2020年7月5日日曜日

細菌戦の系譜!!


中国侵略戦争
第5回「戦争の加害」パネル展in横浜
細菌(生物)戦争
『BCGと人体実験』 美馬聡昭著
731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊・細菌戦資料センター総会のご案内
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会






●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。

今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)

1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置

【コロナは生物兵器か】人工のコロナウイルスショックによる文明の転換点 船瀬俊介氏が語る



米軍300人が新型コロナの感染が広がる前に武漢にいたという。
新型コロナウィルスを撒いたのは??



1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察


731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

731部隊被害者遺族の訴え!!        
 


検証・中国に於ける生体実験
東京帝大医学部の犯罪   美馬聡昭著  桐書房(2013年)

第3章 国家機密の抹殺


柳澤謙の遺稿集発見                                         、

  さらに柳澤謙によると。

 「益子義教に『BCGの再接種に関する研究』をもう1度動物ばかりでなく、人体についてもやってもらった。この研究は、1944328日厚生省研究所集談会(公衆衛生院はこの頃厚生省研究所)で、同年6月22日には結核予防会結核研究所集談会において発表させた。それを益子は同年11月謄写版刷りとして東京帝国大学に学位論文として提出し、学位を授与されたのである。」  

 この論文が、当時の雑誌に掲載されていないか徹底して調べた。該当する雑誌としては、「日本細菌学雑誌」が有力であったが掲載されていなかった。この雑誌は、19447月発行の月刊誌で、伝染病研究所の機関誌「実験医学雑誌」、北里研究所の機関誌「細菌学雑誌」と京都帝大の「日本微生物学病理学雑誌」合併した雑誌であった。


 



  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

   
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、事実も認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

細菌戦裁判第1審判決ドキュメント

                                 ー嵐の4日間ー

                                                      中谷真紀子 (大学生)

8月27日午前10時~   東京地裁正門前

◆中国からの裁判訪日団の熱気

裁判所には既に、大勢の人たちが集まっていた。正門前は、中国から来日した原告と支援者、弁護団、日本の支援者、報道の人たちでいっぱいで、熱気にあふれていた。浙江省から22名が、湖南省常徳市から46名が来日した。その他、山東省、重慶、上海、香港からも来ている。総勢75名の裁判訪日団である。

 


●731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

731部隊の行なった細菌戦


●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。
           
731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記


731部隊新文書公開   赤旗200620
京都 隊員の敗戦時の行動
 旧日本陸軍の細菌戦部隊・731部隊に所属した隊員の敗戦時の行動などについて、公文書により新たに明らかになった資料が19日、公表されました。研究者2氏が、京都市内で記者会見しました。
 会見したのは、滋賀医科大学の西山勝夫名誉教授と、「15年戦争と日本の医学医療研究会」幹事の原文夫氏。
 今回明らかにされた資料は、731部隊を本部とする関東軍防疫給水部(関防給)の各支部、隊員の詳細について記された「関東軍防疫給水部部隊概況」。国立公文書館から今年3月に西山氏らが入手し、判読できるよう両氏によって翻刻(ほんこく)されました。
 これまで関防給の部隊員名薄は、当時、陸軍の全部隊が作成していた「留守名簿」が初めて公となった文書でしたが、隊員の詳細までは明らかになっていませんでした。今回の資料では、五つの支部ごとの所属隊員の氏名が、行動群別に階級、本籍、行動状況とともに記されています。また関防給の敗戦時隊員数が、総計3262人であったことも明らかになり、「公文書によって明らかになったのはおそら初めて」としています。
 会見で西山氏は「『留守名簿』で不明だったことが明らかになった意義は大きい。731部隊生き残りの方たちの証言の裏付けにもなる」と強調。原氏は「政府は731部隊を公式には認めていない。およそ全体像が明らかになってきたもとで、研究者が協力して、早く解明すべきだ」と述べました

