2022年7月19日火曜日

細菌戦の系譜!!























 












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日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??


戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!
国が原発推進していて、事故があったら責任ないなんて全くおかしい??
責任を全部下に押し付けるのは、BC級戦犯裁判、226事件と酷似だ!!

それまで原子力を利用していたものの脱原発を表明する国が現れ、米国で新規建設のプロジェクトがなくなるなど、世界各国の原発利用は停滞することとなりました。(資源エネルギー庁のHPより)





世界には、核実験、原爆、原発労働者、ウラン鉱山の採掘者等で被ばくした人はたくさんいる!!
それが、次世代・次々世代に影響するとなると大変な数になる!!反原発!!





今年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた

731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。


731部隊や関東軍の文書公開 ロシアが歴史問題で日本けん制か



戦争では、何も解決しない!!即時停戦を!!
世界の食糧危機!!、世界の環境破壊!!生態系の激変!!貧困、虐殺、レイプ、人間不信!!

На войне ничего не решить! !! Немедленное прекращение огня! !!
Мировой продовольственный кризис! !! , Всемирное разрушение окружающей среды! !! Кардинальные изменения в экосистеме! !! Нищета, резня, насилие, человеконенавистничество! !!

У війні нічого не вирішиться! !! Негайне припинення вогню! !!
Світова продовольча криза! !! , Знищення навколишнього середовища світу! !! Різкі зміни в екосистемі! !! Бідність, бійня, зґвалтування, мізантропія! !!

Nothing will be solved in the war! !! Immediate ceasefire! !!
World food crisis! !! , World environmental destruction! !! A drastic change in the ecosystem! !! Poverty, slaughter, rape, misanthropy! !!




ウクライナに平和を!!

日本は、戦争の反省をしているのだろうか??
過去最大の防衛予算 歯止めなき膨張許されぬ






関連パネル展



731部隊全景


戦争を停止する道を探れないのか??


No War!!Stop War!!
Нет войне!!Стоп Война!!



国連はロシアのウクライナ侵攻をやめさせることに全力で取り組んでほしい!!

I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!

Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!


憲法9条を持つ日本はもっと停戦に向けて前向きに動いてほしい!!

War in the 21st century? ?? In the 21st century, a world without war!!

Война в 21 веке? ?? В 21 веке мир без войн!!

21世紀に戦争??21世紀こそ、戦争のない世界に!!







反原発!!



大元帥・現人神・昭和天皇と皇族の戦争責任を問う。
日本は戦争を起こしたことを全く謝罪しなくていいのだろか??

重慶無差別爆撃



















京都大学出版会(2022年4月10日発行)

もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・



遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)









昨年のパネル展




2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート

11月17日(水)
(森川聖詩講演)
・反原発を知ることは大切ですね。なぜ必要だと思うのかを知った上で、話をするのは本当に大事だと強く思いました。(60代、市外)

















原告たちのあまりに理不尽な被害

JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子


                





自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。


『日本医学百年史』195711の731部隊の記述






































日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」



第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった








パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
 医学と人権を考える―
生物・化学兵器の効果についての報告書(大要)
1969年7月2日(国連:ウ・タント事務総長)

防御や治療の方法なし

1、自然の伝染病が最新の医学的対策によってその流行を抑えようとしても、予測できないほど蔓延し、発生源からはるかに離れた地域にまで広まることを思い起こすだけで、細菌戦争がもたらす危険は十分理解できよう。もし軍事上の理由から病原体を蔓延させるような努力がなされるならば、事態は一層困難になるだろう。この兵器による攻撃、特に一般市民に対する攻撃があれば、病気の大量発生が考えられる。危険に対するタイムリーな警告がない為ばかりではなく、効果的な防御手段や治療法が存在しないか、あるいは適当な規模で実施することが出来ないためである。





隠された毒ガス兵器


小津安二郎も毒ガス部隊だった


森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!!     

※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!


     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置


戦争犯罪と戦争責任を考える(帝銀事件捜査から)山田朗
(『日中友好新聞』2022年2月15日号より)
 帝銀事件というのは1948(昭和23)年1月26日に起こった銀行強盗殺人事件である。12人が毒殺されるという日本犯罪史上でも特異な事件だ。この事件は、同年8月に容疑者として画家・平沢貞通が逮捕され、裁判の結果、1955年に最高裁で死刑が確定した。
 しかし、平沢犯行説には多くの疑問があったため死刑は執行されず、さりとて釈放もされず、平沢は再審請求をしながら1987年に95歳で獄死した。

  



 




 

 

























1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。



 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 


・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・参院選挙に出ている核融合党の桑島康文と人事異動にある桑島謙夫との関係は?



