飯田市平和祈念資料館の展示の見直しを!!
2022/10/22 清水さん宅にて
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室
ビキニ被爆訴訟
平頂山事件から90年
平頂山事件90周年(中国では)
↑9月18日の「赤旗」より
犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げます。
平頂山事件の悲劇を二度と繰り返してはならない。
政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。
『撫順』から未来を語る実行委員会と平頂山訴訟弁護団
我们向受害者表示衷心的慰问。
平顶山惨案的悲剧决不能重演。
我们绝不允许因为政府的行为,让战争的悲剧再次发生。
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
Нет войне!!Стоп Война!!
新聞記事からの報告(ビキニ水爆実験)
忘れられたビキニ被災者たち 裁判の報告
2022 5 7 世界の核被害問題と解決の取り組み
2022 5 7パネルディスカッションのまとめ
中満泉ビデオメッセージ
2022 5 8高橋博子講演
閉会の挨拶
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
・何度か見に来ていますが、毎回、見るたびに当時の日本(関東軍)の侵略や人体実験等卑劣な行為を繰り返していたことを大勢の人特に若い人たちに知ってほしいし、またもっと知らせる方法を考えたい。この様ないい企画をしているのでもったいないと思う。
(70代、市外)
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報21巻 第6号(1937年)
伝染病研究所記念日式辞
宮川米次
予防医学界
精製痘苗、予防接種材料内の夾雑物を除去して純粋なるものとなし、これを使用しようとの企ては矢追博士の手になった精製痘苗を挙げねばなりませぬ。これによる皮下接種法は確かに1個の卓越せる世界的の発見であって、大衆医家がこれに対する使用法に習熟せらるる様になったならば、非常なる好評を博し、幼児を利することの大なるものがあることは信じて疑わない所であります。この画期的研究は同好研究者を刺激せずにはおきませぬ。類似の企てが、国の内外を問わず行なわれている有様であります。
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
こうして国際法に違反した毒ガス戦を準備し、生産規模の拡大、巨利を得て行ったのが、軍需産業であり、軍需企業であった。三井財閥は軍部と一体となって毒ガス戦を行なったのである。
三井鉱山三井染料工業所の毒ガス生産
(三井鉱山50年史稿より)
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
第6 被告の立法不作為による謝罪及び損害賠償請求
5 最高裁昭和60年11月21日判決に従う場合の立法不作為による損害賠償責任
仮に、最高裁昭和60年11月21日判決に従っても、国会の立法不作為による損害賠償責任は認められる。
(2)本件は、明らかに違法かつ例のない極めて重大な侵害行為による被害が長期間放置されて来た事案で、人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性が認められるから、立法不作為が国家賠償法上違法と評価される例外的な場合に該当する。
即ち、内閣は、昭和23年5月3日が経過した後は本件細菌戦による被害回復の為の法案を提出する国家賠償法上の義務があったのに、これを故意に懈怠したもので、これは容易に想定し難いような例外的な場合に該当する。したがって、内閣の立法不作為は国家賠償法上も違法になったと言わなければならない。
同じく、国会は、平成9年8月の最高裁判決の時には救済立法について憲法上の作為義務を負う。そして、国会議員にとって遅くとも上記最高裁判決から2年を経過した平成11年8月には合理的期間を経過していたと言えるから、容易に想定し難いような例外的な場合に該当するものとして、同立法不作為が国家賠償法上も違法となった言える。
(3)以上から、仮に最高裁昭和60年1月21日判決に従うにしても、やはり、国会の立法不作為による損害賠償責任は認められる。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
四月十五日
中隊被服庫の使役として 大きな棚をあちらに持って行ったり こちらに動かしたり員数を調べたりして兎に角平凡な一日を終わって八時半床に就いた。其の後に起こる事件も知らずに。
