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●武見太郎と金原節三の関係
●第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
●日本反戦平和記憶国際シンポジウム
●4月18日(木)ビザ発給拒否国賠裁判(最大の山場)
●ABC企画総会・講演、「講演と合唱の夕べ」
●ソビエト連邦、中華人民共和国とハバロフスク裁判の忘却1949-1956
●情報公開裁判、意見交換会、細菌戦センター総会・講演
●731部隊関連年表
●人体実験疑い 京大調査継続せず(731部隊)
●日本の核開発(加藤哲郎さん)
明仁・日本政府・日本医学会は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
又、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマと4度被曝した日本は、世界に先駆けて核兵器廃絶・脱原発と叫ぶべきではないか!!
●水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、1000隻近くの漁船が被爆した!!
ビキニ「死の灰」世界各地へ
●日本の核開発
「徴用工問題」とは何か
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】
・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!!
2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影
オリンピックにお金をかけるのではなく、いじめ対策・貧困対策・戦争被害者対策にお金をかけるべきだ!!
●ニュース
人体実験疑い 京大調査継続せず
JOC竹田会長 きょう退任表明へ 6月の任期いっぱいで
透析治療 学会ガイドラインの手続き軽視浮き彫りに 公立福生病院
天皇神話はいらないのでは?
天皇皇后両陛下 来月伊勢神宮へ 最後の地方訪問
竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか
海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見
【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任
森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」
「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ
松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示
“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)
真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活
731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他
国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題
中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30
京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)
731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に
●横浜「戦争の加害展」感想
2月10日
・神奈川県内に「毒ガス」製造局がこんなに多くあったのかとおどろきです。いずれのパネルも大変貴重な物です。展示者に敬意を表します。(男性60代市内)
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
氷の部屋
暑いので廊下に面して並ぶ研究室はほとんど窓を開け放っている。そのうち、私は一風変わった研究室の内部を見た。室内にさらにもう1つのガラス張りの部屋があり、白い服の技師たちがそれを取り巻いて眺めているのだ。よく見ると、その中には、素裸にされた人間が縛りつけられて震えながら、しきりにもがいている。何かの実験であろうが、ちょっと想像がつかなかった。何の部屋かと思って表札を見たが、ただ“5号”と書かれてあるだけだ。私はほんの1秒ぐらいの間立ち止まった。その時、
「誰か?」
と低いだみ声がして、1人の技師が出てきた。
「何をしているのだ」
「はい。培養菌を運搬してきた帰りであります」
「こっちからは出られないぞ。向うへ回れ」
技師は、なんだ子供か、という風な顔で、あごで私の来た方を示した。
一時はどうなることかと冷汗をかいた私は、そこから引返して急ぎ班に帰り、
「5号室は何をやっている部屋でありますか?」
と、佐川技手に尋ねた。
・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り
京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・
人体実験疑い 京大調査継続せず
第45回定例研究会(公開)のご案内
日時 2019年3月24日(日)11:00~17:30
会場 京都大学医学部構内 医学部先端科学研究棟1階セミナー室(大)
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_i.html (地図上の16番の建物)
ホームページ https://japan-war-medicine.jimdofree.com/
資料代 1000円
14:00~15:00 第19回会務総会
15:10~17:30 一般演題
1. 優生保護法強制手術に見る宮城県の状況と背景―検証する視点の模索 村口 至(坂総合病院)
2. 日中、太平洋戦争ー軍部衛生部に組み込まれていった医学生、医師たち 莇昭三(城北病院)
3. 「留守名簿」石川県内48件の訪問調査の報告 池田治夫(戦医研北陸支部)
4. 京都大学による旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証 西山勝夫(滋賀医科大学)
日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第5章 陸軍習志野学校
残酷な軍事演習
散毒地帯を設定した後、第2段階の演習が始まった。時間が緊迫していると予想されたので、散毒地帯を消毒処理するわけにはいかない。習志野学校の練習隊が組織した演習隊員は防毒マスクを着けて散毒地帯を強行通過することになっているので、防毒器具の性能を検査して、散毒地帯を通過する経験を模索した。この演習隊員は全部で150人、3個小隊に均等に分かれていた。第1の小隊は厚いゴム製の90式防毒衣を着て防毒マスクを被り防備は完全だった。第2の小隊は薄いゴム製の防毒衣を着て半防備の状態であり、第3の小隊は防毒マスクと防毒手袋だけの簡単な防備だった。演習を指揮する今村均と教官の新妻雄、明石泰三郎は普通の軍服を着て足を保護するだけで演習に参加していた。散毒半時間後、各小隊ごと5人1組になって同時に散毒地帯を通過、全部で15分間有毒地帯で活動した。午前10時30分になって、演習隊員はようやく毒剤に汚染された軍服を脱いだ。しかし、予想もしなかった傷害が続々と発生したのである。
(広島県大久野島毒ガス工場)
●登戸研究所資料館(明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブックより)
第二展示室
風船爆弾の飛行経路
気球内を水素ガス60%程度で満たし、風船爆弾を基地から放球します。上昇するにつれて外気の気圧が低下してガスが膨張し、高度4500m程度で100%まで満たされ、更に上昇を続けると、バルブからガスが放出されます。やがてガスの放出は収まり、偏西風に乗って太平洋上を東へ移動し、夜を迎えます。
気温の低下に伴い気球が収縮して高度が低下すると、高度維持装置の働きにより予め搭載されていた砂袋を投下し始め、高度が回復すると投下は止まります。およそ2昼夜半かけてアメリカ上空へたどり着き、爆弾や焼夷弾を投下する仕組みになっていました。
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■さらなる戦争加担を邁進
―戦時下、医療界は、どのようにさらなる戦争加担に邁進していったのでしょうか。
1942年2月、従来の医師法などを改正し制定された「国民医療法」は「国民体力の向上を図るを以て日的」(第1条)とし、「富国強兵」策を遂行するための方策(開業の制限、新卒医師への動務地の指定、医師の徴用制度、無医地区での公営医療機関の設置、医療機関の整備統合など)を掲げました。さらに従来の医師の任務は「医事衛生の改良発展を図る」というものでしたが、この「国民医療法」の第3条で「医師及び歯科医師は国民体力の向上に寄与するを以てその本分とす」と明記し、国の方策遂行に寄与するという新しい任務を規定しました。
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
衛生学校の人々
第6代衛生学校長 中黒秀外之(なかぐろひでとし)
1931年 3等軍医
1943年 軍医中佐
敗戦時軍医学校付
731大連出張所?
第14方面軍第30野戦防疫給水部:中黒秀外之軍医中佐
教程類を作成
幹部予防衛生教程
生物衛生教程
放射能衛生学教程
特殊武器衛生教程
1962年以降 研究期報(後に年報)
学校史の編纂
衛生学校記事 復刊 1961年4月 期刊
口惜しく思っていることは、有事の際の師団衛生隊等の新装備の開発研究である。機動性を保持し、最新の科学の進歩を取り入れた斬新な装備の開発、試作は最も緊急を要することと思う。本来は技本の衛生部門が担当すべきものかも知れないが、衛生学校をおいては他に作戦自衛隊の診療を支える衛生科部隊の編成、運用、特に装備改善研究のイニシアチブをとるものは見当たらない。今後とも、有事に後れを取らぬ態勢の確立に邁進して戴きたいと切に希望するものである。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第8章 昭和維新と統制
Ⅱ
2月27日、陸軍予備役少将江藤源九郎〔奈良県選出代議士〕が衆議院で美濃部を非難し、少なくとも美濃部の2冊の著作『憲法撮要』『逐条憲法精義』は、大逆罪に当たるとした。その直後の3月4日、岡田首相は国会で、「機関説を支持しているものではない」と言明し、ヒステリックな風潮に屈服した。
翌月、国会が休会した後、岡田首相と閣僚らは、美濃部に勅選議員を辞めるよう求め、同時に美濃部の著作に対する行政処分の検討を始め、最終的には彼の3著を発売禁止処分に付した。政府の全官僚に、天皇は国家の「機関」である、とは言わないように指示をした。文部省当局は各府県知事ならびに高等教育機関の長へ、国体明徴の訓示を出し、次いで大学の法学教授たちが書いた書籍、論文、講義の調査を開始した。諸官庁はすぐに国体の意義と日本精神についてのセミナーを全国で開催し始めた。講演を実施し、新しい方針を話すことで、彼らは日本における人種思想、自由主義に敵対する学説の専門家、そして日本でナチスの法理論を唱道する人物を糾合した。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
憲法9条を生かそう!!
