2009年3月26日木曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺について中国と日本の教科書はどのように扱っているのだろうか?笠原氏の著書(『「百人斬り競争」と南京事件』)に中国と日本の教科書の記述が載っている。
 ・・・たとえば、中国の『新世紀ー義務教育課程標準実験教科書・歴史』(2001年に教育部が公布した「全日制義務教育歴史課程標準)に基づいて、北京師範大学出版社が2002年に発行)にはこう書いてある。

 【南京大虐殺】1937年12月、日本軍は南京を陥落させた。つづいて日本軍は集団銃殺、焼殺、生き埋め、斬首、軍犬に噛み殺させるなど、きわめて残忍な方法で南京市民や捕虜となった兵士に対して血なまぐさい虐殺を行い、この世で最も悲惨な南京大虐殺事件を引き起こした。12月16日、日本軍は華僑招待所に収容していた中国人市民と捕虜になった将兵5000余人を中山埠頭へ連行し、機関銃で射殺したの後、死体を長江へ捨てたり、焼却したりした。18日、日本軍は南京幕府山に拘禁した老若男女5万7000人を全員針金で縛り、下関の草鞋峡へ連行、機関銃で射殺した。さらに、倒れて血の海の中で呻吟している群衆を銃剣で刺し殺した。それから日本軍は石油をかけて死体を焼却し、骨となった死体を長江へ捨てた。
 日本軍はさらに常軌を逸した「殺人競争」をおこなった。日本軍少尉の向井敏明と野田毅は、南京を占領した時に、先に100人を斬った者が勝利者になるのだと決めた。2人の殺人魔が血に飢えた日本刀を持って紫金山の山麓で会見した時、野田は105人、向井は106人を斬り殺していた。どちらかが先に100人を斬り殺したか分からないので、勝負は決まらなかった。そこで2人は改めてどちらが先に150人を斬り殺すかで勝負を決めることにした。1937年12月、日本の『東京日日新聞』は「勝利者」の口調で「殺人競争」を報道した。日本軍側はこれを「国威発揚」の「光栄ある手柄」と考えたのである。
 統計によれば、日本軍が南京を占領した6週間の間に、寸鉄も帯びない南京市民と武器を放棄した中国兵にたいする虐殺は30万人以上におよんだ。南京大虐殺は日本の侵略者が中華民族にたいして犯した重大な暴行の1つである。(引用者訳)

 いっぽう日本の中学校歴史教科書は8社から出版されているが、全社の教科書に南京事件が記述されている。8社のなかで一番詳しい記述をしている清水書院のもの(2006年版)にはこう書かれている。
 

 日本軍の物資の補給体制はきわめて不十分だった。日本軍は、占領した地域で物資や労働力を徴発し、食糧などもその地で確保した。このため物資の略奪・放火・虐殺などの行為もしばしば発生した。とくに南京占領にさいしては、捕虜・武器を捨てた兵士、老人・子どもまでも含めた民衆を無差別に殺害した。戦死した兵士もあわせてこの時の死者の数は多数にのぼると推定されている。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどはこの事実さえ知らなかった。こうした日本軍の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。

 日本の歴史教科書には「百人斬り競争」については」まったくといってよいほど記述されていない。また、歴史学事典の類にもほとんど記述されていない。・・・・・・・・・・・


 ちなみに私の手元にある昭和53年版の山川出版の高校歴史教科書には南京大虐殺の記述はない。
    
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 陳徳貴(男、67歳)の証言
 1937年12月12日に、私は下関の「和記洋行」まで逃げて行って避難しました。13日に、日本軍が下関にやってきて、ここに私たち難民がいっぱいいるのを見つけました。翌日の朝、日本兵が200人近くきて、何千人もの難民の中から2千8百人余りの若い者を捕まえました。日本軍はみんなを4人1列に並ばせ、みんなに懐中時計や銀貨などの貴重品を出させ、その上で身体検査をしました。午後、私たちを和記洋行から煤炭港のある倉庫まで連行してそこに閉じ込めました。3日目の朝、日本軍が倉庫の門を開けて「これから仕事場へ行って仕事をする。十人ずつ出かける」と言いました。門の近くに立っていた十人がすぐに押し出されて行って、まもなく、ひとしきり銃声が聞こえました。少しして、門がまた開いて、もうあと十人が押し出されていき、またもやひとしきり銃声が響きました。出て行った人はみんな銃殺されたんだと、私には分かりました。日本軍が三番目のの人たちに出て行かせようとしたときに、私は出て行きました。それは午前8時過ぎ頃でしたが、倉庫を一歩出るなり、日本兵がずらっと両側に並んで、銃剣を斜めに構えているのが見え、後ろから日本兵が私たちを押していくのでした。長江の岸辺まで来た時に、倉庫の後ろの土手の上に30何人かの銃を構えた日本兵が並んでいるのが見え、虐殺が始まろうとしているんだと私はすぐ気付きました。私が水の中に立って、日本軍が射撃しようと銃を構えたその時に、私は思いっきり力を込めて河の中にひっくり返り、向こう岸までもぐっていって、河に倒れていた汽車の腹の部分に隠れ、そこから10人ずつ、10人ずつと日本兵に銃殺されていくのをこの目で見たのです。
 朝から夕方まで殺して、まだ銃殺されていない人が6,7百人いたので、日本兵はその人たちを一緒に河口まで追い立てて行き、機関銃で狂い撃ちにしました。暗くなり、日本軍が行ってしまってから、私は手探りで岸辺までやってきて、そうっと岸に這い上がりました。水に一日浸かって隠れていたので、寒くてがたがた震えどうしでしたが、地上に上がってから破れじゅうたんを一枚拾ってそれにくるまり、死体の真ん中で眠りました。あくる日日本兵が何人か桟橋からやってきて、私が震えているのを見つけ、私を狙って一発撃ちましたが、弾は私の太ももを抜けて、左手の薬指を傷つけました。今も傷痕が残っています。日本兵は私が死んだと思って、行ってしまいました。3日目になって、死体を片付ける人たちが私のまだ活きているのを見つけて、私を救い出してくれ、それで幸いにも一死を免れたのでした。(李文奎と劉雯と馮中美が記録)


「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、


戦争のない世界をつくる。



「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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