2019年10月21日月曜日

小津安二郎と宮柊二と毒ガス戦



小津安二郎監督や宮 柊二も毒ガス戦に関わった?

●小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年(明治36年)12月12日 - 1963年(昭和38年)12月12日)は、日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。伊勢松阪の豪商・小津家の子孫にあたり、一族には国学者の本居宣長がいる。日本映画監督協会会員。

東京物語 (1953)- Tokyo Story - 小津安二郎 監督/HD



2、修水渡河作戦
・・・・・
なお、この戦闘には、「晩春」「麦秋」「東京物語」などの作品で名高い映画監督、小津安二郎が、野戦瓦斯第2中隊(第106師団に配属)の軍曹として参戦していた*。小津監督も修水の毒ガス戦の模様を日記に記している。
雨、今日は菜の花も蓮華畑も杏のさかりも雨の中にある。修水河総攻撃の日だ。X日。・・・だがこう雲 
が低く垂れて、降っていては飛行機も飛ぶまい。・・・風速1m30から50、19時25分、特種筒放射の命
令だ。30分渡河の開始。48分には青い吊玉(信号弾)が対岸に上る。この歴史的の敵前渡河も18分で
成功する。部隊は誰も異状はない。第3渡場から渡河する。対岸のトーチカには未だ残敵がいるらしく
盛んに弾が来る。対岸に渡って闇の中で壕を掘る。目の前には鉄条網があり、その向うのトーチカには
未だやまない。天幕を被って壕に伏せていると脚が痙攣する。手で砂地に壕を掘るので爪がふやけて軟
くなり指先がとても痛む。
毒ガスを使用して渡河し、突撃するガス兵の実態がよくわかる記述である。軍曹とはいえ、ガスマスクを着け毒ガスをくぐって突撃しなければならない身分であり、対岸では、手で砂を掘って壕に隠れ、夜明けを待たなければならなかった。夜明けとともに、泥濘の中の行軍が始まる。日記から判断する限り、小津軍曹にも毒ガス攻撃を受ける国民党軍兵士を思いやる視線は無かったが、戦後、壊れやすい家族の生活を凝視する映画製作を続けた彼の背後には、このような殺伐とした戦場体験があった。・・・
『毒ガス戦と日本軍』98頁(吉見義明著)

*山口猛「小津が見た戦争の地獄」『キネマ旬報』(1314号、2000年8月下旬)、田中真澄『小津安二郎周游』第9章(文藝春秋、2003年)参照。

●宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)
歌人。本名肇。新潟県生れ。長岡中卒。北原白秋の門人となり,《多麿》創刊に加わる。白秋失明後,その秘書となる。戦後は釈迢空に私淑。歌集に《群鶏》《小紺珠》《山西省》《晩夏》《日本挽歌》などがある。大野誠夫,近藤芳美,香川進らと新歌人集団を結成。また《多麿》廃刊にともない,《コスモス》を創刊,すぐれた歌人を輩出させた。1977年には全歌業で日本芸術院賞を受賞。

生涯で13冊の歌集を刊行し、宮中歌会始の他、朝日新聞、日本経済新聞、新潟日報、婦人公論、オール読物、婦人之友など多数の新聞・雑誌歌壇の選者をする。宮中歌会始選者を本名「宮肇」で[1]1967年、68年、71年、72年、74年、75年、76年、78年と八度務めている。1979年、堀之内町名誉町民の称号を贈られる。1983年、日本芸術院会員[3]。

一方で病(糖尿病や関節リウマチ、脳梗塞等。召集された時も疾患により一時入院していて、また晩年は、転倒して左大腿骨頸部骨折で手術を受けている)を患い、入退院を繰り返しながら、東京都三鷹市の自宅で急性心不全のため74歳の生涯を閉じる。没後の1992年、故郷堀之内町に宮柊二記念館が開館。

