兵狩り」による集団処刑は、交戦法規に違反した虐殺行為であったのである(吉田裕「15年戦争史研究と戦争責任問題」)。
 現在公刊されている日本軍側の資料から、南京攻略戦に参加した各師団がどのくらい中国兵および中国兵と見なされた民間人を、捕虜・投降兵・敗残兵・「便衣兵」として殺戮・処刑したかの累計をこころみたのが表1である。(割愛させていただく)第9師団・第114師団・第6師団の各部隊の戦闘詳報や陣中日記の公開が特に遅れているが、もしも日本軍側の全連隊の戦闘詳報がそろえば、捕虜、敗残兵の被虐殺者数(ここには民間人の男子も含まれている)の総数がかなり明らかになることがわかるだろう。
 もっとも、戦闘詳報の記録は一般に戦果を多く報告する傾向にあるから、この数字はあくまでも概数として扱うほかはない。それでも、( )をつけなかった虐殺者数は8万人以上になろう。可能性のあった捕虜のほぼ全員殺害を想定すれば、10万人以上になる。
 私は、総数15万人の防衛軍のうち、約4万人が南京を脱出して再結集し、約2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明となり、残り8万余人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺されたと推定する(「南京防衛戦と中国軍」)。
  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺

 郭国強(男、68歳)の証言
 1936年に、私は18歳で「中央軍」に加わり、88師で軍務についていました。そのころ日本軍が上海を攻めていて、我が師団は上海で抵抗していました。負けてから、江蘇の句容へ行って又日本軍と一戦を交え、それからは壊滅して軍をなさなくなりました。
 1937年の12月に、私は2,3百人の「中央軍」と平服を着て、南京の燕子磯三台洞の近くまで逃げてきました。日本軍が燕子磯の長江沿いの浅瀬でやった大虐殺の情景を目撃しました。あの時日本軍は機銃掃射を一昼夜続け、2万人以上の既に武装解除していた「中央軍」の命を奪ったのです。私は三台洞に隠れていて、日本軍に発見されたのですが、山を切り崩している農民だと偽り、山を爆破する道具を持ち出してきて、やっとのことで死を免れたのでした。
 それから、私は隙を見て逃げ出し八卦洲の下○村まで落ち延びて、そこに住み着くようになったのです。(潘可栄と趙金華が記録)

   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

武器を使わせない世界を。


Imagine,

A world that doesn’t

let weapons be used.



憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月19日木曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について2
【南京攻略戦下の人口】
南京特務機関「南京市政概況」によれば、南京攻略戦の前後で南京市(本書で言う南京城区)の人口・戸数は以下のように変化している。


 1937年 3月末   101万9667人     20万810戸    (首都警察庁調べ)
   38年 2月末 20万   (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
   38年10月末 32万9488人      8万2195戸   (南京市自治委員会調べ)
   39年10月末    55万2228人     13万2,403戸   (南京特別市政府調べ)
   41年 3月末 61万9406人 14万0439戸    (南京市政府調べ)
 
日中全面戦争勃発前の南京城区の人口は100万人以上であったが、日本海軍機の連日の空襲のために同区の人口は激減していき、37年11月初旬には50万近くになっていた(スマイス「南京地区における戦争被害」)。同11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡には、「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」と記されている(中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』)。11月下旬には、国民政府はすでに首都遷都を宣布しており(11月20日)、中支那方面軍の南京進撃もすでに始まっていた段階で、南京から遠隔の地に避難したい階層は基本的に脱出を終了していた。その後、南京城区から安全と思われた近郊農村に避難していった市民も多かったが、一方では、南京防衛軍の「清野作戦」の犠牲になった城壁付近の膨大な農民が難民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進撃戦に追われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。したがって、南京攻略戦が開始された時に、南京城区にいた市民はおよそ40万~50万であったと推測される。
 南京特別市の近郊6県の県城と農村の人口は、スマイスらの「南京地区における戦争被害」に基づいて推測すれば、南京攻略戦以前は、150万を超えていたと思われる。県城や農村の住民は遠隔地へ脱出していく事例は少なく、南京攻略戦に際しても一時的に近距離周辺に避難するパターンが多かったから、概して人口の変化は大きくない。
 南京防衛戦に参加した中国軍の総数については、私はかつて詳細に検討したことがあり(「南京防衛戦と中国軍」)、戦闘兵が11万~13万、それに雑役を担当した少年兵、輜重兵(しちょうへい)などの後方勤務兵、軍の雑務を担当した雑兵、防御陣地工事に動員された軍夫、民夫(民間人人夫)等々、正規非正規の区別もつきづらい膨大な非戦闘兵を加えて、総勢15万人いたと推定した(南京防衛軍の戦闘詳報など中国側の豊富な原資料を整理・分析した孫宅巍・江蘇省社会科学院研究員の「南京保衛戦史」も、南京防衛戦に参加した中国軍の総勢を約15万としている)。

  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 楊勤州(男、61歳)の証言
 1937年の冬に、日本軍が来ました。1000人ほどの国民党の敗残兵が、白旗を掲げ、日本軍に私たち小江辺の大きな倉庫まで連行されました。日本軍はこの人たちを整列させてから、身体捜査をやり、2人刺し殺しました。価値の高い物をみんな取り上げ、身体捜査が終わってから、又8人銃殺しました。その時に又何人か日本軍がやってきて、その敗残兵たち全部を綿花堤まで駆り立て、機関銃を2台据え付けて、掃射をし、しまいには粗朶をたくさん積み上げ、それにガソリンをかけ、まだ撃ち殺されていない人を全部、火をつけて焼き殺しました。
 孫という全椒県の人がいて、年の暮れに街に出て塩を買ってきたのを、日本兵が捕まえて無理に塩を食べさせ、話せなくなるまでにしてしまいました。ずっとしてから年取った漢方医がゆっくり調えてやっとよくなりました。(羅自成が記録)

  

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

おたがいに戦争しないと

約束した世界を。


Imagine,

A world that promises

not to fight wars

with each other.



戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月18日水曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について1
 南京事件において犠牲にされた中国軍民の数を正確に算定することは、今となっては、まず不可能である。日中の双方とも南京事件発生時および直後に本格的な被害調査をしなかったからだ。(金陵大学のスマイスらの「南京地区における戦争被害」調査が唯一であった)。南京はその後およそ7年間、日本の占領下に置かれたため、中国当局が直接調査することはできなかった。いっぽう、南京を占領統治した日本当局が、犠牲者数を調査することなどありえなかった。したがって、関連した諸資料を収集し、整理・検討して犠牲者総数を推定していくことになるが、その資料も、日本軍側の資料の公開が少ないことが最大の障害になっている。※

 ※藤原彰氏の調べによれば、中支那方面軍の全連隊の中で、これまで戦闘詳報や陣中日記の類の公式資料を公刊・公表している部隊はおよそ3分の1にすぎない。多くは敗戦前後に連合軍の追及を恐れて証拠湮滅(しょうこいんめつ)のため焼却されている。また、南京攻略戦に参加した元兵士が残虐行為を証言したり、それらを記録した陣中日記を公表したりすると、戦友会や右翼勢力から証言封じの圧力が加えられることも日本側の資料が少ない原因になっている。


 犠牲者総数の解明は、南京事件の全貌をより厳密に理解するために必要であって、その逆、つまり、正確な総数が確定できないから南京事件は「まぼろし」であるということにはならない。犠牲者数の問題は、今後さらに資料が発掘されていけば、より実数に迫っていけることも事実である。ここでは、本書で引用してきた資料を整理・総合して推定できる概数を述べてみたい。それは概数であっても、相当程度南京事件の全貌をイメージできると思うからである。


 
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 邢久発(男、72歳)の証言
 1937年の暮れに、日本兵が南京で大虐殺をやり、その蛮刀の下に数限りない人々が惨死しました。水西門から上新河まで、死者がうずたかく山をなし、河いっぱいに血が流れたのです。とりわけ江東門の橋が爆破されていたのを、日本軍が屍をうずたかく積んで、車が通るようにしたのです。

 何玉峰(男、59歳)の証言
 南京が陥落したとき、私は郊外の沙洲圩に避難していました。長さ5,6キロにも及ぶ水西門から上新河までの道に、日本軍に殺害された人々が、まさに死屍累々として野に遍しの状態だったのを、目撃しました。紅卍字会の埋葬作業で、この道には、2,30メートル置きくらいに1つずつ、屍が丘のようにうずたかくなったのを、覚えています。
 江東門の江東橋が爆破されていて、日本軍が死体で河を埋め、上に戸板や葦ずなどを敷いて、臨時の橋にしました。人がその橋の上を歩くと、そこが上下に浮き沈みして、まったく見るに耐えないむごたらしさでした。(習守清と呉建野が記録)

 
 

