戦後の東京裁判で南京大虐殺を裁いたがそのときの様子が城山三郎著『落日燃ゆ』(新潮文庫)に描かれている。
七月も終わりになって、法廷の冷房装置が完成し、涼風に洗われるようになった。
だが、冷房になれないためか、被告たちは腹をこわし、平沼、白鳥が入院した。80歳になる平沼は、肺炎が治って病院生活から戻ったところで、また、再入院となった。
涼しくなった法廷では、しかし、南京などにおける日本軍の虐殺事件についての陰惨な証言が、8月半ばまで続いた。
広田が外相時代、その一部について報告を受け、再三、杉山陸相に抗議した事件であるが、いまは広田が「殺害の共同謀議」に関係ありとし、また、その「防止の怠慢」の罪を問われている事件でもある。
慈善団体役員という中年の中国人が証言台に立った。
「私は死体が至るところに横たわっているのを見ましたが、その中のある者はひどく斬り刻んであったのであります。私はその死体が殺された時の状態のままに横たわっておるのを見たのであります。ある死体は身体を曲げており、又ある者は両足を拡げておりました。そうしてこういう行為は皆、日本兵によって行われたのでありまして、私は日本兵が現にそういう行為を行っておるところを目撃したのであります。。ある主な大通りのところで私はその死体を数え始めたのでありますが、その両側において約500の死体を数えました時に、もうこれ以上を数えても仕方がないと思って止めたほどであります・・・・・・・」
アメリカ人宣教師が証言する。
「強姦は至るところにおいて行われ、多数の婦人および子どもが殺されたのであります。もし婦人が拒絶するとかあるいは反抗する場合には、それは突殺されたのであります。私はそういう写真および活動写真を撮ったのであります。すなわちそれによりますと、婦人が首のところを切られ、もしくは全身にわたって突刺されておったのであります・・・・・」
南京大学教授が出廷する。
「約5万人の日本軍兵士は避難民から寝具・台所用具ならびに食料品をたくさん取ったのであります。占領してから6週間という間は、市内のほとんどあらゆる建物がそういう遊歩する兵士の団体によって侵入されたのであります。場合によってはこの略奪は非常に組織的に行われたものでありまして、軍用(トラック)の多数が使用され、将校の指揮に依ったものであります・・・・・」
法廷は静まり返り、嘆息だけが漏れた。重光は日記に書く。
「醜態耳を蔽(おお)わしむ。日本魂腐れるか」
また次の日の日記にも、
「その叙述惨酷を極む。嗚呼聖戦」と。
証言は次々と続き、多くの宣誓口供書や証拠書類が出され、検察側のこの事件にかける並々ならぬ熱意が読み取れた。
俘虜虐待という罪だけで、同じ巣鴨にいるB級C級戦犯たちが、折から次々に処刑されていた。旧日本軍占領地の各地でも、競い合うように処刑が行われている。それを思えば、この大量虐殺事件の責任追及は極刑でしかないことは、明らかであった。
幸か不幸か、この問題の最高責任者である松井石根(いわね)元中支那派遣軍最高司令官は、ちょうどこのとき、胃病のため入院中で、松井の運命をゆさぶる陰惨な証言の数々を聞かないですんだ。
このため、法廷で自分に関係あるものとしてきいたのは、広田だけであった。広田はもちろん、こうした「殺害」にも、「殺害の共同謀議」にも関係はなかった。「防止の怠慢の罪」を問われるわけだが、しかし統帥権独立の仕組みの下で、1文官閣僚として何ができたというのであろう。
だが、検事団が広田にまで照準を当てていることは、明瞭であった。そして、広田が自己弁護に立たぬ気持ちも、はっきりしていた。その結果がどういうことになるか、広田に予感がないわけではなかった。
法廷が開かれる日には、広田の娘2人が必ず傍聴にきた。これに気付いた法廷の警備隊長が親切な男で、記者席の最前部に2人の席を用意してくれるようになった。
といっても、言葉一つ届くわけではない。入廷してくるとき、広田は娘たちと視線を合わせる。そして、閉廷して立ち上がるとき、娘たちは再び広田に目礼を送る。ただそれだけである。
娘たちは、周りの新聞記者のように、そこで暴露される「歴史の真実」や法廷闘争に興味があるわけではない。ただひとときでも、同じ屋根の下に広田とともに居て、広田を見つめていることで、安堵を感じた。自殺した母静子の霊も、そのとき父娘とともに居る感じであった。・・・・・・
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)
萬澄泉(男)の証言
