「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年3月28日の中華民国維新政府の成立以降、南京の秩序も表面的には回復し、日本軍の残虐行為もずっと少なくなったので、南京大虐殺事件、略称としての南京事件は一応この時期に終焉したと考えることができる。しかしその後も、南京における日本軍の残虐行為はあとをたたなかったし、ヴォートリンが南京事件が女性に与えた悲劇の深刻さを改めて知らされるのも、その後のことであった。そこで、彼女のその後の日記を紹介しながら、南京事件のその後の日々をたどってみよう。
1938年4月
国立中央大学の付近にある模範刑務所に元兵士の嫌疑を受けて多くの民間人が入獄しているという情報をもとに、ヴォートリンの救出活動は粘り強く続けられた。南京市政府公署の顧問をつとめる許伝音博士から、収容されている民間人の釈放を求めるには新たな形式の嘆願書と名簿の提出が必要であるといわれたヴォートリンは、4日間をかけて新しい書類を作成させる。「男性の釈放が、たとえそれが10人だけであろうとも、あるいはたった1人だけであっても実現すれば、私たちの努力は報われるのだ」とヴォートリンは1日の日記に書いている。
夫や息子を拉致された女性たちが、同刑務所からの釈放嘆願書に名前を書けば、行方不明のままの夫や息子が戻されるのではないかという一抹の望みを託して、新たな形式で開始された嘆願の署名に、一日に数百人の割合で女性が金陵女子文理学院を訪ねてくる。夫や息子が生きて戻ってくる可能性がほとんどないに等しくても、それでも疲れを忘れて、あらゆる手段を尽くし、必死に探し続ける女性たちを目の前にして、「彼女たちの傷ついた心を知るのは、何と悲しいことか。涙がこみ上げてきそうになる。私たちはこの嘆願に対してあまり期待を持たせないようにしている」と4日の日記に書いている。
6日の日までに、935名の釈放嘆願署名が集まったが、そのうち模範刑務所に収容されているのを確認できているのは10人に過ぎなかった。嘆願書の受付時にスタッフが調査した結果では、上記の嘆願者総数のうち、241名の女性が、一家の働き手の男性を失って収入もなく、何人かの子どもと老人を抱えたままで絶望的な生活状況にあることが判明した。
今日から新たに南京大虐殺の生存者の証言を載せていきます。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺
伍長徳(男、76歳)の証言
1937年12月に、日本軍が南京に接近していた時、家の者たち(父、母、妻、息子)は蘇北へ疎開し、私だけが南京に留まり留守番していました。その時私は南京で警察官をしていました。日本軍が南京を占領してから、人を見れば殺したので、人口100万だった南京はほとんど空っぽの町になってしまいました。私は国際委員会の「保護」を受けている司法院の難民区に避難しました。
12月15日の午前8時ごろ、突然日本兵が十数人やって来て、銃剣で青壮年の男子をみんな外へ追い立て、道路に集められたのが全部で2000人以上でした。11時ごろに、私たちみんな列になって連れて行かれたのですが、首都映画館(今の勝利電影院)の前まで来たときに、後ろからトラックが何台かやってきて、日本兵と機関銃とを運んで来、このトラック数台が先頭になって、首都映画館からまた出発しました。午後1時に漢中門まで来ると、私たち2000人余りを城門の内側に停まらせ、座れと命令しました。次に日本兵2人が、端と端とを持った長い綱で、座っている群れから100人ほどを囲い出し、その周りを大勢の日本兵が取り囲んで、漢中門の外へ連れて行き、機関銃で掃射しました。こうゆう風にして、捕まえられて来た人たちが、100人、200人と、綱で囲い込まれ、次々に漢中門の外へ連れ出され銃殺されていくのを、私はこの目で見たのです。たまたま神経障害で、体の動かない人がいたのですが、その人もその場で殺されました。午後5時過ぎになって、私自身も囲い出されてしまい、日本兵が私たちを城壁の外側をめぐる河辺に連れて行き、土手の斜面の下まで追い立てました。土手の両側に、機関銃が2台据えられていましたが、よく見ると、目の前にごろごろしているのがみんな死体の倒れ伏しているのでした。慌てた私は、思わず前のめりに23歩つんのめって、どさんと、死体の山の上に倒れこんでしまいました。ちょうど私が倒れたと同時に、銃声が響き、人々が次々に倒れて来て、私は他の人の死体の下に埋まってしまいました。機関銃の射撃の音がしなくなると、すぐ又小銃の音が響きました。小銃の音がしなくなったと思ったら、死体のうずたかくなった上を人が歩いているような感じがしてきました。私は河岸の方に向いて頭を抱え込むようにして突っ伏していたので、背中の上の死体を通して、その上を歩く人の圧力を感じたのでした。その時不意に、背中に一太刀見舞われたのが、焼け付くように痛かったです。日本兵が死体の上でまだ息の絶えていない人を刀で刺し殺したので、その刀の突ッ先が私の背中の上の人の体を突き抜けて、私の身体まで突き刺したのです。この後で又私は2度機関銃の音が響くのを聞いたのですが、2回にわたってみんなを虐殺したのです。それから日本軍は火をつけて死体を焼いたので、私は猛烈な煙と火とに堪えられなく、耐え切れなくなり、真っ暗なのに乗じて、危険を冒し、痛みを堪えて秦淮河に跳びこんだのですが、幸いなことに河は水が多くなく、後で又そうっと南の方に這っていって、水西門のところで這い上がり、瓦廠街9号あたりのある家の台所に隠れたのですが、丁度よくわらがつんであったので、そこにぶっ倒れてこんこんと眠りこんだのでした。そこで初め10日ほど過ごしてから、いつまでも隠れているわけにはいかないと思い、かまどの灰を顔に塗りたくって、物乞いのかっこうをし、やっとのことで難民区に逃げ戻ったのですが、それから鼓楼病院へ送られ50日余り入院して、ようやく刀の傷が治ったのです。今でも背中に長さ5寸余りほどの傷痕ががあるのです。
1946年5月に、極東国際軍事法廷で戦犯を裁いた時に、私は証人の1人として、東京へ行き出廷して証言し、自ら被害を受けた経過とこの目で見た事実とをもって、日本の侵略軍の狂暴な行為を告発したのです。(朱文英と汪道明が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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