2009年4月30日木曜日

伝単(ビラ)の中の戦争

5月3日は憲法記念日ですね。今の憲法が施行された日ですね。
特に憲法9条の解釈をめぐっては、いろいろと拡大解釈が出てきて問題が多いように思います。
 どうしたら憲法9条が本当に実のあるものになるか、この3日に私たちは、よく考えるべきだと強く思います。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 伝単(ビラ)のなかの戦争

戦場では、敵国の兵士の戦闘意欲を失わせるため、あるいは戦わないで投降(とうこう)するよう呼びかけるため、さまざまな謀略の伝単(ビラ)が作成され、敵側陣地にまかれました。それぞれのビラが何を働きかけようとしたのか、その効果も含めて考えてみましょう。

 ①日本軍が中国人に向けたビラ
 諸君はいったいどの道を選ぶのか  みよ! 匪賊(ひぞく)の道を選び、抵抗を続ければ、このように悲惨になる  みよ! 良民の道を選べば王道楽土にいたる


 ②日本軍がアメリカ兵に向けたビラ
 君の背後では、あの女たらし、あの徴兵忌避者。そうとも、悪者は金持ちでハンサムだし、勢力はあるさ。今頃は君の彼女を手に、ウィンクしながら、そう“銃後の僕たちはこの通り感謝している”と言っているぞ。


 ③中国軍が日本兵に向けたビラ(文字のビラ)
 戦線の諸君! 命を無駄にするな  苦しい生活あわれな家族を思い出せ  誰か諸君をどん底に落としたか? 目を開け! 親愛な日本の兵士よ  日支両国の兄弟よ! 連合して侵略者と圧迫者を打倒し、仲良く真正の  自由解放に進もう


 ④アメリカ軍が日本兵に向けたビラ(文字のビラ)
 犬死(いぬじに)  意義ある生涯  名誉の死とは何か
 それは確かに国家のためになる勇ましい行為をなしつつ最後を遂げることである。

 犬死とは名誉の死ではない。名誉の生とは何か。
 それは自己を保持し、国家のため最善を尽くすのである。名誉の生は名誉の死より困難であり、勇敢である。

  「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 張士栄(男)の証言 

私は元々は国民革命軍58師の1団2営5連の兵士で、1937年には上海で「8.13」淞○抗戦に参加しましたが、11月に命を受けて撤退し、蘇州から南京の牛首山まで退き、一昼夜にわたる敵を阻止する戦闘をしてから更に中山埠頭まで退きました。
 1937年の12月13日は、非常に寒く、どんよりと曇った日でした。午後私たちが中山埠頭で筏を組んで長江を渡る準備をしていましたら、凡そ3時頃に、突然日本軍のタンクが10台余り中山埠頭にやってきて、砲撃する一方で掃射したので、たくさんの中国人が撃ち殺されました。タンクから降りて来た日本兵10数人が、私たちに怒鳴って命じ、中山埠頭の南側の大湾子に集合させました。凡そ2000人余りが捕虜になり、周りには機関銃が10数挺据え付けられましたが、やがて南からまた日本軍が30数名やってきました。4,5分して、中山埠頭にまた軍艦が一隻、「あたか号」というのがやってきて、その甲板から海軍が4人降りて来たのですが、その1人で佐藤貫一というのが、土手にいる日本兵に何かひとしきり話をしてから、私たち四川の者と湖北の者とに立ち上がって出て来いと叫びました。佐藤は続けて3度言ったのですが、私は寒くてひもじかったので、内心どうせ死ぬんなら、すぱっと早く死んだ方がいいと思いました。佐藤が2度目に叫んだ時に私と一緒に四川人18名が立って出たら、湖北人14名も立って出てきて、みんなで32人、佐藤に国民党港務処の建物まで連れて行かれ、そこに押し込められました。その晩8時頃、日本軍の機関銃が数時間も鳴り響いていました。
 2日目に、日本軍は私たちを中山埠頭の南の貧民区に連行して飯を炊く鍋を探させましたが、大湾子を通り過ぎる時に、昨日捕虜になった兵士と平民2000名余りが全部殺害されているのを見かけました。その時に10数名の日本軍が貧民区で婦女子5人を捕まえて強姦したのもこの目で見たのですが、その内の2人が懸命に反抗したので、1人は銃剣で突き殺され、1人は銃剣で陰部から裂き開かれてしまい、ほかの3人は強姦されてから下関の宝善街中山橋のイギリスの教会堂(今の下関公安局)へ連れて行かれました。
 12月16日も、どんよりとした日で、朝8時に日本軍が私たちを江辺の2号埠頭を修理させに連行しました。私は2号埠頭の倉庫のかたわらに4箇所死体がうずたかくなっているのを見かけましたが、日本軍が丁度死体にガソリンをかけて燃やしているところで、四堆の死体は凡そ1000人余りでした。
(続く)
 
 「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。


Imagine,


A world that instead 



of


preparing for war,



prevents war.



コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月29日水曜日

昭和天皇の戦争責任

今日は4月29日「昭和の日」だ。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 昭和天皇の戦争指導

戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊はは天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。

