1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
3、「満州国」の社会と経済
日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。
日本の資本による満州経済の独占
満州の重要産業は、日本の国策会社である「南満州鉄道株式会社」(略称は満鉄)や日産コンツェルンの「満州重工業開発株式会社」(略称は満業)によって独占されました。金融・石炭・鉄鋼・交通・鉱山・電力などの分野において、「特殊会社」あるいは「準特殊会社」という名の国策会社をつくり、「一産業を一会社とする原則」をかかげ、中国の民族資本が入ってくることを許しませんでした。とくに1940年代に入ると、多くの中国民族資本は原料や市場の制約を受けて破産の危機に陥りました。
日本人の満州移民
日本の満州支配を維持し、日本国内の人口過剰の問題を解決し、さらにソ連との戦争に備えるために、日本は「在郷軍人(ざいごうぐんじん・・・現役を除隊した予備役の軍人)」を中核とする武装移民団を編成して満州北部に入植させました。1936年、日本政府は「満州農業移民20ヵ年百万戸送出計画」を定めました。
日本は、人口が多くて土地不足に悩む、貧しい地域の農民を集団で満州に移住させ、満州に日本と同じ村の名前をつけて「分村」と呼びました。また「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」を編成して、多くの青少年を満州に送り込みました。
日本の敗戦までに、日本人の満州移民の総数は約29万人にのぼりました。日本人のほかに、満州に強制的に移住させられた朝鮮人もいました。日本は「満州国」政府に対して、現地の中国人農民から土地や家を安く買い上げ、または強制的に取り上げて、日本移民に与えるように指示しました。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
1937年には、私は陸軍第64軍の156師、466旅、931団の現役兵で、南京防衛戦に参加しましたが、12月13日に南京が陥り、私たちは捕虜にされました。日本軍は南京を占領するや、たちまち大虐殺を始めました。その時の痛ましい様を思い起こしますと、いまだにありありと目に浮かびます。
12月13日の朝、私は城内の興中門の傍らの城壁の上から、水道用ズック製パイプで城外に滑り出しました。私が逃げ出た後、道路はみんな散り散りになった兵と一般の人とで、ひしめき合っていました。私は長江を渡って行こうと思いましたが、岸辺に泊まっている何隻かの大きな汽船には、人がぎっしり詰まっていて、1人として入っていかれず、重すぎるらしく、船出もできませんでした。我々まとまりのない部隊が、上新河の方向に突っ込んで行って囲みを突破しようとしたりしましたが、どれも成功しませんでした。そこで水西門の方向に転じて前進しましたが、半分行った所で、一万人余りの身に寸鉄も帯びていない同胞が、少数の日本軍に包囲されているのを見出しました。そしてすぐ又、兵士と民衆とがたくさん、続々とやってきて、全部で2万人余りほどになりました。
午前7時ごろ、私も人の群れの中にいて、日本兵が機関銃をたくさん、ずらりと据え付け、銃口を中国人に向け、みんなには銃口に顔を向けて、1人1人ひざまずくように命じているのを見ました。私は内心、もしも日本兵が突然機関銃で掃射したら、地べたにひざまずいている人たちは、1人も逃げられずに、全部命を落とすに違いない、と思いました。私はそこで周りの人たちに、急いでこの場を離れて逃げよう、と勧めました。けれども彼らは、「国際法で捕虜と無辜の民衆とを殺害してはならないことになっている、恐れるな」と言って私の勧告を聞かず、行こうとしませんでした。私は2人動員しただけで、3人でゆっくり移動し、歩いては止まり歩いては止まりし、何と言うことなしにしゃべっているといった方法で、日本軍が気付かないでいる隙に私たちその場を離れて、一里ほど離れた住民の草葺き小屋まで行って隠れました。
私たちは草葺き小屋で日本軍が包囲した人の群れをじいっと見ていましたが、ひとしきりしても、日本軍はまだその人たちへの射撃は始めませんでした。けれども日本軍の増援部隊が到着するや、直ちに行動を始めて、外側を包囲している兵力を増強しました。日本軍の銃には全て剣が付けられ、小銃、軽機関銃、重機関銃の銃口を、一律に人の群に狙いを付ける射撃の姿勢がとられました。もう少ししたら、又その群を三汊河の方向へ行かせ、日本軍は両側と後ろとで銃を構えて駆り立てるのでした。・・・(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。
2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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