実験医学雑報20巻 第1号(1936年)


河本教授逝去


 弔辞


  余等もこの上は、君が今後長崎医科大学に於て、従来君が伝染病研究所に於てと同様の活躍を私に期待して已(や)まざるものありしに、天何ぞ無情なる。この熱情の人、純真の人、努力の人、博学の人に齢を籍さず。業半ばにして、否業未だ緒に就かざるに、この地、君が晩年憧憬のこの日本近代医学発祥の地於て逝く。

 余等の悲しみさることながら、逝ける君自らの無念遺憾いかばかりぞや。



        



翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田

で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??

浜一中大福餅事件

                浜松一中の慰霊碑

大牟田の慰霊碑(裏)


(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」


<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。


大牟田「爆発赤痢」事件


北宏一郎


















科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)









 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

   
























この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?


 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。


第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)

第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)

5 戦時国際法における個人の権利の承認:戦時国際法の特殊性について

7 ヘーグ陸戦条約3条の自動執行力

(2)しかし、このうちの主観的要件は不要である。条約は、その内容を各国が実現する具体的な手法はそれぞれの国に委ねる方式をとるのが普通であるから、条約が直接適用可能であるとの当事国の積極的な意思が条約中に明示されることはほとんどない(甲221・153頁)からである。



731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?




 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

           










2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           












731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

 

 

 

 

 日本の中国東北侵略から91年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 



 











二月二十日

鞍山の街も変わりこそしないが私たちの心をしっかりつかんでくれる。小学校の生徒は元気に飛んでいる。ゴルフ山からはひばりが鳴きそうな気がする。和やかな春が、目を出す春が目前に来た。並木の一枝一枝に青黄に燃えるような葉がでたらどんなにうれしいだろう。青いものといえば鐘をたたいて回らねば見つからないような所に・・・このような森・・・御伽噺に出るような平和になるだろう。蝶ちょの飛ぶ満州だもの矢張りうれしさは 冬の悲しみの長いだけに内地の桜以上であろう。正午中隊に帰る。早くも二十日、二月もおさらばだ。




「ずっと父が嫌いだった」




軍都広島での物語


原爆詩集
峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。


ちいさい子

 

ちいさい子かわいい子

おまえはいったいどこにいるのか

ふと(つまず)いた石のように

あの晴れた朝わかれたまま

みひらいた眼のまえに

母さんがいない

くっきりと空を映すおまえの瞳のうしろで

いきなり

あか黒い雲が立ちのぼり

天頂でまくれひろがる

あの音のない光りの異変

無限につづく幼い問のまえに

たれがあの日を語ってくれよう





 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

おわりに(731研究会/証言集編集委員会 越田稜)


 本書『細菌戦部隊ー731部隊員が見たもの』を編集していて気づいたことの1つに、自らの体験を語る証言者のほとんどの文脈に、「2度と戦争なんてあっちゃならない」という真摯な思いがこもっているということである。貴重な体験からほとばしったその思いには、真実味と説得力がある。




日本軍政下香港(1997.7.27)



●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行

はじめに

●法廷での証言と第2審判決

 判決で理由らしきものは、わずかに「本件検定処分当時に於ける731部隊に関する研究は、早くからその存在に言及した出版物はあったものの、飛躍的にその事実の解明が深化したのは、本件検定の2年前である」1981年に発行された常石敬一『消えた細菌戦部隊』及び森村誠一『悪魔の飽食』であり、「しかも右『悪魔の飽食』はそれが元とした史料を学術書の様な形式では明らかにしておらず、他の研究者がその記述内容の真実性を検証するには困難があったと言わざるを得ない」としている個所だけである。 





































消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」


●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930


1、毒ガス開発の開始


第1次世界大戦

次々に実戦に投入されるこれらの毒ガスは、同盟国側・連合国側の両方の軍によって使用されていく。こうして、第1次世界大戦に参加したドイツ・イギリス・フランス・アメリカ・ロシアなどの欧米諸国は、激しい毒ガス戦を体験することとなった。毒ガスによる死傷者数は88万人から129万7000人に達すると言われている。





海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)













日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備
えていた!!