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月17日火曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
【財産権の侵害】
日本軍は南京において戦闘行為とは直接関係のない略奪・放火を長期にわたって行った。南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内の建物の73パーセントが略奪の被害を受けた。中心的なビジネス街では、多数の兵隊による何度かの略奪を受けたのち、ついで軍用トラックを使用した本格的な略奪を受け、最後には放火されて焼失したところが多かった。
 放火は日本軍の南京入城後に始まって2月はじめまで行われ、市全体で建物の24パーセントが焼失した。そして、焼け残った家の家具や衣料、現金などがはぎ取られ、日本軍に略奪された。
 南京近郊の農村では広い地域にわたって、40パーセントの農家が焼かれ、家畜や農具、貯蔵穀物、作物が甚大な被害を受けた。畑の小麦は軍馬の飼料にされ、野菜は兵隊が好んでかっぱらっていった。とくに、江寧県と句容県では野菜畑の作物のほぼ半分が損害を受けている。
徴発・調達の名目で食糧・穀物・家畜が大量に略奪された(「南京地区における戦争被害」。なお笠原『アジアの中の日本軍』も参照のこと)。
 
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 陳徳星(男、72歳)の証言
 日本兵が南京に来たのは1937年の冬月で、私が用事で江東門を通ったら、日本兵が模範監獄の前で、テーブルやベッドの板や大きな戸板などいろんな木材をあるくぼ地に積み上げ、それにガソリンをかけて火をつけ、それから日本兵2人が中国人1人の両腕を抱え、後ろから日本兵1人が銃剣で中国人の背中を突っつき突っつきして、その中国人を炎の中へと追い込んでいるのを、見かけたのですが、次々に上がるけたたましい叫び声が耳に響くばかりで、全く見るに耐えないむごたらしさでした。文字通りその人たちの頭がこげ額がただれ、血なまぐささが天に突き上がるのでした。

 李桂英(女、59歳)の証言
 1937年には、私の家は江東門でした。1937年12月13日に日本の侵略軍が南京を占領して、大虐殺をやった時、私は12歳でした。日本軍はいつも三々五々群をなして外出していて、馬に乗っての時もあり、歩いての時もありました。一度、男の人が1人難民区から出てきたのを、日本兵がぐっととっつかまえて、まずその頭を見、次いでその手と肩とを見、それから気ままに一発撃ちました。その人はそのときは死なずに、倒れて何度かけいれんしていましたが、やがて日本兵がまた一発撃って、やっと撃ち殺しました。
 江東門の橋が爆破されていて、日本軍が橋を渡れなかったことから、つかまえてきた何百人もの庶民を銃で撃ち殺し、その死体を河に敷き詰め積み上げ、庶民の家の戸板などはずしてきたのを屍の上に張り渡しました日本兵がその上を歩き、屍から血が流れ出して、河全体が真っ赤に染まったのでした。(賀家宝が記録)

 

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



軍隊のお金をみんなの


暮らしのために使う世界を。



Imagine,


A world that spends money


not on armies,


but on people's lives.


アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月16日月曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 残虐行為、不法行為の内容は、次の二つに大きく分けることができる。
【生命・身体の侵害】
戦時国際法に違反して中国の負傷兵、投降兵、捕虜、敗残兵が集団あるいは個別に殺戮された。日本軍の包囲殲滅戦の犠牲となって住民が殺害され、「残敵掃蕩戦」「敗残兵狩り」によって元兵士と思われただけで多くの成年男子が殺害され、日本兵の気まぐれでも多くの市民が射殺・刺殺された。金陵大学のスマイスやベイツら南京国際救済委員会(南京安全区国際委員会が改称)の調査によれば、日本軍の掃蕩作戦中に殺害されたのは老人が多かった。南京城内の南部の人口密集区では、多くの老人が留守を守って残留し、攻め込んできた日本兵に虐殺された。城内では60歳以上の男性の28パーセントと女性の39パーセントが殺された割合になる。近郊の農村では、殺害された女性の83パーセントがが45歳以上の婦人で、そのうちの約半分が60歳以上の老婦人だった。彼女らは、従来は残忍な攻撃から安全であると考えられていたので、なけなしの家・財産を守るために残っていて、殺害された。
 さらに同調査によれば、民間人の死傷者の割合は男子が64パーセントを占め、年齢にして30歳から44歳の民間人の死傷者のうち男子が76パーセントと高い割合を占めた。言うまでも無く、「敗残兵狩り」によって元兵士の疑いをかけられて殺害されたのだった。家族の被害の割合で言えば、南京城内では残留した家族の7分の1が夫や父親を失った。(「南京地区における戦争被害」)。
 南京事件の中で際立って多かったのが婦女の強姦・輪姦および殺害だった。日本軍の南京占領後12月16日から強姦事件が多発するようになり、南京安全区国際委員会の計算では1日に千人もの女性が強姦され、占領初期には控えめに見ても8000人の女性が強姦され、翌年の2,3月まで何万という女性が強姦された(「アメリカキリスト者へのベイツの回状」『アメリカ関係資料編』)。強姦は女性の身体を傷つけただけでなく、心にも深い傷を与え、みずから命を絶った者、精神に異常をきたした者など、さらには悪性の性病をうつされて廃人同様になった者、妊娠させられたため無理な堕胎をこころみて身体を壊してしまった者など、あとあとまで残酷な悲劇は続いた。

  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

 邱栄貴(男、70歳)の証言
 1937年の冬月に、江東門の統○茶房の王明九のお母さんが死んで、お棺に入れられて門のところに置き、未だ埋めに行かないでいたら、日本兵が手榴弾一発でお棺と死体とを粉々に砕いてくれました。冬月12日、日本兵が王さんの家に住まおうとしながら、門口の死体のにおいが嫌で、私と王明九とにせっついて死体を引きずって行かせようとしたのに、死体がお棺に入っていて、2人では動かなかったので、日本軍がやってきて銃剣で私のお尻を一突きしましたが、幸いに着ていたのが綿入れだったので、死を免れたのでした。
 冬月13日に、江東大隊積余村の王明才が日本軍の来るのを見て、肥えた豚を2匹隠したのですが、まもなく日本軍に見つかって、王明才は日本軍に銃殺され、豚も撃ち殺されました。そして、私と和尚さん1人とが日本軍に豚の皮を剥ぐようせっつかれ、和尚さんは袖口が大きくて、働くのに不便なので、袖をまくりあげていたときに、日本軍がこいつは手伝おうとしないだと言い張って、一撃の下に和尚さんを地に打ち倒し、和尚さんが這い上がろうとしたところを、またもや日本軍に踏みつけられため池に蹴りこまれて、溺れ死んでしまいました。それから私1人で豚の皮を剥いでしまうと、日本軍はついてくるようにと私に命じ、江東門の軍法処の門まで来たところで、豚を門のところの広場に置かせたのですが、その時に私は1000人以上の難民が監獄からしばられて連れ出され、江東橋の端から鳳凰街までずっと並ばされているのを見ました。何歩か毎に日本兵が1人ずつ、刀や銃を手にしていて、将校が一声大きく叫ぶや否や、銃剣でそれらの無辜の中国難民を滅多突きに突きまくり、1000名を超す中国人が血の海の中に倒れたのです。やがてこの人たちはみんな江東門の河の中に引きずり入れられ屍で積み上げた「橋」にされました。それと一部は軍法処のそばの茅の坑道に引きずって行かれました。
 冬月17日、18日ころに、積余村の王華明と王月徳の家にいた110名の中国人難民が、みんな縛られたまま、日本軍に撃ち殺され、その死体が家の裏の大きな茅の坑にうずたかくなりました。その日に、私も日本軍に捕まりましたが、少しして逃げ出し、積余村の河辺に広げられていた芦の粗朶に隠れたので、捕まりませんでした。夜になって出てきたとき、その110名の難民はみんな死んでいました。
 冬月20日に、日本軍が私と王進才を捕まえて舟を漕がせましたが、突然1人の若い女の人を見つけて、日本軍が2人跳びかかって行き、その女の人を身も世もないほどに踏みつけにしました。
(滕桂珍、滕桂芝、鐘金華、朱春香が整理)



「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん


世界から戦争のなくなった


平和な世界を。



Imagine,

A peaceful world 

without war.




でも、どうやったら


そんな世界がやってくるのかな


一つひとつ考えてみよう。


But,how can such a 


world be made?


let's think about it.



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月15日日曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
(2008年11月26日の記事と重複しますが復讐の意味で書きます。)
南京大虐殺の定義と範囲、内容
 南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
 事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
 事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中支那方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。

  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

孫殿炎(男、58歳)の証言
 1937年12月に、「中央軍」が三汊河や鳳凰街で日本軍と戦闘してから撤退しました。その後すぐに日本軍が大虐殺をやらかしたのです。その頃私たちは鳳凰街の2番目の叔父の家に住んでいて、地下の洞穴に隠れていたのですが、それでも外の銃声がはっきり聞こえました。やがて、銃声が静まったので、洞穴から這い出したのですが、数え切れないほどたくさんの人が死んでいて、眼も当てられないほどでした。日本人がしょっちゅう鳳凰街にやってきて騒ぎを起こすので、私たちは鳳凰街にいられなくなって、閻王廟の方へ向かいました。江東門の陸軍監獄あたりに差し掛かった時、見かけた死体がすごくたくさんでした。江東門の橋が前から爆破されていたのですが、日本軍が屍を土台にして、その上に木の板を敷き詰めていました。日本軍が入ってきて20日してから、紅卍字会がやっと組織的に死体の片づけをし、軍人監獄の向かいの長さ200メートル余り、幅1メートル、深さ1メートル半の塹壕と、煉瓦作りの粗末な便所2つの中に、屍をびっしり運び込んだのです。これもまた今日「万人坑」と言われているものです。

 
「Imagine9」【合同出版】より



MESSAGE(メッセージ)


