●中国侵略戦争
●第5回「戦争の加害」パネル展in横浜
●細菌(生物)戦争
●『BCGと人体実験』 美馬聡昭著
●731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
●防疫研究室と昭和天皇の関係
●1940年と2020年の東京オリンピック
●731部隊と国立感染症研究所の問題
●731部隊・細菌戦資料センター総会のご案内
●731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
●情報公開裁判「化学学校記事」「衛生学校記事」
●ABC企画委員会
●731部隊・100部隊展
●記憶の継承を進める神奈川の会
今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日 731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日 731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日 731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日 731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した
8月 731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月 100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
【コロナは生物兵器か】人工のコロナウイルスショックによる文明の転換点 船瀬俊介氏が語る
米軍300人が新型コロナの感染が広がる前に武漢にいたという。
新型コロナウィルスを撒いたのは??
731部隊被害者遺族の訴え!!
検証・中国に於ける生体実験
東京帝大医学部の犯罪 美馬聡昭著 桐書房(2013年)
第3章 国家機密の抹殺
BCGの人体接種試験
「BCGが使用できるようになった頃、BCGの毒力が恐ろしいとみえて、はじめて人体研究をする臨床の大先生は0.0001mg接種からはじめていた。その頃私たちはBCG接種は0.03mg皮下接種を進めていたのだから、その隔たりはとても大きかった。
その頃、今でもはっきり記憶に残る思い出がある。東北大学の熊谷岱蔵先生のことであるが、先生は、最初はBCGなどたいしたことがないと思っておられたらしい。ツベルクリン反応陰性の看護婦の一群にBCGを接種し、他群には何もやらないで比較された訳である。接種して3ヵ月くらいにお目にかかったときには、皮下接種の場合、接種局所に潰瘍ができて、苦情が多くて困ると嘆いていた。それから1年たって会ったときは、接種群からの結核発病の少ないことに驚かれたらしい。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、事実も認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。
さらに、裁判所は、こうした事実認定に基づいて、1925年のジュネーブ議定書で禁止されていた細菌兵器を使ったことは議定書違反であることを、はっきりと認めています。このように、ジュネーブ議定書違反であることが公の裁判の場で、はっきり認められたことは、大変画期的なことであり、初めての事です。
しかし、裁判所は、結論としては、1972年の9月の日中共同声明で解決済みであり、中国人が日本政府に請求することは出来ないとしています。
731部隊の行なった細菌戦
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!
731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記
1月2日
奉天に行ったらうんとあばれてやろうと 元気はあれど金はなし
午前10時半下番 第一歩は何より嬉し―週番下士は田中軍曹 夜は娯楽会ある
中々にぎやかにして盛会なり浪曲コン屋高尾最後至に、あるいは関の五本松。端唄。落語の都々逸何でもよいだ
中隊へ帰ると何より騒ぐのが楽しいのだ 今日もまた相手きらわず班を駆け回る 呑気なもんだ 内地の友達もやはりこのようにせめて正月中は呑気に暮らしているだろうよ
週番下士もでたらめだ 分遺下番を不寝番につけるなんて 戦友起こし回っているだろう
後が恐ろしいが 又分遣さよ―ならだ 組合の娘がいるんだよ・・・・・ハハハ・・・・
10. 映画等で見る戦争とは違う事、見る事が出来ました。涙が出ることがありまして、私たちは本当に5歳まで浜松に疎開して、6歳で横浜の小湊に戻ってきましたが、家はなく、留守番をしていたしていた方はなくなっていました。本当に皆同じ生活苦を味わった時代でした。又、兄弟も10人いたので父も亡くなり母一人で10人の子どもを育ててくれたのを思い出して涙して、写真展を見せていただきありがとうございました。(70、市内、折込み)