  「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 郭学根(男、83歳)の証言 
 
 私は郭学根と言い、家は1900年から下関の石梁柱の岸辺でした。1937年の12月10日の午前中、私は下関の中山埠頭で荷物を運ぶ手伝いをしていましたが、日本の飛行機が下関一帯を爆撃に来て、下関の唐山路一帯の民家がたくさんやられ、同胞がたくさん死にました。国民党当局が長江封鎖を布告し、誰も江北へ行くのを許しませんでした。
 2番目の弟の郭学禮がその頃国民党の88師で兵隊をしていて、その年8月に上海で日本軍と戦い、生死不明だったので、母親は家を離れたがらず、弟が帰ってきて家族が見つからなくなるのを恐れていましたから、私も母について南京に留まり弟を待っていました。
 12月12日に南京の中国守備軍が下関の 挹江門(ゆうこうもん)から撤退し始め、情勢がにわかに緊張してきて、城南では日本軍の銃声や砲声がしきりに聞こえるので、母は私をせっついて下関三汊河の放生寺に避難させ、母が1人家に留まっていました。
 12月13日に日本軍が下関の長江沿い一帯を占領すると、中山埠頭の近くでは幾千幾万もの潰走して散りじりになった守備部隊や難を避けてよそへ逃げる同胞が長江を渡れずに、全部日本軍の捕虜になりました。日本軍はこの人たちを江辺に追い立てて、機関銃で掃射して殺しました。その時私は放生寺にいて銃声がはっきり聞こえ、日本軍が殺人を始めたんだなと分かりましたが、家が江辺から非常に近かったので、ずっと母のことが気になってなりませんでした。
 12月14日に、日本軍は中国兵を探し出すという名目で、放生寺にやってきて青壮年200人余りと若い婦女子50人余りとを引っ張っていきました。日本軍は青壮年を揚子小麦粉工廠の裏門広場に連行し、機関銃で全部殺害し、50人余りの婦女子が日本軍に集団輪姦されましたが、その内ある婦女子は強姦された後、殺害されました。私は放生寺にいて、ある友達が国際紅卍字会の腕章をくれたので幸いにも難を免れました。
 12月15日に、日本軍に捕まって人夫にされ馬に食わすよう草を刈らされました。連行されて行く道々、下関の三汊河の高鼓村一帯で見かけたのですが、石梁柱、唐山路、南通路から中山埠頭に至る周囲はどこもかしこも中国同胞の死体と日本軍に強姦されてから殺害された裸の婦女子の死体がいっぱいで、あまねく野に横たわる屍に、野犬が争って食い荒らしに群がるという、全く見るに堪えない惨状でした。
 下関の大新埠頭の近くで見たのですが、400人余りの中国の捕虜になった軍人や民衆が、日本軍にゲートルで縛られ、江辺に連行され、それから10人引きずり出され電信柱と木に縛り付けられて、生きながらの刺殺訓練用の標的とされ、すさまじい叫び声が絶え間なく挙がり、刺された鮮血を身に浴びつつ死んでいきました。それに日本の将校が1人軍刀で我が同胞を横になで斬りしたので、その同胞は真っ二つにされ、はらわたなどがみんな地に流れ出ました。日本軍は又中国の捕虜になった兵士5人に自分で穴を掘らせ、深さ1メートルまで掘ったところで、この5人を穴に突き入れ、その上から土を詰めて、胸まで埋まったら、刀で斬り殺し、それをかたわらでたくさんの日本軍が手を叩きげらげら笑うのでした。
 後に私は又日本軍に下関の南通路に草を刈りに連行された時、日本軍がちょうど鉄の釘で中国の同胞を木や電信柱に活きながら打ち付けているところを見かけました。釘付けにされた同胞の悲惨な叫びは絶えることなく、血は流れに流れて、私はもうその惨状を見ていられなくて、じっと目を閉じるしかありませんでした。
 12月16日の朝、私は日本軍に中山埠頭の電気工場へ馬に食わせに連行されましたが、それは丁度日本軍がトラックで6台捕虜になった軍人や民衆を運んできたところでした。日本軍はこの数百人を4列縦隊にして岸辺沿いにまっすぐ並ばせ、司令官の号令一下、小銃や機関銃が一斉に火を噴き、岸辺に間近な同胞は次々に弾に当たって流れに倒れ込み、流されながらもがいて叫んでいるのがいると、日本軍は又流れに手榴弾を投げ、途端に流れが血で染まり、水面には死体がたくさん漂って行くのでした。日本軍は掃射を停止してからも、銃剣で流れに倒れ込んでいない死体をむやみに刺しまくっていました。
 これはみんな自分で目撃した日本軍の極悪非道な暴虐行為で、今思い起こすと切歯扼腕させられます。(郭永柱が記録)   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



女性たちが



平和をつくる世界を。



Imagine,



A world where



women create peace.



戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。(アメリカ/先住民女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



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2009年4月28日火曜日

総力戦体制

明日は、4月29日「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 4、総力戦体制

 第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。
 

 国民を戦争へ総動員する仕組み

1940年、ナチス・ドイツの「電撃的勝利」に目を奪われた日本では、ナチスばりの一国一党の実現をめざして次々と政党が解散、10月には「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」が発足します。これにより複数政党制を前提とする議会制度は消滅します。
 同年、政府は労働組合を解散させ、戦争協力のため「大日本産業報国会」を設立して、ストライキなどを全面的に禁止しました。
 また、この当時すでに食料、衣料、燃料その他の生活必需品は配給制となっていましたが、町内会、部落会、隣組がその配給ルートとなっていたため、国民は誰もそこから逃れることができなくなっていました。こうした生活統制組織は、国民を互いに監視させあう役割も果たすことになりました。
 雑誌や新聞、映画からラジオ、小説にいたるまで、すべての情報が検閲を受け、戦争を賛美・肯定するものだけが掲載や放送を許されました。政府は増加する戦死者を「英霊(えいれい)」としてたたえ、お国のために戦争で死ぬことは「名誉」なことだとして、新たな兵士を戦場へ送り出していきました。
 このように、天皇を頂点にした軍部の支配体制の下で、政治・経済・軍事・文化・メディア・教育・生命など、すべてが戦争のために統制・動員されていきました。こうして、日本のファシズム体制が確立したのです。


  「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 李桂芳(女、92歳)の証言 
 
 主人の杜金龍は1937年12月のある日、下関の和記洋行に避難していて、日本兵に捕まりました。そして中山埠頭まで引っ張られ、日本軍に機関銃で集団殺害されました。(陳平穏が口述により整理)
    

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


基地をなくして緑と海を


取りもどしていく世界を。


Imagine,



A world that gets rid



of military bases and 

reclaims



the forests and the 

oceans.



