2008年12月5日金曜日

1937年 12月5日 南京

1937年12月4日・・・第16師団(中島今朝吾中将)、南京戦区に突入。
「南京の真実」(ジョン・ラーベ著:講談社)より
12月5日
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 アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや、詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。
つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、出来るだけ配慮しようと約束してくれたのだ。
 ベイツ、シュペアリングと一緒に、唐指令長官を訪ねた。なんとしても、軍人と軍の施設をすぐに安全区から残らず引き揚げる約束を取り付けなければならない。それにしてもやつの返事を聞いた時の我々の驚きを一体どう言えばいいのだろう!「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと?そんな馬鹿な事があるか!それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。そうなったら当面、「安全区」の名をつけることは考えられない。せいぜい、「難民区」だ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その間にも爆弾はひっきりなしに落ちてくる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
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我々は必死で米や小麦粉を運び込んだ。安全区を示す旗や、外にいる人たちに安全区のことを知らせる貼り紙もできている。だが、肝心の安全性については最低の保証すら、与えられないのだ!
 ローゼンはかんかんになっている。中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、その近くにいる方が安全だと思っているからだという。・・・・
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「南京事件の日々・・・・ミニー・ヴォートリンの日記」(大月書店)より
12月5日(日)
鼓楼教会へ礼拝に行く時刻のころ「空襲警報」のサイレン(日本軍の前線がすぐ近くまで迫っているので、今では警戒警報は出されない)が鳴り、するとまもなく爆撃音が聞こえてきた。明朝故宮の「西華門」がやられたのだ、とウィルソン医師が教えてくれた。気の毒なことに、爆撃されたのはほとんどが貧しい民間人であった。ウィルソン医師が、ある一家のことを話してくれた。そこの母親と娘は即死、呆然自失のの父親をウィルソン医師が発見したとき、彼は赤ん坊を抱いていたが、その子の頭部は吹き飛ばされてしまっていた。中国軍兵士のことを思うと胸が痛む。負傷兵50人が、20マイル離れたところからやっとのことできょう城内にたどり着いたそうだ。彼らの話によれば、負傷した多くの仲間が路上で倒れていったという。
 大学病院(金陵大学付属鼓楼病院)は、医師や看護婦が絶対的に不足している。看護婦は全員が、そして医師も、中国人医師一人を除いては全員が長江上流へ脱出してしまった。・・・・・・


 昼食直後にキャンパスの緊急理事会が召集され、長時間にわたって避難民の扱い方が検討された。手伝ってくれる人がもっと大勢いればよいのだが。程先生は疲れており、何千人という避難民の世話をすることを考えただけで、もう具合が悪くなってしまう。持参する品を知らせる大きなポスターを校門に掲示する計画を進めている。また、できれば日刊紙(今では紙面が一枚に減ってしまった)に子のポスターを掲載するつもりだ。・・・・・・・・・・
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定例記者会見は長時間にわたった。馬市長と有意義な話ができた。市長の予想では、日本軍がここに到達するまで激しい戦闘が一ヶ月は続くことになるだろう。安全区の旗を立てる事ができるように、軍関係の団体や防御施設を安全区の外に移すため、あらゆる努力がなされている。・・・・・・
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{imagine 9}【合同出版】より


想像してごらん、

9条がゆきわたった世界を。

Imagine,

A world filled with Article 9.


憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)


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