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『満洲天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶
第5章 ソ連参戦と731部隊の撤退
1 証拠隠滅
4月5日、日ソ不可侵条約の不延長通告がなされた。翌月8日、ナチス・ドイツ軍が降伏し、3ヵ月後にソ連の対日作戦は開始された。
ソ連侵攻をした軍部の動きはどうだったのか。『新版ー悪魔の飽食』(森村誠一、角川書店、1988年)、『731』(青木冨貴子、新潮文庫、2005年)、『731免責の系譜』(太田昌克、日本評論社、1999年)と照らし合せながら、1945年8月9日から15日まえを731部隊長石井四郎の行動とともに追う。また本章では、731部隊とは平房本部だけでなく、各支部や研究所に至るまでをいう(以下、著者名のみで簡略に表記)。
満蒙開拓団
「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」
日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第2章 地図から消えた神秘の大久野島
最初の毒ガス被害者
しかも、平常は少々のけがでは休むことはできず、作業員にとって入院はただ1つの休息の機会であった。だが、彼らの病状が少しでも好転すれば、すぐに職場に戻って仕事を続けなければならなかった。けがをした人が退職を希望しても許可されることはまずない。あるとき陸軍大将林銑十郎が作業所を視察した。彼は、ここで、中島義巳ら3人が上半身裸で仕事をしているのを見た。作業員の体にはたくさんの傷跡があり、彼らの顔は案黒色で、視野が減退し、陰部は潰瘍となり、歩くことにも困難が伴う程だった。しかし当時このようなことは決して珍しくはなかった。これらの作業員は、事情はどうあれ、自分たちの生産している毒ガスの最初の被害者は、自分たち自身であるということを、全く考えもしなかったのである。
日本鬼子のおきみやげ
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
■731部隊以外でも
―731部隊・「石井機関」以外では、どのような罪悪がくりひろげられていたのでしょうか。
以下のような事実が明らかになりました。
1945年の5月から6月にかけて、九州帝国大学医学部第一外科の石山福二郎教授やその弟子たちが、撃墜されたアメリカ軍B29の搭乗員捕虜8名を手術実験で殺害した「九州帝国大学医学部事件」。1941年1月31日から2月11日にかけて内蒙古で、中国人を手術材料と称して用い、凍傷、テントでの手術、止血、輸血などについて研究する野外演習を行った「冬季衛生研究」。各地の陸軍病院での「手術演習」。台北帝国大学医学部(1928年3月16日、勅令第30号による台北帝国大学の設立。1936年1月1日医学部設置)における「現地人44名の生体よりマラリア脾腫(ひしゅ)を剔出(てきしゅつ)して材料とした研究」。京城帝国大学医学部(1924年京城帝国大学開学、1926年5月医学部設置)にみられた植民地支配、医学のもつ植民地支配上の効果を期待して設立された満州医科大学(1911年に南満鉄道株式会社が創立した南満医学堂が前身、1922年に満州医科大学に昇格)の解剖学教室の「生体解剖」がありました。そのほかにも、占領地の大学や研究所以外における「非人道的な人体実験」、植民地における本邦よりも過酷な「ハンセン病対策」、将兵への伝染を防ぐための軍用「慰安婦」の性病罹患検査など軍医による「慰安所の衛生管理」などもあげられます。
●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳
■公然と
86 ベルリン軍事医学アカデミーの行った様々な毒ガスを含む『化学兵器による負傷』(編者はヴィルト教授)に関する写真集の表紙と、収録されているカラー写真。強制収容所の人体実験で軍医たちによって撮影されたこの写真は写真資料として医師たちに利用された。
この写真の一部を撮り、人体実験を利用したヴォルフガンク・ヴィルト、シュパンダウ城塞の軍事医学アカデミーの薬理。毒物学研究所所長であった。1944年に、デュッセルドルフ医学アカデミーは彼を嘱託教授に任じ、彼はバイエル社薬理研究所理事になった。ヴィルトは1973年パウル・マルチニ賞金賞を授与されている。彼の代表的著書は1985年にティーメ社から刊行された『医師・自然科学者・薬剤師のための毒物学』(第4版)である。
知ってるつもり「731部隊と医学者たち」
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Ⅳ
侍従武官長の奈良から陸海軍の規律の低下について聞いていながら、天皇は両軍内の派閥抗争、軍人間の対立、分裂の拡大という問題を放任していた。陸軍の上層指導者は職業将校団に対する統制の手をゆるめ、将校は階級を問わず上層部の権威を論難し、政党が日本の国防をあやうくしているという流言を社会に広めた。これに対する天皇の対応は、争いを避けることだった。彼は反抗的な海軍軍令部への対応を侍従長鈴木にまかせ、陸軍の不服従を抑える責は奈良に負わせた。彼はまた奈良に命じて、ロンドン海軍条約の批准に同意するよう東郷に圧力をかけさせた。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
憲法9条を生かそう!!
731を問う!!
2018年11月12日月曜日
戦争における医学者・医師たちの犯罪
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特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
■「医学犯罪」検証のとりくみ
本誌では、一2007年9月号特集「戦争体験をどう継承するか」において、莇(あざみ)昭三(城北病院名誉院長・全日本民医連名誉会長・15年戦争と日本の医学医療研究会名誉幹事長)先生に「15年戦争中の『医学犯罪』と私たちの今日の課題」を執筆していただきました。一昨年、政府与党は安保法制の採決を強行しました。
防衛省では、安全保障技術研究推進制度が導入され、一昨年(2015年)には3億円の予算の配分が開始され、昨年は6億円、今年は110億円と急激に拡大されました。
敗戦を契機として、まき起こった学術体制の民主的改革を求める運動の中で1949年に創立された日本学術会議では、1950年の「戦争のための科学研究には従わない声明」、1967年の「軍事目的のための科学研究を行わない声明」と、2度にわたって戦争や軍事目的のための研究を拒否する誓いの見直しの動きが出るなど、軍事研究復活の動きが風雲急を告げています。
そこで、莇先生の論考以降の医学界・医療界における取り組みを踏まえて、 15年戦争中の「医学犯罪」について、いろいろ伺いたいと思います。
今言われた一昨年からの情勢の変化を私も大変危険だと思つています。15年戦争中の「医学犯罪」を論じる際にも、その視点が重要だと思います。
その際も、 莇先生の論考を継承すべきと考えます。
その後の活動と検証結果を一言では語れませんので、その都度、書などにまとめられて公表されているものをお読みいただきたいと思います(以下に掲載)。
[参考となる本]
第27回日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会編『戦争と医の倫理』(かもがわ出版、2007)、
「戦争と医の倫理」の検証を進める会『パネル集「戦争と医の倫理」』、
15年戦争と日本の医学医療研究会編では『N0 MORE731 日本軍細菌戦部隊』(文理閣、2015)、
同『戦争・731と大学・医科大学』(文理閣、2016)、
拙著『戦争と医学』(文理閣、2014、中国語版有)、
川嶋みどり共著『戦争と看護婦』(国書刊行会、2015)など。
■「医学犯罪」の舞台はどうつくられたか
―医学界・医療界、医学者・医師は、先の戦争にどのように加担したのでしょうか。また、731部隊をはじめ、どのような規模で、どのような形でおこなわれていたのでしょうか。
「戦争医学犯罪」というと「731部隊」と思われがちですが、私たちは、そのような予断を避け、解明しようということで始めました。
2000年に15年戦争と日本の医学医療研究会(略称、戦医研)が発足した当時、先の戦争、すなわち1931年から1945年8月の日本敗戦(ポツダム宣言受諾) に至るまでの15年戦争の間における史実解明の課題として、
①日本の医学医療の軍事化の経過、
②医学医療の軍事化に積極的に協力し、進めた学会・医学者、そして協力を拒否した人々の経緯、
③研究テーマの軍事的な制約、 戦時体制からくる研究費・研究体制の制約による医学医療の歪み・停滞、
④欧米諸国との交流の断絶による日本の医学医療の停滞、
⑤戦時体制による日本の医療の崩壊をあげました。
その後の調査研究で、日本の医学者・医師らが主に海外の地で、何万人ともいわれる人々を、様々な実験の材料や手術の練習台にして殺害した主たる舞台となったのは、 石井四郎(1920年、京都帝国大学医学部卒業)が組織した、731部隊をはじめとする軍事医学研究機関のネットワーク(「石井機関」ともいわれる)だけでないことを明らかにしました。さらに、日本の医学界・医療界、医学者・医師の戦争加担を間題にする際、731部隊を抜きにして語ることはできないことや731部隊はかつての日本の医学界・医療界における最悪の戦争医学犯罪であることを明らかにしました。
■731部隊による人体実験・細菌兵器使用
―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。
731部隊は、現中国黒竜江省の省都・哈爾浜市近郊の平房に、 1939年頃までに完成した細菌兵器開発の一大軍事基地にありました。731部隊では、実験材料にされる人々は、特別に定められた「特移扱」と呼ばれる手続きで憲兵隊により供給されて、「マル夕」と称されていました。敗戦までの5年間に少なくとも3000名が送り込まれ、生存者はいませんでした。21世紀になって、中国では、証拠隠減の焼却跡から発掘された憲兵隊の「特移扱」資料の調査が進み、300名以上の氏名が判明しつつあり、被害遺族からの訴えも出始めました。
2007年4月までに確認できた罪悪としては、ヒトを「サル」と偽って日本病理学会でも発表された「流行性出血熱感染実験」、米国で見つけられた、731部隊のデータを手に入れた米軍の報告書に記されていた炭疽、ぺスト、チフス、パラチフスAおよびB、赤痢、コレラ、鼻疽の「細菌感染実験」(被験者の50%に感染を引き起こす病原体の最小量も記されている)、「凍傷実験」、「水だけを飲ませる耐久実験」、「ぺストワクチン実験と生体解剖」、「毒ガス兵器の野外人体実験」、「毒物の経口摂取・注射の人体実験」、「細菌兵器の実戦使用」があげられます。
731部隊による人体実験や中国各地の細菌兵器の実戦使用による被害者や遺族の一部は、日本国を相手取って謝罪と賠償を求めるために日本の裁判所に提訴しました。中国人180人が原告となった731部隊細菌戦被害国家賠償請求訴訟(1997年提訴)では、最高裁判所が2007年5月9日に国家無答責(当時は国が戦争被害について賠償する法律は制定されていなかったこと) を理由にして上告を棄却し、原告の敗訴が確定しました(www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/795/005795_hanrei.pdf)。損害賠償の請求は認められなかったのですが、 「細菌戦の事実の有無について」「は原告らが立証活動をしたのみで、被告は全く何の立証(反証)活動もしなかったので」「制約ないし問題があることを認識しつつ」証拠に基づき第一審が判決で示した戦争医学犯罪の事実の存在の認定は確定しました。
2011年には、細菌兵器による攻撃についての新資料「陸軍軍医学校防疲研究報告」の第一部60号が見つけられました。同報告では、1940~42年に中国で、731部隊が行った6つの作戦をとりあげ、使用したぺスト・ノミの量と感染者数や結果に基づいて計算した作戦効果(ぺスト・ノミ使用量別の致死数)をまとめた表が示されています。同表の結果は、裁判で認定された、損害の発生した日や場所と辻褄が合うものした。新資料は、これまで「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府に根拠がないことを暴露するものであったのです。
2015年には、731部隊の跡地で心臓部ともいわれていた建物「ロ号棟」の基礎部分(東西170m、南北140 m四方)の中国による全面発掘が完了し、新館の展示スペースとともに8月15日に公開されました。この発掘は、元731部隊員の証言に基づいて作成された平面図を実証したもので、「ロ号棟」の存在が戦後70年にして白日のもとにさらされました。
■731部隊以外でも
―731部隊・「石井機関」以外では、どのような罪悪がくりひろげられていたのでしょうか。
以下のような事実が明らかになりました。
1945年の5月から6月にかけて、九州帝国大学医学部第一外科の石山福二郎教授やその弟子たちが、撃墜されたアメリカ軍B29の搭乗員捕虜8名を手術実験で殺害した「九州帝国大学医学部事件」。1941年1月31日から2月11日にかけて内蒙古で、中国人を手術材料と称して用い、凍傷、テントでの手術、止血、輸血などについて研究する野外演習を行った「冬季衛生研究」。各地の陸軍病院での「手術演習」。台北帝国大学医学部(1928年3月16日、勅令第30号による台北帝国大学の設立。1936年1月1日医学部設置)における「現地人44名の生体よりマラリア脾腫(ひしゅ)を剔出(てきしゅつ)して材料とした研究」。京城帝国大学医学部(1924年京城帝国大学開学、1926年5月医学部設置)にみられた植民地支配、医学のもつ植民地支配上の効果を期待して設立された満州医科大学(1911年に南満鉄道株式会社が創立した南満医学堂が前身、1922年に満州医科大学に昇格)の解剖学教室の「生体解剖」がありました。そのほかにも、占領地の大学や研究所以外における「非人道的な人体実験」、植民地における本邦よりも過酷な「ハンセン病対策」、将兵への伝染を防ぐための軍用「慰安婦」の性病罹患検査など軍医による「慰安所の衛生管理」などもあげられます。
2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■731部隊と大学
―今述べられた罪悪とのかかわりで、 とりわけ大学医学部は、どのように戦争に加担していたのでしょうか。大学研究の戦争への加担という点で、特徴的なことはあるのでしょうか。
まず、731・「石井機関」に特にかかわる戦争加担についてお話しください。
731部隊などには、軍医将校の他に「技師」という身分の医学者がいました。 彼らは京都大学医学部の細菌学教室・生理学教室・病理学教室、東京大学伝染病研究所、慶応大学医学部細菌学教室、金沢医科大学細菌学教室等の出身です。2008年に出版された『京大医学部病理学教室100年史』で紹介された「石井発言」では、教室、学部、大学として組織的関与に発展していった様子が如実に語られていることが明らかになりました。筆者の請求によって「要審査」が解かれ公開された国立公文書館の留守名簿は目下解析中で、731部隊・「石井機関」にかかわる新たな人物が明らかになると思われます。
「石井機関」の中枢的役割を果たしていたとされる陸軍軍医学校防疫研究室の報告書「陸軍軍医学校防疫研究報告第二部」には共同発表者や論文指導者に大学の研究者の氏名が多く見られます。これらの研究者は「嘱託」という身分であり、その所属は東京大学、慶応大学、長崎大学、京都大学、大阪大学、金沢医科大学、北里研究所、北海道大学、干葉医科大学等でした。また「指導教官」という名目で東大教授、慶応大学教授、干葉医大教授等が名前を連ねています。さらに、防疫研究室の「委託研究」を行っていた教授の教室に所属していた医学者たちは陸軍軍医学校防疫研究室や731部隊関連の研究に組織的にかかわっていたと言えます。その他に論文末尾に「謝辞」を受けている研究者も多数いました。 陸軍軍医学校は博士の学位の授与を認められていなかったことから、731部隊関係者の学位授与の審査は先ほど述べた大学医学部や医科大学などで行われ、大学の総長や学長から出された申請を受けて文部大臣が学位授与を認可していたことが明らかとなっているのです。
日本病理学会総会では731部隊関係者が「特殊研究」、ヒトを「サル」とした研究報告がなされていました。多くの医学者たちはそれが何かを知っていたと思われます。戸田正三京都大学医学部長や正路倫之助教授【京大教授のまま佳木斯(ジャムス)医科大学教務主任、生理学教授に赴任)】は当時たびたび満州に出向いていました。また、恩師である京都帝国大学医学部病理講座教授で石井の指導教授でもあった清野謙次や名古屋医科大学医学部細菌学教授の鶴見三三も平房に招待されていました。官立金沢医科大学の定例教授会記録(1942年1月19日)には、第2病理学講座の後任教授選考に当たっての「京都には尚石井と一言う人ありて研究も大に宜しく石井部隊におらるる由なるが--相談を持て行かば承諾を得んかと思う--」という学長発言が記録されていることから、「石井部隊」という名称が一般に使用されていたことが伺われます。
京都帝国大学医学部同窓会誌には、「本学が生んだ巨人、学を以て国を護る熱血の人、石井四郎陸軍々医少将閣下(大9=大正9年卒<西山注、1920年>)は、4月19日午前5時59分入洛、故渡邊助教授の遺族に部隊長としての誠心あふれる弔慰を棒げた後、翌20日懐かしの母校に卒業後21年ぶりに来学、堂々たる体躯に親愛の情をこめて、日曜にもかかはらず、内科講堂を立錐の余地なきまでに埋めた学生・生従・職員は勿論、小川学部長、松本教授以下の各教授を前に、諄々として熱烈に、日本の進むべき道、医学の行くべき道、京大学風の趨(おもむ)くべき道を説くのであった」という記述があります。
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか
文部省科学研究費(1918年創設)の重要項日として採用された医学分野の題目や新たに大学に附置された医学研究所にも軍事化の傾向がみられました。学術研究会議(1920年設立)には科学研究動員委員会が設置され、多くの戦時研究班を擁していました。1942年には、日本の東南アジアへの侵入と符号して「日本人の南方に於ける生活に関する科学的研究」が総合課題とされ、関連分野の5カ年共同研究計画となっています。昭和恐慌を契機に1932年に設立された「日本学術振興会」も、1937年頃から軍部や商工省の意向に沿つて、次第に国策的研究をすすめる機関(医学・衛生学は第8部門)となりました。
日本医学会(1902年設立)は、ほぼ4年に1回、全国の大学医学部・医科大学・医学研究機関の医学者が参集する医学会(1948年に、日本医師会の改組設立に伴い、日本医学会と日本医師会は統合。戦後は、「日本医学会総会」として)を開催しています。この医学会も戦争動員の場となりました。第9回(1934年、東大)では「石井式無菌濾過機」や陸軍の衛生車、衛生飛行機などが陳列されるなど、軍部の影響が如実に出始め、第10回(1938年、京大)は、陸軍省医務局からの強い要請を受けて、特別に「戦時体制下医学講演会」のテーマで「軍部と医学会が提携して医学報国の大旆(たいはい)」をかかげて開催され、総会招待講演ではナチス・ドイツ軍の将校が毒ガスの講演を行い、第11回(1942年、東大)の主題は、「戦場医学の確立」と「大東亜医学会」を結成する機運を助成することとされ、「戦場医学」と称された演題が次々と発表されました。
病理学、細菌学、外科、内科等の学会でも、戦争関連の論文発表が増えました。このような機運が高まる中で、「戦時中においては、学会(協会)の総力を動員して、後方戦力の労働力の確保に大いに貢献するところがあった」と言われた日本産業衛生学会(1927年)、ハンセン病患者の絶対隔離を求めた日本癌病学会(1927年)、「生命の根本を、浄化し--国家を繁栄せしむ--」との趣旨を掲げた日本民族衛生学会(1930年)等が設立されました。
1938年の日本の全医師数は6万3000人弱でしたが、軍医の損耗度が高いとして、1942年度までの軍医需要を3万人とし、さらに1943年度以降の大需要を5万人との見積もりで、1939年度から大学医学部・医科大学における3年の修業年限の臨時付属医学専門部の強行設立が始まりました。敗戦時までに新設医専は帝大、官立、公立、私立あわせて51校に達しました。そのうち「外地」は7校でした。
医学教育の軍事化・医学生の戦時動員もあげられます。1939年から、軍事教練が全大学の学部学生の必修科目となり、医学部でも、現役の配属将校による軍事教練が課され、軍事講習の授業も実施され、軍隊内の衛生・防疫および戦傷について学ぶ軍陣医学(現在の軍事医学にあたる)の講義も行われました。同年より、「学生衛生部隊」が全国の大学医学部の学生により組織され、夏季休暇時等に各地に「衛生調査」等の名目で派遺されました。
■さらなる戦争加担を邁進
―戦時下、医療界は、どのようにさらなる戦争加担に邁進していったのでしょうか。
1942年2月、従来の医師法などを改正し制定された「国民医療法」は「国民体力の向上を図るを以て日的」(第1条)とし、「富国強兵」策を遂行するための方策(開業の制限、新卒医師への動務地の指定、医師の徴用制度、無医地区での公営医療機関の設置、医療機関の整備統合など)を掲げました。さらに従来の医師の任務は「医事衛生の改良発展を図る」というものでしたが、この「国民医療法」の第3条で「医師及び歯科医師は国民体力の向上に寄与するを以てその本分とす」と明記し、国の方策遂行に寄与するという新しい任務を規定しました。
医師会はかねてより戦争への協力姿勢を取っていましたが、1942年に改組され、いわゆる「官制医師会」が創られました。医師会の規約では、日本医師会の会長は厚生大臣の指名制となり、日本医師会の総会は道府県医師会会長と特別議員で構成するとされ、国策への協力が医師会の大目標とされました。国民体力管理医、健民修練所指導医、「産業戦士に対する優先受診方実行」と「重要工場事業所の医療保健への協力」、動労報国隊員の健康管理、健民運動耐寒心身鍛錬への協力、町内会の耐寒心身鍛錬への協力などが次々と下部医師会に指示されました。「国民体力ノ向上二関スル国策二即応シ医療ノ普及ヲ図ルコト」を目的とする日本医療団も1942年に創設されました。
看護師は戦時召集令状で応召義務を課せられ従軍看護婦として戦地に派遺されましたがその大部分は日本赤十字社からでした。
3、戦後、日本の戦争医学犯罪は裁かれなかったのか
■隠蔽・極秘取引・タブー・無視と検証・克服
―これらのことについて、戦後の医学界・医療界、医学者・医師はどのように向き合ってきたのでしょうか。団体の動きや、個人の発言などもふくめて紹介してください。
おもに731・「石井機関」にかかわる当事者の去就について述べます。
1945年8月15日の日本の敗戦以前に、当時の日本政府と軍部は国際的な非難を恐れ、「国体護持」のため、731部隊の証拠隠減を工作しました。
ドイツの医学者・医師が裁かれた1946年12月9日から1947年8月20日にかけて米国が単独で担当したドイツ・ニュルンべルクにおける医師裁判と異なる経緯をたどりました。日本では、米国の細菌戦研究におけるソ連からの立ち遅れを克服するために、「米国への731部隊のデー夕提供と引き換えに、関係者の訴追を免責する」という極秘の取引が連合軍総司令部(GHQ、実体は米軍) と731部隊トップとの間で交わされたのです。731部隊に関係した医学者・医師は、公に露わにならず、そのほとんどが、何食わぬ顔で医学界・医療界に留まり、悪弊を断ち切ることなく、戦後の医学界・医療界などの重職につき、中には叙動、までされました。
1946年に設立された民主主義科学者協会、新日本醫師聯盟(後に新日本医師協会、通称新医協に発展的に解消)などでは、科学者のみならず教育者、知識人の戦争協力について調査し戦犯者として摘発、追放しなければならないという意見がひろく起こっていました。当時の新医協機関紙の調査により、防疫給水部の名で呼ばれ、細菌爆弾やいろいろの細菌謀略のために少なからぬ細菌学者や病理学者が研究に参加し、その間非道な人体実験が行われ、また部分的に実戦に使用されたことは、軍医として徴集された多くの医師が知っていたこともわかりました。
ソ連では、捕虜とした731部隊員たちに対して独自に裁判(ハバロフスク裁判、1949年12月)が行われ、その公判書類の日本語版は1950年には日本でも入手できました。日本の国会でも、1950年3月1日の衆議院外務委員会における聴涛克己(きくなみかつみ)議員のハバロフスク裁判に関わる質問がなされましたが、当時の法務大臣は「さような事実があったといたしましても、 ただいま申し上げました通り、それは連合国で処置されるのでありまして、日本国みずからが自分の戦争犯罪について判断することも処置することもできないのであります」などと答弁し、真摯に向き合いはしませんでした。中国でも、1956年に捕虜の731部隊員に対する特別軍事法延での裁判が行われました。しかし、これにも日本の医学界・医療界、政府は向き合いはしませんでした。
戦中だけではなく戦後にも陸軍軍医学校防疫研究報告が医学博士の学位授与のための論文として提出されていたことも明らかにされました。さらに2012年に着手した、京大や東大の学位授与記録の調査では、731部隊と関係が深かった諸教授が戦後も学位審査委員として学位授与に関与したことなどが明らかになりました。前述した2011年に明らかになった細菌兵器による攻撃についての新資料は、元部隊員が学位授与(1949年)に際して提出した論文の一部で、主査は、戦中に東大の伝染病研究所で指導に当たった教授で当時、医学部長、日本医学会会長でした。京大の学位授与記録調査では、1959年9月になっても学位が授与されており、その主査および副査2人中1人は元部隊員で戦後京大医学部教授になった人物でした。
日本医師会は、日本医師会年次代議員会(1949年3月30日)で「日本の医師を代表する日本医師会は、この機会に、戦時中に敵国人に対して加えられた残虐行為を公然と非難し、また断言され、そして時として生じたことが周知とされる患者の残虐行為を糾弾するものである」 という声明文を決議して世界医師会(第1回総会、1947年9月18日)への加盟が認められました。しかし、日本医師会は731部隊問題については声明文の決議で解決済みとして、自ら検証をすることを怠り、現在に至っています。
世界医師会は、権力に屈して医師の使命に背反したナチ医学の過ちを繰り返すまいということで、1948年9月にスイス、ジュネーブで開催された世界医師会第2回総会で採択したジュネーブ宣言 (2006年までに5回改訂) では「私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける。また、人間性の法理に反して医学の知識を用いることはしない」を明示しました。日本医師会も1951年に「医師の倫理」を定めたのですが、「医師は、正しい医事国策に協力すべきである」という、ジュネーブ宣言とは程遠い規定が盛り込まれていました(2000年に「医の倫理綱領」に改定)。
その後、731部隊関係者の多くが役員になり、戦中開発した技術の応用で起業(朝鮮戦争勃発5カ月後の1950年11月)した「日本ブラッドバンク」(1964年に「ミドリ十字」に社名変更)は、血液製剤による肝炎や薬害エイズの問題を惹き起こしました。
■発足当時の学術会議における戦争医学犯罪の検証
―世界でも類例のない公選制で選ばれた日本の科学者の議会ともいわれる日本学術会議は1949年の「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)」で「これまでのわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、 科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓う」と述べています。そこでは、戦争医学犯罪についてはどのような反省がなされたのでしょうか。
日本学術会議は日本の科学者の内外に対する代表機関として、新たに7分野に分類された全国の科学者の分野ごとの無記名投票により選出される210 人の会員で構成されることなどが日本学術会議法(1949年7月10日制定)で規定されていました。
昨年着手した創立の頃の日本学術会議に関わる調査では、敗戦後の平和と民主主義を希求する情勢のなかで、日本学術会議でも学術体制の平和的・民主的改革を求める努力がなされたのですが、それに対して731部隊関係者らが異議を強硬に主張していたことが見えてきました。
学術会議総会議事速記録を閲覧したところ、第1回総会で、国会議事録のような議事録を作成するという提案が否決され、以降の長きにわたって学術会議総会の公式の議事録が作成されていないこと、当初議事概要が作成されていたものの第8回以降途絶えたことが明らかになりました。
第1回総会の「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)」の審議経過では、731部隊関係の会員らが「これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し」のくだりに「戦争中」あるいは「戦時中」を入れる提案に対し、「すでに国家が戦争になってしまったならば戦争に協力し、 科学者が国家のために尽くすということは、一面から言うと当然のことであります」「憲法によってすでに戦争を放棄し、将来戦争というものは、 われわれ国民にとっては全然問題外のことであって、将来戦争ということを考えてこういう声明をする必要はない」などと猛反対し、賛成少数で否決にいたっています。
1950年4月28日の第6回総会では「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」が採択されました。その時も「日本の科学者も戦争を感知せざるを得ない情勢に立ち至つている」という中段の提案は、彼らの口火で、「戦争が非常に近いと言うことはいったいどういう根拠があって言っておるのか」などの議論となり、削除されました。その2ヵ月後に朝鮮戦争が起こりました。
また、1952年の第13回総会では、「細菌兵器使用禁止に関するジュネーブ条約の批准を国会に申入れる」提案に対して、「現在日本では戦争を放棄しているのだから、戦時に問題になる条約を批准するのは筋違い」「4,50年も前に解決している問題でありまして、今日ほとんど実用になりません」などと反対し、賛成わずかで否決されています。
―731部隊に属していた医師・医学者自身の特徴的な証言はあるのでしょうか。
731部隊に属していた医師で、当時のことを自著で表している者は少数です。吉村寿人元731部隊技師(京大医学部卒、戦後京都府立医大学長などを務める)は「私が属していた部隊に戦犯事項があったことが最近、森村誠一氏の『悪魔の飽食』に記載され、それがべストセラーになった為に国内の批判を浴びる様になった。<中略>個人の自由意志でその良心に従つて軍隊内で行動が出来ると考える事自体が間違つている。<中略>個人の良心によって行動の出来る様な軍隊が何処にあるだろうか。<中略>私が戦時中に属していた部隊において戦犯行為があったからとて、直接の指揮官でもない私が何故マスコミによって責められねばならないのか、全くのお門違い」などと弁明しています(『喜寿回顧』吉村先生喜寿記念行事会、1984年)。これは、ニュルンべルク裁判では退けられた、被告の弁明「医師たちは人体実験を行わなければ生命の危険にさらされたかもしれない」 「医師たちは命令に従っただけである」と同類にほかなりません。
敗戦直後から医学界・医療界の民主化に奔走した秋元寿恵夫医師は「これまで、40年近くになる長い間、第731部隊が犯した戦争犯罪については、問われれば答えるが、 あえて自分から何もいうまいという態度を取り続けてきた」としながら、1982年に自著『医の倫理を問う第731部隊の経験から』において、「血清学者として石井部隊に勤務した者が、今なお深い罪の意識を背負いながら、戦争と癒着した医学研究の恐ろしさを告発し、医の倫理とは何かを問う」ています。
湯浅謙医師による、中国太原の陸軍病院で行った生体解剖の証言は、極悪非道な医師の行為が731部隊だけではなかったことを明らかにしました。
4、ドイツではどのように向き合ったのか
■二ュルンぺルクにおける訴追
―ところで、医学の戦争への加担ということでは、世界で、とりわけドイツではどのように向き合ったのでしょうか。
ナチス・ドイツ政権下における医学者・医師の非人道人体実験には、超高度(標高20000mに相当する低気圧)、低体温、マラリア、毒ガス、サルファ剤等の薬品、骨・筋肉・神経の再生および骨移植、海水飲用、流行性黄だん(肝炎)、断種、発疹チフスなど、毒物、焼夷弾治療、障害者の「安楽死」、仮病対策、電気ショック、子宮癌の早期診断法、双子の利用、肝臓移植、血液確定、敗血病などに関する実験がありました。これらがドイツでは裁かれました。
1947年米国主導で、ニュルンべルク国際軍事裁判における医師たちの訴追は「共同謀議」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「犯罪組織への所属」の4点にわたって行われました。被告弁護側の抗弁・反論は、検察側のヒポクラテスの誓いなどを典拠にして断罪され、許容できる人体実験の条件が判決で示されました。これが「ニュルンべルク綱領」です。「ニュルンべルク綱領」は、前述のジュネーブ宣言や1949年10月にロンドンで開催された世界医師会第3回総会(1949年10月)で採択された国際医倫理綱領(2006年までに3回改訂、「医師の一般的な義務」の4項目には「医師は、患者や同僚医師を誠実に扱い、人格や能力に欠陥があったり、欺まん、またはごまかしをするような医師の摘発に努めるべきである」という規定がある)、1964年6月フィンランド、ヘルシンキで開催された第18回世界医師会総会で採択され、以後、人体実験に関する倫理規定の基本をなすヘルシンキ宣言(2013年までに9回改訂)の基礎となりました。
1970年代頃からはベルリンの医師たち自身が、かれらの職能団体にたいして、 ナチズムの中で医師層が果たした役割に批判的立場を示すことを要求しました。1988年にはベルリン医師会が圧倒的多数で「ナチズムの中で医師層が果たした役割と忘れることのできない犠牲者の苦しみを思い起こす」という声明を出し、1989年にベルリンで開かれたドイツ医師会年次大会では、 「ワイマール共和国時代とナチズム時代の医学」というテーマで展示会が行われ、『人間の価値―1918年から1945年までのドイツの医学』(邦文版、風行社、1993年)が刊行されました。
ところが、私が2002年に、同書の著者と面談した際には、「世界医師会に西ドイツ医師会が加盟する際に約束した医師会会員へのジュネーブ宣言の配布は実行されずに放置されていた」「日本ではドイツが進んでいるかのように言われるが、遅々たるものだ」「ドイツ医学界の重職には元ナチ党員が多数を占めていた」「1994年には、ドイツ医師会会長歴(西山注:1973~1977年)があり、9年間務めていた世界医師会の財務理事(西山注:2010年7月、逝去)が辞任に追いやられたが、それはナチ親衛隊将校で戦争医学犯罪を犯したことが暴露されたから」「彼を推薦し、サポートし続けたドイツ医師会長が後任(西山注:1999年迄、以降名誉会長で現在に至る)」と聞きました。
■ドイツのとりくみと困難
―それにしてもドイツの方が日本より進んでいると思われるのですが、日本との関係で見ておかなければならないことはあるのでしょうか―
ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)は、2010年11月26日に、70年間の沈黙を破り約3000人の精神科医が参加した追悼集会が開催され、ナチス時代に精神科医によって25万人以上の精神障害者が死に追いやられたことを認める追悼講演を会長が行い、精神医学や学会としての思想や組織のあり方を振り返り、「施設的および個人的な罪や精神科医および専門学会の巻き込まれ」を問題にしました。
2012年5月にはニュルンべルク医師裁判が行われた地において開催されたドイツ医師会年次大会が、全会一致でナチ時代の医学犯罪について重大な共同責任を認め、ドイツ医師会の中に歴史研究を行う委員会を設けるという声明が出されました。
自らの過ちに関するDGPPNのドイツ内外での移動展示は、紆余曲折がありましたが、2015年に日本でも開催され、その間に2010年当時のDGPPN会長の講演も行われました。
5、いまどんな議論が必要か
■日本ではまだ広く知られていない戦争医学犯罪
―現在、日本では、どのような議論がなされているのでしょうか。また、いま、軍事研究への大学や研究機関の動員という問題が大きな問題となっているときに、どんな議論がなされる必要があるとお思いですか。
日本の医学者・医師の先の戦争における医学犯罪があまりにも知られていないことがまずあげられるでしょう。
ナチス・ドイツの戦争医学犯罪のように国内外で、あるいは医学界・医療界で議論が広く活発に行われているかというと、残念ながらそうではありません。
私たちは、その都度論点整理をしながら、問題提起をし、それなりの前進があったと思いますが、国の内外あるいは医学界・医療界で世論を動かすほどにはいたっていないように思います。
国際的には、前述したように、米国政府が、極秘の取引により共犯者となり、隠蔽してきた歴史があります。ナチス・ドイツの戦争医学犯罪の検証が進められているドイツでも日本の戦争犯罪・人道に反する罪についてはほとんど議論にはなっていません。
日本の医学界・医療界が60年以上隠蔽し、今もって自省の動きが見られないというのは国内外の世論、議論の程度や国が戦争責任を果たしていないことを反映しているともいえます。
しかし、ナチス・ドイツの戦争医学犯罪を踏まえて、世界医師会はジュネーブ宣言や医の国際倫理綱領で「医師は、常に何ものにも左右されることなくその専門職としての判断を行い、専門職としての行為の最高の水準を維持しなければならない」などの条項を採択し、「患者の人権擁護」のためには患者、医師、医師会、それぞれの自律が必要だとしてきました。このような国際的に普遍的な考え方にたつならば、国政の如何などとは関係なく、日本の医学界・医療界が自省の議論を尽くす必要があります。
「戦争と医の倫理」の検証を進める会が2012年に京都大学で主催した国際シンポジウムに参加したドイツの精神科医は「ドイツでは過去との関わりをできるだけ回避しようとする動きがずっと以前から一般的で、ニュルンべルク裁判は要するに勝者の恣意による判決だ、という乱暴な考えさえ多くの所で出ている」「ニュルンべルクは扉を開けた。しかし、研究の倫理への道、医学の社会的責任への道はまだ遠く、なすべきことはまだ多い」などと書いています。
第27回日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会が、2007年4月に国際シンポジウムを主催した際に、招いた米国の生命倫理学者は「過去の世代の不正は、それがとりわけ隠蔽された場合には、現在の世代の重荷としてそのまま残されると言えます。731部隊の場合、米国が一度日本の科学者たちとこのような取引をしたために、日本が抱えていた秘密が、我々の抱える秘密にもなってしまいました」「調査を行い、過去に何が起こったのかを誠実に、率直に、正確に報告することによって、そして過去と対峙することによって、我々は常々持ちたいと望んできた価値観を肯定するのです。最も重要なのは、そうすることによって、過去との共犯関係から若い世代を解放し、過去の不正に対する責任を負う必要をなくすことです。隠蔽や共犯の伝統を保持するよう若い世代に求めるのではなく、代わりに彼らをこの責任から完全に解放することです」と述べました。
戦争医学犯罪の検証について国際的な連携・協力をするための議論が必要だと思います。
■世界と日本での議論の進展
―今も戦争が絶えないもとで、国際的には医学界・医療界ではどんな議論が行われているでしょうか。
人体実験に関する国際規範であるヘルシンキ宣言やその源流となったニュルンべルク綱領も、医学者・医師が軍事研究に従事すること自体については踏み込んではいませんし、世界医師会や世界の医学界・医療界において国際紛争の解決に際しての「戦争と武力による威嚇又は武力の行使」 の禁止や武器生産の禁止についてはほとんど議論されていませんでした。2005年になって、世界で最もよく知られ、評価の高い医学雑誌Lan cet(ランセット) では出版社のエルゼビアの傘下に軍需産業の会社があることが明らかにされ、「兵器と健康を売る医学雑誌の偽善」の論争が起こり、国際的な運動の結果、軍需産業から一切経済的支援を受けないことになり、「生物医学研究者に対する軍需産業との関係についての提案」もなされました。この時には、最大の人為的災害は戦争であり、最も被害を受けるのは女性と子どもであり、国際的な公衆衛生上の課題であるという趣旨のWHO(世界保健機構)の報告についても議論されました。
―それに対し、日本の科学者の世界では、全体の問題としてどう議論されていますか。
その場合、今問題になっている日本学術会議がどうであったかの議論が必要だと思われます。
今、学術会議では「国民は個別的自衛権の観点から、自衛隊を容認している。大学などの研究者がその目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきではないか」に関して議論がなされています。このような問題提起が学術会議で出てくる背景には、日本学術会議の創立の頃だけでなく、その後も先の戦争中における日本の科学者の戦争加担の検証がなされていないことがあるのではないかと考え、学術会議総会の記録の調査に着手しました。
明らかになったのは、国会のような議事録がないため、議事詳細は議事速記録を通じてしか知ることができないこと、学術会議総会議事速記録は図書館に収蔵されているが図書館所蔵でないため、日本学術会議事務局に閲覧許可申請をしなければならないこと、他方、学術会議の運営審議会資料などは図書館所蔵のため日本学術会議図書館利用規程に基づき、閲覧許可申請をしなければならないこと、日本学術会議図書館は国立国会図書館の支部であるにもかかわらず、「一般公衆」などについては「館長が特に承認した者」でないと利用できないとされるなど著しく利用が制限されていること、複写サービスは、原則として行わない。 ただし、館長の許可を得たときは、利用者において複写又は撮影を行うことは妨げないことなどです。これらの制度は国立国会図書館制度の趣旨や国立公文書館の制度に合うように見直されないままでは、検証は困難です。
学術会議は、1984年には公選制が廃止され、学会推薦・内閣総理大臣任命制へと改悪され、学会などで推薦された者が会員に任命される制度となりましたが、学術会議では731部隊に関する初めての議論が行われていたことが、2003年の日本学術会議生命科学の全体像と生命倫理特別委員会報告「生命科学の全体像と生命倫理―生命科学・生命工学の適正な発展のために―」の報告により明らかなりました。同報告では「生命倫理を考える契機になった近代史上の最初の事件の一つとしてあげておかなければならないのは、第2次世界大戦中のナチスによる大量虐殺や大学医学部医師も参加した日本軍731部隊による非人道的な人体実験である。これら事件は人間として余りにも常軌を逸したものであって、いくら厳しく糾弾されても足りるものではない。このうち、731部隊の事件に医師たちも参加していたことは長い間隠蔽されてきたが、ナチスによる事件については敗戦国ドイツに対する1945年の国際軍事裁判で明らかにされた」と明記されています。
さらに、2005年の平和問題研究連絡委員会報告「21世紀における平和学の課題」では、日本学術会議としても日本の未決の戦争責任などの諸問題を学術的に解明することが重要であると述べられていました。
このように、731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上(そじょう)にのる兆しが出てきました。
しかし、2005年に学術会議会員の選考法がさらに改悪され、学術会議会員が自ら選考する方法となった後に公表された学術会議の諸文書には、戦争医学犯罪のみならず、日本の科学者の軍事研究への加担の歴史や戦争責任全般についての学術的解明について、言及したものは見当たりません。731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上にのったことを契機に、それまでの不作為も含めて、学術会議自身が自らの課題として検証を進めることは、1950年、1967年の2度にわたる戦争や軍事日的のための研究を拒否する誓いの見直しにストップをかけ、軍事研究復活阻止にもつながると思います。
■立法府の動きにどう向き合うのか
―立法府での議論についても、無関心でいてはいけないと思いますが、いかがですか。
日本政府は、国会で「日本国みずからが自分の戦争犯罪について判断することも処置することもできない」などと無責任な答弁を繰り返してきました。しかし、裁判では、被害の存在を認定したのみならず、「国際慣習法による国家責任が生じていた」ことを認め、「何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において」「高次の裁量により決すべき」とされました。立法府での議論が求められていると思います。
立法府では、「戦争及び人道に対する罪に対する時効不適用条約」の批准も議論されなければならないと思います。この条約は、1968年11月26日の国連第23回総会で決議(日本政府は棄権)され、1970年11月11日に発効しました。戦争犯罪と人道に反する犯罪について時効は「その犯罪の行われた時期にかかわりなく、適用されない」と規定しています。私たちの検証によって、731部隊や日本医学会等の組織的な加担とともに、それらを構成していた個々の医学者・医師の犯罪性も少なからず明らかにされてきました。その中には、感染実験でぺストを発症させ、治療もせずに死亡に至るまで経過を観察した人体実験を行い、その結果を、学位論文として提出する際、実験対象を「サル」と偽る明白な不正を行い、学位授与を申請した者、そのような学位授与の申請を受理し、学位授与を認めた者もいますが、全て裁かれずに世を去りました。そのようなことを繰り返させない・繰り返さないことにつながると考えられるからです。
1999年以降の有事法制により、有事の際に全国の医療機関や医師が担うべき役割が規定されました。政府が「有事」とみなせば、病院などを管理下に置き、医師・看護師などには公用令書(かつての召集令状、赤紙)が届けられ、医薬品等も調達物資の対象となり、命令に反すると罰則の対象にもなります。
私たちが同法に従うことになれば、「いつか来た道」をたどることになりかねません。それでも「命令には従わざるを得ない」 という声が多数であったという結果を示す調査もあります。良心的兵役拒否権は国際連合やヨーロッパ評議会のような国際機関では基本的人権「良心の自由」として認知され、推奨されており、法制化が図られている国もあります。日本国憲法では許されていない国の武力による威嚇または武力の行使のもとでの医療従事者への命令を拒否する権利の保障についても議論されねばならないのではないでしょうか。日本の医学界・医療界が国の内外で、軍縮、戦争放棄に取り組むことも医学者・医師の戦争医学犯罪の防止につながると改めて思います。
―戦争放棄、軍事研究復活阻止が決定的に重要であるとしても、「命令には従わざるをえない」ということについてはどう考えればいいでしょうか。
「戦争と医の倫理」の検証を進める会などで一致協同して取り組んでいる根底には戦争医学犯罪を繰り返さない、繰り返させない、ということがあります。戦争は人を狂気にします。今日ではPTSDに分類される戦争神経症などは先の戦争でも日本の軍や医学界・医療界の課題でした。