森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月27日月曜日

総力戦体制

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 4、総力戦体制

 第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。
 

 「国民精神総動員」と国家総動員法


日中全面戦争の開始から間もない1937年9月、政府は「挙国一致(国を挙げて団結する)」「尽忠報国(じんちゅうほうこく・・・忠義を尽くして国に報いる)」をスローガンに「国民精神総動員運動」に着手します。各道府県に実行委員会がつくられ、やがて町には町内会、村には部落会、さらに隣近所で隣組(となりぐみ)が組織され、それを通して貯蓄や献金、勤労奉仕などが強制的に割り当てられて行きました。
 続いて翌38年4月には国家総動員法が公布されます。この法律では、戦争遂行のために必要な「物的資源」は議会の承認なしに勅令(ちょくれい・・・天皇の命令)で統制・運用できるとされ、「人的資源」もまた物資と同様、必要に応じて動員できるとされていました。そしてその戦闘力・労働力としての「人的資源」の供給を確保するため、同年に発足した厚生省によって国民の「健康状態」も戦時体制の中に組み込まれ、管理されていったのです。

  「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 黄張氏(女、90歳)の証言 

 私の家は1937年は下関の宝塔橋の城壁に引っ付いた所でした。その年に日本兵が入ってくる前に、私たちの村の近くの人たちが、宋さんの家の土手に穴を1つ掘りました。日本兵が入ってきてから、私たちみんなで40人余りが穴に入りました。私たちが入ってすぐ、一群の日本兵に見つかり、みんな出て来いと日本軍が怒鳴りました。その時、私は真っ先に走り出てきて、地にひざまずいて泣きついてから、大急ぎで逃げ出しました。遠くまで走らないうちに、銃声が聞こえて、駆け出て来なかった人たちが、みんな日本軍に機関銃で掃射され死んでしまいました。その後、私は逃げていく道で、又日本兵に捕まり、他に捕まった人たちと一緒に、宝塔橋の方へ銃殺に連行されました。その道で見ましたが、どこもかしこも日本軍に撃ち殺された死体ばかりでした。宝塔橋の和記洋行(今の下関肉聯廠)の入口脇の河辺まで連行された時、そこには既に何千人もの捕まえられて来た人たちがいました。その時、日本兵はもう河辺に機関銃を据え付けていて、人の群に掃射した途端に、私たちみんな倒れました。私は死体に押さえつけられていて、傷を受けていませんでした。日本兵が行ってしまうのを待って、私は死体の堆から這い出し、あるよく知っている人の家まで逃げて行って避難し、やっとのことで生き残って来られたのでした。(陳平穏が口述により整理)
 
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



武器を使わせない世界を。



Imagine,



A world that doesn’t



let weapons be used.



憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月26日日曜日

総力戦体制

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 4、総力戦体制

 第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。
 
 テロリズムから軍部独裁へ

 「満州事変」の後、日本の国内では陸海軍の青年将校を中心にテロリズムが荒れ狂うようになりました。1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸などを襲撃、首相を暗殺しました(5.15事件)。その後も陸軍の中堅将校の策動が続きますが、36年2月26日にはついに陸軍の青年将校たちが約1500人の兵を動かしてクーデターを決行しました。反乱兵たちは首相官邸や陸軍省、警視庁などを占拠して大蔵大臣など要人3名を殺害しました(2.26事件)。
 当時、陸軍内部では、クーデターで軍部の独裁政権を樹立して国家改造=「昭和維新」を断行しようとする皇道派(こうどうは=急進派)と、既成の政治勢力も巻き込んで軍の主導で総力戦体制をつくろうとする統制派とが激しい派閥抗争を続けていました。皇道派の反乱は、統制派によって3日間で鎮圧されましたが、これ以後、武力による威嚇効果を背景に、統制派は政治への影響力を決定的に強め、翌年には軍事費を約3倍に激増させます。そして37年7月、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに中国に対する全面侵略戦争へと突き進んでいくのです。

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)紅い家から出かけて、九龍橋を過ぎ光華門外の飛行場にまっすぐ着いたと思ったら、この日本軍は飛行場に駐留するよう命令を受けていたのでした。飛行場に1ヵ月余りほど駐留したのですが、日本軍が又人夫を1人捕まえてきたので、私たち分担して飯を作り、家畜に食わせ、給養を受け取りました。毎週1回、夫子廟の六華春酒楼にある兵站部に給養を取りに行くのですが、日本軍が1人私たちを連れて行くのに、驢馬1匹と、自転車を1台引っ張っていきました。「民心を安定させる」こと1ヵ月余りで、街に人が多くなったので、私たち走って逃げようと相談しました。私が驢馬をひき、もう1人が自転車を押し、城内に入ったこの時とばかりに、人が多く混乱した機に乗じて、私たち上海路の難民区に逃げて行き、あちこち尋ね歩き、分かれて3ヶ月余り会えずにいた親族の者を2人とも探し出せて、本当に悲喜こもごもでした。
 以上が私の南京大虐殺の時にこの目で目撃し生き残ってこられた体験と経緯で、50何年か前に南京が侵略された事実を青年たちに知ってもらおうと書き出したものです。(段月萍が1987年来の手紙に依って整理)


   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



おたがいに戦争しないと



約束した世界を。


Imagine,



A world that promises



not to fight wars



with each other.



戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月25日土曜日

「大東亜共栄圏」のまぼろし

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 3、「大東亜共栄圏」のまぼろし

 アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
 
 「大東亜共栄圏」の実態

しかし、日本が「大東亜戦争」を開始した本当の目的は、政府が決定した「南方占領地行政実施要領」(1941年11月20日)に述べられているように、「占領地に対しては差し当たり軍政を実施して、治安を回復し、重要国防資源を急いで獲得し、作戦軍が自活できるようにする」ところにありました。重要国防資源とは石油、錫(すず)、タングステン、ゴムなどであると書かれています。「自活する」とは、日本軍が占領した現地で、食糧をはじめ軍の維持・活動に必要な物資を手に入れるということです。
 大東亜会議の開催を決めた1943年5月の御前会議(天皇の出席した重要会議)で決定した「大東亜政略指導大綱」では、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定、重要資源の供給地として開発し、民心を把握するように務める」と定められました。
 以上に見たように、欧米列強に取って代わった日本の占領地支配は、「大東亜共栄圏」とは名ばかりで、戦争遂行のための資源、資材、労働力の調達を目的にしたものでした。東南アジアの占領地では、鉄道建設や軍用道路建設、飛行場建設などの土木工事や鉱山労働に多くの現地住民が強制動員されました。シンガポールやマレーシアでは、多数の華僑(中国系住民)が反日活動の疑いをかけられて虐殺されました。やがてインドネシアやフィリピン等日本軍の占領地で組織的な抗日運動が展開されるようになります。

