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ウクライナ破壊は「途方もない間違い」 ロシア富豪が非難
日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
731部隊や関東軍の文書公開 ロシアが歴史問題で日本けん制か
「戦争の加害展」プレ企画
731部隊の真実
東京ブラックホールー戦後0年
Нет войне!!Стоп Война!!
I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!
Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!
ソニアの日記
コタバル 伝えられなかった戦争(2011)
セピア色の証言ー張作霖爆殺(86)
開戦ー前編ー
推薦問題に「歴史戦」とやらの余地はない
●南京大虐殺の真相
● 南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
●マギーフィルム(字幕付き)
20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」
浅川地下壕を歩く(2021年2月7日)
2021 8 15 敗戦の日
日航機墜落事故の原因を究明せよ!!
【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回
731部隊と人権ー裁判から考える
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回
731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第4回
生物兵器、脅威に懸念 防御後手 (The Economist)2020.5.5
(写真は、ドイツが実施したバイオ攻撃に対応するための訓練)=AP
■国連の原因不明の生物学的事象担当者はゼロ
新型コロナとの闘いには各国の軍事研究所が既に深く関わっているが、政府予算の規模は民間がウイルス対策に投じる巨額の資金に比べわずかだ。それでも、もっと優れた検査体制とワクチンの開発を短期間で達成させようとすることで、新型コロナだけでなく幅広い生物剤にも有用な基盤技術を生み出せるかもしれない。例えば炭疽菌のワクチンは存在するが、5回の接種が必要であり煩わしい。カゼタ氏は、自然発生でも合成でもウイルスに有効な広範囲に適用できる抗ウイルス剤やワクチンの開発こそが「目指すべき究極の目標」だと語る.
隠された毒ガス兵器
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・参院選挙に出ている核融合党の桑島康文と人事異動にある桑島謙夫との関係は?
実験医学雑報19巻 第12号(1935年)
学友会へ寄付
金49円56銭也 宮川米次君
金195円25銭也 早川清君
人事異動報告
発令月日 辞令 官職 氏名
10.31 研究生退学の件許可す 若松哲雄
11.2 陞敍高等官1等 教授 田宮猛雄
11.5 神奈川県下へ出張を命ず
(11月9日白十字林間学校、南湖院) 技手 山岸精實
同 宮本正治
〃 神奈川県下へ出張を命ず
(11月11日フォード自動車工場) 技手 山岸精實
同 宮本正治
11.5 東京府下へ出張を命ず
(11月15日府中刑務所) 技手 山岸精實
同 宮本正治
〃 千葉県下へ出張を命ず
(11月13日官立大学病院会議出席の為) 事務官 檜山兼次郎
11.6 青森県下へ出張を命ず
(馬匹購入検査の為) 嘱託 菊池常雄
11.11 神奈川県下へ出張を命ず
(川崎堀川町〉 技手 山岸精實
同 宮本正治
11.13 静岡県下へ出張を命ず
(購入馬匹検査の為〉 嘱託 菊池常雄
〃 栃木県下へ出張を命ず
(購入馬匹検査の為) 嘱託 島崎正雄
〃 大阪府下へ出張を命ず
(癩学会出席の為〉 教授 佐藤秀三
技手 高橋義夫
11.18 青森及岩手の2県下へ出張を命ず
(購入馬匹検査の為) 嘱託 中村二三郎
11.20 栃木県下へ出張を命ず
(購入馬匹検査の為) 嘱託 菊池常雄
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
大牟田「爆発赤痢」事件
北宏一郎
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
5 戦時国際法における個人の権利の承認:戦時国際法の特殊性について
陸戦に関し、敵国による占領時における住民の私権尊重については、18世紀から国際法の規則が確立した。1785年の米国・プロシア間の条約(23条)、1791年のフランス立法議会の宣言(甲79)、1863年のリーバ―規則、1880年の国際法協会オックスフォード・マニュアルなどによる明文化を経て、戦時国際法の一般原則として確立していく。