午後十二時であった 静けさを破って叫ぶ不寝番の声 アッ・・・非常だ二年兵のみ約三十名、ものの五分もたたないうち駅へ飛んだ 折から乗った列車番号第七七貨物列車に乗るが早いか首山を差して一直線
原爆詩集
死
電線材木釘硝子片
波打つ瓦の壁
爪が燃え
踵がとれ
せなかに貼りついた鉛の溶鈑
〈う・う・う・う〉
すでに火
くろく
電柱も壁土も
われた頭に噴きこむ
火と煙
の渦
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
生体解剖をやらされた
意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・
鎌田信雄(かまたのぶお)
731部隊・少年隊
(経歴)
1923年生まれ
1938年 731部隊入隊
1940年 新京の防疫でペスト感染
1943年 病気療養の為帰国
■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。
大量虐殺という問題に対して当地で驚くほどしばしば繰り返されている反応は、野蛮な行為という外国からの告発を完全に受け入れると断定するには、起こったことについて、悪名高い南京攻略でさえもそうなのだが、『不十分にしか』知られていないとするものである。この見解は多数の日本の大臣が私人として繰り返してきており、学校の教科書の中で中国侵略についての叙述を変更させようとする数年前の試みのような粗野な大失策を時折起こす原因であろう。(『タイムズ』1985年8月12日)
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936
3 毒ガス戦の準備
火工廠曽根派出所・陸軍習志野学校の設置
1933年8月1日、千葉県習志野にあった騎兵第1旅団司令部の跡地に、毒ガス戦の教育・訓練を行なう陸軍習志野学校が創設された(9月18日騎兵第16連隊跡地に移転)。満州事変により対ソ軍事攻撃の基地が中国東北に出来たため、将来の対ソ戦を念頭に置いて、毒ガス戦教育を行う学校が必要になったためである。初代学校長は中島今朝吾(けさご)少将、幹事は今村均大佐、練習隊長は鈴木貞次中佐であった。学校長は、陸軍の全教育機関を統括する教育総監(陸軍大臣・参謀総長と並ぶ陸軍の最高位の官職)の指揮下にあった。
※中島今朝吾・・・戦後、ジャーナリストの木村久邇典が中島の評伝をまとめるために遺族に取材をしていた際に提供を受けた日記には、第16師団長として南京攻略戦に参加した時に、本攻略戦において捕虜を取らない方針であること、隷下の部隊がそれぞれ捕虜を千や万を超える単位で処理したものがあること、彼自身も七、八千人の捕虜をまとめて「片付くる」予定だが、それには「大なる壕を要し中々見当らず」代案を考えていること、刀の使い手が来たのでたまたまいた捕虜7人を日本刀の試し斬りに使ったこと等の記述がある。
詳細は「南京事件論争#陣中日誌」を参照
松井大将の決めた本来の17日の入城式には参加しないつもりでいたところ参謀からの進言があったとして、15日に自分らだけの入城式を行い、これは一部メディアにも魁としての開催として報じられた。南京での掠奪がエスカレートしていたが、師団長であった中島自身も幕僚らを使って積極的に組織的に実行、蒋介石の邸宅などにあった美術品等の宝物類を略奪、運び出した。松井大将は南京から運び出される荷物の中身に注意するよう上海から指示を出したようだが、この指示がどの程度実行されたか不明である。後に松井は中島を注意したが、中島はしらばくれたと自ら日記に書いている。戦後に田中隆吉が国際検事局の尋問に証言したところによれば、本人が満州第4軍司令官であった1938年末近く、これらの財物を師団偕行社に送ったことが発覚、スキャンダルとなり、本人の司令官解任(さらに、その後暫くしての予備役編入)の原因となっている。本人の日記には1月9日から同月19日までの記載がなく、そのページを抜き取った跡もないため、それらが宝物類の掠奪に専念していた日ではないかとする説がある。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
第13章 毒ガスは消えず
苦しかった過去を回顧する、忘れ難い調査
日本軍が遺棄した化学兵器の被害者、崔英韻先生と証人周乃栄先生を訪ねる
私たちが来意を告げると、感動を露に過去を1つ1つ思い出すように語り始められた。