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)12月20日頃のある日、朝早く邁皋橋を出て、通りに沿って城内に向かい、和平門を入り鼓楼を通って新街口まで来て、中山東路の方へ曲がり大安宮や太平路に来ました。道沿いの家屋は焼かれたのが多く、特に太平路は、大小の商店がみんな焼き尽くされていて、私の居た太平路54号も、焼け落ちて一面の瓦礫となっていました。楊公井まで来たら、中華書局とその向かいの中正書局はまだ焼かれていませんでしたが、ガラスの棚は打ち壊され、いろんな書籍が街いっぱいに放り出されていました。白下路を通り、内橋から中華路まで来たら、中華路にあった大小の商店は、みんな焼き尽くされ、一番大きな三履靴屋と何軒かの大きい呉服屋とは、どこもただ骨組みが何本か残っているだけか灰塵の堆になっているかで、正に一面の焦土、満身創痍(そうい)でした。
 中華門を出ると、又もや一面のむごたらしい場景で、道路にはいろんな風に惨殺された死体がいっぱいごろごろしていて、2日前に降った雪も、まだこれらの屍に覆いをかけられずにいました。道路の真ん中は、軍の車やタンクに轢(ひ)かれてぺしゃんこになった胴体や、圧しつぶされた頭が、雪で紅に染まり、泥水と脳味噌とが、見分けられないほどぐしゃぐしゃになっていました。南門(中華門)のすぐ外の大橋のそばに、4,50歳くらいの婦人が、ズボンをはぎ取られ、股の内側に木の棒が1本差し込まれている、何とも見るに忍びないものでした。それなのに道を行く日本軍の一隊は、これを見てかか大笑したのです。
 更に前へ行って、掃帚巷に入ると、又も一面の焦土で、塀は壊れ壁は崩れていて、雪が降った後なのに、まだ煙が出ているところもあるのです。掃帚巷から洋炮局を抜け養虎巷を通って、まっすぐ通済門の方向へ向かいました。まもなく通済門だという所に、ある平民の住宅があり、煉瓦も紅く瓦も紅いために、住民が紅い家と呼んでいたのですが、部隊はそこで休憩しました。ここの住民はほとんどみんな難を逃れて行ってしまっていましたが、ある理髪師1軒だけがまだ行っていなくて、この理髪師の若い奥さんが日本軍に発見されてから、輪姦されてしまいました。この日本軍の一隊が出て行く時に理髪師をぶち殺したばかりか、この若い婦人の陰部に強力な花火の「天地響」を差し込んで、その場で爆死させてしまいました。(続く)


   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月24日金曜日

「大東亜共栄圏」のまぼろし

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 3、「大東亜共栄圏」のまぼろし

 アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
 
 「大東亜会議」の招集

1943年11月、東條英機首相は、アジアに新しい秩序が形成されたことを誇示(こじ)するために「大東亜共栄圏」の代表を塔橋に集め、大東亜会議を開きました。
 招集されたのは、日本軍が占領しているところにつくられた傀儡(かいらい)政府、すなわち「満州国」、中国・南京の汪精衛(おうせいえい)政権、タイ、ビルマ、フィリピン、「自由インド仮政府」の代表たちでした。会議では次のような大東亜共同宣言を採択、発表しました。

 ■米英は自国の繁栄のために、他民族を抑圧し、大東亜に対しては侵略、搾取(さくしゅ)を行ない、大東亜を隷属化(れいぞくか)し、安定をくつがえそうとした。これが大東亜戦争の原因である。大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の束縛から解放して、共存共栄、自主独立、人種的差別のない共栄圏を建設し、世界平和の確立に役立てようとするものである。(要約)

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)12月15日の晩は霜が降りました。夜が明けないうちに、朝ご飯を食べ出発しました。侵略者たち10数人は、馬を一匹ひいた私を加え、長江沿いに上元門の方へ進んで行きました。至るところ死体ばかりで、そのほか、江辺には軍用の糧食や被服が山のように積まれていて、それに庶民が捨てていった箱や篭や行李に、小さな車、大きなトラック、戸板をはずされた店の品物が至る所に放り出されているの等でいっぱいでした。更に前へ進むと、銃器や弾薬が、山のように積まれているのが見えました。上元門まで行って、老虎山のふもとから、引き続き邁皋橋の方向へ行くと、道沿いのおよそ村で建物のある所では、どこも昨日挹江門(ゆうこうもん)の内側で見かけた状況と同様に、家々の入口には年寄りや子どもが座っていて、そこから遠くないところに、その家の青壮年の死体が1つか2つ転がっているのでした。人々は泣きもせず、話もせず、間が抜けて、感覚もなしに、くり返しくり返し「掃蕩(そうとう)」にやってくる侵略者に捜査されるに任せ、家中のちょっとでも銭になるものは洗いざらい持っていかれ、かめや壷や缶などまでも門の外に持ち出され、落として粉々にされてしまい、鶏や豚などの家畜は、言うに及ばずでした。
 この日本軍10数人は、邁皋橋の通りのかたわらのある農家の家に落ち着きました。彼らは自分たちの欲しがる金目の物、金銀首飾りなどを捜索して略奪したほか、人を捕まえて虐殺しました。2,3日で、無辜(むこ)の農民を13人捕まえ、その中に軍人で変装したのがいたのかも知れませんが、とにかくその13人を閉じ込め縛り付けました。3日目に、その人たちは日本軍に家の後ろの小さな沼に連れて行かれ、1対1で「射撃練習」の的にされて銃殺されました。私の任務は毎日米を研いで飯をつくることで、毎日夜が明けないうちに、池で米を洗わなければならず、この惨死した13の死体を一目見て、身の毛がよだってしまったのですが、それでも米を研ぎに行かなければいけなかったのです。ここに5日ほど泊まっていて、一度雪が降ったので、何とか死体に覆いをかぶせた恰好(かっこう)になりました。(続く)


   

  
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



軍隊のお金をみんなの


暮らしのために使う世界を。



Imagine,


A world that spends 

money


not on armies,


but on people's lives.

アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月23日木曜日

「大東亜共栄圏」のまぼろし

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

 3、「大東亜共栄圏」のまぼろし

 アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
 
 「大東亜新秩序の建設」
今度の対米英戦は、支那事変(日中戦争)をも含め大東亜(だいとうあ)戦争と呼称(こしょう)する。
大東亜戦争と称するのは、大東亜の新秩序建設を目的とする戦争であることを意味するもので、戦争地域を大東亜のみに限定する意味ではない。(要約)

 「大東亜の新秩序建設」というのは、1940年7月に近衛文麿(このえふみまろ)内閣によって発表、宣伝された構想です。日本がドイツ、イタリアと同盟して欧米列強の世界支配を崩壊させ、欧米勢力の植民地支配から「アジアを解放」して、「八紘一宇(はっこういちう・・・世界を天皇のもとに1つの家とする)」の「大精神」のもとにアジア諸民族がともに栄える「大東亜共栄圏」を実現させる、というものでした。
 日本は占領した先ざきで神社を建て、神道(しんとう)を強制して天皇を現人神(あらひとがみ・・・人の姿となってこの世に現れた神)として崇拝させようとし、学校教育その他の場で日本語を「東亜の共通語」として学ばせようとしました。


「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)この日本軍一個小隊の人馬は、命令で戦場を掃蕩しに出てきたもので、海軍部から薩家湾へ向かう街路を行ってから、城壁に懸かる側へと曲がりました。そこはほとんどが城内の野菜農家で、どこの家の小屋のかたわらにも、年寄りや子どもが、戸口にぼんやり座っていましたが、どの家からも遠くないところに銃殺された青壮年の男の死体が1つか2つ転がっていました。その人たちはいわゆる戦場掃除の日本軍に2度、3度と捜索されて、家に入って行かれなかった人たちだったのです。
 この方向を、ぐるっと一巡りしてから、又挹江門を出て、まっすぐ中山埠頭に突き当たりました。その道は江辺と同じように、どこも銃殺された死体がいっぱいで、人が死体の上を歩き、車が死体の上を転がって、平たく押しつぶされた頭や腹、脳みその飛び散ったのと、見るも無惨なありさまでした。
 この10数人の日本軍が、中山埠頭の左側にある家屋に泊まって夜を過ごすことになり、赤々と火を焚いて、私に兵隊たち皆の飯ごうに米を入れさせ、手探りで岸まで洗いに行かせ、それから火に掛けて飯を炊かせました。この晩に私が一生忘れられないことが2つ起こりました。1つは、歩哨を置いたのが海軍の陸戦隊で、歩哨に立った水兵もしょっちゅう家に入って来て火に当たるのですが、入ってきてからいつも小銃の先っぽの剣に付いた血をぬぐうのです。それは大概昼間生き残ったのが夜になって逃げようとして、銃剣の下に死んだものでしょうが、と言うのは日本軍が家に入ってくるときは、いつも叫び声が聞こえてきてから、入って来て銃剣の血をぬぐうのだからです。2つ目は、私を捕まえてきた日本軍が食べ終わってから、私を引っ張り出したので、私はてっきり私を殺そうとするのだと思いました。出てから真っ暗闇の真夜中に、私を引っ張ってあっちを手探り、こっちを撫で回しで、触れるのは死人ばかり、固くなったのもあり、刺し殺されたばかりのもあり、探るたびに血がべったり付くのです。最後に手に触れたのが小さい乗用車2台で、その車からソファのマットを引っ張り出して初めて、眠るのに使うのだと分かりました。(続く)


   

  
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん


世界から戦争のなくなった


平和な世界を。



Imagine,



A peaceful world 



without war.




でも、どうやったら


そんな世界がやってくるのか




一つひとつ考えてみよう。


But,how can such a 


world be made?


let's think about it.



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月22日水曜日

アジア太平洋戦争

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

2、アジア太平洋戦争

 日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。

 第二次世界大戦の一環となる

日本に続いてドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したので、戦争は文字通り第二次世界大戦となりました。
 長期にわたり戦争を計画、準備してきた日本軍は、イギリス軍やアメリカ軍がヨーロッパの戦争を優先して戦闘準備が整っていなかったため、両国の軍隊を次々と攻撃して撤退させ、開戦後半年のうちに、イギリス領のマレー半島・香港・シンガポール・ビルマ(現ミャンマー)、オランダ領東インド(現インドネシア)、アメリカ領のフィリピンなど、東南アジア、南太平洋の一帯を占領して軍事支配化に置きました。


「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)私が日本軍にくっついて和記洋行から出て、煤炭港の汽車を渡す船の埠頭を抜けて行くと、銃器や弾薬、軍用の糧食に被服、民間の財物などが山と積まれていて、誰も関与する者がいないのでした。煤炭港の渡し船埠頭を通り越した途端、全く驚かされたことには、死体があちらにもこちらにもごろごろしていて、首が斬られてぶら下がっているものもあり、身2つになっているのもあり、腕を切られたり腿を切られたりしているのもありで、死人が死人を押し付けているのでした。煤炭港から駅の方へ行くと、敵軍が9人軍刀で人を斬っているところで、2人の人の頚が斬られて2つになっているのを、日本の将校がハッハッハと大笑いしているのでした。下関駅の近くの広場でも、殺された人は似たように状態で、何十匹もの軍馬も難を免れてはいませんでした。私はこんなにも凄惨な場景を見て、すごく恐くなりました。夢中でくっついて行き、下関駅を抜けて、挹江門外のある湖の辺りの小学校の中まで行きました。この3人の日本軍は全く附いてなくて、ここに日本軍が10人足らず泊まっていて、3人が来たら出発しようと待っていたのですが、門から入ったところで上官に出くわし、3人とも2つずつ物すごい横びんたをなぐられ、又くどくど何か話した後、出発となりました。私はこの様子を見たので、馬を3人に渡して、又和記洋行に帰ろうとしたところが、何と1人1人に打たれ、腹いせが私の頭上にかかってきて、3度も物すごく横びんたをなぐられ、付いて行かされてしまいました。
 10何人かの日本軍が、私というこの馬をひいた子どもを連れて、学校から出、挹江門の方向へ前進しました。道路はどこも昨日虐殺された死体ばっかしで、血がまだ地上に流れていたり、崩れて頭だかなんだか分からなくなっているのがあったりで、そんなのがごろごろ転がっていました。挹江門まで来た時、城門の高殿はもう焼かれてしまっていながら、城壁の上からは死体が幾つか縄で吊り下げられているのが見えました。挹江門を入ると、道に沿って少なくない死体があり、海軍部の門まで来たら、又もや一面の死体で、血が流れ流れて、道路が真っ赤に染まっていました。その日私は江辺で列にもぐり込んだ時に拾った白力士(パイレックス)の靴を履いていたのですが、たちまちの内に赤力士の靴になってしまいました。(続く)