門下には安立スハル、島田修二、奥村晃作、高野公彦、桑原正紀、小島ゆかり、大松達知、河野裕子などがいる。

宮柊二の代表歌集:「山西省」「日本挽歌」(斎藤茂吉以降の注目歌人)
2011年09月07日 | 短歌史の考察
斎宮柊二の代表歌集:「山西省」「日本挽歌」(斎藤茂吉以降の注目歌人)
2011年09月07日 | 短歌史の考察
斎藤茂吉以降の歌壇の中心にいたひとりに宮柊二がいる。宮柊二は北原白秋の弟子。白秋といえば「明星派」、浪漫派だが、宮柊二は第一歌集「群鶏」の中頃からリアリズムの傾向を強めていく。刊行は1946年(昭和21年)。近藤芳美の第一歌集に先立つことニ年。二人が「戦後短歌の旗手」「戦後短歌のリーダー」と並び称されるのは当然といえる。共通項は「リアリズム」。きっかけは戦争体験だろう。
藤茂吉以降の歌壇の中心にいたひとりに宮柊二がいる。宮柊二は北原白秋の弟子。白秋といえば「明星派」、浪漫派だが、宮柊二は第一歌集「群鶏」の中頃からリアリズムの傾向を強めていく。刊行は1946年(昭和21年)。近藤芳美の第一歌集に先立つことニ年。二人が「戦後短歌の旗手」「戦後短歌のリーダー」と並び称されるのは当然といえる。共通項は「リアリズム」。きっかけは戦争体験だろう。

宮柊二は1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)まで華北・山西省(現・河北省)で転戦。ここは満州に隣接する地域にあたり、山海関(満州と華北の境界)のすぐ外側にあたる。いわば「日中戦争」の最激戦地にあたりその戦いは辛辣を極めた。その経験が「現実を直視するリアリズム」に近づく契機となったのだろう。だから宮柊二の代表歌集はと問われれば、僕は躊躇なく「山西省」と「日本挽歌」をあげる。「リアリズム」に移行しきったあとの歌集だからだ。

*1940年には、八路軍が山西省を中心に百団大戦を日本軍に対して行った。この被害は日本軍にとっては、とても大きく、それに対して、日本軍は、三光(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)作戦を行った。この時に毒ガスが使われた。

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづおれて伏す          歌集「山西省」

敵兵を引き寄せて背後より心臓あたりに短剣を差すと、静かに敵兵は倒れて伏した、ということである。スローモーションのように印象的に場面が思い浮かぶ。柊二の代表的短歌の一つである。

ねむりをる体の上を夜の獣穢れてとほれり通らしめつつ               歌集「山西省」  

戦争で疲れ切って眠っている体の上を夜行性の獣が通っていくが、追い払う体力もない。兎に角眠りたいので、勝手に通らせておくということである。肉体疲労が限界状況にあると、他のことはかまっていられなくなるのであろう

帯剣の手入をなしつつ血の曇落ちねど告ぐべきことにもあらず            歌集「山西省」

銃の先端に短剣をセットして敵と格闘戦を行うが、その短剣の血の曇が拭いても落ちない。しかしそれは珍しいことではないので、他者にいうことでもない、ということである。それほどに人を刺し殺すことが日常の風景となっているのである。恐ろしい歌である。

軍衣袴(いこ)も銃も剣も差上げて暁渉る河の名知らず                歌集「山西省」

軍服や銃、短剣を両手に差し上げて暁の河を渡っているが、その河の名前は知らない、という意味である。多くの兵隊が河を渡っている姿が思い浮かぶ。何やら楽しい風景に思えるが、いつ弾が飛んでくるか分からない状況なので、緊張感もあったであろう。

亡骸に火がまはらずて噎せたりと互(かたみ)に語るおもひで出でてあはれ       歌集「山西省」

戦死した戦友と荼毘に付すのであるが、燃料の材木が足りないので、よく燃えない。それで煙がもくもくと出てくるので、噎せてしまった、というのである。何とも哀れな思い出ではないか。

死にすればやすき生命と友は言ふわれもしかおもふ兵は安しも            歌集「山西省」

「戦死すれば安い命であると戦友はいう。私もそう思う。兵隊の命とは安いものである。」戦争における兵隊の命はまことに安く、時には武器よりも価値のないもの、ということである。

耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず       歌集「山西省」

耳を引きちぎったヴァン・ゴッホのことを考え、孤独とはなんであろうかと考え、戦争と個人との関係を考えながらなかなか眠ることができない、ということである。真面目で真摯な宮柊二であり、信頼のおける人物であるが故に短歌結社「コスモス」に多くの人々が集まったのである。