被害者やその遺族の無念・怨念も癒えることはありません。戦後も狂気が癒えず入院したままで世を去った人々や今も入院中の人々がいます。だから医師・医学者は「戦争に反対だ。でも戦争になったらお仕舞」では済まないのです。戦争で医師が狂気に陥り、戦争に賛成し参加すれば、治療や予防という医師の役割に相矛盾します。その意味で「繰り返さない」ということは、医師・医学者自身が、人間の一尊厳、人権、命と健康の擁護を貫ける強靭な倫理観を持つことであり、検証の意義はそこにもあります。
■今後の検証で重要なこと
―今後さらに検証を進めるうえで重要なことはなんでしょうか。
国政、日本学術会議、日本医師会、日本医学会で検証を行うという意思決定がなされていない状況を考慮しなければなりません。これまでは「戦争と医の倫理」の検証を進める会などは、4年に1回開催される日本医学会総会での意思決定を期待して主に日本医師会や日本医学会に働きかけてきましたが、今後はどうするかということが問われているように思います。この間の検証で、個々の専門医学会や大学医学部、医科大学が自省すべき史実も明らかとなっていますが、その気配が見られないところにどのように働きかければ自省が進むのかの議論です。具体的には、戦中の医学部教授会の議事録の開示、不正・非人道性が疑われる論文を学会誌に掲載した当該学会(日本病理学会、日本感染症学会など)における検証、不正・非人道性が疑われる学位授与論文が受理されている大学(京都大学、東京大学、新潟大学など)における当該学位授与の検証、九州大学医学部「生体解剖」事件に関する九州大学における検証、731部隊や戦中の学術に関する学術会議における検証などです。
また、国政レベルの検証に関して追加しておきたいのは国の資料の開示の問題です。1958年に米国から返還された731部隊と細菌戦に関する文書とその目録の公表や自衛隊の『衛生学校記事』の開示など防衛省が所蔵する旧陸軍防疫給水部資料の全面開示が行われていません。
厚生労働省社会・援護局業務課が2010年3月に、保管していた戦没者等援護関係の資料については、公開と後世への伝承を図るため、原則として戦後70周年に当たる2015年度までの5カ年の間に国立公文書館に移管することを発表し、ほぼ予定どおり実行されました。
移管された資料に記載された人数は延べ約2300万とのことです。国立公文書館ですでに公表された一覧表から、防疫給水という名のついた部隊の留守名簿が約70あることがわかりました。開示については「要審査」のため時間を要しましたが、731部隊、北京にあった1855部隊、シンガポールにあった9420部隊等については入手することができ、目下分析中です。しかし、それらは「要審査」とされ、審査期間は通常30日程度よりはるかに長期を要するなどの問題があります。これらの問題が一刻も早く解決され、全てが開示されれば、731部隊・「石井機関」の全容を明らかにする大きな一歩となると思われます。
―ありがとうございました。
特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
■「医学犯罪」検証のとりくみ
本誌では、一2007年9月号特集「戦争体験をどう継承するか」において、莇(あざみ)昭三(城北病院名誉院長・全日本民医連名誉会長・15年戦争と日本の医学医療研究会名誉幹事長)先生に「15年戦争中の『医学犯罪』と私たちの今日の課題」を執筆していただきました。一昨年、政府与党は安保法制の採決を強行しました。
防衛省では、安全保障技術研究推進制度が導入され、一昨年(2015年)には3億円の予算の配分が開始され、昨年は6億円、今年は110億円と急激に拡大されました。
敗戦を契機として、まき起こった学術体制の民主的改革を求める運動の中で1949年に創立された日本学術会議では、1950年の「戦争のための科学研究には従わない声明」、1967年の「軍事目的のための科学研究を行わない声明」と、2度にわたって戦争や軍事目的のための研究を拒否する誓いの見直しの動きが出るなど、軍事研究復活の動きが風雲急を告げています。
そこで、莇先生の論考以降の医学界・医療界における取り組みを踏まえて、 15年戦争中の「医学犯罪」について、いろいろ伺いたいと思います。
今言われた一昨年からの情勢の変化を私も大変危険だと思つています。15年戦争中の「医学犯罪」を論じる際にも、その視点が重要だと思います。
その際も、 莇先生の論考を継承すべきと考えます。
その後の活動と検証結果を一言では語れませんので、その都度、書などにまとめられて公表されているものをお読みいただきたいと思います(以下に掲載)。
[参考となる本]
第27回日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会編『戦争と医の倫理』(かもがわ出版、2007)、
「戦争と医の倫理」の検証を進める会『パネル集「戦争と医の倫理」』、
15年戦争と日本の医学医療研究会編では『N0 MORE731 日本軍細菌戦部隊』(文理閣、2015)、
同『戦争・731と大学・医科大学』(文理閣、2016)、
拙著『戦争と医学』(文理閣、2014、中国語版有)、
川嶋みどり共著『戦争と看護婦』(国書刊行会、2015)など。
■「医学犯罪」の舞台はどうつくられたか
―医学界・医療界、医学者・医師は、先の戦争にどのように加担したのでしょうか。また、731部隊をはじめ、どのような規模で、どのような形でおこなわれていたのでしょうか。
「戦争医学犯罪」というと「731部隊」と思われがちですが、私たちは、そのような予断を避け、解明しようということで始めました。
2000年に15年戦争と日本の医学医療研究会(略称、戦医研)が発足した当時、先の戦争、すなわち1931年から1945年8月の日本敗戦(ポツダム宣言受諾) に至るまでの15年戦争の間における史実解明の課題として、
①日本の医学医療の軍事化の経過、
②医学医療の軍事化に積極的に協力し、進めた学会・医学者、そして協力を拒否した人々の経緯、
③研究テーマの軍事的な制約、 戦時体制からくる研究費・研究体制の制約による医学医療の歪み・停滞、
④欧米諸国との交流の断絶による日本の医学医療の停滞、
⑤戦時体制による日本の医療の崩壊をあげました。
その後の調査研究で、日本の医学者・医師らが主に海外の地で、何万人ともいわれる人々を、様々な実験の材料や手術の練習台にして殺害した主たる舞台となったのは、 石井四郎(1920年、京都帝国大学医学部卒業)が組織した、731部隊をはじめとする軍事医学研究機関のネットワーク(「石井機関」ともいわれる)だけでないことを明らかにしました。さらに、日本の医学界・医療界、医学者・医師の戦争加担を間題にする際、731部隊を抜きにして語ることはできないことや731部隊はかつての日本の医学界・医療界における最悪の戦争医学犯罪であることを明らかにしました。
■731部隊による人体実験・細菌兵器使用
―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。
731部隊は、現中国黒竜江省の省都・哈爾浜市近郊の平房に、 1939年頃までに完成した細菌兵器開発の一大軍事基地にありました。731部隊では、実験材料にされる人々は、特別に定められた「特移扱」と呼ばれる手続きで憲兵隊により供給されて、「マル夕」と称されていました。敗戦までの5年間に少なくとも3000名が送り込まれ、生存者はいませんでした。21世紀になって、中国では、証拠隠減の焼却跡から発掘された憲兵隊の「特移扱」資料の調査が進み、300名以上の氏名が判明しつつあり、被害遺族からの訴えも出始めました。
2007年4月までに確認できた罪悪としては、ヒトを「サル」と偽って日本病理学会でも発表された「流行性出血熱感染実験」、米国で見つけられた、731部隊のデータを手に入れた米軍の報告書に記されていた炭疽、ぺスト、チフス、パラチフスAおよびB、赤痢、コレラ、鼻疽の「細菌感染実験」(被験者の50%に感染を引き起こす病原体の最小量も記されている)、「凍傷実験」、「水だけを飲ませる耐久実験」、「ぺストワクチン実験と生体解剖」、「毒ガス兵器の野外人体実験」、「毒物の経口摂取・注射の人体実験」、「細菌兵器の実戦使用」があげられます。
731部隊による人体実験や中国各地の細菌兵器の実戦使用による被害者や遺族の一部は、日本国を相手取って謝罪と賠償を求めるために日本の裁判所に提訴しました。中国人180人が原告となった731部隊細菌戦被害国家賠償請求訴訟(1997年提訴)では、最高裁判所が2007年5月9日に国家無答責(当時は国が戦争被害について賠償する法律は制定されていなかったこと) を理由にして上告を棄却し、原告の敗訴が確定しました(www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/795/005795_hanrei.pdf)。損害賠償の請求は認められなかったのですが、 「細菌戦の事実の有無について」「は原告らが立証活動をしたのみで、被告は全く何の立証(反証)活動もしなかったので」「制約ないし問題があることを認識しつつ」証拠に基づき第一審が判決で示した戦争医学犯罪の事実の存在の認定は確定しました。
2011年には、細菌兵器による攻撃についての新資料「陸軍軍医学校防疲研究報告」の第一部60号が見つけられました。同報告では、1940~42年に中国で、731部隊が行った6つの作戦をとりあげ、使用したぺスト・ノミの量と感染者数や結果に基づいて計算した作戦効果(ぺスト・ノミ使用量別の致死数)をまとめた表が示されています。同表の結果は、裁判で認定された、損害の発生した日や場所と辻褄が合うものした。新資料は、これまで「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府に根拠がないことを暴露するものであったのです。
2015年には、731部隊の跡地で心臓部ともいわれていた建物「ロ号棟」の基礎部分(東西170m、南北140 m四方)の中国による全面発掘が完了し、新館の展示スペースとともに8月15日に公開されました。この発掘は、元731部隊員の証言に基づいて作成された平面図を実証したもので、「ロ号棟」の存在が戦後70年にして白日のもとにさらされました。
■731部隊以外でも
―731部隊・「石井機関」以外では、どのような罪悪がくりひろげられていたのでしょうか。
以下のような事実が明らかになりました。
1945年の5月から6月にかけて、九州帝国大学医学部第一外科の石山福二郎教授やその弟子たちが、撃墜されたアメリカ軍B29の搭乗員捕虜8名を手術実験で殺害した「九州帝国大学医学部事件」。1941年1月31日から2月11日にかけて内蒙古で、中国人を手術材料と称して用い、凍傷、テントでの手術、止血、輸血などについて研究する野外演習を行った「冬季衛生研究」。各地の陸軍病院での「手術演習」。台北帝国大学医学部(1928年3月16日、勅令第30号による台北帝国大学の設立。1936年1月1日医学部設置)における「現地人44名の生体よりマラリア脾腫(ひしゅ)を剔出(てきしゅつ)して材料とした研究」。京城帝国大学医学部(1924年京城帝国大学開学、1926年5月医学部設置)にみられた植民地支配、医学のもつ植民地支配上の効果を期待して設立された満州医科大学(1911年に南満鉄道株式会社が創立した南満医学堂が前身、1922年に満州医科大学に昇格)の解剖学教室の「生体解剖」がありました。そのほかにも、占領地の大学や研究所以外における「非人道的な人体実験」、植民地における本邦よりも過酷な「ハンセン病対策」、将兵への伝染を防ぐための軍用「慰安婦」の性病罹患検査など軍医による「慰安所の衛生管理」などもあげられます。
2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■731部隊と大学
―今述べられた罪悪とのかかわりで、 とりわけ大学医学部は、どのように戦争に加担していたのでしょうか。大学研究の戦争への加担という点で、特徴的なことはあるのでしょうか。
まず、731・「石井機関」に特にかかわる戦争加担についてお話しください。
731部隊などには、軍医将校の他に「技師」という身分の医学者がいました。 彼らは京都大学医学部の細菌学教室・生理学教室・病理学教室、東京大学伝染病研究所、慶応大学医学部細菌学教室、金沢医科大学細菌学教室等の出身です。2008年に出版された『京大医学部病理学教室100年史』で紹介された「石井発言」では、教室、学部、大学として組織的関与に発展していった様子が如実に語られていることが明らかになりました。筆者の請求によって「要審査」が解かれ公開された国立公文書館の留守名簿は目下解析中で、731部隊・「石井機関」にかかわる新たな人物が明らかになると思われます。
「石井機関」の中枢的役割を果たしていたとされる陸軍軍医学校防疫研究室の報告書「陸軍軍医学校防疫研究報告第二部」には共同発表者や論文指導者に大学の研究者の氏名が多く見られます。これらの研究者は「嘱託」という身分であり、その所属は東京大学、慶応大学、長崎大学、京都大学、大阪大学、金沢医科大学、北里研究所、北海道大学、干葉医科大学等でした。また「指導教官」という名目で東大教授、慶応大学教授、干葉医大教授等が名前を連ねています。さらに、防疫研究室の「委託研究」を行っていた教授の教室に所属していた医学者たちは陸軍軍医学校防疫研究室や731部隊関連の研究に組織的にかかわっていたと言えます。その他に論文末尾に「謝辞」を受けている研究者も多数いました。 陸軍軍医学校は博士の学位の授与を認められていなかったことから、731部隊関係者の学位授与の審査は先ほど述べた大学医学部や医科大学などで行われ、大学の総長や学長から出された申請を受けて文部大臣が学位授与を認可していたことが明らかとなっているのです。
日本病理学会総会では731部隊関係者が「特殊研究」、ヒトを「サル」とした研究報告がなされていました。多くの医学者たちはそれが何かを知っていたと思われます。戸田正三京都大学医学部長や正路倫之助教授【京大教授のまま佳木斯(ジャムス)医科大学教務主任、生理学教授に赴任)】は当時たびたび満州に出向いていました。また、恩師である京都帝国大学医学部病理講座教授で石井の指導教授でもあった清野謙次や名古屋医科大学医学部細菌学教授の鶴見三三も平房に招待されていました。官立金沢医科大学の定例教授会記録(1942年1月19日)には、第2病理学講座の後任教授選考に当たっての「京都には尚石井と一言う人ありて研究も大に宜しく石井部隊におらるる由なるが--相談を持て行かば承諾を得んかと思う--」という学長発言が記録されていることから、「石井部隊」という名称が一般に使用されていたことが伺われます。
京都帝国大学医学部同窓会誌には、「本学が生んだ巨人、学を以て国を護る熱血の人、石井四郎陸軍々医少将閣下(大9=大正9年卒<西山注、1920年>)は、4月19日午前5時59分入洛、故渡邊助教授の遺族に部隊長としての誠心あふれる弔慰を棒げた後、翌20日懐かしの母校に卒業後21年ぶりに来学、堂々たる体躯に親愛の情をこめて、日曜にもかかはらず、内科講堂を立錐の余地なきまでに埋めた学生・生従・職員は勿論、小川学部長、松本教授以下の各教授を前に、諄々として熱烈に、日本の進むべき道、医学の行くべき道、京大学風の趨(おもむ)くべき道を説くのであった」という記述があります。
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか
文部省科学研究費(1918年創設)の重要項日として採用された医学分野の題目や新たに大学に附置された医学研究所にも軍事化の傾向がみられました。学術研究会議(1920年設立)には科学研究動員委員会が設置され、多くの戦時研究班を擁していました。1942年には、日本の東南アジアへの侵入と符号して「日本人の南方に於ける生活に関する科学的研究」が総合課題とされ、関連分野の5カ年共同研究計画となっています。昭和恐慌を契機に1932年に設立された「日本学術振興会」も、1937年頃から軍部や商工省の意向に沿つて、次第に国策的研究をすすめる機関(医学・衛生学は第8部門)となりました。
日本医学会(1902年設立)は、ほぼ4年に1回、全国の大学医学部・医科大学・医学研究機関の医学者が参集する医学会(1948年に、日本医師会の改組設立に伴い、日本医学会と日本医師会は統合。戦後は、「日本医学会総会」として)を開催しています。この医学会も戦争動員の場となりました。第9回(1934年、東大)では「石井式無菌濾過機」や陸軍の衛生車、衛生飛行機などが陳列されるなど、軍部の影響が如実に出始め、第10回(1938年、京大)は、陸軍省医務局からの強い要請を受けて、特別に「戦時体制下医学講演会」のテーマで「軍部と医学会が提携して医学報国の大旆(たいはい)」をかかげて開催され、総会招待講演ではナチス・ドイツ軍の将校が毒ガスの講演を行い、第11回(1942年、東大)の主題は、「戦場医学の確立」と「大東亜医学会」を結成する機運を助成することとされ、「戦場医学」と称された演題が次々と発表されました。
病理学、細菌学、外科、内科等の学会でも、戦争関連の論文発表が増えました。このような機運が高まる中で、「戦時中においては、学会(協会)の総力を動員して、後方戦力の労働力の確保に大いに貢献するところがあった」と言われた日本産業衛生学会(1927年)、ハンセン病患者の絶対隔離を求めた日本癌病学会(1927年)、「生命の根本を、浄化し--国家を繁栄せしむ--」との趣旨を掲げた日本民族衛生学会(1930年)等が設立されました。
1938年の日本の全医師数は6万3000人弱でしたが、軍医の損耗度が高いとして、1942年度までの軍医需要を3万人とし、さらに1943年度以降の大需要を5万人との見積もりで、1939年度から大学医学部・医科大学における3年の修業年限の臨時付属医学専門部の強行設立が始まりました。敗戦時までに新設医専は帝大、官立、公立、私立あわせて51校に達しました。そのうち「外地」は7校でした。
医学教育の軍事化・医学生の戦時動員もあげられます。1939年から、軍事教練が全大学の学部学生の必修科目となり、医学部でも、現役の配属将校による軍事教練が課され、軍事講習の授業も実施され、軍隊内の衛生・防疫および戦傷について学ぶ軍陣医学(現在の軍事医学にあたる)の講義も行われました。同年より、「学生衛生部隊」が全国の大学医学部の学生により組織され、夏季休暇時等に各地に「衛生調査」等の名目で派遺されました。
■さらなる戦争加担を邁進
―戦時下、医療界は、どのようにさらなる戦争加担に邁進していったのでしょうか。
1942年2月、従来の医師法などを改正し制定された「国民医療法」は「国民体力の向上を図るを以て日的」(第1条)とし、「富国強兵」策を遂行するための方策(開業の制限、新卒医師への動務地の指定、医師の徴用制度、無医地区での公営医療機関の設置、医療機関の整備統合など)を掲げました。さらに従来の医師の任務は「医事衛生の改良発展を図る」というものでしたが、この「国民医療法」の第3条で「医師及び歯科医師は国民体力の向上に寄与するを以てその本分とす」と明記し、国の方策遂行に寄与するという新しい任務を規定しました。
医師会はかねてより戦争への協力姿勢を取っていましたが、1942年に改組され、いわゆる「官制医師会」が創られました。医師会の規約では、日本医師会の会長は厚生大臣の指名制となり、日本医師会の総会は道府県医師会会長と特別議員で構成するとされ、国策への協力が医師会の大目標とされました。国民体力管理医、健民修練所指導医、「産業戦士に対する優先受診方実行」と「重要工場事業所の医療保健への協力」、動労報国隊員の健康管理、健民運動耐寒心身鍛錬への協力、町内会の耐寒心身鍛錬への協力などが次々と下部医師会に指示されました。「国民体力ノ向上二関スル国策二即応シ医療ノ普及ヲ図ルコト」を目的とする日本医療団も1942年に創設されました。
看護師は戦時召集令状で応召義務を課せられ従軍看護婦として戦地に派遺されましたがその大部分は日本赤十字社からでした。
3、戦後、日本の戦争医学犯罪は裁かれなかったのか
■隠蔽・極秘取引・タブー・無視と検証・克服
―これらのことについて、戦後の医学界・医療界、医学者・医師はどのように向き合ってきたのでしょうか。団体の動きや、個人の発言などもふくめて紹介してください。
おもに731・「石井機関」にかかわる当事者の去就について述べます。
1945年8月15日の日本の敗戦以前に、当時の日本政府と軍部は国際的な非難を恐れ、「国体護持」のため、731部隊の証拠隠減を工作しました。
ドイツの医学者・医師が裁かれた1946年12月9日から1947年8月20日にかけて米国が単独で担当したドイツ・ニュルンべルクにおける医師裁判と異なる経緯をたどりました。日本では、米国の細菌戦研究におけるソ連からの立ち遅れを克服するために、「米国への731部隊のデー夕提供と引き換えに、関係者の訴追を免責する」という極秘の取引が連合軍総司令部(GHQ、実体は米軍) と731部隊トップとの間で交わされたのです。731部隊に関係した医学者・医師は、公に露わにならず、そのほとんどが、何食わぬ顔で医学界・医療界に留まり、悪弊を断ち切ることなく、戦後の医学界・医療界などの重職につき、中には叙動、までされました。
1946年に設立された民主主義科学者協会、新日本醫師聯盟(後に新日本医師協会、通称新医協に発展的に解消)などでは、科学者のみならず教育者、知識人の戦争協力について調査し戦犯者として摘発、追放しなければならないという意見がひろく起こっていました。当時の新医協機関紙の調査により、防疫給水部の名で呼ばれ、細菌爆弾やいろいろの細菌謀略のために少なからぬ細菌学者や病理学者が研究に参加し、その間非道な人体実験が行われ、また部分的に実戦に使用されたことは、軍医として徴集された多くの医師が知っていたこともわかりました。
ソ連では、捕虜とした731部隊員たちに対して独自に裁判(ハバロフスク裁判、1949年12月)が行われ、その公判書類の日本語版は1950年には日本でも入手できました。日本の国会でも、1950年3月1日の衆議院外務委員会における聴涛克己(きくなみかつみ)議員のハバロフスク裁判に関わる質問がなされましたが、当時の法務大臣は「さような事実があったといたしましても、 ただいま申し上げました通り、それは連合国で処置されるのでありまして、日本国みずからが自分の戦争犯罪について判断することも処置することもできないのであります」などと答弁し、真摯に向き合いはしませんでした。中国でも、1956年に捕虜の731部隊員に対する特別軍事法延での裁判が行われました。しかし、これにも日本の医学界・医療界、政府は向き合いはしませんでした。
戦中だけではなく戦後にも陸軍軍医学校防疫研究報告が医学博士の学位授与のための論文として提出されていたことも明らかにされました。さらに2012年に着手した、京大や東大の学位授与記録の調査では、731部隊と関係が深かった諸教授が戦後も学位審査委員として学位授与に関与したことなどが明らかになりました。前述した2011年に明らかになった細菌兵器による攻撃についての新資料は、元部隊員が学位授与(1949年)に際して提出した論文の一部で、主査は、戦中に東大の伝染病研究所で指導に当たった教授で当時、医学部長、日本医学会会長でした。京大の学位授与記録調査では、1959年9月になっても学位が授与されており、その主査および副査2人中1人は元部隊員で戦後京大医学部教授になった人物でした。
日本医師会は、日本医師会年次代議員会(1949年3月30日)で「日本の医師を代表する日本医師会は、この機会に、戦時中に敵国人に対して加えられた残虐行為を公然と非難し、また断言され、そして時として生じたことが周知とされる患者の残虐行為を糾弾するものである」 という声明文を決議して世界医師会(第1回総会、1947年9月18日)への加盟が認められました。しかし、日本医師会は731部隊問題については声明文の決議で解決済みとして、自ら検証をすることを怠り、現在に至っています。
世界医師会は、権力に屈して医師の使命に背反したナチ医学の過ちを繰り返すまいということで、1948年9月にスイス、ジュネーブで開催された世界医師会第2回総会で採択したジュネーブ宣言 (2006年までに5回改訂) では「私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける。また、人間性の法理に反して医学の知識を用いることはしない」を明示しました。日本医師会も1951年に「医師の倫理」を定めたのですが、「医師は、正しい医事国策に協力すべきである」という、ジュネーブ宣言とは程遠い規定が盛り込まれていました(2000年に「医の倫理綱領」に改定)。
その後、731部隊関係者の多くが役員になり、戦中開発した技術の応用で起業(朝鮮戦争勃発5カ月後の1950年11月)した「日本ブラッドバンク」(1964年に「ミドリ十字」に社名変更)は、血液製剤による肝炎や薬害エイズの問題を惹き起こしました。
■発足当時の学術会議における戦争医学犯罪の検証
―世界でも類例のない公選制で選ばれた日本の科学者の議会ともいわれる日本学術会議は1949年の「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)」で「これまでのわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、 科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓う」と述べています。そこでは、戦争医学犯罪についてはどのような反省がなされたのでしょうか。
日本学術会議は日本の科学者の内外に対する代表機関として、新たに7分野に分類された全国の科学者の分野ごとの無記名投票により選出される210 人の会員で構成されることなどが日本学術会議法(1949年7月10日制定)で規定されていました。
昨年着手した創立の頃の日本学術会議に関わる調査では、敗戦後の平和と民主主義を希求する情勢のなかで、日本学術会議でも学術体制の平和的・民主的改革を求める努力がなされたのですが、それに対して731部隊関係者らが異議を強硬に主張していたことが見えてきました。
学術会議総会議事速記録を閲覧したところ、第1回総会で、国会議事録のような議事録を作成するという提案が否決され、以降の長きにわたって学術会議総会の公式の議事録が作成されていないこと、当初議事概要が作成されていたものの第8回以降途絶えたことが明らかになりました。
第1回総会の「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)」の審議経過では、731部隊関係の会員らが「これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し」のくだりに「戦争中」あるいは「戦時中」を入れる提案に対し、「すでに国家が戦争になってしまったならば戦争に協力し、 科学者が国家のために尽くすということは、一面から言うと当然のことであります」「憲法によってすでに戦争を放棄し、将来戦争というものは、 われわれ国民にとっては全然問題外のことであって、将来戦争ということを考えてこういう声明をする必要はない」などと猛反対し、賛成少数で否決にいたっています。
1950年4月28日の第6回総会では「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」が採択されました。その時も「日本の科学者も戦争を感知せざるを得ない情勢に立ち至つている」という中段の提案は、彼らの口火で、「戦争が非常に近いと言うことはいったいどういう根拠があって言っておるのか」などの議論となり、削除されました。その2ヵ月後に朝鮮戦争が起こりました。
また、1952年の第13回総会では、「細菌兵器使用禁止に関するジュネーブ条約の批准を国会に申入れる」提案に対して、「現在日本では戦争を放棄しているのだから、戦時に問題になる条約を批准するのは筋違い」「4,50年も前に解決している問題でありまして、今日ほとんど実用になりません」などと反対し、賛成わずかで否決されています。
―731部隊に属していた医師・医学者自身の特徴的な証言はあるのでしょうか。
731部隊に属していた医師で、当時のことを自著で表している者は少数です。吉村寿人元731部隊技師(京大医学部卒、戦後京都府立医大学長などを務める)は「私が属していた部隊に戦犯事項があったことが最近、森村誠一氏の『悪魔の飽食』に記載され、それがべストセラーになった為に国内の批判を浴びる様になった。<中略>個人の自由意志でその良心に従つて軍隊内で行動が出来ると考える事自体が間違つている。<中略>個人の良心によって行動の出来る様な軍隊が何処にあるだろうか。<中略>私が戦時中に属していた部隊において戦犯行為があったからとて、直接の指揮官でもない私が何故マスコミによって責められねばならないのか、全くのお門違い」などと弁明しています(『喜寿回顧』吉村先生喜寿記念行事会、1984年)。これは、ニュルンべルク裁判では退けられた、被告の弁明「医師たちは人体実験を行わなければ生命の危険にさらされたかもしれない」 「医師たちは命令に従っただけである」と同類にほかなりません。
敗戦直後から医学界・医療界の民主化に奔走した秋元寿恵夫医師は「これまで、40年近くになる長い間、第731部隊が犯した戦争犯罪については、問われれば答えるが、 あえて自分から何もいうまいという態度を取り続けてきた」としながら、1982年に自著『医の倫理を問う第731部隊の経験から』において、「血清学者として石井部隊に勤務した者が、今なお深い罪の意識を背負いながら、戦争と癒着した医学研究の恐ろしさを告発し、医の倫理とは何かを問う」ています。
湯浅謙医師による、中国太原の陸軍病院で行った生体解剖の証言は、極悪非道な医師の行為が731部隊だけではなかったことを明らかにしました。
4、ドイツではどのように向き合ったのか
■二ュルンぺルクにおける訴追
―ところで、医学の戦争への加担ということでは、世界で、とりわけドイツではどのように向き合ったのでしょうか。
ナチス・ドイツ政権下における医学者・医師の非人道人体実験には、超高度(標高20000mに相当する低気圧)、低体温、マラリア、毒ガス、サルファ剤等の薬品、骨・筋肉・神経の再生および骨移植、海水飲用、流行性黄だん(肝炎)、断種、発疹チフスなど、毒物、焼夷弾治療、障害者の「安楽死」、仮病対策、電気ショック、子宮癌の早期診断法、双子の利用、肝臓移植、血液確定、敗血病などに関する実験がありました。これらがドイツでは裁かれました。
1947年米国主導で、ニュルンべルク国際軍事裁判における医師たちの訴追は「共同謀議」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「犯罪組織への所属」の4点にわたって行われました。被告弁護側の抗弁・反論は、検察側のヒポクラテスの誓いなどを典拠にして断罪され、許容できる人体実験の条件が判決で示されました。これが「ニュルンべルク綱領」です。「ニュルンべルク綱領」は、前述のジュネーブ宣言や1949年10月にロンドンで開催された世界医師会第3回総会(1949年10月)で採択された国際医倫理綱領(2006年までに3回改訂、「医師の一般的な義務」の4項目には「医師は、患者や同僚医師を誠実に扱い、人格や能力に欠陥があったり、欺まん、またはごまかしをするような医師の摘発に努めるべきである」という規定がある)、1964年6月フィンランド、ヘルシンキで開催された第18回世界医師会総会で採択され、以後、人体実験に関する倫理規定の基本をなすヘルシンキ宣言(2013年までに9回改訂)の基礎となりました。
1970年代頃からはベルリンの医師たち自身が、かれらの職能団体にたいして、 ナチズムの中で医師層が果たした役割に批判的立場を示すことを要求しました。1988年にはベルリン医師会が圧倒的多数で「ナチズムの中で医師層が果たした役割と忘れることのできない犠牲者の苦しみを思い起こす」という声明を出し、1989年にベルリンで開かれたドイツ医師会年次大会では、 「ワイマール共和国時代とナチズム時代の医学」というテーマで展示会が行われ、『人間の価値―1918年から1945年までのドイツの医学』(邦文版、風行社、1993年)が刊行されました。
ところが、私が2002年に、同書の著者と面談した際には、「世界医師会に西ドイツ医師会が加盟する際に約束した医師会会員へのジュネーブ宣言の配布は実行されずに放置されていた」「日本ではドイツが進んでいるかのように言われるが、遅々たるものだ」「ドイツ医学界の重職には元ナチ党員が多数を占めていた」「1994年には、ドイツ医師会会長歴(西山注:1973~1977年)があり、9年間務めていた世界医師会の財務理事(西山注:2010年7月、逝去)が辞任に追いやられたが、それはナチ親衛隊将校で戦争医学犯罪を犯したことが暴露されたから」「彼を推薦し、サポートし続けたドイツ医師会長が後任(西山注:1999年迄、以降名誉会長で現在に至る)」と聞きました。
■ドイツのとりくみと困難
―それにしてもドイツの方が日本より進んでいると思われるのですが、日本との関係で見ておかなければならないことはあるのでしょうか―
ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)は、2010年11月26日に、70年間の沈黙を破り約3000人の精神科医が参加した追悼集会が開催され、ナチス時代に精神科医によって25万人以上の精神障害者が死に追いやられたことを認める追悼講演を会長が行い、精神医学や学会としての思想や組織のあり方を振り返り、「施設的および個人的な罪や精神科医および専門学会の巻き込まれ」を問題にしました。
2012年5月にはニュルンべルク医師裁判が行われた地において開催されたドイツ医師会年次大会が、全会一致でナチ時代の医学犯罪について重大な共同責任を認め、ドイツ医師会の中に歴史研究を行う委員会を設けるという声明が出されました。
自らの過ちに関するDGPPNのドイツ内外での移動展示は、紆余曲折がありましたが、2015年に日本でも開催され、その間に2010年当時のDGPPN会長の講演も行われました。
5、いまどんな議論が必要か
■日本ではまだ広く知られていない戦争医学犯罪
―現在、日本では、どのような議論がなされているのでしょうか。また、いま、軍事研究への大学や研究機関の動員という問題が大きな問題となっているときに、どんな議論がなされる必要があるとお思いですか。
日本の医学者・医師の先の戦争における医学犯罪があまりにも知られていないことがまずあげられるでしょう。
ナチス・ドイツの戦争医学犯罪のように国内外で、あるいは医学界・医療界で議論が広く活発に行われているかというと、残念ながらそうではありません。
私たちは、その都度論点整理をしながら、問題提起をし、それなりの前進があったと思いますが、国の内外あるいは医学界・医療界で世論を動かすほどにはいたっていないように思います。
国際的には、前述したように、米国政府が、極秘の取引により共犯者となり、隠蔽してきた歴史があります。ナチス・ドイツの戦争医学犯罪の検証が進められているドイツでも日本の戦争犯罪・人道に反する罪についてはほとんど議論にはなっていません。
日本の医学界・医療界が60年以上隠蔽し、今もって自省の動きが見られないというのは国内外の世論、議論の程度や国が戦争責任を果たしていないことを反映しているともいえます。
しかし、ナチス・ドイツの戦争医学犯罪を踏まえて、世界医師会はジュネーブ宣言や医の国際倫理綱領で「医師は、常に何ものにも左右されることなくその専門職としての判断を行い、専門職としての行為の最高の水準を維持しなければならない」などの条項を採択し、「患者の人権擁護」のためには患者、医師、医師会、それぞれの自律が必要だとしてきました。このような国際的に普遍的な考え方にたつならば、国政の如何などとは関係なく、日本の医学界・医療界が自省の議論を尽くす必要があります。
「戦争と医の倫理」の検証を進める会が2012年に京都大学で主催した国際シンポジウムに参加したドイツの精神科医は「ドイツでは過去との関わりをできるだけ回避しようとする動きがずっと以前から一般的で、ニュルンべルク裁判は要するに勝者の恣意による判決だ、という乱暴な考えさえ多くの所で出ている」「ニュルンべルクは扉を開けた。しかし、研究の倫理への道、医学の社会的責任への道はまだ遠く、なすべきことはまだ多い」などと書いています。
第27回日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会が、2007年4月に国際シンポジウムを主催した際に、招いた米国の生命倫理学者は「過去の世代の不正は、それがとりわけ隠蔽された場合には、現在の世代の重荷としてそのまま残されると言えます。731部隊の場合、米国が一度日本の科学者たちとこのような取引をしたために、日本が抱えていた秘密が、我々の抱える秘密にもなってしまいました」「調査を行い、過去に何が起こったのかを誠実に、率直に、正確に報告することによって、そして過去と対峙することによって、我々は常々持ちたいと望んできた価値観を肯定するのです。最も重要なのは、そうすることによって、過去との共犯関係から若い世代を解放し、過去の不正に対する責任を負う必要をなくすことです。隠蔽や共犯の伝統を保持するよう若い世代に求めるのではなく、代わりに彼らをこの責任から完全に解放することです」と述べました。
戦争医学犯罪の検証について国際的な連携・協力をするための議論が必要だと思います。
■世界と日本での議論の進展
―今も戦争が絶えないもとで、国際的には医学界・医療界ではどんな議論が行われているでしょうか。
人体実験に関する国際規範であるヘルシンキ宣言やその源流となったニュルンべルク綱領も、医学者・医師が軍事研究に従事すること自体については踏み込んではいませんし、世界医師会や世界の医学界・医療界において国際紛争の解決に際しての「戦争と武力による威嚇又は武力の行使」 の禁止や武器生産の禁止についてはほとんど議論されていませんでした。2005年になって、世界で最もよく知られ、評価の高い医学雑誌Lan cet(ランセット) では出版社のエルゼビアの傘下に軍需産業の会社があることが明らかにされ、「兵器と健康を売る医学雑誌の偽善」の論争が起こり、国際的な運動の結果、軍需産業から一切経済的支援を受けないことになり、「生物医学研究者に対する軍需産業との関係についての提案」もなされました。この時には、最大の人為的災害は戦争であり、最も被害を受けるのは女性と子どもであり、国際的な公衆衛生上の課題であるという趣旨のWHO(世界保健機構)の報告についても議論されました。
―それに対し、日本の科学者の世界では、全体の問題としてどう議論されていますか。
その場合、今問題になっている日本学術会議がどうであったかの議論が必要だと思われます。
今、学術会議では「国民は個別的自衛権の観点から、自衛隊を容認している。大学などの研究者がその目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきではないか」に関して議論がなされています。このような問題提起が学術会議で出てくる背景には、日本学術会議の創立の頃だけでなく、その後も先の戦争中における日本の科学者の戦争加担の検証がなされていないことがあるのではないかと考え、学術会議総会の記録の調査に着手しました。
明らかになったのは、国会のような議事録がないため、議事詳細は議事速記録を通じてしか知ることができないこと、学術会議総会議事速記録は図書館に収蔵されているが図書館所蔵でないため、日本学術会議事務局に閲覧許可申請をしなければならないこと、他方、学術会議の運営審議会資料などは図書館所蔵のため日本学術会議図書館利用規程に基づき、閲覧許可申請をしなければならないこと、日本学術会議図書館は国立国会図書館の支部であるにもかかわらず、「一般公衆」などについては「館長が特に承認した者」でないと利用できないとされるなど著しく利用が制限されていること、複写サービスは、原則として行わない。 ただし、館長の許可を得たときは、利用者において複写又は撮影を行うことは妨げないことなどです。これらの制度は国立国会図書館制度の趣旨や国立公文書館の制度に合うように見直されないままでは、検証は困難です。
学術会議は、1984年には公選制が廃止され、学会推薦・内閣総理大臣任命制へと改悪され、学会などで推薦された者が会員に任命される制度となりましたが、学術会議では731部隊に関する初めての議論が行われていたことが、2003年の日本学術会議生命科学の全体像と生命倫理特別委員会報告「生命科学の全体像と生命倫理―生命科学・生命工学の適正な発展のために―」の報告により明らかなりました。同報告では「生命倫理を考える契機になった近代史上の最初の事件の一つとしてあげておかなければならないのは、第2次世界大戦中のナチスによる大量虐殺や大学医学部医師も参加した日本軍731部隊による非人道的な人体実験である。これら事件は人間として余りにも常軌を逸したものであって、いくら厳しく糾弾されても足りるものではない。このうち、731部隊の事件に医師たちも参加していたことは長い間隠蔽されてきたが、ナチスによる事件については敗戦国ドイツに対する1945年の国際軍事裁判で明らかにされた」と明記されています。
さらに、2005年の平和問題研究連絡委員会報告「21世紀における平和学の課題」では、日本学術会議としても日本の未決の戦争責任などの諸問題を学術的に解明することが重要であると述べられていました。
このように、731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上(そじょう)にのる兆しが出てきました。
しかし、2005年に学術会議会員の選考法がさらに改悪され、学術会議会員が自ら選考する方法となった後に公表された学術会議の諸文書には、戦争医学犯罪のみならず、日本の科学者の軍事研究への加担の歴史や戦争責任全般についての学術的解明について、言及したものは見当たりません。731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上にのったことを契機に、それまでの不作為も含めて、学術会議自身が自らの課題として検証を進めることは、1950年、1967年の2度にわたる戦争や軍事日的のための研究を拒否する誓いの見直しにストップをかけ、軍事研究復活阻止にもつながると思います。
■立法府の動きにどう向き合うのか
―立法府での議論についても、無関心でいてはいけないと思いますが、いかがですか。
日本政府は、国会で「日本国みずからが自分の戦争犯罪について判断することも処置することもできない」などと無責任な答弁を繰り返してきました。しかし、裁判では、被害の存在を認定したのみならず、「国際慣習法による国家責任が生じていた」ことを認め、「何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において」「高次の裁量により決すべき」とされました。立法府での議論が求められていると思います。
立法府では、「戦争及び人道に対する罪に対する時効不適用条約」の批准も議論されなければならないと思います。この条約は、1968年11月26日の国連第23回総会で決議(日本政府は棄権)され、1970年11月11日に発効しました。戦争犯罪と人道に反する犯罪について時効は「その犯罪の行われた時期にかかわりなく、適用されない」と規定しています。私たちの検証によって、731部隊や日本医学会等の組織的な加担とともに、それらを構成していた個々の医学者・医師の犯罪性も少なからず明らかにされてきました。その中には、感染実験でぺストを発症させ、治療もせずに死亡に至るまで経過を観察した人体実験を行い、その結果を、学位論文として提出する際、実験対象を「サル」と偽る明白な不正を行い、学位授与を申請した者、そのような学位授与の申請を受理し、学位授与を認めた者もいますが、全て裁かれずに世を去りました。そのようなことを繰り返させない・繰り返さないことにつながると考えられるからです。
1999年以降の有事法制により、有事の際に全国の医療機関や医師が担うべき役割が規定されました。政府が「有事」とみなせば、病院などを管理下に置き、医師・看護師などには公用令書(かつての召集令状、赤紙)が届けられ、医薬品等も調達物資の対象となり、命令に反すると罰則の対象にもなります。
私たちが同法に従うことになれば、「いつか来た道」をたどることになりかねません。それでも「命令には従わざるを得ない」 という声が多数であったという結果を示す調査もあります。良心的兵役拒否権は国際連合やヨーロッパ評議会のような国際機関では基本的人権「良心の自由」として認知され、推奨されており、法制化が図られている国もあります。日本国憲法では許されていない国の武力による威嚇または武力の行使のもとでの医療従事者への命令を拒否する権利の保障についても議論されねばならないのではないでしょうか。日本の医学界・医療界が国の内外で、軍縮、戦争放棄に取り組むことも医学者・医師の戦争医学犯罪の防止につながると改めて思います。
―戦争放棄、軍事研究復活阻止が決定的に重要であるとしても、「命令には従わざるをえない」ということについてはどう考えればいいでしょうか。
「戦争と医の倫理」の検証を進める会などで一致協同して取り組んでいる根底には戦争医学犯罪を繰り返さない、繰り返させない、ということがあります。戦争は人を狂気にします。今日ではPTSDに分類される戦争神経症などは先の戦争でも日本の軍や医学界・医療界の課題でした。
被害者やその遺族の無念・怨念も癒えることはありません。戦後も狂気が癒えず入院したままで世を去った人々や今も入院中の人々がいます。だから医師・医学者は「戦争に反対だ。でも戦争になったらお仕舞」では済まないのです。戦争で医師が狂気に陥り、戦争に賛成し参加すれば、治療や予防という医師の役割に相矛盾します。その意味で「繰り返さない」ということは、医師・医学者自身が、人間の一尊厳、人権、命と健康の擁護を貫ける強靭な倫理観を持つことであり、検証の意義はそこにもあります。
■今後の検証で重要なこと
―今後さらに検証を進めるうえで重要なことはなんでしょうか。
国政、日本学術会議、日本医師会、日本医学会で検証を行うという意思決定がなされていない状況を考慮しなければなりません。これまでは「戦争と医の倫理」の検証を進める会などは、4年に1回開催される日本医学会総会での意思決定を期待して主に日本医師会や日本医学会に働きかけてきましたが、今後はどうするかということが問われているように思います。この間の検証で、個々の専門医学会や大学医学部、医科大学が自省すべき史実も明らかとなっていますが、その気配が見られないところにどのように働きかければ自省が進むのかの議論です。具体的には、戦中の医学部教授会の議事録の開示、不正・非人道性が疑われる論文を学会誌に掲載した当該学会(日本病理学会、日本感染症学会など)における検証、不正・非人道性が疑われる学位授与論文が受理されている大学(京都大学、東京大学、新潟大学など)における当該学位授与の検証、九州大学医学部「生体解剖」事件に関する九州大学における検証、731部隊や戦中の学術に関する学術会議における検証などです。
また、国政レベルの検証に関して追加しておきたいのは国の資料の開示の問題です。1958年に米国から返還された731部隊と細菌戦に関する文書とその目録の公表や自衛隊の『衛生学校記事』の開示など防衛省が所蔵する旧陸軍防疫給水部資料の全面開示が行われていません。
厚生労働省社会・援護局業務課が2010年3月に、保管していた戦没者等援護関係の資料については、公開と後世への伝承を図るため、原則として戦後70周年に当たる2015年度までの5カ年の間に国立公文書館に移管することを発表し、ほぼ予定どおり実行されました。
移管された資料に記載された人数は延べ約2300万とのことです。国立公文書館ですでに公表された一覧表から、防疫給水という名のついた部隊の留守名簿が約70あることがわかりました。開示については「要審査」のため時間を要しましたが、731部隊、北京にあった1855部隊、シンガポールにあった9420部隊等については入手することができ、目下分析中です。しかし、それらは「要審査」とされ、審査期間は通常30日程度よりはるかに長期を要するなどの問題があります。これらの問題が一刻も早く解決され、全てが開示されれば、731部隊・「石井機関」の全容を明らかにする大きな一歩となると思われます。
―ありがとうございました。
細菌戦の系譜!!