   

  
「Imagine9」【合同出版】より



MESSAGE(メッセージ)



環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。


ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月21日火曜日

アジア太平洋戦争

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

2、アジア太平洋戦争

 日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。

 マレー半島上陸と真珠湾攻撃

日本が東南アジア侵略へ動き始めると、アメリカは日本への鉄鋼、くず鉄の輸出をストップし、ついで石油の輸出も止めました。イギリス、オランダもこれに同調して日本に対する経済封鎖を強めると、日本の軍部は危機感をつのらせ、「ABCD(America,Britain,China,Dutch)包囲陣」の圧迫をはね返すには戦争以外に道はないと、日本国民に宣伝するようになりました。
 1941年12月8日未明、日本の陸軍はイギリスの植民地であるマレー半島上陸作戦を行ない、イギリス軍に奇襲攻撃をかけました。続いて、海軍航空隊がハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけた後、日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告を行ない、アジア太平洋戦争が始まりました。



「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)私たち9人も、かき集めて筏を1つ組み終わり、午後4時過ぎに、筏に乗って正に岸辺を離れようとしていた時に、軍人が1人やってきて、自分を連れて行かせようとし、筏に乗った途端に、筏が沈みそうになりました。これを見てこの軍人は、銃に弾をカチャッと詰めて、強引に私たち何人かを降ろし、自分を先に行かせようとしました。私ともう2人とが降りるしかなく、そいつが後の6人と一緒に長江が流れるままに漂って行きました。それが何と私が今日まで生きてこれることにつながったのですが、と言うのは、その日既に敵の海軍が燕子磯の川面を封鎖していて、凡そ長江を漂って行った船なり筏なりは、大きな船や小さな船やで長江を渡った軍人や民衆を含め、ほとんど日本軍に掃射されて死に、沈没した筏もありで、1つとして生きて帰ったのは無かったからです。
 午後5時以後は、敵軍はもう小河を過ぎ、江辺にひしめいている軍人や民衆へと迫っていました。6時頃に、煤炭埠頭を過ぎ、もうじき和記洋行に来ようという時、人が益々いっぱいで堪らなくなりました。その時、和記洋行のイギリス人が出てきて、軍人に武器を差し出し、洋行の区域内に避難するようにと、大声で怒鳴ったので、銃を持っていた軍人たちが次々に銃や弾薬を放り出し、私たちもひしめいている軍人や民衆にくっついて和記洋行の大きな内庭に避難しました。
 12月14日は、どんより曇り寒かったです。午前中に、私たちは江辺へ行って鉄兜を1つ拾い、薪と米とを少し見つけて来て、何か食べるものを作り、一日も何も食べずにいたすきっ腹に詰め込もうとしたのですが、お粥がまで煮えないうちに、日本軍が何人かやってきて、1人1人身体検査をされました。その数人が行ってしまうと、何人かがまたやってくる、といった調子で引きもきらず、若い婦女子は連れて行かれ、みんなが持っていたお金や物を取られる、といった具合に避難していた軍人や民衆がやられ、みんないっそのこと外套のボタンをはずしっぱなしにするほどでした。午後5時頃に、私たちが丁度お粥を食べようとしていたら、又もや日本軍が3人、馬を一匹ひいてやってきて、身体中を探してから、日本軍の1人が私に「その子ども、来いや」と言うので、おとなしく言いなりになりましたら、馬をひかされ、醤油の小さな桶とかますに入れたなつめの蜜漬けとを持たされて、付いて行かされました。ああ何と、私は2日も食べてなくて、今度のお粥もまた食べられなかったのです。(続く)


   

  
「Imagine9」【合同出版】より



はじめに


戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
 世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
 日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
 それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
 世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月20日月曜日

アジア太平洋戦争

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

2、アジア太平洋戦争

 日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。

 ヒトラーの戦争に便乗した日本

1939年9月1日、ヒトラーを総統とするナチスードイツがポーランドに侵攻すると、イギリス・フランスはただちにドイツに宣戦布告をして第二次世界大戦が始まりました。その後の40年5月、ドイツはオランダへの侵入を皮切りに電撃戦を進め、翌6月にはパリを占領してフランスを降伏させ、ついでイギリス本土への空襲を開始しました。
 日本の戦争指導者たちは、ドイツの勝利に便乗して、主人のいなくなった東南アジアの植民地をそっくり手に入れ、石油、錫(すず)、ゴムなどの軍需物資を獲得できる絶好の機会が到来したと考えました。さらに「援蒋(えんしょう)ルート」を遮断して中国を降伏させ、日中戦争の泥沼化を解決できるとも考えたのでした。
 1940年9月、日本軍は北部仏印(フランスの植民地であった現在のベトナムの北部)を侵略し、ほぼ同時に日独伊三国同盟を結び、ドイツとの結びつきを強めました。41年6月にドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まると、日本軍は7月に南部仏印に進駐し、サイゴン(現在のホーチミン市)周辺に航空基地と海軍基地、陸軍の輸送基地の建設を始めました。

