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パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展
2022/10/22 清水さん宅にて
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室
ビキニ被爆訴訟
平頂山事件から90年
平頂山事件90周年(中国では)
↑9月18日の「赤旗」より
犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げます。
平頂山事件の悲劇を二度と繰り返してはならない。
政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。
『撫順』から未来を語る実行委員会と平頂山訴訟弁護団
我们向受害者表示衷心的慰问。
平顶山惨案的悲剧决不能重演。
我们绝不允许因为政府的行为,让战争的悲剧再次发生。
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
安倍の国葬反対!!
安倍元首相銃撃 旧統一教会「母の破産が動機なら重く受け止める」習国家主席 台湾統一のためには武力行使も辞さない姿勢示す
次期戦闘機、日英伊で初の共同開発 米国も「支持」
防衛費、5年間で総額43~45兆円に 政府検討 22年度は5.4兆円敵基地攻撃能力の保有を自公が実質合意 日本の防衛政策、大きな転換
【随時更新】ロシア ウクライナに軍事侵攻(11日の動き)
政府、空自を「航空宇宙自衛隊」に名称変更へ 宇宙領域を重視
Нет войне!!Стоп Война!!
新聞記事からの報告(ビキニ水爆実験)
忘れられたビキニ被災者たち 裁判の報告
2022 5 7 世界の核被害問題と解決の取り組み
2022 5 7パネルディスカッションのまとめ
中満泉ビデオメッセージ
2022 5 8高橋博子講演
閉会の挨拶
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報21巻 第6号(1937年)
伝染病研究所記念日式辞
宮川米次
BCG菌の予防接種
これに反してマンツウ陽性者に使用すると発赤硬結を起こし、屢々化膿致します。然しこの膿瘍も1か年位の内には治癒して殆ど何等の実害も遺しませぬ。そして結核罹患率を著しく低下させることが出来ることを経験しております。この方法は仏国等に於て広く使用せらるる如く、本邦に於いても実施して見るべきものと思考致します。
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
こうして国際法に違反した毒ガス戦を準備し、生産規模の拡大、巨利を得て行ったのが、軍需産業であり、軍需企業であった。三井財閥は軍部と一体となって毒ガス戦を行なったのである。
三井鉱山三井染料工業所の毒ガス生産
(三井鉱山50年史稿より)
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
第6 被告の立法不作為による謝罪及び損害賠償請求
7 除斥期間について
仮に、除斥期間を不作為が違法と評価される当初から考える場合であっても、被告の内閣は本件細菌戦による被害を戦後直ぐに知っていたのに、被害者らの救済立法案を国会に提出しないばかりか、逆に細菌戦の事実と被害を隠蔽し続けたのであるから、被告に除斥期間経過を理由として国家賠償義務を免れさせることは、著しく正義公平の理念に反する。反対に、その適用を制限することの方が条理に適う。したがって、本件においては、除斥期間の適用が排斥されるべきである。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
四月十六日
曇り 薄ら寒し 午前八時半起床 中隊の使役巡察あり 第一五列車。
其の後 賊は身を隠すために約百閒ばかり離れた支那人農家に入り込み 夜の明けるのを待って逃走したとかいう。未だ捕らわれずにいる おそらく捕らわれる機会はないであろう なぜならば国が違うし 連絡機関が少しもないため一度附属地外に出れば 其の後事件でも起こさない限り不明となるであろう。
その馬賊の目的は勿論明瞭すぎる位明瞭である。来るべき高粱繁殖期に思ふ様猛威を振るはんとする其の下準備に他ならない。
其の来るべき時に出たならば、必ず国こそ違え 日本の行政権を守る日本警察の為に非常に働いた巡補である 安心して安らかに眠りに落ちるように 仇を討ってやりたい。