1937年の冬に中国侵略日本軍が中国に攻め込んできた時、私は蕪湖の黄朴人医学校から南京第八陸軍病院に移ってきて抗日運動に加わり、医科中尉になりました。日本軍が上海を占領した後、外交部が南京から後方へ移転したので、我が陸軍病院が外交部のあった建物に移りました。日本軍が鎮江と句容と蕪湖との三方面から攻めてきて、南京の危機が旦夕に迫りました。唐生智が撤退した後、軍は大混乱し、12月のある晩に全軍が退却しました。日本軍が三方から攻め込んできたため、江北だけが活路で、何十万もの軍人と民間人とが長江を渡ろうと争っていて、私と病院の同僚何人かも、下関の挹江門から城外へ逃げ出しましたが、岸辺はただ波がゆらゆらするだけで、船は大きいのも小さいのも一隻も姿を見せず、どうしようもない状態で、みんな争って戸板をはずしたり、筏を組んだりして長江を渡ろうとしていました。とても寒い頃で、たくさんの人が長江の底へと沈んでいくのを目にしました。私は泳げないので、筏に乗ることもできず、ただ岸で死を待つばかりでした。明くる日、日本軍がやってきて、残酷にも機関銃で水面を猛烈に掃射したので、凡そ水面に漂っていた人たちはみんな射殺されました。私と同僚何人かは散りじりになり、1人だけになった私は同郷の蕪湖の人一人とぴったり離れずに、幕府山のふもとにある村まで逃げてきたところ、午後4時ごろに、既に3,40人にもなっていた人たちがある防空壕の前まできて、壕に隠れようと主張する人たちもいましたが、私は壕は安全でないと思い、別に見つけたあばら家に一晩泊まろうと言いましたら、5、6人が私に賛成しました。あばら家は防空壕から遠くなかったのです。2日目の朝、日本兵が村にやってきて、一般の人が村では見つからず、防空壕の前まで来て、通訳に壕の中へ「中にいる者はすぐに出てこい。さもないとブっ放すぞ」と叫ばせましたが、壕の中では何の声もせず、日本兵が中に向かって手榴弾を十数発投げ込んで初めて、痛ましい叫び声が壕の中いっぱいに響いただけでした。しばらくして、日本兵は私たちの泊まったあばら家も探して、私たちに手を挙げさせ、平服に着替えさせましたが、その時は私たちを殺害せずに、私たち6人を3組に分け、日本軍の小隊3つが村々に中国兵を捜しに行くのにいずれも私たちを連れて行けるようにし、その道々、中国人と見るやすぐに発砲して射撃して、少なからぬ人々を撃ち殺したのを私は見ました。下関の汽車の駅から遠くないところまで行くと、工事用のバラックが一つあり、日本兵が東側から火をつけてバラックを焼いていると、バラックに隠れていた中国人が逃げ出してきて、その人たちを日本兵が銃で撃ち射殺しました。それから岸辺まで行くと、岸から船まで渡る踏み板が1つ、長江へまっすぐに伸びていて、その踏み板の下に何百人もが殺されていました。岸辺にはここかしこに被害者の屍がうずたかくなっていて、見るに忍びない有り様でした。
午後3時頃に、日本軍は私たち2人を放してくれたので、2人で又ある村に戻って泊まりました。明くる日、一個小隊の日本兵が又やってきて、私たち2人についてくるよう命じました。途中で又中国人3人と出会い、日本兵は検査して、この3人は中国兵だとみなし、この3人を前に、私たち2人を後ろにして進んで行くと、屋根は焼け落ち土塀は四面とも倒れていない家屋の前まで来て停まりました。日本兵が1人目に家の中に入れと命じ始め、入っていかないので、日本軍は銃で無理に入って行かせようとし、まず銃剣で3度突っつき、それから発砲して撃ち殺しました。2人目も同じように押し入れようとして銃で撃ち殺しました。3人目は活きられないと知り、入口の外でひざまずきどうしても入っていかないのを、日本兵が入口の外で撃ち殺しました。4人目は私の番になり、私は活きれる見込みはないと見て、連中と命がけでとことんやってやりたかったのですが、身に寸鉄も帯びていなくて、闘っても死ぬんだし、逃げ出しても日本軍の銃口からは逃げ切れないと思いました。そんな風でボーッとしていました。すると、日本兵は銃剣が血だらけだったので、私の長い綿入れに銃剣をすり付けて血をふき取りました。どういうわけか分かりませんが。私には悪辣な手段をもてあそばしませんでした。私の後ろの1人も命を取り留めました。それから私たち2人下関の宝塔橋難民区に入って、ずっと安全でした。私は南京大虐殺からの生き残りで、その証人でもあります。(1991年1月14日に劉相雲が当人からの手紙を基に整理)
「Imagine9」【合同出版】より
軍隊のお金を
みんなの暮らしのために使う
世界
世界中の政府は、2000年に、貧困をなくすための一連の目標に合意しました。国連の「ミレニアム開発目標」と呼ばれるもので、2015年までに次のような目標を達成するとしています。
●極端な貧困や飢餓をなくす(1日1ドル以下で暮らす人を半減する)。
●すべての子どもたちが、女の子でも男の子でも差別なく、学校に行けるようにする。
●赤ちゃんが栄養失調で命を落としたり、お母さんが出産時に亡くなってしまうことを防ぐ。
●HIV(エイズ)、マラリアなどの感染症の広がりを止める。
こうした目標を達成するためには、世界的に軍事費を減らし、人々の暮らしや発展のためにお金を回すことが不可欠です。
国連憲章には、「世界各国は軍事費に回すお金や資源を最小限にしなければならない」(第26条)と書かれています。世界のNGO(非政府組織)は、この国連憲章26条を今こそ実行し「軍事を減らして人々の発展に回そう」という運動を始めています。そうした世界の人々の中からは「国連憲章26条と日本国憲法9条は、同じ目標のための双子のようなものだ。ともに発展させよう」という声が上がっているのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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