「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
世界に知られていた南京事件
アメリカでは南京事件とパナイ号事件の報道を契機に、日本の中国侵略に抗議する運動が活発になり、日本軍の蛮行から中国民衆を守り、救済するための中国支援の運動の輪も広まっていった。さらには、ジョン・W・ダワー『人種偏見ー太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』が指摘するように、南京事件をはじめとする日本軍による中国民衆の大量殺戮の報道が、アメリカ国民の対日感情を悪化させ、「非人道的野蛮行為」を平然と行う日本兵に対する嫌悪・憎悪の感情を国民の間に醸成させ、それが日米戦争時の「敵国日本」のイメージを形成した側面もあった(笠原「世界に知られていた南京大虐殺」『アジアの中の日本軍』)。
ドイツでは、2月末に南京を離れ、ドイツに帰国したラーベが、ジーメンス・外務省・国防省などの小集会において、マギーが撮影したフィルムや写真を見せながら、南京事件の事実を講演してまわった。彼は、南京で目撃した南京事件の真相を、ヒトラーをはじめ、ドイツ政府の指導者に知らせ、事実上の同盟関係を通じて日本兵の不法・残虐行為を阻止する方法を求めようとした。ラーベはそのために「南京事件・ラーベ報告書」をヒトラーに提出したが、同盟国日本の残虐行為を書いたことがヒトラーの逆鱗に触れ、逮捕・尋問されたうえ、南京事件について発言しないことを条件に釈放されたのだった。しかしラーベが人生を賭けて事実を伝えようとして記録した日記ならびに報告書は、事件から60年を経てドイツ、アメリカ、中国、日本(日本語訳の書名は『南京の真実』)で一斉に出版されることになる(笠原「発見された南京虐殺の証言」参照)。
中国では、南京事件は新聞報道だけでなく口コミを通じてやがて中国人全体に知られた。中国国民政府軍事委員会は写真集『日寇暴行実録』を発行(38年7月)して、南京における日本軍の残虐行為をビジュアルに告発した。とくに日本軍の中国女性にたいする凌辱行為は、中国国民の対日敵愾心をわきたたせ、大多数の民衆を抗日の側にまわらせ、対日抵抗戦力を形成する源泉となった。当時の日本人が軽視ないし蔑視していた中国民衆の民族意識と抗戦意志は、さらに発揚され、高められていくことになった。南京攻略戦の結果、日本軍が引き起こした暴虐事件は、中国を屈服させるどころか、逆に抗日勢力を強化・結束させる役割を果たしたのである(笠原「中国女性にとっての日中15年戦争」『アジアの中の日本軍』参照)。
第二次世界大戦において、南京事件は連合国側に広く知られた事実となり、日本ファシズムの本質である侵略性・残虐性・野蛮性を露呈したものとみなされた。東京裁判で、日中戦争における日本軍の残虐行為の中で南京事件だけが重大視して裁かれたのは、連合国側の政府と国民が、リアル・タイムで事件を知っており、その非人道的な内容に衝撃を受けていたからであった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)
厳洪亮(男、79歳)の証言
私は原籍は安徽省(あんきしょう)の桐城ですが、南京で生まれました。父は南京で料理人をし、母はお金持ちの家で女中をしていました。父は36歳でやっと結婚し、40歳のときに私が生まれたので、小さい時「厳40」と呼ばれていました。私は12歳で技能を学び、緞子や繻子を織りましたが、後には芝居で声高く歌うのを学びました。家は仁義里18号でした。
1937年は私は32歳でした。冬月の初めに、南京要塞司令部(司令官は邵伯川)に捕まって、弾薬や薬品や綿花などの、軍用品を運ばされました。日本軍がもうすぐやってくるという時には、司令部の人たちはみんな逃げてしまいました。冬月11日に私は逃げ出してきて、江北へ逃げようと思いましたが、船が無くて行かれませんでした。和記洋行の職工長の徐志和と知り合いだったので、洋行に身を隠しました。日本軍の部隊は冬月11日の夜明けの2時に光華門から南京城に入って来ましたが、人を見れば殺し、婦女を見れば強姦し、火を放って家を焼きました。ある日の朝、日本軍が和記洋行に人を捕まえてやってきて、私も入れて、3000人以上を捕まえて行きました。私たちを老江口(草鞋峡)まで引っ張って行ったのですが、その岸辺には捕まってきたのが何万人もいて、びっしり座らせられていました。午前8時か9時から始まったのが、日本の賊どもがやってのけた大虐殺でした。彼らは縄で20人を一まとめにして、機関銃で掃射してから、死体を長江へ押し込んでしまう、という風にして午前から晩までずっと虐殺していったのです。日が暮れようとする頃に、日本刀を背にした軍人が3人私を検査し、手にたこが無いのを見て、私は「中央軍」ではないと言い、行きなさいと言いました。ところが私を見張っていた日本兵がカッときて、私の頭に一発ぶっ放したので、私は撃たれて鮮血がほとばしり、地にぶっ倒れました。続いて、又銃剣で腹を刺してきましたが、私は習練を積んでいて、すっと身をかわしたので、腹まで刺さらずに、すねに一太刀きただけでした。傷痕が今でもはっきり残っています。私は死んだ振りをして地に横たわっていて、暗くなって死人の積み重なりから這い出しました。道でなにがしかの米を手に入れ、老虎山の上まで駆けて行き、屍のうずたかくなった中に隠れて、飢えたら生米をかじりました。3,4日ごろごろしていて、それも続けられなくなり、山を降りてきて食べ物を人にせびり、又和記洋行に帰ってきましたら、徐志和の奥さんが門番をさせてくれました。一ヶ月余りして○月30日の晩になって、やっと家に帰りました(既に鼓楼三条巷の難民区に引き移っていました)。お母さんとお姉さんとが、私が死んでいないのを見て切ながったり嬉しがったりしてくれました。私はこうして九死に一生を得たのです。(戦国利と陳家栄が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界を。
Imagine,
A world that instead
of
preparing for war,
prevents war.
コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
731を問う!!
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