環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。


ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月14日土曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
松井司令官の解任
(昨日の続き)松井はこれに不満で「予は心中きわめて遺憾にしてまた忠霊にたいしても申し訳なきしだい」と日記(1月31日)に記し、さらに「予の離任はじっさい自負にあらざるも時期尚早なることは万人認むるところなるべきも」とまで書いている(「松井石根大将陣中日記」)。
 2月14日、大本営は中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍の戦闘序列を解き、あらたに中支那派遣軍(司令官畑俊六大将、参謀副長に武藤章大佐留任)の戦闘序列を下令した。司令官を解任されて上海を去ることになった松井は、16日司令部の決別式において、「南京占領後2ヶ月間における大本営および政府と予の意見に相違ありて、ついに予の欲するところを実行しざりし苦衷を述べ、今頃万事を中途のままに帰還する予の胸中の苦悶と感慨を述べた」のである。(同前)松井石根の野心、功名心にとっても、南京攻略戦の結果は、挫折だった。
 日本に帰還した松井が、「駅頭市民の歓呼は軍部の取扱に比し、すこぶる熱狂、感謝的なるを認む」と日記(2月25日)に記しているように、マスメディアは南京を陥落させた凱旋将軍として報道し、天皇も大軍功の殊勲者として勅語を与えた。陸軍中央は、松井石根の不作為による不法虐殺事件の発生を知って、内部措置のかたちで解任しながらも、その責任は不問に付し、国民に対してはその事実を隠蔽し続けたのである。
 中支那方面軍の戦闘序列が解かれたことによって、作戦としての南京攻略戦は終結したが、その後も強姦を中心とする日本軍の残虐行為は続いた。それでも3月28日に、中支那派遣軍の工作による中華民国維新政府が南京に成立してからは、治安もほぼ回復し、安全区の難民も帰る条件のある者はほとんど自宅に戻った。ここにおいて、南京事件は一応終焉したと言うことができる。
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

 朱応泰(男、65歳)の証言
 日本兵が南京を占領した時人を見れば殺すので、私は母と一緒に弟を連れて雷公廟の囲いの中に逃げて隠れました。日本軍はしょっちゅう雷公廟一帯にやってきて焼き、殺し、略奪し、婦女を強姦しました。人力車をひいていた労働者が1人日本軍に撃ち殺されるのを、私はこの目で見ました。父親を捜すので、恐る恐る涵洞口へ戻ったら、涵洞口の両側の家が全部焼き払われて跡形も無くなっていて、漢中門の河辺まで行ったら、日本兵に殺害された死体がうずたかくなっているのを見かけました。石城街や鳳凰街一帯は、道端という道端いたるところ死体だらけで数え切れませんでした。回り道をして江東門一帯の方に行ったら、道の両側に死体がうずたかくいくつもの小山なっているのが見えるだけで、江東橋は爆破された後、日本兵が屍を敷き詰め橋にして歩いているのでした。三伏荘でも、日本兵3人が中国人を4人捕まえ、雑多なお墓のそばまで引きずって行って銃で撃ち殺したのを、この目で見ました。(欧文華と張連英と夏龍生が記録)

 李世梅(女、70歳)の証言
 元の二道挭子醤園廠(今の南糧船廠)が、中国侵略日本軍が人を殺した場所で、殺害された中国同胞の数は数え切れず、屍がいっぱい醤油池にほうり込まれていたのです。張大言の父親や薛世洪の父親など10数人が二道挭子で捕まり、最南端のくぼ地の土手の中(今の市自動車12隊)まで連行されて、銃殺になったのですが、そこが「万人坑」なのです。日本軍は活きている人を射撃の的にして、憂さ晴らしにもしたのですが、孔造順(今は下河街に住んでいる)の父親が、あぜ道も上で日本軍に活きたままぶち殺されたのです。(左国家が記録)

 


 「Imagine9」【合同出版】より



はじめに

戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
 世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
 日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
 それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
 世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月13日金曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
松井司令官の解任
 1月上旬を過ぎると、日本軍の南京虐殺の事実は、南京にいた外国人記者の報道によって世界に知られるようになっていただけでなく、南京のアメリカ大使館が作成した日本軍の残虐・不法行為に関する膨大な記録と報告が本国の国務省や東京のアメリカ大使館に送信されたり、同じくドイツ大使館のローゼン書記官らの詳細な日本軍暴行記録が本国に報告されたりして、外交ルートを通じても、南京事件の事実が世界に知られるようになっていた。石井射太郎の日記(38年1月6日)は「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。ああこれが皇軍か。日本国民民心の廃頽の発露であろう。大きな社会問題だ」と記している。
 南京の日本軍の軍機頽廃問題は、陸軍中央でもひそかに問題にするようになった。その頃予備役になっていた元教育総監真崎甚三郎大将は、上海派遣軍を視察してきた衆議院議員の江藤源九郎予備役少将の報告を聞いて、「軍紀風紀頽廃し、これを立て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強姦、略奪、聞くに忍びざるものありたり」と日記(1月28日)に記している。(『南京戦史資料集Ⅱ』)。
 こうした状況の中で、畑俊六教育総監は松井石根司令官の更迭を杉山元陸相に進言したことを日記(1月29日)に記している。
 

 支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、略奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代らしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる・・・・。(「畑俊六日記」)

 こうした経緯があって参謀本部は松井中支那方面軍司令官の帰還を命令した。(続く)

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

 陳永富(男、69歳)の証言
 1937年の末に、日本軍が南京を占領した時に、私の家は江北へ避難しようと準備したのですが、長江が水面封鎖されて、渡る船が無かったので、行かないことになりました。戻ってくる途中で、鳳凰街を通り、ある屋敷の内庭に泊まりました。他にも知らない人たちが2、30人いてここで一緒に難をさけていました。ある日、私たちの内庭の隣の門を日本軍が打ち壊して入り込んで来たようで、門番の1人が打たれ続けているのが聞こえ、銃声も聞こえました。そして日本兵が5,6人私たちの内庭の門から突っ込んできて、私たち若い男子を5人門の外に追い出し、無理やりにひざまずかせたのですが、その5人の中に私の兄弟が3人いました。お隣のあの門番さんが、日本軍に殺され、血からまだ湯気が立っているのに続いて、日本軍が5人を殺そうとしたその時に、将校の1人が、日本軍に集まれと命令したので、私たち5人は一死を免れました。一緒にいた30何歳かの女性が1人強姦されました。
 それに一度、日本軍に野菜を担がされ、鳳凰西街から江東門まで4,5里くらい行ったことがあって、その道でいっぱいやられた同胞の屍を見たのですが、その中には国民党の兵隊も少しいました。日本軍に殺された者あり、焼き殺された者あり、あっちの道端にゴロゴロこっちのため池に折り重なったりで、見るも悲惨なありさまでした。日本軍の駐屯している所まで野菜を運んでいったら、紙切れ一枚に何か書いて判を押したのをくれて、帰っていいと言われました。
 日本軍が南京を占領してから一ヶ月余りして、鳳凰西街から芦席巷まで行ったら、私の家が3軒とも日本軍に焼かれてしまっていました。しかも芦席巷43号の地下の穴に日本軍に殺された7,8人の屍がありましたが、そのうち3人が近所の人や隣の人でした。20歳余りで革靴をつくっていた周家保に、30歳余りで家で商売していた龍花子に、30歳余りでロバを殺すのが仕事の沈延寿でした。(肖仲煌と左紀文が記録)



 「Imagine9」【合同出版】より



考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。



日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
 2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。

 また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
 そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月12日木曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の終焉
戦略的に誤りだった南京攻略戦
 陸軍中央における拡大派の急先鋒であった武藤章参謀本部作戦課長は、中国一撃論を主張し、「南京をやったら敵は参る」と言いきった。そして武藤ら参謀本部の拡大派が出向して中支那方面軍司令部の中枢を占めた。上海派遣軍司令官に予備役から抜擢された松井石根大将は、南京を落とせば国民政府は屈服すると考え、東京を発つ時から、「南京を攻略せば(蒋介石は)下野すべし」と、南京占領の意図を公言してはばからなかった。
 南京攻略戦はもともと参謀本部の作戦計画になかったものを、中支那方面軍司令部と参謀本部の下村定第一部長らの拡大派とが策応して強行し、それを昭和天皇が追認、近衛内閣の追随し、さらにマスメディアが、南京を攻略すれば中国は容易に屈服して戦争は勝利するかのような安易な期待感を流布した。日本国民は、「南京に日章旗が翻る時」が戦争終結であるかのように報道する新聞記事に熱狂し、南京占領を「勝った!勝った!」と国を挙げて祝賀行事を展開した。
 しかし、南京陥落後も蒋介石は下野せず、国民政府は屈服しなかった。中国は武漢(漢口と武昌よりなる)に事実上の首都機能を移転させ、中国軍民の抗戦継続の意志に支えられて、国民党と共産党の合作はかつてなく強化され、第三勢力と言われた民主諸党派も結集し、武漢は南京に代わって抗戦中国の強力な「首都」の役割を果たした。
 ここに、武藤章や松井石根らの中国一撃論は完全に失敗したのだった。38年1月15日の大本営政府連絡会議(大本営と内閣が連席して重要な戦争政策を決定する会議)において、国民政府との和平交渉(トラウトマン工作)の最終打ち切りを決定し、翌16日に近衛首相が「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という蒋介石国民政府を否定する政府声明を発表したことは、南京攻略戦の政略的な失敗を日本の政府と軍中央が自ら認めたかたちになった。首都南京を落としても中国は屈服しなかったから、中国が屈服するまで戦争を拡大・継続していくという決定をしたのである。この政府と軍中央の決定は、日本国民を長期日中全面戦争の泥沼に引きずり込んでいく決定的な契機となった。
 この決定に際しては、参謀本部とりわけ不拡大派の多田駿参謀本部次長らが強く反対した。蒋介石政府否認後にくる長期泥沼戦争への突入を回避しようとした彼らは、最後は昭和天皇の「御裁断」を仰いで和平交渉打ち切りの阻止を図ったが、天皇はそれに応ぜず、交渉打ち切りに加担したのである。


