731を問う!!
2019年10月23日水曜日
細菌戦の系譜!!
●731部隊関連資料の公開を求めて!!
●「731部隊資料開示請求裁判」進行中!
●小津安二郎と宮柊二と毒ガス戦
●ABC企画委員会パネル展
●『主戦場』上映会のお知らせ!!
●黒岩知事に抗議!!
●第5回 三多摩平和交流会
●旧日立航空機(株)変電所ほかフィールドワーク
●脱原発!!
●もっと知りたい、見つけたい(peace8)八王子
●前川喜平講演会
●「731部隊犠牲者遺族の声を聞け!①のご案内
●沖縄と枯葉剤
●天皇制廃止に向けての第一歩:雲上人を人間化する運動を!
●京都大学に対する第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求める活動
●北支那防疫給水部留守名簿
●平沢正欣論文を検証する(人体実験は行われたか?)
●武蔵村山の国立感染症研究所問題!!
核兵器、生物兵器、化学兵器廃絶!! 戦力不保持!!
●ニュース
現在の課題
優性思想の蔓延化?
5、津久井山ゆり園事件
2016年7月、神奈川県相模原市の知的障がい者施設「津久井やまゆり園」で植松聖被告が入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせた事件から3年―-。・・・・・やまゆり園に勤務していたこともあった植松被告だが、犯行動機になった考えには今も変わりないというのだ。(AERA 2019.7.26)
2019年八王子「日本の毒ガス戦と遺棄毒ガス」展
10月19日(土)の感想
・私は、大学(戦争分野について、特に軍関連に感心があり)で、学んでいるため、大いに勉強になりました。【男性、10代、市外(江東区亀戸)】
天皇即位の行事、軍事費、原発等にお金を使わず、災害復興に使え!!
終わりにしよう天皇制 11.26大集会・デモ
天皇制の問題・・・①侵略戦争の反省がなされていない、②出自によって差別される構造ができる。③男女差別を助長する。
共産党「現行憲法に抵触」即位礼など欠席 他の主要政党は祝意
即位礼 2万6000人態勢で都心警戒 警視庁に「最高警備本部」
台風21号 明日24日(木)小笠原諸島は暴風雨警戒 25日(金)頃は西・東日本で強雨注意
スーパー台風に今の政治が無力である理由 気鋭の学者が語る「弱者への被害の移転」〈dot.〉
天皇を民間法廷に立たせてから19年…「慰安婦は就職詐欺であり、国家性犯罪」
「旭日旗」の韓国語の説明を掲載するという日本…韓国外交部「歴史を直視しなければ」
「会見 知る権利のため」 群馬弁護士会の集会で東京新聞・望月記者 政権とメディア考える講演
辺野古関与取り消し訴訟、きょう判決
#大竹まことゴールデンラジオ#金子勝 (文化放送 2019-10-18)
●日本政府・自衛隊は情報を公開せよ!!(情報開示!!)
特別秘密保護法撤廃!!
憲法9条はどこ行った!!
防衛省がフリーランスを排除
全日空機雫石衝突事故
岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸の旅客機に航空自衛隊の戦闘機が飛行中に追突され、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。1985年(昭和60年)8月12日に日本航空123便墜落事故が発生するまで、日本国内の航空事故としては最大の犠牲者数を出した事故であった。
アシタノワダイ削除「日航123便 墜落事件」
自衛隊の不祥事!!
日航機123便墜落の真相 〜JALボーインング747に訪れた悲劇の全貌〜
日航機墜落事故から34年 御巣鷹で慰霊登山始まる
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●憲法第9条(自衛隊は違憲ではないか!!)
自衛隊は、防護のためと言って毒ガスを製造している!!(日中戦争時のも日本軍は本格的な毒ガス戦を中国で行った!!)
日本の毒ガス
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】
・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
これでは客観性がないではないのか??官邸主導
なぜ、「731」と書かれた戦闘機に乗れるのだ???
2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影
オリンピックにお金をかけるのではなく、いじめ対策・貧困対策・戦争被害者対策にお金をかけるべきだ!!
●国立感染症研究所村山庁舎(武蔵村山)
特定一種病原体等の受入れについて
このことについて、令和元年9月26日(木曜日)夜、加藤厚生労働大臣から藤野市長に対し、国立感染症研究所村山庁舎が一種病原体を所持するに至ったとの電話連絡がありました。
また、本日、国立感染症研究所から以下のとおり情報提供がありましたので、お知らせします。
令和元年7月5日付で、特定一種病原体等所持者である国立感染症研究所が、特定一種病原体等であって外国から調達する必要があるものとして輸入するウィルスを厚生労働大臣より指定されたところですが、今般、国立感染症研究所は、次に掲げるウィルスを外国より受入れ、所持したことを報告します。
南米出血熱ウィルス
ラッサウィルス
エボラウィルス
クリミア・コンゴ出血熱ウィルス
マールブルグウィルス
エボラ出血熱のウィルスなど危険の高いものをなぜ輸入する?
日本は全く細菌戦の反省をしていない!!
感染症対策のウイルス保管を説明
エボラ病原体”輸入”国に安全対策求める
●なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。
封印された原爆報告書
水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!
ビキニ「死の灰」世界各地へ
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
「わざわざ自分らのことを『げんしりょくむら』とは?
「あつまれ!げんしりょくむら」に批判相次ぐ サイト閉鎖
●核兵器廃絶
安倍首相 核兵器禁止条約参加に否定的姿勢 核廃絶へ対話促す
2019 所沢市 平和祈念資料展
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日
●「日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか 」 田中利幸さん
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊
731部隊の病理解剖の顧問をした清野謙治も、窃盗事件で京大を追われた後、戦後は東京医大教授になった。731部隊で細菌を製造していた柄沢も東京医大だ!!
