2019年8月9日金曜日

天皇制廃止に向けての第一歩:雲上人を人間化する運動を!


天皇制廃止に向けての第一歩:雲上人を人間化する運動を!
田中利幸
1)日米軍事同盟の原点としての「原爆正当化」と天皇免罪・免責の共同謀議
米国は、アジア太平洋戦争を終わらせるためには戦略的には全く必要でなかった原爆を、もっぱらソ連の対日戦争開始を避けるためという政治的目的の理由から、日本に対して使うことを計画。そのため、原爆が完成するまで日本が降伏しないような画策。すなわち日本が自ら芸国の原爆使用を誘引させるような画策をトルーマン政権は企て実行した。

一方、天皇裕仁と日本の帝国陸海軍並びに日本政府指導者たちは、降伏条件として「国体護持」にあくまでこだわり、「国体護持」を確実にするため降伏を先延ばしにしたことで、米国による広島・長崎への原爆攻撃を誘引させた。かくして、原爆無差別大量虐殺の責任は、米国の「将爆画策責任」と日本の「将爆責任」の複合的責任に求められる。

 ところが、戦後、米国は戦争を終わらせるには原爆が必要であったという原爆使用正当化の神話を打ち立てて、「将爆画策」と20万人以上に上る無差別市民大量殺戮の犯罪性と責任を隠蔽した。
 他方、日本側は、原爆によってもたらされた戦争終結にによって、一部の軍人に利用された「国体=天皇」から、、本来あるべき姿である「平和の象徴的権威」としての「立憲君主的天皇」を取り戻し、維持していくのだという詭弁を弄することで、裕仁と日本政府の「将爆責任と自分たちがアジア太平洋各地で犯した様々な戦争犯罪行為に対する責任を基本的にはうやむやにしてしまった。

畢竟、日米双方が、それぞれ思惑に沿って、原爆が持つ強大な破壊力、殺傷力の魔力を政治的に利用し、その双方の政治的利用方法を互いに暗黙のうちに受け入れて、「ポツダム宣言受諾」となった。「戦後」という時代は、したがって、「原爆」を政治的に利用することで、互いの重大な戦争責任の放棄を相互に了解し合うことを出発点にしていたのである。

 この「戦争責任放棄の相互了解」を基礎に、日米安保条約が結ばれ、日本政府は、アメリカの核兵器大量殺戮の欺瞞的正当化を受け入れ、同時に「戦争終結の理由」としてそれを政治的に利用しただけではなく、その後も現在に至るまで米国の核戦略を支持してきた。その上で、「核の平和利用」=原発推進政策をがむしゃらに維持し、事実上は米国の核兵器保有と「核による威嚇」を支持するのみどころか、米国にそうした核利用の持続を要望しているのが現状である。

他方、米国側は、日本帝国陸海軍大元帥であった裕仁の戦争責任を不問にした。それどころか、日本政府と共謀で「裕仁は平和主義者」という神話を作り上げ、彼の戦争責任を日本側が隠蔽することに積極的に加担し、天皇制を存続させて、それを日本占領政策に、更には戦争終了後の日米安保体制下での日本支配のために利用し続けてきた。米国によるこうした裕仁の政治的利用が、ごく一握りの数の日本帝国陸海軍指導者並びに戦時政治指導者だけを戦争犯罪人として東京裁判で裁くことで、彼らにのみ戦争責任を負わせたことと密接に関連していたことは明らか。

 かくして、戦争犯罪とその責任の隠蔽の相互了解という「日米共同謀議」は、戦後の日米両国の「民主主義」を深く歪める重大な要因であったのであり、そしてそれは今もそれぞれの国の「民主主義」を強く歪め続けているいるのである。したがって、「戦争責任問題」は決して過去の事ではなく、今現在のの我々の生活にもろに影響している決定的な政治社会要因であることを忘れてはならない。
 我々は、「忘却というものは、いともたやすく忘却された出来事の正当化と手を結ぶ」というテオドア・アドルノの言葉を肝に銘ずる必要がある。この「出来事」には、自国・日本の出来事は勿論、他国(米国)の出来事も含まれていることも忘れてはならない。

2)天皇裕仁の免罪・免責を目的とした憲法1章と2章9条の設定
 戦争が終わるや、天皇裕仁を「戦争犯罪/戦争責任」問題から引き離し、彼をなるべく無傷のままにしながら、「天皇制」を脱政治化しながらも温存、維持していくことが、日本の占領政策を円滑に進めていく
ため、とりわけ急速に高揚しつつあった共産主義活動とその思想浸透を押さえ込んでいくためには絶対に必要である、というのが占領軍司令官の考えであり、同時に米国政府の一貫した基本政策でもあった。しかし、この時マッカーサーは、天皇問題で2つの極めて憂慮すべき事態に直面していた。