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●第19回「衛生学校記事」情報公開裁判
●シンガポールで、731部隊は何をやっていたのか?
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●「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔」
●NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」
『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』の起こし
『満洲天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶
第5章 ソ連参戦と731部隊の撤退
1 証拠隠滅
1945年8月9日未明、ソ連軍のおよそ5000キロにわたる一斉進撃が開始した。
その4年前、1941年に日本とソ連の間で締結された中立条約は5年間有効で、期限は1946年4月までであったが、もろくも破られた。
連合国は1943年のテヘラン会談でソ連の参戦を呼びかけたが、ソ連側は明確な姿勢を示さなかった。しかし、1945年2月のクリミヤ半島におけるアメリカ、イギリス、ソ連によるヤルタ会談において、ヨーロッパ戦線すなわち対ドイツ戦終結後、3か月のうちに日本との戦争を開始することをソ連が言明した。
その背景にはアメリカの要求があった。その理由は第1に、この時点で実験中の原爆使用が可能であるか、アメリカ国内でも決定的な結論が出ていなかったことによる。第2に、アメリカは日本軍との本土決戦を考慮に入れ、兵力を温存しておきたかった。満州や朝鮮へ兵力を注ぐわけにはいかなかったのだ。それゆえに、ソ連軍の力を借りたかった。そして第3に、この時点でアメリカ軍は、関東軍の勢力は健在であるとみなしていた。
満蒙開拓団
「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」
日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第2章 地図から消えた神秘の大久野島
最初の毒ガス被害者
当時、病院で看護婦をしていた橋浜さんは、「病院では朝門を開いてから患者が切れ目なく訪れ、午前中に内科だけで100余人を診療した。全工場の作業員は最も多い時でも1000人~2000人位だったから、病人の比率はとても高いと言える。現有の病院ではとても処理できずに、工場区に3ヵ所の診療所を設け、作業員が近くで治療を受けられるようにした」と、語っている。
だが、けがをした人々が皆完全な治療を受けられたかというと、決してそうではなかった。毒にあたった人の治療はとても難しく、ほとんど特効薬などはない。
日本鬼子のおきみやげ
●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
■731部隊による人体実験・細菌兵器使用
―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。
2015年には、731部隊の跡地で心臓部ともいわれていた建物「ロ号棟」の基礎部分(東西170m、南北140 m四方)の中国による全面発掘が完了し、新館の展示スペースとともに8月15日に公開されました。この発掘は、元731部隊員の証言に基づいて作成された平面図を実証したもので、「ロ号棟」の存在が戦後70年にして白日のもとにさらされました。
●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳
■公然と
「その後、患者たちは毎日写真を撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。以前、死者たちはシュトラスブルグへ送られていました。この強制収容所には固有の火葬場がなかったからです。しかしこの実験の死者は再び送り返されて来て『血統遺産』(SSの研究所)で解剖されました。内臓、肺などは完全に腐食していました。その後数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2ヶ月続けられました。患者が何とか移送に耐えられるようになるとp、彼らは他の強制収容所へ移されました。」
知ってるつもり「731部隊と医学者たち」
●イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
水俣病問題
●小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
●小泉親彦と宮川米次の絆
●ヒロシマからフクシマへ
●宮川正
●「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
●ビキニ「死の灰」世界各地へ
●自衛隊とサリン
●相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
●日本の国家機密
●兒嶋俊郎さんを偲ぶ
●ニュース
トランプ大統領「雨だから」とドタキャン 戦没者の追悼式典への欠席で批判殺到
米軍、抗議申し入れさえも拒否 嘉手納・北谷町議会がヘリ事故で
東京も地方も「24時間型社会」はやめるべきだ
強制徴用賠償請求、今度は消滅時效が争点に
目に見えぬ環境危機、海の生物に何が起きているか?
「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ
松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示
“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)
真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活
●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
歴史研究者の伊香俊哉が指摘するように、ジュネーブの国際連盟日本代表団は連盟規約を改善し、安全保障を促進する道を探ろうとはしなかった。それとは逆に、外相幣原の指示で、侵略戦争を禁止する新条約に合わせた規約の改正に抵抗した。連盟の平和維持機能は東アジアでは発揮できないと主張して、彼らは中国をめぐる紛争の第3国による調停に繰り返し反対した。1928年から31年に至るどの事件においても、政党内閣は自衛の名のもとに中国で武力を行使する可能性を残しておこうとした。もし天皇やその側近や外務省が、連盟規約の強化と日中紛争への連盟の介入の受け入れにこれほど消極的でなく、満州事変の勃発までに新しい集団安全保障の合意が成立していれば、関東軍がその恣意的な武力行使を正当化するのはもっと困難になっていただろう。
●小泉親彦と昭和天皇
●近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~
●近代天皇制の真髄は
●福沢諭吉
●神武と戦争
●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
憲法9条を生かそう!!
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2018年11月11日日曜日
小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去
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小島三郎
『医学者たちの組織犯罪』(常石敬一著)より
メリットと業績
小島三郎について、石井部隊の部隊長も務めた北野政次は、その回顧録 「防疫秘話」(『日本医事新報』に連載)に次のように書いている。1936年5月15日、食中毒が発生した浜松に「東京より小島博士、石井博士も来られ・・・その後軍医学校の防疫研究室(主幹石井教官)の諸君が 研究に従事した。・・・各方面で研究され、小島博士の報告を始め、多数発表せられ」た。
小島は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。嘱託であったために石井とともに浜松に赴いたものであろう。この浜松行きは小島のその後の研究者人生で大きな転機であった。戦後、1947年に伝研が厚生省の予防衛生研究所(予研)と伝研とに改組された時、副所長として予研に移るまで、伝研で研究を続けた。小島は1954年には予研の所長に就任した。
小島はその回顧録で、率直に「・・・ 驚天動地の業績は、何にもない。何等鮮や(か)な、決め手のない、只判定勝ちの審判を持(待)っても、何も大したものはない」と述べている(『日本衛生学雑誌 第17巻)。小島のおもな業績は、日本で発生する食中毒の多くの原因であったサルモネラ系の細菌と赤痢菌の分類だった。サルモネラ系の細菌としては腸チフス菌とパラチフス菌をあげることができるが、この他に多様の菌がこの系統に合まれる。サルモネラ系の菌は通常人には飲食物を経由して感染する。おもに食肉、ネズミの排泄物が感染源だが、近年はペットのミドリガメなども感染源となっている。小島が食中毒の問題に取り組むきっかけとなったのが、浜松の集団食中毒事件だったようである。浜松の食中毒の原因となったゲルトネル菌も、サルモネラの一種である。
浜松の集団食中毒事件は、浜松第1中学校の運動会で配られた大福餅がもとで発生した。
最初の患者は5月11日午後に発病し、その後患者は増え続け最終的には2250人に上り、うち46人が死亡した。5月14日の『朝日新聞』は、上のような記事を載せている。記事にあるように初めはなんの病原菌も発見されず、毒物の混入が疑われ、浜松市はパニック状態に陥った。
このパニックを救ったのが、14日夜7時15分のラジオを通じての軍医学校の発表だった。軍医学校では12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。
「・・・患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり・・・・尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず」。これによって食中毒が原因であることがはっきりし、原因不明による不安は解消された。
細菌が特定できればそれで食中毒であることが確定する。細菌を特定するためには、事前にその細菌を保有していることが早道となる。保有している細菌でその免疫血清を作っておき、その血清と分離された原因と思われる細菌とがどう反応するかで、菌の同定が行われるのである。当時軍医学校では腸チフス、コレラ、赤痢、ペストについて診断用血清を作っていた。
軍医学校による原因の究明が手際よく行われたのは、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたためだった。その頃ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、前年、鳥取県でこの菌が原因の食中毒を経験し、死者4人を出していた陸軍だけだった。浜松での食中毒の原因究明にあたった西は、鳥取でのゲルトネル菌による食中毒の解明に従事していた。
浜松の食中毒事件がきっかけとなり日本でもゲルトネル菌、さらにはサルモネラ系の細菌全体についての研究が開始された。腸チフスやバラチフスは別格で以前から流行があり、研究もされ、またワクチンも開発されていた。
『日本細菌学会雑誌』32巻6号、1977年には「日本細菌学会(時によりこの名称とは異なる)」
の第1回(1927年)から第20回(1947年)までの講演の一覧がある。 それによるとゲルトネル菌とかサルモネラという言葉が登場するのは第9回(1935年)が最初である。この年は、ゲルトネル菌についての報告とサルモネラについての報告がそれぞれ1本ずつ行われている。翌年の第10回の学会では陸軍の西による鳥取での食中毒についての報告「ゲルトネル氏腸炎菌に依る食中毒」1本だけである。
ところが浜松事件の翌年、1937年の第11回には合わせて10本の論文が発表されている。 そのうち6本は、石井四郎とその部下である江口豊潔、白川初太郎、内藤良一、佐藤俊二、井上隆朝、それに勝矢俊一らの共同研究である。これは北野が「防疫秘話」に書いているように、 防研が中心となって浜松の食中毒の解明にあたったのだから当然の結果であった。ただ、当初陸軍での原因究明の中心だった北野と西による報告がないことに気付く。北野は満州医大の教授に出、また西も研修を終わり第一線部隊に戻つていた。その後、西は1943年に石井部隊の孫呉支部長に就任し、翌年、同部隊の教育部長となり、敗戦後ハバロフスクでソ連の裁判を受けることとなる。
第11回の学会では、サルモネラその他のこれに類する報告は陸軍のものが目立ったが、その後は大学や研究所の研究者によっても数多く行われるようになった。
石井とともに浜松に行った小島も、第11回の学会には「腸炎菌主としてゲルトネル菌免疫学的研究」を発表している。助教授時代とそれ以前の小島は、「日本細菌学会」では第4回に「抗毒血清の濃縮法に就て」を、第6回に「化学的に観たる微生物」いう報告を行っており、食中毒やサルモネラやゲルトネル菌についての発表はない。ところが第11回の学会以後、彼は日本各地の各種の食中毒とその原因となる菌について精力的に調査収集を行い、その結果を発表するようになった。そして1939年には、弟子の八田貞義と共著で『食中毒菌』(金原書店)を発表した。この本は日本でのサルモネラ学の基礎を築いたといわれる。またこの頃に小島は「日本国サルモネラ委員会」を作り、サルモネラ研究で日本と外国とを結ぶ役割を果たすようになっていた。この委員会は、コペンハーゲンの国際サルモネラ・センターから診断用血清のための株を多数贈られ、国内の研究の進展に貢献した。小島の主要業績であるサルモネラの分類も、この国際協力のひとつとして、学術振興会の援助を受けて行われた。
藤野恒三郎大阪大学名誉教授は、その著『藤野・日本細菌学史』で、小島が浜松でゲルトネル菌による食中毒を実地見聞してからサルモネラ委員会を作るまでの経過を「浜松大福餅食中毒事件からはじまって・・・わが国のサルモネラ学発展の基礎ができた」と書いている。
こうした歴史的な食中毒事件に小島が立ち会うことができたのは、彼が軍、特に石井と関係を持っていたからであろう。伝研の教授で浜松に出かけたのは小島1人である。食中毒は現在であれば厚生省の所管だが、当時は内務省が原因探求その他をすることになっていた。 内務省からも衛生課長と技師が現地に急行した。それは小島や石井が現地に到着したのと同じ日だった。ところがすでに陸軍ではその2日前の13日に、軍医学校の防疫学教室が原因がゲルトネル菌であることを突きとめていた。この事実は当時の日本の公衆衛生行政にとって、陸軍が大きな役割を果たしていたことを意味している。
北里柴三郎が1892年に創設した伝染病研究所は、内務省の研究機関だったが、1914年に文部省・東大に移管されていた。そのため内務省には自前の研究・検査機関がなかった。他方陸軍は機動力もあり、徴兵検査を受け持ち、大量の兵隊を抱えてその健康維持・増進に責任を負っており、陸軍省医務局が公衆衛生に大きな役割を果たしていたのだった。その意味で、戦後伝研が改組され、一部が厚生省傘下の予研になったことは、公衆衛生行政からすれば当然のことだったかもしれない。
こうした時代状況を考えると、小島が陸軍と密接な関係を持っていなければ、当時まだ食中毒の専門家ではなかった彼が、内務省の衛生担当者と同じ日に浜松入りすることも、また、原因となったゲルトネル菌の入手もありえなかっただろう。軍医学校の嘱託かそれに近い立場にあったために、いち早く食中毒の研究に着手できたことは事実である。研究者の側からすれば、これが嘱託研究者となることのメリットのひとつであった。そして小島の場合、このメリットがその後の医学者としての経歴を作ったのだった。
浜松に出かけて調査をした感激を小島は、帰京からまもない5月27日に行われた「食物中毒に関する座談会」で「・・・今回は初めて私がゲルトネル氏菌を研究室以外で扱ったので、つまり街頭進出でありまして・・・」と述べている(『日本医事新報』第717号)。これ以前は、いつも事後に食中毒を知らされ、1度も現地調査をしたことがなかったのだった。だが、彼が死の直前1962年8月に高田で講演し、死後印刷された回顧録では「日本国サルモネラ委員会」については多くが語られているが、そのきっかけとなったはずの浜松への出張については、それ以外の出張と一緒にわずかに触れられているだけである。20年もすると感激が薄くなるということであろうか、あるいはまた石井とのつながりで出かけたことが、気持ちにひっかかりを生んでいるのだろうか。
小島にとってもう1つのメリットは、自分の弟子の命を救ったことだった。彼の弟子で、戦後予研の所長や長崎大学の学長を務めた福見秀雄は、筆者に対して次のような話をしてくれた。自分が石井の防研に勤務したのは敗戦までの約1年弱だった。医者だから短期現役を志願すればよかったのだが、軍に行きたくなくて志願しなかった。そのため懲罰召集で1944年冬に、死ぬ確率の非常に高い南方に送られることとなった。小島先生と南京の多摩部隊に出張し、仕事が終わり1人で残っていた時に呼び戻された。和歌山で南方への船を待っている時に東京に呼び返された。これは小島先生が石井に話をしてくれて、防研に見習士官として勤務することになったためである。
小島は何回か南京を訪れているが、『日本医事新報』の1004号(1941年)の「消息」欄には次のような記述がある。「小島三郎氏 (伝研所員)陸軍軍医学校の依頼により学術研究の為、約2週間の予定を以て南京に出張さる」。『小島博士追悼録』によれば中国には1941年と1944年1月に文部省から派遣されて出張、となっている。
人体実験の業績
E・ヒルとJヴィクターは、第1章で述べたように軍医学校の嘱託であった小島三郎、細谷省吾、内野仙治を「ハルビンあるいは日本で生物戦に関して研究していた人たち」の一員として尋問している。したがってヒル&ヴィクター・レポートにある尋問記録は、小島たちが石井機関との関連で行ったと述べた研究その他を記述したものと考えるべきである。
彼らが軍医学校防疫研究室の嘱託として行った研究を見て行くと、嘱託であったからこそ可能だった研究をいくつか指摘することができる。その内容はワクチン開発など人体実験によって研究が著しく進展したもの、あるいは軍という機関と関係を持ったことで得た疫学情報が、研究の中核をなしてたもの、などである 。
細谷の場合、情報の流れを軍医学校研究部の資料によって、もう少し具体的に示すことができる。1943年末に軍医学校研究部(部長稲垣克彦軍医少佐)は軍医学校調査室を前身として発足した。研究部の任務は「情報・文献の蒐集・配布、各研究所間の調査連絡に当り、研究要員・資材の供給に違算なからしめ、碧素(「ペニシリン」)、結核、マラリヤ等動員会議の運営を行い研究の催進に努め・・・」ることだった(『軍医学校研究部年鑑』昭和18年12月―昭和19年12月)。
小島三郎(ウキペディア)
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年(明治21年)8月21日 - 1962年(昭和37年)9月9日)は、日本の医師。医学博士。
岐阜県各務原(かかみがはら)市出身。
人物
・旧姓は厳田。岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)卒業後、実業家を目指して東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、21歳の時に羽島郡中屋村(現・各務原市)の叔母の小島家に養子にだされ、小島姓となる[1]。小島家が代々医者であったため、家業を継ぐために東京高等商業学校を中退している。
・医学界のみならず、スポーツ界においても、1938年(昭和13年)に全日本スキー連盟会長に就任、近代日本スキーの基礎をつくりあげている。
・伝染病予防、予防衛生学、公衆衛生など、病気の予防に対する研究を終生行っている。研究内容は防疫、予防、上下水道、大気汚染、食中毒と多岐にわたる。特に、予防衛生学の基礎確立に尽力している。コレラ、腸チフス、赤痢の消化器系伝染病の撲滅を目指し、赤痢についてはSS寒天培地、検査法の改良に力を注いでいる。
・インフルエンザに対してまだ国内で関心が無い時、インフルエンザウイルス研究を始めている。
来歴
・1888年(明治21年) - 岐阜県羽栗郡川島村河田(現・各務原市川島河田町)にて厳田弾之丞の三男として生まれる。
・1909年(明治42年) - 東京高等商業学校中退。第七高等学校造士館へ入学。
・1912年(明治45年) - 第7高等学校を卒業。東京帝国大学医科大学に入学。
・1916年(大正5年) - 東京帝国大学医科大学卒業。
・1917年(大正6年) - 伝染病研究所に入所。
・1920年(大正9年) - 医学博士。
・1926年(大正15年) - 細菌学、衛生研究の為、2年間ドイツへ留学。
・1935年(昭和10年) - 東京帝国大学教授に任じられる。戦時中は陸軍1644部隊にて細菌戦の研究に携わる。
・1947年(昭和22年) - 国立予防衛生研究所設立とともに副所長として就任。
・1954年(昭和29年) - 国立予防衛生研究所所長に就任。
・1958年(昭和33年) - 国立予防衛生研究所所長勇退。保健文化賞受賞。
その他
・幼少時より頭が良く神童といわれていた。事実特例として、満4歳で博文尋常小学校(現各務原市立川島小学校)に入学している。
・スポーツ万能であり、中学で野球、高校でボート、大学では馬術、水泳、スキーなどで活躍していたという。
・1919年(大正8年)に伝染病研究所を辞めて中屋村の家業の医院を継いでいる。しかし、伝染病研究所の再三の要請や、研究を続けたいという思いもあり、1年あまりで家業を譲り、再び伝染病研究所に入所している。
・娘の露子は東京大学医学部助教授・東京共済病院長中川圭一に嫁ぐ。参議院議員・環境事務次官の中川雅治は孫。
・彼の功績をたたえ、1965年(昭和40年)より、小島三郎記念賞が設定され、病原微生物学、感染症、公衆衛生学に対する優れた研究、技術に対し贈られている。
・使用していた医療器具、愛用品、手紙などは、各務原市川島ふるさと史料館(各務原市川島会館4階)に保管展示してある。また出生地には記念碑が建っている。
小島三郎
『医学者たちの組織犯罪』(常石敬一著)より
メリットと業績
小島三郎について、石井部隊の部隊長も務めた北野政次は、その回顧録 「防疫秘話」(『日本医事新報』に連載)に次のように書いている。1936年5月15日、食中毒が発生した浜松に「東京より小島博士、石井博士も来られ・・・その後軍医学校の防疫研究室(主幹石井教官)の諸君が 研究に従事した。・・・各方面で研究され、小島博士の報告を始め、多数発表せられ」た。
小島は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。嘱託であったために石井とともに浜松に赴いたものであろう。この浜松行きは小島のその後の研究者人生で大きな転機であった。戦後、1947年に伝研が厚生省の予防衛生研究所(予研)と伝研とに改組された時、副所長として予研に移るまで、伝研で研究を続けた。小島は1954年には予研の所長に就任した。
小島はその回顧録で、率直に「・・・ 驚天動地の業績は、何にもない。何等鮮や(か)な、決め手のない、只判定勝ちの審判を持(待)っても、何も大したものはない」と述べている(『日本衛生学雑誌 第17巻)。小島のおもな業績は、日本で発生する食中毒の多くの原因であったサルモネラ系の細菌と赤痢菌の分類だった。サルモネラ系の細菌としては腸チフス菌とパラチフス菌をあげることができるが、この他に多様の菌がこの系統に合まれる。サルモネラ系の菌は通常人には飲食物を経由して感染する。おもに食肉、ネズミの排泄物が感染源だが、近年はペットのミドリガメなども感染源となっている。小島が食中毒の問題に取り組むきっかけとなったのが、浜松の集団食中毒事件だったようである。浜松の食中毒の原因となったゲルトネル菌も、サルモネラの一種である。
浜松の集団食中毒事件は、浜松第1中学校の運動会で配られた大福餅がもとで発生した。
最初の患者は5月11日午後に発病し、その後患者は増え続け最終的には2250人に上り、うち46人が死亡した。5月14日の『朝日新聞』は、上のような記事を載せている。記事にあるように初めはなんの病原菌も発見されず、毒物の混入が疑われ、浜松市はパニック状態に陥った。
このパニックを救ったのが、14日夜7時15分のラジオを通じての軍医学校の発表だった。軍医学校では12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。
「・・・患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり・・・・尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず」。これによって食中毒が原因であることがはっきりし、原因不明による不安は解消された。
細菌が特定できればそれで食中毒であることが確定する。細菌を特定するためには、事前にその細菌を保有していることが早道となる。保有している細菌でその免疫血清を作っておき、その血清と分離された原因と思われる細菌とがどう反応するかで、菌の同定が行われるのである。当時軍医学校では腸チフス、コレラ、赤痢、ペストについて診断用血清を作っていた。
軍医学校による原因の究明が手際よく行われたのは、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたためだった。その頃ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、前年、鳥取県でこの菌が原因の食中毒を経験し、死者4人を出していた陸軍だけだった。浜松での食中毒の原因究明にあたった西は、鳥取でのゲルトネル菌による食中毒の解明に従事していた。
浜松の食中毒事件がきっかけとなり日本でもゲルトネル菌、さらにはサルモネラ系の細菌全体についての研究が開始された。腸チフスやバラチフスは別格で以前から流行があり、研究もされ、またワクチンも開発されていた。
『日本細菌学会雑誌』32巻6号、1977年には「日本細菌学会(時によりこの名称とは異なる)」
の第1回(1927年)から第20回(1947年)までの講演の一覧がある。 それによるとゲルトネル菌とかサルモネラという言葉が登場するのは第9回(1935年)が最初である。この年は、ゲルトネル菌についての報告とサルモネラについての報告がそれぞれ1本ずつ行われている。翌年の第10回の学会では陸軍の西による鳥取での食中毒についての報告「ゲルトネル氏腸炎菌に依る食中毒」1本だけである。
ところが浜松事件の翌年、1937年の第11回には合わせて10本の論文が発表されている。 そのうち6本は、石井四郎とその部下である江口豊潔、白川初太郎、内藤良一、佐藤俊二、井上隆朝、それに勝矢俊一らの共同研究である。これは北野が「防疫秘話」に書いているように、 防研が中心となって浜松の食中毒の解明にあたったのだから当然の結果であった。ただ、当初陸軍での原因究明の中心だった北野と西による報告がないことに気付く。北野は満州医大の教授に出、また西も研修を終わり第一線部隊に戻つていた。その後、西は1943年に石井部隊の孫呉支部長に就任し、翌年、同部隊の教育部長となり、敗戦後ハバロフスクでソ連の裁判を受けることとなる。
第11回の学会では、サルモネラその他のこれに類する報告は陸軍のものが目立ったが、その後は大学や研究所の研究者によっても数多く行われるようになった。
石井とともに浜松に行った小島も、第11回の学会には「腸炎菌主としてゲルトネル菌免疫学的研究」を発表している。助教授時代とそれ以前の小島は、「日本細菌学会」では第4回に「抗毒血清の濃縮法に就て」を、第6回に「化学的に観たる微生物」いう報告を行っており、食中毒やサルモネラやゲルトネル菌についての発表はない。ところが第11回の学会以後、彼は日本各地の各種の食中毒とその原因となる菌について精力的に調査収集を行い、その結果を発表するようになった。そして1939年には、弟子の八田貞義と共著で『食中毒菌』(金原書店)を発表した。この本は日本でのサルモネラ学の基礎を築いたといわれる。またこの頃に小島は「日本国サルモネラ委員会」を作り、サルモネラ研究で日本と外国とを結ぶ役割を果たすようになっていた。この委員会は、コペンハーゲンの国際サルモネラ・センターから診断用血清のための株を多数贈られ、国内の研究の進展に貢献した。小島の主要業績であるサルモネラの分類も、この国際協力のひとつとして、学術振興会の援助を受けて行われた。
藤野恒三郎大阪大学名誉教授は、その著『藤野・日本細菌学史』で、小島が浜松でゲルトネル菌による食中毒を実地見聞してからサルモネラ委員会を作るまでの経過を「浜松大福餅食中毒事件からはじまって・・・わが国のサルモネラ学発展の基礎ができた」と書いている。
こうした歴史的な食中毒事件に小島が立ち会うことができたのは、彼が軍、特に石井と関係を持っていたからであろう。伝研の教授で浜松に出かけたのは小島1人である。食中毒は現在であれば厚生省の所管だが、当時は内務省が原因探求その他をすることになっていた。 内務省からも衛生課長と技師が現地に急行した。それは小島や石井が現地に到着したのと同じ日だった。ところがすでに陸軍ではその2日前の13日に、軍医学校の防疫学教室が原因がゲルトネル菌であることを突きとめていた。この事実は当時の日本の公衆衛生行政にとって、陸軍が大きな役割を果たしていたことを意味している。
北里柴三郎が1892年に創設した伝染病研究所は、内務省の研究機関だったが、1914年に文部省・東大に移管されていた。そのため内務省には自前の研究・検査機関がなかった。他方陸軍は機動力もあり、徴兵検査を受け持ち、大量の兵隊を抱えてその健康維持・増進に責任を負っており、陸軍省医務局が公衆衛生に大きな役割を果たしていたのだった。その意味で、戦後伝研が改組され、一部が厚生省傘下の予研になったことは、公衆衛生行政からすれば当然のことだったかもしれない。
こうした時代状況を考えると、小島が陸軍と密接な関係を持っていなければ、当時まだ食中毒の専門家ではなかった彼が、内務省の衛生担当者と同じ日に浜松入りすることも、また、原因となったゲルトネル菌の入手もありえなかっただろう。軍医学校の嘱託かそれに近い立場にあったために、いち早く食中毒の研究に着手できたことは事実である。研究者の側からすれば、これが嘱託研究者となることのメリットのひとつであった。そして小島の場合、このメリットがその後の医学者としての経歴を作ったのだった。
浜松に出かけて調査をした感激を小島は、帰京からまもない5月27日に行われた「食物中毒に関する座談会」で「・・・今回は初めて私がゲルトネル氏菌を研究室以外で扱ったので、つまり街頭進出でありまして・・・」と述べている(『日本医事新報』第717号)。これ以前は、いつも事後に食中毒を知らされ、1度も現地調査をしたことがなかったのだった。だが、彼が死の直前1962年8月に高田で講演し、死後印刷された回顧録では「日本国サルモネラ委員会」については多くが語られているが、そのきっかけとなったはずの浜松への出張については、それ以外の出張と一緒にわずかに触れられているだけである。20年もすると感激が薄くなるということであろうか、あるいはまた石井とのつながりで出かけたことが、気持ちにひっかかりを生んでいるのだろうか。
小島にとってもう1つのメリットは、自分の弟子の命を救ったことだった。彼の弟子で、戦後予研の所長や長崎大学の学長を務めた福見秀雄は、筆者に対して次のような話をしてくれた。自分が石井の防研に勤務したのは敗戦までの約1年弱だった。医者だから短期現役を志願すればよかったのだが、軍に行きたくなくて志願しなかった。そのため懲罰召集で1944年冬に、死ぬ確率の非常に高い南方に送られることとなった。小島先生と南京の多摩部隊に出張し、仕事が終わり1人で残っていた時に呼び戻された。和歌山で南方への船を待っている時に東京に呼び返された。これは小島先生が石井に話をしてくれて、防研に見習士官として勤務することになったためである。
小島は何回か南京を訪れているが、『日本医事新報』の1004号(1941年)の「消息」欄には次のような記述がある。「小島三郎氏 (伝研所員)陸軍軍医学校の依頼により学術研究の為、約2週間の予定を以て南京に出張さる」。『小島博士追悼録』によれば中国には1941年と1944年1月に文部省から派遣されて出張、となっている。
人体実験の業績
E・ヒルとJヴィクターは、第1章で述べたように軍医学校の嘱託であった小島三郎、細谷省吾、内野仙治を「ハルビンあるいは日本で生物戦に関して研究していた人たち」の一員として尋問している。したがってヒル&ヴィクター・レポートにある尋問記録は、小島たちが石井機関との関連で行ったと述べた研究その他を記述したものと考えるべきである。
彼らが軍医学校防疫研究室の嘱託として行った研究を見て行くと、嘱託であったからこそ可能だった研究をいくつか指摘することができる。その内容はワクチン開発など人体実験によって研究が著しく進展したもの、あるいは軍という機関と関係を持ったことで得た疫学情報が、研究の中核をなしてたもの、などである 。
細谷の場合、情報の流れを軍医学校研究部の資料によって、もう少し具体的に示すことができる。1943年末に軍医学校研究部(部長稲垣克彦軍医少佐)は軍医学校調査室を前身として発足した。研究部の任務は「情報・文献の蒐集・配布、各研究所間の調査連絡に当り、研究要員・資材の供給に違算なからしめ、碧素(「ペニシリン」)、結核、マラリヤ等動員会議の運営を行い研究の催進に努め・・・」ることだった(『軍医学校研究部年鑑』昭和18年12月―昭和19年12月)。
小島三郎(ウキペディア)
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年(明治21年)8月21日 - 1962年(昭和37年)9月9日)は、日本の医師。医学博士。
岐阜県各務原(かかみがはら)市出身。
人物
・旧姓は厳田。岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)卒業後、実業家を目指して東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、21歳の時に羽島郡中屋村(現・各務原市)の叔母の小島家に養子にだされ、小島姓となる[1]。小島家が代々医者であったため、家業を継ぐために東京高等商業学校を中退している。
・医学界のみならず、スポーツ界においても、1938年(昭和13年)に全日本スキー連盟会長に就任、近代日本スキーの基礎をつくりあげている。
・伝染病予防、予防衛生学、公衆衛生など、病気の予防に対する研究を終生行っている。研究内容は防疫、予防、上下水道、大気汚染、食中毒と多岐にわたる。特に、予防衛生学の基礎確立に尽力している。コレラ、腸チフス、赤痢の消化器系伝染病の撲滅を目指し、赤痢についてはSS寒天培地、検査法の改良に力を注いでいる。
・インフルエンザに対してまだ国内で関心が無い時、インフルエンザウイルス研究を始めている。
来歴
・1888年(明治21年) - 岐阜県羽栗郡川島村河田(現・各務原市川島河田町)にて厳田弾之丞の三男として生まれる。
・1909年(明治42年) - 東京高等商業学校中退。第七高等学校造士館へ入学。
・1912年(明治45年) - 第7高等学校を卒業。東京帝国大学医科大学に入学。
・1916年(大正5年) - 東京帝国大学医科大学卒業。
・1917年(大正6年) - 伝染病研究所に入所。
・1920年(大正9年) - 医学博士。
・1926年(大正15年) - 細菌学、衛生研究の為、2年間ドイツへ留学。
・1935年(昭和10年) - 東京帝国大学教授に任じられる。戦時中は陸軍1644部隊にて細菌戦の研究に携わる。
・1947年(昭和22年) - 国立予防衛生研究所設立とともに副所長として就任。
・1954年(昭和29年) - 国立予防衛生研究所所長に就任。
・1958年(昭和33年) - 国立予防衛生研究所所長勇退。保健文化賞受賞。
その他
・幼少時より頭が良く神童といわれていた。事実特例として、満4歳で博文尋常小学校(現各務原市立川島小学校)に入学している。
・スポーツ万能であり、中学で野球、高校でボート、大学では馬術、水泳、スキーなどで活躍していたという。
・1919年(大正8年)に伝染病研究所を辞めて中屋村の家業の医院を継いでいる。しかし、伝染病研究所の再三の要請や、研究を続けたいという思いもあり、1年あまりで家業を譲り、再び伝染病研究所に入所している。
・娘の露子は東京大学医学部助教授・東京共済病院長中川圭一に嫁ぐ。参議院議員・環境事務次官の中川雅治は孫。
・彼の功績をたたえ、1965年(昭和40年)より、小島三郎記念賞が設定され、病原微生物学、感染症、公衆衛生学に対する優れた研究、技術に対し贈られている。
・使用していた医療器具、愛用品、手紙などは、各務原市川島ふるさと史料館(各務原市川島会館4階)に保管展示してある。また出生地には記念碑が建っている。
イタイイタイ病を究明した男 萩野昇
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萩野 昇(富山のシュヴァイツァー)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
イバラの道を進んだ医師
このイタイイタイ病を発見し、原因を解明したのが地元の開業医、萩野昇である。イタイイタイ病の原因は神岡鉱山から排出されたカドミウムであったが、この原因解明までの道のりは平坦ではなかった。それは険しいイバラの道に等しかった。「田舎の開業医に何が分かる」という医学界の冷たい視線を浴びながら、萩野昇は自説の正しさを、それこそ血みどろになって証明したのだった。真実を真実として学問的に追求し、そして逆境の中でイタイイタイ病の原因を突き止めたのである。萩野は身を切られるような激痛に苦しむ患者を哀れみ、その想像を絶する苦しみを自らの肌で感じ、そして何よりも患者を救いたいという使命感を持っていた。萩野に私心はなかった。目の前の悲惨な患者を助けたい、「痛い、痛い」と叫びながら死んでいった罪のない患者の無念にむくいたい、医師としての純粋な気持が病因解明の原動力となっていた。
大正4年に生まれた萩野昇は、旧制金沢医科大学を昭和15年に卒業すると、研究生として病理学を専攻した。しかし研究する間もなく軍医として徴兵され、病理学教室に籍を残したまま7年間のあいだ戦地の野戦病院で傷病兵の治療にあたった。そして中国大陸で終戦を迎えると、昭和21年3月21日、7年ぶりに故郷の富山県へ帰ってきた。
終戦当時の日本は、都市部のほとんどが空襲によって焼け野原となっていた。人々は栄養不足に陥り、シラミまみれのボロボロに汚れた服を着ていた。それは富山市も例外ではなかった。富山駅に着いた萩野は、かつて賑やかだった街並みが瓦礫となり、まばらに建つ粗末なバラックに愕然となった。それは7年前に歓声とともに送られた富山市の光景ではなかった。変わりはてた街並み、生気を失った人々の疲れ切った表情、崩れ落ちた建物を見ながら、萩野は富山市から6キロ離れた婦負郡婦中町(熊野の里)の生家へと足を速めた。富山の市街地から遠ざかるにつれて、記憶に残る懐かしい古里の風景がしだいに見えてきた。
昔のままの有沢橋を渡りながら神通川を眺めると、神通川は水面をきらめかせて清らかに流れていた。遠くに見える剣岳、立山、薬師岳などの北アルプス連峰も子供の頃と同じだった。生家のある婦負郡婦中町は豊かな穀倉地帯で、幸いなことに空爆をまぬがれていた。水田に点在する農家、昔からの樹木などの懐かしい風景は7年前の記憶のままだった。
