「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」【大月書店】より
(ミニー・ヴォートリン・・・南京にあった金陵女学院の教育と運営の実質的な指導者であった。)
1937年11月
5日、日本軍の第10軍が杭州湾に上陸、背後をつかれた上海防衛の中国軍に動揺がはしり、13日に第16師団が上海北西の長江岸の白茆口に上陸すると、中国軍の撤退と潰走がはじまり、やがて総崩れとなり、15日、上海は日本軍の手に落ちた。
10日は雨天にもかかわらず日本軍機の南京空襲があった。・・・・・・・
上海発行の英字新聞や上海、香港からの英語ラジオ・ニュースで戦況についてある程度把握していたヴォートリンは、日本軍が南京に侵攻してくるのは時間の問題であり、そうなれば、南京城の攻防をめぐって長い戦闘がおこなわれ、その結果南京には瓦礫と廃墟が残るだけになるだろうと予測して、それが現実になるのを恐れていた。
20日、ヴォートリンは、宣教師のジョン・マギーらとともに、下関駅に送られてきている負傷兵たちの様子を見に出かけた。そこで彼女が見たものは、医者と看護婦にも見放されて、死体同様にホームに放置されていた数百人の負傷兵の集団であった。蘇州、無錫の攻防戦で負傷した中国兵たちで、南京陸軍病院の医師や看護婦たちがすでに南京から避難してしまった後に、送還されてきたのだった。
眼も鼻もつぶれてうめき通しの兵士、尻のところまで脚をもぎ取られた兵士、ほとんどが瀕死の重傷を負った兵士たちがベッドもなく横たわっている。あたり一帯に死臭のような悪臭が充満していた。
昨夜は下関駅の負傷兵の二割が絶命し、今日は三割の負傷兵が息を引き取るであろうと、関係者は言っていた。・・・・・・・・
ヴォートリンにとって、さながら生き地獄絵のような負傷兵の集団を見たことは、戦場の悲惨さ、忌むべき戦争の実態をあらためて思い知らされ、忘れることのできない強烈な体験となった。
こうした戦争の悲劇をさらに増大させることになる日本軍の南京攻撃を、なんとか停止させたいと願い、神に祈り続けていたヴォートリンが、最後に望みを託したのが、3日からベルギーのブリュッセルで開催されていた九ヶ国条約会議(ブリュッセル会議と称する)であった。・・・・・・・・
ブリュッセル会議は、「各国代表は条約の規定(中国の主権・独立とその領土的・行政的保全の尊重を規定していた)を無視する日本に対し共同態度を採ることを考慮する」という日本の国際法違反を非難する宣言を採択して、24日に閉会した(日本とドイツは招請を受けたがボイコットした)。会議は日本の中国侵略にたいして警告宣言を発するという平和的手段に訴えることで終わり、中国代表が希望した具体的な対日制裁措置は決定しなかったのである。
同会議の宣言を香港からのラジオ放送で聞いたヴォートリンは、23日の日記にこう記す。
「多くの国が協同して、日本の中国侵略を阻止するためにやるべきことを、今こそ実行するように、衷心から祈るばかりである。日本の硬直した保守的な思想と侵略的な態度が変わるように、そして世界の人道主義的圧力が日本国民に重くのしかかるように、強く願っている。日本国民は世界から非難されて大きな苦痛を経験しなければ、目覚めることをしないであろう」。
20日、蒋介石国民政府は、首都を南京から重慶に移すことを正式に宣布、同日、唐生智(とうせいち)が南京防衛軍司令長官に任命された。これに前後して政府の中央諸機関は、つぎの暫定首都である長江上流の武漢(同市は漢口・武昌・漢陽の三地区よりなる)に向けて続々と移転を開始した。国民政府当局は、南京の防衛軍は最後の一兵まで戦うつもりであるから、一般市民は市区域から早急に避難していくよう呼びかけた。政府機関の移転とともに、政府官庁の職員とその家族が南京から離れて行き、ついで中産階級の市民が南京から避難していった。脱出していく市民と入れ替わりに、中国軍5万が16日に南京到着、その後も兵士、武器、軍需品を満載したトラックが大通りを頻繁に行き交い、南京城内は戦闘前夜の興奮と緊張と喧騒とに包まれていった。
ここにいたって19日、金陵女学院の呉学長は、成都に赴くことを決定せざるを得なくなり、涙ながらにヴォートリンに金陵女学院の後事を託した。同日、アメリカ大使館のホール・バクストンが、南京城内が無秩序になり、外国人の生命が危険な状況に陥ったときには、長江に停泊しているアメリカ砲艦パナイ号に避難するように通告に来たとき、ヴォートリンはこう答えた。
「わたしはどんなことがあっても金陵女子学院の仲間と隣保館の仲間を見放すことはできないのです。彼女(彼)らは私を頼りにしている。状況によっては彼女(彼)らが私を助けてくれるだろうし、状況によっては私が彼女(彼)らを助ける事ができるのです」。
最終的に、南京にずっと留まることを決意した外国人女性は、ヴォートリンと鼓楼病院(南京大学付属病院)に勤めるイーヴァ・ハインズとグレース・バウアーの3人だけとなった。
南京に日本軍が侵攻してくることが確実になると、戦火の南京に留まることを決めていたアメリカ人の宣教師、大学教師のあいだに難民区を設定する話が急速に進展し、17日には主要メンバーが集まって、南京安全区(難民区)国際委員会の結成を決定。中国当局の承認と協力を得、アメリカ大使館を通して日本側の了解と認知を獲得するために積極的に活動を開始した。(昨日書いたように委員長にはドイツ企業ジーメンス社南京支社の支配人として南京に残留していたドイツ人のジョン・H・D・ラーべが就いた。)
国際委員会の申し入れにたいして、中国当局から、委員会の提起した非武装の安全区設置の条件を全面的に遵守するとの回答が寄せられ、日本の関係当局からはしばらくして、難民区が中国軍の軍事目的に使用されない保証があれば、日本軍が攻撃する意図はない、と間接的に認める回答があった。
日本当局からも一応尊重する旨の回答を得た国際委員会のメンバーは、金陵大学や金陵女学院の中国人スタッフの残留者を総動員して大急ぎで難民区の設定に取りかかった。
南京安全区は、南京城内を東西南北に四等分したその西北部に位置し、東京の台東区や中央区よりやや狭い面積に相当する。この区域に難民区が設定されたのは、金陵女学院や金陵大学もあり、さらに公共の建物が多く、難民を収容するのに便利であったこと、同地にある高級住宅街の洋館の外国人はほとんど避難した後であり、いざという時には難民を収容できたこと、そして何よりも、安全区を運営したアメリカ人やドイツ人たちのホームグランドであった事などの理由による。
金陵女学院を難民収容所として解放する事が決まったので、ヴォートリンらは、構内の校具、図書、文書の整理・移動にとりかかり、貴金属や装飾品などは長江に浮かぶアメリカ砲艦パナイ号に保管してもらうなど、難民区設営の準備におおわらわとなった。
国民政府が重慶遷都を宣布した20日、日本では天皇に直属する最高戦争指導機関である大本営が設置され、中国全面侵略戦争を本格的、長期的に指導する体制を確立した。
そして、12月1日、大本営は中シナ方面軍にたいして正式に南京攻略を下令、総勢20万に達する日本の大軍が中国軍の包囲殲滅を目指して南京に進撃して行った。
{Imagine 9}【合同出版】より
想像してごらん、
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界を。
Imagine,
A world that instead of
preparing for war,prevents war.
コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)
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