 1つは、1946年5月に開廷される予定となっていた極東国際軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)で、オーストラリアが裕仁の訴追を強く要望していたことである。オーストラリアは、太平洋戦争で、日本軍に捕虜となった豪州軍将兵に多くの犠牲者を出した。豪州兵の捕虜数は2万2千名近くで、そのうちの7千4百名以上が捕虜として死亡。その死亡率は34.1%(3人に1人という割合)。その上、日本と同じ太平洋地域に位置するオーストラリアは、日露戦争時代から日本を脅威と感じてきたし、この際、日本軍国主義を徹底的に打ち砕いておくべきであると考えていた。そのためには日本軍戦犯全員をもれなく裁判にかける必要があるし、侵略戦争の決定に裁可を与えた裕仁の起訴は、その中でも特に象徴的な意味を持つ重要なケースであるという認識であった。

即ち、天皇裕仁が安泰である限り日本人は本質的には変わらないのであり、日本の旧政治社会体制を徹底的に解体するには裕仁を有罪にしなければならない、というのがオーストラリア政府の信念だった。こうした政策から、1946年1月22日に、裕仁の名前を加えた戦犯候補者リストを連合軍戦争犯罪委員会に提出していたのである。実は、オーストラリアは、前年10月にも同じリストを連合軍戦争犯罪委員会に提出し、採択するよう迫っていた。

 マッカーサーがもう1つ懸念していたのは、前年1945年12月に、米英ソ3国のモスクワ外相会議で、日本占領の最高政策決定機関として、新たに「極東委員会」なるものを設置し、46年2月26日にワシントンで正式発足することが決定されていたことである。この極東委員会の構成国は、米国、英国、ソ連、中国、フランス、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの連合国諸国の上に、インドとフィリピンを加えた11か国、すなわち、東京裁判の構成国と全く同じであった。これらの構成国の中では、オーストラリアだけではなく、ソ連、ニュージーランド、カナダ、オランダも、裕仁の戦争責任免責や天皇制温存に否定的な考えを持っていた。しかも、同委員会の権限には、戦犯裁判の政策決定や、「憲政機構の根本的変更」、つまり憲法改正案の作成なども含まれていたのである。

 したがって、この極東委員会が戦犯裁判政策や憲法改正案作成に関する議論を具体的に開始する前に、裕仁の「不起訴=免罪・免責」と「新憲法による天皇制維持」の両方を、占領軍司令官として未だ絶対的な権限を有している自分の手で確定してしまっておくことが、マッカーサーにとっては急務であった。この確定に失敗すれば、天皇制廃止が極東委員会によって要求される可能性が非常に高いと、彼が恐れたことは間違いない。そのためには、天皇裕仁が本来は「平和主義者」であるという事を強く表明し、同時に、将来その天皇の権限が政治家や軍指導部に政治利用されるような可能性を完全に除去しておく必要があると彼は考えていた。

 その決定的手段として、連合諸国が驚嘆するに違いない「戦争放棄条項」を新憲法に盛り込むことが非常に有効であることを、彼は1946年1月24日の幣原首相との会議で突然思いついたのである(幣原は、「戦争を世界中がしなくなる様になるには、戦争を放棄するという事以外にはない」という理想論をこの段階で述べた9.これならば、後日、極東委員会も裕仁不起訴と天皇制維持を追認せざるを得ないであろうとマッカーサーは思ったのであろう。
 しかしながら、幣原内閣(松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会)は明治憲法の修正をなるべく最低限にとどめ、天皇の統治権もできるだけそのまま維持するという方針で憲法改正作業を進めようとしていた。

 これに対し、マッカーサーは、憲法改正作業をこのまま日本政府に任せておくならば、憲法改正案自体もとうてい受け入れられるようなものにはならないし、極東委員会発足の2月26日までに間に合わなくなると焦った。しかも、3月に入ると東京裁判開廷準備が本格的に動き出し、被告人の最終選定も始まる。そこで、彼はGHQで憲法草案を急遽起草することを2月3日になって決定し、憲法改正にとって最も重要な原則としての三原則なるものを作成して、GHQの憲法草案起草責任者に指名した民生局長コートニー・ホイットニー准将に手渡した。これが、「マッカーサー憲法三原則」と呼ばれるものであるが、下記はその全文である。

1、天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務及び権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
2、国家の主権的権利の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに事故の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつあるある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
3、日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、後続を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものでもない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。

 このマッカーサー3原則のうち第2原則が、言うまでもなく日本国憲法の9条のオリジナル版であるが、ここでは自衛目的のための戦争発動の権利すら否定されている。

 ホイットニーは、2月13日、松本委員長、吉田茂外相、白州次郎終戦連絡中央事務局参与と会談。ホイットニーは、開口一番、日本側の憲法改正案は全く受け入れられるような内容ではないので、こちらで草案を作成したと述べ、「マッカーサー草案」を提示、同時に、裕仁を戦犯容疑で取り調べるべきだという強い要求が他国からあり、この圧力がますます強くなっているが、マッカーサー元帥は天皇を守ろうという固い決意であるとホイットニーは伝えた。その上で、「マッカーサー草案」が受け入れられるならば、裕仁の安泰は確保されることも主張。