日本の底にツルハシでも崩れない差別がある 東京医科大の不正入試提訴 会見詳報
新宿戸山の人骨もきちんとDNA鑑定せよ!!
抑留者遺骨「全て日本人でない」
竹田恒和JOC会長、IOC委員を辞任
竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか
海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見
森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」
「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ
松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示
“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)
真実を隠すために死刑にしたのでは??
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活
京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)
731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!!
昭和天皇の戦争帰任をもっと追及しよう!!
戦前の天皇がいかに大きな存在であったかが分かる。
NHKスペシャル「 昭和天皇は何を語ったのか」拝謁記
昭和天皇の戦争責任を問う!!
昭和天皇、戦争を悔い退位に言及 改憲再軍備も主張、長官の拝謁記
昭和天皇、戦争の「反省」表明望んだ 詳細記録見つかる
京都大学に対する第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求める活動
人骨発見から30年・
●横浜「戦争の加害展」感想
2月16日
15.よく理解できました。平和のために闘わなければいけませんと強く思い、決意しました。(60代)
●(「琉球処分」から140年、今の沖縄を考える)パネル展感想
115.古くからの歴史が解り、よかった。源蔵の宮古島の生活用水の問題も初めて知ったのでもっと知りたいです。(女.80.市内.ウエブ)
●日中戦争(『三光』より
小美野義利
戦務班長 憲兵曹長
〈旧部隊名〉
関東軍特別警備隊2大隊本部
「か、帰りますか」と桐原が言うと、みなは、はじかれたように動き出そうとした。軍医は、「ちょっと待った、ふつうなら一週間もかかる解剖だ、もう少しやろう」と、また、しゃがみこんで、腹に手を突っ込んだ。「君たちは生きている人間の首を斬るが、私は死んだ人間をいじるんですからね。イヒヒ・・・・」と笑う小笠原軍医の顔は、ロウソクの灯に悪魔のようにゆれている。
「ホレ、これが膀胱だ」「これが肝臓だ」「これがキモだ」
次々に切り出す軍医の手に中国人は細々(こまごま)に切りさいなまれていった。4辺に漂う血の臭いは、押し寄せる夜とともにひしひしと鬼どもを包んできた。
「もう帰ろう」
たまらなくなった小林少尉は、山垣内に目配せして、東の方に歩き出した。軍医はなおも執拗にやろうとするのだが、みな浮き足立ったので、残念そうに見下ろした。
小美野、桐原は足を引きずり、ずたずたになった死体を穴に投げ込み、大急ぎで土をかけると、逃げるように自動車にかけもどった。
「おい、全速力だ」
鬼どもを乗せた自動車は電灯の明滅する新京の街に突っ走って行った。
●日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第8章 無辜の被害者
河北叩崗(コウカン)毒殺事件
小1時間ほど過ぎると、小屋の中でいぶされた人々が少しずつ意識を取り戻した。だがこの時、中の1人、趙文起(39)は被毒症状が重く死亡した。その他の41人は頭が重く、四肢に力が入らない状態だったが、日本兵は情け容赦なく彼らを脅して立ち上がらせ、銃床と棍棒で小突きながら、彼らを徐黄甫の偽拠点まで追い立てた。その途中、40過ぎの李吉と胡文の2人が倒れて死亡。残った39人は徐黄甫で3日間監禁されている間に18人が黄色の泡と血を吐いて死んだ。生き残った21人も皆一様に、症状はかなり重く、曇りの日には呼吸が苦しくなった。叩崗事件は日本帝国主義が毒ガスによって中国の一般市民を殺した動かぬ証拠である。
(広島県大久野島毒ガス工場)
●証言 人体実験(731部隊とその周辺)
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
田村良雄自筆供述書(1954年9月30日)
3、第2部 部長は薬剤少将、大谷。
山口班 責任者は陸軍技師、山口。細菌弾の製造。
田中、篠田班 責任者は陸軍技師、田中及び篠田。ノミの繁殖。
航空班 責任者は薬剤中佐、増田美保。細菌の輸送及び散布。
4、第3部 部長不詳
運輸班 責任者不詳。人員及び器材の輸送。
工作班 責任者不詳。濾水器などの修理。
整理班 責任者及び任務不詳。
●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳
■医療の根本的変化
66.〔ベルリンで発行された「全国母子協会」のポスター『母となるための準備』。「健康な幼年時代ー健康な青春」「分娩の準備」「ドイツ婦人活動・母親部門による実習訓練」「妊婦相談所」「産婆による準備相談」などといったタイトルの絵とスローガンが書かれており、左中央の枠内には「親戚の人々や知人の最善の助言も必ずしも正しくない。〈まちがい〉もあってはならない。専門訓練を受けた人々にだけ相談をしなければならない」という指示があり、右下枠内には1927年7月16日公布の『分娩前後の措置に関する法律』が示されている。〕
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作ってもいいのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える
●「化学学校記事」情報公開裁判
次回 11月13日(水)11:30~ 東京地裁522号廷
防衛省は、次のように主張する。「昭和35年4月以降は、編集は化学学校が行うものの、発行は大宮修親会業務とされている。昭和43年以後の「化学学校史」には学校記事の記載は無いものの、廃刊に関する記載は無く、化学学校記事が発行されていなかったことは確かであるが、昭和42年発効の第12号が最終号であるかは不明であると。」
何で、自分の所が出している機関誌がいつ廃刊したのか分からないのか?