731を問う!!
2019年3月18日月曜日
武見太郎と金原節三の関係
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第4代衛生学校長 金原節三
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
『日本近現代医学人名辞典』から金原の略歴を書いてみる。
金原節三(きんばらせつぞう)
明治34(1901)~昭和51(1976)年(74歳)、愛知
【陸軍軍医(耳鼻咽喉科)、陸上自衛隊医官】
大正15年東京帝大(陸軍依託学生)。6月(陸軍2等軍医)、陸軍軍医学校(15年8月~昭和2年6月)、済南事変のため出征(3年5月~4年4月)、東京帝大大学院(耳鼻咽喉科増田胤次教授4年4月~6年3月)、4年8月(1等軍医)、7年8月東京第1衛戍病院付、9年1月陸軍省軍務局付、独駐在(9年12月~11年8月 軍事研究)、11年8月(3等軍医正)、軍医學校付、12年8月医務局医事課員、逓信省事務官、13年2月航空局事務官(~14年3月)、13年6月傷兵保護院事務官(~14年3月)、16年11月医務局医事課長、17年8月(軍医大佐)、18年9月近衛第2師団(スマトラ)軍医部長、19年10月第15軍(ビルマ)軍医部長、20年7月第38軍(仏印)軍医部長、21年5月帰還復員、6月厚生省東海北陸医務出張所長、22年12月退官(追放令による)、23年1月名古屋市にて開業(金原医院)。30年8月陸上自衛隊衛生学校長(陸将補)、32年7月(陸将)、32年12月陸上幕僚監部衛生課長、32年7月陸上幕僚監部衛生監、36年11月退官。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
多磨霊園にある仁科芳雄(日本の原爆開発「二号研究」を推進した)の墓には「吉田茂謹書」とあり、同じ敷地内にある分骨された朝永振一郎の墓には、「武見太郎謹書」とある。
武見太郎が、細菌戦を指導していた金原節三を慕い、日本の原爆開発を担っていた仁科の弟子であった。そして戦後、3師会(医師会、薬剤師会、歯科医師会)で武見天皇と呼ばれ、絶大な影響力のあった武見太郎は、防衛医科大学の設立委員長になる。
それでは、武見太郎とはどのような人物か?ウキペディアを見てみよう。
1930年(昭和5年)に医学部を卒業、内科学教室に入ったものの、教授との折り合いが悪く退職した。1938年(昭和13年)理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究した。翌年には、研究活動の傍ら東京・銀座の教文館ビルに武見診療所を開業し、開業医として生計を立てながら政財界の要人とも交わるようになり、吉田茂に指示されて、高血圧症を患っていた米内光政を往診したこともあった。
武見太郎の金原の関係
武見太郎が1931(昭和6)年に近衛第3連隊に配属された。その時の上官が金原節三(当時軍医大尉)だった。武見は、幹部候補生で、約10か月過ごしたようだ。その時金原言われた言葉は、「お前たちは、将来軍医になるのではないから、軍医の規則ばかり勉強する必要はない。自分の専門とする勉強をどんどんやって、その余暇に軍医の関係の本を読めばよい。そういうことは、各中隊でやっているとうるさいから、他の部屋に来て勉強しろ」というものだった。
金原は、その後陸軍省に行ったが、武見も、軍の戦時研究に携わっていたので、陸軍省で二人は何回もあっている。
武見は、1938年(昭和13年)理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究した。武見の恩師、仁科芳雄とも金原は会っている。
敗戦後、金原が防衛庁(自衛隊)にいたとき、日本医師会の武見を訪ねて、防衛衛生学会を開くので、挨拶をしてくれと、武見に頼み、武見も喜んで引き受けている。
金原との人間的な関係から、当時世論の強い反発もあったが、武見が防衛医科大学校の、設立委員長になった。
その中で、武見は「金原先生が戦前に考えておられた防衛衛生に関することは、防衛大学校で受け継がれて大きく発展するであろうと願っている」と言っている。
金原は、戦前、細菌戦に携わっていたのだから、そのことが防衛医大に受け継がれていくということであろうか??意味深な発言である。
※陸上自衛隊衛生学校に寄贈された金原節三資料の『金原節三資料目録』の巻頭言を武見太郎は次のように書いている。
「巻頭言」
日本医師会長 武見太郎
金原節三先生は私の尊敬する先輩の1人であった。私が昭和6年10月から、幹部候補生として近衛第3連隊に配属された時の教官が金原先生だった。
当時、先生は東大耳鼻科から大学院を卒業されて、すぐ近衛第3連隊に配属された軍医大尉であった。
先生の偉大さを私が直接感じたのは、我々幹部候補生8人を呼ばれて「お前たちは、将来軍医ではなるのではないから、軍医の規則ばかり勉強する必要はない。自分の専門とする勉強をどんどんやって、その余暇に軍医の関係の本を読めばよい。そういうことは、各中隊でやっているとうるさいから、俺の部屋に来て勉強しろ」という命令であった。我々が原書を読んでいると、先生は常にどんな本を本でいるのか注目して、色々な質問をされたり、討論をしたりしたことがあった。その頃、私は若年であったが、先生の幅広い知識の持ち主であることに驚いていたのである。
また、その見識は非常に示唆に富んだものであった。実は、先生の奥様は、東京音楽学校の学生時代に、私の母のところに2,3回みえたことがあって、私も多少存じ上げていたが、先生とお目にかかったのはその時が初めてであった。しかし、10か月の幹部候補生の生活は、先生のお陰で非常に和やかに、また勉強できるような雰囲気を作っていただき素晴らしい10か月であった。
その後、先生は陸軍省に行かれて大いに活躍された。私も軍の戦時研究に携わっていたので、時々お目にかかる機会があった。私の研究が医学と物理学の中間をいくものであったので、当時先生は非常に興味を持って激励してくださった。そして、私の恩師、仁科芳雄博士ともお会いになったことがあった。先生は研究資料が戦争終結後にアメリカに渡ることを極力防いでおられれた。その考え方は仁科先生にも通じて、仁科研究室の資料もアメリカに対しては、ある程度のものしか出さずにすんでいたのである。
その後、私は原子力に関する一切の研究をGHQが停止したのでサイクロトロンを使うこともできず、東大の佐々教授の推薦で、田宮学部長が日本医師会長になられ、私は副会長を務めることになった。
先生が終戦後、防衛庁にご在職中日本医師会をお尋ね下さって、防衛衛生学会を開くので挨拶に来るようにとのお話があったので、私は喜んで伺うことにした。
その時私は、「上官の命令だから伺いました」と言って挨拶をしたら、拍手喝采であった。その際、先生も非常に喜んでおられたのを記憶している。
先生は実に科学的で、丹念な方であったので、大東亜戦争の陸軍衛生史に関する資料は、既に発刊されたもの以外にも、かなり多くお持ちのことと思う。
今回、その資料目録が防衛庁の関係者ばかりでなく、一般の方々の協力も得て公開されることを、私は大変喜びとするものである。
防衛庁の防衛医科大学校を設立することになり、私が設立委員長を仰せつかったのも、そのもとはと言えば金原先生との人間関係にあった。そこで、私は世論に反対してもこれを作り上げることが義務だと思って実行した。
要するに、金原先生が戦前に考えておられた防衛衛生に関することは、防衛医科大学校で後が受け継がれて大きく発展するであろうと願っている。
今回の資料目録の発刊に当たって、波多野衛生学校長をはじめ、貴重なご努力を頂いた諸先生方に、私は医師会長としても、また、個人としても、心から感謝の意を表したい。
【現住所】
〒101
東京都千代田区神田駿河台2-3 日本医師会
※細菌戦に関わった金原と、戦後日本医師会で権力をふるった武見。こんな2人に関係があると、日本医師会が細菌戦のことなど反省するはずがない。防衛医科大学校は、武見と金原の人間関係で設立された。もちろん、生物戦、化学戦、原子戦などを想定して、色々なことに取り組んでいるのではないかと思う。すべて防御のためと称して。
仁科芳雄
