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●第20回『衛生学校記事』情報公開裁判
●細菌戦部隊(731部隊と100部隊)パネル展を開催しませんか?
●NO MORE 化学兵器
●帝銀事件と登戸研究所
●石垣島の自衛隊!!
●カネミ油症問題
●元731部隊軍医と強制不妊手術
●731部隊・100部隊と戦後の流れ
●細菌戦部隊員の戦後
●731部隊の問題
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】
・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に
2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影
●ニュース
何で殺処分なんだろうか???
豚コレラ感染拡大 業界衝撃 対策早急に 「胸つぶれる」殺処分に悲痛 防止策徹底も「終わりない」 「風評が怖い」正確な情報を
政府与党、実質賃金の参考値は公表しない方向で調整
調査統計不正問題での政府統計への信頼回復は容易ではない
強制不妊手術、裁判の行方は 救済に高い壁も
自衛隊の名、実態と合ってない? 無線では「日本海軍」
「南スーダンPKO動画」開示 防衛省
根元から腐り始めた国の機構/防衛省PKO動画公開
核兵器廃絶!!
復活する米露の中距離核戦力とは
3 11人工地震の証明~日本人が知らねばならない真実~
【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 厚生労働省の毎月勤労統計改ざん! 政府の流れはつぶれる会社のパターン
「歴史の真相」内海聡の内海塾
【大竹まこと×森永卓郎×倉田真由美】 やばい日本の製造業! 家電&国産スマホの財政危機
【大竹まこと×近藤誠×倉田真由美】 〈目から鱗の医療〉 がん手術・抗がん剤治療・早期発見は効果がない!
【大竹まこと×森永卓郎×倉田真由美】 日立のイギリス原発輸出撤退の裏側! 日本に生まれる新ビジネスチャンス
竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか
海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見
【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任
森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」
「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ
松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示
“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)
真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活
731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他
国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題
中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30
●お知らせ
京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)
731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
意外な来訪者
そういってその人は、この部隊の秘密を探り出そうとしてハルビンに集まっている各国のスパイは、およそ3、4千人もいるだろうなどと話してくれた。
日本の細菌戦医学は、世界で最も優れているというので、各国の注目は、「731」と呼ばれるこの部隊に集まっていた。関東軍と陸軍省の一部首脳以外、日本の国民も兵隊も知らない舞台裏の戦いが、ハルビンを中心に繰り広げられていたのである。
「“731”と言えば、日本国内よりも外国の方で有名なんだからね」
と、その人は言う。
この人は、明石義隆といって、重慶に3度も潜入し、蒋介石が彼の首に10万ドルの賞金をかけたという、関東軍特務機関の腕利きであった。
そして、現在は「731」を狙う敵国のスパイを摘発して、保護院に送り込む仕事をしていたのである。逆スパイとして使える見込みのない者は、処刑の代わりに人体実験によって命を奪われるのだ、という。
毎週土曜日に送られて来て、獄舎につながれている囚人たちは敵のスパイで、これまですでに2千人ぐらいの者が実験材料となって死亡し、監獄には常時5百人ぐらいの囚人が幽閉されているのだそうである。
“人体実験!”―私は、はっと襟首をつかまれたように、明石氏の顔を見つめた。明石氏は、私が、とうにその事実を知っているものと思っていたのだろうが、私が直接耳にしたのは、この時が初めてなのである。しかし、私はもはや、その事実を疑わなかった。
・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り
京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・
「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」
日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第4章 科学はいかにして罪業となったか
多種多様な化学兵器
1937年以降は、日本軍の化学迫撃砲部隊では、基本的に上記の「九四式」軽迫撃砲を装備し、その後「九七式」迫撃砲も装備した。「九七式」砲は口径81.3ミリ、射程3000メートルで、「九四式」に比べてより軽便で、発射速度も更に早く、1分間20発に達した。1942年には、この他120ミリ口径の大型迫撃砲も制式化された。