戦地で働いている間、萩野は家族とは音信が途絶えていた。そのため家族は自分の無事を知らず、また家族の無事も萩野は知らずにいた。はたして無事だろうか、萩野はせく気持ちを抑えながら生家の門をくぐると、皆は昇の元気な姿を見て驚き、喜びの表情で迎え入れた。死んだと思っていた昇が無事に帰ってきた。その驚きと喜びは無理もないことだった。互いに涙を流しながら無事を喜びあった。
病院を継ぐ
萩野家は代々医師の家系である。初代は富山藩前田侯のお抱え医師で、昇の父は高松宮家の侍従医を勤め、その後に萩野病院の院長として働いていた。萩野家は広大な土地を持ち、病院を経営するかたわら 200人の小作人を持つ地主でもあった。このように萩野家のかつての暮らしは裕福だった。萩野は故郷に帰ったら、母校の金沢医大で病理学の研究をしたいと考えていた。しかし病院長であった父親が戦争中に亡くなり、多額の財産税や相続税をとられ、萩野家はその日の食料も買えないほど生活に困っていた。萩野家は名家であったが、戦争によって落ちぶれていた。生活費がなく子供たちの学費も出せない状態であった。萩野は年老いた母や幼い弟たちを養わなければならない立場になった。そのため金沢医大での研究をあきらめ、父親の後を継いで、翌日から萩野病院の四代目院長として診療にあたることになった。萩野病院に若い跡継ぎの先生が戻ってきたことから多くの患者が押し掛けてきた。
イタイイタイ病と出会う
萩野が整形外科医として父の白衣を着て診察を始めると、すぐにある奇妙な病気に気づくことになる。それは神経や骨の激しい痛みを訴える病気であった。彼は7年間、軍医として多くの神経痛の患者を診察してきたが、これほど激しい痛みを訴える患者を診察したことはなかった。しかも痛みは慢性進行性で、痛みが始まると数年後には患者はかならず多発性の骨折をきたした。この多発性骨折をきたす病気は何だろうか、まったく見当がつかなかった。同じ症状を訴える患者が次々に萩野病院に押し掛けてきた。骨折の痛みに悲鳴を上げながら患者は診察を受けにきた。どの患者も「痛い、痛い」と悲痛な痛みを切なく訴えた。萩野はレントゲン写真をみて驚いた。身体中の骨は枯れ枝のようであった。痛みの訴えの切実さが理解できた。「痛い、痛い」と泣き叫ぶ患者の様子から、看護婦はこの悲惨な患者を「イタイイタイさん」と呼んでいた。そして萩野病院ではいつしかこの病気を「イタイイタイ病」と自然に呼ぶようになった。
イタイイタイ病の初期症状は軽度で、農繁期や過労が続いたあとに、手や腰に痛みが出る程度だった。また入浴や休養によって回復することから、最初は農作業による単なる過労と軽く受け止められていた。この初期症状の患者は診察しても外見上の異常は見られない。しかし痛みはしだいに強くなり、大腿部、背部などに神経痛に似た、切られるような鋭い痛みが走り、骨のレントゲンでは骨粗鬆症の所見が見られた。痛みは年単位で悪化し、患者は全身に痛みを訴え、歩く際には大腿部の痛みをかばうため、アヒルのような格好で歩くようになった。
そして痛みのため仕事や家事ができなくなり、数年後には骨折をきたし、激しい痛みから歩行も困難となった。骨は薄くもろくなり、身体を動かしただけで、また医師が細い腕の脈をとるだけで、あるいは咳をしただけで容易に骨折を引き起こした。患者は多発性の骨折のため、昼夜を問わず「痛い、痛い」と訴えるようになった。患者の中には全身72ゕ所に骨折をきたした患者がいた。また脊椎の圧迫骨折のため30センチも背が縮み、まるで子供に戻ったように小さくなった患者も多かった。患者たちは何ら治療法のないまま、苦しみの中で寝たきりになっていった。この病魔におかされた患者は、あまりの痛さから、また精神的苦悩から自殺に至った者もいた。
イタイイタイ病の患者のほとんどが40歳を過ぎた中年以上の女性で、子供の患者はみられず、男性患者はまれであった。更年期の主婦、しかも子供を多く産んだ経産婦がほとんどであった。中年女性に発症することから、イタイイタイ病を抱えた家庭は、家事を支える主婦を失ったのと同じ状態に陥った。病魔に襲われた主婦は農作業はできず、家事もできず、家計は苦しくなった。当時は医療保険のない時代である。医療費はかさみ家族全体が貧困による生活苦から抜け出せずにいた。また中期症状として恥骨の痛みがあり、股を開くことができず、排便も困難になり、夫婦生活はもちろん不可能となった。
夫はいっこうに治らない妻を介護しながら、妻の代わりに子供の世話、家事をしなければならなかった。そしてこのような家庭にあって夫はしだいに酒に溺れ、家庭そのものが崩壊していった。この病気は病名もわからず、治るあてもなく、家庭を絶望のどん底に突き落とした。家族はまるで呪われた病気であるかのように業病ととらえていた。業病とは前世の因縁によって発症する宿命的病気を意味しており、このため家族は病人の存在を他人に知られることを恐れ、病人を周囲から隠そうとした。
萩野病院には同じような症状を訴える患者が押しかけ、外来患者の7割を占めるまでになった。それでも歩いて受診できる患者はまだよい方で、歩けない患者はリアカーに乗せられ、あるいは寝たきりの患者は畳ごと担ぎ上げられて病院へ運ばれてきた。外来患者の多くが病名も分からない悲惨な病魔に襲われていた。そして入院患者の多くもイタイイタイ病患者で占められた。
生ける屍
往診に出かけると、寝たきりの老婆が薄暗い部屋の奥で痛みに耐えながら動けないでいた。最初のうちは家族の同情があっても、慢性進行性の治らない病気に家族からしだいに疎んじられ、家の奥に放置されたまま孤独のなかで病魔に耐えていた。家族は近所の目をはばかり、奥の納屋に病人を隠すように寝かせていた。イタイイタイ病の末期患者は、寝返りをしただけで、あるいは笑っただけで骨折をした。それは身のすくむような悲惨な状態であった。身体中の骨が多発性の骨折をきたし、患者の手足は数ゕ所でねじ曲がり、どこが肘なのか膝なのか分からないほどであった。また布団の重さによっても骨折することから、やぐらを組んで布団が掛けられていた。風呂に入れてやることもできず、まるで地獄絵のようであった。萩野は骨がボロボロに折れている患者を診察するたび、胸がふさがれる気持ちになった。
この病気は脳をおかさなかった。そのため最後まで患者の意識ははっきりしていて、死ぬまで痛みから逃れることはできなかった。また内臓にも病変をきたさないことから寝たきりのまま10年、20年と生き続け、生身を切られるような激痛に最後まであえぎながら、生きる屍となって衰弱していった。そして食事が摂れなくなり、孤独と絶望の中で死んでいった。火葬された遺体は、頭部以外の骨はほとんどが灰となって、骨としての原型をとどめなかった。いつ骨折しても不思議ではないほど骨は薄く、箸でつまめないほどもろくなっていた。
神経痛やリウマチでは骨折をきたすことがない。そのためイタイイタイ病は神経痛やリウマチとは明らかに違っていた。萩野にとってこれまで見たことも、経験したこともない病気だった。萩野はこの奇妙な疾患をなんとか治そうと医学書や医学雑誌などを調べたが、どこにもそのような病気の記載はなかった。午前中は外来診療、午後は往診、そして深夜になってイタイイタイ病の研究という毎日が始まった。
病因の究明に乗り出す
萩野はこの悲惨な患者を救済するため、すべてを投げうってイタイイタイ病の研究に打ち込んだ。業病とされる患者を前にして、この患者たちに何の罪があるのだろうか、あるはずはない。病気には病気になる病因が必ずあるはずと考えていた。そして目の前の悲惨な患者を助けたい一心でこの奇妙な病気の解明に乗り出した。
萩野はもともと研究心が強かった。大学を卒業して病理学を専攻したこともその研究心の表れであった。病理学とは患者の解剖や動物実験によって病気の本当の原因を明らかにする学問である。病気の原因が明らかになって、初めて治療が可能になることから、病理学は医学の基本的な学問である。イタイイタイ病にも必ず原因があるはずだ。その原因が分かれば、治療法も確立し患者を救うことができる。萩野はそれが自分に課せられた使命であると信じていた。過労、貧血、栄養障害、寄生虫、あらゆる原因を想定して検査をしたが、この奇病の原因は依然として不明だった。治療法がわからないまま患者だけが増えていった。そして地獄の苦しみの中で患者は死んでいった。
萩野は萩野病院に残されたカルテを丹念に調べてみた。二代目の祖父の時代にはこの病気の記録はなかった。イタイイタイ病についての最初の症例は大正時代、三代目の父の時代に記録が残されていた。父はすでに亡くなっていて、この奇病を父がどのように考えていたかを訊くことはできなかった。しかし得体の知れないこの奇病を、父は富山の風土病と考えていたようであった。
イタイイタイ病患者は神通川流域に住む40歳以上の農村の主婦が大部分だった。また子供をたくさん産んだ更年期以降の主婦に多くみられた。さらに地元出身の主婦の発症年齢は若く、他から嫁に来た主婦の発症年齢は遅かった。そして不思議なことに、娘時代まで神通川流域で育ち、他の土地に嫁に行った女性は発症しなかった。この病気は血縁のない姑と嫁が同じように発病したことから遺伝病は考えられなかった。
イタイイタイ病が風土病とされたのも無理はなかった。この疾患は婦中町を中心とした数キロ四方の地区に限られ、日本のどの地区にもこのような病気は見られなかったからである。神通川6キロ下流にある富山市にも患者は存在しなかった。萩野は患者を富山市の県立中央病院、市民病院、赤十字病院などへ紹介したが、腎臓病、リウマチ、脊椎カリエスなど様々な診断がつけられ冷たく帰されるだけだった。病因も分からず、治療法も分からず、また他の医師の興味も引かないまま患者は帰されてきた。
暗中模索の研究
田舎の開業医にすぎない萩野だけではイタイイタイ病の解明は困難だった。そのため昭和22年、母校である金沢大学医学部第一病理学教室を訪ね、イタイイタイ病解明への支援を頼むことにした。第一病理学教室では恩師の中村八太郎教授はすでに亡くなっていたが、萩野の先輩にあたる宮田栄が教授になっていた。萩野がイタイイタイ病の説明をすると、宮田教授は共同研究を快く引き受けてくれた。そして宮田教授は暇を見つけては萩野病院を訪ね、萩野と一緒に患者の家を訪問し、イタイイタイ病の究明に力を貸してくれた。患者の頭から足先までレントゲンを撮り、採血、採尿を繰り返したが原因は分からなかった。
この病気の初期症状は骨粗鬆症で、中期以降の症状は骨軟化症の症状と一致していた。そのため骨軟化症の治療薬であるビタミンDの投与を行ったが、終戦直後のビタミンDは粗悪品だったため、下痢、嘔吐などの副作用ばかりで治療効果はみられなかった。原因は依然として不明のまま時間だけが過ぎていった。骨粗鬆症、骨軟化症というキーワードは分かっていた。しかしなぜ骨粗鬆症、骨軟化症を引き起こすのか、そのメカニズムが分からなかった。
イタイイタイ病が通常の骨軟化症と違うのは、腎臓の尿細管がまず障害され、尿中のタンパク、カルシウムが増加することだった。カルシウムの排泄が増加すれば、骨が薄くなるのは当然であるが、なぜ身体に必要なカルシウムが尿から排泄されるのかが分からなかった。原因不明のまま、新規患者は昭和21年には40人、昭和22年には20人、昭和23年には30人となり、総患者数は増加していった。
萩野は原因の一つとしてウイルスや細菌などの感染症を疑い、病院の片隅に動物小屋を作って、患者の便、尿、血液などを数10匹のラットやウサギに感染させる実験を繰り返したが、動物はなんら変化を示さなかった。終戦直後の大学の研究費は限られていた。そのため研究費の大部分を萩野が出していたが、肝心の研究成果は得られなかった。そして昭和30年、宮田教授が脳卒中で倒れて故人となり、10年間の共同研究は暗中模索の中で挫折した。
昭和30年5月、東京北品川にある河野臨床医学研究所の河野稔博士がリウマチの講演のため富山県を訪れた。そして富山県厚生部から婦中町にリウマチに似た不思議な病気があることを聞き、河野稔は萩野病院を訪ねてきた。彼はこの悲惨な奇病を診察し、この病気は日本に類のない悲惨な奇病で、原因解明のための共同研究を約束した。河野稔はリウマチの専門家であったが、イタイイタイ病はリウマチとは明らかに違う疾患と断言した。また血縁のない姑、嫁が罹患することから遺伝性疾患とは考えられなかった。同じ地区に多発することから感染症の可能性が高いと考え、トリコマイシンの発見者である東大名誉教授、細谷省吾を伴い本格的な共同研究を行うことになった。
全国に知れ渡った奇病
昭和30月8月4日、富山新聞朝刊の社会面トップ記事を見た富山県民は驚いた。それは富山新聞がイタイイタイ病をトップ記事として大きく報じたからである。イタイイタイ病が五段抜きの見出しで、県民の目の前に飛び込んできた。この富山新聞の記事によって、婦中町熊野地区の奇病、イタイイタイ病は一般の人たちの注目を集めるようになった。
富山新聞の八田清信記者が書いた記事はイタイイタイ病を次のように説明していた。
この病気はこれまで医学界に報告されていない奇病であり、婦中町熊野地帯に多発していること。日本医学界の権威者たちが大挙して来県し、正体解明のためメスを入れることになったこと。このイタイイタイ病は婦中町の熊野地区に大正時代から存在していて、業病、奇病とされていたこと。そして「痛い、痛い」と泣き叫びながら死んでいった患者が100人以上、現在も100人以上の患者が苦しんでいること。さらにこの奇病は地元の萩野病院長、萩野昇博士が発見者であり、リウマチの研究者、細菌学者などが中心となり奇病の解明がなされていること、などであった。
この富山新聞の報道が富山県民を驚かした。それまで県民は自分たちの住んでいる県内に、このような病気が存在することを知らなかった。一方、患者たちは、自分たちの病気がイタイイタイ病という奇妙な名前の病気であることを知って困惑にかられた。この新聞報道をきっかけにマスコミがこぞって動きだし、医学界の権威者が注目したことから、婦中町に閉じこもっていた奇病が富山県だけでなく、日本の津々浦々まで知れ渡るようになった。富山新聞の記事が富山県婦中町熊野地区の奇病を世に知られるきっかけを作った。
昭和30月8月12日、イタイイタイ病の謎を解くため、河野稔を中心とした10数人の医師らによる集団検診が萩野病院で行われた。そしてそれらしい症状を持つ200人が朝の4時から萩野病院の前に集まりはじめた。この受診者の数に驚いた婦中町当局は、職員、保健婦を集め病院前にテントを張って対応したほどである。この集団検診は2日間にわたっておこなわれ、イタイイタイ病患者は52人、その中で男性は3人であることが判明した。
ある婦人は河野にすがりつき「こんな病気は1日も早くなくしてほしい。どうせ死んだも同然の身体だから、痛む片腕でも片足でもよいから切り取って研究してください」と訴えた。この言葉に医師たちは胸をうたれた。河野稔は二人の患者を東京に連れて帰り、各大学の専門家を集め骨系統の疾患を中心に共同研究が精力的に行われた。
共同研究の結果
共同研究には世界的な学者たちが参加し、各分野での研究がなされた。イタイイタイ病の原因は感染症ではないことだけは共通の認識となったが、本当の原因は不明のままであった。感染症でも遺伝性疾患でもなければ、何らかの環境因子が関与していることが想像された。権威ある学者たちにとってイタイイタイ病の原因を不明とは言いづらかった。そのためこの地区特有の環境が疾患の原因と説明することになった。
昭和30月10月、河野稔と萩野昇の名前で研究成果が発表された。そしてこの奇病の原因を「栄養不良、過労、ビタミンD不足、日照時間不足」と結論づけたのである。さらに産後の休養期間が短いこと、夫婦生活の多いことも要因として付け加えられた。もちろん、萩野にとってこの結論は納得できるものではなかった。もしこれらが原因であればイタイイタイ病は全国の農村で見られるはずであった。
婦中町より栄養状態の悪い農村はいくらでもあった。日照時間も婦中町は富山県内では長いほうで、また神通川中流の地区だけが過労であるはずはなかった。しかし田舎の開業医としては、大学の研究者の結論に反対することはできなかった。萩野にとって不本意な結果となった。彼は権威ある偉い先生の学説に反対できない悔しさを味わった。
婦中町の農民たちは「イタイイタイ病の原因が、栄養不良、過労、ビタミンDの不足」と結論されたことに憤慨していた。それは婦中町が日本で最も劣悪な地区というレッテルを貼られたに等しいことだったからである。「婦中町では嫁にはろくなものを食べさせず、朝から晩までこき使っている」という暗いイメージが作られてしまった。地元の人たちの不満は共同研究者の萩野に浴びせられた。
婦中町は決して栄養不良、過労、ビタミンD不足の町ではなかった。これまで婦中町は健康栄養模範農村として3回表彰を受けていた。しかし富山県厚生部は婦中町の住民に対し、過労を防ぎ、肝油や小魚を多く摂るように指導した。婦中町は日本中に恥を晒すことになった。
共同研究班は原因を解明したとして解散となり、萩野はひとり残されることになった。「イタイイタイ病の原因が栄養不良、過労、ビタミンD不足のはずはない」このことを地元の医師である彼が一番よく知っていた。しかし農民たちは萩野がよけいなことを言ったからだと憤慨した。地元の反発もあり、萩野は孤立無援のなかで独自に研究を進めることになった。共同研究の成果はなかったが、世界的な学者が取り上げたことから、イタイイタイ病が日本中に知れ渡たり、さらに萩野が世の注目を集めることになった。
イタイイタイ病の症状は骨軟化症の症状と似ていた。骨軟化症と違うのは、イタイイタイ病患者は必ず腎臓の尿細管障害を伴うことである。つまり尿からカルシウムが異常に排出されるため血液のカルシウムが減り、それを補うため骨のカルシウムが放出され、そのために骨が薄くなり骨折をきたすのであった。腎臓の尿細管障害によるカルシウムの異常排出がその病因であれば、イタイイタイ病が更年期以降の女性に多いことが説明できた。それは妊娠によって胎児にカルシウムを大量に奪われ、母乳からもカルシウムが奪われるからである。
なぜ婦中町だけが
萩野昇の孤独な戦いが始まった。婦中町の日照時間、栄養状態、ビタミン摂取量などを再度調べてみたが、それらは他の町と比較しても水準以上であった。また労働時間を調べてみたが全国平均とほとんど変わらなかった。むしろ東北の貧しい農村や、北海道の開拓地は、婦中町よりも栄養状態は悪く、過労に悩んでいた。イタイイタイ病の原因が栄養不良や過労であるはずはない。ではなぜ日本の中で婦中町だけに患者が限定されるのだろうか。この疑問が常につきまとった。
原因が分からないまま患者だけが増えていった。そしてある日のこと、萩野は富山県下のイタイイタイ病患者の家をひとつひとつ地図の上に赤いインクでプロットしてみた。すると患者のほとんどが婦中町、八尾町、大沢野町を中心とした神通川中流の一定の地域に限られていることがわかった。神通川上流の地域には患者は見つからず、また下流の富山市でも患者は見つからなかった。なぜ神通川中流の稲作地帯だけにイタイイタイ病が発生するのだろうか。
神通川は昔から神の通る川として、地元住民はある種の信仰的感情を持っていた。萩野は神通川と赤いプロットとの関係をじっと見つめていた。そして病気が神通川中流に限られている理由を考えていた。
もしかして、この神通川に悪魔が住んでいるかもしれない。萩野は神通川上流にある神岡鉱業所に釘づけとなった。彼は富山県から数キロ離れた岐阜県吉城郡神岡町にある神岡鉱業所の排水による鉱毒説を考えるようになった。
神通川の水は北アルプスの山々から平野に入るまでは地形の高度差が大きく流れが速かった。そのため川底が深く洪水の被害は少なかった。また渓谷のため神通川の川水は農業用水として利用していなかった。しかし婦負郡婦中町付近では神通川の流れは急に緩慢となり、急流によって運ばれてきた土砂が川底に堆積し、周囲の水田より川底が高くなっていた。いわゆる天井川で、そのため婦中町では堤防工事が完成するまでは毎年のように洪水による被害が起きていた。そのため婦中町の住民は神通川を暴れ川とよんでいたほどであった。川底が周囲の水田より高いことから、婦中町では神通川の水を農業用水として取り入れ、大沢野用水、大久保用水、牛ヶ首用水が張り巡らされていた。そして神通川は婦中町を流れると、すぐに井田川、熊野川と合流して富山市に流れ込んだ。
「神の通る川」、神通川の川水は農業用水として田畑を潤し、水道が引かれる昭和40年まで、住民は生活用水や飲料水として利用していた。特に井戸が凍る冬場は川水を汲み飲用水として飲んでいた。
神岡鉱業所の排水による鉱毒説が正しければ、神通川上流に患者がいないのは川の流れが速く、川底が深いため氾濫がおきないことから説明がついた。また下流に患者が少ないのは、井田川、熊野川の合流によって鉱毒が希釈されることで説明がついた。萩野は意識していなかったが、それは疫学調査であり、疾患と地理的関係を示すものであった。彼は神通川の水を採取し、全国の大学や研究所に送りその分析を依頼した。しかしいずれの分析でも有毒物質を検出することはできなかった。
鉱毒説にいきつく
昭和32年12月1日、第12回富山県医学会が開催され、萩野は初めてイタイイタイ病の原因として鉱毒説を発表した。昭和21年以来、93例の患者のほとんどがタンパク尿を呈していること。その原因として神通川の水に含まれる亜鉛、鉛、砒素などの鉱毒が体内のホルモンを乱し、二次的にビタミンD不足をきたしイタイイタイ病を引き起こすこと。また患者の発生地が神通川流域の婦中町付近に限られるのは、特有の地形によりイタイイタイ病患者が神通川の水を多く摂取しているせいだと説明した。つまりイタイイタイ病の原因は神通川の水に含まれる鉱毒と発表したのだった。萩野は名前を出さなかったが、聴衆はそれを神岡鉱業所が排出している鉱毒を意味すると理解していた。神岡鉱業所は日本の大財閥である三井が経営する鉱山である。萩野の発言は大財閥三井への挑戦と受け止められた。
彼の発表に対し周囲の反応は冷たかった。神通川の水質検査で問題がなかったことから、何の根拠もない仮説として学会で非難された。また鉱毒が亜鉛、鉛、砒素であったとしても、それらの重金属の慢性中毒症状はすでに知られており、それらがイタイイタイ病を引き起こすとは考えられないとされた。この科学的裏付けのない萩野の鉱毒説は医学界から完全に無視されてしまった。ある学者は、神通川に鉱毒があるという証拠がないこと、イタイイタイ病患者に鉱毒が含まれているかどうか確認されていないこと、鉱毒がイタイイタイ病を引き起こす証拠がないこと、これらを挙げ、萩野の鉱毒説は何の根拠もない俗説であると学会誌で反論した。
たしかに萩野の鉱毒説は何の証拠もない憶測にすぎなかった。しかもこの鉱毒説は神通川上流の神岡鉱業所を犯人として公然と名指したようなものである。萩野は周囲から中傷を浴び、黙殺され、非難、攻撃の嵐にさらされた。しかし疫学的にはイタイイタイ病の原因は鉱毒以外に考えられなかった。その証拠がほしかったが見つけることができなかった。
昭和33年、東京大学の吉田正美教授が萩野病院を訪ねてきた。吉田教授は萩野の鉱毒説に深い関心を示していた。そして神岡鉱山の実情を知らなければ学問的裏付けができないと主張し、萩野と2人で神通川上流にある神岡鉱業所を視察に行くことになった。東大教授の肩書きの威力は強かった。名刺を出しただけで職員は神岡鉱業所内をていねいに案内してくれた。萩野は教授の弟子のような顔をして構内に入り説明を受けた。神岡鉱業所に入って驚いたのは、周囲の山には緑の樹木が一本もないことだった。別世界のようなはげ山であった。神通川が死の川とすれば、神岡鉱山は死の山であった。
神岡鉱山の歴史は古く、奈良時代にはすでに黄金を産出して、天皇に献上されたことが記録されている。多くの鉱脈を持ち、銀、銅、鉛を大量に産し、明治時代になって三井組(現在の三井金属鉱業)が買収した。日露戦争により軍の需要が増大し、大正時代にはさらに需要が増し増産された。
神岡鉱山の採掘法はドリルで穴をあけた岩にダイナマイトをつめ爆破する。砕かれた鉱石は粉末状にされ、水を加え泥状にして、鉛、亜鉛を精製していた。そして残った堆積物は水とともにダムに流して沈下させ、その上澄みを川に流していた。このダム方式といわれる採取法はかつて神通川の氾濫で鉱毒により農作被害を受けた際に造られたもので、鉱毒被害を防止するために通産省が認定した方法であった。このダムができるまでは排水はそのまま川に流されていた。しかしこのダム方式でも大雨や台風などで水が溢れたら、あるいは上澄みに鉱毒が含まれていたら・・・・、この作業行程を見て2人はイタイイタイ病の鉱毒説を確信した。
萩野は神岡鉱業所を見学して鉱毒説に確信を得たが、それを裏付ける証拠は何もなかった。研究の協力者はいなくなり、研究は行き詰まり失意の日々をすごしていた。イタイイタイ病と萩野の名前は有名になり、多くの研究者が萩野病院を訪ね研究の手助けを申し出たが、結局は話を聞くだけで、誰ひとりとして協力する者はいなかった。
他分野の協力者出現
そのような時期に、農学・経済学者である吉岡金市博士(金沢経済大学学長)と巡り会うことになる。吉岡はたまたま黒部川水系の冷水害の調査のため富山県に来ていて、ついでに神通川の冷水害を調べようと婦中町を訪ねたのだった。そして婦中町の稲の根を見て、これは冷水害ではなく鉱害であると即座に断定したのだった。そしてこれだけひどい農業鉱害があれば、環境を同じにする人間にも影響があるはずだと言った。それを聞いた町議員の青山源吾は、イタイイタイ病という奇病がこの地区に多発していることを教えたのである。青山議員の母親もイタイイタイ病で亡くなっていて、その奇病の原因がまだ解明されていないことを告げた。吉岡はイタイイタイ病も鉱害が原因と直感した。
吉岡金市は電話で萩野に面会を求めてきた。萩野はいつもの冷やかしの訪問と考え面会を断った。しかし吉岡は萩野病院を訪ね、「5分間でいいから院長に会わせてくれ」と玄関で粘った。萩野はこの吉岡に根負けして渋々面会することになった。そして話をしているうちに、「農作物の被害が鉱毒によるものならば、イタイイタイ病の原因も鉱毒によるものである」という点で、ふたりの考えが完全に一致した。農作物と人間の違いはあるものの、初めて鉱毒説の力強い味方を得たのである。吉岡はイタイイタイ病患者の家をスポットした地図に神通川からの農業用水を書き入れ、神通川を利用した農業用水の使用地区でのみで患者が発生していることを確認し、鉱害により被害を受けた農作物の分布と比較するという科学的データを作り上げた。そして患者の発生地域と農作物の被害地域が一致することを示した。また地元役場で死亡診断書を調査し、患者の発生数の増加と神岡鉱山の生産量が比例関係にあることを確かめた。吉岡は萩野の研究を最後まで支えることになる。
さらに力強い味方が現れた。昭和34年、岡山大学教授の小林純博士から「神通川の水質を調べたい」と依頼の手紙が突然届いたのである。小林はかつて農林省農事試験場技師として戦時中の昭和17年に婦中町の稲作被害の調査を命じられ、「これは冷害による被害ではなく、上流の神岡鉱山から流れた亜鉛、鉛などによる鉱毒である」と農林省に報告した人物である。この報告書は戦争中であったことから曖昧に処理され、農民には補償金は出されなかった。その後、小林は岡山大学の教授となり、河川の水質検査の専門家となっていた。そしてスペクトログラフという最新の機器を岡山大学の研究所に備えたばかりであった。
小林教授は「科学読売」に報道された「日本に例をみない奇病、イタイイタイ病」の記事を読み、かつての神岡鉱山の鉱毒を思い出した。そして何らかの手がかりがつかめると思った。かつて農林省には亜鉛、鉛などによる鉱毒と報告したが、あまりに農作物の被害がひどいことから、それ以外の何かがあると考えていた。小林教授は神通川流域の奇病に関心を抱き、採水用のビンを手紙にそえて、萩野に神通川の水を調べたいので採取してほしいと郵送してきたのだった。
カドニウムの発見
萩野は神通川の河水と患者の家の井戸水をプラスチックのビンにつめ小林教授のもとに送った。それまで各地の大学で問題なしと分析されていた神通川の水であったが、小林教授の分析によって驚くべき結果がもたらされた。小林教授はスペクトル分析によって「神通川の河水から、亜鉛、鉛、砒素、カドミウムが多量に検出された」と報告してきたのだった。亜鉛、鉛、砒素の慢性中毒はイタイイタイ病の症状とは違うことはすでに分かっていた。そのためカドミウムがもっとも怪しい物質であると手紙に書いてきたのだった。
当時、カドミウム汚染について書かれた文献は日本にはなかった。「カドミウム」という言葉さえ医学書には書かれていなかった。そのため人体にどのような影響を及ぼすのか何も分からなかった。重金属であるカドミウムはほとんど知られていない物質であったが、亜鉛の鉱石には副産物として必ず含まれる物質であった。神岡工場は亜鉛を製錬する時に、副産物であるカドミウムを神通川に流していたのだった。
萩野は金沢大学、富山大学の図書館でカドミウム中毒の文献を探したが見つからなかった。そうこうしている間に、吉岡がドイツの医学雑誌「中毒の治療と臨床」に、わずかに「慢性カドミウム中毒」の記載があるのを見つけてくれた。その論文はカドミウム電池工場で働く6人の労働者がカドミウム中毒によって歩行ができなくなり、レントゲンでは骨に横断状のひびが見られたというものであった。カドミウム中毒として記載されたその症状は、まさにイタイイタイ病の中期症状そのものであった。
ドイツの医学雑誌の記載によるとカドミウム中毒は潜伏期が2年であり、3年から4年後に神経痛様の痛みと貧血を生じ、8年後には明らかな骨軟化症の症状を示し、レントゲン所見では骨に亀裂が入り、患者は衰弱してアヒルのように尻をふって歩くと書かれていた。まさにイタイイタイ病の初期から中期の症状にそっくりな記載であった。萩野はとびあがるほど驚いた。
ドイツの「慢性カドミウム中毒」の論文にはイタイイタイ病の末期症状である多発性の骨折の記載はなかった。しかしこれはカドミウムの摂取量の違いによるものだった。日本人は白米を食べるが、欧米人は食べない。もし神通川の水にカドミウムが含まれ、農作物に吸収され濃縮されていたら、中期以上の多発性の骨折症状を示しても不思議ではなかった。萩野はこの論文によってイタイイタイ病がカドミウムによる慢性中毒であることに自信を深めた。小林教授のスペクトル分析により、この奇病の原因として重金属カドミウムが急浮上したのだった。イタイイタイ病の解明に大きな前進がもたらされた。
小林教授は神通川の水がカドミウムに汚染されていることを証明した。しかしカドミウムがイタイイタイ病の原因であるかどうかは、患者に含まれるカドミウムの分析が必要であったが、残念ながら小林教授は生体内に含まれる重金属の分析法を知らなかった。小林教授は人体に含まれる重金属の定量分析の方法を習得するため、昭和36年5月からテネシー大学のティプトン女史のもとに留学することになった。またカドミウム研究で知られているシュレーダー教授を訪ね、カドミウムに関する多くの資料と分析法を学んだ。
カドミウム説の確信
小林教授は3ゕ月間、アメリカで分析技術を学んで帰国すると、真っ先に萩野病院に保管されているイタイイタイ病患者の臓器の分析にとりかかった。そして亡くなった患者の各臓器に含まれる重金属の分析を行い、各臓器から高濃度のカドミウムを検出した。骨ばかりでなく、あらゆる臓器を調べてみた。普通の人なら5 p.p.m.程度のカドミウム濃度が、患者の臓器からはその1000倍ものカドミウムが検出された。さらに小林はイタイイタイ病発症地区の白米と、他の地区の白米のカドミウム濃度を調べ、イタイイタイ病発症地区の白米から数10倍のカドミウム濃度を検出した。また稲の根からも数百倍、土壌からも数十倍のカドミウムを検出した。さらに神通川のフナ、アユからも大量のカドミウムを検出した。婦中町はカドミウムに高度に汚染されていたのである。
患者の尿中のカドミウム量が異常に多いこと、神通川流域の土壌に含まれるカドミウム量が他の河川に比べて明らかに高いこと、イタイイタイ病の発生地区が神通川流域の水田の土壌のカドミウム濃度とよく相関していること、患者の発生地区ではタンパク尿の患者が高頻度に見出されたことが分かった。さらにイタイイタイ病の症状が文献上のカドミウム中毒の症状と一致することから、イタイイタイ病の原因がカドミウムである証拠が明らかになった。
神通川の川水を下流から上流に沿ってカドミウム濃度を調べてゆくと、上流に行くほどカドミウムの濃度が高くなり、神岡鉱業所付近の川水のカドミウム濃度が異常に高い数値を示していた。
神岡鉱業所は軍の蓄電池用の亜鉛を生産しており、その過程で生じたカドミウムを廃液として捨てていた。廃液中のカドミウムが20年から30年間の長期間にわたり川や土地を汚染し、飲料水、川魚、米に混入して、カドミウムが体内に蓄積してイタイイタイ病を引き起こしたのである。カドミウムが骨のカルシウムを追い出して骨をもろくしたのだった。
昭和36年5月13日、岡山大教授小林純と萩野昇は富山県知事の吉田実と会見し、これまでの研究経過を説明し、富山県の奇病「イタイイタイ病」は三井金属神岡鉱業所の廃水が原因であると報告した。この報告に驚いた吉田知事は県庁幹部20人を集め、小林、萩野から詳しい分析報告の説明を聞いた。この会合は秘密のうちに行われているはずであった。しかしひそかに入室していた富山新聞の記者が、その内容を翌日の社会面のトップ記事にした。
新聞の見出しは「イタイイタイ病の原因は鉱毒。患者の骨からカドミウムが検出、岡山大学小林教授が発表」「亜鉛、鉛、カドミウム、神通川に多量に含まれる」「白米にもカドミウムが含有されている」。この富山新聞社のスッパぬきによって、その日以来、多くの新聞記者が萩野を取り囲むようになった。カドミウムという重金属の名前が初めてマスコミに取り上げられたのである。
そして昭和36年6月24日、萩野は札幌市で開催された第34回整形外科学会でそれまでのデータを発表することになった。発表には共同演者として吉岡金市博士が名前を連ねていた。日本各地の新聞社、マスコミは萩野の発表に注目していた。会場には整形外科医ばかりでなく多くのマスコミ関係者が押し掛けていた。それだけ社会的関心が高かったのである。萩野が壇上に上がると、カメラのフラシュがいっせいに連射され、映画撮影機が回りはじめた。
萩野はこれまでの研究成果を発表した。それらを要約すると以下のとおりである。イタイイタイ病は神岡鉱業所から神通川に排出されたカドミウムが原因であること。神通川流域の住民がカドミウムを多く含む川水を飲み、あるいは汚染された米、農産物を長期間にわたり飲食することによって、カドミウムが体内に蓄積して慢性中毒を起こしたこと。その証拠として、カドミウムはイタイイタイ病患者周辺の神通川の川水あるいは流域の土壌に大量に含まれ、他の河川や土壌には少量しか認められないこと。またカドミウムは神岡工業所より上流の神通川には検出されないこと。さらにイタイイタイ病患者の骨などの臓器から多量のカドミウムが検出されたこと。これらのデータを示し、結論としてイタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒であると述べた。
いわれなき中傷
しかし学会では悪意に満ちた質問が相継いだ。なぜ中年女性に多いのか、骨以外の臓器障害が少ないのはなぜか、動物実験をしていないのにカドミウムが原因といえるのか。このような質問に対し、萩野はひとつひとつ丁寧に答えていった。萩野の回答は正確なものであった。にもかかわらず結果的に難癖に近い非難を受けることになった。データそのものが間違いであると非難され、田舎の開業医の売名行為、神岡鉱業所から金をとるための行為と邪推された。「学者でもない田舎の開業医に何が分かる」という先入観がその根底にあった。高名な学者たちのほとんどが萩野の研究を非難した。これだけ世間の注目を浴びている萩野の研究を素直に評価する医師は少なかった。また支持する医師の声も聞こえなかった。イタイイタイ病に対する世間の注目が高ければ高いほど、学者として萩野の研究に嫉妬する気持ちが生じたのである。ある週刊誌では「萩野昇は学者でない、科学的証明が何一つなされていない」と高名な学者が非難した。神岡鉱業所は萩野学説は実証のないひとりよがりの考えと反論した。
なぜ正しい研究が学会の場で素直に受け入れられないのか。正確で科学的データに基づいているカドミウム説がなぜ非難されるのか。萩野には学会という学問の世界で自説が非難されるとは想像もしていなかった。正しい学問をなぜ学会が認めないのだろうか。学会が終わると、にがにがしい思いに憤りを覚えていた。そしてこの学会を頂点として萩野への非難、中傷が始まった。
イタイイタイ病はカドミウムによって腎障害をきたす骨軟化症の一種で、医学的な診察基準も確立していた。しかしながら神岡鉱業所の肩を持つ医師が多くいた。岐阜大学と金沢大学医学部の有力教授は、イタイイタイ病との関連性を否定し、産業医学の権威者は萩野の研究に難癖をつけた。ネズミにカドミウムを投与する動物実験ではイタイイタイ病の発現はなかったと断言する医師もいた。このように三井財閥に有利な発言をする学者ばかりだった。患者の体内に大量のカドミウムが集積していることを数値で示し、それゆえにカドミウムが原因としたのは萩野だけであったが、学会では孤立無援の状態となった。
また患者を抱える富山県も萩野の鉱毒説に否定的態度をとった。それは富山県が工場誘致を考えていて、企業側に都合の悪い鉱毒説を否定したかったからである。イタイイタイ病の原因を神岡鉱山とする科学的根拠が示されたにもかかわらず、富山県は三井財閥を正面から批判することに難色を示し、むしろ神岡鉱山犯人説に否定的立場をとった。
富山県は県民の所得を上げるために大企業を県内に誘致しようとしていた。工業化を目指す富山県にとって、イタイイタイ病の神岡鉱山説は不都合だった。また岐阜県にある神岡鉱山の鉱石が少なくなったことから、神岡鉱山を富山県に誘致する計画が密かになされていた。イタイイタイ病という病人を抱えている富山県は、病人よりも企業誘致を優先させ、県内に潜行しているイタイイタイ病を歴史の闇に葬りたかった。
富山県は政府の大規模工業化プロジェクトを受け入れようとしており、政府や大企業を批判することはできなかった。政府や大企業を批判しているのは少数の被害者で、県民の大部分は企業誘致のため多少の公害を我慢すると考えていた。
失意の日々と妻の死
本来ならば味方となるべき農民も、農作物の売れ上げがおちることから萩野の悪口をいった。イタイイタイ病が神通川流域の奇病として知られるようになったが、その原因が何であれ農村に嫁が来なくなることを彼らは恐れた。そのため地元のイメージを悪くした萩野を批判した。「萩野病院へゆくとイタイイタイ病と診断される」と噂がたてられ、萩野病院の患者の数が激減した。病院には嫌がらせの電話が鳴りっぱなしとなり、「病院を爆破する」「地元にいられないようにする」といった脅しの電話や手紙が、萩野だけでなく病院職員にも相次いで舞い込んだ。卑劣な中傷や脅しによって、身の危険を感じた職員たちは萩野病院を去っていった。
萩野は四面楚歌となった。なぜ真実を信じないのか。苦しんでいる患者を救おうとする研究成果をなぜ信じないのか。彼を苦しめたのは、学者や行政だけではなかった。彼を最も苦しめたのは、県政、企業の論理に操られた周辺住民の冷ややかな目であった。萩野ほどの人物に対しても、彼が有名になればなるだけ周辺住民のねたみも大きくなった。三井財閥からの無言の圧力が幽霊の声となって富山県を動かし、富山県から婦中町に、婦中町から住民に大きくのしかかった。
萩野は自分の研究は患者のためと信じできた。そして奇病、業病として死を待つだけだったイタイイタイ病の原因を発見した。それなのにその気持ちが住民に受け入れられないことに絶望していた。
神岡鉱業所から長期間にわたり大量に排出されたカドミウムが川や土を汚染し、農業、漁業を破壊し、そして人間そのものを破壊したのである。神通川流域の土壌にカドミウムが沈着堆積し、水稲、大豆等の農作物に吸収され、地下水を介して井戸水を汚染させていた。体内での長期間のカドミウムの蓄積が腎障害を引き起こし、カドミウムがカルシウムを体内から追い出し、カルシウム不足から骨軟化症を引き起こしたのである。なぜ地元住民は自分を信じないのか。やっとイタイイタイ病の原因を解明し、治療に応用したいと考えている矢先の非難中傷であった。
