2009年3月30日月曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

『落日燃ゆ』(城山三郎著:新潮文庫)にA級戦犯のことが書いてある。本当にこの7人だけが戦犯なのか大いに疑問である。


 この結果、マッカーサーが諮問する形で、11カ国の在日極東委員会代表の会議が開かれたが、これは形だけのことで、すでに答えは決まっており、再審請求は却下。このあと、7人へのもとへの新聞の配布も止められた。
 7人は、他に誰もいない第一号棟で、死のときを待った。 
 死出の旅を共にする仲間として、広田にとって、残りの6人は、あまりにも異質であった。呉越同舟とはいうが、にがい思いを味わわされてきた軍人たちに、最後まで巻き添えにされ、無理心中させられるかっこうであった。
 土肥原、板垣の両大将は、満州・華北・内蒙古で謀略による事件を惹き起こし、外相広田の対中国和平交渉を挫折させた。
 武藤中将は、組閣本部にのりこみ、外相候補吉田の追放などを要求、広田内閣の組閣を妨害した男である。
 東條大将は、広田ら重臣の参内を阻止し、対米開戦諌止(かんし)論に耳をかそうともしなかった。
木村兵太郎大将は、その東條の陸相時代、次官として補佐した男であり、松井大将は、南京における麾下(きか)部隊を統制できず、結局、広田にまで「防止怠慢の罪」をかぶせる結果となった将軍である・・・・・。
 そうした軍部そのものである男たちと同罪に問われ、同じ屋根の下で、同じ死刑の日を待たねばならない。
 もちろん、ここでは、すでに6人とも憎めない男に帰っていた。ある者は、気のやさしい男であり、ある者は、腕白坊主のように無邪気なところのある男である。軍服を着こみ権勢を極めていた日々のことが、嘘のようにさえ思えてくる。
 だが、統帥権独立を認めた「長州のつくった憲法」のおかげで、彼らはたしかに猛威をふるい、その結果として、いま、たしかに死の獄につながれていた。背広の男広田という付録までつけて。
 同じ死刑囚とはいえ、広田と他の6人に心の底から通い合うものはなかった。

 そのころ、巣鴨では、仏教学者花山信勝が、戦犯とくに死刑囚のための教誨師をつとめていたが、花山は、死刑宣告後のA級7人に対しても、順次、個人的な面接を持ち、死の心用意をさせはじめた。
 広田に対しては、11月17日、第1回の面接、1時間。花山は、B・C級戦犯の処刑前の心境の変化などについて話したが、広田はただ黙ってきくばかりで、これという発言をしなかった。早くから覚悟のできている広田にとって、いまさら教誨師に心用意させられることは、何もなかった。むしろ、わずらわしいばかりであった。
 仏間に集められ、死刑囚一同そろって、花山に合わせて念仏を唱えるときも、広田ひとり黙って経本を読んでいた。
 第2回の面接は、1週間後の24日でやはり1時間。
 署名運動や広田の家族の話などを花山が伝えると、広田はときどき微笑したが、このときも、広田からとくに話をすることはなかった。他の6人がしきりに仏教の話を聞きたがったり、あるいは心境や覚悟を語り、遺詠を伝えたりするのにくらべ、ひどく対照的であった。
 ただ、広田はこのとき、トイレット・ペーパーにくるんだ髪と爪を家族に渡してくれるように花山にたのんだ。
 第3回の面接は、11月26日午後3時から25分間。
 相変わらず無口な広田に、花山はたまりかねて、たずねた。
「歌か、あるいは詩か、感想か、何かありませんか」
「公(おおやけ)の人として仕事をして以来、自分のやったことが残っているから、今さら別に申し加えることはないと思う」
 広田のそっけない答えに、花山は重ねて訊いた。
「でも、何か御感想がありやしませんか」
「何もありません、ただ自然に死んで・・・・・」
と、そこで言葉を消す。花山はさらに、
「他に何かありませんか」
「・・・・・すべては無に帰して、いうべきことはいって、つとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何もいうことは事実ない、自然に生きて、自然に死ぬ」
 花山は真宗の僧侶でもある。広田のその境地が禅によるものかときくと、広田は、禅に近い、と答えるだけであった。
 広田が感情の動きを見せたのは、前日、広田の家族5人が面会にきたが、感謝祭の祝日のため帰されたという話を、花山がしたときであった。
 広田は、すぐ、立会いの将校に英語で、いつ面会できるかをきき、月曜日の9時という返事を得た。・・・・・・・


