卒業式のシーズンですね。壇上には「日の丸」が飾られ、式次第には当たり前のように「君が代」が入る。戦時中と同じような光景だ。今ではWBCでも日の丸を持って応援したり、君が代の斉唱がある。甲子園の開会式でも女子高生が1人でマイクを通して歌っていた。あの戦争では日本軍は占領すれば日章旗を掲げ侵略していった。たくさんの日の丸がアジアの国々にはためき、日本の圧政が行われた。同盟国のドイツとイタリアは敗戦後国旗と国歌を変えた。ドイツでは戦犯に時効などなくずっと追い続けた。日本だけが国旗・国歌を変えなかった。ヒットラーは自殺をし、ムッソリーニは銃殺され、逆さづりにされて公衆にさらされた。一方の大元帥昭和天皇は裁判ににもかけられず、その地位にとどまった。敗戦が濃厚となっても一撃を加えたい一心で戦争を続けさせ、最後は国体護持にしがみつき降伏を遅らせ、多くの日本国民の犠牲を強いた。東京大空襲・いろいろな都市での空襲、沖縄戦、そして原爆2発、8月14日の大阪大空襲。
その天皇の代がずっと続くようにとは私は歌えない!!
教育現場では、教員は歌わなかったり、着席すると処分される時代だ!!
この国に思想・信条の自由はないのか?
「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
結びにかえてー今問われているのは何か(この本は1999年版です。)
国民が裁いてきた南京事件
1951年9月に日本が連合国と調印した「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」の第11条には、「日本国は、極東国際軍事裁判所ならびに日本国内および国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」と明記されている。日本は、戦後世界に独立国として再出発するに際して東京裁判の判決を受け入れ、「南京暴虐事件」の事実を承認したはずであった。しかし、東京裁判や南京軍事法廷で陳述され提出された膨大な証言や証拠資料は、日本国民の南京事件の事実認識には結びつかなかった。それどころか、序に述べたように、南京事件は誤ったイメージで語られ、国民の間にはそれに対する反発から、否定論が少なからぬ影響力をもってきた。
たしかに南京軍事法廷で裁かれた者とその判決については、他のBC級戦犯裁判と同じように、不公平な側面があったことも事実である。処刑された谷寿夫第六師団長が上申書において「南京大虐殺事件に関係ある、多数の部隊長をまず調査して事件の全貌を明らかにし、ついで真犯人を認定するを正当とするに係わらず・・・・・最高指揮官および直下の部隊長と切り離して、被告1人をもって審判の対象となし、しかもこれを真犯人と認定し論断さるるは・・・・・不合理、非合法なり」と抗弁していることはその通りであろう(「南京作戦の真相(熊本師団戦記)」。
谷寿夫にとって不運だったのは、第16師団長中島今朝吾と第10軍司令官柳川平助が敗戦後すぐに他界し、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王は皇族ゆえに免訴されたことがあって、南京攻略戦に参加した師団長の中で谷だけが逮捕され、死刑判決を受けたことである。110人斬り競争をやったという向井・野田の2人の将校と300人斬りの田中軍吉も、捕虜・敗残兵を多数殺害した将兵として有名になったことが、逮捕・処刑される運命になってしまった。谷寿夫の言うように南京事件の全貌を解明し、真の責任者を本格的に究明しようとすれば、もっと上級指揮官、さらには軍中央と政府そして天皇にまでもその追求は及んだはずである。
しかし、南京軍事法廷で裁かれた軍人が公平で妥当であったかという問題と、裁かれて明らかにされた南京大虐殺事件を認識することとは別である。南京軍事法廷でも多くの証言資料や調査資料が提出され、その一端は『中国関係資料編』に「第Ⅳ編 南京軍事裁判資料」として収録されている。(続く)
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)
石明(男、1919年3月12日生まれ)の証言
1937年に、私は国民党第5軍36師の108旅215団小砲中隊で一等兵をしていました。上海が陥落した後、私たちは続々と南京の和平門まで撤退し休憩待機していました。12月12日に撤退命令が出たので、私たちは中山埠頭一帯の岸辺に駆けつけ長江を渡ろうと待ち構えましたが、将校だった者はとっくに行ってしまっていて、私たちは武器を長江に投げ込み、部隊は全く雑然となり、何万人もが岸辺で押し合いへし合い、一日待っても渡れませんでした。午後に日本兵が岸辺にやってきて、何万人もを全部捕まえ捕虜にしましたが、その中には難民もたくさんいました。12月13日は、私の一生忘れられない日で、日本軍が私たちを豚を追い立てるように、草鞋峡一帯まで駆り立て、まず機関銃で掃射してから、銃剣で突き刺し、さらには大勢いる所に手榴弾を投げ込んだのです。私は頭部を機関銃で撃たれて、長さ10数ミリもの大きな穴があき、脳の部分までは傷が達しませんでしたが、昏倒して死人と折り重なりになった後で、日本兵がまた私の身体を銃剣で突っつき、顔と左の小手と二の腕とにやられました。夜になって、私が死体の重なりから這い出したとき、まだ死んでない人のうめいているのが聞こえました。私は夜陰に乗じ手探りしながら三汊川のある庶民の家までたどり着き、誰もいなくて、漬け物かめの脇に隠れたのですが、出血が多すぎて、眩み倒れてしまいました。晩になって、その家の主が帰って来、ある年とった人が私の血だらけなのを見て、死んでいると思い、やってきて私を引きずったので、ウウッと私が一声あげたら、私が息を吹き返したとわかり、「夜が明けないうちに、大急ぎで逃げな。そうでないと助からないぞ」と言いました。私はその人の言う通りに蕪湖の方向に逃げ、しばらくして小丹陽に着いて、やっと逃げ延びることがことができました。私は南京大虐殺の生き残り証人なのです。(安徽省郎渓県の人で、1992年4月7日にその口述に基づいて劉相雲が記録し整理)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
ひとりひとりの安全を
大事にする世界を。
Imagine,
A world that values
the safety of each and
every human.
政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
731を問う!!
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