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
第4代衛生学校長 金原節三
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
『日本近現代医学人名辞典』から金原の略歴を書いてみる。
金原節三(きんばらせつぞう)
明治34(1901)~昭和51(1976)年(74歳)、愛知
【陸軍軍医(耳鼻咽喉科)、陸上自衛隊医官】
大正15年東京帝大(陸軍依託学生)。6月(陸軍2等軍医)、陸軍軍医学校(15年8月~昭和2年6月)、済南事変のため出征(3年5月~4年4月)、東京帝大大学院(耳鼻咽喉科増田胤次教授4年4月~6年3月)、4年8月(1等軍医)、7年8月東京第1衛戍病院付、9年1月陸軍省軍務局付、独駐在(9年12月~11年8月 軍事研究)、11年8月(3等軍医正)、軍医學校付、12年8月医務局医事課員、逓信省事務官、13年2月航空局事務官(~14年3月)、13年6月傷兵保護院事務官(~14年3月)、16年11月医務局医事課長、17年8月(軍医大佐)、18年9月近衛第2師団(スマトラ)軍医部長、19年10月第15軍(ビルマ)軍医部長、20年7月第38軍(仏印)軍医部長、21年5月帰還復員、6月厚生省東海北陸医務出張所長、22年12月退官(追放令による)、23年1月名古屋市にて開業(金原医院)。30年8月陸上自衛隊衛生学校長(陸将補)、32年7月(陸将)、32年12月陸上幕僚監部衛生課長、32年7月陸上幕僚監部衛生監、36年11月退官。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
多磨霊園にある仁科芳雄(日本の原爆開発「二号研究」を推進した)の墓には「吉田茂謹書」とあり、同じ敷地内にある分骨された朝永振一郎の墓には、「武見太郎謹書」とある。
武見太郎が、細菌戦を指導していた金原節三を慕い、日本の原爆開発を担っていた仁科の弟子であった。そして戦後、3師会(医師会、薬剤師会、歯科医師会)で武見天皇と呼ばれ、絶大な影響力のあった武見太郎は、防衛医科大学の設立委員長になる。
それでは、武見太郎とはどのような人物か?ウキペディアを見てみよう。
1930年(昭和5年)に医学部を卒業、内科学教室に入ったものの、教授との折り合いが悪く退職した。1938年(昭和13年)理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究した。翌年には、研究活動の傍ら東京・銀座の教文館ビルに武見診療所を開業し、開業医として生計を立てながら政財界の要人とも交わるようになり、吉田茂に指示されて、高血圧症を患っていた米内光政を往診したこともあった。
武見太郎の金原の関係
武見太郎が1931(昭和6)年に近衛第3連隊に配属された。その時の上官が金原節三(当時軍医大尉)だった。武見は、幹部候補生で、約10か月過ごしたようだ。その時金原言われた言葉は、「お前たちは、将来軍医になるのではないから、軍医の規則ばかり勉強する必要はない。自分の専門とする勉強をどんどんやって、その余暇に軍医の関係の本を読めばよい。そういうことは、各中隊でやっているとうるさいから、他の部屋に来て勉強しろ」というものだった。
金原は、その後陸軍省に行ったが、武見も、軍の戦時研究に携わっていたので、陸軍省で二人は何回もあっている。
武見は、1938年(昭和13年)理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究した。武見の恩師、仁科芳雄とも金原は会っている。
敗戦後、金原が防衛庁(自衛隊)にいたとき、日本医師会の武見を訪ねて、防衛衛生学会を開くので、挨拶をしてくれと、武見に頼み、武見も喜んで引き受けている。
金原との人間的な関係から、当時世論の強い反発もあったが、武見が防衛医科大学校の、設立委員長になった。
その中で、武見は「金原先生が戦前に考えておられた防衛衛生に関することは、防衛大学校で受け継がれて大きく発展するであろうと願っている」と言っている。
金原は、戦前、細菌戦に携わっていたのだから、そのことが防衛医大に受け継がれていくということであろうか??意味深な発言である。
※陸上自衛隊衛生学校に寄贈された金原節三資料の『金原節三資料目録』の巻頭言を武見太郎は次のように書いている。
「巻頭言」
日本医師会長 武見太郎
金原節三先生は私の尊敬する先輩の1人であった。私が昭和6年10月から、幹部候補生として近衛第3連隊に配属された時の教官が金原先生だった。
当時、先生は東大耳鼻科から大学院を卒業されて、すぐ近衛第3連隊に配属された軍医大尉であった。
先生の偉大さを私が直接感じたのは、我々幹部候補生8人を呼ばれて「お前たちは、将来軍医ではなるのではないから、軍医の規則ばかり勉強する必要はない。自分の専門とする勉強をどんどんやって、その余暇に軍医の関係の本を読めばよい。そういうことは、各中隊でやっているとうるさいから、俺の部屋に来て勉強しろ」という命令であった。我々が原書を読んでいると、先生は常にどんな本を本でいるのか注目して、色々な質問をされたり、討論をしたりしたことがあった。その頃、私は若年であったが、先生の幅広い知識の持ち主であることに驚いていたのである。
また、その見識は非常に示唆に富んだものであった。実は、先生の奥様は、東京音楽学校の学生時代に、私の母のところに2,3回みえたことがあって、私も多少存じ上げていたが、先生とお目にかかったのはその時が初めてであった。しかし、10か月の幹部候補生の生活は、先生のお陰で非常に和やかに、また勉強できるような雰囲気を作っていただき素晴らしい10か月であった。
その後、先生は陸軍省に行かれて大いに活躍された。私も軍の戦時研究に携わっていたので、時々お目にかかる機会があった。私の研究が医学と物理学の中間をいくものであったので、当時先生は非常に興味を持って激励してくださった。そして、私の恩師、仁科芳雄博士ともお会いになったことがあった。先生は研究資料が戦争終結後にアメリカに渡ることを極力防いでおられれた。その考え方は仁科先生にも通じて、仁科研究室の資料もアメリカに対しては、ある程度のものしか出さずにすんでいたのである。
その後、私は原子力に関する一切の研究をGHQが停止したのでサイクロトロンを使うこともできず、東大の佐々教授の推薦で、田宮学部長が日本医師会長になられ、私は副会長を務めることになった。
先生が終戦後、防衛庁にご在職中日本医師会をお尋ね下さって、防衛衛生学会を開くので挨拶に来るようにとのお話があったので、私は喜んで伺うことにした。
その時私は、「上官の命令だから伺いました」と言って挨拶をしたら、拍手喝采であった。その際、先生も非常に喜んでおられたのを記憶している。
先生は実に科学的で、丹念な方であったので、大東亜戦争の陸軍衛生史に関する資料は、既に発刊されたもの以外にも、かなり多くお持ちのことと思う。
今回、その資料目録が防衛庁の関係者ばかりでなく、一般の方々の協力も得て公開されることを、私は大変喜びとするものである。
防衛庁の防衛医科大学校を設立することになり、私が設立委員長を仰せつかったのも、そのもとはと言えば金原先生との人間関係にあった。そこで、私は世論に反対してもこれを作り上げることが義務だと思って実行した。
要するに、金原先生が戦前に考えておられた防衛衛生に関することは、防衛医科大学校で後が受け継がれて大きく発展するであろうと願っている。
今回の資料目録の発刊に当たって、波多野衛生学校長をはじめ、貴重なご努力を頂いた諸先生方に、私は医師会長としても、また、個人としても、心から感謝の意を表したい。
【現住所】
〒101
東京都千代田区神田駿河台2-3 日本医師会
※細菌戦に関わった金原と、戦後日本医師会で権力をふるった武見。こんな2人に関係があると、日本医師会が細菌戦のことなど反省するはずがない。防衛医科大学校は、武見と金原の人間関係で設立された。もちろん、生物戦、化学戦、原子戦などを想定して、色々なことに取り組んでいるのではないかと思う。すべて防御のためと称して。
仁科芳雄
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
細菌戦の系譜!!