 すなわち、憲法第1章と2章9条(「マッカーサー草案」では、第1章は7条から成っており、したがって現在の9条は8条になっていた)は、「裕仁訴追」をさけるために、最初から政治的に組み合わされる1セットとして考案されたものであるということが、ここでアメリカ側から明らかにされたわけである。
 極めて重大な問題は、憲法第1章1条~8条と2章9条が、裕仁の「戦争犯罪と戦争責任」を帳消しにするために設定されたという、この厳然たる事実である。一国の憲法が、その国家の元首の個人的な「戦争犯罪・責任の免罪・免責」を意図して測定されたこと。憲法第1章で規定された国家元首の、本来は問われるべき戦争犯罪責任を、第2章9条の平和条項で隠蔽したしまったこと。このような形で測定された国家憲法は、人類史上、また各国現行憲法の中でも、日本国憲法以外に世界のどこにもないのではなかろうか。

そのことと、その憲法が70年以上にわたって「民主憲法」と解釈され、その「国民主権」国家の「民主主義」政治体制の根幹と見なされてきたこととの関係を、我々はどう考えたらよいのであろうか。つまり、筆者が問いたいのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民衆主義的であるのか?」ということである。

3)憲法前文、9条と第1章の根本的矛盾
 憲法前文の第1段落は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍がおこることのないようにすることを決意し」、この新しい憲法を制定するのだと主張している。したがって、戦争放棄を唱える憲法9条も、15年という長期にわたる日本人の戦争体験からの反省と戦争責任の深い認識を基本的な理念としていることは明らか。つまり、9条の絶対的な非戦・非武装主義は、憲法前文で展開している憲法原理思想と密接に絡み合っているのであって、したがって、9条は前文と常にセットで議論されなくてはならない。その点で、、とりわけ、前文の以下の第2、第3段落の部分が重要である。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全政界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
 日本は天皇制軍国主義の下で、アジア太平洋全域で、文字通り「専制と隷従、圧迫と偏狭」を作り出してきた国家であった。これを深く反省し、その責任を痛感し、その責任感を内面化することによって、国家=政府が再び戦争を起こすことを国民がさせないという決意をここで確認しているわけである。その上で、人間相互の平和的関係を構築する上で国際社会に大きく貢献し、そのことで名誉ある地位を占めたいと主張している。

さらには、全世界のあらゆる人々(日本語の前文では「国民」となっているが、英語の原文はPeople)が平和に暮らす権利=「平和的生存権」を有しているいことも確認している。つまり、この前文では、日本人が自分たちの政府に戦争を再び起こすことを許さず、世界のあらゆる人間が平和を享受する権利を持っているという認識に立って、国際社会で平和的な人間関係を創り出していくことに積極的に貢献していきたいと主張している。ここには、平和とは人権の問題、生存権の問題であり、地球的・普遍的正義論の問題であり、国際協調主義の問題であることが謳われている。

 その意味では、一国の憲法前文でありながら、普遍的、世界的な平和社会構築への展望を展開しているという点で極めて特異な前文と言える。
 憲法9条が前文と常にセットで議論されなくてはならないと先に述べたのは、このように9条と前文が密接に絡み合って一体化しているからに他ならないからである。つまり、9条と前文は、一体となって、「あらゆる戦争の非合法化」に向けての展望をすら内包しているとも言える。逆に言えば、憲法9条と憲法前文を分離させるならば、平和構築に向けてのこうした複合的アプローチの見取り図と展望が失われてしまう。

ところが、その憲法の第1章にはまず「天皇」についての条項が8条にわたって置かれているにも関わらず、前文では、戦前・戦中には「直接的暴力」装置の帝国陸海軍の大元帥で、反民主主義的な天皇制軍国主義の象徴的存在であった天皇の地位が、国民主権主義と平和主義の人類普遍原理という観点から見て、どのように変革されたのか、あるいは、「民主化されたはずの天皇制」が前文で強調されている国民主権主義と平和主義の普遍原理とどのように関連しているのかについては一切説明されていない。

憲法第3章10条から40条の30条にわたる「国民の権利及び義務」は、前文で強調されている国民主権主義原理を具体的に条文化したものであり、憲法第2章9条が平和主義原理を具現化したものであることは誰の目にも明らか。ところが、順列として最優先されている第1章1~8条の「天皇」に関する「原理」の説明は、前文のどこにも書かれていない。第2章、3章の諸条項を裏打ちしている根本原理については秀逸した理念が前文で展開されているにも関わらず、第1章については一言も説明がない。これは、本来、形式として実におかしなことだ。憲法は、なぜこのようなおかしなことになっているのだろうか。

既に述べたように、この憲法前文で謳われているのは、「人類普遍の原理」としての「国民主権」、全世界の人々が持つ「平和的生存権」、「普遍的な政治道徳の法則」としての「国際協調」というように、全てが、我々が日本人という国民制を超越して、人間として思考し行動するための規範としての普遍原理の理念について述べたもの。改めて言うまでもないことだが、「天皇制」は、戦前・戦中は国民主権を否定し、国内外の無数の人々の「平和的生存権」を甚だしく侵害し、国際協調を破壊して来たから、前文で謳われている「普遍原理の理念」のすさまじい破壊者であった。

