「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
「未曾有の盛事、感慨無量なり」
12月17日、午後1時半に南京入城式が定刻通り開始された。この式には南京攻略戦に参加した全戦闘部隊の三分の一が代表部隊として入城し、中山門から祝賀会場の国民政府庁舎まで三キロにわたり、中山東路の両側に整列した。
南京入城式のもようは、大報道陣によってニュース映画、ラジオ、新聞、雑誌を通して大々的に日本国内に報道された。入城式のセレモニーで主役を演じた松井石根大将は、得意絶頂にあった。・・・
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「休養の十数日」
・・・・・・南京攻略戦に参加した多くの師団が、南京警備に残留した第16師団をのぞいて、新たな作戦地域を目指して移動していったのは、クリスマス前後のことだった。それまで、総勢7万以上の日本軍が前後して南京城内に進駐し、10日前後の「休養」を過ごした。・・・・・
無理難題の南京攻略を強いた将兵の憤懣・反発の「ガス抜き」としてあるいは「慰労」として、多くの部隊が南京城内に進駐し、勝利者、征服者の「特権」として徴発、略奪、殺戮、強姦、暴行、放火などの不法行為に走るのを黙認、放任するかたちになった。しかも12月17日の段階で、南京城内にいた憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
南京攻略戦は参謀本部の作戦計画には元々なかったため、南京を陥落させたものの、次に実行すべき、明確な作戦が陸軍中央にはなかった。陸軍中央部内に、国民政府と停戦・和平を目指す勢力と国民政府をいっきょに壊滅させ、傀儡(かいらい)政府を樹立してこれに代えようとする勢力、すなわち不拡大派と拡大派の対立があったことも無策の原因となった。
こうして、日本軍の完全占領下に、外部との交通・通信を遮断されて「陸の孤島」となった南京は「密室犯罪」的な環境のもとにおかれた。
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入城式後に激発した強姦
入城式がおこなわれた17日前後から城内の強姦が激増したことをフィッチは、日記に記している。
12月17日、金曜日。略奪、殺人、強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨 夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は37回も強姦された のです。別の婦人は5ヶ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強 姦する間、赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。
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南京安全区国際委員会の中心メンバーとして活躍したマイナー・S・ベイツ(金陵大学歴史学教授、40歳)は、アメリカのキリスト者に対する手紙の中に、日本軍による強姦についてこう記している。
有能なドイツ人の同僚たちは(ラーベらのこと)強姦の件数を2万件とみています。
私にも8000件以下とは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。我々の職員家族 の若干と現在アメリカ人が住んでいる住宅を含めて金陵大学構内だけでも、100件以上の強姦事 件の詳細な記録がありますし、300件ほどの証拠もあります。
ここでの苦痛と恐怖は、あなたにはほとんど想像できないでしょう。金陵大学区内だけでも、11歳 の少女から53歳になる婦人まで強姦されています。他の難民グループではむごい事にも、72歳と 76歳になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、17名の日本兵が1人の女性を輪姦し ました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです。
中シナ方面軍の司令部が無策のままに、何万という軍紀の弛緩した軍隊を10日前後も駐留させたため、戦闘とは全く関係のない、膨大な女性の身体と生命が犠牲にされた。それも、南京難民区国際委員会が掌握した事例は部分にしかすぎなかった。難民区外さらに広大な城外近郊区で行われた多くの婦女陵辱行為は記録する者も証言する者もなく、歴史の闇に葬り去られている。・・・・・
捕虜の殺害
17日について、歩兵第65連隊第1大隊の荒海清衛上等兵の陣中日記は、「今日は南京入城なり。俺等は今日も捕虜の始末だ。1万5千名。今日は山で」と記している。
「南京の質実」(ラーベ著:講談社)
12月17日
二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出て行くと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とか何とか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、また、もと来た道をそそくさと引き返していった。
塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。この中の一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶ事ができ、鼓楼病院へ運んだ。いま、庭には全部で約200人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざまずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人の誰かがこんな風に言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
当たらずといえども遠からずだ。昨晩は1000人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも100人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。・・・・・・
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軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が30体転がっている。昨日、即決の軍事裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町を片付け始めた。山西路広場から軍政部までは道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げ込まれている。