こんなことでは、税金の無駄遣いである。
それ以後の「化学学校記事」16号は存在しているのである!!
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
次回 第23回『衛生学校記事』情報公開裁判
12月12日(木)14:00~419法廷
金原節三氏が寄贈した資料が、衛生学校庁舎3階の彰古館に1982年に「金原節三コーナー」として展示された。
その2000点を超える資料はその後どうなったのであろうか?
防衛省の回答では、金原氏の目録と一致する資料は、今現在は641点だという。
しかし、それも一致するだけで、寄贈されたものではないという。
彰古館に勤めていた人(1996年から2013年)の聞き取りでは、彰古館では、きちんと整理していていなかったようである。
金原資料は、1995年に防衛庁戦史部に移管されたが、翌年また彰古館へ戻したという。
その時はすべてを戻したわけではなかったようだ。
2010年に、彰古館が学校庁舎3階から今の建屋になり、資料も移管されたが、金原資料の整理はきちんとされていないようだ。
金原資料の一部はあるようだが、その他の金原資料は、どこに保管しているのだろうか。
また、彰古館には旧軍資料しか置いていないともいう。本当に「衛生学校記事」や教範類は置いていないのだろうか?
次の裁判までに、勤めていた人の陳述書を防衛省側は出すという。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
『BC兵器』 久保綾三著(1969年)より
3、沖縄―核だけなく毒ガスも
秘密の中のBC兵器
この間に教職員会をはじめ市町村会なども住民の不安が高まる中で究明要請に立ち上がったので、米軍も調査に乗り出し、具志川小学校裏の海水を採取して、神奈川県座間の406部隊に送り分析調査をした結果、「毒物などはない」と発表されたにとどまった。しかし、開南小学校の児童が集団皮膚炎症をおこす数日前から、米軍人軍属の間には海にはいらないようにという注意が密かに出され、普段は米人の家族連れやアベックに賑わう石川ビーチなどすっかり人影が絶えていたという事実が判明し、米軍のベトナムにおける枯葉作戦による被害ケースとそっくりだとして、枯葉作戦に使う薬品が金武湾沖で廃棄処分されたが、あるいは金武湾沿いに米軍基地から流出したと推測されたのである。(『沖縄タイムス』7月26日)
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第10章 戦争の泥沼化と拡大
Ⅲ
この重大な決定に至るまで三年におよぶ議論がなされてきた。昭和天皇は同盟が持つ意味について十分に熟慮する機会を持っていた。そこには、三国同盟はほとんど確実に、日本から外交上の選択肢を奪い、米英との協調を図る機会を永遠に失うということも含まれていた。天皇はナチス・ドイツを信頼してはいなかったが、満州の脅威となるソ連に対抗するためならば、ナチスとの軍事同盟にはけっして反対をしなかった。ただ、イギリス、フランス、アメリカを主敵とすることにのみ反対したのである。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
憲法9条を生かそう!!
2019年10月22日火曜日
細菌戦の系譜!!
●小津安二郎と宮柊二と毒ガス戦
●ABC企画委員会パネル展
●『主戦場』上映会のお知らせ!!
●黒岩知事に抗議!!
●第5回 三多摩平和交流会
●旧日立航空機(株)変電所ほかフィールドワーク
●脱原発!!
●もっと知りたい、見つけたい(peace8)八王子
●前川喜平講演会
●「日本の毒ガス戦と遺棄毒ガス」展
●「医学者たちの戦争犯罪ー731部隊・100部隊」展
●「731部隊犠牲者遺族の声を聞け!①のご案内
●沖縄と枯葉剤
●天皇制廃止に向けての第一歩:雲上人を人間化する運動を!
●京都大学に対する第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求める活動
●北支那防疫給水部留守名簿
●平沢正欣論文を検証する(人体実験は行われたか?)
●武蔵村山の国立感染症研究所問題!!
核兵器、生物兵器、化学兵器廃絶!! 戦力不保持!!
●ニュース
現在の課題
4、福島原発事故による子どもの甲状腺がんの多発を隠蔽!
福島の子ども甲状腺がん検診「縮小」にノーベル賞の益川教授らが怒りの反論! 一方、縮小派のバックには日本財団
「甲状腺検診は「自主参加」による縮小でなく、拡大・充実すべきです」
福島県で増え続ける子どもたちの甲状腺がんについて、12月20日、ノーベル賞受賞者の益川敏英氏や、物理学者の沢田昭二・名古屋大学名誉教授らが福島県にこんな緊急の申し入れを行った。(16/12/26 LITERA)
2019年八王子「日本の毒ガス戦と遺棄毒ガス」展
10月19日(土)の感想
・学校や、普通の生活をしているだけでは、習えないことを知ることができた。
日本の加害者意識が薄く、教えてこられないが、日本が加害者だという事実は存在しているので、それは将来に伝えていかなければならない。(男性、20代、市内)
天皇即位の行事、軍事費、原発等にお金を使わず、災害復興に使え!!
終わりにしよう天皇制 11.26大集会・デモ
被災地で大雨のおそれ 土砂災害など警戒を
東日本 非常に激しい雨のおそれ 台風19号被災地も夜にかけ雨
宮古島市「名誉毀損」訴訟 事態を動かした市民の良識 権力乱用の監視が報道最大の役割
大竹まことゴールデンラジオ#金子勝 (文化放送 2019-10-11)
#大竹まことゴールデンラジオ#金子勝 (文化放送 2019-10-18)
●日本政府・自衛隊は情報を公開せよ!!(情報開示!!)
特別秘密保護法撤廃!!
憲法9条はどこ行った!!
