「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー
1939年2月以降からは、日記の記述が極端に少なくなり、タイプミスも目立って多くなってゆく。ヴォートリンの鬱症状が徐々に悪化していく経過が日記の記述からも見て取れるようになる。
1939年3月末、家庭工芸クラスの半年の教育課程が終了した。生徒たちは、金陵女学院内外の関係者を招待して卒業作品展示即売会を開催、ヴォートリンら教職員に対しては自分たちで料理と手作りの菓子を用意して謝恩会を開いた。100名の生徒のうち53人が、家政の知識と技術ならびに職業技術を実際の社会に出て役立てるために、金陵女学院の校門から巣立って行った。ヴォートリンの夢の実現であり、新中国の建設を予知させる希望でもあった。
ヴォートリンはさらなる夢であった農村女子教育クラスの開校を計画し、1940年秋の実現を目指して準備を開始しようとした。1939年夏、ヴォートリンが所属する連合キリスト教伝道団は、彼女の疲労を考慮してアメリカへの帰国と休暇を勧めたが、彼女は固辞した。貧困に苦しむ中国女性を救済し、教育することが夢であり、また天職と信じていたヴォートリンには、現在日本の侵略戦争の悲惨な犠牲になっている南京の婦女子を見捨ててアメリカに帰ることはできなかったのである。しかし、その夢と使命感に執着するがゆえに彼女の疲労と倦怠もしだいに深刻になっていった。
1939年9月、ヨーロッパ大戦が勃発して、ドイツ、イタリアの大攻勢が続き、勢いづいた日本が中国侵略をさらに拡大させ、戦争の惨禍がさらに世界に広がったことは、ヴォートリンをいよいよ絶望的にさせた。
南京事件から2年目の1939年12月中旬が巡ってきたとき、ヴォートリンは12月8日の日記に「2年前の今夜、私たちは南京市内を砲撃する大砲の音をはじめて聞いた」と記し、12月11日の日記に「今晩は死ぬほど疲れた、この1週間どうやっていけるかわからない」と書いたきり、21日まで日記を書いていない。2年前の南京事件の日々のトラウマが彼女を抑鬱状態に陥らせたものと思われる。
1940年になるとヴォートリンの日記の記述はさらに目立って少なくなる。そして、彼女の抑鬱症状の引き金となったのが、同年3月上旬の上海での体験であった。キリスト教宗教教育者の大会に出席したヴォートリンは、上海の街で、豪華で享楽的な生活を楽しんでいる多くの中国女性の姿を見て、気持ちが錯乱するような衝撃を受けたのである。侵略戦争に苦しむ中国の運命に対して全く無関心のごとく、きらびやかな衣装を着て、ショッピングや映画を楽しむ若い中国人女性たちを、ヴォートリンは正視することができなかった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)
梁玉山(男、82歳)の証言
1937年の冬私は鳳凰街8号に住んでいましたが、日本の侵略軍が南京を占領する前に、冬月の3日に六合に避難しました。1月の5日に、南京に戻ってきて、従弟の王金栄のところに身を寄せました。彼は徳士古の石油スタンドで倉庫の番人をしていて、いなくなってなかったのです。1月6日の午後、私は城外の徳士古石油スタンドに行ったのですが、その道で漢中門を通った時、漢中門の石城橋の東側に、日本軍に虐殺された屍がうずたかく三つの山になっていて、ざっと3000体ほどあるのを、この眼で見ました。後に中国紅十字会が屍を片付けるのに、小舟で二道挭子まで運び、そこに穴を掘って埋葬しました。明くる年に二道挭子へ行ってみましたら、やはり土がうずたかくなっていて、周りにぐるっと柳が植わっていました。
1月13日に良民証がもらえてから、おばが私の子ども3人と他の家の8人との11人を面倒みていて、大廠鎮の王金栄の奥さんのお母さんの家に厄介になっていたのですが、私は安心いかなくて、様子を見に出かけました。下関から小舟に乗り長江を渡ったのですが、下関の七里洲で浮桟橋が1つ爆沈せられて、あたりの水が真っ赤に染まっているのを見かけました。屍がみんな水に浸かっていて何とその数の多いこと!日本軍は南京で焼き殺し強姦し、なさざる悪事はなかったのです。山西路から漢中門までの難民区では、しょっちゅう数知れぬ青年が日本軍に捕まり処刑されたり労役につかせられたりしていたのです。(井升安と丁亜慶が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)
・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)
・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)
・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)
・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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