53.気持ちが重くなりました。
(?・70代・市内・朝日新聞)
★要望
72才、福島双葉郡の生まれです。原発の映画知りませんでした。見てみたいです。
●細菌戦
【真相】(unit731)
・『石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』
郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)
V 私は中国軍の捕虜だった
<ー総務部調査課翻訳(情報)班 H・M
命令、満洲第731部隊に転属を命ず
私は、明治43年に東京で生まれた。昭和13年4月に千葉医科大学を卒業すると、そのまま母校の研究室に残った。専門は皮膚泌尿器科である。
昭和16年4月、私は召集令状を受け取り、満州へ赴いた。衛生部見習士官として、ハルピンにあった関東軍第28師団第3野戦病院付を命ぜられたのである。
翌昭和17年、陸軍軍医少尉に任官すると、ハルピン郊外孫家屯にあった満州第379部隊(第28師団山砲連隊)第3大隊付軍医となった。3000人からの兵士たちの傷病の手当てをするのである。
中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳
堀口正雄供述書(1954年5月3日)
問:石井細菌部隊に何人送ったのか。
答:スパイで4件送ったと記憶する。4人である。
(1)119-2、40、2、第6号
第1章 毒ガス兵器の研究と開発
対ソ戦を想定した毒ガス戦研究と準備の進展
これが認められ、37年8月に中国東北・チチハルに新設された関東軍技術部内に化学兵器班(班長・勝村福次郎砲兵中佐)が設置された。そして同班は39年8月に関東軍化学部(満州第516部隊)として独立した研究機関となる。同部長を務めた経歴を持つ小柳津政雄元中将はこれにより「化学戦準備のため満州に確固たる試験研究の地歩を築いた」と記している(前掲「化学研究史」)。
しかし、これらの椅子を見ているうちに、どういうわけか私は毒ガスの為に被害を受けたあの労働者たちを思い出していた。彼らはまさにここで治療を待っていたのではなかったか。ここの椅子に座っていた時、どんなことを考えていたのだろうか。
行武院長は私達を2階のカルテ室へと案内し、話はここで進められた。カルテ室はおよそ50㎡ほどの大きな部屋で、その大半はスチール製の棚で占められていた。これらの棚は床に敷かれたレールの上を動かすことができるが。普段は1か所にまとめられている。資料が必要な時は、棚を移動して、人が動ける隙間を残す。こうすれば大いに空間を節約でき、置ける棚の数が増える。建物の有効利用である。そして同時に、病院の大量のカルテが蓄積されていることを示すものでもある。
行武院長は座る前に、カルテ棚から1冊の分厚い名簿を取り出し、私達にまわし読みする様に言った。病院が治療した患者の名簿がA、Bの2種類に分かれているのである。Aは当時毒ガス工場で働いていた職員、労働者、徴用工、Bは動員されて島へ来た女学生、婦人会・挺身隊のメンバー、戦後化学毒剤処理のために雇われた労働者、「勤労奉仕」の名の下に島へ来ていた人らを指す。行武院長が語るところによれば、A、Bとも被害の面では大きな差がないが、政府側から受ける待遇が異なる事だ。前者は正式な被害者と認められ、毎月10万円ほどの補助をもらっているが、後者は被害を受けても、もらう補助金はわずか3万円ほどしかない。
日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題
●『三光』 中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)
「馬鹿野郎ッ、こんなものに手を出して・・・早く消毒しろッ」顔に薄笑いを浮かべて出てきた宇田は“実験中”と書いた札をさしながら、あざけるように私をなじりました。「馬鹿な、こんなものに手なんか出すものか」私はいらいらした怒鳴りつけたいような気持ちを押えながら、特別班の解剖室に入って行きました。
解剖台の上は解剖が終わったばかりらしく、“血流し”には真っ赤な鮮血が流れ、下に置かれているガラス瓶の中にポタリ、ポタリと落ちていました。大きな解剖刀は中国人の鮮血を吸って真っ赤な血糊がついています。「オイッ、田村、俺は電話してくるから器材を消毒しておけ、すぐ始めるからな」と宇田は出て行きました。
●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!
日本の毒ガス
沖縄・南西諸島が軍事要塞化している現実はおかしくないか??
