昭和への挽歌
野崎忠郎
(一) 父の原像
見渡す限り短い草が生えた平原で、地平線まで樹木は一本も見えなかった。やや離れたところに粗末な家が十数軒かたまって建っていた。マンジン(満州人)部落である。母をはさんで姉と私とが三人横並びに立ち、母はまだ赤ん坊の弟を抱いていた。私達が立っていたのは、私達の家の庭だった。家はレンガ造りで屋根にはオンドルの煙突が立ち、遠くに見える集落の粗末な家とは全く違っていた。庭には花畑があった。そこは、731部隊に勤める軍医の官舎だった。
私達の前には父が立っていた。父は軍服を着て戦闘帽をかぶり、革の長靴を履いて腰には軍刀を下げていた。父の前に黒い豚の死体がひとつ転がっていた。豚の死体の横に、小柄な男が一人土の上に正座していた。マンジンだった。父は右手に拳銃を持ち、銃口を男の頭に向け、指を引き金にあてていた。男は両手を上にあげて何事かを喚き、それから土に額をつけてひれ伏し、父に向って詫びていた。男は大声で泣いていた。父がマンジンに言っていることの意味が、私には理解できた。
「いいか。お前たちが放し飼いにしている豚が、何度となく俺の庭にはいってきて花畑を荒らした。俺はお前たちに何度も警告したが、お前たちは豚の放し飼いを止めなかった。だから俺はお前たちの豚を殺した。いいか!今度お前たちの豚が俺の花畑を荒らしたら、俺はお前を撃ち殺すぞ!」
男は再び両手を上げて何事かを喚き、それから泣きながら父の前にひれ伏して体を震わせていた。
私は弟を抱いた母と姉との三人で、父の後ろに立ってその光景を眺めていた。おそらく私が四歳の時の記憶だ。けれど私には人が人に銃を向けていることの意味が分からなかった。
その時私が見た光景が、私にとっての父の原像である。
その後父は戦場に去り、私達は内地に引き上げたから、父と共に暮らすようになったのは敗戦の年の秋に父が復員してからだった、私はその時小学校にはいっていた。幼少年期の私の心に父の原像が浮かんでくることはなかった。けれど思春期を過ぎて青年期にはいるころから、あの、父の原像が次第に強く私の脳裏に浮かびあがるようになった。そしてその頃には、人が人に、それも全く無防備な人間に銃を向けるということの意味が、私にはわかっていた。私はその原像、というよりは私の眼前で起こっていた現実、そこに絶対者として立っていた父親をどう受け止めるべきなのか、わからなかった。父の前に出ると、あの原像の父が必ず浮かび上がり、私は父とどう向かい合ったらいいのかが分からなくなっていった。父が生活を崩したこととも重なって父と私との間の心理的距離は次第に離れ、しかもよじれて解くことが出来なくなっていった。
大学にはいるために父の元を離れた私は父との間にあった緊張の糸が切れたように転々と居場所を変え、当然のように仕送りがなくなったために大学はやめ、父にとって私は行方不明の存在になった。そんな暮らしの中で、私の中で父とあいだの心の関係が逆転した。私が高校の頃酒と薬物の地獄に沈んでいた父がそこから生還した時、今度は私が精神医療の患者になっていた。あるメンタルクリニックで丁寧な面接治療を受けていた時、私のとりとめのない話を聞いていた医師が「あなたはお父さんの前で土下座をしたいのではないんですか」と問いかけてきた。ハッとした。心の一番奥に隠していた急所にスッと触れられたように思った。私は何も答えられず、医師もそれ以上の事は言わなかった。その治療がどんな風に終わったかの記憶はないが、あの時の医師の言葉はずっと私の心に残った。
無防備の人間を銃殺する、そのことが絶対に許されないことであるのに私はそれをただ眺めるだけで阻止しようとしなかった。けれどそれは私が四歳の時のことだったから当然のことだ。けれど病的に混乱していた私の心の中では、時間や状況の断片がジクソーパズルのピースのようにバラバラになっていた。私は父の前に立ちはだかって「撃つな!どうしても撃つならマンジンの前に僕を撃て」と言って父の行動を阻止しなければならなかったはずだ。けれど現実の私は父の後ろに立ってマンジンが撃たれようとしているのをただ眺めていただけだった。あの時の父は絶対者としてマンジンと私たち家族の前に立っていたから、私がその父の前に立ちはだかることは出来なかった。その私に出来ること、それは私もまたマンジンと共に父の前で土下座をして赦しを乞うことだけだ・・・あなたはそう思い込んでいるんでしょう、その思考の混乱と心理的葛藤を乗り越えない限りあなたは今の苦しみから解放されませんよ・・・それがあの時医師が私に言っていたことだったのだ、私がそう気づいたのは医師の言葉を聞いてから十年以上過ぎ、父が自裁した後のことだった。