原爆詩集
死
どっと崩折れて
腕
めりこんで
肩
おお もう
すすめぬ
暗いひとりの底
こめかみの轟音が急に遠のき
ああ
どうしたこと
どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれし、
死なねばならぬか
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
生体解剖をやらされた
意識がはっきりとしている“マルタ”の手足を解剖台に縛り付け・・・
鎌田信雄(かまたのぶお)
731部隊・少年隊
(経歴)
1923年生まれ
1938年 731部隊入隊
1940年 新京の防疫でペスト感染
1943年 病気療養の為帰国
■この証言は1994年6月、1995年10月ほかの聞き取りをまとめたもの。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅱ 満州事変と毒ガス問題 1931―1936
3 毒ガス戦の準備
火工廠曽根派出所・陸軍習志野学校の設置
しかし、軍の上級幹部や幕僚の毒ガスに対する理解は甚だ不十分であり、一般将校に対する化学戦教育も不十分で、来るべき対ソ戦で「劈頭より直面すべき化学戦に対し余りにも悲惨なる国軍の状態を想像して憂然たらざるを得ざるなり」というのが、日中戦争に突入しても解消しない陸軍習志野学校の悩みであった。
※中島今朝吾・・・1938年暮れごろ、南京攻略直後に略奪していた蒋介石邸の美術品類を日本に持ちこもうとして発覚。陸軍で大きな問題となる。翌1月兵務課長(憲兵の元締め)となった田中隆吉は、彼によれば南京での残虐事件について中島を含めた責任者を軍法会議にかけることを主張したものの、反対が強く、容認されなかったという。1939年(昭和14年)8月1日、参謀本部付。対支戦での功績から天皇から恩賜品や陪席の栄を賜る。9月28日、待命。9月30日、ついに予備役に編入される。
以降1年数か月の間、北京に事務所を開いて中国の実情を調べる。 1940年(昭和15年)6月22日, 1941年(昭和16年)5月14日、7月5日、三通の事変処理方案をしたためて政府と軍を批判する。
12月8日、太平洋戦争が勃発する。 同月末、皇国職域勤労奉公隊総裁に就任する。 1942年(昭和17年)4月、母校である大分県宇佐郡八幡小学校で講演を行った。大分県内務部長や大分県警察部特別高等警察課長もいるなかで今朝吾は、「このぶんでは、日本はきっと負ける」と発言して会場は騒然となり、警察でも問題となった。しかし、今朝吾が陸軍中将ということでやむなく不問に付された。
1945年(昭和20年)10月28日、長野県佐久郡御代田町の療養所で肝硬変と尿毒症により死去。64歳没。その時の状況は「臨終を迎えたと同時にアメリカ軍のMPが戦犯容疑の取り調べに訪れ、部屋のドアをノックした。」
東京都豊島区椎名町の自宅での葬儀には、梅津美治郎も駆け付けた。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
第13章 毒ガスは消えず
苦しかった過去を回顧する、忘れ難い調査
日本軍が遺棄した化学兵器の被害者、崔英韻先生と証人周乃栄先生を訪ねる
崔先生は化学の教師だったから、私たちにマスタードガスの持つ性質や被害状態を詳しく話してくださったが、これは私が知っている被毒状態と一致する。
「その時、8人が被毒したが、あの最初に1口飲んだ人はその日の内に死んだ。私たちは病院に運ばれたが、何等有効な治療の方法もなく、火傷として治療されたが、その痛さは何とも形容できぬ程であった」と、回顧された。
崔先生は夫人の手を借りて、上着を脱いで左手、左腕等を見せて下さった。私たちは広い範囲にわたって痛々しい傷の跡を見たが、それはミカンの表皮のように荒く、右手にもやや小さい傷跡があった。
核時代39年(1984年)5月初版発行
犬
嫌がる少女を銃剣で脅して
宮島健司
伍長 分隊長
〈略歴〉
本籍地 神奈川県川崎市
出身階級 労働者 電動機捲線及び修理工
最終卒業学校 電気学校昼間部本科三期卒
部隊名 59師団54旅団110大隊
被捕場所年月日 朝鮮咸鏡南道咸興市女子商業学校 1945年8月25日
年齢 38歳
「もう一人だ」「あいつだ」と口々に叫びながら、もう初年兵が取り囲んでいる女たちの方へ駆け出して行った。というのは、女たちの中におさげをゆった17,8歳の綺麗な娘がいることをわすれなかったからであった。
「どけどけ、モサモサしやがって」古兵たちに怒鳴られて、初年兵はおどおどして追いやられた。