昭和36年12月、「富山県地方特殊病対策委員会」が作られ、富山県がイタイイタイ病の原因究明に乗り出すことになった。しかし15人の委員の中にイタイイタイ病に最も詳しい萩野と小林の名前はなかった。富山県は、この人選はイタイイタイ病の原因について偏見を排除するため、自説をもたない学者によって研究を進めたいと説明した。しかし15人の委員の中では富山県医師会長をのぞくと、萩野の鉱毒説に反対を唱える学者がほとんどだった。そしてこの「富山県地方特殊病対策委員会」が行ったことは、患者名簿を作り、日照時間、栄養摂取状況などの調査で、まさに栄養説を補強するための委員会であった。さらに金沢大学でも、カドミウム説に反対を唱える学長を中心に「イタイイタイ病研究班」がつくられた。そしてそこにも萩野は選ばれなかった。萩野のカドミウム説に反対の立場をとった学者は富山県当局に取り込まれ、三井財閥に不利な発言をしなかった。さらにネズミにカドミウムを与えた動物実験ではイタイイタイ病の発生はなかったと発表した。ある一流月刊誌はカドミウム無害説を連載し、萩野の鉱害説を否定、彼の研究だけでなく人格まで非難した。
萩野はこのような非難のなかで、しだいに酒におぼれ自堕落な生活に陥った。マスコミは萩野の自暴自棄の生活を面白おかしく報道した。いつしか萩野は肝臓病、糖尿病、中心性網膜炎という病魔に冒されていた。気力の低下だけでなく身体までも蝕まれていた。
昭和37年10月、妻の茂子が他界した。茂子は病弱だった。昭和23年に長男茂継を出産してから結核を患い、病弱な身体で家事をこなし、子供を育て、病院経営も手伝い、診療と研究ばかりの萩野の生活を支えていた。茂子は結核に加えバセドー氏病を患い、そのアイソトープ治療の副作用に苦しみ死んでいった。茂子は自分の病状を萩野にしゃべらなかった。萩野は研究に多忙だったこともあり,茂子の看病をあまりしてやれなかった。
萩野はマスコミでは有名人になったが、研究ばかりか人格までも非難された。そのような流れの中で、茂子の病気をあたかも萩野へ下された天罰であるような報道がなされ、茂子の死を自殺だったとする噂が流された。萩野は周囲の中傷に加え、妻の死によって不幸のどん底に落とされてしまった。イタイイタイ病の研究に打ち込んで、茂子の看病をおろそかにしてしまったことを後悔していた。
予期せぬアメリカの評価
悲しみのどん底の中で茂子を思いながら、彼はそれまでの生活を一変させることにした。酒を止め、コーヒーもお茶も断ち、趣味のゴルフも止め、すべてをイタイイタイ病の究明に尽くすことを決意した。何もしてやれなかった妻に対する後悔の気持ちが萩野を蘇らせたのである。彼の前には、一介の開業医の力ではどうすることもできない大きな壁があった。しかし一歩たりとも退かないことを誓った。「自分の命があるかぎり、呼吸をしているかぎり、最後の血液の一滴を燃え尽くしてでも、真実を証明する」このことを死んだ茂子に誓ったのである。
奈落の底にあった萩野に明るいニュースが飛び込んできた。日本整形外科学会で発表したデータがアメリカで認められ、アメリカ国立保健研究機構(NIH)から1000万円の研究費が送られてきた。日本の学会で白眼視された研究をアメリカが認めてくれたのである。うれしかった。アメリカは自由の国、学問の国、偏見のない平等な国であると喜んだ。アメリカが認めてくれたことから、不思議なことに萩野のカドミウム説は本当かもしれない、と周囲もしだいに認めるようになった。
萩野はアメリカからの研究費で動物小屋を作り動物実験を再開した。知人に酒の入った一升瓶を渡し、飲んで空になったら、神岡鉱山の廃水を一升瓶に詰めて返してもらうことを条件に、廃水を集めウサギに投与する実験をおこなった。この実験は何度も失敗した。慢性疾患を動物実験で成功させるには長い時間と根気が必要だった。子供も手伝ってくれて実験はしだいに成功に近づいていった。
岡山大学の小林教授の実験室でも、ネズミを用いた実験が平行して行われていた。そしてついに成功した。カドミウムを混ぜた餌を与えたネズミでは、食べた以上のカルシウムが尿から排出され、骨が薄くなることが証明されたのである。1年間でネズミの骨の30%以上が溶け出し、225匹のネズミがイタイイタイ病と同じ症状を示した。この実験結果は昭和42年の日本医学会総会で発表され、逆もまた真なりを証明したのだった。イタイイタイ病のカドミウム説の一番の弱点であった動物実験に成功したのである。アメリカが萩野の研究を認め、研究費を与えたことがイタイイタイ病の原因としてのカドミウム説を証明したのだった。この研究により日本の研究者たちも萩野の学説を支持し、萩野は地元住民たちからも認められるようになった。
またカドミウム説を否定するためにつくられた「富山県地方特殊病対策委員会」、金沢大学の「イタイイタイ病研究班」も、萩野のカドミウム説を次々に支持する実験結果を示した。そして彼の学説は次第に認められるようになり、迫害の流れが賞賛へと大きく変わっていった。
もしイタイイタイ病の原因がカドミウムであれば、日本の他の亜鉛鉱山の河川にも同じイタイイタイ病患者がいてもおかしくはない。小林教授は日本中の川水の分析を行っていたので、可能性のある鉱山を知っていた。昭和39年9月、萩野と小林教授は、可能性の高い長崎県対馬にある東邦亜鉛対州鉱業所に調査に出かけた。3週間にわたる診察と調査から、その地区にもイタイイタイ病患者1人、死亡者2人、疑わしい患者数人を発見した。全身に疼痛を訴える患者は42人で、そのうちの21人から尿蛋白を検出した。また水田の土壌や井戸水から高濃度のカドミウムを検出した。対馬に患者が少なかったのは、亜鉛工場の規模が小さく、また水田が少なかったからである。この対馬の調査はイタイイタイ病のカドミウム説を裏付ける証拠のひとつとなった。
昭和41年10月6日、萩野は富山県社会保障推進協議会から、イタイイタイ病に関する講演を依頼された。会場となった富山駅前の労働福祉会館大ホールは聴衆が入りきれないほどであった。萩野は悲惨な病気であるイタイイタイ病について3時間にわたり講演を行った。そしてこの講演をきっかけとして富山県各地で講演が頻回に行われ、富山県民はイタイイタイ病の悲惨な現状と、萩野の学説の正しさを知ることになった。そして三井財閥の経営する神岡鉱山に対する県民の怒りが高まっていった。
住民が立ち上がる
昭和41年11月、それまで萩野を中傷していた婦中町の中から、ひとりの青年が立ち上がった。それは小松義久だった。小松は祖母、母をイタイイタイ病で亡くしており、近所に何人もの患者が苦しんでいるのを長年目撃していた。また農家で育った小松は農作物に被害をもたらした神岡鉱山の鉱毒被害を知っており、萩野の鉱毒説発表以来、祖母、母も同じ鉱毒で死亡したと信じていた。小松は神岡鉱業所に責任を取らせる被害者の会「イタイイタイ病対策協議会」を結成させた。その目的はイタイイタイ病を引き起こした神岡工業所の責任を裁判に訴え、謝罪を求めることであった。誰かが中心となって神岡鉱山と対決しなければいけないと覚悟を決めた。小松は農家を一軒一軒回り、イタイイタイ病対策協議会への入会を勧めた。それまで萩野に批判的だった婦中町も神岡鉱業所のカドミウム説を信じるようになった。三井財閥という巨大な陰を住民は恐れていたが、イタイイタイ病をもたらした神岡鉱業所を許すわけにはいかなかった。婦中町の住民は鉱害による農作物の被害を戦前から経験していた。
この婦中町の住民がそれまでイタイイタイ病について沈黙を守っていたのは、富山県がこの奇病を栄養不足、過労によると意図的に宣伝していたこと、大企業である三井金属が相手では裁判で勝てるはずがないと諦めていたこと、お上に逆らわない引っ込み思案の住民の性格があった。またイタイイタイ病は業病とされ、家族が患者の存在を隠そうとしていたこともその要因であった。小松義久は「イタイイタイ病被害者の会」の組織づくりに奔走し、住民大会を開き、業病の汚名をそそぐべく団結した。「イタイイタイ病被害者の会」は富山県に協力を求めたが、婦中米の不買運動が起きることを理由に協力できないとの回答であった。次に神岡鉱業所との直接交渉を行った。イタイイタイ病被害者の会の30人は神岡鉱業所に出かけ責任者に面会を求めたが、警察による身元確認がなされ長時間待たされたうえ、「三井を犯人扱いしているようだが、そのような科学的根拠はない」というのが返事であった。
イタイイタイ病については国会議員も動き出すことになった。昭和42年5月25日、参議院議員の矢追秀彦氏が萩野病院を訪ね、イタイイタイ病患者の悲惨な様子を見て涙を流した。そしてこのような悲惨な公害に何の手も打たず、追求もしなかった政治家としての責任を「申し訳ない」とわび頭を下げた。矢追は大阪出身の医師であった。彼は涙を流しながら、「こんなことが許されるはずはありません。政治家としてイタイイタイ病を国会で取り上げる」と約束してくれた。
昭和42年12月6日、イタイイタイ病の患者代表、小松みよさんら3人が園田厚生大臣、椎名通産大臣に病気の実情を訴えに行くことになった。患者たちは身体の痛みがひどく、東京まで行けるかどうか自信がなかった。しかしこのようなむごたらしい病気を、二度と繰り返さないために、死を覚悟して東京に向かった。患者たちは矢追参議院議員の紹介で園田厚生大臣の前に進み出たが、ただ涙がこみ上げるばかりで一言も言葉を発することができなかった。しかし田舎の素朴な患者たちの言いたいことはブラウン管を通して国民の誰もが理解できた。そして背が異様に縮んだ患者の痛がる表情がイタイイタイ病の恐ろしさを伝えていた。
国会での証言と初の公害認定
昭和42年12月15日、萩野昇は参議院産業公害特別委員会に参考人として証言を求められた。まぶしいライトのなかで満席の会場はしんと静まり返っていた。「痛い、痛い」と泣きながら死んでいった農婦たちの姿が彼の脳裏に浮かんだ。
「私は単なる田舎の開業医でございます。何の力もございません。神岡鉱山のような日本の基幹産業を相手に戦おうというような気持ちは微塵もごさいません。ただ、一人の医師として患者が可哀相なばかりに、この病気の研究を積み重ねてきただけでございます。「痛い、痛い、先生なんとかしてください」、泣き叫びながら死んでいった中年の農婦たち。全身の激痛のため診察もできない老女の絶叫、主婦が寝込んだために起きた様々な家庭の悲劇、・・・・あの人たちに何の罪があるのでしょう、何があの人たちを地獄の苦しみに追い込んだのか・・・」
会場は静まりかえっていた。咳払いひとつ聞こえなかった。萩野は声をつまらせ、目頭を潤ましていた。「私はただ患者が気の毒だと思います。私はただ患者を助けるのが医師の宿命として、純粋な立場で、謙虚な気持ちで研究を積み重ねただけです」。萩野のこれまでの戦いを支えてくれたのは、農婦たちの「痛い、痛い」と叫ぶ哀れな声であり、助けを求めようとする農婦たちの澄んだ瞳であった。萩野は身長180センチ、体重105キロの巨漢であったが、患者のことを振り返りながら涙で身体を震わせながらの証言となった。
翌昭和43年5月8日、この日は日本の公害の歴史において記念すべき日となった。園田厚生大臣は萩野の主張をそのまま受け入れ、厚生省見解が次のように発表された。
「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒により腎臓障害を生じ、次いで、骨軟化症を来たし、これに妊娠、授乳、内分泌の変調、老化および栄養としてのカルシウムなどの不足が原因となってイタイイタイ病という疾患を形成したものである。慢性中毒の原因物質として、患者発症地を汚染しているカドミウムについては、神通川上流の三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所の事業活動に伴って排出されたもの以外にはみあたらない」このように厚生省は、イタイイタイ病を三井金属神岡鉱業所のカドミウム汚染が原因と正式に認めたのである。さらに厚生省の見解が裁判で争われた場合には、受けて立つとの見解も公表された。
イタイイタイ病は日本で初めての公害病の認定となった。萩野が患者の発生地域と神岡鉱業所の位置などを総合的にとらえ、鉱毒説を唱えてから11年目のことである。
患者たちは涙を流しながらこの園田厚生大臣の正式見解を迎え入れた。日本における初めての公害病の認定となったことには大きな意味があった。それは大衆を犠牲にして産業を育成させようとする戦後政治の脱却を意味していた。貧しい国民を犠牲にして産業を優先させるという、それまでの政治が大きく変わった記念すべき日であった。
この厚生省の結論は、萩野昇の血みどろの戦いがあったからである。萩野の学説は何度となく著名な学者から非難されたが、しかし萩野昇の学説が正しかったのである。
このイタイイタイ病の研究は世界的評価を受けた。アメリカでは「ペイン・ディジーズ」と英語でよばれていたが「イタイイタイ・ディジーズ」に、ドイツでは「ベェーベェー・クランクハイト」とドイツ語でよばれていたが「イタイイタイ・クランクハイト」というように萩野の名付けた病名が国際的病名となった。そしてWHO(世界保健機構)などの国際機関や国際学会でもカドミウムをイタイイタイ病の原因であると公式に結論づけた。萩野昇は日本医師会最高優功賞、厚生大臣感謝状、朝日賞(社会奉仕賞)などを次々に受けることになった。
初の公害裁判へ
厚生省はイタイイタイ病の原因を神岡鉱業所が排出した公害と認定した。そしてイタイイタイ病は裁判所に場所を変え争われることになった。第一次裁判は患者と犠牲者の遺族23人が三井金属鉱業を相手に総額6200万円の損害請求額を求めて争われた。イタイイタイ病を追求する20人の弁護士が全国から集まり患者支援に立ち上がった。弁護士たちは貧しい患者から弁護料をとらず、すべて無償の手弁当で集まった。
弁護士は無報酬であったが、裁判には多額の費用が必要だった。裁判には訴訟請求額に応じて数十万円の印紙代がかかった。そのため全国の弁護士に支援を求め、全国300人の弁護士から300万円のカンパが集まった。また婦中町議会は「イタイイタイ病訴訟支援」を決議し、全員一致で町費から100万円の援助金を寄付することになった。また周辺の町からも援助金が集まった。県内世論はこの裁判を支援したが、富山県はイタイイタイ病は鉱害ではないとして動こうとしなかった。それどころか、市町村が一方的に裁判を応援するのは地方自治法違反であるとコメントを出した。
この富山県のコメントに対し婦中町は、イタイイタイ病の医療費は町で負担している。もし原告が負ければ婦中町には膨大な被害を受けることになる。イタイイタイ病は個人の問題ではなく町全体の問題であり、もし県が市町村を非難するならば、特定企業を応援する富山県こそ地方自治法違反であると反論した。そして婦中町の議員全員がマイクロバスに乗り富山県の市町村をまわり、富山県内35の市町村のうち32の市町村から支援を得た。
天下の三井財閥を相手にした裁判である。住民たちには絶対に負けられない裁判との悲壮感があった。生命をかけた闘い、どうしても勝たなければならない裁判であった。あとにひくことはできない、「負けたら切腹もの」と住民たちは覚悟を決めていた。
国も住民のために立ち上がった。原告に代わり訴訟費用の一部を国が負担したのだった。国のこの訴訟救済は原告が勝訴することを確信してのことであった。このイタイイタイ病裁判は大きな意味があった。ひとつは日本最大のマンモス裁判であること、相手が日本有数の企業で、全国初の公害裁判であること、そしてこの裁判は人間の尊厳をかけた闘いといえた。
いっぽう、神岡鉱業所のある神岡町はこのままでは神岡鉱山はつぶれるかもしれないとあわてていた。町の税収入の7割を占める神岡鉱山がつぶれれば、それこそ死活問題だった。神岡町の町長は「神岡鉱山を守る会」を結成して抵抗しようとした。しかし町長のかけ声に神岡町民は協力しなかった。人命がかかったこの裁判に町民の怒りのほうが強かった。神岡町の町民たちは、一歩間違えば自分たちが犠牲者になっていたこと、さらに神岡鉱業所の横暴な態度を見て協力しなかった。町民たちはイタイイタイ病の原告や弁護士が鉱山を調べに神岡町へやってくるたびに、温かく迎え入れ、道案内や宿泊の手配などを手伝った。
厚生省がイタイイタイ病を神岡鉱業所の廃水による公害と認定したのに、なぜ裁判で争わなくてはいけないのか。それは被告側が長期裁判に持ち込み原告側の疲労と諦めを期待していたためだった。しかし裁判の過程で興味ある多くの証言が飛び出した。
吉岡金市博士は次のような証言を行った。イタイイタイ病発生地区の杉の木を切って年輪を調べると、大正末期から昭和18年頃まで年輪の幅が非常に狭くなっていて、ほとんど成長していない。それ以降は徐々に成長して昭和20年以降は回復している。この杉の生長が止まった時期は神岡鉱山がさかんにカドミウムを流していた時期と一致すること、さらにイタイイタイ病が発生していない他の地区の杉の年輪はそのような変化は見られないと証言した。
また神岡鉱山で働いていた老人は次のような証言をした。神岡鉱業所は人体に影響を及ぼすほど大量のカドミウムを流したことはないと主張しているが、亜鉛は潜水艦の蓄電池に使うため、太平洋戦争中は増産に次ぐ増産だった。そのため鉱滓(亜鉛抽出後のかす)は貯まるいっぽうで、捨て場がないため川に流していた、という証言である。このことはすなわちカドミウムを川に流していたことを意味していた。
昭和46年6月30日、富山地方裁判所の周囲には全国各地の公害被害地から駆けつけた住民代表や支援団体が集まり、新聞記者などの報道陣も集まり、歴史的瞬間を待っていた。テレビ中継用のカメラが並び、空には何台ものヘリが旋回していた。そして10時8分、富山地方裁判所三階の窓から「勝利」のたれ幕が下がった。
富山地方裁判所の岡村利男裁判長は「イタイイタイ病の原因は神岡鉱業所が排出したカドミウムであり、被告はすみやかに6億7600万円の賠償金を原告へ支払え」との判決を下した。裁判は住民側の全面勝訴となった。場外にいた500人を超す支援者たちはこの全面勝利に「バンザイ」を繰り返した。
イタイイタイ病の原因がカドミウムであることは厚生省の公的見解で明らかだった。しかし神岡鉱業所は「カドミウムがイタイイタイ病を引き起こす科学的根拠が不明であり、もしカドミウムがイタイイタイ病の原因だとしても、神岡鉱業所がどれだけ関与していたのかが不明である」と主張して裁判は争われていた。
神岡鉱業所は判決を不服として控訴したが、昭和47年の名古屋高裁金沢支部での裁判でも敗訴し、上告を断念して裁判は住民側の全面勝利が決定した。企業側は「廃液の放出行為と被害発生との間の因果関係を明確にさせよ」と主張したが、この企業の論理は通用しなかった。裁判所は「他にカドミウムなどの重金属類を排出したものを見出せない以上、神岡鉱業所から排出したカドミウムが発病原因の主体とするほかない」として住民の全面勝訴とした。裁判所は厳密な科学的証明は必要ないと判断したのである。第1次から第7次までのイタイイタイ病訴訟の原告者数は 515人であった。三井金属は総額14億円を支払い和解することになった。
イタイイタイ病被害者と支援者200人はバスに分乗して三井金属鉱業本社に直接交渉に向かった。そして三井金属鉱業と11時間の交渉を行い、次の3つの誓約書に署名させた。
1、イタイイタイ病の原因が神岡鉱山からのカドミウムであることを認め、今後争わないこと。
2、イタイイタイ病発生地の過去将来の農業被害を補償し、土壌汚染復元費を全額負担すること。
3、今後公害を発生させないことを確約し、被害者、被害者が指定する専門家の立ち入り調査に応じ、要求される公害関係の資料を提供し、これらに必要な費用はすべて負担すること。このように住民が勝ち取った誓約書は画期的なものであった。
イタイイタイ病裁判は日本の多くの公害訴訟の中で住民勝利を導いた最初の裁判であった。その意味では公害訴訟の1ページを飾る判決であった。このイタイイタイ病裁判の勝訴は患者だけでなく、日本全体への影響が大きかった。
その当時は、敗戦から立ち上がった高度成長の時代であった。そして工業化のひずみとして公害が問題になっていた。熊本県の水俣病、四日市市の喘息などによって、経済の牽引となった工業が環境を破壊し住民に害を及ぼすという公害が注目されていた。イタイイタイ病も公害病のひとつで、その因果関係を最も早く認めた裁判であった。この裁判の住民勝利によって、企業の論理は通用しなくなり、政府も「企業優先から環境優先」の政策に転換せざるをえなくなった。企業や行政の権威主義は住民の良識という立場から加害者企業、無作為行政と見られるようになり、企業倫理や行政のあり方が大きく変わることになった。
大正時代からイタイイタイ病の患者がいたとされているが、その総数は明らかではない。「富山の奇病、業病」とされ、カドミウムが原因と分かるまで、家族は患者を家の奥に隠していたからである。その中で、萩野が診察した患者は358人で、そのうちの128人が死亡していた。患者のほとんどが女性で全死亡者は200人以上とされている。昭和42年以降にイタイイタイ病と認定された患者は185人で、イタイイタイ病を引き起こす可能性のある要観察患者は334人であった。
イタイイタイ病と認定されるためには、カドミウムの暴露歴があること、症状が成年期以降に発現していること、尿細管障害があること、骨粗鬆症を伴う骨軟化症が認められること。この四条件が必要であった。イタイイタイ病の患者数は数千人と見られていたが、症状がリウマチや他の老人性疾患と似ており、その特定は難しかった。公害健康被害者補償法の規定で富山県が認定した患者は178人であった。
カドミウムは人体への被害だけではなく、神通川を農業用水とする稲作にも大きな被害を与えていた。長期間にわたってカドミウム汚染米を食べた者がイタイイタイ病になったのだから、汚染された農地を放置したままではイタイイタイ病の根本的な解決にはならない。そのため三井金属鉱業の負担でカドミウム汚染土壌の除去が進められた。
神岡鉱山は奈良時代から鉱山として知られており、明治7年に明治政府から三井組に経営が譲渡されが、当時はカドミウムの名前も毒性も知られていなかった。また神岡鉱山の亜鉛生産は国家の戦時体制により増産が続いた。亜鉛の鉱石にはカドミウムが含まれ、重量比では亜鉛の20%がカドミウムであった。亜鉛のあるところには必ずカドミウムが存在していた。
亜鉛の大量生産が開始された大正時代から、カドミウムが神通川流域に大量に集積していたと考えられた。神岡鉱山は亜鉛鉱を1日4700トンを採掘し、神岡町は人口二万七千人を数え、にぎわいを見せていた。神岡鉱業所の従業員は4500人で、国内最大級の鉱山として知られていた。政府は神岡鉱山を存続させるため資金を出した。神岡鉱山は患者住民団体との和解を進め企業として存続できた。しかし時代の流れは皮肉なものである。鉱脈がしだいに枯渇し神岡町の人口は半減し、作業員は50人足らずとなった。そして平成13年6月29日に亜鉛・鉛鉱石の採掘を中止し、その長い歴史を閉じたのである。
信念に生きた人々
平成2年6月26日、萩野昇博士は胆嚢癌にともなう敗血症のため富山市民病院でこの世を去った。74歳であった、イタイイタイ病の研究と治療に半生を捧げた「田舎の開業医」の反骨人生が安らかに終わったのである。萩野昇は亡くなったが、彼の努力により婦中町住民に笑顔がもどり、神通川は「毒の通る川」から再び「神の通る川」となった。
もし萩野昇という医師が婦中町にいなかったら、もし研究を途中で諦めていたら、イタイイタイ病は解明されず、奇病、業病と忌み嫌われたまま犠牲者を増やし続けたであろう。この萩野昇の生涯はイタイイタイ病を発見し、その原因を突き止めた医師の記録と言えるが、むしろそれよりも患者のために自分を犠牲にして、白眼視の逆境の中で研究を進め、患者のために真実を明らかにした勇気ある医師の記録と呼ぶのがふさわしい。地元の人たちは、萩野昇のことを今でも富山のシュヴァイツァーと尊敬している。
萩野昇の学説を最後まで支えた農学博士、吉岡金市は平成2年11月死去。イタイイタイ病の原因を突き止めた岡山大名誉教授、小林純博士は平成13年7月2日、虚血性心疾患により死去、91歳であった。
医師である萩野昇博士、農学者である吉岡金市博士、科学者である小林純博士、彼らは学問の分野は違っていたが、イタイイタイ病という悲惨な病気の解明につくし、周囲の白眼視に耐えながら原因を突き止めた。彼らの人生は医師として、学者として尊敬するに余りある半生であった。患者を助けたいという真摯な態度、真実の追究という学問的姿勢、正しいことを正しいと主張する勇気、これらを決して忘れてはいけない。このことを彼らは教えてくれた。
萩野 昇(富山のシュヴァイツァー)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
イバラの道を進んだ医師
このイタイイタイ病を発見し、原因を解明したのが地元の開業医、萩野昇である。イタイイタイ病の原因は神岡鉱山から排出されたカドミウムであったが、この原因解明までの道のりは平坦ではなかった。それは険しいイバラの道に等しかった。「田舎の開業医に何が分かる」という医学界の冷たい視線を浴びながら、萩野昇は自説の正しさを、それこそ血みどろになって証明したのだった。真実を真実として学問的に追求し、そして逆境の中でイタイイタイ病の原因を突き止めたのである。萩野は身を切られるような激痛に苦しむ患者を哀れみ、その想像を絶する苦しみを自らの肌で感じ、そして何よりも患者を救いたいという使命感を持っていた。萩野に私心はなかった。目の前の悲惨な患者を助けたい、「痛い、痛い」と叫びながら死んでいった罪のない患者の無念にむくいたい、医師としての純粋な気持が病因解明の原動力となっていた。
大正4年に生まれた萩野昇は、旧制金沢医科大学を昭和15年に卒業すると、研究生として病理学を専攻した。しかし研究する間もなく軍医として徴兵され、病理学教室に籍を残したまま7年間のあいだ戦地の野戦病院で傷病兵の治療にあたった。そして中国大陸で終戦を迎えると、昭和21年3月21日、7年ぶりに故郷の富山県へ帰ってきた。
終戦当時の日本は、都市部のほとんどが空襲によって焼け野原となっていた。人々は栄養不足に陥り、シラミまみれのボロボロに汚れた服を着ていた。それは富山市も例外ではなかった。富山駅に着いた萩野は、かつて賑やかだった街並みが瓦礫となり、まばらに建つ粗末なバラックに愕然となった。それは7年前に歓声とともに送られた富山市の光景ではなかった。変わりはてた街並み、生気を失った人々の疲れ切った表情、崩れ落ちた建物を見ながら、萩野は富山市から6キロ離れた婦負郡婦中町(熊野の里)の生家へと足を速めた。富山の市街地から遠ざかるにつれて、記憶に残る懐かしい古里の風景がしだいに見えてきた。
昔のままの有沢橋を渡りながら神通川を眺めると、神通川は水面をきらめかせて清らかに流れていた。遠くに見える剣岳、立山、薬師岳などの北アルプス連峰も子供の頃と同じだった。生家のある婦負郡婦中町は豊かな穀倉地帯で、幸いなことに空爆をまぬがれていた。水田に点在する農家、昔からの樹木などの懐かしい風景は7年前の記憶のままだった。
戦地で働いている間、萩野は家族とは音信が途絶えていた。そのため家族は自分の無事を知らず、また家族の無事も萩野は知らずにいた。はたして無事だろうか、萩野はせく気持ちを抑えながら生家の門をくぐると、皆は昇の元気な姿を見て驚き、喜びの表情で迎え入れた。死んだと思っていた昇が無事に帰ってきた。その驚きと喜びは無理もないことだった。互いに涙を流しながら無事を喜びあった。
病院を継ぐ
萩野家は代々医師の家系である。初代は富山藩前田侯のお抱え医師で、昇の父は高松宮家の侍従医を勤め、その後に萩野病院の院長として働いていた。萩野家は広大な土地を持ち、病院を経営するかたわら 200人の小作人を持つ地主でもあった。このように萩野家のかつての暮らしは裕福だった。萩野は故郷に帰ったら、母校の金沢医大で病理学の研究をしたいと考えていた。しかし病院長であった父親が戦争中に亡くなり、多額の財産税や相続税をとられ、萩野家はその日の食料も買えないほど生活に困っていた。萩野家は名家であったが、戦争によって落ちぶれていた。生活費がなく子供たちの学費も出せない状態であった。萩野は年老いた母や幼い弟たちを養わなければならない立場になった。そのため金沢医大での研究をあきらめ、父親の後を継いで、翌日から萩野病院の四代目院長として診療にあたることになった。萩野病院に若い跡継ぎの先生が戻ってきたことから多くの患者が押し掛けてきた。
イタイイタイ病と出会う
萩野が整形外科医として父の白衣を着て診察を始めると、すぐにある奇妙な病気に気づくことになる。それは神経や骨の激しい痛みを訴える病気であった。彼は7年間、軍医として多くの神経痛の患者を診察してきたが、これほど激しい痛みを訴える患者を診察したことはなかった。しかも痛みは慢性進行性で、痛みが始まると数年後には患者はかならず多発性の骨折をきたした。この多発性骨折をきたす病気は何だろうか、まったく見当がつかなかった。同じ症状を訴える患者が次々に萩野病院に押し掛けてきた。骨折の痛みに悲鳴を上げながら患者は診察を受けにきた。どの患者も「痛い、痛い」と悲痛な痛みを切なく訴えた。萩野はレントゲン写真をみて驚いた。身体中の骨は枯れ枝のようであった。痛みの訴えの切実さが理解できた。「痛い、痛い」と泣き叫ぶ患者の様子から、看護婦はこの悲惨な患者を「イタイイタイさん」と呼んでいた。そして萩野病院ではいつしかこの病気を「イタイイタイ病」と自然に呼ぶようになった。
イタイイタイ病の初期症状は軽度で、農繁期や過労が続いたあとに、手や腰に痛みが出る程度だった。また入浴や休養によって回復することから、最初は農作業による単なる過労と軽く受け止められていた。この初期症状の患者は診察しても外見上の異常は見られない。しかし痛みはしだいに強くなり、大腿部、背部などに神経痛に似た、切られるような鋭い痛みが走り、骨のレントゲンでは骨粗鬆症の所見が見られた。痛みは年単位で悪化し、患者は全身に痛みを訴え、歩く際には大腿部の痛みをかばうため、アヒルのような格好で歩くようになった。
そして痛みのため仕事や家事ができなくなり、数年後には骨折をきたし、激しい痛みから歩行も困難となった。骨は薄くもろくなり、身体を動かしただけで、また医師が細い腕の脈をとるだけで、あるいは咳をしただけで容易に骨折を引き起こした。患者は多発性の骨折のため、昼夜を問わず「痛い、痛い」と訴えるようになった。患者の中には全身72ゕ所に骨折をきたした患者がいた。また脊椎の圧迫骨折のため30センチも背が縮み、まるで子供に戻ったように小さくなった患者も多かった。患者たちは何ら治療法のないまま、苦しみの中で寝たきりになっていった。この病魔におかされた患者は、あまりの痛さから、また精神的苦悩から自殺に至った者もいた。
イタイイタイ病の患者のほとんどが40歳を過ぎた中年以上の女性で、子供の患者はみられず、男性患者はまれであった。更年期の主婦、しかも子供を多く産んだ経産婦がほとんどであった。中年女性に発症することから、イタイイタイ病を抱えた家庭は、家事を支える主婦を失ったのと同じ状態に陥った。病魔に襲われた主婦は農作業はできず、家事もできず、家計は苦しくなった。当時は医療保険のない時代である。医療費はかさみ家族全体が貧困による生活苦から抜け出せずにいた。また中期症状として恥骨の痛みがあり、股を開くことができず、排便も困難になり、夫婦生活はもちろん不可能となった。
夫はいっこうに治らない妻を介護しながら、妻の代わりに子供の世話、家事をしなければならなかった。そしてこのような家庭にあって夫はしだいに酒に溺れ、家庭そのものが崩壊していった。この病気は病名もわからず、治るあてもなく、家庭を絶望のどん底に突き落とした。家族はまるで呪われた病気であるかのように業病ととらえていた。業病とは前世の因縁によって発症する宿命的病気を意味しており、このため家族は病人の存在を他人に知られることを恐れ、病人を周囲から隠そうとした。
萩野病院には同じような症状を訴える患者が押しかけ、外来患者の7割を占めるまでになった。それでも歩いて受診できる患者はまだよい方で、歩けない患者はリアカーに乗せられ、あるいは寝たきりの患者は畳ごと担ぎ上げられて病院へ運ばれてきた。外来患者の多くが病名も分からない悲惨な病魔に襲われていた。そして入院患者の多くもイタイイタイ病患者で占められた。
生ける屍
往診に出かけると、寝たきりの老婆が薄暗い部屋の奥で痛みに耐えながら動けないでいた。最初のうちは家族の同情があっても、慢性進行性の治らない病気に家族からしだいに疎んじられ、家の奥に放置されたまま孤独のなかで病魔に耐えていた。家族は近所の目をはばかり、奥の納屋に病人を隠すように寝かせていた。イタイイタイ病の末期患者は、寝返りをしただけで、あるいは笑っただけで骨折をした。それは身のすくむような悲惨な状態であった。身体中の骨が多発性の骨折をきたし、患者の手足は数ゕ所でねじ曲がり、どこが肘なのか膝なのか分からないほどであった。また布団の重さによっても骨折することから、やぐらを組んで布団が掛けられていた。風呂に入れてやることもできず、まるで地獄絵のようであった。萩野は骨がボロボロに折れている患者を診察するたび、胸がふさがれる気持ちになった。
この病気は脳をおかさなかった。そのため最後まで患者の意識ははっきりしていて、死ぬまで痛みから逃れることはできなかった。また内臓にも病変をきたさないことから寝たきりのまま10年、20年と生き続け、生身を切られるような激痛に最後まであえぎながら、生きる屍となって衰弱していった。そして食事が摂れなくなり、孤独と絶望の中で死んでいった。火葬された遺体は、頭部以外の骨はほとんどが灰となって、骨としての原型をとどめなかった。いつ骨折しても不思議ではないほど骨は薄く、箸でつまめないほどもろくなっていた。
神経痛やリウマチでは骨折をきたすことがない。そのためイタイイタイ病は神経痛やリウマチとは明らかに違っていた。萩野にとってこれまで見たことも、経験したこともない病気だった。萩野はこの奇妙な疾患をなんとか治そうと医学書や医学雑誌などを調べたが、どこにもそのような病気の記載はなかった。午前中は外来診療、午後は往診、そして深夜になってイタイイタイ病の研究という毎日が始まった。
病因の究明に乗り出す
萩野はこの悲惨な患者を救済するため、すべてを投げうってイタイイタイ病の研究に打ち込んだ。業病とされる患者を前にして、この患者たちに何の罪があるのだろうか、あるはずはない。病気には病気になる病因が必ずあるはずと考えていた。そして目の前の悲惨な患者を助けたい一心でこの奇妙な病気の解明に乗り出した。
萩野はもともと研究心が強かった。大学を卒業して病理学を専攻したこともその研究心の表れであった。病理学とは患者の解剖や動物実験によって病気の本当の原因を明らかにする学問である。病気の原因が明らかになって、初めて治療が可能になることから、病理学は医学の基本的な学問である。イタイイタイ病にも必ず原因があるはずだ。その原因が分かれば、治療法も確立し患者を救うことができる。萩野はそれが自分に課せられた使命であると信じていた。過労、貧血、栄養障害、寄生虫、あらゆる原因を想定して検査をしたが、この奇病の原因は依然として不明だった。治療法がわからないまま患者だけが増えていった。そして地獄の苦しみの中で患者は死んでいった。
萩野は萩野病院に残されたカルテを丹念に調べてみた。二代目の祖父の時代にはこの病気の記録はなかった。イタイイタイ病についての最初の症例は大正時代、三代目の父の時代に記録が残されていた。父はすでに亡くなっていて、この奇病を父がどのように考えていたかを訊くことはできなかった。しかし得体の知れないこの奇病を、父は富山の風土病と考えていたようであった。
イタイイタイ病患者は神通川流域に住む40歳以上の農村の主婦が大部分だった。また子供をたくさん産んだ更年期以降の主婦に多くみられた。さらに地元出身の主婦の発症年齢は若く、他から嫁に来た主婦の発症年齢は遅かった。そして不思議なことに、娘時代まで神通川流域で育ち、他の土地に嫁に行った女性は発症しなかった。この病気は血縁のない姑と嫁が同じように発病したことから遺伝病は考えられなかった。
イタイイタイ病が風土病とされたのも無理はなかった。この疾患は婦中町を中心とした数キロ四方の地区に限られ、日本のどの地区にもこのような病気は見られなかったからである。神通川6キロ下流にある富山市にも患者は存在しなかった。萩野は患者を富山市の県立中央病院、市民病院、赤十字病院などへ紹介したが、腎臓病、リウマチ、脊椎カリエスなど様々な診断がつけられ冷たく帰されるだけだった。病因も分からず、治療法も分からず、また他の医師の興味も引かないまま患者は帰されてきた。
暗中模索の研究
田舎の開業医にすぎない萩野だけではイタイイタイ病の解明は困難だった。そのため昭和22年、母校である金沢大学医学部第一病理学教室を訪ね、イタイイタイ病解明への支援を頼むことにした。第一病理学教室では恩師の中村八太郎教授はすでに亡くなっていたが、萩野の先輩にあたる宮田栄が教授になっていた。萩野がイタイイタイ病の説明をすると、宮田教授は共同研究を快く引き受けてくれた。そして宮田教授は暇を見つけては萩野病院を訪ね、萩野と一緒に患者の家を訪問し、イタイイタイ病の究明に力を貸してくれた。患者の頭から足先までレントゲンを撮り、採血、採尿を繰り返したが原因は分からなかった。
この病気の初期症状は骨粗鬆症で、中期以降の症状は骨軟化症の症状と一致していた。そのため骨軟化症の治療薬であるビタミンDの投与を行ったが、終戦直後のビタミンDは粗悪品だったため、下痢、嘔吐などの副作用ばかりで治療効果はみられなかった。原因は依然として不明のまま時間だけが過ぎていった。骨粗鬆症、骨軟化症というキーワードは分かっていた。しかしなぜ骨粗鬆症、骨軟化症を引き起こすのか、そのメカニズムが分からなかった。
イタイイタイ病が通常の骨軟化症と違うのは、腎臓の尿細管がまず障害され、尿中のタンパク、カルシウムが増加することだった。カルシウムの排泄が増加すれば、骨が薄くなるのは当然であるが、なぜ身体に必要なカルシウムが尿から排泄されるのかが分からなかった。原因不明のまま、新規患者は昭和21年には40人、昭和22年には20人、昭和23年には30人となり、総患者数は増加していった。
萩野は原因の一つとしてウイルスや細菌などの感染症を疑い、病院の片隅に動物小屋を作って、患者の便、尿、血液などを数10匹のラットやウサギに感染させる実験を繰り返したが、動物はなんら変化を示さなかった。終戦直後の大学の研究費は限られていた。そのため研究費の大部分を萩野が出していたが、肝心の研究成果は得られなかった。そして昭和30年、宮田教授が脳卒中で倒れて故人となり、10年間の共同研究は暗中模索の中で挫折した。
昭和30年5月、東京北品川にある河野臨床医学研究所の河野稔博士がリウマチの講演のため富山県を訪れた。そして富山県厚生部から婦中町にリウマチに似た不思議な病気があることを聞き、河野稔は萩野病院を訪ねてきた。彼はこの悲惨な奇病を診察し、この病気は日本に類のない悲惨な奇病で、原因解明のための共同研究を約束した。河野稔はリウマチの専門家であったが、イタイイタイ病はリウマチとは明らかに違う疾患と断言した。また血縁のない姑、嫁が罹患することから遺伝性疾患とは考えられなかった。同じ地区に多発することから感染症の可能性が高いと考え、トリコマイシンの発見者である東大名誉教授、細谷省吾を伴い本格的な共同研究を行うことになった。
全国に知れ渡った奇病
昭和30月8月4日、富山新聞朝刊の社会面トップ記事を見た富山県民は驚いた。それは富山新聞がイタイイタイ病をトップ記事として大きく報じたからである。イタイイタイ病が五段抜きの見出しで、県民の目の前に飛び込んできた。この富山新聞の記事によって、婦中町熊野地区の奇病、イタイイタイ病は一般の人たちの注目を集めるようになった。
富山新聞の八田清信記者が書いた記事はイタイイタイ病を次のように説明していた。
この病気はこれまで医学界に報告されていない奇病であり、婦中町熊野地帯に多発していること。日本医学界の権威者たちが大挙して来県し、正体解明のためメスを入れることになったこと。このイタイイタイ病は婦中町の熊野地区に大正時代から存在していて、業病、奇病とされていたこと。そして「痛い、痛い」と泣き叫びながら死んでいった患者が100人以上、現在も100人以上の患者が苦しんでいること。さらにこの奇病は地元の萩野病院長、萩野昇博士が発見者であり、リウマチの研究者、細菌学者などが中心となり奇病の解明がなされていること、などであった。
この富山新聞の報道が富山県民を驚かした。それまで県民は自分たちの住んでいる県内に、このような病気が存在することを知らなかった。一方、患者たちは、自分たちの病気がイタイイタイ病という奇妙な名前の病気であることを知って困惑にかられた。この新聞報道をきっかけにマスコミがこぞって動きだし、医学界の権威者が注目したことから、婦中町に閉じこもっていた奇病が富山県だけでなく、日本の津々浦々まで知れ渡るようになった。富山新聞の記事が富山県婦中町熊野地区の奇病を世に知られるきっかけを作った。