私は、戦争後遺症として心を病んだ父がおちいった酒と薬物の依存症から生還して私を大学に進ませてくれたにもかかわらず、それを放棄して父との縁を切ったことに強い罪悪感と劣等感を抱いていた。私は父に合わせる顔がないと思い続けていた。その罪悪感・劣等感と戦うことが、私の青春の十年間のすべてだった。けれどその十年の中でチリジリになっていたジクソーパズルのピースを拾い集めて絵を作り直していたら、その最先端に、マンジンに銃を突き付けている父の姿が浮かんできた。その時、「原罪」という言葉がふいに浮かんだ。あれが私の原罪であり、父の原罪であると思った。その原罪の光景から医師の指摘まで三十年、そしてその意味が分かるまで更に十年以上・・・「父の原像」は私の人生の最も大切な時期のすべてを、最も奥深いところで支配していた。
だがそれは、私一人だけのこと、私の父ひとりだけのことだったのだろうか。
(二)傷痍軍人
一九六五年のある日、私は東京・山の手地区にある大きな社会福祉法人を訪ねた。広い敷地には様々な施設があった。知的障害(その頃は精神薄弱と言っていた)児・者施設、児童養護施設、老人ホーム、母子寮、保育園などが軒を並べていた。近くに大学もあるその一帯は文教地区と言ってもいい住宅街だった。その中になぜ多くの福祉施設があったかというと、その広い敷地が敗戦まで兵舎のあった国有地だったからだ。赤紙をもらった召集兵はそこに集合し、各部隊に編成されて戦場へ赴いていったのだった。戦後国はその敷地に様々な福祉施設を建て、戦後処理にあてたのだろう。
そのうちのひとつ、私が訪ねたのは重度身障者施設だったのか、生活保護法による宿所提供施設だったのか、もう記憶は定かではないが、その施設は戦前に兵舎だった木造の建物をそのまま使っていた。大きな建物の真ん中に奥までまっすぐ廊下があり、両側に部屋が並んでいた。廊下に照明装置はなく、薄暗かった。「廊下の真ん中を歩くと穴が開いていて足を突っ込むので端っこを歩いて下さい」と注意された。何しろ戦前から使っている建物なのだ。その施設に収容されていたのは傷痍軍人だった。両足を失った人、両手を失った人、両眼を失明した人、中には両手、両足を失った人たちが、薄汚れたベッドの上に転がされていた。
敗戦直後、松葉杖や義足に白衣姿で街に立ち、アコーデオンやハモニカを奏しながら喜捨を乞う傷痍軍人がいたということは田舎の子供だった私も知っていた。けれど私が上京した戦後十年以上たった時には、傷痍軍人のそんな姿はもう街では見られなかった。だから傷痍軍人という言葉は私の脳裏からは消えていた。その人達に、私は不意に出会ったのだ。その驚きに、私は視線を逸らすことも声を出すことも出来なかった。ベッドの上に転がされている人達も何もしゃべらず、視線を動かすこともなかった。その人達が壊されているのは体だけでなく、心もまた壊されていることは明らかだった。その姿と心で、その人達は既に戦後二十年「生きていた」。
それよりも障害の軽い人達(といっても片手、あるいは片足をなくした人達)は、知的障害者を小間使いにして軍人恩給でタバコや酒を買いに行かせ、昼間から酒を飲みながら花札賭博にふけっているという。職員が注意すると「てめえら、誰のお陰でそうやってのうのうと飯を食って生きていられると思ってるんだ。俺達がどんな地獄をくぐってこんな体になって帰ってきたか知ってるのか。偉そうなことを抜かす前に俺の腕を返せ」とすごむので、怖くて注意も出来ないんですよ、と若い職員は言っていた。理は傷痍軍人の方にあった。
前の年には東京オリンピックがあり、日本は戦争の惨禍を乗り越え、経済大国としての道を歩み始めたことを世界に向かって高々と宣言した。そして数年後には大阪万博の開催が決まっていた。その〚繁栄〛の裏側で、傷痍軍人達はそのあとまだ数十年は続くだろう闇の人生を送ることを強いられていた。それが私達の戦後の一面だった。
一九七〇年頃だったと思う。私は都立松沢病院という大きな精神病院に勤務する医師から、こんな話を聞いた。「松沢に戦争で頭に大怪我をして脳に傷がついた人達がまとまって入院している病棟があってね。その病棟では気圧が変化する時期になるとざわざわ荒れだすんだ」「なぜ気圧の変化が精神症状に関係するんですか?」「ほら、例えばむかし捻挫した関節や骨折した後が天気の悪い日にはしくしく痛むことがあるでしょう。あれと同じことで、脳という一番デリケートな生理器官が気圧の変化に敏感に反応するんだな。昔から木の芽時(コノメドキ)になるとキ印の人はおかしくなるっていうけれど、木の芽時というのは春先、気圧配置が冬から春に変わる時期でしょう。その時期になると脳損傷のある人は、気圧に精神が反応するんだな」「どうするんです、そういう時には」「決め手はない。けれどその病棟が荒れた時には医者が行って軍歌を唄うと収まるんだ」
