2009年4月3日金曜日

満州事変以前の満州

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

1931年、日本が満州事変を起こして満州(中国東北地方)を占領したのは、中国侵略戦争の前奏となりました。満州事変は、どのような状況下で、どのように起こったのでしょうか。

 満州事変以前の満州

日露戦争後、日本は資源の豊富な満州を自分たちの「生命線(国が成り立つために絶対に確保しなければならない地域)」と見なすようになり、1927年6月に開かれた東方会議で「対支政策綱領」を定め、満州を中国本土から分離する強硬方針を決定しました。
 この頃、国民革命軍による北伐(国民革命軍が広東(カントン)から北上して、国民政府による中国統一を目指した革命運動)が大きく発展し、その影響が華北地方まで達すると、日本はそれが満州に及ぶことを恐れ、急いで分離計画を実行しようとしました。
 1928年6月4日、日本の関東軍高級参謀・河本大作(こうもとたいさく)は、瀋陽付近の皇姑屯(こうことん)において、当時、満州を支配していた奉天系軍閥の首領・張作霖(ちょうさくりん)を爆殺し、混乱に乗じて日本軍を動かして満州を占領しようと企てました。しかし日本の満州分離計画は失敗に終わりました。父の後を継いだ張学良が、蒋介石の率いる中国国民政府による統一を受け入れ、その支配下に入ると宣言したためです。
 張学良は鉄道の敷設、港湾の建設と拡張、貨幣の統一など中国東北地方の建設をすすめ、日本の満州支配政策に対抗しました。日本は、国民政府の支持を受けた張学良が強大化することを恐れて、彼に対して圧力を加えると同時に、秘密裏に満州占領計画を進めました。
 関東軍は、ひそかに偵察を行なって情報を集め、満州を武力で占領、併呑(へいどん)する計画を策定します。そして再び軍事行動の口実をつくろうとしました。

 ※東方会議「対支政策綱領」・・・万一、動乱が満州・蒙古に波及し、治安が乱れて同地方における日本の地位と権益が侵害される恐れがあれば、それらがどの方面から来ようとも、防ぎ守らなくてはならない・・・・機会を逃さないで適当な措置をとる覚悟が必要である。(要約)
 

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 樊嘉瑚(男、56歳)の証言

 1937年12月には、私たち一家は上海路の難民区にいて、私は11歳でした。ある日の午後3時頃、日本兵が突然難民区を包囲して、大捜索をやり、青年の男子は1人も見過ごしにしませんでした。20歳だった上の兄の樊嘉琳も、18歳だった次の兄の嘉珊も、日本軍に捕まって行きましたが、後で家族が引き取りに行かされました。祖母と上の兄の岳母などが、年取ったのが上のを、若いのが下のをと、それぞれ取りに行き、暗くなってやっと、日本軍は私の兄2人を手放しました。その時に捕まった人がたくさんいて、何日かして難民区に逃げ帰ってきた人がいましたが、顔一面に火傷の火ぶくれがあり、その人の言うのでは、その日捕まって行った人たちは日本軍に下関の江辺まで連行され、機銃掃射されたのですが、自分は弾に当たらず、死人の累積の中に隠れ、夜間に駆け出て江辺のわらぶきの家に隠れたのを、後で、日本兵に見つかり、ガソリンをそのわらぶき小屋にまいて火をつけられたので、それで顔が焼けただれ火ぶくれがいっぱいなのでした。
 私たちの住んでいた上海路の難民区で、ある小道の高殿で、日本兵が中国人を2人捕まえ、その1人が逃げてしまい、もう1人も逃げようとしたのを、銃で撃ち殺され、後に屍が道の脇の溝に埋められました。ほかに、ある日の夜、日本兵数人が難民区に闖入してきて、お隣の中年の婦人を捕まえていきましたが、ご主人がその時南京にいなくて、その婦人は捕まった後ずっと帰って来ず、階段の上に血の痕がたくさん残っていました。この婦人は日本軍に強姦されてから、引きずって行かれ殺害されたのです。(王瑞屏と魏福仲が記録)



 

    
「Imagine9」【合同出版】より



武器を使わせない世界


世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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