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
二月十七日
午後5時巡察に出た。小東大河往復だ 写真屋が来たので分遣を背景に二枚写した。尚巡察姿でも一枚絵機で写した。
あたりは真黒になったが小東大河までは一里半以上あるから 目的地に着くまでに足元までも暗くなった。凍った道は閉口だ。非常に滑ってしようがない。ちょうど目的地に着く少し手前の東台達溝の部落付近にさしかかった際 暗い中から突然発砲された 本当に支那人なんて物騒極まりない 夜のことと故当たりはしないが 危なくてしようがない
午後八時構内巡察共にして分遣に帰る 何か事件でもなければよいがと思いつつも 入浴で故郷の思い出にふけった。内地に帰っていろいろと満洲の事を語りつつ祝杯を上げる自分の姿を想像しては微笑んだ・・・
「ずっと父が嫌いだった」
知られていない 8月5日までの 広島 バージョン2
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
Ⅲ 細菌戦部隊の周辺
戦時中の東南アジアの様子(731部隊員増田知貞が撮影したフィルム)
日本軍政下香港(1997.7.27)
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
はじめに
注
*現在では、「毒ガス」という用語よりも「化学兵器」という用語の方がよく使われるようになっている。これは、戦争に兵器として用いられる化学物質がガスだけではなく、枯葉剤などのガス状にならないものもあるからである。しかし、広義の化学兵器の中には、焼夷剤・発煙剤なども含まれる。そこで、この本では、これらを除外し、当時の国際法で使用が禁止されていた化学兵器をさすものとして毒ガスという用語を用いる。
第1次世界大戦では、毒ガスが大量に使われた。
百年の悲劇は、ここから始まった1
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第12章 癒しがたい傷
毒ガスの焼却
もしも平常時であったなら、労働者たちは命令を受け取ると、必ずいささかの猶予もなく断固として執行するはずであった。しかし、既に日本敗戦の報を聞き、不安におののいているところであった労働者たちは、軍隊や政府の為に働きたいとは思わなかった。このため、命令に従って工場を焼却する仕事に加わる者は数えるほどしかいなかった。これは以前だったら決して見られなかった現象である。やって来た者が少なかったため、職員は予定通りに任務を果たすことができず、焦って焼却業務に参加する労働者の労賃を倍増するよう命じた。また、もし予定通りこの工場を破壊しなければ、連合軍がやって来て、労働者たちを拘禁するぞと脅した。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
焼け火箸ー拷問の挙句に斬首
佐藤五郎
分隊員 上等兵
(旧部隊名)第59師団第109大隊
「隊長殿、こいつの身内が来るまで待ってくれと言ってますよ」通訳はまた隊長に話した「そうか、いいだろう」青山はニタリと笑いながら、煙草を取り出して火をつけた。何とかして八路軍の秘密を探り出そうと考えていたのだ。中年の男はたたんだ上着とズボンをしっかりと握り膝の上に置き、穴を掘る佐藤を睨みつけていた。蒋が呼びに行って時間は15分くらいたった時だった。呼びに行った蒋は、一人の農民風で年の頃37、8歳くらいと思われる男を連れて戻ってきた。すると中年の男は身内の人が来たことに気づくと、後ろを振り向き何か叫んだ。連れて来られた農民風の男は、飛びつくように座った男と抱き合った。確かに肉親の兄弟のようであった。しっかりと握った二人の手はブルブルと震えている。抱き合った2人はそばに立っている3人の野良犬どもの顔を睨みつけ、噛み締めた唇を震わせ、鋭い目つきは青山の眼に注がれた 。
厚木基地の騒音被害、米機移駐の今も 住民訴訟、続く「違法」判断
米海軍と海上自衛隊が共同使用する厚木基地(神奈川県綾瀬市、大和市)から北に約1・5キロの大和市の住宅密集地。真上を飛行機やヘリコプターが飛び交い、騒音をまきちらしていく。
「何もなくても自然と上を見上げてしまう」「飛行機に手が届きそうで」。2人の女性はそう言った。
熊倉シヅエさん(75)と渋川ミサ子さん(76)。家が隣同士で長年、米軍機と自衛隊機の騒音被害に悩まされてきた。2人とも厚木基地の騒音被害をめぐる裁判の原告でもある。
熊倉さんは現在の場所に住んで約45年。引っ越したころは一人息子の子育ての真っ最中だった。「うるさいし、落ちないかといつも心配だった。子どもは耳を塞いで怖がっていた」。住んで約40年の渋川さんも2人の子どもを育てながら同じ思いをしてきた。「空気を入れ替えたくても窓を開けられない。子どもは怖がって我慢していた」
