飯田市平和祈念資料館の展示の見直しを!!
2022/10/22 清水さん宅にて
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室
ビキニ被爆訴訟
平頂山事件から90年
平頂山事件90周年(中国では)
↑9月18日の「赤旗」より
犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げます。
平頂山事件の悲劇を二度と繰り返してはならない。
政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。
『撫順』から未来を語る実行委員会と平頂山訴訟弁護団
我们向受害者表示衷心的慰问。
平顶山惨案的悲剧决不能重演。
我们绝不允许因为政府的行为,让战争的悲剧再次发生。
抚顺告知未来实行委员会与平顶山惨案诉讼律师团
日本民衆は10日、平頂山大虐殺90周年を記念し、歴史を忘れないように呼びかけた
日本民衆は10日、日本軍による中国民間人虐殺事件である平頂山大虐殺事件90周年を記念する集会を東京で開いた。中国と外国を揺るがしたこの悲劇は、日本社会ではほとんど知られておらず、日本政府は謝罪と補償を未だに拒否している。
日本の市民団体は土曜日、東京で平頂山大虐殺90周年を記念する集会を開いた。日本の学者が悲劇の経緯や最新の研究成果について講演した。中国ではよく知られている平頂山大虐殺は日本では認知度が低い。 学者は、日本が中国侵略の歴史を避け歴史を修正する傾向を非常に心配している。
駿河台大学名誉教授の井上久士氏:「日本の高校の教科書ではほとんど触れられていませんし、普通の日本人もほとんど知りません。日本は過去を心に留めておくことによってのみ、真の友好と相互信頼の基盤を築くことができるのです。」
東京市民合唱団の、平頂山大虐殺を再現した合唱劇「再生の大地」も上演された。
「再生の地」合唱団団長の姫田光義氏:「中国人に謝罪することは、我々が直面している最も重要な問題です。」
日本で20年間にわたる請求訴訟を起こし、平頂山大虐殺生存者の正義を訴えた日本の弁護士は、訴訟の経過と困難について語った。 2016年、日本の最高裁判所は、最終審として生存者の請求を却下したが、平頂山大虐殺の事実は司法判断した。 しかし、日本政府はこれまで、無差別殺人の事実を認めず、謝罪もしていない。
平頂山事件訴訟弁護団の弁護士 大江京子氏:「平頂山事件の歴史から学んだ教訓を踏まえ、日中共同宣言の精神を再確認し、武力による問題解決をしてはなりません」。
今日会場に来た人たちの間では、日本社会が歴史的事実に目を瞑ってしまえば、歴史を反省したり歴史の教訓に学ぶことはまったくできないというコンセンサスがあります。 しかし、私たちはまた、会場に来た主に高齢者たちが次の世代に歴史の真実を伝える方法について、まだ大きな課題であることを観察しました。
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会
第1分科会
四国西南部の特攻基地ー第132震洋隊・土佐清水越基地跡を中心に
22日のフィールドワーク
番外編
似島(広島県)
日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??
戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!「こんな判決出るとは」無念の原告 疲労と失望
Нет войне!!Стоп Война!!
新聞記事からの報告(ビキニ水爆実験)
忘れられたビキニ被災者たち 裁判の報告
2022 5 7 世界の核被害問題と解決の取り組み
2022 5 7パネルディスカッションのまとめ
中満泉ビデオメッセージ
2022 5 8高橋博子講演
閉会の挨拶
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
第7回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品
『30年目のグレーゾーン ~環境汚染とこの国のかたち~』 (制作 富山テレビ)
<1999年1月31日(日)午後4時放送>
『第7回FNSドキュメンタリー大賞』はこの度審査が行われ、富山テレビ(BBT)制作の『30年目のグレーゾーン~環境汚染とこの国のかたち~』が見事大賞に輝いた。そしてこの大賞受賞作品が1月31日(日)午後4時から『決定!第7回FNSドキュメンタリー大賞』<全国28局ネット>の中で全編放送される。
“イタイイタイ病”の発見者である富山県婦中町の開業医・萩野昇医師は、患者の救済にあたりながら、“イタイイタイ病”を否定する見えない圧力と戦い、死去した。
その直後から、“イタイイタイ病”を歴史の陰に葬ろうとする動きが静かに潜行することになる。
動物実験結果の隠匿。ジュネーブにあるWHO(世界保健機関)でのドキュメント決定に際して日本政府代表をつとめる学者による執拗な反対。こうした中で、1人の動物学者が猿の実験データをもとに“真実の姿”を告発した。ところが、この学者は実験班をはずされ、同時にストックホルムで何とも奇異な学説が発表される。さらに日本国内には“日本の説”認められたという手紙が送りつけられてきたのだ・・・。
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
レラ菌、赤痢菌)を行う
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
●戦時下
大牟田爆発赤痢事件