防衛省がフリーランスを排除
全日空機雫石衝突事故
岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸の旅客機に航空自衛隊の戦闘機が飛行中に追突され、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。1985年(昭和60年)8月12日に日本航空123便墜落事故が発生するまで、日本国内の航空事故としては最大の犠牲者数を出した事故であった。
アシタノワダイ削除「日航123便 墜落事件」
自衛隊の不祥事!!
日航機123便墜落の真相 〜JALボーインング747に訪れた悲劇の全貌〜
日航機墜落事故から34年 御巣鷹で慰霊登山始まる
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●憲法第9条(自衛隊は違憲ではないか!!)
自衛隊は、防護のためと言って毒ガスを製造している!!(日中戦争時のも日本軍は本格的な毒ガス戦を中国で行った!!)
日本の毒ガス
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】
・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
これでは客観性がないではないのか??官邸主導
なぜ、「731」と書かれた戦闘機に乗れるのだ???
2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影
オリンピックにお金をかけるのではなく、いじめ対策・貧困対策・戦争被害者対策にお金をかけるべきだ!!
●国立感染症研究所村山庁舎(武蔵村山)
特定一種病原体等の受入れについて
このことについて、令和元年9月26日(木曜日)夜、加藤厚生労働大臣から藤野市長に対し、国立感染症研究所村山庁舎が一種病原体を所持するに至ったとの電話連絡がありました。
また、本日、国立感染症研究所から以下のとおり情報提供がありましたので、お知らせします。
令和元年7月5日付で、特定一種病原体等所持者である国立感染症研究所が、特定一種病原体等であって外国から調達する必要があるものとして輸入するウィルスを厚生労働大臣より指定されたところですが、今般、国立感染症研究所は、次に掲げるウィルスを外国より受入れ、所持したことを報告します。
南米出血熱ウィルス
ラッサウィルス
エボラウィルス
クリミア・コンゴ出血熱ウィルス
マールブルグウィルス
エボラ出血熱のウィルスなど危険の高いものをなぜ輸入する?
日本は全く細菌戦の反省をしていない!!
感染症対策のウイルス保管を説明
エボラ病原体”輸入”国に安全対策求める
●なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。
封印された原爆報告書
水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!
ビキニ「死の灰」世界各地へ
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
「わざわざ自分らのことを『げんしりょくむら』とは?
「あつまれ!げんしりょくむら」に批判相次ぐ サイト閉鎖
●核兵器廃絶
安倍首相 核兵器禁止条約参加に否定的姿勢 核廃絶へ対話促す
2019 所沢市 平和祈念資料展
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日
●「日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか 」 田中利幸さん
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊
731部隊の病理解剖の顧問をした清野謙治も、窃盗事件で京大を追われた後、戦後は東京医大教授になった。731部隊で細菌を製造していた柄沢も東京医大だ!!
日本の底にツルハシでも崩れない差別がある 東京医科大の不正入試提訴 会見詳報
新宿戸山の人骨もきちんとDNA鑑定せよ!!
抑留者遺骨「全て日本人でない」
竹田恒和JOC会長、IOC委員を辞任
竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか
海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見
森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」
「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ
松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示
“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)
真実を隠すために死刑にしたのでは??
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活
京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)
731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!!
昭和天皇の戦争帰任をもっと追及しよう!!
戦前の天皇がいかに大きな存在であったかが分かる。
NHKスペシャル「 昭和天皇は何を語ったのか」拝謁記
昭和天皇の戦争責任を問う!!
昭和天皇、戦争を悔い退位に言及 改憲再軍備も主張、長官の拝謁記
昭和天皇、戦争の「反省」表明望んだ 詳細記録見つかる
京都大学に対する第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求める活動
人骨発見から30年・
・1937年7月7日→日中全面戦争
・7.7集会(2019)「戦争を始めた日」国会前集会
●横浜「戦争の加害展」感想
2月16日
14.改めて「普通の人」のこわさを知った。私もまた「普通の人」普段は、良き「普通の人」の強気。(男性、60代)
●(「琉球処分」から140年、今の沖縄を考える)パネル展感想
114.東京生まれかながわ育ちですが、演劇(燐光群という劇団をひいきにしています)等により、沖縄問題に関心を持つようになりました。あまり時間がないのでじっくり見られなかったんですが、沖縄の地方紙の展示に胸をうたれました。「一般人」も当事者として考えるべき問題だと思います。これからも注視していきます。(XG.50.市内.会場で)
●日中戦争(『三光』より
小美野義利
戦務班長 憲兵曹長
〈旧部隊名〉
関東軍特別警備隊2大隊本部
咳一つしない、不気味な静けさの中にグチャグチャと内臓の動く音だけが聞こえる。ゴムの手袋が、はたと止まった。同時に軍医のうわずった甲高い声が震えながら、「生きている」と叫んだ。小美野はドキーッとして、思わず穴の中をのぞき込んだ。