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

劉修栄(男、63歳)の証言
 1937年には、私は16歳で、一家4人(父と兄と弟と私)が、江東門の街から一里ほど離れた所に住んでいました。その頃私たちは情勢が緊張しているは知っていましたが、こんなに早く日本軍がやってくるとは思いませんでしたし、家で飼っていた豚何頭かを無くしてしまうのももったいなくて、難民区には行きませんでした。冬月の9日に、雨花台が緊迫してきたので、私たちは長江の岸辺に駆けつけましたが、渡れなかったので、引き返して来て水関橋に隠れ、そこに住まうことにしました。
 冬月11日に、まだ夜が明けないうちに、突然日本兵が数人私と兄が住まっている家に跳び込んできて、布団の中を銃剣でやたらに突き刺しました。私の小さなお腹に2度当たりましたが、布団越しだったので、傷は割りに浅くすみましたが、傷痕は今でもまだあります。私がその時突き刺されて泣き出したために、兄が助けに来ようとして、直ちに日本兵に捕まってしまい、門まで引きずられて、銃剣で何度も突き刺され、こめかみにも一発撃ち込まれて、その場で撃ち殺されました。何日かしてから、父が兄の死体を埋めてくれました。
 日本兵は江東門でいっぱい殺しました。2日後に、日本兵が国民党軍の捕虜を陸軍監獄(私の家のすぐ近く)から大茶亭までの間2キロぐらいの所に集めて、銃剣で刺すやら、機関銃で掃射するやらして、一日中殺しまくり、死体がうずたかくなったのを、私は見ましたが、ほんのわずかな人しか九死に一生を得られませんでした。それに又、前に日本の飛行機に爆撃されて壊れた江東門の古い橋が、日本軍によって中国人平民の死体を積み重ね、上に木の板を敷き、それを橋にして歩くようにされたのを見ました。
 暖かくなって雪が溶けた頃、江東門一帯は真っ赤な血の池となり、ぞうっと背筋が寒くなったのでした。(呉伝銘、劉興林、何煉生らが記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。



「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月11日水曜日

南京大虐殺

「南京の真実」と「南京事件の日々」という2冊の書物を約3ヶ月間引用させていただいた。ラーベとヴォートリンの日記を通して、難民区の生活がおぼろげながら分かったのではないかと思う。日本軍が上海での戦いで苦戦し、多くの犠牲を出しながらも、何とか勝利すると、今度は軍の独断専行でその当時の中国の首都南京まで攻め込む。
 この日中戦争の大義名分があいまいで、支那膺懲(中国を戦力でこらしめる)であった。宣戦布告もなかった。勝手に日本が中国を侵略していて、第二次上海事変が起きると、軍を増派して上海に送った。それも士気の弱い中年が多かった。上海で、犠牲者が続出する中、勝利すると今度は南京へ。犠牲者が出た分、敵愾心も強くなった。南京一番乗りを競って、各軍が競争となり、食糧などは現地調達であった。村々は略奪され、野営に使われた。村民は、男性は荷物を運ばされたあと殺されたり、又は集められて殺されたり、女性は強姦されたりした。敗残兵は捕虜として大事に取り扱われるわけではなく、軍刀の露になることが多かった。南京までの道のりでもいろいろな残虐行為が繰り返された。
 南京が12月12日深夜陥落すると、翌日から掃蕩作戦を開始し、敗残兵を河べりや池の近くに集め機銃掃射して殺すことが多かった。日本軍はあらかじめこの作戦を海外に知られないよう、揚子江に停泊していて、外国人記者が無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パナイ号を撃沈していた。
 ラーベはナチの党員であるが、難民区に逃れてきた難民をアメリカ人宣教師などと一緒になって救おうと尽力した。時にはハーケンクロイツを日本兵の前にかざして大声を出して追っ払ったり、寝る間も惜しんで難民のために日本軍の前に立ちはだかった。帰国後、南京での日本軍の残虐な行為を、何とかヒトラー総統に知ってもらおうと上申書を書くが逆にゲシュタポに逮捕されてしまう。
 戦中、ラーベは、心酔していたヒトラーがやっていたことを知ったとき、彼の失望はどれほどのものであったのか?想像するもの難しい!
 正しいと信じていた人に裏切られた時のショックは相当のものだろう。
 南京での輝かしい活躍が一瞬にして消えたのかもしれない。この話も、人生の不可解さを物語る。

 一方、ヴォートリンも金陵女子文理学院で難民の世話に奔走した。まねのできるものではない。体を張って特に若い女性を守ろうとした。でも12月の日本軍の残虐行為が余りにも恐怖を彼女に与えたので、そのことがトラウマになったようだ。自分が難民を救うことができなかったといって、自殺するとは。何と責任感の強い人だ!なんとこの世の中は不条理なのだろうか?

 もちろん、残虐行為を行った日本兵も、中国での自分のしたことがトラウマになって、戦後帰国しても夜に眠れなかったり、わめいたりしたりした人も多くいたようだ。
 
 だが、裁かれて、死刑になったのはほんのわずかな人たちであり、ほとんどの兵士はやったことを後世に伝えずだんまりを決め込んだ。
 もちろん戦友会の圧力や上からの命令もあったのではないかと思う。又、大日本帝国は降伏直後、大量の関係書類を焼却し、証拠隠滅を図った。当たり前のことだが!!

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

張従貴(男、79歳)の証言
 1937年の冬月に、日本軍が南京を占領しました。その時私の家は宝塔山でしたが、日本人は殺そうと思う者を殺し、斬ろうと思う者を斬って、、私たちを死地に追い詰めたので、余所の地に逃げるしかありませんでした。江東門を通って江東門橋の上まで来たときに、橋のそばの葦ず張りの小屋から、実弾入りの銃を担いだ日本軍が何人か出てきました。彼らは有無を言わせずに、私たち一緒に歩いただけで誰も知らない9人を捕まえ、手まね足まねで、私たちにわらを運ばせたり、床を敷かせたり、飯を炊かせたりなどの雑事をやらせました。私たちは怒りを押さえじっと我慢して、何でも言われるままにせざるを得ませんでした。日本軍が晩飯を食べ終わったら、もう暗くなっていましたが、私たち9人を鉄条網で囲んだ運動場の中に行かせ、みんなひざまずかせました。両側に1人ずつ日本軍が立って、私たちを逃げないようにしました。別の日本軍9人が、それぞれ剣をつけた小銃を一挺ずつ持って、私たちめがけて突いて来ました。最初の一突きが腰に来ましたが、とても寒くて、長い綿入れを着ていたので、腰の肉までは刺さりませんでした。2突き目が首に刺さり、たちまち真っ赤の血が流れ出ました。あっという間もなく、出血が多すぎて、私は昏倒してしまい、何も分からなくなり、日本軍も私が死んだと思ったようです。真夜中になって、私は意識を取り戻したので、月明かりで見ると、他の8人があっちに3人こっちに2人と倒れていて、周りは血だらけでした。じいっと耳を澄ましても、何の物音も聞こえないので、多分日本軍はみんな眠ったのだろうと見当をつけて、重たい体を引きずって、鉄条網の前まで這って行き、鉄条網から転がり出ましたら、溝の中に落っこちました。それからまた傷の痛みを我慢して、一里余り這って行き、お墓のあるところでしばらく休みましたが、周りにわらの灰があるのを見かけたので、それを少しつまんで地面に敷き、横たわりました。傷が痛くて、全く眠れずに、夜が明けるまで一睡もせず、難民が何人かそこを通ったので、その人たちの後について行きました。私の体に血がついているために、その人たちは巻き添えを食うのを恐れて、私について行かせませんでした。毛公渡まで来て、妻の父が遠くないことから、その家にたどり着きました。岳父が剥いだばかりの鶏の皮を傷口に貼ってくれて、傷がだんだんよくなりました。こうして命拾いをし、生き残ってこれたのです。(肖仲煌と尹長風が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)

・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)

・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)

・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)

