2009年4月10日金曜日

満州国

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 3、「満州国」の社会と経済

 日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。

植民地教育
 
 関東軍は満州を占領すると、反満抗日の教育を行なっている学校の教師と生徒を逮捕し、さらに学校を閉鎖しました。その後、植民地支配がある程度進み、秩序が安定し始めると、学校教育の回復と建設をはかるようになりました。小学校は「国民学校」と改称し、それまで合わせて6年間だった中学校と高等学校を4年間にして「国民高等学校」と名づけました。戦争政策に役立たせるために、基礎知識を学ぶ授業が大幅に削られ、実業教育の必要が強調されるようになりました。
 学校では、教師と生徒は、毎日必ず日本の天皇と「満州国」皇帝に向かって遥拝させられ、「国歌」を歌い、溥儀の『国民調』を暗唱させられました。生徒たちは日本語と修身(後に「建国精神」と改称)を学ぶことを強制され、「日満一体」「忠君愛国」の思想が注入されました。中国では、日本の統治時期に強制された「皇民化教育」のことを「奴隷化教育」と呼んでいます。
 

 ■依蘭(いらん)県国民高等学校学生の回想
 初代の副校長は中原という退役軍人で、軍閥の作風があり、いつも教師を譴責(けんせき)し、学生 を殴り、絶対君主としてふるまった。



 食糧の強制的徴収

 1939年、日本と「満州国」政府は日中戦争の長期化にともない、食糧500万トンを強制的に徴収する政策を決定しました。徴収量は毎年増加されてゆき、1945年には900万トンになりました。毎年秋の収穫期になると、当局は軍隊や警察を農村に派遣して穀物の徴収を監督したので、農民たちはやむを得ず、自分たちが食べる食糧や種まきの分まで供出しました。
 大量の穀物が軍隊の食糧として徴収されたので、都市住民の1人当たりの1ヵ月の食糧は、わずか5キロほどしかなく、ドングリなどの木の実や野草を食べて飢えをしのぐしかありませんでした。当局は一般の中国人が米を食べることを禁止し、従わない者は「経済犯」と見なして処刑することもありました。


 強制労働者の苦難

 関東軍は、満州を対ソ戦争の作戦基地にするため、1939年から「北辺振興計画」を進め、ソ連との国境地帯に大規模な軍事施設を建設するための工事を行いました。そのため生じた満州の労働力不足を解決するため、日本と「満州国」政府は、華北地方において労働者の「募集」を行いました。華北労工協会の記録によれば、1941年と1942年に「募集」された労働者は100万人前後にのぼり、その中には日本軍との戦闘で捕らえられた捕虜も含まれていました。
 「募集」とは名ばかりで実際は強制連行された労働者たちには、労働は過酷をきわめていたのに食糧はわずかしか支給されず、冬の防寒もろくになされませんでした。こうした非人間的な扱いを受けて、数多くの労働者が非業の死をとげました。

 
 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺


 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)私たち3人は日本軍は彼らを殺害しないと思って、少し後ろから三汊河まで付いて行きました。木橋まで来た時、前の方に日本軍が更に多くの兵力が布陣して、一大包囲網を形成しているのが見え、すこぶる殺気がみなぎっていました。日本軍は群の中に列から外に出るのがいるのを見つけると、銃剣で刺し殺したので、何人もが地に倒れ悲惨な叫びをあげて死にました。この突然の状況は私たちの予期に反したことで、様子からして日本軍はここで私たちへの虐殺をやろうとしているようでした。草葺き小屋に留まって、隠れていた方がずっと安全だったのに、三汊河までついてきたのは、死を求めたようなものだった、非常に悔やまれました。その時、とっさにいい知恵が浮かんで、すぐに後ろを向いて歩きました。ところが、後ろについて来ていた日本軍が、銃剣を私に突きつけてきたので、とっさに私が飛ぶように前に向き換えて、人の群に入り込んだところ、私の後ろにいた何人かの同胞が、いずれも日本軍に胸から背に銃剣で突っつかれ大声をあげて地に倒れて死に、私は一死を免れたのでした。
 私たちは三汊河の木橋の西へ数百メートル行った南の河辺まで駆り立てられて、みんな日本軍の手の内に死ぬんだと知りました。何人もが日本軍の蛮刀の辱めを受けたくないと、ある者は頭を壁にぶっつけ、ある者は河に跳びこんだ自ら溺れ死に、泳げる者は、河にもぐって逃げようとし、みんな日本軍に射撃されて水中に没しました。
 三汊河の河辺と空き地について、みんなで2万余りの中国人が包囲されたまま、日本軍は機関銃で射撃する準備を終わりました。けれども日本軍はまだ射撃を始めずに、又私たちを河辺から、岸の上(大通りより南の大同小麦粉工廠の広場)に駆り立てました。日本軍の首領で、うんと小さいのが、みんなに話(通訳つきで)をしました。「お前らはどうして恐れ多くも皇軍に刃向かったのか。お前らは有罪だ」「お前らはけしからん。どいつもこいつもスーラスーラ(死了死了=死んでしまえ、死んじまえ)」と、手を挙げ手まねで、首をはねる意を示しました。「今お前らに聴くが、どんな死に方がいいか。機銃掃射がいいか。小銃で撃つのがいいか。あるいはガソリンか焼夷弾で焼くのがいいか。それとも銃剣で刺し殺すのがいいか」。これを聞いて私は内心すごく憤慨し、日本軍が人を殺すのに、殺害される者にどういう死に方がいいかなどと聴くなんて、そんなことがあっていいんだろうか、と思いました。私たちはどうしても日本軍に全部殺害されることになりそうでした。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界



また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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