昭和30月8月12日、イタイイタイ病の謎を解くため、河野稔を中心とした10数人の医師らによる集団検診が萩野病院で行われた。そしてそれらしい症状を持つ200人が朝の4時から萩野病院の前に集まりはじめた。この受診者の数に驚いた婦中町当局は、職員、保健婦を集め病院前にテントを張って対応したほどである。この集団検診は2日間にわたっておこなわれ、イタイイタイ病患者は52人、その中で男性は3人であることが判明した。
ある婦人は河野にすがりつき「こんな病気は1日も早くなくしてほしい。どうせ死んだも同然の身体だから、痛む片腕でも片足でもよいから切り取って研究してください」と訴えた。この言葉に医師たちは胸をうたれた。河野稔は二人の患者を東京に連れて帰り、各大学の専門家を集め骨系統の疾患を中心に共同研究が精力的に行われた。
共同研究の結果
共同研究には世界的な学者たちが参加し、各分野での研究がなされた。イタイイタイ病の原因は感染症ではないことだけは共通の認識となったが、本当の原因は不明のままであった。感染症でも遺伝性疾患でもなければ、何らかの環境因子が関与していることが想像された。権威ある学者たちにとってイタイイタイ病の原因を不明とは言いづらかった。そのためこの地区特有の環境が疾患の原因と説明することになった。
昭和30月10月、河野稔と萩野昇の名前で研究成果が発表された。そしてこの奇病の原因を「栄養不良、過労、ビタミンD不足、日照時間不足」と結論づけたのである。さらに産後の休養期間が短いこと、夫婦生活の多いことも要因として付け加えられた。もちろん、萩野にとってこの結論は納得できるものではなかった。もしこれらが原因であればイタイイタイ病は全国の農村で見られるはずであった。
婦中町より栄養状態の悪い農村はいくらでもあった。日照時間も婦中町は富山県内では長いほうで、また神通川中流の地区だけが過労であるはずはなかった。しかし田舎の開業医としては、大学の研究者の結論に反対することはできなかった。萩野にとって不本意な結果となった。彼は権威ある偉い先生の学説に反対できない悔しさを味わった。
婦中町の農民たちは「イタイイタイ病の原因が、栄養不良、過労、ビタミンDの不足」と結論されたことに憤慨していた。それは婦中町が日本で最も劣悪な地区というレッテルを貼られたに等しいことだったからである。「婦中町では嫁にはろくなものを食べさせず、朝から晩までこき使っている」という暗いイメージが作られてしまった。地元の人たちの不満は共同研究者の萩野に浴びせられた。
婦中町は決して栄養不良、過労、ビタミンD不足の町ではなかった。これまで婦中町は健康栄養模範農村として3回表彰を受けていた。しかし富山県厚生部は婦中町の住民に対し、過労を防ぎ、肝油や小魚を多く摂るように指導した。婦中町は日本中に恥を晒すことになった。
共同研究班は原因を解明したとして解散となり、萩野はひとり残されることになった。「イタイイタイ病の原因が栄養不良、過労、ビタミンD不足のはずはない」このことを地元の医師である彼が一番よく知っていた。しかし農民たちは萩野がよけいなことを言ったからだと憤慨した。地元の反発もあり、萩野は孤立無援のなかで独自に研究を進めることになった。共同研究の成果はなかったが、世界的な学者が取り上げたことから、イタイイタイ病が日本中に知れ渡たり、さらに萩野が世の注目を集めることになった。
イタイイタイ病の症状は骨軟化症の症状と似ていた。骨軟化症と違うのは、イタイイタイ病患者は必ず腎臓の尿細管障害を伴うことである。つまり尿からカルシウムが異常に排出されるため血液のカルシウムが減り、それを補うため骨のカルシウムが放出され、そのために骨が薄くなり骨折をきたすのであった。腎臓の尿細管障害によるカルシウムの異常排出がその病因であれば、イタイイタイ病が更年期以降の女性に多いことが説明できた。それは妊娠によって胎児にカルシウムを大量に奪われ、母乳からもカルシウムが奪われるからである。
なぜ婦中町だけが
萩野昇の孤独な戦いが始まった。婦中町の日照時間、栄養状態、ビタミン摂取量などを再度調べてみたが、それらは他の町と比較しても水準以上であった。また労働時間を調べてみたが全国平均とほとんど変わらなかった。むしろ東北の貧しい農村や、北海道の開拓地は、婦中町よりも栄養状態は悪く、過労に悩んでいた。イタイイタイ病の原因が栄養不良や過労であるはずはない。ではなぜ日本の中で婦中町だけに患者が限定されるのだろうか。この疑問が常につきまとった。
原因が分からないまま患者だけが増えていった。そしてある日のこと、萩野は富山県下のイタイイタイ病患者の家をひとつひとつ地図の上に赤いインクでプロットしてみた。すると患者のほとんどが婦中町、八尾町、大沢野町を中心とした神通川中流の一定の地域に限られていることがわかった。神通川上流の地域には患者は見つからず、また下流の富山市でも患者は見つからなかった。なぜ神通川中流の稲作地帯だけにイタイイタイ病が発生するのだろうか。
神通川は昔から神の通る川として、地元住民はある種の信仰的感情を持っていた。萩野は神通川と赤いプロットとの関係をじっと見つめていた。そして病気が神通川中流に限られている理由を考えていた。
もしかして、この神通川に悪魔が住んでいるかもしれない。萩野は神通川上流にある神岡鉱業所に釘づけとなった。彼は富山県から数キロ離れた岐阜県吉城郡神岡町にある神岡鉱業所の排水による鉱毒説を考えるようになった。
神通川の水は北アルプスの山々から平野に入るまでは地形の高度差が大きく流れが速かった。そのため川底が深く洪水の被害は少なかった。また渓谷のため神通川の川水は農業用水として利用していなかった。しかし婦負郡婦中町付近では神通川の流れは急に緩慢となり、急流によって運ばれてきた土砂が川底に堆積し、周囲の水田より川底が高くなっていた。いわゆる天井川で、そのため婦中町では堤防工事が完成するまでは毎年のように洪水による被害が起きていた。そのため婦中町の住民は神通川を暴れ川とよんでいたほどであった。川底が周囲の水田より高いことから、婦中町では神通川の水を農業用水として取り入れ、大沢野用水、大久保用水、牛ヶ首用水が張り巡らされていた。そして神通川は婦中町を流れると、すぐに井田川、熊野川と合流して富山市に流れ込んだ。
「神の通る川」、神通川の川水は農業用水として田畑を潤し、水道が引かれる昭和40年まで、住民は生活用水や飲料水として利用していた。特に井戸が凍る冬場は川水を汲み飲用水として飲んでいた。
神岡鉱業所の排水による鉱毒説が正しければ、神通川上流に患者がいないのは川の流れが速く、川底が深いため氾濫がおきないことから説明がついた。また下流に患者が少ないのは、井田川、熊野川の合流によって鉱毒が希釈されることで説明がついた。萩野は意識していなかったが、それは疫学調査であり、疾患と地理的関係を示すものであった。彼は神通川の水を採取し、全国の大学や研究所に送りその分析を依頼した。しかしいずれの分析でも有毒物質を検出することはできなかった。
鉱毒説にいきつく
昭和32年12月1日、第12回富山県医学会が開催され、萩野は初めてイタイイタイ病の原因として鉱毒説を発表した。昭和21年以来、93例の患者のほとんどがタンパク尿を呈していること。その原因として神通川の水に含まれる亜鉛、鉛、砒素などの鉱毒が体内のホルモンを乱し、二次的にビタミンD不足をきたしイタイイタイ病を引き起こすこと。また患者の発生地が神通川流域の婦中町付近に限られるのは、特有の地形によりイタイイタイ病患者が神通川の水を多く摂取しているせいだと説明した。つまりイタイイタイ病の原因は神通川の水に含まれる鉱毒と発表したのだった。萩野は名前を出さなかったが、聴衆はそれを神岡鉱業所が排出している鉱毒を意味すると理解していた。神岡鉱業所は日本の大財閥である三井が経営する鉱山である。萩野の発言は大財閥三井への挑戦と受け止められた。
彼の発表に対し周囲の反応は冷たかった。神通川の水質検査で問題がなかったことから、何の根拠もない仮説として学会で非難された。また鉱毒が亜鉛、鉛、砒素であったとしても、それらの重金属の慢性中毒症状はすでに知られており、それらがイタイイタイ病を引き起こすとは考えられないとされた。この科学的裏付けのない萩野の鉱毒説は医学界から完全に無視されてしまった。ある学者は、神通川に鉱毒があるという証拠がないこと、イタイイタイ病患者に鉱毒が含まれているかどうか確認されていないこと、鉱毒がイタイイタイ病を引き起こす証拠がないこと、これらを挙げ、萩野の鉱毒説は何の根拠もない俗説であると学会誌で反論した。
たしかに萩野の鉱毒説は何の証拠もない憶測にすぎなかった。しかもこの鉱毒説は神通川上流の神岡鉱業所を犯人として公然と名指したようなものである。萩野は周囲から中傷を浴び、黙殺され、非難、攻撃の嵐にさらされた。しかし疫学的にはイタイイタイ病の原因は鉱毒以外に考えられなかった。その証拠がほしかったが見つけることができなかった。
昭和33年、東京大学の吉田正美教授が萩野病院を訪ねてきた。吉田教授は萩野の鉱毒説に深い関心を示していた。そして神岡鉱山の実情を知らなければ学問的裏付けができないと主張し、萩野と2人で神通川上流にある神岡鉱業所を視察に行くことになった。東大教授の肩書きの威力は強かった。名刺を出しただけで職員は神岡鉱業所内をていねいに案内してくれた。萩野は教授の弟子のような顔をして構内に入り説明を受けた。神岡鉱業所に入って驚いたのは、周囲の山には緑の樹木が一本もないことだった。別世界のようなはげ山であった。神通川が死の川とすれば、神岡鉱山は死の山であった。
神岡鉱山の歴史は古く、奈良時代にはすでに黄金を産出して、天皇に献上されたことが記録されている。多くの鉱脈を持ち、銀、銅、鉛を大量に産し、明治時代になって三井組(現在の三井金属鉱業)が買収した。日露戦争により軍の需要が増大し、大正時代にはさらに需要が増し増産された。
神岡鉱山の採掘法はドリルで穴をあけた岩にダイナマイトをつめ爆破する。砕かれた鉱石は粉末状にされ、水を加え泥状にして、鉛、亜鉛を精製していた。そして残った堆積物は水とともにダムに流して沈下させ、その上澄みを川に流していた。このダム方式といわれる採取法はかつて神通川の氾濫で鉱毒により農作被害を受けた際に造られたもので、鉱毒被害を防止するために通産省が認定した方法であった。このダムができるまでは排水はそのまま川に流されていた。しかしこのダム方式でも大雨や台風などで水が溢れたら、あるいは上澄みに鉱毒が含まれていたら・・・・、この作業行程を見て2人はイタイイタイ病の鉱毒説を確信した。
萩野は神岡鉱業所を見学して鉱毒説に確信を得たが、それを裏付ける証拠は何もなかった。研究の協力者はいなくなり、研究は行き詰まり失意の日々をすごしていた。イタイイタイ病と萩野の名前は有名になり、多くの研究者が萩野病院を訪ね研究の手助けを申し出たが、結局は話を聞くだけで、誰ひとりとして協力する者はいなかった。
他分野の協力者出現
そのような時期に、農学・経済学者である吉岡金市博士(金沢経済大学学長)と巡り会うことになる。吉岡はたまたま黒部川水系の冷水害の調査のため富山県に来ていて、ついでに神通川の冷水害を調べようと婦中町を訪ねたのだった。そして婦中町の稲の根を見て、これは冷水害ではなく鉱害であると即座に断定したのだった。そしてこれだけひどい農業鉱害があれば、環境を同じにする人間にも影響があるはずだと言った。それを聞いた町議員の青山源吾は、イタイイタイ病という奇病がこの地区に多発していることを教えたのである。青山議員の母親もイタイイタイ病で亡くなっていて、その奇病の原因がまだ解明されていないことを告げた。吉岡はイタイイタイ病も鉱害が原因と直感した。
吉岡金市は電話で萩野に面会を求めてきた。萩野はいつもの冷やかしの訪問と考え面会を断った。しかし吉岡は萩野病院を訪ね、「5分間でいいから院長に会わせてくれ」と玄関で粘った。萩野はこの吉岡に根負けして渋々面会することになった。そして話をしているうちに、「農作物の被害が鉱毒によるものならば、イタイイタイ病の原因も鉱毒によるものである」という点で、ふたりの考えが完全に一致した。農作物と人間の違いはあるものの、初めて鉱毒説の力強い味方を得たのである。吉岡はイタイイタイ病患者の家をスポットした地図に神通川からの農業用水を書き入れ、神通川を利用した農業用水の使用地区でのみで患者が発生していることを確認し、鉱害により被害を受けた農作物の分布と比較するという科学的データを作り上げた。そして患者の発生地域と農作物の被害地域が一致することを示した。また地元役場で死亡診断書を調査し、患者の発生数の増加と神岡鉱山の生産量が比例関係にあることを確かめた。吉岡は萩野の研究を最後まで支えることになる。
さらに力強い味方が現れた。昭和34年、岡山大学教授の小林純博士から「神通川の水質を調べたい」と依頼の手紙が突然届いたのである。小林はかつて農林省農事試験場技師として戦時中の昭和17年に婦中町の稲作被害の調査を命じられ、「これは冷害による被害ではなく、上流の神岡鉱山から流れた亜鉛、鉛などによる鉱毒である」と農林省に報告した人物である。この報告書は戦争中であったことから曖昧に処理され、農民には補償金は出されなかった。その後、小林は岡山大学の教授となり、河川の水質検査の専門家となっていた。そしてスペクトログラフという最新の機器を岡山大学の研究所に備えたばかりであった。
小林教授は「科学読売」に報道された「日本に例をみない奇病、イタイイタイ病」の記事を読み、かつての神岡鉱山の鉱毒を思い出した。そして何らかの手がかりがつかめると思った。かつて農林省には亜鉛、鉛などによる鉱毒と報告したが、あまりに農作物の被害がひどいことから、それ以外の何かがあると考えていた。小林教授は神通川流域の奇病に関心を抱き、採水用のビンを手紙にそえて、萩野に神通川の水を調べたいので採取してほしいと郵送してきたのだった。
カドニウムの発見
萩野は神通川の河水と患者の家の井戸水をプラスチックのビンにつめ小林教授のもとに送った。それまで各地の大学で問題なしと分析されていた神通川の水であったが、小林教授の分析によって驚くべき結果がもたらされた。小林教授はスペクトル分析によって「神通川の河水から、亜鉛、鉛、砒素、カドミウムが多量に検出された」と報告してきたのだった。亜鉛、鉛、砒素の慢性中毒はイタイイタイ病の症状とは違うことはすでに分かっていた。そのためカドミウムがもっとも怪しい物質であると手紙に書いてきたのだった。
当時、カドミウム汚染について書かれた文献は日本にはなかった。「カドミウム」という言葉さえ医学書には書かれていなかった。そのため人体にどのような影響を及ぼすのか何も分からなかった。重金属であるカドミウムはほとんど知られていない物質であったが、亜鉛の鉱石には副産物として必ず含まれる物質であった。神岡工場は亜鉛を製錬する時に、副産物であるカドミウムを神通川に流していたのだった。
萩野は金沢大学、富山大学の図書館でカドミウム中毒の文献を探したが見つからなかった。そうこうしている間に、吉岡がドイツの医学雑誌「中毒の治療と臨床」に、わずかに「慢性カドミウム中毒」の記載があるのを見つけてくれた。その論文はカドミウム電池工場で働く6人の労働者がカドミウム中毒によって歩行ができなくなり、レントゲンでは骨に横断状のひびが見られたというものであった。カドミウム中毒として記載されたその症状は、まさにイタイイタイ病の中期症状そのものであった。
ドイツの医学雑誌の記載によるとカドミウム中毒は潜伏期が2年であり、3年から4年後に神経痛様の痛みと貧血を生じ、8年後には明らかな骨軟化症の症状を示し、レントゲン所見では骨に亀裂が入り、患者は衰弱してアヒルのように尻をふって歩くと書かれていた。まさにイタイイタイ病の初期から中期の症状にそっくりな記載であった。萩野はとびあがるほど驚いた。
ドイツの「慢性カドミウム中毒」の論文にはイタイイタイ病の末期症状である多発性の骨折の記載はなかった。しかしこれはカドミウムの摂取量の違いによるものだった。日本人は白米を食べるが、欧米人は食べない。もし神通川の水にカドミウムが含まれ、農作物に吸収され濃縮されていたら、中期以上の多発性の骨折症状を示しても不思議ではなかった。萩野はこの論文によってイタイイタイ病がカドミウムによる慢性中毒であることに自信を深めた。小林教授のスペクトル分析により、この奇病の原因として重金属カドミウムが急浮上したのだった。イタイイタイ病の解明に大きな前進がもたらされた。
小林教授は神通川の水がカドミウムに汚染されていることを証明した。しかしカドミウムがイタイイタイ病の原因であるかどうかは、患者に含まれるカドミウムの分析が必要であったが、残念ながら小林教授は生体内に含まれる重金属の分析法を知らなかった。小林教授は人体に含まれる重金属の定量分析の方法を習得するため、昭和36年5月からテネシー大学のティプトン女史のもとに留学することになった。またカドミウム研究で知られているシュレーダー教授を訪ね、カドミウムに関する多くの資料と分析法を学んだ。
カドミウム説の確信
小林教授は3ゕ月間、アメリカで分析技術を学んで帰国すると、真っ先に萩野病院に保管されているイタイイタイ病患者の臓器の分析にとりかかった。そして亡くなった患者の各臓器に含まれる重金属の分析を行い、各臓器から高濃度のカドミウムを検出した。骨ばかりでなく、あらゆる臓器を調べてみた。普通の人なら5 p.p.m.程度のカドミウム濃度が、患者の臓器からはその1000倍ものカドミウムが検出された。さらに小林はイタイイタイ病発症地区の白米と、他の地区の白米のカドミウム濃度を調べ、イタイイタイ病発症地区の白米から数10倍のカドミウム濃度を検出した。また稲の根からも数百倍、土壌からも数十倍のカドミウムを検出した。さらに神通川のフナ、アユからも大量のカドミウムを検出した。婦中町はカドミウムに高度に汚染されていたのである。
患者の尿中のカドミウム量が異常に多いこと、神通川流域の土壌に含まれるカドミウム量が他の河川に比べて明らかに高いこと、イタイイタイ病の発生地区が神通川流域の水田の土壌のカドミウム濃度とよく相関していること、患者の発生地区ではタンパク尿の患者が高頻度に見出されたことが分かった。さらにイタイイタイ病の症状が文献上のカドミウム中毒の症状と一致することから、イタイイタイ病の原因がカドミウムである証拠が明らかになった。
神通川の川水を下流から上流に沿ってカドミウム濃度を調べてゆくと、上流に行くほどカドミウムの濃度が高くなり、神岡鉱業所付近の川水のカドミウム濃度が異常に高い数値を示していた。
神岡鉱業所は軍の蓄電池用の亜鉛を生産しており、その過程で生じたカドミウムを廃液として捨てていた。廃液中のカドミウムが20年から30年間の長期間にわたり川や土地を汚染し、飲料水、川魚、米に混入して、カドミウムが体内に蓄積してイタイイタイ病を引き起こしたのである。カドミウムが骨のカルシウムを追い出して骨をもろくしたのだった。
昭和36年5月13日、岡山大教授小林純と萩野昇は富山県知事の吉田実と会見し、これまでの研究経過を説明し、富山県の奇病「イタイイタイ病」は三井金属神岡鉱業所の廃水が原因であると報告した。この報告に驚いた吉田知事は県庁幹部20人を集め、小林、萩野から詳しい分析報告の説明を聞いた。この会合は秘密のうちに行われているはずであった。しかしひそかに入室していた富山新聞の記者が、その内容を翌日の社会面のトップ記事にした。
新聞の見出しは「イタイイタイ病の原因は鉱毒。患者の骨からカドミウムが検出、岡山大学小林教授が発表」「亜鉛、鉛、カドミウム、神通川に多量に含まれる」「白米にもカドミウムが含有されている」。この富山新聞社のスッパぬきによって、その日以来、多くの新聞記者が萩野を取り囲むようになった。カドミウムという重金属の名前が初めてマスコミに取り上げられたのである。
そして昭和36年6月24日、萩野は札幌市で開催された第34回整形外科学会でそれまでのデータを発表することになった。発表には共同演者として吉岡金市博士が名前を連ねていた。日本各地の新聞社、マスコミは萩野の発表に注目していた。会場には整形外科医ばかりでなく多くのマスコミ関係者が押し掛けていた。それだけ社会的関心が高かったのである。萩野が壇上に上がると、カメラのフラシュがいっせいに連射され、映画撮影機が回りはじめた。
萩野はこれまでの研究成果を発表した。それらを要約すると以下のとおりである。イタイイタイ病は神岡鉱業所から神通川に排出されたカドミウムが原因であること。神通川流域の住民がカドミウムを多く含む川水を飲み、あるいは汚染された米、農産物を長期間にわたり飲食することによって、カドミウムが体内に蓄積して慢性中毒を起こしたこと。その証拠として、カドミウムはイタイイタイ病患者周辺の神通川の川水あるいは流域の土壌に大量に含まれ、他の河川や土壌には少量しか認められないこと。またカドミウムは神岡工業所より上流の神通川には検出されないこと。さらにイタイイタイ病患者の骨などの臓器から多量のカドミウムが検出されたこと。これらのデータを示し、結論としてイタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒であると述べた。
いわれなき中傷
しかし学会では悪意に満ちた質問が相継いだ。なぜ中年女性に多いのか、骨以外の臓器障害が少ないのはなぜか、動物実験をしていないのにカドミウムが原因といえるのか。このような質問に対し、萩野はひとつひとつ丁寧に答えていった。萩野の回答は正確なものであった。にもかかわらず結果的に難癖に近い非難を受けることになった。データそのものが間違いであると非難され、田舎の開業医の売名行為、神岡鉱業所から金をとるための行為と邪推された。「学者でもない田舎の開業医に何が分かる」という先入観がその根底にあった。高名な学者たちのほとんどが萩野の研究を非難した。これだけ世間の注目を浴びている萩野の研究を素直に評価する医師は少なかった。また支持する医師の声も聞こえなかった。イタイイタイ病に対する世間の注目が高ければ高いほど、学者として萩野の研究に嫉妬する気持ちが生じたのである。ある週刊誌では「萩野昇は学者でない、科学的証明が何一つなされていない」と高名な学者が非難した。神岡鉱業所は萩野学説は実証のないひとりよがりの考えと反論した。
なぜ正しい研究が学会の場で素直に受け入れられないのか。正確で科学的データに基づいているカドミウム説がなぜ非難されるのか。萩野には学会という学問の世界で自説が非難されるとは想像もしていなかった。正しい学問をなぜ学会が認めないのだろうか。学会が終わると、にがにがしい思いに憤りを覚えていた。そしてこの学会を頂点として萩野への非難、中傷が始まった。
イタイイタイ病はカドミウムによって腎障害をきたす骨軟化症の一種で、医学的な診察基準も確立していた。しかしながら神岡鉱業所の肩を持つ医師が多くいた。岐阜大学と金沢大学医学部の有力教授は、イタイイタイ病との関連性を否定し、産業医学の権威者は萩野の研究に難癖をつけた。ネズミにカドミウムを投与する動物実験ではイタイイタイ病の発現はなかったと断言する医師もいた。このように三井財閥に有利な発言をする学者ばかりだった。患者の体内に大量のカドミウムが集積していることを数値で示し、それゆえにカドミウムが原因としたのは萩野だけであったが、学会では孤立無援の状態となった。
また患者を抱える富山県も萩野の鉱毒説に否定的態度をとった。それは富山県が工場誘致を考えていて、企業側に都合の悪い鉱毒説を否定したかったからである。イタイイタイ病の原因を神岡鉱山とする科学的根拠が示されたにもかかわらず、富山県は三井財閥を正面から批判することに難色を示し、むしろ神岡鉱山犯人説に否定的立場をとった。
富山県は県民の所得を上げるために大企業を県内に誘致しようとしていた。工業化を目指す富山県にとって、イタイイタイ病の神岡鉱山説は不都合だった。また岐阜県にある神岡鉱山の鉱石が少なくなったことから、神岡鉱山を富山県に誘致する計画が密かになされていた。イタイイタイ病という病人を抱えている富山県は、病人よりも企業誘致を優先させ、県内に潜行しているイタイイタイ病を歴史の闇に葬りたかった。
富山県は政府の大規模工業化プロジェクトを受け入れようとしており、政府や大企業を批判することはできなかった。政府や大企業を批判しているのは少数の被害者で、県民の大部分は企業誘致のため多少の公害を我慢すると考えていた。
失意の日々と妻の死
本来ならば味方となるべき農民も、農作物の売れ上げがおちることから萩野の悪口をいった。イタイイタイ病が神通川流域の奇病として知られるようになったが、その原因が何であれ農村に嫁が来なくなることを彼らは恐れた。そのため地元のイメージを悪くした萩野を批判した。「萩野病院へゆくとイタイイタイ病と診断される」と噂がたてられ、萩野病院の患者の数が激減した。病院には嫌がらせの電話が鳴りっぱなしとなり、「病院を爆破する」「地元にいられないようにする」といった脅しの電話や手紙が、萩野だけでなく病院職員にも相次いで舞い込んだ。卑劣な中傷や脅しによって、身の危険を感じた職員たちは萩野病院を去っていった。
萩野は四面楚歌となった。なぜ真実を信じないのか。苦しんでいる患者を救おうとする研究成果をなぜ信じないのか。彼を苦しめたのは、学者や行政だけではなかった。彼を最も苦しめたのは、県政、企業の論理に操られた周辺住民の冷ややかな目であった。萩野ほどの人物に対しても、彼が有名になればなるだけ周辺住民のねたみも大きくなった。三井財閥からの無言の圧力が幽霊の声となって富山県を動かし、富山県から婦中町に、婦中町から住民に大きくのしかかった。
萩野は自分の研究は患者のためと信じできた。そして奇病、業病として死を待つだけだったイタイイタイ病の原因を発見した。それなのにその気持ちが住民に受け入れられないことに絶望していた。
神岡鉱業所から長期間にわたり大量に排出されたカドミウムが川や土を汚染し、農業、漁業を破壊し、そして人間そのものを破壊したのである。神通川流域の土壌にカドミウムが沈着堆積し、水稲、大豆等の農作物に吸収され、地下水を介して井戸水を汚染させていた。体内での長期間のカドミウムの蓄積が腎障害を引き起こし、カドミウムがカルシウムを体内から追い出し、カルシウム不足から骨軟化症を引き起こしたのである。なぜ地元住民は自分を信じないのか。やっとイタイイタイ病の原因を解明し、治療に応用したいと考えている矢先の非難中傷であった。
昭和36年12月、「富山県地方特殊病対策委員会」が作られ、富山県がイタイイタイ病の原因究明に乗り出すことになった。しかし15人の委員の中にイタイイタイ病に最も詳しい萩野と小林の名前はなかった。富山県は、この人選はイタイイタイ病の原因について偏見を排除するため、自説をもたない学者によって研究を進めたいと説明した。しかし15人の委員の中では富山県医師会長をのぞくと、萩野の鉱毒説に反対を唱える学者がほとんどだった。そしてこの「富山県地方特殊病対策委員会」が行ったことは、患者名簿を作り、日照時間、栄養摂取状況などの調査で、まさに栄養説を補強するための委員会であった。さらに金沢大学でも、カドミウム説に反対を唱える学長を中心に「イタイイタイ病研究班」がつくられた。そしてそこにも萩野は選ばれなかった。萩野のカドミウム説に反対の立場をとった学者は富山県当局に取り込まれ、三井財閥に不利な発言をしなかった。さらにネズミにカドミウムを与えた動物実験ではイタイイタイ病の発生はなかったと発表した。ある一流月刊誌はカドミウム無害説を連載し、萩野の鉱害説を否定、彼の研究だけでなく人格まで非難した。
萩野はこのような非難のなかで、しだいに酒におぼれ自堕落な生活に陥った。マスコミは萩野の自暴自棄の生活を面白おかしく報道した。いつしか萩野は肝臓病、糖尿病、中心性網膜炎という病魔に冒されていた。気力の低下だけでなく身体までも蝕まれていた。
昭和37年10月、妻の茂子が他界した。茂子は病弱だった。昭和23年に長男茂継を出産してから結核を患い、病弱な身体で家事をこなし、子供を育て、病院経営も手伝い、診療と研究ばかりの萩野の生活を支えていた。茂子は結核に加えバセドー氏病を患い、そのアイソトープ治療の副作用に苦しみ死んでいった。茂子は自分の病状を萩野にしゃべらなかった。萩野は研究に多忙だったこともあり,茂子の看病をあまりしてやれなかった。
萩野はマスコミでは有名人になったが、研究ばかりか人格までも非難された。そのような流れの中で、茂子の病気をあたかも萩野へ下された天罰であるような報道がなされ、茂子の死を自殺だったとする噂が流された。萩野は周囲の中傷に加え、妻の死によって不幸のどん底に落とされてしまった。イタイイタイ病の研究に打ち込んで、茂子の看病をおろそかにしてしまったことを後悔していた。
予期せぬアメリカの評価
悲しみのどん底の中で茂子を思いながら、彼はそれまでの生活を一変させることにした。酒を止め、コーヒーもお茶も断ち、趣味のゴルフも止め、すべてをイタイイタイ病の究明に尽くすことを決意した。何もしてやれなかった妻に対する後悔の気持ちが萩野を蘇らせたのである。彼の前には、一介の開業医の力ではどうすることもできない大きな壁があった。しかし一歩たりとも退かないことを誓った。「自分の命があるかぎり、呼吸をしているかぎり、最後の血液の一滴を燃え尽くしてでも、真実を証明する」このことを死んだ茂子に誓ったのである。
奈落の底にあった萩野に明るいニュースが飛び込んできた。日本整形外科学会で発表したデータがアメリカで認められ、アメリカ国立保健研究機構(NIH)から1000万円の研究費が送られてきた。日本の学会で白眼視された研究をアメリカが認めてくれたのである。うれしかった。アメリカは自由の国、学問の国、偏見のない平等な国であると喜んだ。アメリカが認めてくれたことから、不思議なことに萩野のカドミウム説は本当かもしれない、と周囲もしだいに認めるようになった。
萩野はアメリカからの研究費で動物小屋を作り動物実験を再開した。知人に酒の入った一升瓶を渡し、飲んで空になったら、神岡鉱山の廃水を一升瓶に詰めて返してもらうことを条件に、廃水を集めウサギに投与する実験をおこなった。この実験は何度も失敗した。慢性疾患を動物実験で成功させるには長い時間と根気が必要だった。子供も手伝ってくれて実験はしだいに成功に近づいていった。
岡山大学の小林教授の実験室でも、ネズミを用いた実験が平行して行われていた。そしてついに成功した。カドミウムを混ぜた餌を与えたネズミでは、食べた以上のカルシウムが尿から排出され、骨が薄くなることが証明されたのである。1年間でネズミの骨の30%以上が溶け出し、225匹のネズミがイタイイタイ病と同じ症状を示した。この実験結果は昭和42年の日本医学会総会で発表され、逆もまた真なりを証明したのだった。イタイイタイ病のカドミウム説の一番の弱点であった動物実験に成功したのである。アメリカが萩野の研究を認め、研究費を与えたことがイタイイタイ病の原因としてのカドミウム説を証明したのだった。この研究により日本の研究者たちも萩野の学説を支持し、萩野は地元住民たちからも認められるようになった。
またカドミウム説を否定するためにつくられた「富山県地方特殊病対策委員会」、金沢大学の「イタイイタイ病研究班」も、萩野のカドミウム説を次々に支持する実験結果を示した。そして彼の学説は次第に認められるようになり、迫害の流れが賞賛へと大きく変わっていった。
もしイタイイタイ病の原因がカドミウムであれば、日本の他の亜鉛鉱山の河川にも同じイタイイタイ病患者がいてもおかしくはない。小林教授は日本中の川水の分析を行っていたので、可能性のある鉱山を知っていた。昭和39年9月、萩野と小林教授は、可能性の高い長崎県対馬にある東邦亜鉛対州鉱業所に調査に出かけた。3週間にわたる診察と調査から、その地区にもイタイイタイ病患者1人、死亡者2人、疑わしい患者数人を発見した。全身に疼痛を訴える患者は42人で、そのうちの21人から尿蛋白を検出した。また水田の土壌や井戸水から高濃度のカドミウムを検出した。対馬に患者が少なかったのは、亜鉛工場の規模が小さく、また水田が少なかったからである。この対馬の調査はイタイイタイ病のカドミウム説を裏付ける証拠のひとつとなった。
昭和41年10月6日、萩野は富山県社会保障推進協議会から、イタイイタイ病に関する講演を依頼された。会場となった富山駅前の労働福祉会館大ホールは聴衆が入りきれないほどであった。萩野は悲惨な病気であるイタイイタイ病について3時間にわたり講演を行った。そしてこの講演をきっかけとして富山県各地で講演が頻回に行われ、富山県民はイタイイタイ病の悲惨な現状と、萩野の学説の正しさを知ることになった。そして三井財閥の経営する神岡鉱山に対する県民の怒りが高まっていった。
住民が立ち上がる
昭和41年11月、それまで萩野を中傷していた婦中町の中から、ひとりの青年が立ち上がった。それは小松義久だった。小松は祖母、母をイタイイタイ病で亡くしており、近所に何人もの患者が苦しんでいるのを長年目撃していた。また農家で育った小松は農作物に被害をもたらした神岡鉱山の鉱毒被害を知っており、萩野の鉱毒説発表以来、祖母、母も同じ鉱毒で死亡したと信じていた。小松は神岡鉱業所に責任を取らせる被害者の会「イタイイタイ病対策協議会」を結成させた。その目的はイタイイタイ病を引き起こした神岡工業所の責任を裁判に訴え、謝罪を求めることであった。誰かが中心となって神岡鉱山と対決しなければいけないと覚悟を決めた。小松は農家を一軒一軒回り、イタイイタイ病対策協議会への入会を勧めた。それまで萩野に批判的だった婦中町も神岡鉱業所のカドミウム説を信じるようになった。三井財閥という巨大な陰を住民は恐れていたが、イタイイタイ病をもたらした神岡鉱業所を許すわけにはいかなかった。婦中町の住民は鉱害による農作物の被害を戦前から経験していた。
この婦中町の住民がそれまでイタイイタイ病について沈黙を守っていたのは、富山県がこの奇病を栄養不足、過労によると意図的に宣伝していたこと、大企業である三井金属が相手では裁判で勝てるはずがないと諦めていたこと、お上に逆らわない引っ込み思案の住民の性格があった。またイタイイタイ病は業病とされ、家族が患者の存在を隠そうとしていたこともその要因であった。小松義久は「イタイイタイ病被害者の会」の組織づくりに奔走し、住民大会を開き、業病の汚名をそそぐべく団結した。「イタイイタイ病被害者の会」は富山県に協力を求めたが、婦中米の不買運動が起きることを理由に協力できないとの回答であった。次に神岡鉱業所との直接交渉を行った。イタイイタイ病被害者の会の30人は神岡鉱業所に出かけ責任者に面会を求めたが、警察による身元確認がなされ長時間待たされたうえ、「三井を犯人扱いしているようだが、そのような科学的根拠はない」というのが返事であった。
イタイイタイ病については国会議員も動き出すことになった。昭和42年5月25日、参議院議員の矢追秀彦氏が萩野病院を訪ね、イタイイタイ病患者の悲惨な様子を見て涙を流した。そしてこのような悲惨な公害に何の手も打たず、追求もしなかった政治家としての責任を「申し訳ない」とわび頭を下げた。矢追は大阪出身の医師であった。彼は涙を流しながら、「こんなことが許されるはずはありません。政治家としてイタイイタイ病を国会で取り上げる」と約束してくれた。
昭和42年12月6日、イタイイタイ病の患者代表、小松みよさんら3人が園田厚生大臣、椎名通産大臣に病気の実情を訴えに行くことになった。患者たちは身体の痛みがひどく、東京まで行けるかどうか自信がなかった。しかしこのようなむごたらしい病気を、二度と繰り返さないために、死を覚悟して東京に向かった。患者たちは矢追参議院議員の紹介で園田厚生大臣の前に進み出たが、ただ涙がこみ上げるばかりで一言も言葉を発することができなかった。しかし田舎の素朴な患者たちの言いたいことはブラウン管を通して国民の誰もが理解できた。そして背が異様に縮んだ患者の痛がる表情がイタイイタイ病の恐ろしさを伝えていた。
国会での証言と初の公害認定
昭和42年12月15日、萩野昇は参議院産業公害特別委員会に参考人として証言を求められた。まぶしいライトのなかで満席の会場はしんと静まり返っていた。「痛い、痛い」と泣きながら死んでいった農婦たちの姿が彼の脳裏に浮かんだ。
「私は単なる田舎の開業医でございます。何の力もございません。神岡鉱山のような日本の基幹産業を相手に戦おうというような気持ちは微塵もごさいません。ただ、一人の医師として患者が可哀相なばかりに、この病気の研究を積み重ねてきただけでございます。「痛い、痛い、先生なんとかしてください」、泣き叫びながら死んでいった中年の農婦たち。全身の激痛のため診察もできない老女の絶叫、主婦が寝込んだために起きた様々な家庭の悲劇、・・・・あの人たちに何の罪があるのでしょう、何があの人たちを地獄の苦しみに追い込んだのか・・・」
会場は静まりかえっていた。咳払いひとつ聞こえなかった。萩野は声をつまらせ、目頭を潤ましていた。「私はただ患者が気の毒だと思います。私はただ患者を助けるのが医師の宿命として、純粋な立場で、謙虚な気持ちで研究を積み重ねただけです」。萩野のこれまでの戦いを支えてくれたのは、農婦たちの「痛い、痛い」と叫ぶ哀れな声であり、助けを求めようとする農婦たちの澄んだ瞳であった。萩野は身長180センチ、体重105キロの巨漢であったが、患者のことを振り返りながら涙で身体を震わせながらの証言となった。
翌昭和43年5月8日、この日は日本の公害の歴史において記念すべき日となった。園田厚生大臣は萩野の主張をそのまま受け入れ、厚生省見解が次のように発表された。
「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒により腎臓障害を生じ、次いで、骨軟化症を来たし、これに妊娠、授乳、内分泌の変調、老化および栄養としてのカルシウムなどの不足が原因となってイタイイタイ病という疾患を形成したものである。慢性中毒の原因物質として、患者発症地を汚染しているカドミウムについては、神通川上流の三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所の事業活動に伴って排出されたもの以外にはみあたらない」このように厚生省は、イタイイタイ病を三井金属神岡鉱業所のカドミウム汚染が原因と正式に認めたのである。さらに厚生省の見解が裁判で争われた場合には、受けて立つとの見解も公表された。
イタイイタイ病は日本で初めての公害病の認定となった。萩野が患者の発生地域と神岡鉱業所の位置などを総合的にとらえ、鉱毒説を唱えてから11年目のことである。
患者たちは涙を流しながらこの園田厚生大臣の正式見解を迎え入れた。日本における初めての公害病の認定となったことには大きな意味があった。それは大衆を犠牲にして産業を育成させようとする戦後政治の脱却を意味していた。貧しい国民を犠牲にして産業を優先させるという、それまでの政治が大きく変わった記念すべき日であった。
この厚生省の結論は、萩野昇の血みどろの戦いがあったからである。萩野の学説は何度となく著名な学者から非難されたが、しかし萩野昇の学説が正しかったのである。
このイタイイタイ病の研究は世界的評価を受けた。アメリカでは「ペイン・ディジーズ」と英語でよばれていたが「イタイイタイ・ディジーズ」に、ドイツでは「ベェーベェー・クランクハイト」とドイツ語でよばれていたが「イタイイタイ・クランクハイト」というように萩野の名付けた病名が国際的病名となった。そしてWHO(世界保健機構)などの国際機関や国際学会でもカドミウムをイタイイタイ病の原因であると公式に結論づけた。萩野昇は日本医師会最高優功賞、厚生大臣感謝状、朝日賞(社会奉仕賞)などを次々に受けることになった。
初の公害裁判へ
厚生省はイタイイタイ病の原因を神岡鉱業所が排出した公害と認定した。そしてイタイイタイ病は裁判所に場所を変え争われることになった。第一次裁判は患者と犠牲者の遺族23人が三井金属鉱業を相手に総額6200万円の損害請求額を求めて争われた。イタイイタイ病を追求する20人の弁護士が全国から集まり患者支援に立ち上がった。弁護士たちは貧しい患者から弁護料をとらず、すべて無償の手弁当で集まった。
弁護士は無報酬であったが、裁判には多額の費用が必要だった。裁判には訴訟請求額に応じて数十万円の印紙代がかかった。そのため全国の弁護士に支援を求め、全国300人の弁護士から300万円のカンパが集まった。また婦中町議会は「イタイイタイ病訴訟支援」を決議し、全員一致で町費から100万円の援助金を寄付することになった。また周辺の町からも援助金が集まった。県内世論はこの裁判を支援したが、富山県はイタイイタイ病は鉱害ではないとして動こうとしなかった。それどころか、市町村が一方的に裁判を応援するのは地方自治法違反であるとコメントを出した。
この富山県のコメントに対し婦中町は、イタイイタイ病の医療費は町で負担している。もし原告が負ければ婦中町には膨大な被害を受けることになる。イタイイタイ病は個人の問題ではなく町全体の問題であり、もし県が市町村を非難するならば、特定企業を応援する富山県こそ地方自治法違反であると反論した。そして婦中町の議員全員がマイクロバスに乗り富山県の市町村をまわり、富山県内35の市町村のうち32の市町村から支援を得た。