・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月10日火曜日

その後のヴォートリン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー

 侵略戦争の犠牲になった中国女性の救済と教育への献身に疲れ果てていた彼女が味わった失望感はあまりにも強烈であった。上海から南京に戻ったヴォートリンは、極度の疲労感と無力感に襲われ、3週間も日記を書くことができなかった。1940年3月30日に、日本の占領工作に従った汪兆銘が国民政府(傀儡)の成立を南京で宣言したことが、ヴォートリンの抑鬱状態に追い打ちをかけた。日本軍占領下の金陵女学院と南京で、彼女が必死になって築き上げてきた努力が無に帰していく思いに陥ったのである。
 それから半年後、ヴォートリンは4月14日の日記に「私の気力はもう消滅しそうだ。私はもうこれ以上前に進むことはできないし、仕事の計画を立てることもできない。あらゆる方法に必ずなんらかの障害が立ちはだかっているように思える」と書いたのを最後に、日記が書けなくなったのである。
 それ以後ヴォートリンの抑鬱状態はさらに深刻になり、「自分の中国伝道は失敗した」「私は精神病にかかっているようだ」「生きているのが辛いからいっそ死んでしまいたい」と周囲にもらすようになった。
 ここにいたって関係者はヴォートリンをアメリカに帰国させ、精神病療養施設で治療させることにして、5月14日、金陵女学院の親友の教師キャサリン・サザランドとジョン・マギー牧師が付き添ってアメリカに帰国させた。この時汽船から一度飛び込み自殺を図ろうとしている。アイダホ州の精神病院で検査をした結果、彼女は重いうつ病にかかっていると診断され、精神療養施設で長期の療養を受けることになった。その後症状が回復したのでテキサス州の静かな町で静養生活をおくらせていたところ、1941年2月、睡眠薬自殺を図ったのである。幸い未遂に終わったのでインディアナ州の精神病院に入院させ治療をほどこした。再び症状が回復、社会復帰を目指して金陵女学院理事会の仕事を手伝わせるまでになっていたが、同年5月14日、インディアナポリスのあった連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所で突然ガス自殺を図り、自らの生命を絶ってしまったのである。享年55歳だった。
 「私の中国での伝道は不成功に終わった」「不治の精神病に苦しむよりは死ぬほうがまだ楽です」という走り書きの遺書が残されていた。

・・・・・・・・以上で「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)からの引用は終了です。・・・・・・
      
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

劉世海(男、73歳)の証言
 民国25年(1936年)に、私は国民党の第5軍に入りました。翌年上海へ赴いて日本軍と戦いましたが、やがて退却して南京に来ました。民国26年12月に、日本軍が南京に迫り、私は雨花台で2,3日戦闘しましたが、部隊が瓦解してしまいました。私たちは下関まで駆けて行って、長江を渡って行きたかったのですが、船がなくて渡れませんでした。
 私は安徽の者でしたから、安徽(あんき)へ逃げようとする一団に加わりました。私たち一行は50人足らずで、三汊河から江東門まで来て、蕪湖の方向へ行くことにしていました。道には屍がいっぱい敷き詰められているようでしたが、ある電柱には屍が7つか8つかかっていて、それがみんな針金を鎖骨に通して1つにつなげてあり、男もあれば女もあり、子どものまでありました。さらに行け行くほど、死者は多くなってきました。
 江東門まで来たら、模範監獄の門の前で、一隊の日本兵に差し止められました。私たちは白旗を掲げて日本兵に見せ、「我々は投降した兵士たちだ」と言いました。日本兵は有無を言わさず、私たちを強引に監獄の東側の野菜畑まで駆り立て、一列に並べと命令しましたが、周りには日本兵5,60人いて、そのうちの十数人が軍刀を引っさげ、その他はみんな銃に剣を着けていました。と、不意に日本兵が周りから一斉に跳びかかって来て、軍刀や銃剣やらで滅多斬りに滅多つきをくりかえし、私は首に一太刀やられました。私が覚えているのはただ、日本兵が軍刀を振りかざして斬りかかってくる恐ろしい姿だけで、あとは何も分かりませんでした。
 意識を取り戻した時は、既に暗くなっていて、死んだ人2人に押し付けられていたのですが、力を入れて押しのけ立ち上がりました。幸いに傷が余り深くなく、血はもう止まっていました。まだ、明るくないうちに、急いでその野菜畑を離れ、半里ほど歩いたところで防空壕を見かけたので、その壕に隠れました。夜が明けると、日本兵が又やってきて、日本語でひとしきり大声をあげていましたが、「出て来い」とでも叫んでいたのでしょう。壕の中が暗くて、何も見えなかったので、日本兵はしばらくわめいただけで行ってしまいました。
 遭難したのは、冬月の14日か15日でした。同行した50人足らずのうちで、私だけが生き残りました。今も首に刀のあとが10ミリほど残っています。(段月萍が記録)



 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)

・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)

・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)

・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)

・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月9日月曜日

その後のヴォートリン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
1939年2月以降からは、日記の記述が極端に少なくなり、タイプミスも目立って多くなってゆく。ヴォートリンの鬱症状が徐々に悪化していく経過が日記の記述からも見て取れるようになる。
 1939年3月末、家庭工芸クラスの半年の教育課程が終了した。生徒たちは、金陵女学院内外の関係者を招待して卒業作品展示即売会を開催、ヴォートリンら教職員に対しては自分たちで料理と手作りの菓子を用意して謝恩会を開いた。100名の生徒のうち53人が、家政の知識と技術ならびに職業技術を実際の社会に出て役立てるために、金陵女学院の校門から巣立って行った。ヴォートリンの夢の実現であり、新中国の建設を予知させる希望でもあった。
 ヴォートリンはさらなる夢であった農村女子教育クラスの開校を計画し、1940年秋の実現を目指して準備を開始しようとした。1939年夏、ヴォートリンが所属する連合キリスト教伝道団は、彼女の疲労を考慮してアメリカへの帰国と休暇を勧めたが、彼女は固辞した。貧困に苦しむ中国女性を救済し、教育することが夢であり、また天職と信じていたヴォートリンには、現在日本の侵略戦争の悲惨な犠牲になっている南京の婦女子を見捨ててアメリカに帰ることはできなかったのである。しかし、その夢と使命感に執着するがゆえに彼女の疲労と倦怠もしだいに深刻になっていった。
 1939年9月、ヨーロッパ大戦が勃発して、ドイツ、イタリアの大攻勢が続き、勢いづいた日本が中国侵略をさらに拡大させ、戦争の惨禍がさらに世界に広がったことは、ヴォートリンをいよいよ絶望的にさせた。
 南京事件から2年目の1939年12月中旬が巡ってきたとき、ヴォートリンは12月8日の日記に「2年前の今夜、私たちは南京市内を砲撃する大砲の音をはじめて聞いた」と記し、12月11日の日記に「今晩は死ぬほど疲れた、この1週間どうやっていけるかわからない」と書いたきり、21日まで日記を書いていない。2年前の南京事件の日々のトラウマが彼女を抑鬱状態に陥らせたものと思われる。
 1940年になるとヴォートリンの日記の記述はさらに目立って少なくなる。そして、彼女の抑鬱症状の引き金となったのが、同年3月上旬の上海での体験であった。キリスト教宗教教育者の大会に出席したヴォートリンは、上海の街で、豪華で享楽的な生活を楽しんでいる多くの中国女性の姿を見て、気持ちが錯乱するような衝撃を受けたのである。侵略戦争に苦しむ中国の運命に対して全く無関心のごとく、きらびやかな衣装を着て、ショッピングや映画を楽しむ若い中国人女性たちを、ヴォートリンは正視することができなかった。
      
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

梁玉山(男、82歳)の証言
 1937年の冬私は鳳凰街8号に住んでいましたが、日本の侵略軍が南京を占領する前に、冬月の3日に六合に避難しました。1月の5日に、南京に戻ってきて、従弟の王金栄のところに身を寄せました。彼は徳士古の石油スタンドで倉庫の番人をしていて、いなくなってなかったのです。1月6日の午後、私は城外の徳士古石油スタンドに行ったのですが、その道で漢中門を通った時、漢中門の石城橋の東側に、日本軍に虐殺された屍がうずたかく三つの山になっていて、ざっと3000体ほどあるのを、この眼で見ました。後に中国紅十字会が屍を片付けるのに、小舟で二道挭子まで運び、そこに穴を掘って埋葬しました。明くる年に二道挭子へ行ってみましたら、やはり土がうずたかくなっていて、周りにぐるっと柳が植わっていました。
 1月13日に良民証がもらえてから、おばが私の子ども3人と他の家の8人との11人を面倒みていて、大廠鎮の王金栄の奥さんのお母さんの家に厄介になっていたのですが、私は安心いかなくて、様子を見に出かけました。下関から小舟に乗り長江を渡ったのですが、下関の七里洲で浮桟橋が1つ爆沈せられて、あたりの水が真っ赤に染まっているのを見かけました。屍がみんな水に浸かっていて何とその数の多いこと!日本軍は南京で焼き殺し強姦し、なさざる悪事はなかったのです。山西路から漢中門までの難民区では、しょっちゅう数知れぬ青年が日本軍に捕まり処刑されたり労役につかせられたりしていたのです。(井升安と丁亜慶が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)

・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)

・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)

・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)

