「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
12月22日、松井石根中シナ方面軍司令官は海軍の水雷艇に便乗して南京を去り、長江を下って上海に向かった。・・・・・・
松井大将が南京を離れてのち、南京占領中の中シナ方面軍の主力部隊も次々と新たな作戦地域へと移動していった。中国の首都を落としたから国民政府も屈伏して戦争が終結し、晴れて自分たちは日本に凱旋できると思い込んでいた兵士たちの期待は裏切られ、祝賀気分もすでに失せていた。
上海派遣軍司令部が南京城区と湯山鎮、句容、秣陵関などの近郊区の占領維持のために残留させたのは、中島今朝吾中将を師団長とする第16師団(京都)だった。さらに、第13師団が長江北の六合県一帯を警備することとなった。
第16師団こそ、華北戦線から上海戦に投入されて転戦の負担と犠牲を強いられたうえに、南京攻略戦に駆りたてられ、「南京一番乗り」をめざした部隊であった。南京城の攻防でも最強の教導総隊を相手に多数の犠牲を出したため、それだけ中国軍民にたいする倒錯した敵愾心が強く、中島師団長の傍若無人の性格ともあいまって、軍紀弛緩のいちじるしい部隊だった。そのため、南京における日本軍の残虐事件の数量だけは減少したが、あいかわらず、虐殺・強姦・略奪・放火などの蛮行が続いた。・・・・・・・・
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月22日
軍事警察本部からだといって日本人が2人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになった由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、引き受けた。
そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。あのあたりはもう安全区に入っている。そうなったらわが家も危ない。仲間と安全区の中を片付けていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのを見つけた。(たった一つの沼だけで30体あった)。ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。
わが家の難民はいまだに増える一方だ。私の小さな書斎だけでも6人が寝ている。オフィスと庭も見渡すかぎり難民で埋まっており、燃えさかる炎に照らされて誰もが血のように染まっている。今数えただけでも、7ヶ所で火災がおこっている。
私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が54人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこに行くように。
ところが、なんとそのうちの43人が処刑されていたのだ!それは3,4日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせにきたのは、同じく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの2人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。
今日の午後、酔っ払った日本兵に中国人が銃剣で首を突かれた。それを知って助けにいったクレーガーとハッツの2人も襲われた。ハッツは椅子を使って身を守った。だが、クレーガーの方は日本兵にしばられそうになった。やけどした左手を包帯でつっていなければ、そうならなかっただろうが。・・・・
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月22日 水曜日
今朝は機関銃や小銃の音が頻繁に聞こえる。単なる訓練だろうか、それとも、さらに多くの無辜の民衆が射殺されているのだろうか。
急に気力が尽きてしまい、ここ何日も続いた緊張感と悲しみで疲れ果ててしまった。・・・・・
今日は避難民に粥を出していない。理由は処理能力が追いつかないということだけだ。目下、配給方法を改めようとしているところだ。貧しくて米を買えない人たちには、目印の赤い札を服に縫い付けてもらう。そうすれば、今後はその人たちが先に配給を受けることになる。・・・・・・
理科棟では、2つの部屋とホールと屋根裏だけを開放して、およそ1000人が収容されている。そうしてみると、文科棟には2000人を収容しているに違いない。文科棟の屋根裏だけで1000人近くいるそうだ。夜間には渡り廊下に1000人ほどがいるに違いない。今夜フィッチ氏がやってきて、収容しきれない人たちのために文史資料棟を開放してもらいたいかどうか、私たちに尋ねてくれたので、もちろん、そうしてもらいたい、と答えた。・・・・・・・・・・・・
毎晩、25人の警備兵がキャンパスに派遣されている。彼らが配置された最初の晩、いくつかの不幸な事件が発生した。昨夜は何事もなく平穏だった。今夜も昨夜と同じ方式、つまり、日本兵には外を警備してもらい、中は私たちが警備するという方式を取ることを上手に提案した。・・・・・
依然として外界と接触することはできない。
「Imagine9」解説【合同出版】より
9条がゆきわたった世界
みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。
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