攻撃的な化学兵器としては、さらに手で投げることができる数種類の爆弾があり、接近戦の際に相手の人馬を殺傷したり、相手の戦闘力を制したりするのに用いられた。毒剤の種類によって、やはり「あか弾」「みどり弾」「ちゃ瓶」等と呼ばれた。手投げの「ちゃ瓶」も当時の機密兵器で、普通の球形のガラス容器の中に青酸ガスを装入して作る。球形容器の直径は110ミリ、容積は410㏄である。当時の化学戦のテキストの中に、相手の戦車ないし火力点7メートル以内に接近し、ちゃ瓶を砲塔ないし銃眼に投擲すれば、敵方戦車ないし火力点内の戦闘人員を死亡させることができる、と述べられている。
東京第二陸軍造兵廠曽根製造所
平成十二年八月六日、「平和のための戦争展 in 北九州2000」の企画で、旧軍施設の見学会が催されました。見学先は、「東京第二陸軍造兵廠曽根製造所」跡地です。それに参加したときの写真です。
ここは、表向きは普通の爆弾製造工場とされていましたが、実際は、「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所(広島県竹原市大久野島)」製の毒ガスを、「小倉陸軍造兵廠(福岡県北九州市小倉北区)」製の砲弾・爆弾に充填する化学兵器製造所でした。日本の製造した毒ガス弾の2割がここで充填されたと言われています。
●B1棟(仕上げ場)
この面から見ると、高い壁が目立って、先の写真とのイメージがかなり異なります。
見学会に連れて来られた子供が、枯れ草の茎でチャンバラ遊びをしていました。カメラを向けたら固まってしまったのが残念です。
●登戸研究所資料館
はじめに
設立趣旨―開館にあたっての明治大学からのメッセージ
私達は、登戸研究所の研究施設であったこの建物を保存・活用して「明治大学平和教育登戸研究所資料館」を設立し、登戸研究所という機関の行なった事柄を記憶にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、多年にわたり、登戸研究所を戦争遺跡として保存・活用することを目指して地道な活動を続けてきた、地域住民・教育者の方々との連帯の場としていきたいと考えています。
2010年3月29日 明治大学
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
4、ドイツではどのように向き合ったのか
■世界と日本での議論の進展
―今も戦争が絶えないもとで、国際的には医学界・医療界ではどんな議論が行われているでしょうか。
人体実験に関する国際規範であるヘルシンキ宣言やその源流となったニュルンべルク綱領も、医学者・医師が軍事研究に従事すること自体については踏み込んではいませんし、世界医師会や世界の医学界・医療界において国際紛争の解決に際しての「戦争と武力による威嚇又は武力の行使」 の禁止や武器生産の禁止についてはほとんど議論されていませんでした。2005年になって、世界で最もよく知られ、評価の高い医学雑誌Lan cet(ランセット) では出版社のエルゼビアの傘下に軍需産業の会社があることが明らかにされ、「兵器と健康を売る医学雑誌の偽善」の論争が起こり、国際的な運動の結果、軍需産業から一切経済的支援を受けないことになり、「生物医学研究者に対する軍需産業との関係についての提案」もなされました。この時には、最大の人為的災害は戦争であり、最も被害を受けるのは女性と子どもであり、国際的な公衆衛生上の課題であるという趣旨のWHO(世界保健機構)の報告についても議論されました。
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
復刊衛生学校記事1(2)(井上義弘)
1961年7月
昭和20年の頃
4、救護班の派遣
班長は近山大佐、庶務主任は大橋少佐で病理主任を兼務、調査研究は御園生、本郷、成田の3少佐、病室は2つに分け、第1に本橋、神林少佐、第2に高田少佐が勤務した。別に巡回診療をするため中山少佐を主任とし中富大尉がこれを補佐した。外来は宮崎、大地少佐が当たった。衛生材料主任は大竹大尉で経理には木下少尉以下の経理官が加わった。南雲、野本の両准尉以下下士官7名、兵20名、看護婦は日赤本部第180班高野婦長以下23名、兵庫第203班竹原婦長以下19名、福島第153班遠藤婦長以下19名、茨城第206班高部婦長以下17名、高知第314班栗岡婦長以下12名、陸軍看護婦佐藤婦長補他2名、計93名、雇用人57名、合計班長以下194名が実際の業務をとった。
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第7章 満州事変
Ⅳ
1932年の夏から秋にかけて、それはふたりの人生でも、とりわけストレスが強い時期となった。天皇は満州の危機への対応に追われ、皇后は男子の世継ぎをもうけることができないことに心を悩ましていた〔皇位の継承権は男系男子にだけ認められていた〕。厳しく管理された公人としての生活を送ってきた天皇と皇后は、内大臣牧野、その秘書官長河井、侍従長鈴木の意見に従い、第1子である6歳の照宮を皇居内の別の建物で生活させるために宮殿の外へ出すことにした。夫妻はともに照宮を手放すのが残念だったが、それを要求する宮中の伝統を否定しようとはしなかった。
こうした雰囲気のもとで皇后は1932年末のある日、流産をしてしまった。その後、昭和天皇は君主としての責務を果たすために側室を置くことを求められた。かつて学習院院長や宮内大臣をつとめ、明治天皇、大正天皇に仕えた長老の伯爵田中光顕は、東京および京都でふさわしい側室を求めた。10人の姫君が選れ、さらに3人ヘと絞られ、そのうちの(おそらく、もっとも美しい)ひとりが宮中に招かれ(皇后陪席の下で)昭和天皇とトランプをしたという話である。 一夫一婦主義の昭和天皇は、おそらく、彼女にそれ以上の関心を持たなかったと思われる。1933年初頭、皇后は再び懐妊し、同年12月23日、皇太子明仁を出産した。彼らの私的な危機は去ったのである。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
憲法9条を生かそう!!
731を問う!!
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