だが、血の海と化した穴の中には、2つの惨死体と骸骨が4つ青白い月の光に照らし出されて転がっているだけだ。ゾーッとした小美野の耳に、「生きているなんて馬鹿な」と、おろおろした小林少尉の声が聞こえてきた。突然、「アハハ・・・・」うつろな笑いを太田曹長が上げた。
「軍医殿、息が切れてから20分もなるのに、そんな馬鹿なことがあるもんですか」と無理に怒鳴るように叫んだ。「僕もそう思うんだ・・・・しかし、確かにまだ生きているんだ、それ」と、切り取った心臓を掌(てのひら)の上にのせてつき出した。「オッ、確かに動いている」14の眼は恐怖におののいている。朝鮮や東北に20年も侵略憲兵として生きてきて、多くの人々の血がにじみこんでいる小林少尉の顔も、どす黒く全く血の気が無い。7人は目に見えぬ中国人の反抗と圧力をひしひしと感じながら、声も立てず、憑かれたようにそれを見つめていた。
●日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第8章 無辜の被害者
河北叩崗(コウカン)毒殺事件
小屋の中の煙が少しずつ消えていくにつれ、広場は凄惨な、怒りと悲しみの泣き声に覆われた。日本兵は小屋の中の倒れた人々を1人ずつ引き出し、地面に放り出した。小屋の前は黄色の泡沫を口から吹き出した被毒者でいっぱいになった。人々の中から、悲痛な泣き声、叫び声があがった。
(広島県大久野島毒ガス工場)
●証言 人体実験(731部隊とその周辺)
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
田村良雄自筆供述書(1954年9月30日)
2、第1部 部長は軍医大佐、川島清。研究部である。所属の班、室は以下の通り
碇班 責任者は軍医中佐、碇常重。脾脱疽菌研究。
貴宝院班 責任者は陸軍技師、貴宝院。結核菌研究。
降籏班 責任者は軍医少佐、降籏武臣。ペスト菌研究。
吉村班 責任者は陸軍技師、吉村寿人。人体生理の研究。
特別班 責任者は陸軍嘱託、石井。実験用中国愛国者の監禁及び供給。
鈴木班 責任者は軍医中佐、鈴木啓之。任務不詳。
堀口班 責任者は陸軍嘱託、堀口。ガラス器材担当。
湊班 責任者は陸軍嘱託、湊。任務不詳。
●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳
■医療の根本的変化
ヴェンツラーは、この改革プログラムを進めていたとき、同時に鑑定医として何千人もの障害者児童の殺戮を決定していた。彼の代理者のブラックは総統官房において「安楽死」計画を組織し、「最終的決意」に指導的な役割を担っていた。
今日わたしたちにナチズムの矛盾と見えるものは、かつてナチズムの成功の条件をつくるものであった。
つまり、大量殺戮と近代化の組み合わせである。一部の人々の絶滅が他の人々の社会的保証を可能にしたのである。
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作ってもいいのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える
●「化学学校記事」情報公開裁判
次回 11月13日(水)11:30~ 東京地裁522号廷
防衛省は、次のように主張する。「昭和35年4月以降は、編集は化学学校が行うものの、発行は大宮修親会業務とされている。昭和43年以後の「化学学校史」には学校記事の記載は無いものの、廃刊に関する記載は無く、化学学校記事が発行されていなかったことは確かであるが、昭和42年発効の第12号が最終号であるかは不明であると。」
何で、自分の所が出している機関誌がいつ廃刊したのか分からないのか?
こんなことでは、税金の無駄遣いである。
それ以後の「化学学校記事」16号は存在しているのである!!
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
次回 第23回『衛生学校記事』情報公開裁判
12月12日(木)14:00~419法廷
金原節三氏が寄贈した資料が、衛生学校庁舎3階の彰古館に1982年に「金原節三コーナー」として展示された。
その2000点を超える資料はその後どうなったのであろうか?
防衛省の回答では、金原氏の目録と一致する資料は、今現在は641点だという。
しかし、それも一致するだけで、寄贈されたものではないという。
彰古館に勤めていた人(1996年から2013年)の聞き取りでは、彰古館では、きちんと整理していていなかったようである。
金原資料は、1995年に防衛庁戦史部に移管されたが、翌年また彰古館へ戻したという。
その時はすべてを戻したわけではなかったようだ。
2010年に、彰古館が学校庁舎3階から今の建屋になり、資料も移管されたが、金原資料の整理はきちんとされていないようだ。
金原資料の一部はあるようだが、その他の金原資料は、どこに保管しているのだろうか。
また、彰古館には旧軍資料しか置いていないともいう。本当に「衛生学校記事」や教範類は置いていないのだろうか?
次の裁判までに、勤めていた人の陳述書を防衛省側は出すという。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
『BC兵器』 久保綾三著(1969年)より
3、沖縄―核だけなく毒ガスも
秘密の中のBC兵器
ごく最近でも、例えば、1968年7月21日に、具志川小学校裏海岸で夏休みを利用して水泳教室を開いていた那覇市内開南小学校の6年生237人が、水泳中目がヒリヒリと痛み出し、首筋や下腹部などが赤く腫れ上がり、、次々に痛みを訴えた。その時診断に当たった医師は原因不明のまま応急手当をし、「症状から化学薬品のような強い刺激物が海に流出している」と語り、厚生局をはじめ、原水協などの民主団体が追及を始めたが原因が分からなかった。当時、この事件前後に辺野古岬沖合で漁労中の漁夫が海水で炎症を起こし、また屋嘉ビーチではボート遊びの米人2人が同じような炎症を起こしたことが地元から報告され、「7月8日から約1週間にわたって具志川市から金武湾にかけての20キロにわたる海岸がある種の毒物によって汚染された」と漠然と指摘されたにとどまった。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第10章 戦争の泥沼化と拡大
Ⅲ
1940年9月27日、ベルリンで日本代表団がドイツ、イタリアの独裁者と三国同盟に調印した。ルーマニア、ハンガリーのファシズム政権もこれに続いた。条約の条文では、日本はドイツ・イタリアによる「欧州に於ける新秩序」の指導的地位を承認し、独伊は日本の「大東亜」支配を承認した。三強国は、もし「欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国に依て攻撃せられたる」場合には「政治的、経済的及軍事的方法に依り相互に援助すべきこと」を誓約した。この最後の条文は、イギリスを牽制し、アメリカ合衆国を戦争の局外に立たせることを意図していた。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
憲法9条を生かそう!!