碑文

ここ旧西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。 そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年敷地704,000m2)の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。
第二次大戦後工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。 いま大地に大地に深く根差した緑に世界の平和を願い、国土の安隠を祈る。

建立  相廠会 及び 協力企業  昭和63年春




略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)







*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)












・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第12章 癒しがたい傷


毒ガスの焼却


これが後世に対して永遠に責任を負う根本的な方法でもある。しかしながら、誰がこの仕事を指揮するのか。また誰がそれらの複雑な処理施設の建設の為に資金を出すのか。戦争が終わったばかりのあの頃、国際的にはこの問題はあまり注目されなかった。根本から徹底的に焼却する方法はたやすいことではなかった。だが、長期にわたって置きっぱなしにするのも適当ではない。一旦事故が起きたら、後の結果は想像に堪えないものがある。アメリカ人はこのことについて深刻な体験を有していた。彼らにとって3年前に起きたことは今なお記憶に生々しいものであった。


SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く


加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用









 

 

 



●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

核時代39年(1984年)5月初版発行

焼け火箸ー拷問の挙句に斬首

佐藤五郎

分隊員 上等兵

(旧部隊名)第59師団第109大隊


 青山は農民風の男に近寄った。首を斬る数秒前だ。座った中年の男を見つめた佐藤と高田は生つばを呑んだ。青山は軍刀を振り上げた。軍刀の峰は男の首筋を打った。

「ドスン」気味悪い音がした。2回目の軍刀が上った。青山の持った軍刀の先は小さくプルプルと震えている。サアッと光った軍刀の光と同時に、「ブス」首を斬った音だ。覗き込むように見ていた佐藤と高田は思わず横に眼を背け、地につけた足をガタガタ震えさせている。「パシャ、パシャ、ドク、ドク」首から吹き出す血は穴のまわりを血の海に変えている。





2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 



    


    






































●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


厚木基地の騒音被害、米機移駐の今も 住民訴訟、続く「違法」判断

 米海軍と海上自衛隊が共同使用する厚木基地(神奈川県綾瀬市、大和市)から北に約1・5キロの大和市の住宅密集地。真上を飛行機やヘリコプターが飛び交い、騒音をまきちらしていく。


 「何もなくても自然と上を見上げてしまう」「飛行機に手が届きそうで」。2人の女性はそう言った。



 熊倉シヅエさん(75)と渋川ミサ子さん(76)。家が隣同士で長年、米軍機と自衛隊機の騒音被害に悩まされてきた。2人とも厚木基地の騒音被害をめぐる裁判の原告でもある。


 熊倉さんは現在の場所に住んで約45年。引っ越したころは一人息子の子育ての真っ最中だった。「うるさいし、落ちないかといつも心配だった。子どもは耳を塞いで怖がっていた」。住んで約40年の渋川さんも2人の子どもを育てながら同じ思いをしてきた。「空気を入れ替えたくても窓を開けられない。子どもは怖がって我慢していた」


 住民たちが騒音訴訟に踏み切ったのが1976年。静かな空を求めた長い闘いは現在、5次訴訟になる。「参加することが少しでも解決につながるなら」。熊倉さんは2次、渋川さんは3次訴訟からの原告だ。


 2018年に米空母艦載機の岩国基地(山口県)への移駐が完了。FA18戦闘攻撃機を含む約60機が厚木基地から去った。


 2人とも最初は静かになったと思った。だが、そんな安心も長くは続かなかった。相変わらず米軍の戦闘機がやってくる。自衛隊機は頻繁に飛び、米軍輸送機オスプレイの飛来も目立つようになった。移駐しても「うるさいのは変わらない」というのが実感だ。


 会話中、騒音で妨害されて腹がたつ。テレビを見ていれば、クライマックスのときに聞き取れない。自動車の音がかき消されて交通事故にもつながりかねない。子育て中は肉体的、精神的に子どもに影響しないかと考え、今は一緒に暮らす孫たちのことが心配だ。


 「国はアメリカに弱いから」と熊倉さん。「国を動かすのは議員」と渋川さん。変わらない現状に「子どもたちの将来のためにも静かになってほしい」。2人は強くそう願っている。(上嶋紀雄)


     ◇


 厚木基地を巡る騒音被害は、法廷の場で国と住民が争っているが、互いの主張は平行線をたどり、抜本的な解決は見えていない。


 1次訴訟は1976年に始まり、4次訴訟まで判決が確定している。いずれも「騒音は違法状態」との判断が示されたが、4次の一、二審が認めた自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めは最高裁で棄却された。