・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月8日日曜日

その後のヴォートリン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
 1938年の夏、ヴォートリンは、金陵女学院に安全区撤廃後も保護収容した800人余りの若い婦女子の難民にたいする夏期学校を開いた。南京事件で夫を殺された若い寡婦、父親を殺害され、あるいは一家離散して身寄りのなくなった娘や少女たちが、これから自分たちで生きていくためには、文字が読め、計算ができ、手に職を持つ必要があった。そのために、識字教育から始まって、職業技術教育、結婚生活に備えての家政教育、衛生看護教育等も受けさせる必要があった。これらはすべてヴォートリンのこれまでのセツルメント的な隣保学校の教育で実践されてきたものであった。
 1938年の9月には、金陵女学院に正式な家庭工芸クラスと中学実験クラスを開設し、広く南京市内の貧困家庭の婦女子へも開放した。前者では、女性に、裁縫、料理、菜園づくり、家畜飼育、などを教えるだけでなく、紡績、紡織、衣服の仕立てなどの職業技術の訓練指導も行った。後者では、貧困家庭の女子を入学させて、基礎的な中学校教科を教えるとともに、生活教育、労働教育、奉仕活動教育、宗教教育にも力を入れた。
 ヴォートリンはこのような教育を天職と考えていたので、ある意味で教育者としての彼女の夢が実現したともいえるが、そのために彼女が直面した現実の障害と困難はもっと大きかった。金陵女学院に難民として収容した婦女子の生活費は南京国際救済委員会から支給されたが、教育費は最初からの約束により一切援助されなかった。家庭工芸クラスの生徒100名、中学実験クラスの生徒170余名からは、授業料、学費の徴収はほとんどできなかったので、学校経費の調達にヴォートリンは頭を悩ました。南京にとどまった金陵女学院の約10名の教職員と、家庭工芸クラスと中学実験クラスの授業を担当してくれる教師たちも、奉仕的活動には限度があり、彼らの生活を維持するに足りる給料を支払ってやる必要があった。こうした教育経費確保のための責任もヴォートリンの肩にかかっていたのである。
 一方、南京に中華民国維新政府を樹立させ、南京市政府公署を組織させて、占領地行政を開始した日本当局からの政治圧力も、ヴォートリンを悩ませた。南京に駐在する日本の軍政当局の関係者がくりかえし金陵女学院を視察に訪れ、傀儡政府の学校制度に従うことや同政府の発行する教科書を使用することなどを要求したのである。
 教育者としての夢を実現するにあたって、ヴォートリンが突き当たった困難と障害は、彼女を疲労させた。何よりも彼女の心が傷ついたのは、日本軍が次々と中国の大都市を爆撃、破壊し、戦火を拡大していくニュースに接した時だった。ヴォートリンが中国で実現しようとした夢を、日本軍が1つ1つ破壊していくように思えたのである。日本軍侵攻のニュースは、南京事件の日々に目撃し体験した惨状を想起させ、ヴォートリンが受けたトラウマを少しずつ悪化させていくことになった。
 1938年12月中旬になると、1年前の南京事件の日々の記憶がヴォートリンに恐怖と悲しみの思いを新たにさせ、いっそう彼女を沈うつにさせた。日記にこう書いている。
「ちょうど1年前の砲火と砲撃を思い出して悲痛な思いに駆られる」(12月10日)、「今晩、私たちの心は悲しみに沈んでいる。ちょうど1年前の、銃と銃剣にさらされた恐怖が今日あらためて蘇ってくる」(12月12日)、「昨年のまさにこの日、何千人、さらに何千人と殺された人たちのために、とくに追悼式をしてやるべきではなかったろうか」(12月13日)、「ちょうど1年前の今晩、金曜日、この時間に私たちは非常な恐怖に駆られながら正門に立っていた。その時は私たちは知らなかったが、私たちの難民収容所の12人の若い女性がキャンパスから拉致されていったのだ。あの夜は一生忘れることができない」(12月16日)、「昨年、私たちが最も恐ろしい体験をした日の一周年である」(12月17日)。
 ヴォートリンは1日1日、そして一刻ごとに1年前の残虐と恐怖の体験をありありと想起しては、トラウマを深めていたのである。
     
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

高秀琴(女、64歳)の証言
 1937年には、私は17歳で、父について漢中門外で芦のむしろを編んだり、芦のたきぎを売ったりして、暮らしていました。日本兵が入ってくる前から、難民区へ行っている人もいました。私の家はお金が無かったので、外にもたくさんいた貧乏人と同じように、まだ家に留まっていました。
 日本軍が南京を占領してからは、しょっちゅう食べるものを捜しに城外の私たちの住んでいるところにやってきて、豚や鶏を見つけてはつかまえて行きました。私たちは自分で掘った地下の洞窟に身を潜め、地上で鶏が跳んだり犬が鳴いたりしているのや雑然とした革靴の物音がはっきり聞こえていました。
 ある日、私が城内へ行ったら、日本兵が手にたこのできている人たちを捕まえてトラック8,9台に載せ、漢中門の埠頭まで引っ張っていき機銃掃射で死なせました。午前9時か10時頃から午後の2時くらいまで、漢中門埠頭から聞こえてくる銃声がずっと鳴り続けていました。銃声が止んでから、私たち仲間でその所まで走って行き、死体で埠頭が埋まっているのをこの眼で見たのですが、何とも見るに耐えない惨状でした。だいぶたってから、やっと紅卍字会の淘煉廠の近くに大きな穴を2つ掘って、屍を埋めました。
 ある日の午前中に、私は5,60歳のお婆さん3人と、漢中門へ行って家へ帰って食べる味噌を担いでこようとしました。帰ってくるときに、城門まで来たら、歩哨に立っていた日本兵に差し止められて、私たちの担いでいる味噌を食べさせろと言われました。その味噌が良くないものと分かったら、もうほしがりませんでした。私はその時、頭にボロの頭巾をかぶり、顔は汚く塗りたくって、うんと見がたいかっこうをしていました。私たちが行こうとしたら、日本軍が突然私の頭巾を引っぱがして、こいつは若い娘だと言うので、そうじゃないと私は言いました。二の句を継がせずに、彼らは私を引きずって兵舎の方へ走って行きました。その道でちょうど馬に乗った将校2人と出くわし、兵隊は立ち止まって敬礼し、将校が問いかけるのに答えました。その隙に私は逃げ出しました。遠くまで逃げないうちに、兵隊が私に3発撃ったのですが、その一発が私の左腕に当たりました。家に帰ったら、手が血だらけで、紅く腫れてきました。だいぶたってよくなりましたが、今でも幅2ミリくらい、長さ5ミリほどの傷痕があります。(陸家○が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)



・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)



・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)



・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)



・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月7日土曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 5月30日、31日の両日に、約300人の難民が金陵女学院のキャンパスを出た。難民たちは、6ヶ月にわたる保護と安全を与えてくれたことを感謝し、お礼を述べ、そして手荷物をいっぱいに抱えて正門を出て行き、人力車に乗って去って行った。見送るヴォートリンは、金陵女学院の卒業式をしているような錯覚におちいった。
 30日の午後、金陵女学院の難民収容施設で働いたスタッフを南山公寓に集めて「感謝パーティ」を開き、一同この間の労を互いにねぎらい合い、終わりに全員で記念撮影をした。
 31日には残っていた難民収容所6ヶ所が閉鎖され、この日限りで粥場も閉鎖され、6ヶ月にわたる南京国際安全区の役割に終止符が打たれた。翌6月1日には金陵女学院の礼拝堂で国際救済委員会主催の式典が開かれた。安全区国際委員会、国際救済委員会ならびに26ヶ所の難民キャンプの活動に奉仕した人々450名が招待され、それぞれの責任者、代表者にたいして感謝状が贈られた。
 こうして南京事件の舞台の1つとなった南京難民区の歴史は幕を閉じたが、金陵女学院には、親や夫を日本軍に殺害されたり、拉致されたりして、生活するあてのない若い女性たち約800名が、難民として継続して収容されることになった。ヴォートリンにとって、南京事件が残した悲劇との新しい格闘が始まったのである。しかし、その闘いのなかで彼女自身の心もしだいに疲れ、傷ついていくことになる。
 出口のない、終結の見通しのない戦争犠牲者の悲劇に毎日直面し続けているヴォートリンの日記に疲れと悲観に沈む抑うつ心理が記述されるようになるのはこの五月ごろからである。
 5月 4日ー私は疲れていて、私の精神的機能が低下しているのを自覚する。
 5月28日ー日本軍の爆撃機が編隊を組んで上空を飛んでいくのを見るたびに、私の気持ちは沈んでいきます。それは自分への恐怖と言うのではなく、爆撃で苦しめられる民衆が哀れに思えるからです。
 5月31日ー(金陵女学院のスタッフの慰労パーティとゲームが終わったあとで)若い人たちのために私たちは普段と変わらぬ態度で生活しなければならない。しかし、今日爆撃された戦場や都市のことを思い続けている私には、笑うことも陽気になることも難しい。


    
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

孫伝遠(男、81歳)の証言
 1937年には家は中正街の駅のところで、小さな商売をして生活していました。1937年12月20日ごろに、わが家は難民区に避難し、金陵大学の中に住まいました。ある日、日本兵が難民区にやってきて、みんなに登録させました。私が登録する番になった時、日本軍は頭に帽子のあとがついているのを見て、私が兵隊だと言い張って聴かず、手元の鉄棒で頭を2度打ちました。私はどうも思わしくないと見て取り、脚を引きずって歩く振りをしましたら、日本兵は私を障害者と見て、もう構わなくなりました。あくる日、私と孔さんという人と一緒に米を探しに出かけ、その頃の司法院の門まで来たら、その人が私を門の脇で待たせて、先に見に入って行きましたが、入ってすぐ、日本兵に捕まってしまいました。私が門の脇で出てくるのを待っていた時、孔さんを入れて全部で39人が、みんな針金でつながれていました。何人かの日本兵がその人たちを漢中門外の芦席街に連れて行き、銃で撃ち殺しました。これは私がこの目で見たことです。私はずっと遠くからみんなの後について漢中門外まで行ったのですから。(高学奎が記録)

