2009年4月11日土曜日

反満抗日闘争

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 4、東北人民の反満抗日闘争

 日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。

 馬占山(ばせんざん)と嫩江(のんこう)橋抗戦

 満州事変を起こした関東軍は、遼寧(りょうねい)、吉林(きつりん)の2省をあいついで占領すると、黒龍江省(こくりゅうこうしょう)に侵攻しました。ところが嫩江橋において、黒龍江省の代理主席・馬占山が指揮する中国軍の頑強な抵抗を受けたのです。関東軍は何度か撃退された後、主力部隊と主力兵器を集中して激しい戦闘を繰り広げ、数ヶ月後にようやくチチハル市を占領しました。

 抗日連軍

 1935年前後、中国共産党の指導のもとで、満州の各地域の抗日武装勢力が連合して東北人民革命軍を編成しました。後に「東北抗日連軍」と改称して第1軍から第11軍まで、約3万人の兵力にまで拡大されました。
 これに対して関東軍と「満州国」政府は、「治安粛正(しゅくせい)作戦」(抗日勢力を撃滅して支配を安定させようという作戦)を強力に押し進めました。抗日連軍は何度も「討伐」を受けて食糧と塩、薬品などの補給を完全に断たれ、多くの兵士たちが日本軍の討伐と攻撃のたびに犠牲になりました。犠牲があまりにも大きくなったため、抗日連軍は兵力を温存するために国境を越えてソ連領内に入り、小さくなった部隊の結集をはかりました。
 1942年になると、抗日連軍の小部隊はソ連領内から満州へ戻り、日本軍の後方に深く侵入して、情報収集を行なったりして闘いを続けました。1945年8月8日にソ連が対日宣戦布告をすると、抗日連軍は満州に戻り、抗日闘争の最終的な勝利を迎えたのです。

 ▲楊靖宇(よう・せいう)
 抗日連軍第一路軍の総指揮官、1940年戦死。日本軍がその遺体を解剖してみると、胃の中には未消化の木の皮、草の根、綿などがあっただけだった。

 
   
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)群の中には熱い涙を流す者あり、大声で泣き叫ぶ者あり、不当な扱いを恨みわめく者ありで、嘆き訴える怒声が天を震わせました。私は心に思いました。17になったばかりの、こんなにも短い命で、今にも日本軍に殺害されようとしている。だけど、父母や家の人たちは私が外で殺害される様子をまだ知らないでいる。国破れて家滅びる恨めしさを私は感じましたが、同時に又人はどの道死ぬのだけれど、殺害されて死んではいまいましいとも想い、いちるの望みでもあるなら、起死回生を狙ってやろう、とも思いました。丁度その時、日本軍の親玉が私たちの殺害に刺し殺しを採用すると宣言しました。それで直ちに人の群の一番前の列から始めて、ゲートルで10人を1列につなぎ、引っ切り無しに河の水辺まで駆り立て、銃剣で刺し殺しては、河に倒れ込ますのでした。
 私は最前列から10数メートルしか離れていなくて、すぐにしばられることになりそうでした。とっさに思いついて私は、人の群の一番端っこから、大急ぎで一番後ろの列まで移りましたが、日本軍が私たち全部を殺しつくそうとする時には、最後は私の番になるのでした。私は後ろの空き地にうずくまり住民のあばら家に近づきましたが、その壁は芦の柴と泥とでできた間垣で、たくさんの人に押し付けられて、家も壁も壊れ、芦の柴が丸出しになっていました。午後の4時頃までに、三汊河で囲み込まれた兵士と民衆のうちの、7割ほどがもう殺されていました。冬という季節は、昼間が短く夜の長いものですが、空には一面に黒雲が立ち込めて、天もどんより地も薄暗く、やがて日が落ちるかのようでした。日本軍はできるだけ早く殺し尽くしてしまおうと、急に残った3割の人たちを、河辺りまで駆り立て機関銃で掃射しました。ちょうどその時、私はある人が芦の柴でできた壁をほじくって穴を開けそこからもぐり抜けて逃げて行くのを見ましたが、かなりの人が草葺き小屋の屋根を腹ばいになって逃げるのもいて、よく見えてしまうので、日本軍に機関銃で射撃され、死骸が屋根から転げ落ちてくるのでした。この機に乗じて、私と他のもう2人も芦の柴の土塀をほじくり草葺き小屋の隣の一部屋にもぐりこみ、しばらく隠れていてから、機を見て又逃げて行きました。
 まもなく暗くなろうという頃、河辺りに頻々と、機関銃の射撃のの音が聞こえていました。12月13日の午前9時から暗くなるまで、残忍野蛮な日本軍は、三汊河の沿岸で、わが軍と民との同胞2万人以上を殺害したのです。これはしかし、日本軍の虐殺のほんの一場面にしか過ぎないのです。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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