天下の三井財閥を相手にした裁判である。住民たちには絶対に負けられない裁判との悲壮感があった。生命をかけた闘い、どうしても勝たなければならない裁判であった。あとにひくことはできない、「負けたら切腹もの」と住民たちは覚悟を決めていた。
国も住民のために立ち上がった。原告に代わり訴訟費用の一部を国が負担したのだった。国のこの訴訟救済は原告が勝訴することを確信してのことであった。このイタイイタイ病裁判は大きな意味があった。ひとつは日本最大のマンモス裁判であること、相手が日本有数の企業で、全国初の公害裁判であること、そしてこの裁判は人間の尊厳をかけた闘いといえた。
いっぽう、神岡鉱業所のある神岡町はこのままでは神岡鉱山はつぶれるかもしれないとあわてていた。町の税収入の7割を占める神岡鉱山がつぶれれば、それこそ死活問題だった。神岡町の町長は「神岡鉱山を守る会」を結成して抵抗しようとした。しかし町長のかけ声に神岡町民は協力しなかった。人命がかかったこの裁判に町民の怒りのほうが強かった。神岡町の町民たちは、一歩間違えば自分たちが犠牲者になっていたこと、さらに神岡鉱業所の横暴な態度を見て協力しなかった。町民たちはイタイイタイ病の原告や弁護士が鉱山を調べに神岡町へやってくるたびに、温かく迎え入れ、道案内や宿泊の手配などを手伝った。
厚生省がイタイイタイ病を神岡鉱業所の廃水による公害と認定したのに、なぜ裁判で争わなくてはいけないのか。それは被告側が長期裁判に持ち込み原告側の疲労と諦めを期待していたためだった。しかし裁判の過程で興味ある多くの証言が飛び出した。
吉岡金市博士は次のような証言を行った。イタイイタイ病発生地区の杉の木を切って年輪を調べると、大正末期から昭和18年頃まで年輪の幅が非常に狭くなっていて、ほとんど成長していない。それ以降は徐々に成長して昭和20年以降は回復している。この杉の生長が止まった時期は神岡鉱山がさかんにカドミウムを流していた時期と一致すること、さらにイタイイタイ病が発生していない他の地区の杉の年輪はそのような変化は見られないと証言した。
また神岡鉱山で働いていた老人は次のような証言をした。神岡鉱業所は人体に影響を及ぼすほど大量のカドミウムを流したことはないと主張しているが、亜鉛は潜水艦の蓄電池に使うため、太平洋戦争中は増産に次ぐ増産だった。そのため鉱滓(亜鉛抽出後のかす)は貯まるいっぽうで、捨て場がないため川に流していた、という証言である。このことはすなわちカドミウムを川に流していたことを意味していた。
昭和46年6月30日、富山地方裁判所の周囲には全国各地の公害被害地から駆けつけた住民代表や支援団体が集まり、新聞記者などの報道陣も集まり、歴史的瞬間を待っていた。テレビ中継用のカメラが並び、空には何台ものヘリが旋回していた。そして10時8分、富山地方裁判所三階の窓から「勝利」のたれ幕が下がった。
富山地方裁判所の岡村利男裁判長は「イタイイタイ病の原因は神岡鉱業所が排出したカドミウムであり、被告はすみやかに6億7600万円の賠償金を原告へ支払え」との判決を下した。裁判は住民側の全面勝訴となった。場外にいた500人を超す支援者たちはこの全面勝利に「バンザイ」を繰り返した。
イタイイタイ病の原因がカドミウムであることは厚生省の公的見解で明らかだった。しかし神岡鉱業所は「カドミウムがイタイイタイ病を引き起こす科学的根拠が不明であり、もしカドミウムがイタイイタイ病の原因だとしても、神岡鉱業所がどれだけ関与していたのかが不明である」と主張して裁判は争われていた。
神岡鉱業所は判決を不服として控訴したが、昭和47年の名古屋高裁金沢支部での裁判でも敗訴し、上告を断念して裁判は住民側の全面勝利が決定した。企業側は「廃液の放出行為と被害発生との間の因果関係を明確にさせよ」と主張したが、この企業の論理は通用しなかった。裁判所は「他にカドミウムなどの重金属類を排出したものを見出せない以上、神岡鉱業所から排出したカドミウムが発病原因の主体とするほかない」として住民の全面勝訴とした。裁判所は厳密な科学的証明は必要ないと判断したのである。第1次から第7次までのイタイイタイ病訴訟の原告者数は 515人であった。三井金属は総額14億円を支払い和解することになった。
イタイイタイ病被害者と支援者200人はバスに分乗して三井金属鉱業本社に直接交渉に向かった。そして三井金属鉱業と11時間の交渉を行い、次の3つの誓約書に署名させた。
1、イタイイタイ病の原因が神岡鉱山からのカドミウムであることを認め、今後争わないこと。
2、イタイイタイ病発生地の過去将来の農業被害を補償し、土壌汚染復元費を全額負担すること。
3、今後公害を発生させないことを確約し、被害者、被害者が指定する専門家の立ち入り調査に応じ、要求される公害関係の資料を提供し、これらに必要な費用はすべて負担すること。このように住民が勝ち取った誓約書は画期的なものであった。
イタイイタイ病裁判は日本の多くの公害訴訟の中で住民勝利を導いた最初の裁判であった。その意味では公害訴訟の1ページを飾る判決であった。このイタイイタイ病裁判の勝訴は患者だけでなく、日本全体への影響が大きかった。
その当時は、敗戦から立ち上がった高度成長の時代であった。そして工業化のひずみとして公害が問題になっていた。熊本県の水俣病、四日市市の喘息などによって、経済の牽引となった工業が環境を破壊し住民に害を及ぼすという公害が注目されていた。イタイイタイ病も公害病のひとつで、その因果関係を最も早く認めた裁判であった。この裁判の住民勝利によって、企業の論理は通用しなくなり、政府も「企業優先から環境優先」の政策に転換せざるをえなくなった。企業や行政の権威主義は住民の良識という立場から加害者企業、無作為行政と見られるようになり、企業倫理や行政のあり方が大きく変わることになった。
大正時代からイタイイタイ病の患者がいたとされているが、その総数は明らかではない。「富山の奇病、業病」とされ、カドミウムが原因と分かるまで、家族は患者を家の奥に隠していたからである。その中で、萩野が診察した患者は358人で、そのうちの128人が死亡していた。患者のほとんどが女性で全死亡者は200人以上とされている。昭和42年以降にイタイイタイ病と認定された患者は185人で、イタイイタイ病を引き起こす可能性のある要観察患者は334人であった。
イタイイタイ病と認定されるためには、カドミウムの暴露歴があること、症状が成年期以降に発現していること、尿細管障害があること、骨粗鬆症を伴う骨軟化症が認められること。この四条件が必要であった。イタイイタイ病の患者数は数千人と見られていたが、症状がリウマチや他の老人性疾患と似ており、その特定は難しかった。公害健康被害者補償法の規定で富山県が認定した患者は178人であった。
カドミウムは人体への被害だけではなく、神通川を農業用水とする稲作にも大きな被害を与えていた。長期間にわたってカドミウム汚染米を食べた者がイタイイタイ病になったのだから、汚染された農地を放置したままではイタイイタイ病の根本的な解決にはならない。そのため三井金属鉱業の負担でカドミウム汚染土壌の除去が進められた。
神岡鉱山は奈良時代から鉱山として知られており、明治7年に明治政府から三井組に経営が譲渡されが、当時はカドミウムの名前も毒性も知られていなかった。また神岡鉱山の亜鉛生産は国家の戦時体制により増産が続いた。亜鉛の鉱石にはカドミウムが含まれ、重量比では亜鉛の20%がカドミウムであった。亜鉛のあるところには必ずカドミウムが存在していた。
亜鉛の大量生産が開始された大正時代から、カドミウムが神通川流域に大量に集積していたと考えられた。神岡鉱山は亜鉛鉱を1日4700トンを採掘し、神岡町は人口二万七千人を数え、にぎわいを見せていた。神岡鉱業所の従業員は4500人で、国内最大級の鉱山として知られていた。政府は神岡鉱山を存続させるため資金を出した。神岡鉱山は患者住民団体との和解を進め企業として存続できた。しかし時代の流れは皮肉なものである。鉱脈がしだいに枯渇し神岡町の人口は半減し、作業員は50人足らずとなった。そして平成13年6月29日に亜鉛・鉛鉱石の採掘を中止し、その長い歴史を閉じたのである。
信念に生きた人々
平成2年6月26日、萩野昇博士は胆嚢癌にともなう敗血症のため富山市民病院でこの世を去った。74歳であった、イタイイタイ病の研究と治療に半生を捧げた「田舎の開業医」の反骨人生が安らかに終わったのである。萩野昇は亡くなったが、彼の努力により婦中町住民に笑顔がもどり、神通川は「毒の通る川」から再び「神の通る川」となった。
もし萩野昇という医師が婦中町にいなかったら、もし研究を途中で諦めていたら、イタイイタイ病は解明されず、奇病、業病と忌み嫌われたまま犠牲者を増やし続けたであろう。この萩野昇の生涯はイタイイタイ病を発見し、その原因を突き止めた医師の記録と言えるが、むしろそれよりも患者のために自分を犠牲にして、白眼視の逆境の中で研究を進め、患者のために真実を明らかにした勇気ある医師の記録と呼ぶのがふさわしい。地元の人たちは、萩野昇のことを今でも富山のシュヴァイツァーと尊敬している。
萩野昇の学説を最後まで支えた農学博士、吉岡金市は平成2年11月死去。イタイイタイ病の原因を突き止めた岡山大名誉教授、小林純博士は平成13年7月2日、虚血性心疾患により死去、91歳であった。
医師である萩野昇博士、農学者である吉岡金市博士、科学者である小林純博士、彼らは学問の分野は違っていたが、イタイイタイ病という悲惨な病気の解明につくし、周囲の白眼視に耐えながら原因を突き止めた。彼らの人生は医師として、学者として尊敬するに余りある半生であった。患者を助けたいという真摯な態度、真実の追究という学問的姿勢、正しいことを正しいと主張する勇気、これらを決して忘れてはいけない。このことを彼らは教えてくれた。
兒嶋俊郎さんを偲ぶ
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(兒嶋俊郎報告)
「自衛隊は戦後何をやって来たのか‐核・化学・生物‐」というタイトルをつけました。問題意識はこの通りです。
テーマを3つ設けました。
1つは、旧陸軍と戦後自衛隊の人的つながり。2番目は、米軍の下での再軍備と、その過程における核戦争体制への自衛隊の編入。3番目は、核戦争体制下における化学部隊・衛生部隊の役割で、これらを少し見ておきたい。
いずれも体系的に論じるほどのほどの状況ではありませんが、いくつかの資料とか回想によって、事実の確認をしておきたいということです。そこでまず、資料の1をご覧ください。これは以前、私の大学の紀要に資料紹介として載せたのですが、『調査学校史』をいうのを、小平の調査学校が出しているのですね。調査学校というのは、情報関係要員を育成する学校です。53ページの真ん中にアンダーラインを引いていますが、これは自衛隊のホームページに書いてあることで、「陸上自衛隊唯一の教育機関であり、海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」」と言うんですが、要はスパイの育成学校です。これは内容的には、かつて情報関係の業務を行った自衛隊員が、ここ十数年どういうわけか回想録を出版したり、黒井文太郎さんという軍事誌編集者のインタビュ‐に応じられたりしているんですね。そういう回想を見ると、どういう風に、情報機関が戦後成り立ってきたのか、というあたりが見えてくるんですね。
資料1の54ページ、設立時の状況のところで、陸上自衛隊調査隊や調査学校の設立に関わった松本重夫の話をしています。彼は、陸士から陸大を出たエリートなわけですが、1946年の敗戦直後、彼は産経新聞の政治部の記者をやっていたんですが、その産経の中にいた人間を通じて、米軍の情報部にリクルートされるんですね。その下請けをやるようになったわけですね。エージェントになったわけです。つい数年前まで、鬼畜米英と言っていたわけですが、彼は国会内の左翼勢力の調査を行うのです。彼は、警察予備隊に入って、その後、「陸軍中野学校出身者を調査隊に多く入れました。」という風に語っているわけです。
次に調査学校長を務めた清水潤(ひろし)の場合です。東部方面総監部第2部、2の数字がついていると大体情報関係なんですが、そこに居たときに、F機関のトップだった藤原岩市に情報の基礎を叩き込まれたんですね。清水は、藤原の部下だったんですね。という風になっております。その後にも、いくつか書いてありますので、見て頂ければと思います。
次に、「調査学校の教育と情報活動の一端」というところで、いろいろと人物を挙げておきました。
例えば、佐藤守男という人は、1956年1月、調査学校に「幹部露華鮮語課程(1年間)」が開設された際入校し、ソ連情報勤務を予定してロシア語課程の一期生に選抜されている・・・その後、極東方面の局地ラジオ放送の受信、翻訳業務に従事する。
中には、いろいろとユニークな人がいまして、阿尾博政は『自衛隊日罪諜報機関』という本を出したり、山本舜勝(きよかつ)という人は『自衛隊「影の部隊」』という本を出しています。ちなみに山本喜舜勝は、陸軍中野学校の出身で、中野学校関係者は、分厚い『陸軍中野学校史』というのを出しているんですね。これは専修大学に1冊だけあります。これは行って見ることは出来るし、コピーも取れます。それを出すときに、旧中野学校関係者がグループを作るわけですが、「これを作りましょう。」という言い出しっぺ、企画メンバーの1人が山本舜勝です。
阿尾は、戦後、自衛隊幹部候補生学校に入る。そして彼は調査学校に入るわけですが、その時の校長が藤原だったのです。専属教官は、陸軍中野学校出身の諜報専門の教官が3名・・・こういう風になるわけですね。
それから山本舜勝、彼は、陸軍中野学校で教官だった人物で、それから戦後米軍で情報活動の教育を受けた後、調査学校教官になる。彼は、三島由紀夫の盾の会との密接な関係が問題にされました。三島が軍事訓練みたいなことをやるわけですが、この山本がアレンジをしてやるわけですね。私が紹介した『調査学校史第13巻』(昭和43年度)の年は、山本が研究長をやっている、まさにその時の『調査学校史』なんですね。ですからその『調査学校史』などの内容を見ても、日本国内で学生運動や公害反対運動が活発な時期だったので、そういうことをきっかけに内乱が起きるということを想定して活動をやっている。「学生たちが混乱しているところに、病人を送り込んで教育をやった」という風に彼は書いています。
60年安保を想定した対応という事で、山梨県全域が敵に占領されたと想定し、調査学校に入校した自衛隊青年将校たちを、身分を偽って県内各地に潜入させる、こんなことをやっていたわけですね。
それから寄村武敏も陸軍中野学校出身者です。
このように、戦前の旧陸軍の情報機関の幹部たち、あるいは陸軍中野学校の人間関係が、戦後の陸上自衛隊の情報組織の基礎を作っていった大きな流れだったことが確認できるだろうと思います。と同時に、松本重夫に見られるように、米軍がそこに深く関わっただろうという風に思われるわけです。
次に「核戦争体制下の陸上自衛隊」のやや大仰なタイトルのところをご覧ください。
これは、ある方が残された資料の資料整理を何人かでやっておりまして、そこを代表するような形で私と松村先生の2人で、『戦争責任研究』に資料紹介を載せております。1回目の解説部分を皆さんに配っています。それから資料の3というのが、第2回に載せる資料という事になります。両方を使ってお話をしたいと思います。
新妻に関しましては、先ほど、松村先生のお話に合った通り、陸軍の中で電波関係の専門家で、チチハルあたりに行って電離層の研究をやったり、いろんなことをやっていたわけなんですが、彼に関わる資料を紹介します。資料2の86ページです。
1955年に陸上自衛隊幹部学校で新妻が講義をした時の資料だと思われるのですが、『部外秘 原子兵器の効力』、58年に『誘導弾と核兵器』これは中外出版から出版された一般の本なんですが、2月に出版されて、3月に国会で辻正信が、これを取り上げて、「ミサイル防衛をちゃんとやらなくてはならないのではないか?」という問題提起をしたわけです。それに対して、防衛庁長官の津島壽一(この人は元大蔵官僚で、戦争中いろいろやって、公職追放になって、それが吉田内閣で復帰して、フィリピンとの交渉にあたったりして、その後、防衛庁長官になる)は、「誠にもっともな意見である。是非参考にしたい。」というやり取りが交わされました。それに使われた本です。
以下は、新妻の名前が直接出て来ないものになりますが、1950年代にどういう資料が出ていたかという事ですね。
『CBR戦の参考』、『原子兵器の効果について予習資料』。
『参考資料プリントA 米軍戦術原子戦に関する原則 抜粋』これは米軍の教範を翻訳して利用したものですね。先ほど奈須さんのお話で衛生学校も教育資料として米軍の教範がたくさん使われたというお話がありましたけれども、こちらの方も、それが非常に幅広く自衛隊の中にあったという事を示していると思われます。
資料7『原子砲兵の運用について』これは、当時、戦術核弾頭を撃つアトミックキャノン(原子砲)という280㎜の長距離砲が開発されて、米軍はそれを使って本当にバンバン撃って戦争をやることを想定してたんですね。その為に日本の自衛官をアメリカに呼んで、そういう原子砲弾を撃つ教育をやってたんですね。それに関連した資料という事になります。
資料8『原子兵器の歩兵に及ぼす影響』、資料9『誘導弾』自衛隊幹部学校、資料10,11は『火(射)・・・誘導弾』これはミサイル関係の資料ですね。
資料12 新妻清一 これは彼がまとめたもので原爆攻撃を受けた場合にどう対処するかという話ですね。
資料13、14では、当時、自衛隊内部で核兵器についてどういう議論が交わされていたかを示す資料です。
こういうものが、50年代の半ばから後半にかけて、出ているという事になります。こういった資料をまとめる上で、新妻をはじめとする、旧軍の技術将校たちが大きな惑割を果たしたことは明かなんですね。
新妻清一の経歴というのは、資料をお読みください。
次に、「3、広島原爆調査への参加」をご覧ください。
当時、新妻は、陸軍省の軍務課で、陸軍が行っている様々な研究開発に目を通して、判子を押す係をしていました。したがって、核とかレーダーとか、そういうことについても彼は通暁していたわけです。それで、軍務課長という立場もあったかと思いますが、有末精三、当時参謀本部第2部長(諜報担当)を団長とする広島原爆調査に参加したわけです。米軍機が接近してくるという話があったので、仁科は科学面の責任者だったと思いますが。1日延期します。しかしながら、有末は大丈夫だと判断して、自分の部下(山田副官)と一緒に2人だけ予定通り2時過ぎに離陸して広島に向かった。広島で関係者に会って、作業を進めるわけです。翌日に仁科が来るんですが、仁科は7日にトルーマン声明を知って、これは20ktの核爆弾が落ちたという事は、はっきりして、非常なダメージを受けるわけです。ただ、ダメージというのは、彼は旧陸軍における原爆開発、2号研究の責任者だったわけです。結局失敗します。陸軍は仁科に依頼し、海軍は京大の荒勝研究室に依頼し、いずれも失敗するわけですね。原石のウランをどう確保するかという問題もありますが、私が、いくつかの本を本で確認した所では、そもそもきちんとした原爆の概念に、仁科の研究はどうも到達していなかったという可能性があります。それから京大の研究も、実際の原爆の設計とか、工学的に実現する手立てというのは全く立っていない状況だったように思われます。何よりもウラン濃縮が、全く展望がありませんでした。あきらめます。それで放棄するんですね。これは無理だろう。アメリカでも無理だと思っていたら、アメリカでは作ちゃったということで、そういう事で彼は打撃を受けていたという事です。「日本の科学者がアメリカの科学者に敗れた悔しさ」という風に、これは新妻清一を取材した保坂正康さんの文に出てきます。
次に、4大本営調査団・陸海軍合同研究会議のところです。仁科は、1日遅れで広島に行く。8月9日午前11時02分に長崎で原爆が炸裂。10日合同の会議が開かれることになります。この時には京都帝大の荒勝文策等も加わることになります。有末は、この時ソビエトが、宣戦布告したという事で、東京へ急遽取って返すことになります。新妻はこの会議の司会をするんですね。非常に重要な役回りです。そして最終的に「特殊爆弾広島爆撃調査報告」というのがまとめられていく事になるわけです。
その中で、新妻の手書きの原稿には、「人間ニ対スル損害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト。コレニ関連スル発表モ発表モ避ケルコト 中央ヨリ調査隊ヲ派遣ノコト」という風に隠蔽を図ったという証拠があるわけですね。
同時に新妻は、被害状況について、「新妻メモー損傷状況昭和20・8」というのを残していまして、そこに書かれている通りですが、非常に凄惨な実態を彼は目の当たりにしたわけですが、しかしそれを一切知らせるなという姿勢ですね。そして東京に戻って、「特殊研究処理要領」というのを発表します。
次に5、のところを見て頂きたいのですが、新妻は敗戦後、米軍の監視対象者になります。その関係の資料は、防衛省の図書館にありまして、これは見ることができます。それを見ると、サンダースから彼は尋問を受けているのですね。731についても聞かれているんですね。ウランの保有量についてもいろいろ聞かれているんですが、その間の45年11月10日に八木秀次から手紙を受け取っているんですね。八木秀次というのは戦争中に、軍と研究者と官のトライアングルを作る上で大きな役割を果たした大立者なんですね。よく知られているところでは、八木アンテナ、あれを開発した人ですね。この八木が『科学知識』という雑誌に、原子力の特集号を出すから、新妻さんに原稿を依頼したんですね。その内容を引用しています。
「寄稿を願うべき方として仁科博士に9月初め頃お願いいたしたることあり、総合的に原子爆弾については貴官が中心となり居られることを承知いたします。」とこういう風に書いていまして、新妻というのが戦争中の日本の核開発の中心にいた、また広島の原爆調査で仁科に同行している、そういう重要人物であるという事の1つの傍証になると思います。
しかしながら、彼は戦犯に問われることもなく、戦後、旧軍関係の業務の整理にあたった後、48年に復員局を依願退職して、54年には防衛技術研究所に入所し、55年には防衛研修所教官兼務となる。そしてミサイル、レーダー関連の専門家として活躍することになっていくわけです。
先ほど、紹介したような『誘導弾と核兵器』という本を書いて、その本が辻正信によって国会で取り上げられて、津島防衛庁長官がその通りだという答弁をして、ミサイル研究をしなければいけませんねという国家的な合意を後ろから下支えする資料提供の役割を果たしていたという事になるわけですね。
さらに50年代とはどういう時期だったかという事ですが、杉田弘毅さんが書かれた『非核の選択』という本があるのですが、それによるとこの時期、米軍が核戦争を想定して日本の自衛官を呼んで、戦術核を使用して戦争をすることを本気で考えていました。この時期には米軍で戦術核使用を想定した訓練を受けた三岡健次郎らの留学がきっかけとなって、「ソ連に自衛隊が核兵器で攻撃する研究が・・・・模索された」というわけですね。
その結果、自衛隊関係者や政治家に核容認発言が、頻発することになっていきます。
50年代にこのような議論が戦わされていた、まさにその時代に先ほど紹介した資料が出るわけですが、その一部を紹介したいと思います。資料3をご覧ください。
その中に、『米軍戦術原子戦に関する原則 抜粋』というのがありま。これは、「戦術原子兵器の事項を抜粋」という書き込みがあり、米軍の教範の翻訳なわけです。
一部の紹介だけなんですが、「2 陸軍の職種の特性」の中に「(4)化学部 戦闘行動支援における化学部の主任務は、CBR(化学、細菌、放射能)兵器の使用及防御の為の手段及技術的指導の実施である。」という風に、明確に規定されています。
つまり、化学部というのは、実は衛生関係も関連するわけですが、核戦争を遂行していく重要な要因の一部と認識されていたという事なんですね。
続いて大量破壊兵器とは何かという定義があります。
「大量破壊兵器とは原子的化学的生物学的放射能的(CBR)兵器あるいは広大な規模の荒廃もしくは無効化を遂行する為人員資材の集中に対して使用されるその他の兵器をいう。指揮官は大量破壊兵器の使用に関し自軍及び敵軍の能力を考慮しなければならない。」
このように大量破壊兵器の中に、核兵器、生物兵器、化学兵器などの利用を考えているわけですね。
また、「CBR行為に使用される兵器は攻撃的と防御的の両方に使用される。CBR行為は妨害計画、阻止作戦、及び原子兵器の戦略的使用法とともに使用する為これらの作戦に適応すべきである。これは汚染、敵機動の局限、敵軍の殲滅もしくは無力化及敵の保持できないように野戦築城を汚染すること等により地域の拒止及制限を容易にするための諸手段を指揮官に提出する」
大変にわかりにくい日本語ですが、CBRを積極的に利用して、攻撃にも使う、あるいは不利になった場合や撤退する場合にも敵の行動を遅らせるためにも使うという事を言っているわけです。
さらに、6、攻撃の(7)火力支援調整の(b)原子兵器の使用には
「ア 原子兵器は非常に強力な火力支援の1つである。原子兵器の戦術活動への統合はこれまでに述べられた火力運用についての戦術的法則を変更しない。」となってまして、今までの火力の運用についての原則の上に使われるわけです。
そして、「決定的戦果は機動部隊が原子兵器の破壊と心理的効果とを迅速に利用した場合に得られる。」
実際に、この資料や他の資料を見て行きますと、例えば戦術核で敵を殲滅したら、機動部隊を突入させて、広範な地域をいかに早く制圧するか、そうやって戦果を拡大していく事が重要だという事なんですね。
実は第1回で報告した資料の中では、核に汚染された地域が、どの位で、放射線が弱まるか、何分でこのぐらい弱まる、何時間たてば入れるとか、戦車で入った場合の被曝量は、トラックで入った場合の被曝量は、そういうのを細かく検証している資料が、1回目で紹介した資料なんです。それなどは、戦術核を打ち込んだところに、地上部隊を突入させるわけですから、当然被曝するわけですね。被曝を抑えるために、どうするかという事を、検討していることになります。
さらに、除染するための具体的な方法をいろいろ紹介している資料もあるんですね。したがって、放射線地を確認し、除染しながら、制圧していく事を、かなり本気で考えているという事なんです。
それから、資料7『原子砲兵の運用について』これは、陸上自衛隊幹部学校の資料で、幹部教育という事になるわけですが、これを見ていくと、「1、指揮責任及指揮関係」というところで、砲兵指揮官というのは、自分たちの上級指揮官に、幕僚として助言しなければいけないと言っているわけですが、驚くことは、「6目標分析」です。
「b 原子火力は巨大な威力を持っているので、これを作戦に投入する事は非常に重要である。故に原子火力の使用によって得られる戦術的利益は機動により迅速且十分に開拓されねばならぬ。これがため原子兵器の使用に関する最終的決定は部隊指揮官が行う。」
部隊指揮官が、最終的決定をやるんですね。
「この原子兵器の使用の決定は砲兵部隊指揮官が被支援部隊の一般幕僚と協議して行うところの目標分析に基礎をおく。」
いずれにせよ、大統領から一応戦術核を使ってもよいというような了解が出た上での話だと思いますが、それにしても、それが出ていれば、現場の指揮官の判断で撃てるという事だったわけですね。それをいったん撃ったら、機動部隊が展開し、CBRの要員が随伴するということになっていたわけです。
そこで、CBRという事で、化学部隊という事になるわけですが、(3)の化学学校というところで、これは『化学学校のあゆみ』というものが出ていて、そこから紹介しています。
化学学校の歴史的な経緯という事なんですが、1953年6月29日に保安隊関西補給廠長監督下の臨時化学教育隊が出発点ですが、それ以前に保安隊内部に第750化学業務隊が存在していたことがわかります。ただしその詳細は不明です。いずれにせよ保安隊時代から化学部隊の原型があったということは確実です。
この部隊は53年8月3日に第1回のCBR教育を実施しています。それに先立って、教官教育が行われているんですが、この『化学学校のあゆみ』の11ぺージには、教育の詳しい内容は出ていないのですが、教官研修の写真が載っているんですね。それには米軍の教官が多数写っておりまして、明らかに米軍の指導下で行われた事がわかります。
翌54年7月20日、陸上自衛隊発足に伴い、陸上自衛隊化学教育隊として部隊が成立、組織としては、総務科、教育科、研究科からなり、その後も部隊の編成が続くわけです。
56年には1月25日には、第301化学発煙中隊の新設が行われます。この発煙中隊の任務の中に、「原子兵器の熱戦効果を減殺する」というのが挙げられています。
まさに50年代の半ばに、戦術核を使った戦争があるという想定で、教育訓練が幹部学校で行われている時に、それに対応した部隊編成、恐らく教育訓練が行われていたという事になると思います。
1957年10月9日、化学教育隊は大宮駐屯地に移って、10月15日に化学学校に改編される。初代校長は外山秀雄という事になります。
ごく簡単に触れてきましたが、化学学校についてはこのようになります。
衛生学校の方は奈須さんが詳しく説明してくださったので、余り付け加えることは無いのですが、ただ後ろに『ふかみどり』17巻4号に載っていた衛生学校の年表を4ページにわたって入れておきました。
これに基づいて、経緯を改めて確認しておきたいと思います。
1951年5月14日に、警察予備隊の中に、総隊学校というのが作られます。ここの第4部が後の衛生学校になります。5月14日から設立準備を開始するわけですね。
その時の状況は、レジメの1ページの下の方に書いてあります。
何人かの方の回想が載っておりまして、渡辺文雄という初代総務部長をやった人が次のように書いています。
発足時は幹部3名、士補4名でスタートし、まず豊川部隊のスタッフォードスクール(詳細不明)でアメリカ式訓練を4週間受けた。7月2日からは米陸軍病院(当時聖路加病院が接収されて、アメリカの陸軍病院になっていた)で、衛生科員として約3か月研修を受けた。したがって、完全に米軍式の教育を受けたわけですね。そして、第4部のスタート10日前に米軍顧問から英文をコピーを渡され、連日徹夜して、翻訳して教育に当たったと言っています。51年7月9日から、保安隊衛生学校となる。52年10月15日までに幹部282名、士補など845名、計1127名を教育したという風に語っています。
この後、先ほどの年表に戻って頂きたいのですが、7月9日、米陸軍病院での衛生教育を受けた直後か、あるいはその途中かもしれませんが、衛生教育がスタートする。10月には士補基本教育、11月には幹部基本教育、翌年2月に陸曹技術教育、こういうのが次々と始まり、そして第4部衛生教育担当が設置される。6月23日には、新任幹部特別教育が開始される。10月15日には保安隊発足と伴って、衛生学校となる。
この時の、初代校長が加納保安官補という人ですが、この人は総隊学校の校長を兼務していた人なんですね。総隊学校というのは、この衛生学校だけじゃなく、養護学校とか、先ほど紹介した調査学校のもととなる学校とか、そういうのがここから分岐していったわけで、それを全部見てた人ですね。この加納という人は、医者でもなければ、薬剤官でもなくて、そのことを国会で追及されたことがあると、回想でもちょっと触れてますが、代理校長だと友人に冷やかされたという事です。専門家では明らかになかったと思われます。
彼が初代で、2代目が松野、3代目は安西で、ここら辺は、保安隊時代で、警察関係から来ていた人物である可能性が高いと私も思います。
しかしながら、この段階まで基本的な教育教程というのが、急速に整理されてきているんですね。第3代までという事は、55年の7月まで安西の時代なんですが、安西の最後の7月に、三宿の現在衛生学校があるところに、移転しています。
それで、注目されることは、55年5月10日に、幹部CBR教育が始まっているんですね。
まさに、核戦争を想定していた時期に合わせて、衛生学校でCBR教育が始まるという風になっているわけです。
したがって、第3代までで、基本的な教育の体系というのは、ある程度形をとったのではないかなと、この年表からは読み取れます。
その後、金原の代になりまして、『衛生学校記事』が創刊されたり、財政上の理由で休刊されたり、第6代中黒の時に、それは復刊されたりするわけですね。
園口の回想で、中黒時代が基礎を確立したという風に言っております。中黒の時代には、学校長自らが、アメリカに行くようになっています。63年の7月に第17回国際軍事医薬委員会に出席したり、あるいは64年11月にアメリカ太平洋空軍医学会議に出席したりという風になっています。
その後、園口の時代、9代、10代となりまして、第11代の泉陸将の時に、新しい隊舎が落成します。それに伴って、8月頃から、教育管理、特に教育体系、教育基準及び評価体系等の見直しが開始される。その後、ずっと、全課程の教育科目の集中審議とがあって、内部組織、教育課程そういうものが全面的に見直されたという事がありそうです。
奈須さんのお話の中に、泉の時に、「核兵器による大量傷者処理」のお話がありましたが、確かに泉の時に、中身はわからないのですが、相当本気で教育課程の見直しをやったことは事実のように思われます。
それから、初期の第1期の『衛生学校記事』の内容を見ると。泉が原爆関係の記事をたくさん書いているのを考えると、そこら辺は整合性があるのではないかという気がします。
次に、いくつか配った資料を紹介します。
お配りした資料「自衛隊は戦後何をやってきたのか―核・化学・生物」の3ページをご覧ください。
(4)「衛生学校記事」にうかがえるCBR活動教育という事ですが、
中村治が書いた「特殊武器戦とその影響」とか(資料3)、木村博夫「生物剤はこのように防ぐ」ということで、生物兵器関係の資料が載ったりしています(資料4)。
資料5は、これは近藤正文(衛生学校教育部第2科長 2佐)が、178ページに以下のように書いています。「昭和20年2月下旬と記憶しているが石井中将から直接電話で天皇陛下の不時の恐懼事態の際に乾燥血漿の製造を命ぜられた。早速準備して製造にとりかかった。製造は順調に行われ最後の仕上げである真空ポンプから焼き切り封入する日に(3月10日)あの第1回の大空襲(浅草地方)があった。幸い被害を被らなかったので予定通り完成し献上の手続きをした。次にこの献上に際しての御説明書を付け加えて思い出話をおわる。」という事で、説明書というのが右側にあります。拡大鏡で見て頂ければ、わかると思いますが、これは本当に説明になっているんですね。下に関係者の名前の一覧が載っています。
このように、先ほど新妻清一が、旧陸軍で電波関係をスタートにし、さらには核にも関わるようにようになり、それが戦後の自衛隊の技術面での中心人物の1人になったという話をしたわけですけれども、衛生学校の関係者も全く同じですね。近藤なども恐らくそうでしょう。彼らの頭の中が、こういう思い出話を書くことに見られるように、大日本帝国陸軍の軍医だった時と、全く変わっていないという事ですね。天皇陛下の為にこれを献上しましたと、3月10日の大空襲で何万人も焼け死んでいるんですよ。この人は、元は医者のはずです。しかしながら、天皇陛下に無事届けられたことがとても良かったという回想録なんですね。こういう人が、やっぱし衛生学校の幹部になって、教育をやってたというわけですね。衛生学校でも、調査学校でも、教育方針とか、学校長の訓示なんかを見ると、人間教育が大事だと繰り返し出てくるところがあるんですが、どういう人間教育を考えていたんだろうかという風に思わざる得ないものがあります。
最後に、『衛生学校史』という資料があるんですが、外見だけ、どんなものであるのか見てください。こういった資料です。これは昭和47年の『衛生学校史』です。陸上自衛隊衛生学校です。これは政策研究大学院大学の開架書庫に3年分(45、46、47)ありますから、誰でも行って、コピーできます。
歴史の史がついてますが、毎年の業務報告になっています。その業務報告の内容を見ていくと、いろいろと面白いことがありまして、それは今回丁寧に紹介できないのですが、改めてうちの大学の紀要に載せようと思っていますので、8月頃に原稿が出来て、ネットで検索がかかるようになるのは、多分10月か11月には検索でかかるようになると思いますので、そちらをご覧ください。
どういう資料かという事だけ、紹介したいと思います。
それから、『衛生学校記事』が衛生学校の中でどのように位置づけられていたかという事については、裁判に関わることですので、詳しくお話したいと思います。
そこで、最初のレジメの3ページのところをご覧ください。
(7)陸上自衛隊『衛生学校史』の1)『衛生学校史』昭和45年度 園口忠男が学校長の時です。ます、組織が出てくるんですね。2ページ目に組織編成が載ってまして、研究部の総括室に記事班というのがあって、その記事班が『衛生学校記事』の編集を担当しています。
それがわかるのが、資料6の「幹部配置状況」です。46年3月31日付けの資料ですが、この一番右の欄に、研究部長の下に、総括室というのがあります。そこに記事班長というのがあって、高橋清人になっています。これが『衛生学校記事』ですね。したがって『衛生学校記事』に関して、あれこれ防衛省が言い逃れをしていますが、衛生学校の正式の組織で、きちんと人員を配置して出していたことは、組織上明白なことになります。
ちなみに、この年にどういう教育をやっていたかという事を、資料7に付けておきました。「教育実施状況」というのがあります。
これを見て頂きますと、幹部教育の中に対化学衛生というのがあります。この時点で15期の教育ですね。人員は5名、期間は10週間、こういった教育が行われていたことがわかるという事になります。
それから、「他校等への教育支援状況」というのも出てまして、東京消防庁から受け入れて、救急救命措置の訓練をやっているのが圧倒的に多いのですが、それ以外に化学学校8時間、調査学校4時間という風に教育支援を行っています。
それから研究開発というところで、研究部の総括室に記事班があるわけですから、ここに明確に位置付けられていまして、資料8をご覧ください。
これは『衛生学校史』の55ページになるんですが、ここに「衛生学校記事に関する事項」というのがありまして、「第1 衛生学校記事については、会員の実務・訓練に真に役立つ内容の精選につとめ年4回発行した。」ということです。
また、衛生学校記事の発注部数、会員数及び編集内容については次の通りであるという事で、会員数は1800~1850、発注部数は1900~1930という事です。
したがって、業務報告にきちんと載る形で発行されていたという事になります。
ちなみに、研究部でどんな研究をやっていたかというと、「昭和45年度の研究課題担任表」というのがあるんですが、例えば上から2段目、実用試験「防護マスク」これは化学学校に協力、河合1佐というのは先ほど出てきた河合正計の事かもしれません。
それから、CBR防護(化学学校に協力)というのが出ています。
このように、化学学校とは非常に密接に連携を取りながら仕事をしていたことは、明らかだという風に思います。
次に、『衛生学校史』昭和46年度 門馬公道学校長の事ですが、この人は、面白くてつい書いてしまったのですが、着任時に、「衛生学校はなってない。」という演説をして、大改革をするんだとという事を言うんですが、そのせいか1年半ぐらいで替わるんです。
その下に、編成組織と幹部配置状況がありますが、資料9の左側の方に企画室が書かれています。そこに記事担当で高橋氏が記載されています。
資料10で、衛生学校記事が出ています。ここに、門馬が衛生学校記事の目的について述べた事が、書かれています。「第1線と直結する機関誌」とするというわけですね。10月における編集委員会から編集・発行委員長には副校長松尾将補を任命された。また、記事班は8月26日以降雑誌「防衛衛生」の編集・発行業務を兼ねて実施するよう命ぜられると共に、9月21日付をもって研究部から企画室に配置替えとなり、10月1日付をもって、総務部管理課から平井貞子事務官が補充され、云々となっています。12ページの右側の下のところに、衛生学校記事業務というのがわざわざ書いてありまして、高橋氏が記事担当で、その下に、編集・発行と、また『防衛衛生』の方も、高橋氏と平井氏が関わって発行していたというようなことがわかる資料になっています。