崔先生の少年時代、当時東北は日本の軍隊に占領されて、若者たちは全く希望を持てなかった。だが、崔少年は民族の自尊心に燃え日本の奴隷化教育の下に甘んじることを好まなかった。そこで故郷の東北を離れて北京の輔仁大学で学んだ。卒業後は東北の実家に帰ってチチハルの偽国民高等学校の教師となった。当時日本の統治者は中国人の思想統治を行い、中国人民の民族意識を消し去るために、自分が中国人であるということを禁止し、漢族とか満洲国人と言わせた。しかし、崔先生の民族意識はとても強く自分は中国人であることに誇りを持ち、授業時間には努めて学生に中国の世界に与えている優れた影響等を紹介した。例えば中国人がはじめて火薬を発明したこと等は、誰が見ても反駁の余地がない歴史的事実であるのに、日偽当局は彼は「反満抗日」思想の持ち主としてマークし、特務を付けて一言一行に監視を行った。
核時代39年(1984年)5月初版発行
犬
嫌がる少女を銃剣で脅して
宮島健司
伍長 分隊長
〈略歴〉
本籍地 神奈川県川崎市
出身階級 労働者 電動機捲線及び修理工
最終卒業学校 電気学校昼間部本科三期卒
部隊名 59師団54旅団110大隊
被捕場所年月日 朝鮮咸鏡南道咸興市女子商業学校 1945年8月25日
年齢 38歳
「ヤレッ、ヤレッ」周りの怒鳴り声に権藤通訳はさらに暴れ回った。権藤通訳に髪の毛を引きずられた30歳くらいの女の顔に、涙が止めどもなく頬を伝わり、黒土にしみ入るように吸い取られていった。
「こっちだ、こっちだ」青木少尉は先頭に立って怒鳴りつけた。両手を大地に爪立て、霜柱をむしり取るように引きずられていく女を、私達兵隊はグルッと銃剣を突き付けて取り囲んだ。「この老いぼれどん百姓!!やるんだ、コラッ」既に小林兵長に衣服を引き裂かれた50歳くらいの男は、長年畑仕事で日焼けした見るからに優しそうな眼尻のしわを濡らしながら、働いて働き続けたゴツゴツの両手を地べたについて頭をふり、何かしきりに訴えている。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
研究―四
三矢研究事前研究項目(対米関係事項)
第2 情況の緊迫に応じとるべき具体的な統幕在日米軍司令部間の連携のあり方
作戦調整所の開設
(1)次のような事態が生起した場合は、統幕議長と在日米軍司令官間の協議を経て設置さるべきである。(括弧内の数字は当該事態の略記号を示す)
ロ 日米安保条約第5条を適用する状況が発生した場合即ち日本の施政下にある領域における日米いずれか一方に対する武力攻撃(一部武力を伴う間接侵略を含む)が発生した場合(B)
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
「化学学校記事」
『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
1、生物・化学兵器を告発する
国連の告発
ウ・タント報告書
また、ウ・タント報告は、暴動鎮圧に使用される毒ガスについても次のように警告している。
「一方、化学薬品が、市民の騒乱規制に用いるために開発されている。また農産物の増産のためにも開発されている。これらの物質が他の化学薬品より毒性が少ないとしても、民間で間違った考えのもとに使われたり、あるいは軍事目的のもとに使用されれば非常に危険なものとなろう。」
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第3章 現実世界に向きあう
Ⅳ
皇太子のイギリス訪問の一部始終は、ロンドンの日本大使館の一等書記官だった吉田茂に
も強い印象を与えたことが、義父牧野宛の彼の手紙からうかがえる。
このほど東宮殿下御来遊は、当国において非常な歓迎にて、皇室の歓待は申すまでもこれなく、上下一様何とはなしに人気づき居る光景は唯事ならずと狂喜至極にざ候、これ一に東宮殿下の素朴思うが儘の天真御発露、上下より自然敬愛の念を集めさせられ候次第かと存じ候。天性の御資質申すも賢き儀と存じ候。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
アメリカ合衆国
ニューメキシコでの核実験
1945年7月16日にアメリカ合衆国がマンハッタン計画で人類史上初めて行った核実験(トリニティ実験)では、長崎に投下したファットマン」と同型のプルトニウム爆縮型原子爆弾(ガジェット)をニューメキシコ州アラモゴードにある実験場で炸裂させた。
爆発で火球の中に舞いあげられた砂漠の砂が溶けて液体になって降り積もったガラス質の緑色鉱石(トリニタイト)が生成され、今なお中レベルの放射能を帯びている。ほとんどは1952年に埋め立てられ、持ち出し禁止になっている。
実験から50年以上が経過した現在でも、実験場跡地では通常環境の約10倍の残存放射線が検出される。
詳細は「トリニティ実験」および「マンハッタン計画」を参照
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核融合もすべきではない!!
0 件のコメント:
コメントを投稿