2019年10月21日月曜日
小津安二郎と宮柊二と毒ガス戦
小津安二郎監督や宮 柊二も毒ガス戦に関わった?
●小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年(明治36年)12月12日 - 1963年(昭和38年)12月12日)は、日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。伊勢松阪の豪商・小津家の子孫にあたり、一族には国学者の本居宣長がいる。日本映画監督協会会員。
東京物語 (1953)- Tokyo Story - 小津安二郎 監督/HD
2、修水渡河作戦
・・・・・
なお、この戦闘には、「晩春」「麦秋」「東京物語」などの作品で名高い映画監督、小津安二郎が、野戦瓦斯第2中隊(第106師団に配属)の軍曹として参戦していた*。小津監督も修水の毒ガス戦の模様を日記に記している。
雨、今日は菜の花も蓮華畑も杏のさかりも雨の中にある。修水河総攻撃の日だ。X日。・・・だがこう雲
が低く垂れて、降っていては飛行機も飛ぶまい。・・・風速1m30から50、19時25分、特種筒放射の命
令だ。30分渡河の開始。48分には青い吊玉(信号弾)が対岸に上る。この歴史的の敵前渡河も18分で
成功する。部隊は誰も異状はない。第3渡場から渡河する。対岸のトーチカには未だ残敵がいるらしく
盛んに弾が来る。対岸に渡って闇の中で壕を掘る。目の前には鉄条網があり、その向うのトーチカには
未だやまない。天幕を被って壕に伏せていると脚が痙攣する。手で砂地に壕を掘るので爪がふやけて軟
くなり指先がとても痛む。
毒ガスを使用して渡河し、突撃するガス兵の実態がよくわかる記述である。軍曹とはいえ、ガスマスクを着け毒ガスをくぐって突撃しなければならない身分であり、対岸では、手で砂を掘って壕に隠れ、夜明けを待たなければならなかった。夜明けとともに、泥濘の中の行軍が始まる。日記から判断する限り、小津軍曹にも毒ガス攻撃を受ける国民党軍兵士を思いやる視線は無かったが、戦後、壊れやすい家族の生活を凝視する映画製作を続けた彼の背後には、このような殺伐とした戦場体験があった。・・・
『毒ガス戦と日本軍』98頁(吉見義明著)
*山口猛「小津が見た戦争の地獄」『キネマ旬報』(1314号、2000年8月下旬)、田中真澄『小津安二郎周游』第9章(文藝春秋、2003年)参照。
●宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)
歌人。本名肇。新潟県生れ。長岡中卒。北原白秋の門人となり,《多麿》創刊に加わる。白秋失明後,その秘書となる。戦後は釈迢空に私淑。歌集に《群鶏》《小紺珠》《山西省》《晩夏》《日本挽歌》などがある。大野誠夫,近藤芳美,香川進らと新歌人集団を結成。また《多麿》廃刊にともない,《コスモス》を創刊,すぐれた歌人を輩出させた。1977年には全歌業で日本芸術院賞を受賞。
生涯で13冊の歌集を刊行し、宮中歌会始の他、朝日新聞、日本経済新聞、新潟日報、婦人公論、オール読物、婦人之友など多数の新聞・雑誌歌壇の選者をする。宮中歌会始選者を本名「宮肇」で[1]1967年、68年、71年、72年、74年、75年、76年、78年と八度務めている。1979年、堀之内町名誉町民の称号を贈られる。1983年、日本芸術院会員[3]。
一方で病(糖尿病や関節リウマチ、脳梗塞等。召集された時も疾患により一時入院していて、また晩年は、転倒して左大腿骨頸部骨折で手術を受けている)を患い、入退院を繰り返しながら、東京都三鷹市の自宅で急性心不全のため74歳の生涯を閉じる。没後の1992年、故郷堀之内町に宮柊二記念館が開館。
門下には安立スハル、島田修二、奥村晃作、高野公彦、桑原正紀、小島ゆかり、大松達知、河野裕子などがいる。
宮柊二の代表歌集:「山西省」「日本挽歌」(斎藤茂吉以降の注目歌人)
2011年09月07日 | 短歌史の考察
斎宮柊二の代表歌集:「山西省」「日本挽歌」(斎藤茂吉以降の注目歌人)
2011年09月07日 | 短歌史の考察
斎藤茂吉以降の歌壇の中心にいたひとりに宮柊二がいる。宮柊二は北原白秋の弟子。白秋といえば「明星派」、浪漫派だが、宮柊二は第一歌集「群鶏」の中頃からリアリズムの傾向を強めていく。刊行は1946年(昭和21年)。近藤芳美の第一歌集に先立つことニ年。二人が「戦後短歌の旗手」「戦後短歌のリーダー」と並び称されるのは当然といえる。共通項は「リアリズム」。きっかけは戦争体験だろう。
藤茂吉以降の歌壇の中心にいたひとりに宮柊二がいる。宮柊二は北原白秋の弟子。白秋といえば「明星派」、浪漫派だが、宮柊二は第一歌集「群鶏」の中頃からリアリズムの傾向を強めていく。刊行は1946年(昭和21年)。近藤芳美の第一歌集に先立つことニ年。二人が「戦後短歌の旗手」「戦後短歌のリーダー」と並び称されるのは当然といえる。共通項は「リアリズム」。きっかけは戦争体験だろう。
宮柊二は1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)まで華北・山西省(現・河北省)で転戦。ここは満州に隣接する地域にあたり、山海関(満州と華北の境界)のすぐ外側にあたる。いわば「日中戦争」の最激戦地にあたりその戦いは辛辣を極めた。その経験が「現実を直視するリアリズム」に近づく契機となったのだろう。だから宮柊二の代表歌集はと問われれば、僕は躊躇なく「山西省」と「日本挽歌」をあげる。「リアリズム」に移行しきったあとの歌集だからだ。
