2009年3月6日金曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 夕暮が延びた下旬の午後、メリー・トゥワイネンと連れ立って金陵女学院から西へ城壁まで歩いてみたヴォートリンは、途中の田園地帯の畑が、9割がた放置され、耕作されていないのを観察する。畑で仕事をしている農夫を見たのは全部で6人だけだった。例年ならば麦畑や野菜畑が美しく広がる田園地帯は、雑草に覆われて荒れたままになっていた。農夫の1人は、畑で働くのは困難である、もしも日本兵が通れば、必ず何かを要求したし、作物を掘らせるだけでなく、それを彼らのところまで運ばせる、と言った。同地域で3人の女性を見たが、そのうちの2人は落穂拾いにきていた。彼女たちは自分の家に数時間帰ってくるだけで、すぐに安全区へ戻るのだと言った。女性は危険でこの地域では生活できないと農夫全員が言った。南京城内はもちろん、周囲の農村で、農民たちが農作物を生産できないでいることは、南京市民の食料不足の危機が当分続くことを意味した。
 話を5月に戻すと、国際救済委員会が決定した5月31日の安全区撤廃の日が近づくと、ヴォートリンらはその対応に迫られた。最高時は26ヶ所の難民収容所に約7万人も収容されていた難民も、その頃には6ヶ所の難民収容所に約7千人へと減少していた。金陵女学院に残っている千名余の難民について、ヴォートリンらは以下のように区分して、彼女たちのその後の生活を選択させ、自活が困難な若い女性はそのまま残留を認めることにした。
 (1)家も両親もいない若い女性ー32名、(2)家も両親も親戚もいない若い女性ー672名、(3)家がなく大変貧しい若い女性ー237名、(4)家がなく、かつ危険な地域に住んでいる若い女性ー127名、(5)家のない寡婦ー16名、(6)身障者ー7名。
 いっぽう、国際救済委員会では30歳以上の貧困な寡婦を大方巷の施設で保護し、30歳以下で、貧困な者、危険な地域に住んでいて、他に生活手段のない若い女性は金陵女学院で継続して保護収容し、同委員会から生活費を支給することを決定した。
  
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

孫文慶(男、77歳)の証言
 1937年には私の家は漢中門外の西路菜場40号あたりで、12月末から1938年の1月にかけて、私は日本軍が漢中門一帯で中国人をほしいままに虐殺したのをこの目で見ました。一度私が張文美という人と漢中門を歩いていたら、日本兵3人に見つかって、私たち2人は競争で走らされました。電信柱3,4本ほど走った時に、私は脚が悪くて、張さんの方が私より早かったのですが、その時日本兵が一発で張さんを撃ち殺し、張さんが両手でお腹をかかえて地に倒れ死んで行くのを私は見たのです。それから5,6日ほど過ぎたある日の午前、漢中門の城門の外で、私がこの目で見たのですが、日本兵が城内からトラックに乗せて来た2000人余りほどの難民を、降ろしてから、機関銃で掃射し、少しばかりのまだ死んでいない難民には、もう一発撃っていましたが、何人か死なずに逃げ出したのも見かけました。
 1938年1月初めのある日の午前中、私が清涼山に近い河辺の小舟で仕事をしていると、突然城壁の銃眼から弾が一発飛んで来て、船のすぐ前の水に落ち、もうちょっとで撃ち殺されるところでした。
 その又あくる日の朝、私がちょうど家を出たときに、突然どこからか又弾が一発飛んで来て、私の頭の上を飛び越し、お隣の華お婆さんの頭に当たり、華お婆さんはその場で死んでしまいました。それにもう一度、1938年の1月11日ごろに、やはり漢中門で、私は5,6人の日本兵に捕まってしまい、外にも私の知らない人々が何人もいて、日本軍がどこから捕まえてきたのか分からなかったのですが、その人たちと私とは日本兵の運び屋をやらされ、彼らがかっぱらって来た鶏や豚や野菜などを、担がせられて彼らについて行かされたのです。と同時に、その道で日本人が何人もの婦女を強姦するのを目にしたのです。
 1938年1月の終わりごろ、私は隣の謝金如が漢中門で日本兵に捕まり、その近く一帯で若いきれいな女を捜すのに道案内させられたのですが、そういう女の子が見つからなかったので、その場で銃殺されたのを見かけました。それとある日の午後、石頭城の近くで、私が便所に入っていた時に、日本軍が1人城壁の上から私を狙って撃った弾が、すぐ脇1メートルのところに落ち、もうちょっとで射殺されるところでした。この時期に、岳父が日本軍に射殺され、妻の母が死人のうずたかく積まれた中から屍を探し出して、むしろで巻いて埋めたのです。岳父が日本軍に撃ち殺された詳しい様子ははっきりは覚えていません。(呉大興と章歩錦が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界

みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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