1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 
「1931」斉藤準太郎の日記


15

晴風寒し 最高4度 最低20度 お昼の炊事係僕です  ご飯が炊ける様になった―タコのス味?僕の腕前も立派になった独身生活する可能性多々有

又酒?新年宴会だからなと 云ふて呑むわけではない勤務中だからな・・・地方では酒の出る所だ 忘年会だ 正月だ 年始回りだ2日だ3日だ酒々々々々々々々々5日の新年宴会また酒々々々か  中隊から電話・・・その内容・・。「鳴―々 モシモシ炭坑ですか」「は―いそうです」「斎藤おります?」「斎藤デス.誰方ですか」「ほんと―斎藤?斎藤? 」「そうですよ」小さい声でうるさいな「ヤイヤイ 斎藤、俺を知ってるかい」「ウームわからないです」「ぼやぼやするでない」「中隊の山本知らんか」「ヤイコノ山本大きな事云ふな 斎藤々と安売りではあるまい」「まあ、そんなに怒んな女の声で話をするよいいか」「よろしい用事は何だい?」「あのね斉藤さん、私 今日外出するのよ」「勝手にしろ 勤務しているのを知らんか」「鞍山の活動に行くの」「山本、女の声はやめろ活動はないよ」「ありますよーだーよー」「用事は何か」「活動見に行くから斉藤に知らせて喜んでもらうんだ」「食わしたなー山本さんお土産たのむよ」「オーライ高盛堂ハオ・・ナ」「テーラ」「では行くよ」「たのむよ」


 ●パネル展「日中戦争―その実相に迫る!」感想(2020年2月8日~13日)


2月9日(日)

17. 子どもがべトちゃんドクちゃんの写真にショックを受けていました。小さい子に対して、どのようなことが起こっているのかうまく説明できません。今の学校の教育ではさほど教えていないと思います。戦争について、もっと子どもたちに教育していく機会が必要と思います。たまたま去年も上の階で年1回の打ち合わせがあって立ち寄りました。同じ人々の活動かは分かりませんが、今後も続けてください。ありがとうございました。(女、40、市内、偶然)

    
●映画「ひろしま」アンケート(1月13日 横浜)
( )は性別・年代・住まい・情報

60.戦争の被害面だが原爆のことを映画を通して思い出した。伊福部昭の音楽がとても効果的だった。平和を願う作曲家だった。多くの関係者の皆様「上映」の準備をして下さってありがとうございました。

(男性・70代・市内・朝日新聞)



日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

●細菌戦
【真相】(unit731)

・『石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)

V 私は中国軍の捕虜だった

<ー総務部調査課翻訳(情報)班 H・M

「あの兵器は、陛下がお許しにならぬ」
 石井部隊長は着任すると、部隊業務の重点をそれまでの研究から兵器生産へと転換した。彼は、まずペスト兵器の量産を呼号し、約3000名の全隊員及びその家族に鼠の飼育を命じた。私も宿舎で鼠を小箱に入れて飼育、量産につとめる羽目になったのであった。
 こうして量産した鼠をペスト菌に汚染させる。これらのペスト感染鼠を餌にして、蚤を飼う。鼠の斃死とともに、蚤は鼠を離れ、ペスト蚤となるのである。広大な作戦地にこのペスト蚤を放ってこれを汚染地とするには、ペスト蚤をトン・プランで生産しなければならぬ、ということであった。




・『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』

中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳

三 警察・憲兵の第731部隊への「特移扱」 

堀口正雄供述書(1954年8月28日)

問:牡丹江で憲兵分隊長をしていた機関の活動と、犯した犯罪行為について詳しく述べよ。

答:1939年の初め頃、牡丹江市で牡丹江の軍情偵察をしていた3名の抗日地下工作員を逮捕し、拷問を加えたのち、憲兵隊長に報告した。それから司令官の許可を受けて、1名を「特移扱」でハルピンの石井機関に細菌実験のために送り込んだ。ほかの2名は検察庁に送られ処刑された。また、1939年5月と6月に前後して、東京城に潜入した5名の抗日連合軍の隊員を逮捕し、拷問を加えたのち、2名をハルピンの石井機関に「特移扱」として送った。2名は検察庁送りとなり、1名は特務機関に引き渡した。

     (1)119-2、40、1、3


  