医者と精神病者が肩を組んで《貴様と俺とは同期の桜》って唄うのか、おかしいな、と若かった私はその時思っただけだった。けれどその後、私の中であの時の医師の言葉の持つ意味が変わっていった。医師や看護者は、荒れる病者を鎮めるために様々な試みをしただろう。無論鎮静剤も使っただろうがその効果も一過性のものに過ぎない現実に直面した医師が苦し紛れに病者と共に軍歌を唄った時、思いがけなく荒んだ病者の心が鎮まった、そんなことがきっかけだったのかもしれない。医師にとってそれもまたその場しのぎの一策だったとしても、病者にとってはその時医師が治療者としての上からの目線を捨て、病者と同じ目線に立って自分達の苦しみや悲しみ、湧き上がってくる戦場での恐怖や絶望を共有してくれたと感じたのではなかったか。その時、病棟は戦友会の場になった。元兵士達にとって、戦友会だけが戦場で体験した恐怖、絶望、死との直面、苦悩を語り合い、共有し、一時のカタルシスを得るたった一つの場だ。医師は病者と一緒に軍歌を唄うことで戦友会の一員になった。いっさいの医療行為が無効だと知った時、医師はその先に、人間として悲しみや絶望を共有するという境地を見出した。たとえそれもまた一時的な効果しか持たないことだとしても、それこそが、そしてそれだけが、心と体を病んだ病者にとっての唯一の治療法だということを、医師は私に教えてくれたのかもしれない。あの時松沢に入院していた人達は、おそらく生涯閉鎖病棟に閉ざされた末、ほとんどもう死んでいるだろう。あの医師も既に亡くなった。
この先私に許されている時間がどんなに短くても、私はあの医師と病者たちに教わったことを決して忘れず、可能ならばそのことを次の世代の人達に伝えることが、私にとっての最後の役割として残っていると思う。
(三) 従軍慰安婦
一九六〇年代初頭の数年間、私は東京・練馬にある婦人保護施設「いずみ寮」という福祉施設の職員をしていた。昭和33年3月に成立した売春防止法に基づいて建てられた施設だったが、売防法の根底にあったのは(国家が売春を公認していたのでは国際的にメンツが立たない)という恥の意識だったろう。それはともかく、私は居住棟の外に建てられた作業棟であるクリーニング工場で働いていた。入所者は女性だけの施設だったから、居住部分には施設長などの管理職以外の男性は出入りしないということが暗黙の規則になっていた。だから私はMさんとは話をしたことはもちろん、会ったこともなかった。Mさんは脊椎損傷で寝たきりで、それは梅毒菌によることだと聞いていた。Mさんは日本人だが慰安婦だった、ということも聞いていた。そのMさんが、「私がたどらされた道、経験しなければならなかったことを大勢の人に知ってもらいたい」という動機で毎日ベッドの上で自叙伝を書いていると聞いた時、私ははじめ不思議に思った。普通人間は、無残でみじめで恥ずかしい過去は隠す。慰安婦体験はそのきわみにあるといっていい。その、人間としての極北の体験のすべてを敢えてさらけ出そうとしているMさんの心が、その時の私にはわからなかった。それにたとえMさんがその手記を書ききったとしても、そんな文章を出版してくれる書房があるとも思えなかった。
昼食は寮の食堂で入所者と一緒にとった。時に同じテーブルについた人から、「私は座間のキャンプの近くで商売してたんだ」というあっけらかんとした話を聞くこともあったが、その頃の私は社会的に未熟だったからそんな話を正面から受け止めることが出来なかった。けれどその人が戦後、日本兵の為ではなく駐留米軍のためにMさんと同じ境遇に陥っていたのだということは推測できた。五十人の入所者の中には、もっと数多く日本兵、あるいは米兵の慰安婦だった人がいたかも知れなかったが、それを聞き出すことは出来なかったし、してはならないことだった。
その後「いずみ寮」を運営する法人は千葉県・館山市にもっと大きな婦人保護施設を建
てることになり、その動きからはじき出されるようにして私は「いずみ寮」を辞め、婦人保護施設とは縁が切れた。「いずみ寮」との縁が復活したのはつい最近である。そして私は、Mさんが練馬の「いずみ寮」から館山に出来た「かにた婦人の村」に移りそこで亡くなったこと、そしてかつてMさんが書いていた手記=自叙伝を法人が出版してくれて本になっていることを知った。本のタイトルは「マリヤの賛歌」といい、著者名は「城田すず子」というペンネームになっている。誕生から脊椎損傷で寝たきりになるまでを時系列に従って書かれている本の内容についてはここでは触れない。