殆どが鬼籍となりし小隊に呼びかくるごとく感状下る                歌集「山西省」

ほとんどが戦死してしまった小隊に、呼びかけるように感謝状が下りた、という意味である。中国戦線でも小隊全滅があったそうである。今更感謝状が下りても仕方ないのであるが、生きている者としてはそんなことしかできないのである。

自爆せし敵のむくろの若かるを哀れみつつ振り返り見ず               歌集「山西省」 

自爆をした若い敵兵を哀れみつつ、振り返ることなく前進を続けた、という意味である。敵兵も味方も必死である。戦場では、勝つこと、殺すこと、生き抜くことだけを考えて闘うのである。理性や哀れみといったものは消えるのである。

あかつきに風白みくる丘蔭に命絶えゆく友を囲みたり                歌集「山西省」

暁に包まれた白い風が吹く丘の蔭において、今死にそうな戦友を囲んでいる、という意味であろう。戦場では死は珍しいことではないが、戦友の死は自分の死も身近にあることを認識させてくれる。今度は自分の番かも知れないと。

はるばると君送り来(こ)し折鶴を支那女童赤き掌に載す               歌集「山西省」

はるばると日本の最愛の人より送られてきた折鶴を中国の女の子の赤い掌に載せた、という意味である。戦場での安らぐ一コマである。折鶴、折り紙は中国の文化にはなく、貰った女の子も喜んだであろう。

ある夜半に目覚めつつをり畳敷きしこの部屋は山西の黍畑にあらず          歌集「山西省」

ある夜半に目覚めているが、畳の敷いたこの部屋は、あの戦いに明け暮れた山西省の黍畑ではないのだなあ、という意味である。戦場ではどこもが寝床になり、黍畑で寝たこともあったろう。畳の上で寝ることで、つくづくと平和のありがたさが実感できたと思われる。
泥濘に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず              歌集「山西省」

泥のように大地に転がって休んでいるわが部隊は、生きているような感じがしないことだ、という意味であろう。重装備して歩き続けたり、戦争をし続けれたりしておれば、そうとうに疲れるのだろう。大地に転がればすぐに睡眠できたと思われる。兵隊は不眠症とは無縁だったのではなかろうか。

咲きそめし百日紅のくれなゐを庭に見返り出征たむとす              歌集「山西省」

咲き始めた百日紅の紅を庭に振り返り見て出征しよう、という意味である。家の思い出の一つとして、百日紅の紅をしっかりと目に焼き付けて戦争に行くのである。もしかしたらこれが最後かも知れないと考えていたであろう。

おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ          歌集「山西省」

恐らくは知られることはないであろう一人の兵隊としての生き様を真っ直ぐに遂げよう、という意味である。これは「志」という題が付いている短歌であり、柊二の兵隊としてのあり方を示している。

五度六度つづけざま敵弾が岩をうちしときわれが軽機関銃(けいき)鳴りそむ     歌集「山西省」

五回六回と敵の弾丸が私の隠れている岩に当たった時、私は軽機関銃で反撃しはじめたという意味である。弾が当たればそれで死ぬのである。戦争とは死が常にそばにあるということであり、善悪を考える閑もないのである。

秋霧を赤く裂きつつ敵手榴弾落ちつぐ中にわれは死ぬべし             歌集「山西省」

秋の霧の中を敵が投げる手榴弾が赤くいくつも炸裂する中で、私は死ぬのであろう、という意味である。死を覚悟した時の歌であり、何人かの戦友は亡くなったであろう。その中で生き残ったことは幸運だったのだろう。

掩蓋(えんがい)に射し入る秋陽強くして二日飯食はぬ顔に照りつく         歌集「山西省」

掩蓋(軍隊で敵弾を防ぐたの塹壕などの上部を覆ったもの)に秋陽が強く差し込んで、二日間飯を食べない私の顔に照りついている、という意味である。飯を食べずに水だけで日々を過ごすこともあったのだろう。人間本当にひもじくなると理性がだんだんと失せていき、人間らしさが無くなっていくという。