 ところが、既に説明したように、GHQは政治的意図から、天皇裕仁の戦争責任をうやむやにしてしまい、憲法1章を設置した。つまり、憲法前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないようにすることを決意し」と主張したにもかかわらず、その「決意」が実は、戦争最高責任者の天皇の責任をうやむやにしたままでの「決意」だったのである。しかも、天皇制という制度は極めて日本独自のものであって、憲法前文で謳われている「人間普遍原理」とは根本的に矛盾するものである。そのような幾つもの矛盾を抱えた「天皇制」の規定である憲法第1条の原理を、前文で「人類普遍原理」と並べて書くなどという事は、あまりにも不条理で不可能だったのだ。
 したがって。憲法1章とその実際の運用が「民主憲法」の精神に根本的にそぐわず、憲法の他の部分とそぐわないのも当然であって、本当は全く不思議なことではない。

4)明仁宛公開書簡の目的―天皇「人間化」の試み
私は、広島の活動仲間の久野成章氏と私自身の2人の名前で、「退位する明仁天皇への公開書簡」を1月1日に自分の「ブログ吹禅」に載せた(私たちは実際にその手紙を宮内庁気付けで明仁に送った)。反応は驚くほど大きなもので、中には熱烈な賛同を送ってくる人もおられた。天皇制に違和感を感じながらも、現在の「天皇万々歳」という日本の雰囲気に圧倒されて、その気持ちを率直に表明できない人が大勢いるのだという事に私は気が付いた。

 しかし、天皇制を批判するために、なぜ明仁個人宛への書簡という形を取らなければならないのか、との疑問を呈する人もいた。この疑問に対しても既にブログで私の見解を説明しておいたように、「書簡」の主たる論点は、天皇制、とりわけ天皇の「象徴権威」が持っている民衆(とりわけ“民衆意識”)支配のカラクリを暴き出し、そのような「象徴権威」(武藤一羊の用語では「象徴権力」)を持っている天皇個人を、天皇という神がかり的で雲上人的な地位からいかにしたら我々市民と同じレベルにまで引きずり降ろすことができるか、ということである。「引きずり降ろす」という意味は、我々大衆の意識の中で、「天皇は特別に崇敬すべき」と捉えられている存在から、長所短所の様々な性格要素と喜怒哀楽の感情を持った「我々と同じ人間」としての存在になるまで変革する、ということ、即ち「我らの内なる天皇制打破」である。

そうした我々の側の意識の変革が、「象徴権威」を打破するためには必要であるし、天皇制廃止のためには「象徴権威」の打破は欠かせない。その点で、個人宛書簡は、受取人と対等の立場に立ってものを言うことで、相手の1人の「人間」として扱うには極めて有効な手段である。
 この「天皇の人間化」に関連して言うならば、1946年1月1日に、「新日本建設に関する詔勅」なるものが発表され、天皇が「現人神」であることを裕仁自身が否定したことになっている。このことによって、、この詔勅は「人間宣言」と一般に呼ばれている。しかしながら、この詔勅を読んでみると、「自分は神ではなく、人間である」とは一言も述べていない。ただ、「自分と国民の間の関係は、常に相互の信頼と敬愛によって結ばれており、それは単に神話と伝説によるものではない」と述べているだけである。しかも、この詔勅発表2日前の12月29日に木下侍従長が日記に書き残した文章によると、裕仁は自分が神であることを否定はするが、「神の子孫」であることは否定しないと述べたそうである。


ジョン・ダワーはこうした天皇の敗戦直後の状態を捉えて、著書『敗北を抱きしめて』の中で、裕仁は「天から途中まで降りて来ただけ」と絶妙な表現で描写した。雲上と地上の間で宙ブラリンとなった状態は明仁の場合も同じであるし、現憲法第1章が変わらない限り、今後の天皇でも続くことは間違いない。なぜなら、憲法第1章は、根本的には天皇を普通の人間とは認めていないからである。どこに行ってもありたがられ、、「おやさしい天皇」が人間的な間違いを犯すはずがないのである。この「象徴権威」を、安倍晋三のようなペテン師政治家は、トコトン自分の政治目的達成のために利用しようとする。

A.「食料メーデー・プラカード事件」裁判
 戦後の歴史において、天皇の「象徴権威」に力強く立ち向かい、天皇を雲上から地上に引きずり降ろそうと試みたケースはごく少ないが、これまでにあることはある。
 その最初のケースは、いわゆる1946年5月19日の「食料メーデー・プラカード事件」である。戦時中は食糧生産事情が悪化していた上に、1945年の夏には冷夏、秋には台風が幾つも襲来したため、1946年の年明け以降、食料事情は危機的な状況となり、全国で餓死者が続出。その一方で、戦時中に軍需として貯蔵されていた多量の食糧が戦時利得者や官僚によって隠匿されており、勿論皇居の台所にも贅沢な食料品が山ほどあった。

 したがって、46年5月19日メーデーが食糧配給を要求する「飯米獲得人民大会」となったのも当然であった。25万人という驚くべき参加者数のこのメーデー集会で、田中精機工業社員(同時に同社労働組合委員長)で共産党員の松島松太郎が、表面に「ヒロヒト 詔書曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食っているぞ ナンジ人民飢えて死ね キョメイギョジ」、裏面にも「働いても 働いても 何故私たちは飢えねばならぬのか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」と書いたプラカードを掲げて参加した。松島はこのプラカードのために検挙され、当時まだ効力のあった旧刑法「不敬罪」で起訴された。ところが「不敬罪」を反民主主義的な悪法と考えていたGHQの圧力のために、東京地方裁判所での第一審判決では、不敬罪は認められずに名誉棄損罪が認められた。この結果、天皇に対する名誉棄損で松島は懲役8か月の判決を受けた。ところがその翌日、日本国憲法の公布に伴う大赦令によって免訴された。免訴とはいえ、名誉棄損罪という犯罪歴そのものが消えるわけではないので、これを不服として松島は控訴。

