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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
3、無差別爆撃・三光作戦と「無人区」の設定
日本の中国侵略戦争が長期持久戦の段階に入ってから、日本軍は占領地に対してどのような軍事作戦を実施したのでしょうか。
「無人区」の設定
日本軍は抗日勢力を孤立させるため、農民多数を居住地から強制的に追い立て、一定の場所に建設した「集団部落」に集中して居住させました。こうして、広い地域を「無人区」に設定し、民衆と抗日軍との連絡を切断しようとしたのです。
日本軍は万里(ばんり)の長城を「満州国」と華北との境界地帯にしていましたが、1941年秋から42年にかけて、共産党と八路(はちろ)軍の指導のもとに、長く伸びる長城線の南北に、広大な帯状の抗日根拠地が築かれました。これに脅威をいだいた日本軍は、傀儡(かいらい)の「満州国」軍を動員して、この区域一帯の住民を集団部落に強制移住させたあと、もとの村々を焼き払い、抵抗する住民を殺害し、長城線上500キロ以上にわたって「無人区」を設定しました。住む家や畑を失って、膨大な数の農民が飢えや寒さ、疫病などで死んでいきました。
日本軍は、農民が「無人区」に住んで耕作することを厳しく禁止しました。
集団部落内では米穀(べいこく)を統制する政策が実施され、農民たちは穀物を食品に加工する道具まで没収されました。日本軍は農民が生産したいっさいの食糧・果物類を倉庫に保管することを定めて、個人が蓄えたり、売買することを厳しく禁止しました。従わなければ、厳罰を受けました。集団部落の生活は農民の身体の自由まですべてを奪ったのです。
無人区
長城線無人区を行く
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
王鵬清(男、72歳)の証言
日本の軍隊が南京に来てなかった時、私の家は居安里7号でした。私は鍛冶屋の仕事をしていて、父母はいずれも50歳前後で、家にはほかに妹1人と私の妻が居て、家の暮らしは主として私に依っていました。
1937年の12月13日に、日本兵が入ってきた時に、わが家は牯嶺路18号の難民区へ引き移りました。私はその時もう25歳になっていて、半年前に結婚したばかりでした。私たちは一日中家の中に隠れていましたが、妹と妻とは外で隠れていて、家に帰ろうとしませんでした。日本軍が入って来て半月くらいした、ある日の午前中、晴れた日だったと覚えていますが、日本兵がわが家の家の付近一帯で戸別に捜査をして、もう既にたくさんの人を寧海路に集め、その人たちの手にたこができているかどうか、頭に帽子のたこがあるかどうかを調べていましたが、それは主に兵隊だったかどうかを見たのでした。私は逃げられるものではないと思い、家で隠れているしかありませんでした。昼ご飯を食べた後、確か1時か2時頃かに、日本兵が4,5人わが家に捜索にやってきて、私の手に鉄を打つのでできた硬いたこがあるのを見つけ、どうしても連れて行こうとしました。母が泣きながら「これは兵隊ではありません。鉄工をしていたのです」と言い、鍛冶屋の道具を持ち出してきて見せましたが、兵隊たちは全く相手にせず、むしろ憎々しげに銃床で父と母とを殴り倒し、やっほやっほと無理矢理に私を連れて行きました。私は母が身も世もなく泣き叫ぶのを聞き、自分の命が保ち難いと知り、これから先父と母と妻と妹とが生活をどうやって行くのだろうと思ったら、途端に悲しくて悲しくて、どっと目に涙が溢れ、声を上げて泣きました。
日本兵は私を寧海路に連れて行きましたが、そこには既に200人余り捕まってきた人がいて、みんな平民大衆でした。日本兵は縄で1人ずつ両手首を縛り、4人1組にし一緒に縛り付け、日本兵が両側に付いて、私たちを虎踞関まで駆り立てました。虎踞関に着いたら、私たちはそばに沼のあるくぼ地の1つに追い立てられ、日本兵がその周り地の利の良い所に機関銃を据え付け。数十人が私たちを取り囲みました。この時既に午後3時か4時で、日本軍将校の号令一下、機関銃やら小銃やらが一斉に私たちを射撃しました。弾が一発頭の上をかすめて鮮血がほとばしり、私は頭が何だかこん棒で殴られたような感じでしたが、途端に倒れてしまいました。射撃が停まった後、足で死体を蹴る音をかすかに聞きました。蹴られた時は、動きませんでしたが、間もなく気を失ってしまいました。気が付いた時は、もう真夜中で、日本兵はとっくに行ってしまっていました。私は死体のうずたかくなった中からゆっくり這い出しましたが、身体中血だらけでした。私は来た道に沿って手探りで家に帰りましたが、道には1人もいませんでした。家に着いて戸を叩いたら、母が起きてきて戸を開け、私が帰ってきたのを見て、びっくりして大喜びし、急いで頭の血をきれいに洗い落とし、灰をぬってくれました。こうして何とか急死に一生を得て、思いがけず活きてこれたのです。(秦景峰と曹義富と顧蘇寧が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
武器を使わせない世界
世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。
広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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