2009年4月17日金曜日

2つの戦場

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?


1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

1、日中全面戦争

満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。

 2つの戦場

 1939年までに日本は約85万の陸軍兵力を中国に送り込み、重要都市と鉄道線路のほとんどを占領しましたが、中国の抵抗をやめさせることはできませんでした。日本は、国民党副総裁で蒋介石に次ぐ地位にあった汪精衛(おうせいえい)を重慶から脱出させ、1940年3月、南京に国民政府(汪精衛政権)を作らせましたが、この傀儡政権を支持する中国国民はほとんど無く、日本の工作は失敗しました。
 一方、中国共産党が指導する八路軍(はちろぐん)と新四軍(しんしぐん)は民衆を民兵に組織し、日本軍の占領地を解放して抗日根拠地を築き、勢力を拡大しました。衝撃を受けた日本軍は、解放区の徹底的破壊をめざす「掃討戦」を押し進めるようになりました。日本軍は正面で国民政府軍を攻撃し、後方では共産党軍と戦うという2つの戦場を持ったのです。
  
     
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 徐吉慶(男、71歳)の証言

 1937年に、私は南京の山西路に住んでいました。日本の軍隊が入ってきたとき、私たちは大方巷の角の華僑招待所の大講堂に集められて住まい、難民キャンプと呼ばれましたが、そこにはおよそ2000人余り住まっていました。12月中旬のある日の朝、日本の将校何人かが兵隊何人かと通訳1人を連れて難民キャンプにやってきました。将校がぼそぼそと何かを言うと、通訳が「これから日本の皇軍がお前たちを送って帰らせてやる、自動車で送ってやる」と言いました。やがて車20台で、1台に40人ぐらい乗せて、ここの人たちを連れて行きました。後で分かったのですが、実際は下関の三汊河まで引きずって行って全部銃殺したのです。明くる日はとてもいい天気でしたが、朝うんと早く、やはりあの将校数人と、兵士と通訳とが難民キャンプにきて、車20台で初めの日に運びきれなかった人たち全部を乗せて行きましたが、どの車にも機関銃が一挺据えられていました。私は4台目に乗せられました。車は新街口の中央銀行の大きな内庭に停まりました。将校が又何か日本語を言っても、私たちは分からず、通訳が「年取った者、若いの、男、女、小さい者に分かれて立っているように」と言いました。将校が又何か言って、通訳が又言いました。「ここに留まって皇軍のために働きたい者は誰でも、留まってよい。やりたくない者は、難民キャンプに送り返してやって、明日また話し合うことにする」。結局1人も留まらずに、日本軍は私たちを難民キャンプに送り返しました。3日目の朝、7時ごろになってようやく、彼らがほとんど又やってきて、私たち1千人余りを、縄で別々に縛ってから、6人ずつ一緒にして縛り、車20台に押し上げたのですが、車にはやはり機関銃が据えられていました。まっすぐ三汊河まで走って停まりました。一目見てまずいことに、周りがずっと機関銃でした。私たち6人一列に立たされました。私は後ろ側に立ち、河辺りのすぐ脇でした。銃声が響くや、私は倒れたのですが、実際は弾に当たっていませんでした。夜の12時になっても、日本軍はまだ行ってしまわず、活きているのがいるのを恐れて、銃剣で1人ずつ突っついて歩いているのです。私は死体の下になってて、突き刺されても届かなかったのです。夜の1時過ぎに「どいつもこいつも、スーラスーラトィ【死んでしまえ、死んじまえ】」と日本人が言っているのが聞こえました。彼らが行ったので、そうっと頭をあげたら、同時に死体から3人もが頭をあげました。一緒に死体の堆から這い出したら、全身血だらけで、私は鼻からも血が流れており、おそらく緊張し恐かったためだと思われました。私たちは河辺まで這って行き血を洗い落とし、大変な苦労をして逃げ出して来たのです。(沈珍昌などが記録)


「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)

・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)

・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)

・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)

・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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