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 (昨日の続き)23時頃に、江辺まで来て、部隊は解散になりました。江辺は人がいっぱいで、兵隊だったのが大多数でしたが、一部は庶民も混じっていて、どっと江辺に押しかけ、先を争って船に乗り長江を渡ろうと待っているのでした。けれども、ただ人がぞろぞろ右往左往するのが見えるだけで、夜中過ぎになってもまだ1人も渡って行かれません。後でやっと分かったのですが、昼間にたった一隻汽船が出ただけで、それからは長江が封鎖され全く一隻も渡れなくなってしまったのです。
 12月13日。夜が明けると、下関の江辺に押し合いへし合いしていた兵士や民衆は十数万はいて、それが頭のいない蝿のように、将校は兵を探し、兵隊は将校を探すで、ごしゃごしゃになっていました。私たち大平路の9人は、この機に乗じて城内に帰って家の者と一緒になろうと思い、大通りのある横丁を曲がろうとした時に、丁度そこに集まって来ていた2隊の兵士たちと出くわし、有無を言わずに、互いに撃ち合うことになりましたが、私たちは徒手空拳の庶民ですから、この勢いからして、恵明橋の方へと走って行き、河辺の民家にもぐりこむことになりました。これはどうもまずかったようで、小さい河のその辺はもう敵軍が占領しており、家に駆け込んで来るのを見れば、機関銃や小銃で一斉に撃ってきたり、我が軍の防護部隊でも、私たちの方に撃って来たりでした。敵味方双方がひとしきり撃ち合った後、私たちは双方が小休止した機に乗じて逃げ出し、やはり江辺に戻って行きました。
 押し合いへし合いの人の群や将兵たちが、果てしなく流れる長江を見渡しているのですが、その東へ向かってうねり逆巻く流れには、人の死体や獣の屍、木材、家具、船など等が漂っているのでした。けれども人々は絶望したわけではなく、生きようとする本能からと、国を忘れた輩にはなりたくないとの想いから、4,5人が一塊になり、8,9人が一群になりして、商店の戸板やら勘定台やら机や椅子やらをはずしたり壊したりしては、江辺まで持ってきて、筏に組んだりしていました。ある者は車のタイヤをはずしたり、浮桟橋の錨や鎖をノコギリで切断したりで、とにかくありとあらゆる方法を思い付き、いちるの望みさえあれば、長江を渡って行こうと、しっかり組んだ筏に乗れるだけの人が乗り、竿を一差ししては、沖へ漂って行くのでした。(続く)


   

  
「Imagine9」【合同出版】より



考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。



日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
 2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。

 また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
 そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月19日日曜日

アジア太平洋戦争

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?



『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

2、アジア太平洋戦争

 日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。

 日本の戦争準備

日中全面戦争に突入する前年、1936年6月に、日本はアジア太平洋戦争の戦争計画になった次のような「帝国国防方針」を決定しました。そして陸軍を中心にしてソ連と戦争をするための軍備拡張を進める一方、海軍を中心にしてアメリカ・イギリスと戦争をするための軍備強化につとめました。

 ■帝国の国防は、日本と衝突の可能性が大きく、強大な軍事力をもつアメリカ、ソ連を目標とし、あわせて中国、イギリスとの戦争に備える。このため帝国の国防の兵力は、東アジア大陸ならびに西太平洋を征圧するという国防方針を実現するものが必要である。(要約)
     
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 孫歩方(男、64歳)の証言 

 1937年には、私は14歳で、南京の大平路54号の新華刻字印刷店で見習いをしていました。
 「7・7」事変以来、日本軍の飛行機がしょっちゅう南京に爆撃に来ていて、防空のためと言って、南京市が防空演習をやるので、演習の時はどの商店からも1人出して防護団に加わり、警察当局の秩序維持に協力していました。その頃、私はいつもうちの店の毛師匠の替え玉として参加する最年少の防護団員でした。11月20日頃かに、唐生智南京防衛司令長官の布告が街に張り出され、南京城の防衛に全住民が総動員されることになりました。兵隊になったのが毎日街を歩いては男をつかまえて人夫に徴発し、防護団員も含めて、毎日中山門外の明孝陵の近くへ防御工事で穴掘りに行かされました。11月下旬のある日、どんより曇って寒い日でしたが、朝科巷警察局まで行き中山門外へ塹壕を掘りに行くのを待っていました。ところがその日は集合した後中山門へは行かないで、和平門外へと向かいました。城外へ出たところで、私たち大平路沿いの数十人の防護団員が、城内守備部隊と一緒にされました。その日から私たちは自由を失い、家の人と連絡できなくなりました。年の若い力の強いのは36師の兵員を補充し、体力の無いのや年を取っていたり年が小さいのはやはり防御工事の穴掘りに行くことになりました。私たちは毎日紫金山の玄武湖に沿ったところで、昼間は穴掘りをし、夜は和平門外にある家に閉じ込められ、兵隊が番をしていました。補充兵員になったのが行った後、私たち太平路のでまだ一緒にいたのは9人でした。
 12月12日の晩、真っ暗になって、晩ご飯を食べた後、緊急集合させられ、私たち部隊にぴったり付いて、鉄道線路に沿って歩くということで、いかなる状況にあっても話をしてはいけない、逃げるものは直ちに銃殺する、という命令が出ました。部隊に付いて線路沿いに下関の方向に歩いて行きましたが、道々絶えず合言葉で尋ねる声が聞こえたり、時には答えがはっきりしなかったり、それに弾を銃に詰めるカチャッカチャッという音が聞こえたりで、とても緊張した雰囲気でした。


   

  
「Imagine9」【合同出版】より



考えてみよう、


日本の憲法9条のこれから。



「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月18日土曜日

アジア太平洋戦争へ

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?


1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

1、日中全面戦争

満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。

 日中全面戦争からアジア太平洋戦争へ

重慶に移転した国民政府は、ビルマ(現ミャンマー)方面などからのいわゆる「援蒋(えんしょう)ルート」(蒋介石政府を援助するルート)により、アメリカやイギリスなどから軍需物資の供給を受けながら抗日戦争を続けました。アメリカやイギリスが中国支援を強め、日本への経済制裁を強めるようになると、日本は軍需物資を確保するために東南アジアへの進出を目指すようになります。
   
     
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 ○玉昆(男、67歳)の証言   ○・・・辞典に見当たらない字