この本の「あとがき」は、「いずみ寮」「かにた・・・」両施設の初代施設長だった深津文雄氏(故人)が書いている。その中に、城田さんが深津氏に手紙で送った言葉が書かれている。
「兵隊さんや民間人のことは各地で祀られるけれど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足手まといになると放り出され、荒野をさまよい、凍りつく原野で飢え、野犬か狼の餌になり、土にかえったのです。軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特
殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手をさせられ、なんど兵隊の首をしめようとおもったことか。半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうり込まれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を・・・」
この血の叫びが創作であるはずがない。にもかかわらず城田さんの言葉が私達の戦争史、昭和史に大きく取り上げられていないのは、例えば細菌戦、毒ガス戦などの史実を隠蔽しているような厚い壁が、日本人慰安婦の史実の前にも立ちふさがっているからだろうか。
城田さんが深津氏に送った言葉には続きがある。「四〇年たっても健康回復は出来ずにいる私ですが、まだ幸いです。一年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建てて下さい。それが言えるのは私だけです。」深津氏はその願いを受け入れ、資金を集め、館山の山上に元慰安婦の霊を祀る慰霊塔を建て、毎年その慰霊塔の前で慰霊祭が催されている。1986年にその慰霊塔が建って数年後、日本軍「慰安婦」にされていた韓国の女性達が次々と名乗り出るようになって、「慰安婦問題」が国際問題となり、今現在も、韓国の裁判所には日本政府に賠償を命じて日本政府の対応が問題になっているが、一方で館山の山上にある日本人元慰安婦のための慰霊塔を知っている人はどれだけいるだろうか。
広島、長崎での原爆被災の慰霊祭は全世界からの参列者を集め、終戦記念日には国家が慰霊祭を開き、靖国神社があり、千鳥ヶ淵には全戦没者のための墓苑もあり、国中から慰霊の心が参集する日本であるのに。
大阪大学大学院准教授の北村毅先生は、次のように言われている。
「沖縄末期の戦場では、沖縄の遊郭の女性、慰安婦、看護婦、軍属・軍人の女性を引き連れて、沖縄末期の戦場を逃げ回っていた将校、下士官クラスの敗残兵が多く目撃されています。これは戦後へと続くこの国の女性全体に対する扱いの問題ではないかと思います。」
沖縄には『ひめゆりの塔』がある。沖縄戦末期に看護要員として学徒動員され、戦闘の中で死亡した女性のための慰霊塔である。それはそれでいい。だが前記、北村先生の文にあるような、実質的に慰安婦とされた女性たちもまた、そのほとんどが負け戦の中で命を落としているはずだ。にもかかわらずここでもまた、彼女たちのことは歴史に記されず、慰霊・鎮魂の碑も建てられていない。彼女達もまた城田さんが言う「ジャングルの穴のほうり込まれ・・・」と同じ運命をたどり、そして歴史や記憶からさえ無視されてきた。
(四)結語
私はこの小文を「父の原像」から書き始めたが、書き終わるためにはもう一度「父の原像」に戻らなければならない。けれどここに書く父の原像は、敗戦後私たち家族のもとに帰還して以後の父の生き様が主題となる。
私の父は敗戦の年(1945)の秋に妻(私の実母)の実家のある、長野県の山村に復員した。けれどその時妻は既に肺結核で死の床に就いていた。翌年の5月、私が小学校に入った翌月、妻は死んだ。医師だった父はその農村で看護婦を雇って開業医をしていたが、その翌年、海軍病院で看護婦をしていた人と再婚、再婚相手とそれまで父の看護婦をしていた人とは同じ村の隣部落出身の幼馴染だった。父と再婚した後妻(私の継母)は、結婚してすぐ服毒自殺を図ったが、失敗して命を取り留めた。父が雇っていた看護婦の腹に父の子がはいっていたのだ。その数年後、父は別の農村に移り住んでそこの診療所長をしていたが、そこでも看護婦に手を付け、村から追放されている。父の心の中では戦後になっても、城田さんや北村准教授がいっているように、身近にいる看護婦は慰安婦だったのだ。そのために後妻を含めた三人の女性の心にぬぐうことのできない傷と屈辱を与え、そして私がまだ子供だった私達の家庭は氷のような冷え冷えとした空気の中に沈んだままだった。それが私にとって、戦後における「父の原像」であり、これもまた戦争の残した後遺症だったと言っていい。