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●第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
●長崎 731部隊・100部隊パネル展
●日本反戦平和記憶国際シンポジウム
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●情報公開裁判、意見交換会、細菌戦センター総会・講演
●731部隊関連年表
●人体実験疑い 京大調査継続せず(731部隊)
●日本の核開発(加藤哲郎さん)
明仁・日本政府・日本医学会は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
又、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマと4度被曝した日本は、世界に先駆けて核兵器廃絶・脱原発と叫ぶべきではないか!!
●水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、1000隻近くの漁船が被爆した!!
ビキニ「死の灰」世界各地へ
●日本の核開発
「徴用工問題」とは何か
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】
・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!!
2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影
オリンピックにお金をかけるのではなく、いじめ対策・貧困対策・戦争被害者対策にお金をかけるべきだ!!
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2月10日
・非常に怖い(男性30代市内)
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
氷の部屋
「うん、痛みはないんだけど、まだかゆいんだ、丁度、霜焼けになったみたいだよ」
そう答えながら佐々は、シャツを脱いだ。傷跡は、親指と人差し指で輪を作ったぐらいの大きさである。えぐりとったあとを肉を埋めずに縫い合わせたので、巾着袋の口のようにしわになってしぼんでいた。
「馬の肛門みたいじゃないか」
と、保坂が冷やかしながら笑った。
「何でもいいよ、どうせみえぁしないところだから。不幸中の幸いだったんだね。・・・しかし、可愛そうなのは、阿部だ。今度からお互い気をつけようよ、な」
実際、私達はどこから災難が降ってくるかわからないのである。
ペスト菌は、新しい培地に菌を移植してから大体1日半か2日ぐらいで、はっきりした集落を作るが、培地の成功した試験管は1本ずつ固定するように作られた箱に詰めて保存室に運ばれる。その箱を手押し車で運搬するのが私のその日の仕事だった。が、この何でもない仕事でさえ、もしつまずいて手押し車をひっくり返しでもしたら、それこそ阿部の二の舞なのである。病気の恐ろしさを体験して、初めてその病に対する警戒心が生れるように、私は一層臆病になっていた。
保存室の係りの人に箱を渡して一瞬ほっとした私は、なるべく暇を食って帰ろうという不貞な気持ちから、遠回りするつもりで、からの手押し車を押しながら通ったことのない長い廊下を歩いていた。
・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り
京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・
人体実験疑い 京大調査継続せず
第45回定例研究会(公開)のご案内
日時 2019年3月24日(日)11:00~17:30
会場 京都大学医学部構内 医学部先端科学研究棟1階セミナー室(大)
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_i.html (地図上の16番の建物)
ホームページ https://japan-war-medicine.jimdofree.com/
資料代 1000円
14:00~15:00 第19回会務総会
15:10~17:30 一般演題
1. 優生保護法強制手術に見る宮城県の状況と背景―検証する視点の模索 村口 至(坂総合病院)
2. 日中、太平洋戦争ー軍部衛生部に組み込まれていった医学生、医師たち 莇昭三(城北病院)
3. 「留守名簿」石川県内48件の訪問調査の報告 池田治夫(戦医研北陸支部)
4. 京都大学による旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証 西山勝夫(滋賀医科大学)
日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第5章 陸軍習志野学校
残酷な軍事演習
案内役の兵士の村田栄吉も道路がはっきり見えないので、同じようにマスクを外して直接車両を案内した。前に出て来た和田盛哉はこのとき軽装甲車を操縦していたが暑いのでマスクを外した。当時、規則の上ではマスタードなど毒剤の液体だけが人体に障害を起こすと記載されていたので、兵士たちは液体の毒剤に接触さえしなければ危険はないと思い込み、あえて大胆にもマスクを外したのだ。しかし、毒剤が撒かれていた地帯は、マスタード毒剤が陽光にあたって蒸発し、空気中いたるところ毒剤が充満していた。そして散毒車が撒いていたときにできた噴霧状の気体も風に吹き散らされて、空気中に散布された。兵士たちはこの空気を吸い込んで障害を起こしたが、ただその時は気が付かなかったのである。第1段階の演習はこのようにして終わった。
(広島県大久野島毒ガス工場)
●登戸研究所資料館(明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブックより)
第二展示室
風船爆弾の放球まで
放球のための実験は、1943年千葉県一宮において行われ、風船爆弾によって実際にアメリカを攻撃するめどが付けられました。
放球基地は、千葉県一宮・茨城県大津・福島県勿来の3か所に設置され、放球部隊(気球連隊)が配置されました。放球は1944年11月3日の明治節を期して開始される予定でしたが、爆弾の落下事故のため、実際には7日から実施されました。
飛行実験地と放球地図
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか
医学教育の軍事化・医学生の戦時動員もあげられます。1939年から、軍事教練が全大学の学部学生の必修科目となり、医学部でも、現役の配属将校による軍事教練が課され、軍事講習の授業も実施され、軍隊内の衛生・防疫および戦傷について学ぶ軍陣医学(現在の軍事医学にあたる)の講義も行われました。同年より、「学生衛生部隊」が全国の大学医学部の学生により組織され、夏季休暇時等に各地に「衛生調査」等の名目で派遺されました。
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
武見太郎の金原の関係
武見太郎が1931(昭和6)年に近衛第3連隊に配属された。その時の上官が金原節三(当時軍医大尉)だった。武見は、幹部候補生で、約10か月過ごしたようだ。その時金原言われた言葉は、「お前たちは、将来軍医になるのではないから、軍医の規則ばかり勉強する必要はない。自分の専門とする勉強をどんどんやって、その余暇に軍医の関係の本を読めばよい。そういうことは、各中隊でやっているとうるさいから、他の部屋に来て勉強しろ」というものだった。
金原は、その後陸軍省に行ったが、武見も、軍の戦時研究に携わっていたので、陸軍省で二人は何回もあっている。
武見は、1938年(昭和13年)理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究した。武見の恩師、仁科芳雄とも金原は会っている。
敗戦後、金原が防衛庁(自衛隊)にいたとき、日本医師会の武見を訪ねて、防衛衛生学会を開くので、挨拶をしてくれと、武見に頼み、武見も喜んで引き受けている。
金原との人間的な関係から、当時世論の強い反発もあったが、武見が防衛医科大学校の、設立委員長になった。
その中で、武見は「金原先生が戦前に考えておられた防衛衛生に関することは、防衛大学校で受け継がれて大きく発展するであろうと願っている」と言っている。
金原は、戦前、細菌戦に携わっていたのだから、そのことが防衛医大に受け継がれていくということであろうか??意味深な発言である。
仁科芳雄
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
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●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第8章 昭和維新と統制
Ⅱ
関東軍と支那駐屯軍による華北分離工作の諜略は、中国側の抵抗姿勢をさらに強固にした。日本の「アジア・モンロー主義」はたちまち英米と対立する原因となった。こうしたなかで、国内では国体をめぐる議論が再燃し、それは徐々に統治エリートヘの民衆の不信を高める結果となった。10年近くの間、宮中グループは「国体明徴」の試みに着手していた。それは天皇制を否定する思想に対抗し、国家の本質に関する諸説や知識人の議論の混乱に合理的見解を与えようとするものだった。遅々として進まない政治改革に苛立つ陸軍指導層は、いまや、国体観念と天皇が神の子であるという神話により民族意識を高揚させる運動を始めた。
この運動は1935年2月18日、貴族院で始まり、美濃部達吉の天皇機関説が「学匪の反逆思想」であると非難された。演説したのは菊池武夫男爵で、彼は退役した将軍であり、在郷軍人会とともに日本政治の主流のひとつとなった急進的な右翼結社、国本社の会員だった。菊池は岡田内閣に美濃部教授の著作の発禁処分を要求した。1週間後、美濃部は弁明のために登壇したが、院外では皇道派の将校と結託した右翼団体が、美濃部を攻撃するデモを行っていた。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
憲法9条を生かそう!!