「琉球処分」から140 今の沖縄を考える
●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・731部隊関連の「情報公開裁判」に関する報告
和田千代子(731細菌戦部隊の実態を明らかにする会事務局長)
第4 私達の情報公開裁判闘争の目的
ところで日本は1951年9月に締結されたサンフランシスコ対日講和条約に基づいて翌1952年4月に“主権回復”。その後同年中に「保安隊」が設立され、2年後の1954年に「自衛隊」が発足しました。その自衛隊は、発足当初から旧日本軍の731部隊の元幹部隊員を自衛隊に入れて細菌戦部隊が持っていた技術や知見を秘密裏に軍事情報として積極的に収集しました。
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。
Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
1、 生物・化学兵器の開発の歩み
恐るべき人体実験
石井部隊には軍医中将が3人、少将が5人か6人、大佐が10人、中佐、少佐が20数人、尉官、見習士官が約300人いた。
軍属には、細菌学に関係のある医学博士はほとんど日本中から集められ、将官待遇10数人、佐官待遇30人以上であった。終戦時の部隊総員は2000人以上いたと言われる。
細菌戦準備の為に生きた人間を使った理由は、戦犯法廷での被告たちの証言によれば、次の通りである。
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家 田中利幸より
重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第12章大元帥の試練
V
相次いで大敗北を喫し、その衝撃が重なっていたにもかかわらず、天皇と統帥部の決定は、依然として大胆だった。1944年6月中旬、アメリカの大艦隊がマリアナ諸島の重要な日本軍基地を攻略するためサイパンに接近すると、機動部隊を再建した連合艦隊は、9隻の航空母艦と460機以上の艦載機を投入し、サイパン上陸阻止をもくろんだ。続いて、マリアナ諸島での陸・海・空の戦いが、1944年6月から8月ににかけて繰り広げられ、日本海軍と海軍航空隊にとって決定的な戦闘となった。アメリカの侵攻部隊に大した損害を与えられることもできず、日本海軍は空母3隻を撃沈され、395機が撃墜された。陸軍は再び適切な縦深防御態勢を準備できず、絶望的な戦闘の後、サイパン、グアム、テニアンは陥落した。これらの島々は、まもなく、長距離爆撃機B29(超空の要塞)の前進基地となった。1944年7月7日のサイパン陥落は、とりわけ統帥部にとって大きな痛手だった。3週間におよぶ熾烈な抵抗の後、2万3811名の守備隊と1万名の非戦闘員のほぼ全員が死んだ。これにより日本は、太平洋全域の制空権、制海権も失ったのである。
731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!!
日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?
地球の温暖化や異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!
●『二酸化炭素温暖化説の崩壊』広瀬隆(集英社新書 2010年発行)
第1章 二酸化炭素温暖化論が地球を破壊する
水蒸気の作用
温室効果が最も大きいのは二酸化炭素ではなく、水蒸気である。地球を包む温室効果ガスのうち、水蒸気の量は二酸化炭素より一桁大きく、水蒸気同士がもたらす相乗効果を考えれば、私の見る所では、温室効果の95%は水蒸気によるものである。
-地球の気象を左右してきたのは、大気中に0.03%の体積しかない二酸化炭素ではない。大気中には水蒸気が重量で13兆トンもあり、空気の量の0.26%を占めているが、湿度が高い所では4%にも達する。
若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?
月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子
核実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
核実験(かくじっけん,英語:Nuclear weapons testing)とは、核爆弾の新たな開発や性能維持を確認したり、維持技術を確立したりするために、実験的に核爆弾を爆発させることを指す。1945年から約半世紀の間に2379回(その内大気圏内は502回)の核実験が各国で行われた。そのエネルギーはTNT換算で530メガトン(大気圏内は440メガトン)でこれは広島へ投下されたリトルボーイの3万5千発以上に相当する。
●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future
●核融合もすべきではない!!
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について
●日本政府・自衛隊は情報を公開せよ!!(情報開示!!)
今年も8月12日がくる──。33年前 520人が犠牲になった日航機墜落、遺物の化学分析で判明した事実とは?
中曽根元総理が知る日航機墜落事故の真実とは?墓場まで発言の真意を調査!
ここの研究所は、どんなことをやっているのだろうか??
●国立感染症研究所村山庁舎(武蔵村山)
●1954年3月1日第5福竜丸他1000隻もの船が被曝!核兵器廃絶!!
なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より
・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。
封印された原爆報告書
水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した!!
JCOの臨界事故
福島第1原発事故
●核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
●「731部隊・100部隊・毒ガス戦」パネル展 2019年4月29日~5月3日
●「日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか 」 田中利幸さん
●日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病
●731部隊(unit731)
●昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!
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