2009年5月23日土曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より



  細菌戦の企画

陸軍本部の支持の下に、石井四郎の細菌戦構想の実施として陸軍軍医学校に「防疫研究室」が設置された。この研究室には、京都と東京の帝国大学から一部の医学専門家が集まり、ここは日本の細菌戦研究の核心的機構となった。

 石井四郎

 1892年6月25日に日本千葉県山武郡千代田村に生まれ、1921年に京都帝国大学を卒業後に服役。入隊当時の階級は少尉。
 1922年の夏、東京第一陸軍病院に転勤。
 1924年に京都帝国大学にて細菌研究を命じられる。
 1928年~1930年の2年間、ヨーロッパの20以上の国を訪れ、細菌兵器の研究資料を大量に収集。帰国後細菌戦の必要性を極力強調し、細菌兵器は、製造ではコストと資源を節約できる上に想像に絶する威力を持ち、その実施は経済危機と鋼鉄不足に直面している日本にとっては一石二鳥だと主張した。これは当時の陸軍大臣荒木貞夫をはじめ多くの軍部要員から評価され、その後細菌戦の研究計画が実施された。
 1932年8月、日本陸軍軍医学校にて石井四郎を始めとする防疫研究室が設立され、同時に7月から8月にかけて中国黒龍江省の五常県蔭河鎮にて細菌実験工場が建てられた。また、1933年8月にはハルビン市の宣化街と文廟町周辺にて石井細菌研究所(石井部隊)を発足させ、裏では「加茂部隊」と称し、石井四郎がその所長を務めた。
 1935年に平房地域で、より大きな規模の細菌戦研究を行なう実験基地が建てられ、これが731部隊である。石井四郎は12年にわたって細菌兵器の研究と生体実験を行ない、数多くの細菌戦を指揮した。第二次世界大戦終了後、石井四郎は日本に逃げ戻り、戦犯免責となるため、大量の細菌研究史料をすべて米軍に提出し、それ以後はずっと東京新宿区若松町に隠居。1959年10月9日に咽頭ガンで死去する。

 ●永田鉄山
 元日本陸軍省軍務局長の永田鉄山は石井四郎の細菌研究計画を終始賞賛し支持した。石井四郎にとっては頼りうる上司の1人。永田鉄山はかつて細菌兵器の情報収集のため石井四郎をヨーロッパに派遣し、のち石井四郎の細菌戦計画を日本軍部に推薦した。

 ●1932年、日本陸軍の上層人物の支持により、日本陸軍軍医学校にて石井四郎を始めとする防疫研究室が設立され細菌戦研究が始まった。日本軍部は絶えず命令を下し、研究室も絶えず拡大し、名称も「防疫研究所」に変わり、実際には日本軍による細菌戦実施での初期の研究センターとなった。


 ●腸チフス、赤痢、ペスト、コレラなど諸細菌を大量生産するため、防疫研究室には培養基が用意された。


   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  唐順山(男、1906年生まれ)の証言

(昨日の続き)死者はほとんど全部首を斬られていて、体を斬られたのも少しありました。日本軍は私たちの一群を4組に分けて、大きな穴の四隅に立たせ、殺人競争をやりました。日本軍のある者は刀で首を斬り落とし、ある者は首を受け取って数字を付けました。妊婦が1人、一太刀で胎児をほじくり出され、へその緒が長く長く引きずられました。なんと酷いんでしょう!何十人もを殺したのを私は目撃しました。私の前の1人を殺す番になって、死体が私の体に倒れてきたので、その機に乗じて私も倒れました。それからまた死体が幾つか私の体の上に倒れて来て、私の上にすっぽりかぶさりました。最後に、日本軍が銃剣でまだ息の絶えていない人に追撃をかけ、闇雲に一突きして回ったので、私も体を何箇所か刺されました、左ももに三太刀、長さ一寸くらいと、背の左上に、長さ一寸余りほどで、この4箇所に、今でも傷痕が残っています。そのほか、頭の皮膚にも軽い傷が1箇所あります。暗くなって、日本軍が行ってしまってから、私の友達の車学財と車学富との2人(2人とも従兄弟)が、ふたのある下水溝の1本を虐殺現場まではって来て、まだ生きている人を尋ね探してくれました。2人がある死体の堆の下に身動きしている人がいるのを見つけて、死体をかき分け、私を引っ張り出し、顔の血痕を擦り落として初めて、それが私だと分かったのでした。2人は私を救い出し、校門のところのお隣のお婆さんの家に寝かせてくれました。そのお婆さんが水で傷口を洗ってくれて、とても長い時間かかってやっと治ったのでした。
 日本軍が南京を進撃して以来、私は妻子との連絡を失ってしまいました。私が傷を負ってからも、消息を知らせられませんでした。翌年の7,8月になって、偽の傀儡政権が山西路に救済委員会の病院を1つ作って、負傷した者を無料で治療したので、私も傷の治療に行きました。傷はまだ完全には好くなりませんでしたが、口過ぎのために、私が九死に一生を得た被服廠のところで手伝いをしました。その頃日本人が中国人労働者を募集してそこで廃墟を片付けさせていましたが、それからはその工場も日本人の軍用被服廠になり、名称も「田中友(音訳)部隊」と呼ばれました。工場には日本人の職長「楊伯達」(音訳)がいて、この上ない残虐さでした。(明日の続く)


       「Imagine9」【合同出版】より




世界は、


9条をえらび始めた。



・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)



・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)



・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)



・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)



・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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