私達が昭和の中へ置き捨ててきた負の遺産は、限りなく大きく、重い。
(2021.1)
※「マリヤの賛歌」
著者 城田すず子
発行所 かにた出版部
〒294-0031 千葉県館山市大賀594
社会福祉法人 ベテスダ奉仕女母の家
かにた婦人の家
電話 0470-22-2280
「マリヤの賛歌」取り扱い
かにた後援会 嶌田
直通電話 080-4770-6985
Mail : kanitakouenkai@gmail.com
※「かにた婦人の村」の五十嵐逸美施設長のご了解を頂いています。
※文中の北村毅氏(大阪大大学院准教授)の文章の引用については、御了解をいただいています。
※室田元美様著「ルポ 悼みの列島」の『「従軍慰安婦の碑」は語る』を参照させていただきました。
※この文章を書くにあたり、五井信治様のご指導をいただきました。
軍人恩給はあるのに、慰安婦には恩給がない!!
MYさん(城田すず子)は、1957年秋、ベテスダ奉仕女母の家に転がり込んだ。実家のパン屋が破産して16歳で売られ、国内外を転々とした末に更生の道を見つけたが、再転落しそうだとのこと。いずみ寮開設までの5か月間、軽井沢の古い家に奉仕女と住まわせていた。いずみ寮入所後の1958年11月、脊椎骨折で倒れ、絶対安静の病床で、小コロニーの第一歩としてのパン工場建設を夢見ながら自らの半生を口述した。扉に「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」という聖句が書かれている。
この本のあとがきには次のような彼女の言葉が載っている。
「兵隊さんや民間人のことは各地で祀られるけれど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足手まといになると、放り出され、荒野をさまよい、凍り付く原野で飢え、野犬や狼の餌になり、土にかえったのです。
軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は女は洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ、なんど兵隊の首を絞めようと思ったことか。半狂乱でした。死ねばジャングルの穴に放り込まれ、親元に知らせるすべもない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を・・・」
1965(昭和40)年、深津文雄牧師は、社会から見捨てられた女性たちが一生安心して暮らせる婦人保護施設「かにた婦人の村」(かにた村)を設立した。
1984(昭和59)年、一人の寮生が自ら従軍慰安婦体験を牧師に告白する。この告白「石のさけび」を受けて、施設内にある小高い丘に1本のヒノキの柱を建てたのは「戦後40年」のことだった。翌年そこには、「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑が痕隆された。
「韓国挺身隊問題対策協議会」の代表ユン・ジョンオクさんは、1980(昭和55)年より、北海道・沖縄・タイ・ラバウルの朝鮮人慰安婦の足跡を訪ね、1988(昭和63)年8月の来日の際にこの石碑を訪れた。
これが、韓国KBSテレビによるドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂~従軍慰安婦』の制作を生み、韓国内はもちろん諸外国にも大きな世論を巻き起こしていった。
戦争責任があいまいなまま半世紀以上が過ぎ、現在もなお、従軍慰安婦問題はアジア各国を巻き込む論争となっている。この石碑を通じて、地域から世界を見ることができる。
(安房文化遺産フォーラムの記事より)
1 件のコメント:
魂は飛来する。本を読んでみたい。戦争で脳に傷害を受けて精神病院に入っていた人もいる。男も女も梅毒で精神病院に入っていた人達。精神病院は都心から外れた山間地にあった。戦争は戦死だけでなく、家族から引き離された人々もいたことを知る。
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