次に、『衛生学校史』昭和47年度 水上四郎学校長の時ですが、ここでも資料12の企画室のところで記事担当が高橋という風に名前が出ていて、位置づけが明確です。ちなみに右下に戦史室というのが設けられていて、これが『大東亜戦争陸軍衛生史』の編纂に関わっただろうと思われます。
教育訓練に関しては、衛生化学教室、化学については、各種化学物質の環境汚染について、更にRについては、医療用放射線の人体に及ぼす影響云々という風になっていますが、この様な化学、R、放射線、に関しての記述が見られます。
その下は教育課程の実施状況についての話です。
研究開発については、富士学校、化学学校と協力しながら進めていくが明らかです。
最後に、一番最初に松村先生が、大きな議論をする必要があると言われて、私も改めてその通りだなと思うのですが、4人で日本経済評論から『「満州国」における抵抗と弾圧』という本を出したんですが、そこで私も論文を書きまして、私は日本共産党満州地方事務局という日本共産党の公式の党史にも載っていない組織について書いたのです。
真面目に日本共産党満州事務局というのが、党中央に承認された公式の党組織として短期間ですけれども、大連を中心として活動するんですね。その記録を紹介したんですが、その中で、9月に満州事変があって、弾圧されて、10月に捕まって、救援活動をやる人もいるんだけれども、その救援活動も弾圧されて、日本共産党の組織的な活動というのは、中国東北、関東州から消えてしまうわけですね。その時、彼らが活動がうまくいかない大きな理由が、彼らは非常に優秀な人たちですね。旧制中学を4年ぐらいで終了して、大学に進学した人もいますしね、非常に優秀な人たちで、当時の情勢分析もしっかりしていたと思います。しかしながら、当面する課題をどうやって打開するかという展望はとうとう見つけることができなかったのですね。そして弾圧された。何故見付けられなかったかの大きな理由の1つが、植民地の支配者だっていう気分が、関東州とか大連にいる日本人に非常に根強くあったと思います。それが日本人と中国人の労働者の連帯という事を、共産党事務局、あるいは彼らは労働運動を組織しますからそちらの組織で訴えるですけど、届かないのですね。数十人規模に拡大するんですけれども、本格的にはならないのです。満州事変以降、反帝国主義の闘いを組織しようと働きかけても、あんな戦争はやらせておけばいいんだ、叩けばいいんだというような職場の反応で、却って我々の方がやられてしまうというような事で、日本人の中で圧倒的に孤立していったという風に思うんですね。
同じ時期に中国共産党もあそこで活動をやっている。その資料も別にありますので、その活動について、江田さんが以前に書かれた論文も参考にして、並行してみると、中国共産党も、日本共産党と同じ方向に向かって闘っているんですね。日本、中国、さらに言えば朝鮮の共産主義者はみんな目標は帝国主義打倒なんですね。帝国主義を倒して、苦しい状況にある人民の生活を建て直そうではないかという事では、基本的な理念、向かっている目標は同じだったんですね。しかし日本人の中では、それはただ単に弾圧だけではなくて、日本人自身の中に圧倒的に支持が広がらない。「植民地支配者である」そういう意識が非常にそこに足かせになっていると思うのですね。そのことが日本人のそういう活動を失敗に終わらせる。個別にはその後もいろんな動きが残ったわけですけれども、組織的な活動としては無くなっていく。それ以外にも自由主義者の活動、いろんな活動がどんどん無くなってしまって、当時の現状が抱えていた問題を直視して、それを変えなきゃいけないという問題提起を片っ端から日本の官憲が潰した結果、新しい時代を展開していくためのアイディアも人も自らの手で殺してしまったわけですね。残ったのは、際限なく軍事力と治安の力で目先の経済的利害だけを押し通すというそういう事に大日本帝国はなっていったという風に思うのです。そしてその大日本帝国を支えた人たちが、調査部門でも衛生部門でも恐らく化学部門でも、生き残って戦後を日本の自衛隊あるいはそれ以外の部分を支えて今日に至っている。そういう風な人たちが日本の国家権力の中枢にいるから、特定秘密保護法で、国民の目と耳を封じようと、共謀罪でああだ、こうだという奴らは、昔のように潰してしまえばいいと、こういう風な順番になってきているんだろうと思うのですね。まさに、そういう意味では、安倍政権の下で、大日本帝国時代の亡霊が具体的な形をとって立ち上がってきている状況になっているんじゃないかなという風に思いますし、それだけに、今回ここで進められている裁判というのは、非常に大きな意味があるし、他の様々な運動と手をつないで、進めていく必要があるんではないかと改めて思います。
どうも、以上です。ありがとうございました。
(兒嶋俊郎報告)
「自衛隊は戦後何をやって来たのか‐核・化学・生物‐」というタイトルをつけました。問題意識はこの通りです。
テーマを3つ設けました。
1つは、旧陸軍と戦後自衛隊の人的つながり。2番目は、米軍の下での再軍備と、その過程における核戦争体制への自衛隊の編入。3番目は、核戦争体制下における化学部隊・衛生部隊の役割で、これらを少し見ておきたい。
いずれも体系的に論じるほどのほどの状況ではありませんが、いくつかの資料とか回想によって、事実の確認をしておきたいということです。そこでまず、資料の1をご覧ください。これは以前、私の大学の紀要に資料紹介として載せたのですが、『調査学校史』をいうのを、小平の調査学校が出しているのですね。調査学校というのは、情報関係要員を育成する学校です。53ページの真ん中にアンダーラインを引いていますが、これは自衛隊のホームページに書いてあることで、「陸上自衛隊唯一の教育機関であり、海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」」と言うんですが、要はスパイの育成学校です。これは内容的には、かつて情報関係の業務を行った自衛隊員が、ここ十数年どういうわけか回想録を出版したり、黒井文太郎さんという軍事誌編集者のインタビュ‐に応じられたりしているんですね。そういう回想を見ると、どういう風に、情報機関が戦後成り立ってきたのか、というあたりが見えてくるんですね。
資料1の54ページ、設立時の状況のところで、陸上自衛隊調査隊や調査学校の設立に関わった松本重夫の話をしています。彼は、陸士から陸大を出たエリートなわけですが、1946年の敗戦直後、彼は産経新聞の政治部の記者をやっていたんですが、その産経の中にいた人間を通じて、米軍の情報部にリクルートされるんですね。その下請けをやるようになったわけですね。エージェントになったわけです。つい数年前まで、鬼畜米英と言っていたわけですが、彼は国会内の左翼勢力の調査を行うのです。彼は、警察予備隊に入って、その後、「陸軍中野学校出身者を調査隊に多く入れました。」という風に語っているわけです。
次に調査学校長を務めた清水潤(ひろし)の場合です。東部方面総監部第2部、2の数字がついていると大体情報関係なんですが、そこに居たときに、F機関のトップだった藤原岩市に情報の基礎を叩き込まれたんですね。清水は、藤原の部下だったんですね。という風になっております。その後にも、いくつか書いてありますので、見て頂ければと思います。
次に、「調査学校の教育と情報活動の一端」というところで、いろいろと人物を挙げておきました。
例えば、佐藤守男という人は、1956年1月、調査学校に「幹部露華鮮語課程(1年間)」が開設された際入校し、ソ連情報勤務を予定してロシア語課程の一期生に選抜されている・・・その後、極東方面の局地ラジオ放送の受信、翻訳業務に従事する。
中には、いろいろとユニークな人がいまして、阿尾博政は『自衛隊日罪諜報機関』という本を出したり、山本舜勝(きよかつ)という人は『自衛隊「影の部隊」』という本を出しています。ちなみに山本喜舜勝は、陸軍中野学校の出身で、中野学校関係者は、分厚い『陸軍中野学校史』というのを出しているんですね。これは専修大学に1冊だけあります。これは行って見ることは出来るし、コピーも取れます。それを出すときに、旧中野学校関係者がグループを作るわけですが、「これを作りましょう。」という言い出しっぺ、企画メンバーの1人が山本舜勝です。
阿尾は、戦後、自衛隊幹部候補生学校に入る。そして彼は調査学校に入るわけですが、その時の校長が藤原だったのです。専属教官は、陸軍中野学校出身の諜報専門の教官が3名・・・こういう風になるわけですね。
それから山本舜勝、彼は、陸軍中野学校で教官だった人物で、それから戦後米軍で情報活動の教育を受けた後、調査学校教官になる。彼は、三島由紀夫の盾の会との密接な関係が問題にされました。三島が軍事訓練みたいなことをやるわけですが、この山本がアレンジをしてやるわけですね。私が紹介した『調査学校史第13巻』(昭和43年度)の年は、山本が研究長をやっている、まさにその時の『調査学校史』なんですね。ですからその『調査学校史』などの内容を見ても、日本国内で学生運動や公害反対運動が活発な時期だったので、そういうことをきっかけに内乱が起きるということを想定して活動をやっている。「学生たちが混乱しているところに、病人を送り込んで教育をやった」という風に彼は書いています。
60年安保を想定した対応という事で、山梨県全域が敵に占領されたと想定し、調査学校に入校した自衛隊青年将校たちを、身分を偽って県内各地に潜入させる、こんなことをやっていたわけですね。
それから寄村武敏も陸軍中野学校出身者です。
このように、戦前の旧陸軍の情報機関の幹部たち、あるいは陸軍中野学校の人間関係が、戦後の陸上自衛隊の情報組織の基礎を作っていった大きな流れだったことが確認できるだろうと思います。と同時に、松本重夫に見られるように、米軍がそこに深く関わっただろうという風に思われるわけです。
次に「核戦争体制下の陸上自衛隊」のやや大仰なタイトルのところをご覧ください。
これは、ある方が残された資料の資料整理を何人かでやっておりまして、そこを代表するような形で私と松村先生の2人で、『戦争責任研究』に資料紹介を載せております。1回目の解説部分を皆さんに配っています。それから資料の3というのが、第2回に載せる資料という事になります。両方を使ってお話をしたいと思います。
新妻に関しましては、先ほど、松村先生のお話に合った通り、陸軍の中で電波関係の専門家で、チチハルあたりに行って電離層の研究をやったり、いろんなことをやっていたわけなんですが、彼に関わる資料を紹介します。資料2の86ページです。
1955年に陸上自衛隊幹部学校で新妻が講義をした時の資料だと思われるのですが、『部外秘 原子兵器の効力』、58年に『誘導弾と核兵器』これは中外出版から出版された一般の本なんですが、2月に出版されて、3月に国会で辻正信が、これを取り上げて、「ミサイル防衛をちゃんとやらなくてはならないのではないか?」という問題提起をしたわけです。それに対して、防衛庁長官の津島壽一(この人は元大蔵官僚で、戦争中いろいろやって、公職追放になって、それが吉田内閣で復帰して、フィリピンとの交渉にあたったりして、その後、防衛庁長官になる)は、「誠にもっともな意見である。是非参考にしたい。」というやり取りが交わされました。それに使われた本です。
以下は、新妻の名前が直接出て来ないものになりますが、1950年代にどういう資料が出ていたかという事ですね。
『CBR戦の参考』、『原子兵器の効果について予習資料』。
『参考資料プリントA 米軍戦術原子戦に関する原則 抜粋』これは米軍の教範を翻訳して利用したものですね。先ほど奈須さんのお話で衛生学校も教育資料として米軍の教範がたくさん使われたというお話がありましたけれども、こちらの方も、それが非常に幅広く自衛隊の中にあったという事を示していると思われます。
資料7『原子砲兵の運用について』これは、当時、戦術核弾頭を撃つアトミックキャノン(原子砲)という280㎜の長距離砲が開発されて、米軍はそれを使って本当にバンバン撃って戦争をやることを想定してたんですね。その為に日本の自衛官をアメリカに呼んで、そういう原子砲弾を撃つ教育をやってたんですね。それに関連した資料という事になります。
資料8『原子兵器の歩兵に及ぼす影響』、資料9『誘導弾』自衛隊幹部学校、資料10,11は『火(射)・・・誘導弾』これはミサイル関係の資料ですね。
資料12 新妻清一 これは彼がまとめたもので原爆攻撃を受けた場合にどう対処するかという話ですね。
資料13、14では、当時、自衛隊内部で核兵器についてどういう議論が交わされていたかを示す資料です。
こういうものが、50年代の半ばから後半にかけて、出ているという事になります。こういった資料をまとめる上で、新妻をはじめとする、旧軍の技術将校たちが大きな惑割を果たしたことは明かなんですね。
新妻清一の経歴というのは、資料をお読みください。
次に、「3、広島原爆調査への参加」をご覧ください。
当時、新妻は、陸軍省の軍務課で、陸軍が行っている様々な研究開発に目を通して、判子を押す係をしていました。したがって、核とかレーダーとか、そういうことについても彼は通暁していたわけです。それで、軍務課長という立場もあったかと思いますが、有末精三、当時参謀本部第2部長(諜報担当)を団長とする広島原爆調査に参加したわけです。米軍機が接近してくるという話があったので、仁科は科学面の責任者だったと思いますが。1日延期します。しかしながら、有末は大丈夫だと判断して、自分の部下(山田副官)と一緒に2人だけ予定通り2時過ぎに離陸して広島に向かった。広島で関係者に会って、作業を進めるわけです。翌日に仁科が来るんですが、仁科は7日にトルーマン声明を知って、これは20ktの核爆弾が落ちたという事は、はっきりして、非常なダメージを受けるわけです。ただ、ダメージというのは、彼は旧陸軍における原爆開発、2号研究の責任者だったわけです。結局失敗します。陸軍は仁科に依頼し、海軍は京大の荒勝研究室に依頼し、いずれも失敗するわけですね。原石のウランをどう確保するかという問題もありますが、私が、いくつかの本を本で確認した所では、そもそもきちんとした原爆の概念に、仁科の研究はどうも到達していなかったという可能性があります。それから京大の研究も、実際の原爆の設計とか、工学的に実現する手立てというのは全く立っていない状況だったように思われます。何よりもウラン濃縮が、全く展望がありませんでした。あきらめます。それで放棄するんですね。これは無理だろう。アメリカでも無理だと思っていたら、アメリカでは作ちゃったということで、そういう事で彼は打撃を受けていたという事です。「日本の科学者がアメリカの科学者に敗れた悔しさ」という風に、これは新妻清一を取材した保坂正康さんの文に出てきます。
次に、4大本営調査団・陸海軍合同研究会議のところです。仁科は、1日遅れで広島に行く。8月9日午前11時02分に長崎で原爆が炸裂。10日合同の会議が開かれることになります。この時には京都帝大の荒勝文策等も加わることになります。有末は、この時ソビエトが、宣戦布告したという事で、東京へ急遽取って返すことになります。新妻はこの会議の司会をするんですね。非常に重要な役回りです。そして最終的に「特殊爆弾広島爆撃調査報告」というのがまとめられていく事になるわけです。
その中で、新妻の手書きの原稿には、「人間ニ対スル損害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト。コレニ関連スル発表モ発表モ避ケルコト 中央ヨリ調査隊ヲ派遣ノコト」という風に隠蔽を図ったという証拠があるわけですね。
同時に新妻は、被害状況について、「新妻メモー損傷状況昭和20・8」というのを残していまして、そこに書かれている通りですが、非常に凄惨な実態を彼は目の当たりにしたわけですが、しかしそれを一切知らせるなという姿勢ですね。そして東京に戻って、「特殊研究処理要領」というのを発表します。
次に5、のところを見て頂きたいのですが、新妻は敗戦後、米軍の監視対象者になります。その関係の資料は、防衛省の図書館にありまして、これは見ることができます。それを見ると、サンダースから彼は尋問を受けているのですね。731についても聞かれているんですね。ウランの保有量についてもいろいろ聞かれているんですが、その間の45年11月10日に八木秀次から手紙を受け取っているんですね。八木秀次というのは戦争中に、軍と研究者と官のトライアングルを作る上で大きな役割を果たした大立者なんですね。よく知られているところでは、八木アンテナ、あれを開発した人ですね。この八木が『科学知識』という雑誌に、原子力の特集号を出すから、新妻さんに原稿を依頼したんですね。その内容を引用しています。
「寄稿を願うべき方として仁科博士に9月初め頃お願いいたしたることあり、総合的に原子爆弾については貴官が中心となり居られることを承知いたします。」とこういう風に書いていまして、新妻というのが戦争中の日本の核開発の中心にいた、また広島の原爆調査で仁科に同行している、そういう重要人物であるという事の1つの傍証になると思います。
しかしながら、彼は戦犯に問われることもなく、戦後、旧軍関係の業務の整理にあたった後、48年に復員局を依願退職して、54年には防衛技術研究所に入所し、55年には防衛研修所教官兼務となる。そしてミサイル、レーダー関連の専門家として活躍することになっていくわけです。
先ほど、紹介したような『誘導弾と核兵器』という本を書いて、その本が辻正信によって国会で取り上げられて、津島防衛庁長官がその通りだという答弁をして、ミサイル研究をしなければいけませんねという国家的な合意を後ろから下支えする資料提供の役割を果たしていたという事になるわけですね。
さらに50年代とはどういう時期だったかという事ですが、杉田弘毅さんが書かれた『非核の選択』という本があるのですが、それによるとこの時期、米軍が核戦争を想定して日本の自衛官を呼んで、戦術核を使用して戦争をすることを本気で考えていました。この時期には米軍で戦術核使用を想定した訓練を受けた三岡健次郎らの留学がきっかけとなって、「ソ連に自衛隊が核兵器で攻撃する研究が・・・・模索された」というわけですね。
その結果、自衛隊関係者や政治家に核容認発言が、頻発することになっていきます。
50年代にこのような議論が戦わされていた、まさにその時代に先ほど紹介した資料が出るわけですが、その一部を紹介したいと思います。資料3をご覧ください。
その中に、『米軍戦術原子戦に関する原則 抜粋』というのがありま。これは、「戦術原子兵器の事項を抜粋」という書き込みがあり、米軍の教範の翻訳なわけです。
一部の紹介だけなんですが、「2 陸軍の職種の特性」の中に「(4)化学部 戦闘行動支援における化学部の主任務は、CBR(化学、細菌、放射能)兵器の使用及防御の為の手段及技術的指導の実施である。」という風に、明確に規定されています。
つまり、化学部というのは、実は衛生関係も関連するわけですが、核戦争を遂行していく重要な要因の一部と認識されていたという事なんですね。
続いて大量破壊兵器とは何かという定義があります。
「大量破壊兵器とは原子的化学的生物学的放射能的(CBR)兵器あるいは広大な規模の荒廃もしくは無効化を遂行する為人員資材の集中に対して使用されるその他の兵器をいう。指揮官は大量破壊兵器の使用に関し自軍及び敵軍の能力を考慮しなければならない。」
このように大量破壊兵器の中に、核兵器、生物兵器、化学兵器などの利用を考えているわけですね。
また、「CBR行為に使用される兵器は攻撃的と防御的の両方に使用される。CBR行為は妨害計画、阻止作戦、及び原子兵器の戦略的使用法とともに使用する為これらの作戦に適応すべきである。これは汚染、敵機動の局限、敵軍の殲滅もしくは無力化及敵の保持できないように野戦築城を汚染すること等により地域の拒止及制限を容易にするための諸手段を指揮官に提出する」
大変にわかりにくい日本語ですが、CBRを積極的に利用して、攻撃にも使う、あるいは不利になった場合や撤退する場合にも敵の行動を遅らせるためにも使うという事を言っているわけです。
さらに、6、攻撃の(7)火力支援調整の(b)原子兵器の使用には
「ア 原子兵器は非常に強力な火力支援の1つである。原子兵器の戦術活動への統合はこれまでに述べられた火力運用についての戦術的法則を変更しない。」となってまして、今までの火力の運用についての原則の上に使われるわけです。
そして、「決定的戦果は機動部隊が原子兵器の破壊と心理的効果とを迅速に利用した場合に得られる。」
実際に、この資料や他の資料を見て行きますと、例えば戦術核で敵を殲滅したら、機動部隊を突入させて、広範な地域をいかに早く制圧するか、そうやって戦果を拡大していく事が重要だという事なんですね。
実は第1回で報告した資料の中では、核に汚染された地域が、どの位で、放射線が弱まるか、何分でこのぐらい弱まる、何時間たてば入れるとか、戦車で入った場合の被曝量は、トラックで入った場合の被曝量は、そういうのを細かく検証している資料が、1回目で紹介した資料なんです。それなどは、戦術核を打ち込んだところに、地上部隊を突入させるわけですから、当然被曝するわけですね。被曝を抑えるために、どうするかという事を、検討していることになります。
さらに、除染するための具体的な方法をいろいろ紹介している資料もあるんですね。したがって、放射線地を確認し、除染しながら、制圧していく事を、かなり本気で考えているという事なんです。
それから、資料7『原子砲兵の運用について』これは、陸上自衛隊幹部学校の資料で、幹部教育という事になるわけですが、これを見ていくと、「1、指揮責任及指揮関係」というところで、砲兵指揮官というのは、自分たちの上級指揮官に、幕僚として助言しなければいけないと言っているわけですが、驚くことは、「6目標分析」です。
「b 原子火力は巨大な威力を持っているので、これを作戦に投入する事は非常に重要である。故に原子火力の使用によって得られる戦術的利益は機動により迅速且十分に開拓されねばならぬ。これがため原子兵器の使用に関する最終的決定は部隊指揮官が行う。」
部隊指揮官が、最終的決定をやるんですね。
「この原子兵器の使用の決定は砲兵部隊指揮官が被支援部隊の一般幕僚と協議して行うところの目標分析に基礎をおく。」
いずれにせよ、大統領から一応戦術核を使ってもよいというような了解が出た上での話だと思いますが、それにしても、それが出ていれば、現場の指揮官の判断で撃てるという事だったわけですね。それをいったん撃ったら、機動部隊が展開し、CBRの要員が随伴するということになっていたわけです。
そこで、CBRという事で、化学部隊という事になるわけですが、(3)の化学学校というところで、これは『化学学校のあゆみ』というものが出ていて、そこから紹介しています。
化学学校の歴史的な経緯という事なんですが、1953年6月29日に保安隊関西補給廠長監督下の臨時化学教育隊が出発点ですが、それ以前に保安隊内部に第750化学業務隊が存在していたことがわかります。ただしその詳細は不明です。いずれにせよ保安隊時代から化学部隊の原型があったということは確実です。
この部隊は53年8月3日に第1回のCBR教育を実施しています。それに先立って、教官教育が行われているんですが、この『化学学校のあゆみ』の11ぺージには、教育の詳しい内容は出ていないのですが、教官研修の写真が載っているんですね。それには米軍の教官が多数写っておりまして、明らかに米軍の指導下で行われた事がわかります。
翌54年7月20日、陸上自衛隊発足に伴い、陸上自衛隊化学教育隊として部隊が成立、組織としては、総務科、教育科、研究科からなり、その後も部隊の編成が続くわけです。
56年には1月25日には、第301化学発煙中隊の新設が行われます。この発煙中隊の任務の中に、「原子兵器の熱戦効果を減殺する」というのが挙げられています。
まさに50年代の半ばに、戦術核を使った戦争があるという想定で、教育訓練が幹部学校で行われている時に、それに対応した部隊編成、恐らく教育訓練が行われていたという事になると思います。
1957年10月9日、化学教育隊は大宮駐屯地に移って、10月15日に化学学校に改編される。初代校長は外山秀雄という事になります。
ごく簡単に触れてきましたが、化学学校についてはこのようになります。
衛生学校の方は奈須さんが詳しく説明してくださったので、余り付け加えることは無いのですが、ただ後ろに『ふかみどり』17巻4号に載っていた衛生学校の年表を4ページにわたって入れておきました。
これに基づいて、経緯を改めて確認しておきたいと思います。
1951年5月14日に、警察予備隊の中に、総隊学校というのが作られます。ここの第4部が後の衛生学校になります。5月14日から設立準備を開始するわけですね。
その時の状況は、レジメの1ページの下の方に書いてあります。
何人かの方の回想が載っておりまして、渡辺文雄という初代総務部長をやった人が次のように書いています。
発足時は幹部3名、士補4名でスタートし、まず豊川部隊のスタッフォードスクール(詳細不明)でアメリカ式訓練を4週間受けた。7月2日からは米陸軍病院(当時聖路加病院が接収されて、アメリカの陸軍病院になっていた)で、衛生科員として約3か月研修を受けた。したがって、完全に米軍式の教育を受けたわけですね。そして、第4部のスタート10日前に米軍顧問から英文をコピーを渡され、連日徹夜して、翻訳して教育に当たったと言っています。51年7月9日から、保安隊衛生学校となる。52年10月15日までに幹部282名、士補など845名、計1127名を教育したという風に語っています。
この後、先ほどの年表に戻って頂きたいのですが、7月9日、米陸軍病院での衛生教育を受けた直後か、あるいはその途中かもしれませんが、衛生教育がスタートする。10月には士補基本教育、11月には幹部基本教育、翌年2月に陸曹技術教育、こういうのが次々と始まり、そして第4部衛生教育担当が設置される。6月23日には、新任幹部特別教育が開始される。10月15日には保安隊発足と伴って、衛生学校となる。
この時の、初代校長が加納保安官補という人ですが、この人は総隊学校の校長を兼務していた人なんですね。総隊学校というのは、この衛生学校だけじゃなく、養護学校とか、先ほど紹介した調査学校のもととなる学校とか、そういうのがここから分岐していったわけで、それを全部見てた人ですね。この加納という人は、医者でもなければ、薬剤官でもなくて、そのことを国会で追及されたことがあると、回想でもちょっと触れてますが、代理校長だと友人に冷やかされたという事です。専門家では明らかになかったと思われます。
彼が初代で、2代目が松野、3代目は安西で、ここら辺は、保安隊時代で、警察関係から来ていた人物である可能性が高いと私も思います。
しかしながら、この段階まで基本的な教育教程というのが、急速に整理されてきているんですね。第3代までという事は、55年の7月まで安西の時代なんですが、安西の最後の7月に、三宿の現在衛生学校があるところに、移転しています。
それで、注目されることは、55年5月10日に、幹部CBR教育が始まっているんですね。
まさに、核戦争を想定していた時期に合わせて、衛生学校でCBR教育が始まるという風になっているわけです。
したがって、第3代までで、基本的な教育の体系というのは、ある程度形をとったのではないかなと、この年表からは読み取れます。
その後、金原の代になりまして、『衛生学校記事』が創刊されたり、財政上の理由で休刊されたり、第6代中黒の時に、それは復刊されたりするわけですね。
園口の回想で、中黒時代が基礎を確立したという風に言っております。中黒の時代には、学校長自らが、アメリカに行くようになっています。63年の7月に第17回国際軍事医薬委員会に出席したり、あるいは64年11月にアメリカ太平洋空軍医学会議に出席したりという風になっています。
その後、園口の時代、9代、10代となりまして、第11代の泉陸将の時に、新しい隊舎が落成します。それに伴って、8月頃から、教育管理、特に教育体系、教育基準及び評価体系等の見直しが開始される。その後、ずっと、全課程の教育科目の集中審議とがあって、内部組織、教育課程そういうものが全面的に見直されたという事がありそうです。
奈須さんのお話の中に、泉の時に、「核兵器による大量傷者処理」のお話がありましたが、確かに泉の時に、中身はわからないのですが、相当本気で教育課程の見直しをやったことは事実のように思われます。
それから、初期の第1期の『衛生学校記事』の内容を見ると。泉が原爆関係の記事をたくさん書いているのを考えると、そこら辺は整合性があるのではないかという気がします。
次に、いくつか配った資料を紹介します。
お配りした資料「自衛隊は戦後何をやってきたのか―核・化学・生物」の3ページをご覧ください。
(4)「衛生学校記事」にうかがえるCBR活動教育という事ですが、
中村治が書いた「特殊武器戦とその影響」とか(資料3)、木村博夫「生物剤はこのように防ぐ」ということで、生物兵器関係の資料が載ったりしています(資料4)。
資料5は、これは近藤正文(衛生学校教育部第2科長 2佐)が、178ページに以下のように書いています。「昭和20年2月下旬と記憶しているが石井中将から直接電話で天皇陛下の不時の恐懼事態の際に乾燥血漿の製造を命ぜられた。早速準備して製造にとりかかった。製造は順調に行われ最後の仕上げである真空ポンプから焼き切り封入する日に(3月10日)あの第1回の大空襲(浅草地方)があった。幸い被害を被らなかったので予定通り完成し献上の手続きをした。次にこの献上に際しての御説明書を付け加えて思い出話をおわる。」という事で、説明書というのが右側にあります。拡大鏡で見て頂ければ、わかると思いますが、これは本当に説明になっているんですね。下に関係者の名前の一覧が載っています。
このように、先ほど新妻清一が、旧陸軍で電波関係をスタートにし、さらには核にも関わるようにようになり、それが戦後の自衛隊の技術面での中心人物の1人になったという話をしたわけですけれども、衛生学校の関係者も全く同じですね。近藤なども恐らくそうでしょう。彼らの頭の中が、こういう思い出話を書くことに見られるように、大日本帝国陸軍の軍医だった時と、全く変わっていないという事ですね。天皇陛下の為にこれを献上しましたと、3月10日の大空襲で何万人も焼け死んでいるんですよ。この人は、元は医者のはずです。しかしながら、天皇陛下に無事届けられたことがとても良かったという回想録なんですね。こういう人が、やっぱし衛生学校の幹部になって、教育をやってたというわけですね。衛生学校でも、調査学校でも、教育方針とか、学校長の訓示なんかを見ると、人間教育が大事だと繰り返し出てくるところがあるんですが、どういう人間教育を考えていたんだろうかという風に思わざる得ないものがあります。
最後に、『衛生学校史』という資料があるんですが、外見だけ、どんなものであるのか見てください。こういった資料です。これは昭和47年の『衛生学校史』です。陸上自衛隊衛生学校です。これは政策研究大学院大学の開架書庫に3年分(45、46、47)ありますから、誰でも行って、コピーできます。
歴史の史がついてますが、毎年の業務報告になっています。その業務報告の内容を見ていくと、いろいろと面白いことがありまして、それは今回丁寧に紹介できないのですが、改めてうちの大学の紀要に載せようと思っていますので、8月頃に原稿が出来て、ネットで検索がかかるようになるのは、多分10月か11月には検索でかかるようになると思いますので、そちらをご覧ください。
どういう資料かという事だけ、紹介したいと思います。
それから、『衛生学校記事』が衛生学校の中でどのように位置づけられていたかという事については、裁判に関わることですので、詳しくお話したいと思います。
そこで、最初のレジメの3ページのところをご覧ください。
(7)陸上自衛隊『衛生学校史』の1)『衛生学校史』昭和45年度 園口忠男が学校長の時です。ます、組織が出てくるんですね。2ページ目に組織編成が載ってまして、研究部の総括室に記事班というのがあって、その記事班が『衛生学校記事』の編集を担当しています。
それがわかるのが、資料6の「幹部配置状況」です。46年3月31日付けの資料ですが、この一番右の欄に、研究部長の下に、総括室というのがあります。そこに記事班長というのがあって、高橋清人になっています。これが『衛生学校記事』ですね。したがって『衛生学校記事』に関して、あれこれ防衛省が言い逃れをしていますが、衛生学校の正式の組織で、きちんと人員を配置して出していたことは、組織上明白なことになります。
ちなみに、この年にどういう教育をやっていたかという事を、資料7に付けておきました。「教育実施状況」というのがあります。
これを見て頂きますと、幹部教育の中に対化学衛生というのがあります。この時点で15期の教育ですね。人員は5名、期間は10週間、こういった教育が行われていたことがわかるという事になります。
それから、「他校等への教育支援状況」というのも出てまして、東京消防庁から受け入れて、救急救命措置の訓練をやっているのが圧倒的に多いのですが、それ以外に化学学校8時間、調査学校4時間という風に教育支援を行っています。
それから研究開発というところで、研究部の総括室に記事班があるわけですから、ここに明確に位置付けられていまして、資料8をご覧ください。
これは『衛生学校史』の55ページになるんですが、ここに「衛生学校記事に関する事項」というのがありまして、「第1 衛生学校記事については、会員の実務・訓練に真に役立つ内容の精選につとめ年4回発行した。」ということです。
また、衛生学校記事の発注部数、会員数及び編集内容については次の通りであるという事で、会員数は1800~1850、発注部数は1900~1930という事です。
したがって、業務報告にきちんと載る形で発行されていたという事になります。
ちなみに、研究部でどんな研究をやっていたかというと、「昭和45年度の研究課題担任表」というのがあるんですが、例えば上から2段目、実用試験「防護マスク」これは化学学校に協力、河合1佐というのは先ほど出てきた河合正計の事かもしれません。
それから、CBR防護(化学学校に協力)というのが出ています。
このように、化学学校とは非常に密接に連携を取りながら仕事をしていたことは、明らかだという風に思います。
次に、『衛生学校史』昭和46年度 門馬公道学校長の事ですが、この人は、面白くてつい書いてしまったのですが、着任時に、「衛生学校はなってない。」という演説をして、大改革をするんだとという事を言うんですが、そのせいか1年半ぐらいで替わるんです。
その下に、編成組織と幹部配置状況がありますが、資料9の左側の方に企画室が書かれています。そこに記事担当で高橋氏が記載されています。
資料10で、衛生学校記事が出ています。ここに、門馬が衛生学校記事の目的について述べた事が、書かれています。「第1線と直結する機関誌」とするというわけですね。10月における編集委員会から編集・発行委員長には副校長松尾将補を任命された。また、記事班は8月26日以降雑誌「防衛衛生」の編集・発行業務を兼ねて実施するよう命ぜられると共に、9月21日付をもって研究部から企画室に配置替えとなり、10月1日付をもって、総務部管理課から平井貞子事務官が補充され、云々となっています。12ページの右側の下のところに、衛生学校記事業務というのがわざわざ書いてありまして、高橋氏が記事担当で、その下に、編集・発行と、また『防衛衛生』の方も、高橋氏と平井氏が関わって発行していたというようなことがわかる資料になっています。
次に、『衛生学校史』昭和47年度 水上四郎学校長の時ですが、ここでも資料12の企画室のところで記事担当が高橋という風に名前が出ていて、位置づけが明確です。ちなみに右下に戦史室というのが設けられていて、これが『大東亜戦争陸軍衛生史』の編纂に関わっただろうと思われます。
教育訓練に関しては、衛生化学教室、化学については、各種化学物質の環境汚染について、更にRについては、医療用放射線の人体に及ぼす影響云々という風になっていますが、この様な化学、R、放射線、に関しての記述が見られます。
その下は教育課程の実施状況についての話です。
研究開発については、富士学校、化学学校と協力しながら進めていくが明らかです。
最後に、一番最初に松村先生が、大きな議論をする必要があると言われて、私も改めてその通りだなと思うのですが、4人で日本経済評論から『「満州国」における抵抗と弾圧』という本を出したんですが、そこで私も論文を書きまして、私は日本共産党満州地方事務局という日本共産党の公式の党史にも載っていない組織について書いたのです。
真面目に日本共産党満州事務局というのが、党中央に承認された公式の党組織として短期間ですけれども、大連を中心として活動するんですね。その記録を紹介したんですが、その中で、9月に満州事変があって、弾圧されて、10月に捕まって、救援活動をやる人もいるんだけれども、その救援活動も弾圧されて、日本共産党の組織的な活動というのは、中国東北、関東州から消えてしまうわけですね。その時、彼らが活動がうまくいかない大きな理由が、彼らは非常に優秀な人たちですね。旧制中学を4年ぐらいで終了して、大学に進学した人もいますしね、非常に優秀な人たちで、当時の情勢分析もしっかりしていたと思います。しかしながら、当面する課題をどうやって打開するかという展望はとうとう見つけることができなかったのですね。そして弾圧された。何故見付けられなかったかの大きな理由の1つが、植民地の支配者だっていう気分が、関東州とか大連にいる日本人に非常に根強くあったと思います。それが日本人と中国人の労働者の連帯という事を、共産党事務局、あるいは彼らは労働運動を組織しますからそちらの組織で訴えるですけど、届かないのですね。数十人規模に拡大するんですけれども、本格的にはならないのです。満州事変以降、反帝国主義の闘いを組織しようと働きかけても、あんな戦争はやらせておけばいいんだ、叩けばいいんだというような職場の反応で、却って我々の方がやられてしまうというような事で、日本人の中で圧倒的に孤立していったという風に思うんですね。
同じ時期に中国共産党もあそこで活動をやっている。その資料も別にありますので、その活動について、江田さんが以前に書かれた論文も参考にして、並行してみると、中国共産党も、日本共産党と同じ方向に向かって闘っているんですね。日本、中国、さらに言えば朝鮮の共産主義者はみんな目標は帝国主義打倒なんですね。帝国主義を倒して、苦しい状況にある人民の生活を建て直そうではないかという事では、基本的な理念、向かっている目標は同じだったんですね。しかし日本人の中では、それはただ単に弾圧だけではなくて、日本人自身の中に圧倒的に支持が広がらない。「植民地支配者である」そういう意識が非常にそこに足かせになっていると思うのですね。そのことが日本人のそういう活動を失敗に終わらせる。個別にはその後もいろんな動きが残ったわけですけれども、組織的な活動としては無くなっていく。それ以外にも自由主義者の活動、いろんな活動がどんどん無くなってしまって、当時の現状が抱えていた問題を直視して、それを変えなきゃいけないという問題提起を片っ端から日本の官憲が潰した結果、新しい時代を展開していくためのアイディアも人も自らの手で殺してしまったわけですね。残ったのは、際限なく軍事力と治安の力で目先の経済的利害だけを押し通すというそういう事に大日本帝国はなっていったという風に思うのです。そしてその大日本帝国を支えた人たちが、調査部門でも衛生部門でも恐らく化学部門でも、生き残って戦後を日本の自衛隊あるいはそれ以外の部分を支えて今日に至っている。そういう風な人たちが日本の国家権力の中枢にいるから、特定秘密保護法で、国民の目と耳を封じようと、共謀罪でああだ、こうだという奴らは、昔のように潰してしまえばいいと、こういう風な順番になってきているんだろうと思うのですね。まさに、そういう意味では、安倍政権の下で、大日本帝国時代の亡霊が具体的な形をとって立ち上がってきている状況になっているんじゃないかなという風に思いますし、それだけに、今回ここで進められている裁判というのは、非常に大きな意味があるし、他の様々な運動と手をつないで、進めていく必要があるんではないかと改めて思います。
どうも、以上です。ありがとうございました。
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