●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著
第1章 毒ガス兵器の研究と開発

4 対ソ戦を想定した毒ガス兵器開発と人体実験

中国東北での大規模な毒ガス演習


 事件後、参謀本部と関東軍司令部の関係者の多くは責任を問われて更迭されたが、参謀本部作戦課長を務めた稲田正純大佐は1939年秋に陸軍習志野学校付となり、以後、彼を中心として対ソ戦を想定した大規模な毒ガス戦演習が中国東北地方で始まっていく。稲田大佐は、ソ連との戦争が始まった場合、堅固なソ連軍の陣地を突破することが日本軍の作戦上重要だが、そのためには膨大な量の砲弾が必要になるので、「既に之等闘資材の相当行詰りある今日、之が打開を求めて当然想起するのは毒物なり。瓦斯並びに細菌の使用なり」として毒ガスや細菌兵器に関心を寄せたうえで、「満州国」東部からのソ連領内への侵攻作戦で毒ガスは威力を発揮する「絶好の機会を発見し得」るとして、即効致死的な毒ガスの大規模放射やイペリット弾の大規模集中射撃などの毒ガス用法について論じており、最後に、「化学戦は国軍にとり極めて重要なり」としたうえで、大規模集中的で急襲的・攻勢的な使用を提言していた(稲田大佐「化学戦概論」)。この意見は、稲田大佐の個人的な見解も含まれているだろうが、参謀本部の作戦課長を務めた者が毒ガス兵器や細菌兵器を対ソ戦の構想の中でどのように位置付けていたのかを示すものとして注目されるものである。

 

  
  ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第12章 癒しがたい傷
付記・忠海病院及び行武正刀院長訪問記

 私はもっとたくさんの問題を尋ねたかったが、もう12時になっていた。間もなく船に乗って大久野島へ向かわなければならない。行武先生も意を尽くせなかった様子で、1つの資料を取り出して私に下さった。それは大久野島で被害を受けて亡くなった人の慰霊碑の説明で、被害者の数、病状などが書かれていた。表紙は慰霊碑の写真であった。大変荘厳な記念碑で、大きな自然石を組み合わせて構成されていた。これが日本における碑の特徴である。上のほうが主要部分で、大きな石の上に「慰霊碑」の3文字が書かれている。下には3つの巨石があり、平らに削られた面に碑文が刻まれている。

「これは1985年に建立されたものです。その目的は毒ガスのために生命を奪われた大久野島毒ガス工場の人たちを追悼するためですが、それと共に、被害者に対する援助活動を推進するためでもあります」と説明した。

※ここには中国の毒ガス犠牲者については全く触れていない。




 
              毒ガス工場の焼却


現在、大久野島国民休暇村


日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

細菌戦ー731部隊の蛮行
 田村良雄(たむらよそお)防疫診療助手 兵長
(略歴〉
1939年5月  元関東軍防疫給水部本部(731部隊)に入隊
1943年3月  退職
1944年3月  元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月  元関東軍125師団軍医部兵長
1952年6月  逮捕さる。河北省永年県において

本籍地=千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢=34歳

大木は、さっきから須藤と私を交互に見ております。大木の視線に合った私は、消毒薬で須藤の全身を拭き始めました。平静を装うために私はできるだけ乱暴に行ないました。「よし、科学者は冷静であるべきだ」課長は私を褒(ほ)めたんだな、と感じ取った私は、中国人に対したと同じように消毒薬を浴びせました。消毒薬の冷たさで正気に返ったのか、うつろな目を見開き左右を見回そうとして首を動かそうとしました。動かすごとに首かせが食い込んでいきました。

「班長殿、班長殿、胸が・・・胸が・・・・」顔をゆがめもだえたと思うと、グーグー口からドス黒い血を吐き出しました。「班長殿、班長殿」と須藤はこの病気に感染して以来ずっと叫び続けてきたであろう、治療を要求しておりました。

 


2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)



●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!

日本の毒ガス

沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??

「琉球処分」から140 今の沖縄を考える

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?

・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告

和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)

第4 私達の情報公開裁判闘争の目的

1号の94頁には、2号(19578月号)の予告が掲載されていますが、2号には園口忠男氏が「生物戦研究は一般社会に役にたったか?」を発表しています。このように731部隊時代の研究成果を交えた細菌戦(生物戦)研究論文が掲載されています。

 旧日本軍は、日中戦争中、731部隊や1644部隊などの細菌戦部隊を使って、細菌兵器開発のために中国人等に人体実験を行ない、更に実際に中国各地で細菌兵器を使用し、中国全体で数万人にのぼる膨大な犠牲者を出しました。

 これは、1925年のジュネーブ・ガス議定書が禁止する「細菌学的戦争手段」に該当し、著しく残酷で人道上決して許されないものでした。

 


・次回『衛生学校記事』情報公開裁判(第26回)東京地裁419号法廷
緊急事態宣言が出たため、4月の裁判は延期になりました。

・次回 2020年6月3日(水)11:30~ 東京地裁522号廷の予定でしたが、
新型コロナウィルスの影響の為、延期になりました!!