*1940年には、八路軍が山西省を中心に百団大戦を日本軍に対して行った。この被害は日本軍にとっては、とても大きく、それに対して、日本軍は、三光(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)作戦を行った。この時に毒ガスが使われた。
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづおれて伏す 歌集「山西省」
敵兵を引き寄せて背後より心臓あたりに短剣を差すと、静かに敵兵は倒れて伏した、ということである。スローモーションのように印象的に場面が思い浮かぶ。柊二の代表的短歌の一つである。
ねむりをる体の上を夜の獣穢れてとほれり通らしめつつ 歌集「山西省」
戦争で疲れ切って眠っている体の上を夜行性の獣が通っていくが、追い払う体力もない。兎に角眠りたいので、勝手に通らせておくということである。肉体疲労が限界状況にあると、他のことはかまっていられなくなるのであろう
帯剣の手入をなしつつ血の曇落ちねど告ぐべきことにもあらず 歌集「山西省」
銃の先端に短剣をセットして敵と格闘戦を行うが、その短剣の血の曇が拭いても落ちない。しかしそれは珍しいことではないので、他者にいうことでもない、ということである。それほどに人を刺し殺すことが日常の風景となっているのである。恐ろしい歌である。
軍衣袴(いこ)も銃も剣も差上げて暁渉る河の名知らず 歌集「山西省」
軍服や銃、短剣を両手に差し上げて暁の河を渡っているが、その河の名前は知らない、という意味である。多くの兵隊が河を渡っている姿が思い浮かぶ。何やら楽しい風景に思えるが、いつ弾が飛んでくるか分からない状況なので、緊張感もあったであろう。
亡骸に火がまはらずて噎せたりと互(かたみ)に語るおもひで出でてあはれ 歌集「山西省」
戦死した戦友と荼毘に付すのであるが、燃料の材木が足りないので、よく燃えない。それで煙がもくもくと出てくるので、噎せてしまった、というのである。何とも哀れな思い出ではないか。
死にすればやすき生命と友は言ふわれもしかおもふ兵は安しも 歌集「山西省」
「戦死すれば安い命であると戦友はいう。私もそう思う。兵隊の命とは安いものである。」戦争における兵隊の命はまことに安く、時には武器よりも価値のないもの、ということである。
耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず 歌集「山西省」
耳を引きちぎったヴァン・ゴッホのことを考え、孤独とはなんであろうかと考え、戦争と個人との関係を考えながらなかなか眠ることができない、ということである。真面目で真摯な宮柊二であり、信頼のおける人物であるが故に短歌結社「コスモス」に多くの人々が集まったのである。
殆どが鬼籍となりし小隊に呼びかくるごとく感状下る 歌集「山西省」
ほとんどが戦死してしまった小隊に、呼びかけるように感謝状が下りた、という意味である。中国戦線でも小隊全滅があったそうである。今更感謝状が下りても仕方ないのであるが、生きている者としてはそんなことしかできないのである。
自爆せし敵のむくろの若かるを哀れみつつ振り返り見ず 歌集「山西省」
自爆をした若い敵兵を哀れみつつ、振り返ることなく前進を続けた、という意味である。敵兵も味方も必死である。戦場では、勝つこと、殺すこと、生き抜くことだけを考えて闘うのである。理性や哀れみといったものは消えるのである。
あかつきに風白みくる丘蔭に命絶えゆく友を囲みたり 歌集「山西省」
暁に包まれた白い風が吹く丘の蔭において、今死にそうな戦友を囲んでいる、という意味であろう。戦場では死は珍しいことではないが、戦友の死は自分の死も身近にあることを認識させてくれる。今度は自分の番かも知れないと。
はるばると君送り来(こ)し折鶴を支那女童赤き掌に載す 歌集「山西省」
はるばると日本の最愛の人より送られてきた折鶴を中国の女の子の赤い掌に載せた、という意味である。戦場での安らぐ一コマである。折鶴、折り紙は中国の文化にはなく、貰った女の子も喜んだであろう。
ある夜半に目覚めつつをり畳敷きしこの部屋は山西の黍畑にあらず 歌集「山西省」
ある夜半に目覚めているが、畳の敷いたこの部屋は、あの戦いに明け暮れた山西省の黍畑ではないのだなあ、という意味である。戦場ではどこもが寝床になり、黍畑で寝たこともあったろう。畳の上で寝ることで、つくづくと平和のありがたさが実感できたと思われる。
泥濘に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず 歌集「山西省」
泥のように大地に転がって休んでいるわが部隊は、生きているような感じがしないことだ、という意味であろう。重装備して歩き続けたり、戦争をし続けれたりしておれば、そうとうに疲れるのだろう。大地に転がればすぐに睡眠できたと思われる。兵隊は不眠症とは無縁だったのではなかろうか。
咲きそめし百日紅のくれなゐを庭に見返り出征たむとす 歌集「山西省」
咲き始めた百日紅の紅を庭に振り返り見て出征しよう、という意味である。家の思い出の一つとして、百日紅の紅をしっかりと目に焼き付けて戦争に行くのである。もしかしたらこれが最後かも知れないと考えていたであろう。
おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ 歌集「山西省」