夏洪芝(男、80歳)の証言
 日本軍が南京を占領して大虐殺をやった時、私たちは上海路の難民区にいました。日本兵がよくそこに人を捕まえにやってきました。ある日、日本軍が私の家に闖入してきて、いとこの夏洪才を捕まえ、その頭から帽子をつまんで、自動車に結わえつけました。この時捕まったのはトラック2台分でしたが、日本軍はこのトラック2台の人たちを漢西門外に引っ張っていきました。漢西門外には、長さが2丈余りで、深さが人間1人の背丈よりもっとある、溝があって、引っ張られて行った人たちはみんな日本軍にそこに押し入れられて機関銃で掃射され、死んだ人たちで溝がいっぱいに埋まったのですが、夏洪才はその中で死んだのです。小さい時から私と一緒に南京へやってきて、小さな車をひいて生活を維持していたのに、それが日本軍の銃剣で死んでしまったのです。これを思い出すと、今なお堪えられない思いになります。(江佩華、○毓英、戚秀英、胡成鋳が記録)

 
 「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界

「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月6日金曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 夕暮が延びた下旬の午後、メリー・トゥワイネンと連れ立って金陵女学院から西へ城壁まで歩いてみたヴォートリンは、途中の田園地帯の畑が、9割がた放置され、耕作されていないのを観察する。畑で仕事をしている農夫を見たのは全部で6人だけだった。例年ならば麦畑や野菜畑が美しく広がる田園地帯は、雑草に覆われて荒れたままになっていた。農夫の1人は、畑で働くのは困難である、もしも日本兵が通れば、必ず何かを要求したし、作物を掘らせるだけでなく、それを彼らのところまで運ばせる、と言った。同地域で3人の女性を見たが、そのうちの2人は落穂拾いにきていた。彼女たちは自分の家に数時間帰ってくるだけで、すぐに安全区へ戻るのだと言った。女性は危険でこの地域では生活できないと農夫全員が言った。南京城内はもちろん、周囲の農村で、農民たちが農作物を生産できないでいることは、南京市民の食料不足の危機が当分続くことを意味した。
 話を5月に戻すと、国際救済委員会が決定した5月31日の安全区撤廃の日が近づくと、ヴォートリンらはその対応に迫られた。最高時は26ヶ所の難民収容所に約7万人も収容されていた難民も、その頃には6ヶ所の難民収容所に約7千人へと減少していた。金陵女学院に残っている千名余の難民について、ヴォートリンらは以下のように区分して、彼女たちのその後の生活を選択させ、自活が困難な若い女性はそのまま残留を認めることにした。
 (1)家も両親もいない若い女性ー32名、(2)家も両親も親戚もいない若い女性ー672名、(3)家がなく大変貧しい若い女性ー237名、(4)家がなく、かつ危険な地域に住んでいる若い女性ー127名、(5)家のない寡婦ー16名、(6)身障者ー7名。
 いっぽう、国際救済委員会では30歳以上の貧困な寡婦を大方巷の施設で保護し、30歳以下で、貧困な者、危険な地域に住んでいて、他に生活手段のない若い女性は金陵女学院で継続して保護収容し、同委員会から生活費を支給することを決定した。
  
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

孫文慶(男、77歳)の証言
 1937年には私の家は漢中門外の西路菜場40号あたりで、12月末から1938年の1月にかけて、私は日本軍が漢中門一帯で中国人をほしいままに虐殺したのをこの目で見ました。一度私が張文美という人と漢中門を歩いていたら、日本兵3人に見つかって、私たち2人は競争で走らされました。電信柱3,4本ほど走った時に、私は脚が悪くて、張さんの方が私より早かったのですが、その時日本兵が一発で張さんを撃ち殺し、張さんが両手でお腹をかかえて地に倒れ死んで行くのを私は見たのです。それから5,6日ほど過ぎたある日の午前、漢中門の城門の外で、私がこの目で見たのですが、日本兵が城内からトラックに乗せて来た2000人余りほどの難民を、降ろしてから、機関銃で掃射し、少しばかりのまだ死んでいない難民には、もう一発撃っていましたが、何人か死なずに逃げ出したのも見かけました。
 1938年1月初めのある日の午前中、私が清涼山に近い河辺の小舟で仕事をしていると、突然城壁の銃眼から弾が一発飛んで来て、船のすぐ前の水に落ち、もうちょっとで撃ち殺されるところでした。
 その又あくる日の朝、私がちょうど家を出たときに、突然どこからか又弾が一発飛んで来て、私の頭の上を飛び越し、お隣の華お婆さんの頭に当たり、華お婆さんはその場で死んでしまいました。それにもう一度、1938年の1月11日ごろに、やはり漢中門で、私は5,6人の日本兵に捕まってしまい、外にも私の知らない人々が何人もいて、日本軍がどこから捕まえてきたのか分からなかったのですが、その人たちと私とは日本兵の運び屋をやらされ、彼らがかっぱらって来た鶏や豚や野菜などを、担がせられて彼らについて行かされたのです。と同時に、その道で日本人が何人もの婦女を強姦するのを目にしたのです。
 1938年1月の終わりごろ、私は隣の謝金如が漢中門で日本兵に捕まり、その近く一帯で若いきれいな女を捜すのに道案内させられたのですが、そういう女の子が見つからなかったので、その場で銃殺されたのを見かけました。それとある日の午後、石頭城の近くで、私が便所に入っていた時に、日本軍が1人城壁の上から私を狙って撃った弾が、すぐ脇1メートルのところに落ち、もうちょっとで射殺されるところでした。この時期に、岳父が日本軍に射殺され、妻の母が死人のうずたかく積まれた中から屍を探し出して、むしろで巻いて埋めたのです。岳父が日本軍に撃ち殺された詳しい様子ははっきりは覚えていません。(呉大興と章歩錦が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界

みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月5日木曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 6月上旬、1人の年老いた農婦が、農村地帯からはるばるとヴォートリンに会いにやってきた。昨年末の城内の男性登録のさいに2人の息子が連行されたままなので、探し出すのを援助してほしいと言うのだった。その老農婦婦が、あの時連行された男性の中で戻ってきた者がいるかどうかを尋ねたので、ヴォートリンはそれは聞いていないし、おそらく彼らは戻ってこないだろうと答えた。この言葉を聞いた老農婦は絶望してその場に泣き崩れてしまい、「あなたが、息子たちが連行されるのを止めてくれればよかったのに」とヴォートリンを責めるのだった。
 5月になっても日本兵の蛮行は相変わらず続いていた。2日の夕方、金陵女学院の門からそれほど遠くない場所で、1人の若い女性が日本兵に拉致された。その場所はヴォートリンがちょうど15分前に通ったばかりだったので、彼女は残念でならなかった。
 9日の夜10時ごろ、三牌楼に住んでいた劉おばさん(50歳)の家に2人の兵士がやってきて、家の中に2人の嫁がいるのを見つけて、中に入れろと激しくドアをたたいた。劉おばさんが拒絶し、憲兵を呼びに行こうと外に出たところを、兵士たちは彼女の顔を銃剣で斬りつけ、さらに胸部を刺して逃亡した。重傷を負った劉おばさんはまもなくして死亡した。この話を聞いたヴォートリンは、「ほとんど毎日、私はこのような話を胸を痛めながら聞いている。人々がなんとも悲しそうにーいつまでこうした恐ろしい状態が続くのでしょうか?いつまで自分たちは耐えられるのだろうか?-と問うてくるのも当然である」と13日の日記に書いている。
 そんなヴォートリンにとっての朗報は、模範刑務所に捕らえられていた民間人の中で、元兵士でないことが証明された者の釈放がようやく可能となり、6月2日、嘆願署名を作成した婦人のうち、刑務所に夫がいることが確認された者は面会に来るようにとの連絡が入ったことである。そして翌日、30名の男性市民が模範刑務所から釈放され、妻子、家族のもとへ帰って行った。ヴォートリンは、1月から始めた釈放嘆願署名運動の成功を喜ぶと共に、結局は夫や夫婦が戻らなかった圧倒的多数の嘆願署名者の女性の失望を考えると、気持ちは複雑だった。金陵大学のスマイス教授の「南京地区における戦争被害ー1937年12月~1938年3月ー都市及び農村調査」では、拉致されたまま戻らず、殺害された可能性の大きい南京城内の市民は、約4200人と算出している。