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺
 孫漢皋(男、71歳)の証言
 私は19歳の年に、南京に来て大工(臨時雇い)をしていましたが、国民党に徴発されて国民党参謀本部の造炮台へ行き、老虎山に何年か住んでいました。民国26年の冬月だったと思いますが、私が24歳の時でした。ある日の晩、国民党の上の人が私たちに入ってこさせはしても、出て行かせないでいて、私たちにこう言いました。「お前たち恐がらないでいい。日本兵が本当にやってきても、我々には岸辺に軍艦が3隻あるから、お前たちを重慶まで乗せて行ってやれる」。その日の夜12時に、飯炊きの男が岸辺に水を汲みに行ったところ、軍艦3隻がいなくなっていたので、帰ってきて私たちにそのニュースを知らせました。私は内心、やたらなことは言えんぞ、むやみなことを言うと銃殺もんだ、と思いました。3日目に、日本軍が中山橋と老虎山一帯を包囲し、教導隊が日本兵と銃剣で渡り合うのを老虎山の上からこの目で見て、私も山から石を日本兵にぶつけましたが、衆寡敵せずで、日本軍が老虎山を占領しました。日本軍は年取った人たちを集めて、ガソリンをかけて活きたまま焼き殺し、何とも見るに忍びないものでした。日本軍は私たち年若い者たちを一箇所に集めると、5人1組にしてしばりつけ、上元門まで連れて行って、一群又一群と機銃掃射で死なせていきました。午後の5時から9時までずっと掃射していたのです。私のいた一群の番になったのは、既に6時過ぎで、もうだいぶ暗くなっていました。機関銃が私に狙いを付けた時、私はもう腰をかがめていたので、私は機銃掃射に当たらず、私の前や後ろに立っていた人たちがみんな撃ち殺され、その血飛沫が私の身体中にかかりました。その時は私は死体に押し付けられて、死んでいないと分かりましたが、でもどうやったら逃げられたでしょう。私を縛っている縄が少しゆるんだので、親指の爪で手の上の綱を擦りに擦ったら、縄がいくつかに切れました。切れないところを、私の金歯3つで噛んで噛んで噛んだら、とうとう縄が噛み切れて、やっとのことで死人の累積から這い出したのです。そうしたら私の目の前は至る所死人ばかりで、国民党が宝塔橋から燕子磯まで掘った深さ3メートルに幅3メートルの塹壕の中に、全部死人が詰め込まれていました。。私は死人の下からそうっと這って行き、和記洋行まで駆けていきましたが、その頃そこが世界紅卍字会の場所だったので、そこで中国人がたくさん働いていて、門番の詰め所にいる者、清掃係、雑役など、みんな腕に紅卍字の標識をつけていました。私が門を叩いたら、門番さんが中国人で、門を開けるなり、私が全身血まみれなのを見て、体をきれいに洗うように、雑巾を一枚渡してくれ、外側の汚れた服を脱がせてくれました。その時私はチョッキ一枚と猿股を一つ身につけていただけで、冬だったのに、ちっとも寒く感じませんでした。そこの人たちがマントウ(饅頭=蒸しパン)を2つくれたのを、すぐに食べ終わり、水道の水を少し飲みました。丁度その時、日本兵がきて門を叩いたので、みんなは私に急いでテーブルの下に隠れさせましたが、テーブルの周りに布がぐるっとかかっていたものの、椅子がそばにあったので、みんなは日本兵が椅子に腰掛けて、足がテーブルの下に届くといけないので、急いで椅子をテーブルから遠く離れたところへ運びました。日本兵が入ってきても誰も見つからず、紅卍字会のドイツ人に追い返されていきました。紅卍字会で働いている中国の人たちが私の状態をドイツの人にはっきり話してくれて、私を留めて紅卍字会で働けるようにしてくれました。私たちはしょっちゅう屍を片付けに出かけていきましたが、宝塔橋一帯はあまねく機銃掃射で撃ち殺された中国人ばかりで、世界紅卍字会では屍を1つ片付けるごとに、数字を1つ書き入れました。これらの数字は日本軍が南京でやった大虐殺という犯罪の証拠です。翌年(1938年1月か2月)に、私は又日本兵に捕まりましたが、私が大工で、「中央軍」でないことが分かり、殺されませんでした。(甄秀が記録)

   
「Imagine9」【合同出版】より



武器をつくったり



売ったりしない世界



「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」

 これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
 世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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