●第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
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●ソビエト連邦、中華人民共和国とハバロフスク裁判の忘却1949-1956
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●人体実験疑い 京大調査継続せず(731部隊)
●日本の核開発(加藤哲郎さん)
明仁・日本政府・日本医学会は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
又、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマと4度被曝した日本は、世界に先駆けて核兵器廃絶・脱原発と叫ぶべきではないか!!
●水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、1000隻近くの漁船が被爆した!!
ビキニ「死の灰」世界各地へ
●日本の核開発
「徴用工問題」とは何か
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】
・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!!
2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影
オリンピックにお金をかけるのではなく、いじめ対策・貧困対策・戦争被害者対策にお金をかけるべきだ!!
●ニュース
人体実験疑い 京大調査継続せず
NZ乱射、死者50人に=豪州男、単独犯か-首相に犯行声明
自存・自衛と言って戦争は始まる!!
防衛省が長距離巡航ミサイルを初開発へ
“天文学は軍事利用せず” 学会が声明も世代間で意見の違い
ゼネコン4社が泥仕合、リニア談合裁判「修羅場の構図」
透析治療 学会ガイドラインの手続き軽視浮き彫りに 公立福生病院
天皇神話はいらないのでは?
天皇皇后両陛下 来月伊勢神宮へ 最後の地方訪問
JOC竹田会長が辞意、続投一転19日にも意向表明
竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか
海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見
【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任
森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」
「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ
松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示
“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)
真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活
731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他
国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題
中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30
京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)
731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に
●横浜「戦争の加害展」感想
2月10日
・非常に怖い(男性30代市内)
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
氷の部屋
「うん、痛みはないんだけど、まだかゆいんだ、丁度、霜焼けになったみたいだよ」
そう答えながら佐々は、シャツを脱いだ。傷跡は、親指と人差し指で輪を作ったぐらいの大きさである。えぐりとったあとを肉を埋めずに縫い合わせたので、巾着袋の口のようにしわになってしぼんでいた。
「馬の肛門みたいじゃないか」
と、保坂が冷やかしながら笑った。
「何でもいいよ、どうせみえぁしないところだから。不幸中の幸いだったんだね。・・・しかし、可愛そうなのは、阿部だ。今度からお互い気をつけようよ、な」
実際、私達はどこから災難が降ってくるかわからないのである。
ペスト菌は、新しい培地に菌を移植してから大体1日半か2日ぐらいで、はっきりした集落を作るが、培地の成功した試験管は1本ずつ固定するように作られた箱に詰めて保存室に運ばれる。その箱を手押し車で運搬するのが私のその日の仕事だった。が、この何でもない仕事でさえ、もしつまずいて手押し車をひっくり返しでもしたら、それこそ阿部の二の舞なのである。病気の恐ろしさを体験して、初めてその病に対する警戒心が生れるように、私は一層臆病になっていた。
保存室の係りの人に箱を渡して一瞬ほっとした私は、なるべく暇を食って帰ろうという不貞な気持ちから、遠回りするつもりで、からの手押し車を押しながら通ったことのない長い廊下を歩いていた。
・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り
京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・
人体実験疑い 京大調査継続せず
第45回定例研究会(公開)のご案内
日時 2019年3月24日(日)11:00~17:30
会場 京都大学医学部構内 医学部先端科学研究棟1階セミナー室(大)
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_i.html (地図上の16番の建物)
ホームページ https://japan-war-medicine.jimdofree.com/
資料代 1000円
14:00~15:00 第19回会務総会
15:10~17:30 一般演題
1. 優生保護法強制手術に見る宮城県の状況と背景―検証する視点の模索 村口 至(坂総合病院)
2. 日中、太平洋戦争ー軍部衛生部に組み込まれていった医学生、医師たち 莇昭三(城北病院)
3. 「留守名簿」石川県内48件の訪問調査の報告 池田治夫(戦医研北陸支部)
4. 京都大学による旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証 西山勝夫(滋賀医科大学)
日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第5章 陸軍習志野学校
残酷な軍事演習
案内役の兵士の村田栄吉も道路がはっきり見えないので、同じようにマスクを外して直接車両を案内した。前に出て来た和田盛哉はこのとき軽装甲車を操縦していたが暑いのでマスクを外した。当時、規則の上ではマスタードなど毒剤の液体だけが人体に障害を起こすと記載されていたので、兵士たちは液体の毒剤に接触さえしなければ危険はないと思い込み、あえて大胆にもマスクを外したのだ。しかし、毒剤が撒かれていた地帯は、マスタード毒剤が陽光にあたって蒸発し、空気中いたるところ毒剤が充満していた。そして散毒車が撒いていたときにできた噴霧状の気体も風に吹き散らされて、空気中に散布された。兵士たちはこの空気を吸い込んで障害を起こしたが、ただその時は気が付かなかったのである。第1段階の演習はこのようにして終わった。
(広島県大久野島毒ガス工場)
●登戸研究所資料館(明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブックより)
第二展示室
風船爆弾の放球まで
放球のための実験は、1943年千葉県一宮において行われ、風船爆弾によって実際にアメリカを攻撃するめどが付けられました。
放球基地は、千葉県一宮・茨城県大津・福島県勿来の3か所に設置され、放球部隊(気球連隊)が配置されました。放球は1944年11月3日の明治節を期して開始される予定でしたが、爆弾の落下事故のため、実際には7日から実施されました。
飛行実験地と放球地図
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか
医学教育の軍事化・医学生の戦時動員もあげられます。1939年から、軍事教練が全大学の学部学生の必修科目となり、医学部でも、現役の配属将校による軍事教練が課され、軍事講習の授業も実施され、軍隊内の衛生・防疫および戦傷について学ぶ軍陣医学(現在の軍事医学にあたる)の講義も行われました。同年より、「学生衛生部隊」が全国の大学医学部の学生により組織され、夏季休暇時等に各地に「衛生調査」等の名目で派遺されました。
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
武見太郎の金原の関係