隠蔽された企業犯罪、国家犯罪
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
日中全面戦争のさ中、軍機法改正、新聞紙法27条報道管制記事差止、軍需工業動員法、国民精神総動員実施要綱、そのような状況の中、721名の大牟田市民は殺され、企業も国家も一切の責任を問うことなく、真相を歴史の闇の中に閉ざしたまま今日に至っている。
三井鉱山三池染料工業所はひたすら毒ガス資材を増産、戦争中規模を拡大、日本有数の化学会社に、後に三井化学、三井東圧へと。
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
第5 条理に基づく謝罪及び損害賠償請求
3 戦争犠牲に対する日本の補償立法
(2)戦傷病者戦没者遺族等援護会
同法は、その国会審議経過や所管官庁関係者の解説によれば、「軍国主義的な日本の機構の中にあって当時の国家権力により軍務に服せられた個々の人々、である戦傷病者や戦没者は政府の行為による戦争の惨禍の犠牲者であるが故に、戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその援護をするという国家補償の精神に基づいて立法されたものと解することができる。
そうであれば、同じ政府の行為による戦争の惨禍の被害者として、日本人よりも更に大きな犠牲を払った植民地の人々に対しても、国家補償の精神に基づく同種の立法が夙(しゅく)になされて然るべきであった。
三月二十七日
僕の隣に座っていた若い娘―だけではつまらないが 其の顔は昔式なれどあくまで温和で物静かを表し 服装は目の色を覚ますような淡桃色の羽織にかけたショールは 白みがかった薄絹 満州では珍しい下げ髪にして 大きなショールと同色のリボンが静かな空気の中に時々揺れる。こんなに書いたなら日記の紙が足りないが致し方がない。ちょうど内地のミッションスクールの型だ。僕たちと一緒に首山で下りた
そして一緒と書きたいが一緒ではない すぐ後から同じように駅長が来た そして駅長に佐藤さんの家を聞いて出て行った。其の時に此の日記に書かれてある通り 首山の娘の名前もその外の有力な娘を。その名は佐藤公子さん 大して良くない 姉さんもある。これで謎の解けたような気がする 何分中隊の話を最初に知ったのは自慢じゃないが僕だ なんとおめでたい人間ではないか。
「ずっと父が嫌いだった」
その日はいつか
4
中学に入ったばかりの弟に弁当をつめてやり
それから小さい妹を
いつものように離れた町の親戚へ遊びにやって
がたつく家の戸に鍵をかけ
動員の自分の職場へ
今日も慣れぬ仕事に叱られに出た、
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
ノミの大量生産
細菌の毒力試験の生体実験を行った
篠塚良雄
731部隊・少年隊
(略歴)
1923年生まれ
1939年 少年隊に入隊(~43年)
1944年 徴兵により関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年 関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立師衛生部に混入
1952年6月 河北省永年県において逮捕される
1956年 帰国
■この証言は埼玉(浦和)731部隊展(1994年10月)の『報告集』よりまとめたもの。
解説ー細菌戦(森正孝)
細菌戦の被害状況
「防疫給水部隊」が細菌戦部隊という本来の姿を露わにするのは、つまり細菌戦を実施し始めたのは1940年代に入ってからである。とりわけ40年、41年、42年の3年間に集中して細菌戦は展開された。
このことは、既にハバロフスク軍事裁判の公判記録及び45年から47年にかけて行われたアメリカ軍の4次の調査活動報告によって概要を知る事が出来るが、近年出された中国側資料(中国中央档案館他編『細菌戦与毒気戦』の編訳本『証言・細菌作戦』〈同文館〉)、そして93年、吉見義明氏らによって紹介された日本軍参謀本部作戦課員、井本熊雄中佐の業務日誌〈『季刊・戦争責任研究2号』日本の戦争責任資料センター)などによって、細菌戦を被害・加害の両側面から確認できるようになった。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930
4 霧社事件
催涙ガス弾の使用
翌3日、渡辺台湾軍司令官は宇垣一成陸軍大臣に対し、住民が逃げ込んだ区域は断崖のある森林地帯なので「糜爛性投下弾及山砲弾を使〔用〕し度(たし)。至急その交付を希望す」と打電した。糜爛性ガス(イペリット・ルイサイト)投下弾・砲弾を要求したのである。これに対し、陸軍省副官は、糜爛性弾薬の使用は「対外的其他の関係上」詮議されなかったと、拒否の回答を伝達した。また、ガス弾に関する事項は、以後暗号を以てせられたいと伝えた。
海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
第13章 毒ガスは消えず
隠れた災難はなお消えず
1988年、つまり戦争が終わって43年の後、高橋さんは当時兵役に就いていたチチハル市を再訪した。星霜移り変わり、昔のチチハルはもはや存在せず、新興の工業と商業の街が高橋さんの前に姿を現わした。
