2019年1月15日火曜日

細菌戦の系譜!!

ブログ王ランキングに参加中!

細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
戦争の加害パネル展(横浜)
防衛費の異常な増加に抗議!!
第20回『衛生学校記事』情報公開裁判
第11回『化学学校記事』情報公開裁判
731部隊の証言(第26回)(ビデオ学習会)
731部隊『留守名簿』(不二出版)2018年9月
京大 軍医博士論文の検証
731部隊『留守名簿』公開
ある元自衛官の回想 「化学学校の黒い霧」
第10回ビザ発給拒否・集会妨害国賠訴訟【9月21日(金)11:30~東京地裁415号室】
731部隊と「要塞」遺跡を訪ねる

日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

●ニュース
うるま市長、4択の県民投票を県に提案 島袋市長「市議の理解得られる」

原発事故の和解、打ち切り1.7万人 東電が相次ぎ拒否

韓国「1965年請求権協定の補完」 日本に逆提案を検討

バス会社 「点呼」不適切が多数 軽井沢バス事故後に処分の会社

世襲制反対!!
京都市民が「長男の京大進学」を喜ばない事情


「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ

松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示

“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)


真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活


731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他


国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題


中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30

●お知らせ




京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)

731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に



「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

郷愁に泣く

眠気と神経の疲れが限界に達しても、まだ作業が終らない時などは、ふと、死にあこがれるような気分になっている自分に気付いて、ひやりとすることもあった。
 軍医や雇員たちも、遅くなると、私達に仕事を押し付けて帰ることばかり考えている。ことに、辻塚軍医は、私達がすっかり片付け終ってから、
「これを洗っておけ」
といって、シャーレや試験管などを出してくる。もう数分早ければ、みないっぺんに洗えたものを、と恨らんでも、上官に対してそんなことを言えるはずがない。仕方なく、一度きれいにした手をまた汚すのだ、腹に不満があると、どうしても、いい仕事にならず、それがまた、軍医の意地悪を刺激して、ますます余分な仕事を増やす結果となるのだった。
 よくよく貧乏くじを引き当てた。なぜ満州になぞ来る気になったのか、と、いまさら後悔しても始まらない。夜、くたくたになった体を横たえると、いつもそうした、とめどない想いにかられる。そして、幾度にも忘れよう、あきらめようと心に誓った故郷のことが目にちらつくのである。
 同室の森島も来住野も、やはり悲嘆にくれていた。私は、はじめ、床に入ってから、めそめそ泣いてばかりいる来住野を、だらしない奴だと内心あざ笑っていたのだが、その頃になって、ようやく彼の心境がわかると思うようになった。毛布を頭からかぶって、泣きたいだけ泣き、惨めさと涙と一緒に洗い流すのが、一番たやすく眠りにつける方法であった。


・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り




京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・


「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」




日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第3章 毒ガスと毒ガス兵器の大規模生産

曽根の印象

 福岡県小倉市曽根町は、小さな町だ。福岡の人でも、この町のことをよく知っている人はあまりいないのではないだろうか?だが、あまり知られていないであろうが、この小さな町でかつて第2次世界大戦の時に、ここに兵工廠があったのだ。私たちがここにやってきたのは、その調査のためなのだ。ここは、砲弾の中に化学毒剤を填実する曽根兵工廠の所在地だ。当然のことながら、この工場は今は存在しない。聞いたところでは自衛隊の自動車訓練場になっているそうだ。
 私は、何日か前に北京から福岡に来た。短い間に山口、下関、福岡を訪問して各大学で講演をした。毎日地図を見ながら歩き、九州一帯の地理環境を少し理解することができた。博多は福岡市の一部分であり、また、福岡市の別名でもあるが、しかし、その名前は福岡というより博多と言った方が通りがいい。こういうと私はやはりかつての歴史を回顧せざるを得ない。日本の歴史で言えば福岡は外交と軍事の重要な拠点であった。




●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①

15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪

西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表

2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか

医学教育の軍事化・医学生の戦時動員もあげられます。1939年から、軍事教練が全大学の学部学生の必修科目となり、医学部でも、現役の配属将校による軍事教練が課され、軍事講習の授業も実施され、軍隊内の衛生・防疫および戦傷について学ぶ軍陣医学(現在の軍事医学にあたる)の講義も行われました。同年より、「学生衛生部隊」が全国の大学医学部の学生により組織され、夏季休暇時等に各地に「衛生調査」等の名目で派遺されました。



昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)



●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳


略年表
1940年末
指導的な心理学者、優生学者、官僚たちが「安楽死」法案を検討する。
1941年6月22日
ソ連への攻撃開始。SS、国防軍がユダヤ人、シンチとローマ、精神病疾患、ソ連軍将校などの集団殺戮を始める。
1941年8月
カトリックの司教カウント・フォン・ガレンらの抗議によって、精神疾患の毒ガス殺戮が一時停止した。しかし殺戮はすぐ、より集中的かつ大規模に行われるようになった。
1941年12月11日
ドイツのアメリカへの宣戦布告。






イタイイタイ病を究明した男 萩野昇

●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く

水俣病問題

小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去

小泉親彦と宮川米次の絆

ヒロシマからフクシマへ

宮川正

「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—

ビキニ「死の灰」世界各地へ

自衛隊とサリン

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場

日本の国家機密

兒嶋俊郎さんを偲ぶ



●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!


●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年

第7章 満州事変



1933年1月14日、参謀総長閑院宮が満州への部隊増派の裁可を求めたとき、天皇は熱河省の件について注意を与えた。牧野によると(木戸の記録からも確認できる)、天皇は閑院宮に「満州に付ては此れまで都合好く進み来りたり、誠に幸なり、今後功一箕(いっき)〔簣〕を欠く様の事ありては遺憾なれば、熱河方面に付ては特に慎重に処置すべし」と語っていた。言い換えるならば、天皇は閑院宮に行き過ぎた作戦を戒めたのである。天皇は領土の拡大そのものを懸念したのではなく、失敗を、そして失敗の責任がどこに帰結するのかを恐れたのだった。
 数週間後、天皇は、第2師同長の多門二郎中将と事変の緒戦に参加した朝鮮軍混成第38旅団の司令官依田四朗将軍をわざわざ褒章したのである。将軍たちはちょうど、広島県宇品港に着いたところだったが、天皇は、嘉賞(かしょう)の言葉を伝えるために侍従武官を遣わした。


小泉親彦と昭和天皇

近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~

近代天皇制の真髄は

福沢諭吉

神武と戦争




憲法9条を生かそう!!





0 件のコメント:

フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中