武見太郎が1931(昭和6)年に近衛第3連隊に配属された。その時の上官が金原節三(当時軍医大尉)だった。武見は、幹部候補生で、約10か月過ごしたようだ。その時金原言われた言葉は、「お前たちは、将来軍医になるのではないから、軍医の規則ばかり勉強する必要はない。自分の専門とする勉強をどんどんやって、その余暇に軍医の関係の本を読めばよい。そういうことは、各中隊でやっているとうるさいから、他の部屋に来て勉強しろ」というものだった。
金原は、その後陸軍省に行ったが、武見も、軍の戦時研究に携わっていたので、陸軍省で二人は何回もあっている。
武見は、1938年(昭和13年)理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究した。武見の恩師、仁科芳雄とも金原は会っている。
敗戦後、金原が防衛庁(自衛隊)にいたとき、日本医師会の武見を訪ねて、防衛衛生学会を開くので、挨拶をしてくれと、武見に頼み、武見も喜んで引き受けている。
金原との人間的な関係から、当時世論の強い反発もあったが、武見が防衛医科大学校の、設立委員長になった。
その中で、武見は「金原先生が戦前に考えておられた防衛衛生に関することは、防衛大学校で受け継がれて大きく発展するであろうと願っている」と言っている。
金原は、戦前、細菌戦に携わっていたのだから、そのことが防衛医大に受け継がれていくということであろうか??意味深な発言である。
仁科芳雄
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第8章 昭和維新と統制
Ⅱ
関東軍と支那駐屯軍による華北分離工作の諜略は、中国側の抵抗姿勢をさらに強固にした。日本の「アジア・モンロー主義」はたちまち英米と対立する原因となった。こうしたなかで、国内では国体をめぐる議論が再燃し、それは徐々に統治エリートヘの民衆の不信を高める結果となった。10年近くの間、宮中グループは「国体明徴」の試みに着手していた。それは天皇制を否定する思想に対抗し、国家の本質に関する諸説や知識人の議論の混乱に合理的見解を与えようとするものだった。遅々として進まない政治改革に苛立つ陸軍指導層は、いまや、国体観念と天皇が神の子であるという神話により民族意識を高揚させる運動を始めた。
この運動は1935年2月18日、貴族院で始まり、美濃部達吉の天皇機関説が「学匪の反逆思想」であると非難された。演説したのは菊池武夫男爵で、彼は退役した将軍であり、在郷軍人会とともに日本政治の主流のひとつとなった急進的な右翼結社、国本社の会員だった。菊池は岡田内閣に美濃部教授の著作の発禁処分を要求した。1週間後、美濃部は弁明のために登壇したが、院外では皇道派の将校と結託した右翼団体が、美濃部を攻撃するデモを行っていた。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
憲法9条を生かそう!!
2019年3月17日日曜日
細菌戦の系譜!!
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●第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
●長崎 731部隊・100部隊パネル展
●日本反戦平和記憶国際シンポジウム
●4月18日(木)ビザ発給拒否国賠裁判(最大の山場)
●ABC企画総会・講演、「講演と合唱の夕べ」
●ソビエト連邦、中華人民共和国とハバロフスク裁判の忘却1949-1956
●情報公開裁判、意見交換会、細菌戦センター総会・講演
●731部隊関連年表
●人体実験疑い 京大調査継続せず(731部隊)
●日本の核開発(加藤哲郎さん)
明仁・日本政府・日本医学会は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
又、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマと4度被曝した日本は、世界に先駆けて核兵器廃絶・脱原発と叫ぶべきではないか!!
●水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、1000隻近くの漁船が被爆した!!
ビキニ「死の灰」世界各地へ
●日本の核開発
「徴用工問題」とは何か
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】
・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!!
2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影
オリンピックにお金をかけるのではなく、いじめ対策・貧困対策・戦争被害者対策にお金をかけるべきだ!!
●ニュース
人体実験疑い 京大調査継続せず
またもや起こった銃乱射事件、白人至上主義者が起こしたものだという。
トランプの進めるアメリカファーストが大きな問題だ。移民に対する蔑視。それが今回の事件にも影響している。
貿易問題でも、アメリカは、いろいろと各国に制裁を科し、圧力を強めている。アメリカの傲慢な態度に世界はもっと怒るべきではないのか?ベネズエラの今の混乱にもアメリカの影響を強く感じる。辺野古の基地移転にもアメリカの強い圧力があるのだろう。
日本は、裕仁、731部隊員、毒ガス・登戸関係者がすべて免責されたので、戦後アメリカに何も言えなくなってしまった。国民には知らされぬ大きな取引があったのだろう。
NZ銃撃、白人至上主義に傾倒か 「主犯」の男、銃5丁所持
沖縄・辺野古中止を求める県民大会。そばに広がる「異様」な光景
「トランプ氏は地球守れ」 全米各地で若者が訴え
(社説)優生手術救済 被害者は納得できない
天皇神話はいらないのでは?
天皇皇后両陛下 来月伊勢神宮へ 最後の地方訪問
竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか
海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見
【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任
森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」
「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ
松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示
“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)
真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活
731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他
国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題
中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30
京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)
731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に
●横浜「戦争の加害展」感想
2月10日
・毒ガス兵器や細菌兵器やあらゆる物をつかい戦争においてどのようになるという想像力をなくする。
京城帝大内に対する犯罪は昭和20年に田保橋茂に対する犯罪とか、吉野作造の弟子奥平武彦が腸チフスで死んだ。(男性70代市内)
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
氷の部屋
佐々は10日ばかりで退院した。
「よかったなぁ」
と私と保坂が手をとるようにして彼を迎えた。佐々は、
「やっぱり病院よりは研究室の方がいいや」
と言って青い顔をきょろきょろさせながら部屋中をなつかしげに見回した。
陰気で危険な仕事をしているよりは、病院のベッドの方がいいのではないかと思うこともあったが、やはり1人で“死”とじかに対しているよりは、まだ仲間のいる研究室の方がましなのであろう。
「傷はどうなった?ちょっと見せてみないか」
私が言うと、保坂もそばから、
「もう何でもないのか」
と、続けた。
・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り
京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・
人体実験疑い 京大調査継続せず
第45回定例研究会(公開)のご案内
日時 2019年3月24日(日)11:00~17:30
会場 京都大学医学部構内 医学部先端科学研究棟1階セミナー室(大)
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_i.html (地図上の16番の建物)
ホームページ https://japan-war-medicine.jimdofree.com/
資料代 1000円