午後6時、庭にいる難民たちに筵を60枚持っていった。みな大喜びだった。日本兵が4人、またしても塀をよじ登って入ってきた。3人はすぐにとっつかまえて追い返した。4人目は難民の間をぬって正門へやってきたところをつかまえ、丁重に出口までお送りした。やつらは外へ出たとたん、駆け出した。ドイツ人とは面倒を起こしたくないのだ。
アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは、「ドイツ人だぞ!」あるいは「ヒトラー!」と叫ぶだけでよかった。すると日本人はおとなしくなるからだ。今日、日本大使館に抗議の手紙を出した。それを読んだ福井淳(きよし)書記官はどうやら強く心を動かされたようだった。いずれにせよ福井氏は早速この書簡を最高司令部へ渡すと約束してくれた。・・・・・・
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月17日
7時30分、F・陳と一緒に門衛所で一夜を明かしたソーン氏のところへ伝言をしに行った。
中国赤十字会の粥場で石炭と米がどうしても入用だからだ。疲れ果ておびえた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は12歳の少女から上は60歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人々に、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。)それぞれの個人の悲しい話ーとりわけ、顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話ーを書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。
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午前中は校門に詰めているか、そうでなければ、日本兵グループがいるという報告があり次第、南山から寄宿舎へ、はたまた正門へと駆け回ることで時間が過ぎた。・・・・ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が3人理科棟にいます・・・・」などと使用人が言ってこない日はない。
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終日押しよせる大勢の避難民の面倒はとても見きれない。たとえ収容スペースがあっても、うまくやっていけるだけの体力がない。金陵大学側と話をつけて、大学の寄宿舎のうちの一つを開放してもらうことにした。4時から6時までの間に大勢の婦女子の2グループを引率して行った。なんと悲痛な光景だろう。おびえている少女たち、疲れ切った女性たちが子供を連れ、寝具や小さな包みにくるんだ衣類を背負ってとぼとぼ歩いて行く。彼女たちについて行ってよかったと思う。というのも、日本兵の集団があらゆる種類の略奪品を抱えて家から家へと移動していくところに出くわしたからだ。・・・・
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夕食をとり終わった後で中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。2人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようにしきりに要求しているところに出くわした。鍵を持っていない、と言うと、一人が「ここに中国兵がいる。敵兵だ」と言うので、私は、「中国兵はいない」と言った。一緒にいた李さんも同じ答えをした。その兵士は私の頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたか殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した。・・・・・
・・・・・・彼らは一階も二階も入念に調べていた。外に出ると、別の兵士二人が、学院の使用人3人を縛り上げて連れてきた。「中国兵だ」と言ったので、私は、「兵士ではない。苦力と庭師です」と言った。事実そうだったからだ。日本兵は3人を正門のところへ連行したので、私もついて行った。正門まできてみると、大勢の中国人が道端にひざまずいていた。その中には、フランシス陳さん、夏さん、それに学院の使用人が何人かがいた。・・・・・・・
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後に残った私たちがその場で立ったりひざまずいたりしていると、泣きわめく声が聞こえ、通用門から出て行く中国人たちの姿が見えた。大勢の男性を雑役夫として連行して行くのだろうと思った。後になって私たちは、それが彼らの策略であったことに気づいた。責任ある立場の人間を正門のところに拘束した上で、審問を装って兵士3,4人が中国兵狩りをしている間に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。日本兵が12人の女性を選んで、通用門から連れ出したことを後で知った。すべてが終わると、彼らはF・陳をつれて正門から出て行った。私は、陳さんにはもう2度と会えないと思った。日本兵は出て行くには行ったが、退去したのではなく、外で警備を続け、動くものはだれかれかまわず即座に銃撃するに違いないと思った。その時の情景は決して忘れる事ができない。道ばたにひざまずいている中国人たち、立ちつくしているメリーや程先生、それに私。乾いた木の葉はかさかさと音を立て、風が悲しくうめく様に吹く中を、連れ去られる女性たちの泣き叫ぶ声がしていた。
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それからメリーと私は実験学校に行ってみた。驚いたことに、陳さんと婁さんが私の居室に無言で座っているではないか。陳さんの話を聞いて、命が助かったのは本当に奇跡としか思えなかった。・・・
「[Imagine9」解説【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。
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