2009年4月5日日曜日

上海事変

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
 
 上海事変
 
 日本の満州占領に対して、国際世論の厳しい批判が集まったため、満州に傀儡(かいらい)政権を樹立しようとする日本にとって障害になりました。そこで、国際社会の注目を満州からそらすため、関東軍と日本の駐上海領事館の武官は共謀して、中国人暴徒に日本人僧侶を襲撃させる事件を企て、これを口実にして1932年1月28日、日本の海軍陸戦隊は、陸軍3個師団の増援を受け、上海の中国軍を攻撃しました。上海を防衛していた19路軍は激しく抵抗して、日本軍数万人を死傷させました。(第一次上海事変)。日中双方はイギリスの調停を受けて3月から交渉に入り、5月に「上海停戦協定」を結びました。


 日本の華北分離政策

 日本は満州を占領した後、さらに華北に侵略の目を向けました。1933年初め、関東軍は熱河省(ねっかしょう、1928年~1955年に存在した省)に侵入し、万里の長城を占領しました。中国軍は激しく抵抗しましたが、日本側の提案により5月に「塘沽(タンクー)停戦協定」を結び、長城の南側100キロを非武装地帯として、中国軍は撤退することを決めました。この協定によって華北侵略の足場をつくった関東軍は、1935年5月、万里の長城を越えて華北に侵入すると、支那駐屯軍と共同して「華北5省自治運動」を企て、親日政治家をかつぎあげて傀儡政権を成立させ、国民政府の勢力を華北地域から排除しようとしました。日本は華北の石炭や鉄などの資源を確保する一方で、中国全面侵略戦争の準備を進めていきました。この過程で、華北の鉱物資源が日本の支配下に入りました。



「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 鄭秀英(女、67歳)の証言
 1937年に、私の兄は七家湾の雑貨屋で見習いをしていて、20歳でした。日本の軍隊が南京に侵略してきた時、家中で大方巷の難民区に避難しました。難民区の中は数え切れないほどの人で、地べたに座るしかありませんでした。日本軍がいっぱい剣をつけた銃を両手で構えて、難民区にやってくるのをこの目で見ました。日本軍は男をみんな一緒に捕まえ、私の兄も捕まりました。日本軍は男を8列にして捕まえて行き、数千人ほどいましたから、2時間余りもかかってやっと連れ終わりました。後で男の人が1人死人の堆から逃げ戻って来て言うには、この日本の強盗たちは下関の江辺で機銃掃射し、惨死した人がたくさんいました。兄が捕まって行ってから、ずっと何の音沙汰もありません。
(戦国利が記録)

 
 
「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。

 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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