 ところが、47年6月28日、東京高等裁判所での控訴審判決でも免訴。免訴により不処罰とはなるが、職権判断で改めて審理したところ、公訴事実となる不敬罪そのものは一応成立していたという判断が下された。今度は「不敬罪」にもかかわらず免訴となったことに対し、松島はさらに上告。これに対し、48年5月26日、最高裁は、大赦がなされた後において、なおも審理を継続し、まして犯罪の成立を認定する職権判断は違法であると判断。しかし、犯罪の成立決定は破棄されていないが、公訴権が消滅したのだという理由で上告を棄却した。つまり、大赦がなかったならば、「民主憲法」下においても、松島は天皇に対する「不敬罪」と「名誉棄損」で実刑を受けていた、という驚くべき結果となったのである。「民主化」されたはずの「天皇制」に対する一市民の非暴力的な反抗に対して、このような不条理な判断を裁判所は出したのである。

 私がこの裁判で重要視するのは、第1審の公判で松島の弁護人を務めた正木ひろし弁護士が主張したその内容である。すなわち、検察側が主張するように松島のプラカードが名誉棄損罪に確当するのであれば、それは刑法232条の「告訴ヲ待テ之ヲ論ズ」という親告罪を前提としている。したがって、裕仁本人が出廷してその「被害」を述べなけらばならない、という主張しである。法廷に天皇を引きずり出し、じかに発言させる。これは旧憲法で規定された天皇の「神聖不可侵」、それを継承する新憲法をよりどころとする「象徴権威」に対する真っ向からの挑戦である。天皇が普通の人間であり、名誉棄損の被害者であるなら、出廷してはっきりと自分の意見を述べるべきだという、いたって当然の論理だ。おそらく、天皇を証人喚問するために出廷を要求したのは、日本の裁判史上これが初めてのケースであったと思われる。

 裁判長・五十嵐太仲は、この正木の要求に驚いて、最初はどう判断してよいのか困ってしまったようである。しかし、最終的には五十嵐は、「告訴は単に親告罪の訴追を被害者の意思に係らしめる形式的要件であって、犯罪の成立に必要な構成要件ではない」とワケの分からない理由を挙げて、天皇を喚問する必要なしという判断を下した。これは、「天皇の意思」を検事が忖度で尊重して、天皇に対して無礼な態度をとった人間を訴追することに何ら問題がないと判断したと解釈してよいだろう。「天皇を法廷に呼び出すなどという不敬は、畏れ多くてとてもできない」というのが、五十嵐の本音であったのであろう。

B.京都大学訪問の天皇裕仁への公開質問状
京都大学学生自治会である同学会は、京都駅前の丸物百貨店(後の京都近鉄百貨店)で、「総合原爆展」を1951年7月14日から10日間にわたって開催した。この原爆展では、原爆の製造過程と物理学的原理、放射能被害の状況、核兵器国際管理の実態、原爆文学作品などについて解説するとともに、被爆者の無惨なケロイド傷害を紹介するスチール写真も含めて、190枚のパネルが展示された。更には、丸木位里・俊夫妻が制作した『原爆の図』の第1部から5部までが展示され、そのうちの4部と5部は初公開されたものであった。当時まだ占領下にあった日本でこのような総合的な原爆展が開催されたのは初めてで、10日間で約3万人が訪れるという大成功を収めた。

多くの市民が見た「総合原爆展」は夏休み中の開催であったため、学生に見てもらうことを目的に、同学会は、同年11月10日から大学本部のある吉田キャンパスで開催予定の秋の大学文化祭で再びこの原爆展を開くことを計画し、大学当局に許可を申請した。ところが、大学側はすぐにはこの申請に対する回答をせず、結局は理由も述べずに、同学会が希望していた11月中旬ではなく初旬ならよいと同学会に通知。大学側が開催時期にこだわったわけは、、11月中旬には、対日講和条約・安保条約の批准決定が国会で行われる予定であった上に、京都・奈良を巡行する天皇裕仁が京都大学吉田キャンパスを訪問することになっていたからであった。

当時は、レッド・パージ、朝鮮戦争、講和問題などを巡って反政府運動が高揚していた時でもあり、京都大学でも学生運動が先鋭化して時期でもあった。とりわけ、1950年7月に勃発した朝鮮戦争とそれに伴うGHQによる「警察予備隊」(1954年に「自衛隊」に改組)創設指令は、学生の間に再び戦争に巻き込まれるのではないかという危機感を煽り、反戦運動を活発化させた。また、サンフランシスコ平和条約が米国をはじめとする西側諸国との「片面講和」であることに対しても、学生たちは強く反対していた。大学側の反応は、明らかに、裕仁の大学訪問と大学文化祭が重なって、学生側がこれを機に政治的活動を展開する可能性があることを危惧した結果であった。