当時化学部と練習隊があった地域も工場や住宅に取って代わられ、「南大営」という地名だけが戦争の頃の歴史を思い起こさせる。詳しく調べて、高橋さんはようやくに当時の部隊の旧跡を探し当てたが、すっかり様子が変わっていた。それでも高橋さんは、その当時捨てた毒ガス砲弾のことをまだ気にかけていた。あの場所は市の中心から十数 km しか離れておらず、しかも嫩江は黒竜江省の主要河川であるから、毒ガスが一旦漏れ出すと、どれだけ大きな危険を引き起こすことだろう。もちろん、幸いなことに、嫩江のこの区間では大型の船は通行しないので、ここで浚渫や清掃が行われたことがなく、このためここに捨てられた毒ガス砲弾に接触することもなかった。とはいえ、大きな危険が依然として存在しているのではあるまいか。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
釘うち拷問
残忍極まりない取り調べ
原田左中(はらださちゅう)
憲兵軍曹
〈旧部隊名〉
元関東軍第一特別警備隊第五大隊第一中隊
そしてその眼は一言も言わなかった自分を誇っているかのように輝いている。私は男より5メートルくらい離れたところに、右手に拳銃を握って立っていた。
「おい、博、しっかり警戒しろ、逃げたらお前も射ち殺すんだぞ」
「ハイ」博の声は震えていた。≪クソッ、たかが中国人1人殺すのにこれでも貴様は皇軍の儀表を誇る憲兵かッ≫誰かに怒鳴りつけられるような気がして、力んでみたが、ますます震えは大きくなり、膝頭ががたがた震えるのを押さえることができなかった。男は私の心中を見抜いているのか巨木のように立っている。「この野郎ッ、くたばりやがれッ」
「ダン」引鉄をを引いた。弾丸は男の肩先を貫き、血しぶきは男の顔を真っ赤に染めた。肉は飛び、真っ赤な血が傷口より噴き出し、胸を伝わって流れ落ち、真っ白い雪を鮮血に攻めた。≪しまった≫私は心の中でこう叫ぶと、第2弾目の引鉄に手をかけた。
男は顔を歪め、肩を吊り上げ、両足でしっかり大地を踏みしめ、大きく肩で呼吸している。呼吸するごとに肩の傷口よりドクッドクッと血が噴き出した。全身は怒りと憎しみにブルブルと震え、両眼をぐっと見開き、今にも飛び掛かってくるように感じられた瞬間、私は背筋に水を流されたように感じ、全身を何かに押さえつけられたような衝撃を覚え、全身ががたがた震え出した。
「クソッ、往生しあがれ・・・」
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
4 その他
(1)3月下旬、日米安保協議委員会が開催され、東南ア情勢についての検討が行なわれた。2項(3)号の状況は、その席上米側から説明されたものである。
(2)上記の他は昭和38年1月末現在の通りとする。
(3)極東における彼我の兵力、配置等は前述の他昭和38年度情報見積の通り。
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
(資料)
生物・化学兵器の効果についての報告書(大要)
1969年7月2日
1、この数十年間の科学と技術の進歩は生物・化学兵器の使用の可能性を高め、これを使用すれば、従来の戦争がもたらす以上の大規模な損害を与えることが出来ると考えられるまでになったことは、今日における脅威である。化学兵器の使用についての我々の知識は、ほとんど第1次世界大戦での経験によるものである。毒ガス兵器は1914年に初めて使用され、1915年の大規模なガス兵器による攻撃で5000人の人命が失われた。以来、1918年の終戦までの間に、少なくとも12万5000トンにのぼる有機化学薬品が使用されたとみられ、公式報告によれば、その被害は1300万人を越え、うち10万人が生命を失った。当時使用された薬品は今日使用できるものに比べ、はるかに毒性が弱く、神経性のものについては特に弱かった。更に毒ガスは比較的単純な戦場の概念に従って、今日に比べると原始的ともいえる道具によって散布されたのだった。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第3章 現実世界に向きあう
Ⅳ
皇后の反対を押しきつたあとは、政府と宮内官僚は、旅行の真の目的について内部で気がねなく議論できるようになった。皇太子が間もなく摂政に就任するのはいまや明らかだった。彼には外国の状況を知り、日本国民の新思潮に対処することが求められた。
ヨーロッパ大陸の大王朝は崩壊し、戦争は平和、民主主義、軍縮、独立の運動を世界に解き放った。反君主制の大勢のなか、日本でも確実に勢いを増している社会改革運動の力量に、彼は摂政として対処することになるのだった。また日本では、ナショナリズムや軍国主義や国家を軽視する新傾向が広まっており、それにも対処が必要だった。そのうえ彼は明治天皇の血筋の重要な「三代目」を体現する身であり、皇室が存続し繁栄するかぎりその地位をまっとうしなければならない立場だった。洋行の必要性は、このように内外の事情に促迫されたものであり、皇室の将来とその孤立に対する憂慮とも相まっていた。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
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地球を破壊する核実験
核兵器禁止条約
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署名国 署名日 批准日 (締約日)
ブルネイ 2018年9月26日
カーボベルデ 2017年9月20日
カンボジア 2019年1月9日 2021年1月22日
中央アフリカ共和国 2017年9月20日
チリ 2017年9月20日
水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●メアリーが伝えるヒロシマ
●核実験の人体実験
●核被災と核兵器禁止条約