 
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

趙玉英の証言
 日本軍が南京を占領した時、家は鳳凰東街でした。日本軍が南京人民にやったとてつもない犯罪行為を、私はこの目で見ました。日本軍が冬月の11日に入って来てから、家が日本兵に焼かれてしまったので、私たちは地下の洞窟に住むしかありませんでした。日本軍が南京を占領してから、何日かして難民区で捕まえてきた人たちを、漢中門の城門の所に連行して来て、機関銃で4時間以上も掃射した時、叫び声が天地を揺るがし、屍が地を覆いました。夏という人が土手を歩いていて、日本兵に一発で撃ち殺されたのを、この目で見たのです。その頃、私には1人いつも抱いている子どもがいて、病気をして治らず、泣き声が絶え間ないので、みんなが日本軍に聞きつけられるのを恐れて、息子を捨てさせようとしたのですが、私はあくまで頑張ってやっとこさで子どもに死を免れさせたのでした。
 ある日、私の家でご飯をお鍋で炊いて食べないでいたのですが、日本軍がその鍋に小便をした上、なおもわが家から何十円かを探し出し持って行ってしまいました。しょっちゅう婦女が日本軍に引きずられて行き、恐ろしくて私たちあっちこっちに隠れました。そのほか、私は日本軍が漢中門外で、40何人かを活きたままガソリンで焼き殺すのもこの目で見ました。それに学生が何人か殺されてから、醤油のかめに投げ込まれたのです。(陳詩国が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


 大事にする世界


 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月4日水曜日

1938年 南京 5月のヴォートリンの日記

この国の危うさ
・南京大虐殺の教科書記述が後退していること。
・戦争の反省を十分しないこと。あの戦争を美化する動きを規制しないこと。
・昭和天皇の戦争責任を棚上げにしていること。小澤代表を調べる前に昭和天皇の戦争責任について、東京地検は調べたらどうか?(聖域がないというのであれば!)
・日の丸・君が代を教育現場で強制していること。
・国防費に多額の予算を計上し、自衛隊を強化していること。海外にも積極的に自衛隊を派遣していること。ロケット開発にも熱心だ。今度は自衛隊員が宇宙飛行士になると言う。何か裏で動いているものはないか?
・クリーンエネルギーとして原子力発電を勧めていること。テレビでよく宣伝している。CO2を出さないとかで!核廃棄物はどうするんだ?自然に優しい風力とかではなく何で原爆が2つも落ちて核アレルギーになっている日本が原発の技術は世界最高レベルなのか?



「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月
 5月になると、南京の中国人にも比較的離れた地方との往来が可能になり、それに伴って、南京周辺地域で発生していた悲惨な被害の様相がヴォートリンにも伝えられるようななった。
 胡という男は、津浦線の沿線の40キロ以内の地域はほとんど破壊され、彼の家も破壊されて家族はみな離散してしまったと語り、若い妻と子どもがどこにいるかもわからず、心配でならないと嘆いていた。
 杜という使用人は、徐州の北西45キロにある実家を破壊され、義母は日本兵に首を斬りおとされて殺害され、妻と子どもと実母はどこかに逃げているはずだ、と何度も泣きながら悲劇を語った。
 また、この頃になると、日本軍の南京占領以前に家族のうち婦女子だけで近郊農村に避難して行った人たちが大勢南京に戻ってくるようになった。これらの家族には新たな悲劇が待ち受けていた。
 常婆さんは、娘とともにヴォートリンを訪れ、こう語った。彼女の53歳の息子は何年も結核を患っていて、妻も子どももいる。常婆さんのもう1人の33歳の息子が精米所で働き、月50元の賃金を得ていた。彼にも妻と4人の子どもがいる。9人の常家族がこの33歳の息子1人の稼ぎに頼って生活していた。この息子だけが仕事のために南京に残り、他の8人は長江北へ避難して数ヶ月を過ごした。持参したものをすべて使い尽くして南京に戻ってきたら、この息子が日本兵に殺害されていたのである。一家の生活を支えていた息子が殺害されてしまい、常家族の8人は、明日の糊口をしのぐのにも窮しているというのである。
 70歳の老人が9歳の孫を連れて、ヴォートリンを訪れ、こう語った。彼には30歳の盲目の嫁と3人の孫がいる。この老人の33歳の息子は、洋服屋で働いて月16元を稼いで5人の家族を養っていたが、12月13日に拉致され、消息不明のままであるというのである。
 下旬のある日、以前金陵女学院の難民収容所にいた婦人が、6歳の子どもを連れて、援助を求めてきた。その子どもは重い病気にかかっているのだが、病院に連れて行く金が無いのである。彼女には6人の子どもがいるが、夫は前年の12月に日本軍に連行されたままだった。「彼女はもしも夫が戻らなければ、どうして生活していったらいいのかわからないでいる。しかも夫は戻ることはないのだ」とヴォートリンは日記に記している。

   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

仲兆貴(男、73歳)と劉順和(男、57歳)の証言(1994年収録)
日本軍が南京を占領した時、私たち2人の家はニ道挭子で、漢中門のすぐ近くでした。1937年の12月15日の午後、日本軍が漢中門外で、2000人ぐらいをいくつかの集団に分けて機関銃で虐殺し、掃射してから又ガソリンで焼き殺しました。撃ち殺されなかった者は、銃殺され銃剣で突っつき殺されました。これは私たちが見たことなんです。(徐歩鰲と劉亜儀が記録)


徐歩鰲(男、66歳)の証言
 中国侵略日本軍が南京を占領した後、私は漢中門のすぐ近く、ニ道挭子の囲いの中に住んでいました。12月15日の午後、日本兵が漢中門外で中国人を機関銃で虐殺したのですが、暗くなるまでずうっとで、みんなで何千人も殺しました。後で又ガソリンをかけて、火をつけて焼いたり、死んでないのは又銃で撃ち殺したりしたのです。
 その他にも、ある日(詳しくは覚えていませんが)の晩、日本軍が捕まえてきた中国人を車で金華醤油廠まで引っ張ってきて、大きな保温用の「醤油池」の中で50人余りを殺し、中に漬け込んだのでした。ずうっとたってから、大きな鈎(かぎ)で醤油池から引き上げて、工場の中(今の木材工場の宿舎のところ)に埋めたのです。(劉亜儀が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


 大事にする世界


これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月3日火曜日

1938年 南京 4月のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
 春たけなわとなり、南京城の内外に散乱する死体の腐乱が激しく、病気の流行の原因ともなりかねなかったので、慈善団体を総動員しての埋葬作業が急ピッチで進められた。死体埋葬の状況について、ヴォートリンの日記は以下のように記している。

 2日ー今日、紅卍字会だけで、1月23日から3月19日までに32,104体の死体を埋葬し、そのうち3分の1は民間人の死体であったという報告が作成された。

 6日ー国際救済委員会は救済事業を推進している。200人の男性が紅卍字会の死体埋葬作業に雇われている。とくに農村地域においてはまだ死体が埋葬されないままになっている。

 15日ー紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた。ー彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになった時から、すなわち1月の中旬ごろから4月14日まで、紅卍字会は城内において1793体の死体を埋葬した。そのうち約80パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に39589体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約25パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちが極めてむごい殺害があったことを知っている下関、三汊河の地域は含まれていない。
 
 22日ー金陵大学の馬文煥(音訳)博士が訪ねてきた。彼と彼の家族は、およそ5ヶ月にわたって農村地域で避難生活を送ったが、強姦、殺害、放火、略奪が同地ですべて行われた。くわえて地方の警官が逃げた後では匪賊に苦しめられるというつらい、悲痛な体験をした。(中略)彼は、長江河岸に沿って膨大な数の死体が埋葬されない恐ろしい状態で現在も放置されたままであり、今でも多くの死体が長江を漂って流れていると、確証に基づく話をした。
 模範刑務所に捕らえられている民間人を、その家族を明らかにすることで、元兵士ではないことが証明できれば、釈放させられるのではないか、そう考えたヴォートリンはあらゆる可能な方法を追求した。ドイツ大使館のローゼン書記官には日本大使館へ働きかけてくれるように要請し、許伝音博士には上海の日本軍上級機関に請願書を送付してもらい、南京市政公署の仕事をしている信頼できる中国人には、同公署の幹部が民間人の釈放のために動いてくれるよう懇願する手紙を書いたりした。
 そんなヴォートリンを、神戸のミッションスクールを卒業し、妻がクリスチャンだという日本兵が日曜の兵営休日の日に訪れた。2人は今度の戦争が日本と中国の双方の民族をいかに傷つけ、互いの憎しみを増大させているかについて真剣に語り合った。彼は中国も日本も互いを理解していないから戦争になったと思っていたが、それは間違いで、日本のほうが誤っていることがわかったと言った。その日本兵が、最近模範刑務所の警備の任につくことになったので、入獄者の名簿と、ヴォートリンの集めた女性の嘆願書にある男性の名前とを照合して、一致する何人かの名前を教えてくれた。ヴォートリンは探している名前が判明したそれらの婦人をつれて、刑務所に面会に行かせることを考えた。


  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

孟憲梅(女、53歳)の証言
 1937年12月に、私は父の孟兆才と漢中門外の大街に難を逃れていましたが、その頃日本軍にやられないようにと、父は私のために頭を剃ってくれました。
 私は壷を持って細い流れに水を汲みに行った時に、日本軍がトラックでラオパーイシン(老百姓=まったくの庶民、ごく普通の人たち)を何台も何台も今の漢中門の新橋の橋の下に連行するのをこの眼で見ました。その頃は、そこは荒れ地でした。日本軍は捕まえて来た人を、みんな機銃掃射して殺しました。それを見てからは、とても恐くて、それに堪えられなくて、日本軍ってなんて残忍なんだろうと思いました。家に帰って父に話しましたら、父に「お前、日本軍に殺されるんが恐くないんかや」と怒鳴られました。(高潮と何学珍が記録)
 
 「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界


また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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