2009年3月10日火曜日

その後のヴォートリン

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
希望と絶望ーその後のヴォートリンー

 侵略戦争の犠牲になった中国女性の救済と教育への献身に疲れ果てていた彼女が味わった失望感はあまりにも強烈であった。上海から南京に戻ったヴォートリンは、極度の疲労感と無力感に襲われ、3週間も日記を書くことができなかった。1940年3月30日に、日本の占領工作に従った汪兆銘が国民政府(傀儡)の成立を南京で宣言したことが、ヴォートリンの抑鬱状態に追い打ちをかけた。日本軍占領下の金陵女学院と南京で、彼女が必死になって築き上げてきた努力が無に帰していく思いに陥ったのである。
 それから半年後、ヴォートリンは4月14日の日記に「私の気力はもう消滅しそうだ。私はもうこれ以上前に進むことはできないし、仕事の計画を立てることもできない。あらゆる方法に必ずなんらかの障害が立ちはだかっているように思える」と書いたのを最後に、日記が書けなくなったのである。
 それ以後ヴォートリンの抑鬱状態はさらに深刻になり、「自分の中国伝道は失敗した」「私は精神病にかかっているようだ」「生きているのが辛いからいっそ死んでしまいたい」と周囲にもらすようになった。
 ここにいたって関係者はヴォートリンをアメリカに帰国させ、精神病療養施設で治療させることにして、5月14日、金陵女学院の親友の教師キャサリン・サザランドとジョン・マギー牧師が付き添ってアメリカに帰国させた。この時汽船から一度飛び込み自殺を図ろうとしている。アイダホ州の精神病院で検査をした結果、彼女は重いうつ病にかかっていると診断され、精神療養施設で長期の療養を受けることになった。その後症状が回復したのでテキサス州の静かな町で静養生活をおくらせていたところ、1941年2月、睡眠薬自殺を図ったのである。幸い未遂に終わったのでインディアナ州の精神病院に入院させ治療をほどこした。再び症状が回復、社会復帰を目指して金陵女学院理事会の仕事を手伝わせるまでになっていたが、同年5月14日、インディアナポリスのあった連合キリスト教伝道団の秘書のアパートの台所で突然ガス自殺を図り、自らの生命を絶ってしまったのである。享年55歳だった。
 「私の中国での伝道は不成功に終わった」「不治の精神病に苦しむよりは死ぬほうがまだ楽です」という走り書きの遺書が残されていた。

・・・・・・・・以上で「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)からの引用は終了です。・・・・・・
      
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

劉世海(男、73歳)の証言
 民国25年(1936年)に、私は国民党の第5軍に入りました。翌年上海へ赴いて日本軍と戦いましたが、やがて退却して南京に来ました。民国26年12月に、日本軍が南京に迫り、私は雨花台で2,3日戦闘しましたが、部隊が瓦解してしまいました。私たちは下関まで駆けて行って、長江を渡って行きたかったのですが、船がなくて渡れませんでした。
 私は安徽の者でしたから、安徽(あんき)へ逃げようとする一団に加わりました。私たち一行は50人足らずで、三汊河から江東門まで来て、蕪湖の方向へ行くことにしていました。道には屍がいっぱい敷き詰められているようでしたが、ある電柱には屍が7つか8つかかっていて、それがみんな針金を鎖骨に通して1つにつなげてあり、男もあれば女もあり、子どものまでありました。さらに行け行くほど、死者は多くなってきました。
 江東門まで来たら、模範監獄の門の前で、一隊の日本兵に差し止められました。私たちは白旗を掲げて日本兵に見せ、「我々は投降した兵士たちだ」と言いました。日本兵は有無を言わさず、私たちを強引に監獄の東側の野菜畑まで駆り立て、一列に並べと命令しましたが、周りには日本兵5,60人いて、そのうちの十数人が軍刀を引っさげ、その他はみんな銃に剣を着けていました。と、不意に日本兵が周りから一斉に跳びかかって来て、軍刀や銃剣やらで滅多斬りに滅多つきをくりかえし、私は首に一太刀やられました。私が覚えているのはただ、日本兵が軍刀を振りかざして斬りかかってくる恐ろしい姿だけで、あとは何も分かりませんでした。
 意識を取り戻した時は、既に暗くなっていて、死んだ人2人に押し付けられていたのですが、力を入れて押しのけ立ち上がりました。幸いに傷が余り深くなく、血はもう止まっていました。まだ、明るくないうちに、急いでその野菜畑を離れ、半里ほど歩いたところで防空壕を見かけたので、その壕に隠れました。夜が明けると、日本兵が又やってきて、日本語でひとしきり大声をあげていましたが、「出て来い」とでも叫んでいたのでしょう。壕の中が暗くて、何も見えなかったので、日本兵はしばらくわめいただけで行ってしまいました。
 遭難したのは、冬月の14日か15日でした。同行した50人足らずのうちで、私だけが生き残りました。今も首に刀のあとが10ミリほど残っています。(段月萍が記録)



 
 「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)

・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)

・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)

・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)

・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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