住民たちが騒音訴訟に踏み切ったのが1976年。静かな空を求めた長い闘いは現在、5次訴訟になる。「参加することが少しでも解決につながるなら」。熊倉さんは2次、渋川さんは3次訴訟からの原告だ。
2018年に米空母艦載機の岩国基地(山口県)への移駐が完了。FA18戦闘攻撃機を含む約60機が厚木基地から去った。
2人とも最初は静かになったと思った。だが、そんな安心も長くは続かなかった。相変わらず米軍の戦闘機がやってくる。自衛隊機は頻繁に飛び、米軍輸送機オスプレイの飛来も目立つようになった。移駐しても「うるさいのは変わらない」というのが実感だ。
会話中、騒音で妨害されて腹がたつ。テレビを見ていれば、クライマックスのときに聞き取れない。自動車の音がかき消されて交通事故にもつながりかねない。子育て中は肉体的、精神的に子どもに影響しないかと考え、今は一緒に暮らす孫たちのことが心配だ。
「国はアメリカに弱いから」と熊倉さん。「国を動かすのは議員」と渋川さん。変わらない現状に「子どもたちの将来のためにも静かになってほしい」。2人は強くそう願っている。(上嶋紀雄)
◇
厚木基地を巡る騒音被害は、法廷の場で国と住民が争っているが、互いの主張は平行線をたどり、抜本的な解決は見えていない。
1次訴訟は1976年に始まり、4次訴訟まで判決が確定している。いずれも「騒音は違法状態」との判断が示されたが、4次の一、二審が認めた自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めは最高裁で棄却された。
5次訴訟は2017年8月、周辺8市の住民が米軍機と自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めと損害賠償を国に求めて横浜地裁に提訴。原告は9千人近くに上る。
国側は、住宅防音工事などの対策に巨額の費用を投じてきたほか、激しい騒音を伴う空母艦載機の模擬着艦訓練(FCLP)の硫黄島での実施や、空母艦載機の岩国基地への移駐などを実現したとして騒音低減の効果などを主張。特に訴訟のポイントとなる岩国移駐については「効果が著しい」とし、基地の「公共性」の高さをあげている。
原告側は同じ騒音レベルでも民航機に比べて軍用機の方がうるさいと感じる度合いが高いなど生活への影響が大きいと指摘。軍用機の騒音の評価を見直すべ
*CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。
藤井治夫著
第2篇 自衛隊の機密
第3章 防衛力整備
2、年度業務計画と予算
業務計画の作成手順
川崎一佐事件に現われた『昭和42年度航空自衛隊業務計画説明資料第1分冊』には「秘」の指定がなさていたが、これは空幕が防衛庁内局にたいし、業務計画について説明するための資料であり、構成からいえば方針と主要基本計画にあたる部分が盛り込まれていた。長官の承認を要する主要基本計画は、ごく概括的なものであるから、秘密度はあまり高くない。これにたいし業務別計画は、詳細な内容のものである。68国会(1972年)で業務計画について論議されたこともあったが、防衛当局は「業務計画は秘になっている」として提出しなかった。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
1、 生物・化学兵器の開発の歩み
「関特演」と風船爆弾
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第2章 天皇に育てる
Ⅱ
15世紀後半のバスコ・ダ・ガマの時代から第1次世界大戦に至る間のヨーロッパのアジア進出は、次のように説明されている。
此の如く最近欧人の東漸(とうぜん)は、白色人種が黄色人種を圧倒し去らんとするものなり。暹羅(シャム)の如きは僅(わずか)に独立の名を有するも、其の実力なきは勿論、支那の如き大国と雖も多年内乱相次ぎて国家統一の実なく、到底白人の勢力に拮抗するに足らず。唯極東に我が日本帝国ありて僅に西人東侵の勢を扼止(やくし)するを得たり。
加ふるに亜米利加人も・・・・・帝国主義を執り、次第に勢力を東洋に伸張して布哇(ハワイ)を取り、フィリッピンを取り、支那満州にも商権を拡張せんとするは現今の状態なり。
此の如く観じ来れば、世界の歴史は黄白両人種競争角逐(かくちく)の歴史なり。・・・彼は則ち黄禍を叫び、我は則ち白禍を憤る。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核爆発・核実験
アメリカ合衆国
アムチトカ島での核実験
1965年から1971年までにアラスカのアムチトカ島で3回実験が行われた。1971年11月6日の"CANNIKIN"は地下実験最大の5Mt(迎撃ミサイル「LIM-49A スパルタン」のW71核弾頭を使用)であり、各国の抗議を引き起こした。グリーンピースは、この実験を契機として発足した。
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