大学側が、突然10月27日になって、秋季文化祭を11月1~2日とすることを一方的に発表したため、開催期日についての交渉は決裂し、文化祭計画は頓挫。したがってその中心企画の「原爆展」も棚上げ状態となってしまった。その後まもなく、天皇裕仁が京都・奈良巡行中の11月12日の午後に1時間ほど京都大学を訪問することが判明し、学生たちは、大学側が文化祭開催期日についてなぜそれほどまでに強硬な態度をとっていたのかを初めて知った。しかし同学会は、裕仁を「歓迎もしなければ拒否もしない。天皇にはありなままの京大を見てもらいたい」という方針を決め、その事を11月10日に新聞記者たちにも伝えたのである。同時に同学会は、裕仁に「公開質問状」を作成し、これを学長が裕仁に直接渡すように大学側に要求したが、拒否された。

11月12日午後1時頃には大学キャンパスの時計台前広場には約千人ほどの学生・教職員が天皇を一目見ようと集まっていた。門前には縦3m、横2mほどの「願」と題された看板が立てられ、そこには「神様だったあなたの手で我々の先輩は職場に殺されました。もう絶対に神様になるのはやめて下さい。『わだつみの声』を叫ばせないで下さい。京都大学学生一同」と書かれていた。裕仁が到着する直前に、門外に停車していた毎日新聞社の車から「君が代」が流れ始めたが、これに反発した学生たちが、誰に指導されるというわけでもなく、自発的に反戦歌「平和を守れ」を歌い始め、これが瞬く間に大合唱となった。

その中を天皇を乗せた車が到着し、大学教授たちによる進講を受けるために本部会議室に入っていった。裕仁は午後3時過ぎに大学を去るが、その間ずっと学生たちは反戦歌を歌い続けた。大学側は、裕仁が去る時の進路を確保するために警察隊を学内に導入し、裕仁は警察隊が作った人垣の中を通ってキャンパスを何事もなく去って行った。学生たちは天皇一行が到着したときも去って行った時も、遠巻きに反戦歌を合唱していただけで、何らの妨害行為も取らず、警察官との衝突もなかった。同学会は、むしろ学生整理で大学に協力する働きをしたのであった。

ところが、翌日13日の新聞各紙は、この京都大学での状況を「共産党の仕業」、学生たちが「インターナショナル」を歌った。常軌を逸した「左翼小児病」の行動などと報道し、地元の京都新聞も「天皇への無礼と京大の責任」という論説で、学生たちがあたかも「不敬事件」を起こしたごとく批難した。さらに、同日の衆議院文部委員会でも、審議中の大学管理法案との関連で天野貞祐文相がこの「事件」に言及するという大騒ぎをしたのである。15日には京都大学当局は、同学会が「計画的に」起こした「混乱」であるとして解散を命令し、さらに同学会委員会幹部8名を無期限停学処分とし、事実上退学させるという厳しい措置をとった。

(1951年)11月26日には、服部俊治郎学長と同学会委員長・青木宏を衆議院法務委員会に呼び出して喚問し、ここでも学生たちが「不敬罪」を犯したごとく批難して、政府(吉田茂内閣)と与党自由党は、この「事件」を大学への警官の自由な立ち入りを認めさせるきっかけにしようと画策した。京都地検も公安条例違反で関係者を起訴しようとしたが、立証できなかったため断念したのであった。
 政府がこの「事件」をもはや無効となった「不敬罪」と同等な犯罪行為にでっち上げることで、大学側にも圧力をかけ、京都大学の反政府的な学生運動、とりわけ共産党徳田派の影響を強く受けていた同学会を押しつぶそうと図ったことは明らかである。

同学会が用意した裕仁への「公開質問状」は裕仁に渡されることは無かったが、この書簡も検察は、一時、「集団暴力事件」として取扱いできないかと案を練ったようであるが、当然、立証不可能であった。検察としては、「不敬罪」としたかったのであろうが、そのような「犯罪」はもはや存在しなかった。
 この質問状は京都大学理学部学生で同学会委員の一人、中岡哲郎(現在は大阪市立大学名誉教授)が書いたものであるが、中岡は戦時中は海軍兵学校の生徒であった。後年、中岡は、この質問状を執筆しているとき、自分の眼の前に浮かんでいたのは、38式小銃の銃身に刻まれた「菊の紋章」であったと述懐している。

 以下がその質問状の全文である。

私たちは、一個の人間として貴方を見る時、同情に耐えません。例えば、貴方は本部の美しい廊下を歩きながら、その白い壁の裏側は、法経教室のひび割れた壁であることを知ろうとはされない。貴方の行路は数週間も前から何時何分にどこ、それから何分後はどこときっちり定められていて、貴方は何等の自主性もなく、定まった時間に定まった場所を通らねばなりません。貴方は一種の機械的人間であり、民衆支配のために自己の人間性を犠牲にした犠牲者であります。私たちはそのことを人間としての貴方のために気の毒に思います。