第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。

1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。

『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。

1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊


第4代衛生学校長

『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
          


金原節三と細菌戦

金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。

細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。

金原節三と武見太郎

金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。

※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!

『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人

収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。



●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。

Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み

1、 生物・化学兵器の開発の歩み

恐るべき人体実験


また、昭和17年には次のような謀略行為を行った。

南京の俘虜収容所に収容されている中国人約3000人に対してチフス菌を注射器で注入した饅頭を食べさせた。

第643支部衛生兵であった古都が証言している。

(答)「饅頭は細菌で汚染した後、収容所に送り、そこで中国語を知っていた通訳春日がこれらの饅頭を中国軍の俘虜に食べさせるために配布した。そして中国軍の俘虜は、チフス及びパラチフスの流行を惹起するため、収容所から全員が出された。」

 ベトナムで毒入りキャンディを米軍が配った事実が報道されたが、石井部隊は細菌で汚染したビスケットを配布したこともあった。

 

 

 第5代衛生学校長

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
            

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
水俣病問題
小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
小泉親彦と宮川米次の絆
ヒロシマからフクシマへ
宮川正
「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
ビキニ「死の灰」世界各地へ
自衛隊とサリン
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
日本の国家機密
兒嶋俊郎さんを偲ぶ


●昭和天皇の戦争責任を問う!!

天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。





●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)吉田裕監修 
2001年ピュリッツァー賞受賞

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
          


第12章大元帥の試練

典型的な舞台裏の人物である木戸は、かつて天皇とともに東条を高く評価していたが、東条倒閣に際しては中心的な役割を担っていた。東条の後継首相、小磯国昭大将の在任中、木戸は天皇とともに陸海軍の海軍の戦争推進派を支持しつづけた。換言するならば、東条の辞任は、天皇や木戸の戦争終結の意図を示すものではなかったのである。

東条の失脚後、天皇は戦争に楽観的ではなくなった。それにもかかわらず、天皇も木戸も依然として早期和平の実現を考慮しようとさえしなかった。B29が間もなく東京を空爆することを十分に知っていながらである。同じことは、近衛公爵の周辺で「和平工作」に関わった多くの重臣にも当てはまる。

                    



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書 2010年発行)

第1章 二酸化炭素温暖化論が地球を破壊する

水蒸気の作用

 現在のところ、温室効果ガスの寄与率には、科学者によって諸説あるので、断定はできないが、水蒸気の寄与率は、最小の説でも60%であり、最大の説では95%である。

 この「水蒸気を除いた場合」には、IPCC4次報告からの数字を読み取ると、CO₂ー60%、メタンー20%、フロンー14%、NO(一酸化二窒素=亜酸化窒素)ー6%ぐらいと推定されている。つまり現在の温暖化で議論されてきたのは、なぜか「水蒸気を除いた」この4つだけで、とりわけCO₂だけに話が集中していること自体が、おかしいのである。

 

●核実験(ウキペディアより)

若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


年月日

名称(実験名)

核出力 (kt)

実施国

重要性

1945年7月16日

ガジェットトリニティ実験

19

 アメリカ合衆国

人類史上初の原子爆弾実験

1945年8月6日

リトルボーイ

15

 アメリカ合衆国

人類史上最初の実戦使用(広島市への原子爆弾投下

1945年8月9日

ファットマン

21

 アメリカ合衆国

直近の実戦使用(長崎市への原子爆弾投下

1949年8月29日

RDS-1(ジョー1)

22

 ソビエト連邦

ソビエト連邦による初の原子爆弾

1952年10月3日

ハリケーン

25

 イギリス

イギリスによる初の原子爆弾






 





●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




●核融合もすべきではない!!
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について




日本政府・自衛隊は情報を公開せよ!!(情報開示!!)

今年も8月12日がくる──。33年前 520人が犠牲になった日航機墜落、遺物の化学分析で判明した事実とは?

中曽根元総理が知る日航機墜落事故の真実とは?墓場まで発言の真意を調査!

ここの研究所は、どんなことをやっているのだろうか??

国立感染症研究所村山庁舎(武蔵村山)

●1954年3月1日第5福竜丸他1000隻もの船が被曝!核兵器廃絶!!

なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
       
      
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書



水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!
       






           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日
「日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか 」 田中利幸さん
日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病

731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!

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