信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵             歌集「山西省」

信号弾が闇空に上がりて辺りが明るくなると、哀れ哀れ、音のしなかった山にはたくさんの敵や味方の兵がひっとりと身を潜めていた、という意味であろう。この後、激しい銃撃戦になったであろうことは、想像できる。

一角に重機据えたる十二人訓練のごとく射ちつづけをり              歌集「山西省」

一角に重機関銃を据えている十二人の兵士が、訓練を行っているように弾を連続して打ち続けている、という意味である。機関銃の先には敵ではあるが、人間がいるのである。訓練をするかのように人を殺しているのである。戦争とはこのようなものである。

弾丸がわれに集りありと知りしときひれ伏してかくる近視眼鏡を          歌集「山西省」

敵の弾丸が自分に集中していると知った時、ひれ伏して、眼鏡を両手で押さえてじっと隠れていた、と解釈できる。生きるか死ぬかの一瞬の場面が想像できる歌である。

山くだるこころさびしさ互みに二丁の銃かつぐなり                歌集「山西省」

戦場の山を、互いに戦争でなくなった戦友の銃を担ぎながら寂しい気持ちで、下ったことだ、という意味であろう。銃は時として命よりも重要なものであったのだろう。これがなければ戦ができないのである。

左前頸部左顳顓部穿透性貫通銃創と既に意識なき君がこと誌す            歌集「山西省」

弾丸が体の左前頸部をつらぬいていると、死にかけている戦友の状況を詳しく記載したということである。戦場ではよくあったことである。遺体が土に埋められるのはまだよく、そのまま戦場に放棄された遺体もあまたあったのである。

麻畠に沿ひて過ぎをり毛を刈りて涼しくなれる緬羊の群               歌集「山西省」

戦場の麻畑に沿って過ぎて行くと毛を刈って涼しくなった羊の群れに出会ったことだ、という意味であろう。戦場においても生活をする農家の人たちがいるのである。元々人間が住んでいる場所が戦場なのかも知れない。流れ弾に当たって亡くなる民間人もたくさんいたのであろう。

稲青き水田見ゆとささやきが潮(うしほ)となりて後尾へ伝ふ             歌集「山西省」

稲の青い水田が見えるというささやきが波のように後ろの兵隊に伝わっていく、という意味である。戦場でも稲を育てている農民がいるのである。これから激しい戦闘があり、水田がめちゃめちゃになるかも知れないのである。水田を眺めると故郷を思い出すかも知れないか゛、そんな感傷も一時のことかも知れない。

うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇ふ最後の雨か              歌集「山西省」

私の骨や体に寒い雨が打ち続いている。この世の最後の雨であろうか、という意味である。戦場での一コマであり、これから敵兵と闘うのである。一つ一つがこの世の最後の出来事なのかも知れない。

装甲車に肉薄し来る敵兵の叫びの中に若き声あり                  歌集「山西省」

わが軍の装甲車に肉薄して迫って来る敵の兵隊の中に若き声が聞こえた、という意味である。敵兵の中には十代の若者もいたのである。しかし戦争においては相手を撃ち殺さなければ自分が撃ち殺されるのである。十代であろうと敵は撃つのである。

こゑあげて哭けば汾河の河音の全く絶えたる霜夜風音                歌集「山西省」

歌の師である北原白秋が昭和17年11月2日に亡くなった。その悲報を聞いての歌である。悲しみの余り声を上げて泣いてしまったが、河が凍って河の音が全く聞こえず、霜が全体に降りて、風の音ばかり聞こえている夜だ、という意味であろう。白秋への挽歌である。

焼跡に溜れる水と箒草そを囲りつつただよふ不安                  歌集「小紺珠」

戦争から生きて帰ってきた柊二は、東京の焼跡にある溜まり水とははき草の周辺を巡りつつ不安が漂っていると感じたのである。これから日本はどうなるのか、自分や家族はどうなるのか、短歌はどうなるのか、日本全体に不安が漂っていたのかも知れない。

たたかひを終りたる身を遊ばせて石群れる谷川を超ゆ                歌集「小紺珠」

歌集の冒頭の作品である。戦後、復員して黒部渓谷に入った時の歌である。自殺でもしようかと思ったのであろうか。大きな石の群がる上流辺りを彷徨い歩き、結局戻ってきた。ここから柊二の戦後の歌が本格的に始まるのである.



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