しかし、貴方からかつて平和な宮殿の中にいて、その宮殿の外で多くの若者達がわだつみの叫びをあげ、恨みを飲んで死んでいる事を知ろうともされなかったこと、又今と同じように筋書に従って歩きながら太平洋戦争のために、軍国主義の支柱となられたことを考える時、私達はもはや貴方に同情していることはできないのです。しかし貴方は今も変わっていません。名前だけは人間天皇であるけれどそれはかつての神様天皇のデモクラシー版にすぎないことを私達は考えざるを得ず、貴方が今又、単独講和と再軍備の日本でかつてと同じような戦争イデオロギーの1つの支柱として役割を果たそうとしていることを認めざるを得ないのです。我々は勿論かつての貴方の責任を許しはしないけれど、それよりもなお一層貴方が同じ過ちを繰り返さないことを望みます。

その為に私達は貴方が退位され天皇制が廃止されることを望むのですが、貴方自身それを望まぬとしても、少なくとも1人の人間として憲法によって貴方に象徴されている人間達の叫びに耳を傾け、私達の質問に人間としてお答えいただくことを希望するのです。

質問
1、もし、日本が戦争に巻き込まれそうな事態が起こるならば、かつて終戦の詔書において万世に平和の道を開くことを宣言された貴方は世界に訴えられる用意があるのでしょうか。
2、貴方は日本に再軍備が強要される様な事態が起こった時、憲法に於いて武装放棄を宣言した日本国の天皇としてこれを拒否する様呼びかける用意があるでしょうか。

3、貴方の行幸を理由として京都では多くの自由の制限が行われ、又準備のために貧しい市民に廻るべき数百万円が空費されています。貴方は民衆のためにこれらの不自由と、空費を希望されるのでしょうか。
4、貴方が京大に来られて最も必要なことは、教授の進講ではなくて、大学の研究の現状を知り、学生の勉学、生活の実態を知られることであると思いますが、その点について学生に会って話し合っていただきたいと思うのですが不可能でしょうか。
5、広島、長崎の原爆の悲惨は貴方も終戦の詔勅で強調されていました。その事は、私達は全く同意見で、それを世界に徹底させるために原爆展を製作しましたが、その開催が貴方の来学を理由として妨害されています。貴方はそれを希望されているでしょうか。又、私達は特に貴方にそれを見ていただきたいと思いますが、見ていただけるでしょうか。

私達は未だ日本において貴方の持っている影響力が大である事を認めます。それ故こそ、貴方が民衆支配の道具として使われないで、平和な世界のために、意見を持った個人として、努力されることに希望をつなぐものです。一国の象徴が民衆の幸福について、世界の平和について何らの意見も持たない方であるとすれば、それは日本の悲劇であると言わねばなりません。私達は貴方がこれらの質問に寄せられる回答を心から期待します。

昭和26年11月12日
京都大学同学会
天皇裕仁様

裕仁をあくまでも1個の人間ととらえ、その人間の感情に真剣に訴える、非常に感動的な内容の質問状である。「少なくとも1人の人間として憲法によって貴方に象徴されている人間達の叫びに耳を傾け、私達の質問に人間として答えていただくことを希望する」という要求は、我々に「天皇の象徴性」について熟考することを迫る。第1章で規定された天皇には「人間性」が完全に欠如している。我々生きている国民1人1人、喜怒哀楽を持ったその1人1人の人間性を、本来は「日本国民統合の象徴」である天皇が象徴していなければならない。ところが、そのまさに象徴である天皇には人間性を持つことが許されていない、この解決しがたい根本的な矛盾が憲法に深く根を下ろしているのである。

C,裕仁を狙った「パチンコ玉発射事件」裁判
更にもう1つのケースも、「食糧メーデー・プラカード事件」同様に、裁判闘争での天皇の雲上からの引きずり降ろしの試みである。それは、周知の「パチンコ玉事件」である。1969年1月2日朝の新年一般参賀で、皇居長和殿東庭側ベランダに立った裕仁を狙って、25.6mの距離から、ニューギニア戦線での生き残り兵であった奥崎健三がパチンコ玉3発をまとめて発射、続いてもう1発を「おい、ピストルで天皇を撃て!」と大声で叫びながら投射。裕仁には1発も当たらなかったが、奥崎はその場で即座に逮捕された。というよりは、逮捕してくれるように警察に頼んだ。奥崎は、最初から法廷で裕仁の戦争責任を徹底的に追求する目的でこの事件を犯したのである。検察側も奥崎の意図を知ってか、最初は彼を偏執病に病んでいる人間として片付けてしまい、裁判を避けようとしたようである。しかし、精神科医の診断で「問題なし」という結果が出たため、裁判に持ち込まざるを得なくなった。裕仁に対する「暴行罪」による起訴である。

奥崎は、東京地方裁判所の第1審で、憲法上刑事被告人に保障された権利である「すべての証人を審問する権利」に基づき、「被害者」である天皇裕仁の証人請求を行うと同時に、10項目にわたる尋問予定事項を提出した。その中には、次のような質問が含まれていた。
「被告人(奥崎)が、聖戦の名の下に行われた太平洋戦争に徴収され、ニューギニア島で戦い、傷つき、辛うじて生き残った帝国陸軍の一兵卒であったことを知っていますか。」
「あなたは被告人が徴収された帝国陸軍(いわゆる皇軍)の統帥権者の地位にあり、その権威の下に右戦争が遂行されたこと、そして被告人が右戦争の犠牲者・被害者の1人であることを同じ人間としてどう考えますか。」
「被告人が、ニューギニア島で飢え、傷つき、そして死んでいった同じ部隊の何千の戦友たちへの慰霊・供養として本件行為に出たことをあなたはどう考えますか。」(斜字強調:引用者)