恐らくは知られることはないであろう一人の兵隊としての生き様を真っ直ぐに遂げよう、という意味である。これは「志」という題が付いている短歌であり、柊二の兵隊としてのあり方を示している。
五度六度つづけざま敵弾が岩をうちしときわれが軽機関銃(けいき)鳴りそむ 歌集「山西省」
五回六回と敵の弾丸が私の隠れている岩に当たった時、私は軽機関銃で反撃しはじめたという意味である。弾が当たればそれで死ぬのである。戦争とは死が常にそばにあるということであり、善悪を考える閑もないのである。
秋霧を赤く裂きつつ敵手榴弾落ちつぐ中にわれは死ぬべし 歌集「山西省」
秋の霧の中を敵が投げる手榴弾が赤くいくつも炸裂する中で、私は死ぬのであろう、という意味である。死を覚悟した時の歌であり、何人かの戦友は亡くなったであろう。その中で生き残ったことは幸運だったのだろう。
掩蓋(えんがい)に射し入る秋陽強くして二日飯食はぬ顔に照りつく 歌集「山西省」
掩蓋(軍隊で敵弾を防ぐたの塹壕などの上部を覆ったもの)に秋陽が強く差し込んで、二日間飯を食べない私の顔に照りついている、という意味である。飯を食べずに水だけで日々を過ごすこともあったのだろう。人間本当にひもじくなると理性がだんだんと失せていき、人間らしさが無くなっていくという。
信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵 歌集「山西省」
信号弾が闇空に上がりて辺りが明るくなると、哀れ哀れ、音のしなかった山にはたくさんの敵や味方の兵がひっとりと身を潜めていた、という意味であろう。この後、激しい銃撃戦になったであろうことは、想像できる。
一角に重機据えたる十二人訓練のごとく射ちつづけをり 歌集「山西省」
一角に重機関銃を据えている十二人の兵士が、訓練を行っているように弾を連続して打ち続けている、という意味である。機関銃の先には敵ではあるが、人間がいるのである。訓練をするかのように人を殺しているのである。戦争とはこのようなものである。
弾丸がわれに集りありと知りしときひれ伏してかくる近視眼鏡を 歌集「山西省」
敵の弾丸が自分に集中していると知った時、ひれ伏して、眼鏡を両手で押さえてじっと隠れていた、と解釈できる。生きるか死ぬかの一瞬の場面が想像できる歌である。
山くだるこころさびしさ互みに二丁の銃かつぐなり 歌集「山西省」
戦場の山を、互いに戦争でなくなった戦友の銃を担ぎながら寂しい気持ちで、下ったことだ、という意味であろう。銃は時として命よりも重要なものであったのだろう。これがなければ戦ができないのである。
左前頸部左顳顓部穿透性貫通銃創と既に意識なき君がこと誌す 歌集「山西省」
弾丸が体の左前頸部をつらぬいていると、死にかけている戦友の状況を詳しく記載したということである。戦場ではよくあったことである。遺体が土に埋められるのはまだよく、そのまま戦場に放棄された遺体もあまたあったのである。
麻畠に沿ひて過ぎをり毛を刈りて涼しくなれる緬羊の群 歌集「山西省」
戦場の麻畑に沿って過ぎて行くと毛を刈って涼しくなった羊の群れに出会ったことだ、という意味であろう。戦場においても生活をする農家の人たちがいるのである。元々人間が住んでいる場所が戦場なのかも知れない。流れ弾に当たって亡くなる民間人もたくさんいたのであろう。
稲青き水田見ゆとささやきが潮(うしほ)となりて後尾へ伝ふ 歌集「山西省」
稲の青い水田が見えるというささやきが波のように後ろの兵隊に伝わっていく、という意味である。戦場でも稲を育てている農民がいるのである。これから激しい戦闘があり、水田がめちゃめちゃになるかも知れないのである。水田を眺めると故郷を思い出すかも知れないか゛、そんな感傷も一時のことかも知れない。
うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇ふ最後の雨か 歌集「山西省」
私の骨や体に寒い雨が打ち続いている。この世の最後の雨であろうか、という意味である。戦場での一コマであり、これから敵兵と闘うのである。一つ一つがこの世の最後の出来事なのかも知れない。
装甲車に肉薄し来る敵兵の叫びの中に若き声あり 歌集「山西省」
わが軍の装甲車に肉薄して迫って来る敵の兵隊の中に若き声が聞こえた、という意味である。敵兵の中には十代の若者もいたのである。しかし戦争においては相手を撃ち殺さなければ自分が撃ち殺されるのである。十代であろうと敵は撃つのである。
こゑあげて哭けば汾河の河音の全く絶えたる霜夜風音 歌集「山西省」
歌の師である北原白秋が昭和17年11月2日に亡くなった。その悲報を聞いての歌である。悲しみの余り声を上げて泣いてしまったが、河が凍って河の音が全く聞こえず、霜が全体に降りて、風の音ばかり聞こえている夜だ、という意味であろう。白秋への挽歌である。
焼跡に溜れる水と箒草そを囲りつつただよふ不安 歌集「小紺珠」
戦争から生きて帰ってきた柊二は、東京の焼跡にある溜まり水とははき草の周辺を巡りつつ不安が漂っていると感じたのである。これから日本はどうなるのか、自分や家族はどうなるのか、短歌はどうなるのか、日本全体に不安が漂っていたのかも知れない。
たたかひを終りたる身を遊ばせて石群れる谷川を超ゆ 歌集「小紺珠」
歌集の冒頭の作品である。戦後、復員して黒部渓谷に入った時の歌である。自殺でもしようかと思ったのであろうか。大きな石の群がる上流辺りを彷徨い歩き、結局戻ってきた。ここから柊二の戦後の歌が本格的に始まるのである.
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