14:00~15:00 第19回会務総会
15:10~17:30 一般演題
1. 優生保護法強制手術に見る宮城県の状況と背景―検証する視点の模索 村口 至(坂総合病院)
2. 日中、太平洋戦争ー軍部衛生部に組み込まれていった医学生、医師たち 莇昭三(城北病院)
3. 「留守名簿」石川県内48件の訪問調査の報告 池田治夫(戦医研北陸支部)
4. 京都大学による旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証 西山勝夫(滋賀医科大学)
日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第5章 陸軍習志野学校
残酷な軍事演習
5月17日未明、第1段階の散毒作業が始まる。軽装甲車で試作過程中の散毒車を牽引し、幅100~200mの筋状地帯に、1平方メートルあたり50gの糜爛性マスタードガスとルイサイトガスが散布された。この種の牽引式散毒車は製作されたばかりで、性能がまだ不安定だった。特に装甲車との連結部分は故障が発生しやすく、いつでも停車して修理しなければならなかった。兵士たちはたくさんのお偉方が来るというので、もともと非常に緊張していたが、車両の故障発生を恐れ
全身汗だくだった。しかし思いもよらなかったのは、汗水が防毒衣から排出せず、防毒マスクの目のガラスに凝結して視線に影響し、外部の状況が見えず、さらに故障を排除できなかったことだ。
どうしようもない状況のもとで散毒責任者の新藤進曹長は、一か八かの勝負に出るしかなく、防毒マスクを取り外して直接故障を排除しようとして、散毒したばかりの環境に身をさらすことになった。
(広島県大久野島毒ガス工場)
●登戸研究所資料館(明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブックより)
第二展示室
風船爆弾は、アジア太平洋戦争末期にアメリカ本土を直接を攻撃する大陸間横断兵器として開発され、1944(昭和19)年から1945年にかけて放球されました。これは和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作成した気球に水素ガスを注入し、太平洋を偏西風に乗せておよそ9000キロもの距離を飛行させ、気球に吊った爆弾をアメリカへ運ぶというもので、放球された数は9300発とされています。
開発にあたっては、登戸研究所第一課が中心となり、陸軍内をはじめとして官民を超えた様々なセクションの協力を仰いで行われました。
そして、女学生たちが気球紙の貼り合わせを担当するなど、製造工程には広範囲において様々な人々が動員されました。
アメリカに向けての放球のため、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来(なこそ)の3か所が放球基地が設置されました。
風船爆弾放球台跡 茨城県北茨城市大津町
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか
1938年の日本の全医師数は6万3000人弱でしたが、軍医の損耗度が高いとして、1942年度までの軍医需要を3万人とし、さらに1943年度以降の大需要を5万人との見積もりで、1939年度から大学医学部・医科大学における3年の修業年限の臨時付属医学専門部の強行設立が始まりました。敗戦時までに新設医専は帝大、官立、公立、私立あわせて51校に達しました。そのうち「外地」は7校でした。
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
多磨霊園にある仁科芳雄(日本の原爆開発「二号研究」を推進した)の墓には「吉田茂謹書」とあり、同じ敷地内にある分骨された朝永振一郎の墓には、「武見太郎謹書」とある。
武見太郎が、細菌戦を指導していた金原節三を慕い、日本の原爆開発を担っていた仁科の弟子であった。そして戦後、3師会(医師会、薬剤師会、歯科医師会)で武見天皇と呼ばれ、絶大な影響力のあった武見太郎は、防衛医科大学の設立委員長になる。
それでは、武見太郎とはどのような人物か?ウキペディアを見てみよう。
1930年(昭和5年)に医学部を卒業、内科学教室に入ったものの、教授との折り合いが悪く退職した。1938年(昭和13年)理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究した。翌年には、研究活動の傍ら東京・銀座の教文館ビルに武見診療所を開業し、開業医として生計を立てながら政財界の要人とも交わるようになり、吉田茂に指示されて、高血圧症を患っていた米内光政を往診したこともあった。
仁科芳雄
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第8章 昭和維新と統制
Ⅰ
とりわけ満州を華北から隔てていた非武装地帯で反日的な住民による小事件があり、現地司令官は蒋介石の軍隊が北京―天津地区から撤退するように要求していた。蒋介石は屈し、1935年6月、中国側は日本陸軍の要求を認め、梅津=何応欽協定に署名した。5ヵ月後、関東軍の後見のもと、早稲田大学出身で日本人の妻を持つ殷(いん)汝耕(じょこう)により、冀東防共自治委員会が非武装地帯に設立された。この外交的な「成果」に続いて、陸軍諜報機関は、間もなく第2の親日愧儡政権として冀察(きさつ)政務委員会を河北に設置した。
現地司令官による専横な外交行動を受け、昭和天皇は74歳の牧野に対中国政策の全面的な見直しを行う御前会議の開催を提案した。6月15日付の牧野の日記によると、天皇は「北支問題に付ては(西園寺に)下問するも、東京を離れて居り、当局にも遠ざかり居る事なれば能き考へもあらざるべし、御前会議は事情如何に依り有効なるべし」と述べている。しかし、政治エリートの間の根深い対立のため、またいうまでもなく、西園寺と牧野が反対し、例のとおり判断を誤ったこともあって、そうした会議は一度も開かれなかった。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
憲法9条を生かそう!!
●第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
●長崎 731部隊・100部隊パネル展
●日本反戦平和記憶国際シンポジウム
●4月18日(木)ビザ発給拒否国賠裁判(最大の山場)
●ABC企画総会・講演、「講演と合唱の夕べ」
●ソビエト連邦、中華人民共和国とハバロフスク裁判の忘却1949-1956
●情報公開裁判、意見交換会、細菌戦センター総会・講演
●731部隊関連年表
●人体実験疑い 京大調査継続せず(731部隊)
●日本の核開発(加藤哲郎さん)
明仁・日本政府・日本医学会は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!
又、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマと4度被曝した日本は、世界に先駆けて核兵器廃絶・脱原発と叫ぶべきではないか!!
●水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、1000隻近くの漁船が被爆した!!
ビキニ「死の灰」世界各地へ
●日本の核開発
「徴用工問題」とは何か
日本は、あの侵略戦争を反省して、憲法9条を作った!!
平和条約締結は「日本が大戦の結果認めること」 露外相
●憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
日本の政治の常道【historyとは、彼(his)(権力者)の物語(story)】
・まずい事は隠す!!(=あったことを無かったことにする、=データ改ざんは当たり前)
・責任を下に押し付ける!!(=権力者は、責任を取らない)
統計不正聴取に厚労省官房長同席 中立性への疑念、更に
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!!
2013年5月12日 安倍 731と書かれた戦闘機に乗る!!宮城県松島市にある航空自衛隊の基地で撮影
オリンピックにお金をかけるのではなく、いじめ対策・貧困対策・戦争被害者対策にお金をかけるべきだ!!
●ニュース
人体実験疑い 京大調査継続せず
またもや起こった銃乱射事件、白人至上主義者が起こしたものだという。
トランプの進めるアメリカファーストが大きな問題だ。移民に対する蔑視。それが今回の事件にも影響している。
貿易問題でも、アメリカは、いろいろと各国に制裁を科し、圧力を強めている。アメリカの傲慢な態度に世界はもっと怒るべきではないのか?ベネズエラの今の混乱にもアメリカの影響を強く感じる。辺野古の基地移転にもアメリカの強い圧力があるのだろう。
日本は、裕仁、731部隊員、毒ガス・登戸関係者がすべて免責されたので、戦後アメリカに何も言えなくなってしまった。国民には知らされぬ大きな取引があったのだろう。
NZ銃撃、白人至上主義に傾倒か 「主犯」の男、銃5丁所持
沖縄・辺野古中止を求める県民大会。そばに広がる「異様」な光景
「トランプ氏は地球守れ」 全米各地で若者が訴え
(社説)優生手術救済 被害者は納得できない
天皇神話はいらないのでは?
