2009年3月5日木曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 6月上旬、1人の年老いた農婦が、農村地帯からはるばるとヴォートリンに会いにやってきた。昨年末の城内の男性登録のさいに2人の息子が連行されたままなので、探し出すのを援助してほしいと言うのだった。その老農婦婦が、あの時連行された男性の中で戻ってきた者がいるかどうかを尋ねたので、ヴォートリンはそれは聞いていないし、おそらく彼らは戻ってこないだろうと答えた。この言葉を聞いた老農婦は絶望してその場に泣き崩れてしまい、「あなたが、息子たちが連行されるのを止めてくれればよかったのに」とヴォートリンを責めるのだった。
 5月になっても日本兵の蛮行は相変わらず続いていた。2日の夕方、金陵女学院の門からそれほど遠くない場所で、1人の若い女性が日本兵に拉致された。その場所はヴォートリンがちょうど15分前に通ったばかりだったので、彼女は残念でならなかった。
 9日の夜10時ごろ、三牌楼に住んでいた劉おばさん(50歳)の家に2人の兵士がやってきて、家の中に2人の嫁がいるのを見つけて、中に入れろと激しくドアをたたいた。劉おばさんが拒絶し、憲兵を呼びに行こうと外に出たところを、兵士たちは彼女の顔を銃剣で斬りつけ、さらに胸部を刺して逃亡した。重傷を負った劉おばさんはまもなくして死亡した。この話を聞いたヴォートリンは、「ほとんど毎日、私はこのような話を胸を痛めながら聞いている。人々がなんとも悲しそうにーいつまでこうした恐ろしい状態が続くのでしょうか?いつまで自分たちは耐えられるのだろうか?-と問うてくるのも当然である」と13日の日記に書いている。
 そんなヴォートリンにとっての朗報は、模範刑務所に捕らえられていた民間人の中で、元兵士でないことが証明された者の釈放がようやく可能となり、6月2日、嘆願署名を作成した婦人のうち、刑務所に夫がいることが確認された者は面会に来るようにとの連絡が入ったことである。そして翌日、30名の男性市民が模範刑務所から釈放され、妻子、家族のもとへ帰って行った。ヴォートリンは、1月から始めた釈放嘆願署名運動の成功を喜ぶと共に、結局は夫や夫婦が戻らなかった圧倒的多数の嘆願署名者の女性の失望を考えると、気持ちは複雑だった。金陵大学のスマイス教授の「南京地区における戦争被害ー1937年12月~1938年3月ー都市及び農村調査」では、拉致されたまま戻らず、殺害された可能性の大きい南京城内の市民は、約4200人と算出している。

 
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

趙玉英の証言
 日本軍が南京を占領した時、家は鳳凰東街でした。日本軍が南京人民にやったとてつもない犯罪行為を、私はこの目で見ました。日本軍が冬月の11日に入って来てから、家が日本兵に焼かれてしまったので、私たちは地下の洞窟に住むしかありませんでした。日本軍が南京を占領してから、何日かして難民区で捕まえてきた人たちを、漢中門の城門の所に連行して来て、機関銃で4時間以上も掃射した時、叫び声が天地を揺るがし、屍が地を覆いました。夏という人が土手を歩いていて、日本兵に一発で撃ち殺されたのを、この目で見たのです。その頃、私には1人いつも抱いている子どもがいて、病気をして治らず、泣き声が絶え間ないので、みんなが日本軍に聞きつけられるのを恐れて、息子を捨てさせようとしたのですが、私はあくまで頑張ってやっとこさで子どもに死を免れさせたのでした。
 ある日、私の家でご飯をお鍋で炊いて食べないでいたのですが、日本軍がその鍋に小便をした上、なおもわが家から何十円かを探し出し持って行ってしまいました。しょっちゅう婦女が日本軍に引きずられて行き、恐ろしくて私たちあっちこっちに隠れました。そのほか、私は日本軍が漢中門外で、40何人かを活きたままガソリンで焼き殺すのもこの目で見ました。それに学生が何人か殺されてから、醤油のかめに投げ込まれたのです。(陳詩国が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


 大事にする世界


 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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