2008年12月6日土曜日

1937年 12月6日 南京

6日:日本軍、南京外囲防御陣地をほぼ占領。
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月6日
 ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗り込んだ。残りの人々はいつでも乗り込めるよう準備している。我々の仲間だけが拒否した。これは、絶対に内緒だが、と言ってローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和が来るといい。・・・・・・・
 黄上校との話し合いは忘れる事ができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れると言うのだ。
 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか、あなた方が安全区を設けさえしなかったら、今底に逃げ込もうとしている連中は、わが兵士たちの役に立てたのですぞ!」
 これほどまでに言語道断なせりふがあるだろうか。二の句がつげない!しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている!ここに残った人は、家族を連れて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民の命で償わせようというのか!なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄をつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?


 それから軍人や軍の施設を安全区から引き上げる時期について聞いた。最後のぎりぎりの瞬間、それよりも一分たりとも前ではない、というのがやつの返事だ。要するに、土壇場まで、市街戦が繰り広げられるその瞬間までいすわろうという肚(はら)なんだ!
 きちんと準備するには、米や小麦粉、塩、燃料、医薬品、炊事道具、あと、なんだかしらないがとにかくいるもの全部、日本軍が攻めてくる前に用意しておかねばならない。医者、救護員、汚物処理、埋葬、警察、そうだ、場合によっては警察の代わりまでやる覚悟がいる。軍隊が退却すれば十中八九警察もいなくなるだろう。そうなったら、治安が乱れる恐れがある。こういうこともみなその時になってからやれと言うのか?
 なんとか考えを変えるよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という同胞の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないと言うわけか?・・・・・・・・・・


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月6日(月)
 今日は寒さが厳しいけれど、幸いなことに、日なたは暖かい。十分な夜具を持っていない避難民は、さぞつらい思いをしているに違いない。雪や雨が降りでもしたら、その苦難はどんなに増すことだろう。神様、この冬の苦難はどんなに厳しいものになるでしょう.UP(ママ)特派員のマグダニエルが今日話してくれたところでは、昨日句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、その後を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦(1)」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。明孝陵に通じる道路沿いにあった竹林などの美しい樹木はすでに切り倒されていたそうだ。春に見たプラムや桃の花の美しい眺めは忘れる事ができない。
 む湖でのイギリス船爆撃(2)のニュースを聞き、呉博士が漢口に着いたかどうか知りたくなった。
 キャンパスでは終日みんながさかんに活動していた。陳さんと李さんは、職員に指示して文科棟のすべての備品を屋根裏に移動させている。文科棟には、今のところ200人(のちに判明したところでは1000人)の避難民を収容する余地がある。屋根裏が広くてありがたい。今夜中に文科棟と、それに二つの寄宿舎の整理が完了する。明日は理科棟と中央棟を片付けて避難民の収容に備えよう。明日は収容計画を完成し、割り当ての手順をまとめるようにしよう。ここにいて、こうした仕事を手伝えるのは何とありがたいことだろう。程先生一人だけでは指揮しきれないだろうし、彼女以外の人はあまりにも不慣れだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)・・・中国語で「清野作戦」といい、侵攻して来る日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却してしまう焼野原作戦で、中国軍は南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。
(2)・・・1937年12月5日、日本の海軍航空隊がむ湖を空襲した際、む湖沖の長江に停泊していたイギリスのジャーディン・マセソン社の汽船二隻に爆弾が命中して火災が発生し、船長夫妻が負傷、イギリス政府は日本政府に強く抗議した。

「Imagine 9」(合同出版)解説より


9条をつかって、戦争のない世界をつくる。 

「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。


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