天皇皇后両陛下 来月伊勢神宮へ 最後の地方訪問
竹田会長の記者会見は本当に「潔白主張」なのか
海外メディア「かえって疑惑深まった」 JOC竹田会長の会見
【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 日立がイギリス原発輸出を断念! 世界に逆行する日本と経団連の責任
森友・加計問題 疑惑の核心/下 政治家、官邸官僚… 「安倍側用人」を覆う「黒い霧」
「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ
松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示
“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)
真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活
731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後、甲第1855部隊考、他
国立公文書館で公開された留守名簿を巡る問題
中国の侵略被害者の証言を聞く集い2018 11.30
京大の「731部隊」論文疑惑(上) 勝間田秀樹(京都支局)
731部隊将校の学位取り消しを 人体実験疑い論文で京大に
●横浜「戦争の加害展」感想
2月10日
・毒ガス兵器や細菌兵器やあらゆる物をつかい戦争においてどのようになるという想像力をなくする。
京城帝大内に対する犯罪は昭和20年に田保橋茂に対する犯罪とか、吉野作造の弟子奥平武彦が腸チフスで死んだ。(男性70代市内)
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
氷の部屋
佐々は10日ばかりで退院した。
「よかったなぁ」
と私と保坂が手をとるようにして彼を迎えた。佐々は、
「やっぱり病院よりは研究室の方がいいや」
と言って青い顔をきょろきょろさせながら部屋中をなつかしげに見回した。
陰気で危険な仕事をしているよりは、病院のベッドの方がいいのではないかと思うこともあったが、やはり1人で“死”とじかに対しているよりは、まだ仲間のいる研究室の方がましなのであろう。
「傷はどうなった?ちょっと見せてみないか」
私が言うと、保坂もそばから、
「もう何でもないのか」
と、続けた。
・陸軍軍医少佐 平澤正欣の学位授与授与の内容
(731資料センター会報28号より:西山勝夫「731部隊問題、克服への道」より)
1945年6月6日に京都大学医学部教授会で審査後纏められた平澤正欣論文要旨(国立公文書館学位授与記録より翻刻、京都大学公文書館の内容と同一)は以下の通り
京都大学は何を学位授与に値すると認定したか。【先人の見解と異なり「イヌノミ」もまた人類に対する「ペスト」媒介蚤なる新事実を発見せり】、人と獣(イヌ)、両方同じ媒体、「イヌノミ」により「ペスト」に感染すること、「ペスト」の人獣感染を新事実として評価しました。ネズミ、モルモットやサルで実験をやっていて、どうして人に感染したと言えるのでしょうか。
審査員の戸田元医学部長、木村医学部長は731部隊に教え子を送った人達です。彼らは、自らも陸軍軍医学校の嘱託研究員などを務め、戦後に戸田は金沢大学の学長、木村は名古屋市立大学学長になったことで知られています。
これらの論文を2014年から15年に検討し、15年3月の戦医研例会で紹介し、問題を、以下の4点にまとめました。
・実験対象がヒトであるにもかかわらず、「さる」と偽った
・当該対象者を治療することを目的とした実験ではなかった
・当該対象者の発症後も治療せずに死亡に至るまで経過を観察した
・死亡後の学位授与認可
・・・・・
人体実験疑い 京大調査継続せず
第45回定例研究会(公開)のご案内
日時 2019年3月24日(日)11:00~17:30
会場 京都大学医学部構内 医学部先端科学研究棟1階セミナー室(大)
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_i.html (地図上の16番の建物)
ホームページ https://japan-war-medicine.jimdofree.com/
資料代 1000円
14:00~15:00 第19回会務総会
15:10~17:30 一般演題
1. 優生保護法強制手術に見る宮城県の状況と背景―検証する視点の模索 村口 至(坂総合病院)
2. 日中、太平洋戦争ー軍部衛生部に組み込まれていった医学生、医師たち 莇昭三(城北病院)
3. 「留守名簿」石川県内48件の訪問調査の報告 池田治夫(戦医研北陸支部)
4. 京都大学による旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証 西山勝夫(滋賀医科大学)
日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第5章 陸軍習志野学校
残酷な軍事演習
5月17日未明、第1段階の散毒作業が始まる。軽装甲車で試作過程中の散毒車を牽引し、幅100~200mの筋状地帯に、1平方メートルあたり50gの糜爛性マスタードガスとルイサイトガスが散布された。この種の牽引式散毒車は製作されたばかりで、性能がまだ不安定だった。特に装甲車との連結部分は故障が発生しやすく、いつでも停車して修理しなければならなかった。兵士たちはたくさんのお偉方が来るというので、もともと非常に緊張していたが、車両の故障発生を恐れ
全身汗だくだった。しかし思いもよらなかったのは、汗水が防毒衣から排出せず、防毒マスクの目のガラスに凝結して視線に影響し、外部の状況が見えず、さらに故障を排除できなかったことだ。
どうしようもない状況のもとで散毒責任者の新藤進曹長は、一か八かの勝負に出るしかなく、防毒マスクを取り外して直接故障を排除しようとして、散毒したばかりの環境に身をさらすことになった。
(広島県大久野島毒ガス工場)
●登戸研究所資料館(明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブックより)
第二展示室
風船爆弾は、アジア太平洋戦争末期にアメリカ本土を直接を攻撃する大陸間横断兵器として開発され、1944(昭和19)年から1945年にかけて放球されました。これは和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作成した気球に水素ガスを注入し、太平洋を偏西風に乗せておよそ9000キロもの距離を飛行させ、気球に吊った爆弾をアメリカへ運ぶというもので、放球された数は9300発とされています。
開発にあたっては、登戸研究所第一課が中心となり、陸軍内をはじめとして官民を超えた様々なセクションの協力を仰いで行われました。
そして、女学生たちが気球紙の貼り合わせを担当するなど、製造工程には広範囲において様々な人々が動員されました。
アメリカに向けての放球のため、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来(なこそ)の3か所が放球基地が設置されました。
風船爆弾放球台跡 茨城県北茨城市大津町
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか
1938年の日本の全医師数は6万3000人弱でしたが、軍医の損耗度が高いとして、1942年度までの軍医需要を3万人とし、さらに1943年度以降の大需要を5万人との見積もりで、1939年度から大学医学部・医科大学における3年の修業年限の臨時付属医学専門部の強行設立が始まりました。敗戦時までに新設医専は帝大、官立、公立、私立あわせて51校に達しました。そのうち「外地」は7校でした。
昨年2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)
●「衛生学校記事」とはどんなものだろうか?
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?
・第21回『衛生学校記事』情報公開裁判
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
多磨霊園にある仁科芳雄(日本の原爆開発「二号研究」を推進した)の墓には「吉田茂謹書」とあり、同じ敷地内にある分骨された朝永振一郎の墓には、「武見太郎謹書」とある。
武見太郎が、細菌戦を指導していた金原節三を慕い、日本の原爆開発を担っていた仁科の弟子であった。そして戦後、3師会(医師会、薬剤師会、歯科医師会)で武見天皇と呼ばれ、絶大な影響力のあった武見太郎は、防衛医科大学の設立委員長になる。
それでは、武見太郎とはどのような人物か?ウキペディアを見てみよう。
1930年(昭和5年)に医学部を卒業、内科学教室に入ったものの、教授との折り合いが悪く退職した。1938年(昭和13年)理化学研究所に入所、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究した。翌年には、研究活動の傍ら東京・銀座の教文館ビルに武見診療所を開業し、開業医として生計を立てながら政財界の要人とも交わるようになり、吉田茂に指示されて、高血圧症を患っていた米内光政を往診したこともあった。
仁科芳雄
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1948年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を転任になり、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
●水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
第3部 陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年
第8章 昭和維新と統制
Ⅰ
とりわけ満州を華北から隔てていた非武装地帯で反日的な住民による小事件があり、現地司令官は蒋介石の軍隊が北京―天津地区から撤退するように要求していた。蒋介石は屈し、1935年6月、中国側は日本陸軍の要求を認め、梅津=何応欽協定に署名した。5ヵ月後、関東軍の後見のもと、早稲田大学出身で日本人の妻を持つ殷(いん)汝耕(じょこう)により、冀東防共自治委員会が非武装地帯に設立された。この外交的な「成果」に続いて、陸軍諜報機関は、間もなく第2の親日愧儡政権として冀察(きさつ)政務委員会を河北に設置した。
現地司令官による専横な外交行動を受け、昭和天皇は74歳の牧野に対中国政策の全面的な見直しを行う御前会議の開催を提案した。6月15日付の牧野の日記によると、天皇は「北支問題に付ては(西園寺に)下問するも、東京を離れて居り、当局にも遠ざかり居る事なれば能き考へもあらざるべし、御前会議は事情如何に依り有効なるべし」と述べている。しかし、政治エリートの間の根深い対立のため、またいうまでもなく、西園寺と牧野が反対し、例のとおり判断を誤ったこともあって、そうした会議は一度も開かれなかった。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
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