ここには、奥崎が天皇をあくまでも1個の人間と見なし、その人間に対して、多くの人間を死なせたことの責任に対する個人的感情を問いただしていることが明瞭となっている。こうして問いただされた天皇からは、「神聖不可侵性」や「象徴権威」が見事にはぎ取られ、追求された責任問題に1個の人間としてどう思っているのかを答えざるをえない状況に裕仁は置かれるはずであった。しかし、裁判長・西村法は、前述の五十嵐太仲のような説明も全くなしに、奥崎の請求に対してただ「必要なし」とだけ答えて、「暴力事件」の「被害者」に対する尋問請求を拒否したのである。こうして被害者側からの証言や供述調書の一通すらなく、この「暴行事件」は裁判にかけられ、奥崎は懲役1年6か月という判決を受けた。事実上、奥崎の「暴行罪」は「不敬罪」なみの取り扱いを受けたのである。

 奥崎は裕仁の戦争責任を追及しただけではなく、上に述べたような憲法1条と憲法前文との決定的な矛盾を、最高裁への上告のために準備した趣意書の中で鋭く指摘した。憲法前文の「人類普遍のの原理」に照らして、憲法第1章「天皇」は違憲であるというのが奥崎の主張であったが、それを奥崎は次のように展開した。
1,2審の判決と求刑をした裁判官、検察官は、本件の被害者と称する人物を『天皇』であると認めているが、現行の日本国憲法の前文によると、「人類普遍の原理に反する憲法は無効である」と規定しており、『天皇』なる存在は「人類普遍の原理」に反する存在であることは自明の常識であり、『天皇』の権威、価値、正当性、生命は、一時的、部分的、相対的、主観的にすぎないものであり、したがってその本質は絶対的、客観的、全体的、永久的に『悪』であるゆえに、『天皇』の存在を是認する現行の日本国憲法第1条乃至第8条の規定は完全に無効であり、正常なる判断力と精神を持った人間にとっては、ナンセンス、陳腐愚劣極まるものである。・・・(強調:原文)


この奥崎の見事な喝破に反論するのは、ほとんど不可能のように思える。したがって、最高裁の上告棄却の反論が、全く反論の体をなしておらず、なんの論理性もない誤魔化しに終わっていることも全く不思議ではない。上告棄却は下記のようなごく短いものである。

 被告人本人の上告趣意のうち、憲法1条違反をいう点は、被告人の本件所為が暴行罪にあたるとした第1審判決を是認した原判決の結論に影響がないことの明らかな意見の主張であり、同法14条、37条違反をいう点は、実質は単なる法令違反事実誤認の主張であり、その余は、同法1条乃至8条の無効をいうものであって、いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。

つまり、憲法1条と暴行罪は無関係であり、14条違反やその他の点に関する主張も、単なる「事実誤認」だと述べ、なぜ事実誤認なのかについての説明も一切しない。こうして、奥崎が見事に指摘した、憲法前文と1条の決定的な矛盾については、最初から議論することを避けているのである。

結論:「象徴権威」打破のための方法について具体的な思案を!

「我らの内なる天皇制」={民衆の天皇の〈象徴権威〉への盲目的な精神的従属」→「あらゆる権威・権力への精神的隷属(その典型例が「忖度」)を打破することは、民主主義の確立にとって不可欠である。その点で、失敗したとはいえ、上記のような前例からも、裁判と言う手段―例えば皇室典範第1条は性差別であり憲法違反であるとの訴え(天皇・皇后の証人喚問を要求)―を通して天皇の神聖を剥がす運動=「天皇人間化」をはかることは、「象徴権威」の打破と言う点では極めて有効であることが分かる。しかし、裁判と言う方法とらなくても、「象徴権威」の打破のための方法はいろいろあるはずである。日本の民主化のために天皇制廃止を目指す運動は、その為の具体的な方法についてもっといろいろ真剣に考えるべきではなかろうか。

再度述べておくが、真の民主主義確立のためには、重大な戦争犯罪行為とその責任を隠蔽したまま、国民を国家権力に従属させるために、国家と国民統合の象徴として強力な影響力=象徴権威を発揮し続けている天皇/天皇制、とりわけ「我らの内なる天皇制」をなんとしても打破しなければならない。現在の「1億こぞって天皇万々歳」の状況下、天皇制打破は容易なことではない。この状況は、新元号の発表や天皇退位・新天皇即位などの儀式を安倍政権が大いに利用することで、「天皇のもとで平和な国民統合」という虚妄の「平和と統合」=実は「軍国化と国民支配」を推し進めていくことで作られているのである。まさに「彼らの内なる天皇制」の強化と浸透そのものである。こうした状況を打破しない限り、日本にとって明るい民主主義的な未来は決してやってこないのであろう。その目的に向かっての有効な一歩は、天皇を雲上から我々と同じレベルにまで引き下ろし、我々と同じ1人の人間としてみなし、取り扱うことができる社会を作り上げることであると私は信じる。





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