 5次訴訟は2017年8月、周辺8市の住民が米軍機と自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めと損害賠償を国に求めて横浜地裁に提訴。原告は9千人近くに上る。


 国側は、住宅防音工事などの対策に巨額の費用を投じてきたほか、激しい騒音を伴う空母艦載機の模擬着艦訓練(FCLP)の硫黄島での実施や、空母艦載機の岩国基地への移駐などを実現したとして騒音低減の効果などを主張。特に訴訟のポイントとなる岩国移駐については「効果が著しい」とし、基地の「公共性」の高さをあげている。


 原告側は同じ騒音レベルでも民航機に比べて軍用機の方がうるさいと感じる度合いが高いなど生活への影響が大きいと指摘。軍用機の騒音の評価を見直すべ




CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。


●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?


日本の国家機密』(現代評論社刊 1972年初版発行)

藤井治夫著

第2篇  自衛隊の機密

第3章 防衛力整備

2、年度業務計画と予算

予算関係秘密文書

 勿論大蔵官僚は、こうした資料だけで査定作業を行なっている0ではない。毎年、防衛庁が大蔵省に提出している資料は、『予算概算要求説明資料』と題され陸海空各自衛隊、各機関、学校、研究所所などがそれぞれ作成している。これらすべてを合わせるとB4判で1万頁を超えるであろう。部数は20~30部限りで、「秘」ないし「取扱注意」に指定されている。これを検討することにより、はじめて予算の使途、目的を把握することができるのである。


  1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



第4代衛生学校長


『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?

金原節三(1901~1976)

陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」

厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1




金原節三と細菌戦


金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。


細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。


金原節三と武見太郎


金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。


※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!


『軍事史研究』2010年9月

軍事史関係史料館探訪(56)

陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館

喜多義人


収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。

 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)

Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み


1、 生物・化学兵器の開発の歩み

石井部隊と細菌戦

 昭和17年当時、石井四郎軍医中将は第731部隊を訪ねた関東軍憲兵司令官原大佐と吉房中佐に細菌戦の意義について、次のように述べている。

「細菌攻撃の第1の特徴は、効力が偉大である事である。鉄による砲、爆撃はその周囲一定の範囲のものを殺傷するだけであって、傷ついた者もすぐに回復して、再び戦闘に参加することができる。ところが細菌戦は人から人へ村から村へと効力圏を拡大するばかりではなく、その実毒は人体深く食い込んで死亡率は砲、爆撃に比べて非常に高い。また一旦傷つけば回復は極めて困難で再び戦闘に加わることは期待しがたい。」

「第2の特徴は、鉄の少ない日本にとっては、最も適当な戦争方法であり、経費も安いことにあ 


5代衛生学校長

 

井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身

 

1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】

 第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。

  井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。

 又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。

東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。

※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。

1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。

 

南方軍防疫給水部(岡9420部隊)

 

イタイイタイ病を究明した男 萩野昇 


●昭和天皇の戦争責任を問う!!
天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。

 

 






●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!


戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

     





第1部 皇太子の教育

1901(明治34)年―1921 (大正10)年



第2章  天皇に育てる

 『国史』では、神話と歴史とははっきり区別されていない。それは、天皇を国民の精神的中枢に位置づけ、天皇を神として崇拝することを国民に要求する教育勅語の文脈に沿って、天皇の神性を神話で説明している。「神武天皇」の章で、白鳥は『日本書紀』が述べている国家起源の「物語」を説く。『日本書紀』の「神武」(天照大神の直接の子孫)は、史実に基づくものではなく、理想化された虚構の人物なのだが、彼はその違いをテクストのどこにも記していない。

 

 

日本国憲法9条

第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】

①、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


RENUNCIATION OF WAR Article 9.

Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.

 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!

※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、戦争、

3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?


「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え




核兵器禁止条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

核被災に苦しむウイグルの人々

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子


・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。


●核実験

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



地球を破壊する核爆発・核実験

インド

詳細は「インドの核実験 (1974年)」および「インドの核実験 (1998年)」を参照

1974年5月18日 ラジャスタン州ポカラン砂漠で初の原爆実験。

1998年5月11日・13日 熱核反応装置(水爆に相当)実験に成功。






メアリーが伝えるヒロシマ
核実験の人体実験
核被災と核兵器禁止条約








●核融合もすべきではない!!




なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「反原発!!」と叫ばない!!
 

       

      

















原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。


・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が被爆した。



JCOの臨界事故








福島第1原発事故



           
















徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!














































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