「出ろ出ろッ、貴様だ」私は一番先に駆け寄り、怒鳴った。続いて小沢正一一等兵がすかさず怒鳴った。こんな時に「よくやった」という点数を取ることをちゃんと心得ていたからだ。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
研究―四
三矢研究事前研究項目(対米関係事項)
第2 情況の緊迫に応じとるべき具体的な統幕在日米軍司令部間の連携のあり方
作戦調整所の開設
(3)連絡調整すべき具体的事項
具体的連絡調整事項は事態の区分に応じ別紙第1の通り予期される。
別紙第1(調整事項)
注・〇印 調整事項の発生を予期する場合
◎印 調整事項の多発を予期する場合
連絡調整事項
2、民間人の利用
民間人の雇用、使用及び管理に関する方針
待遇等の調整
A1 〇
B ◎
第4代衛生学校長だった金原節三が亡くなってから、遺族が、当時の防衛庁に寄贈した金原節三資料の中に13点の『衛生学校記事』が含まれている。それがいまだに未開示であり、その行方が防衛省は分からないという。
1995年に防衛研究所に衛生学校から金原資料の全部を移管した。翌年1996年には、その資料の中で旧軍資料の価値の高いものを、防衛研究所に残して、あとは衛生学校に戻した。
『金原文庫』はいつまで、衛生学校の彰古館に開設されていたのであろうか?その中に果たして『衛生学校記事』があったのか?また、金原資料はキチンと整理をされていたのだろうか?金原資料の中には『特殊武器衛生』というものもある。防衛省は、金原資料をすべて開示すべきである。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
「化学学校記事」
『BC兵器』 久保綾三著(1969年)
1、生物・化学兵器を告発する
国連の告発
ウ・タント報告書
日本は、ジュネーブ議定書がまとまる段階までは、毒ガス細菌戦への準備が無かったので、使用だけでなく、製造・保有も含めた全面禁止を主張していたが、当時は既に日本の仮想敵国であった米国が批准しないということや、外交問題を表向きの理由として、この議定書に調印しなかった。その後、国際連盟を脱退して批准の機会を失ったと見られているが、後に述べる実態が示すように、第2次世界大戦時には、積極的に生物・化学兵器の開発を行い、現在は、陸上自衛隊が総化学部隊であるための方向に向かっていることに見られる如く、日本は当初からジュネーブ議定書の批准など全く考えていなかったのである。我々は、現在の生物・化学兵器の禁止を希求する国際世論の中で、改めて考えてみる必要がある。
※日本は、ジュネーブ議定書に調印したが、批准は見送った。日本の批准は1970年
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第3章 現実世界に向きあう
Ⅳ
ジョージ5世は、君主はその大臣とは別に独自の政治的見解を持つべきだという信念を彼に強めさせたのであり、その「教え」は「立憲君主制」に沿うものではなかった。それはまた、当時天皇の政治的権力を弱め、天皇を象徴的な元首にしようとしていた大正デモクラシーの精神とも相容れないものだった。後年の主張の通り、もしジョージ5世が本当に彼の模範であれば、その教えが彼を真の立憲君主制の形態に大きな差があるのは驚くにあたらない。第2次世界大戦前の日本の天皇制では、政治・宗教・軍隊統率は分ちがたく結びつき、天皇は独裁的な権限と強大な権力を持っていた。天皇は軍事問題に関しては国務大臣の輔弼を受けず、又彼は国家機能を適切に機能させるように統治することを期待された。英国のモデルはこれとは全く異なっていた。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
アメリカ合衆国
ニューメキシコ州での核実験
2010年11月18日 Zマシン(サンディア国立研究所)と呼ばれる核融合実験装置/X線発生装置を使い、核爆発を伴わない「新型核実験」に成功している(この実験はマスメディアなどでは一応臨界前核実験とは区別して新型核実験と呼ばれている)。これは強力なX線を発生させ、超高温、超高圧の核爆発に近い状況を再現し、プルトニウムの反応をみる実験である。この実験は2014年11月まで続いており計12回行われている。
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●核融合もすべきではない!!
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