 中国侵略日本軍が南京大虐殺をした時、私は17歳で、三汊河の揚子小麦粉工廠(今は有恒麺粉廠)で門番をしていました。私は日本兵が同胞を虐殺した虐殺ぶりをこの目で見ました。
 三汊河から水西門まで、ずうっと死体が地にあまねく横たわっていました。この1つながりだけで、万人坑が5つもあるのです。老虎門の付近に1つ、水西門の近くに1つ、漢中門外の黄土山の下に1つ、三汊河の高鼓村の向かいに1つ、大同小麦粉工廠(今の鶏鴨加工廠)の裏門の倉庫の外に1つです。この5つのくぼみが、後にみんな屍でいっぱいに詰まったのです。
 日本兵が入ってきて3日目に、とっくに武装解除していた百人余りの中国兵が日本軍に三汊河で捕まり、真一文字に並ばせられ、1人又1人と日本兵に突っつき殺されるのを、私はこの目で見ましたが、何とも見るに忍びない残忍さでした。
 農暦11月27日に、私は日本兵に有恒小麦粉工廠の階上へ駆り立てられました。その階上から見えたのですが、日本兵が三汊河で中国兵を7名捕まえ、それぞれに1つずつ穴を掘らせ、日本兵が銃で6人ぶち殺して、穴に叩き込み、7番目の中国兵に、先の6人の穴を平らに埋めさせてから、日本兵はこの男に「カイルー(開路=引導する、帰る)」させました。この人は7人の中での唯一人の生き残りです。この人は私たちと一緒に何日か過ごしましたが、名前は王有道と言い、河南省の開封の人で、まもなく故郷に帰って行きました。
 1938年の3月に、私はたった一人で出てきて、三汊河一帯で薪をちょっと拾って焼酎を造ったところを、風呂屋をしている杜文甫と徐三の主人に見つかり、私をこそ泥だと日本兵に誣告(ぶこく)されました。日本兵が大同小麦粉工廠の門の柱に私を縛りつけ、軍用犬を放って私に向かわせたので、衣服が全身噛み裂かれ、腿(もも)に噛みつかれ、右の耳をやられました。しかも残酷な日本兵は更に日本刀の峰を私の頭上に二太刀振り下ろし、その場で私は昏倒してしまいました。気が付いてから、通訳官に事情を話し説明してもらって、やっと放してもらいました。今も私は太股(ふともも)と頭に傷痕があります。(李文奎と劉雯と馮中美が記録)

 
「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。
(アメリカ、40代・女性)

・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)

・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。
(インド、50代・女性)

・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)

・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月17日金曜日

2つの戦場

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?


1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

1、日中全面戦争

満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。

 2つの戦場

 1939年までに日本は約85万の陸軍兵力を中国に送り込み、重要都市と鉄道線路のほとんどを占領しましたが、中国の抵抗をやめさせることはできませんでした。日本は、国民党副総裁で蒋介石に次ぐ地位にあった汪精衛(おうせいえい)を重慶から脱出させ、1940年3月、南京に国民政府(汪精衛政権)を作らせましたが、この傀儡政権を支持する中国国民はほとんど無く、日本の工作は失敗しました。
 一方、中国共産党が指導する八路軍(はちろぐん)と新四軍(しんしぐん)は民衆を民兵に組織し、日本軍の占領地を解放して抗日根拠地を築き、勢力を拡大しました。衝撃を受けた日本軍は、解放区の徹底的破壊をめざす「掃討戦」を押し進めるようになりました。日本軍は正面で国民政府軍を攻撃し、後方では共産党軍と戦うという2つの戦場を持ったのです。
  
     
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 徐吉慶(男、71歳)の証言

 1937年に、私は南京の山西路に住んでいました。日本の軍隊が入ってきたとき、私たちは大方巷の角の華僑招待所の大講堂に集められて住まい、難民キャンプと呼ばれましたが、そこにはおよそ2000人余り住まっていました。12月中旬のある日の朝、日本の将校何人かが兵隊何人かと通訳1人を連れて難民キャンプにやってきました。将校がぼそぼそと何かを言うと、通訳が「これから日本の皇軍がお前たちを送って帰らせてやる、自動車で送ってやる」と言いました。やがて車20台で、1台に40人ぐらい乗せて、ここの人たちを連れて行きました。後で分かったのですが、実際は下関の三汊河まで引きずって行って全部銃殺したのです。明くる日はとてもいい天気でしたが、朝うんと早く、やはりあの将校数人と、兵士と通訳とが難民キャンプにきて、車20台で初めの日に運びきれなかった人たち全部を乗せて行きましたが、どの車にも機関銃が一挺据えられていました。私は4台目に乗せられました。車は新街口の中央銀行の大きな内庭に停まりました。将校が又何か日本語を言っても、私たちは分からず、通訳が「年取った者、若いの、男、女、小さい者に分かれて立っているように」と言いました。将校が又何か言って、通訳が又言いました。「ここに留まって皇軍のために働きたい者は誰でも、留まってよい。やりたくない者は、難民キャンプに送り返してやって、明日また話し合うことにする」。結局1人も留まらずに、日本軍は私たちを難民キャンプに送り返しました。3日目の朝、7時ごろになってようやく、彼らがほとんど又やってきて、私たち1千人余りを、縄で別々に縛ってから、6人ずつ一緒にして縛り、車20台に押し上げたのですが、車にはやはり機関銃が据えられていました。まっすぐ三汊河まで走って停まりました。一目見てまずいことに、周りがずっと機関銃でした。私たち6人一列に立たされました。私は後ろ側に立ち、河辺りのすぐ脇でした。銃声が響くや、私は倒れたのですが、実際は弾に当たっていませんでした。夜の12時になっても、日本軍はまだ行ってしまわず、活きているのがいるのを恐れて、銃剣で1人ずつ突っついて歩いているのです。私は死体の下になってて、突き刺されても届かなかったのです。夜の1時過ぎに「どいつもこいつも、スーラスーラトィ【死んでしまえ、死んじまえ】」と日本人が言っているのが聞こえました。彼らが行ったので、そうっと頭をあげたら、同時に死体から3人もが頭をあげました。一緒に死体の堆から這い出したら、全身血だらけで、私は鼻からも血が流れており、おそらく緊張し恐かったためだと思われました。私たちは河辺まで這って行き血を洗い落とし、大変な苦労をして逃げ出して来たのです。(沈珍昌などが記録)


「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)

・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)

・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)

・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)

・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月16日木曜日

日中全面戦争

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?


1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

1、日中全面戦争

満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。

 中国への全面侵略の開始

長期泥沼の戦争へ

 南京は占領したものの、蒋介石(しょうかいせき)政府【中国国民政府】を屈服させることに失敗した日本は、翌38年1月16日、「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という近衛首相の声明を発表し、蒋介石政府を滅ぼすまで戦争をすることを宣言しました。
 国民政府が武漢に軍・政府機関を移して抗戦を続けると、日本は大軍を動員して武漢作戦を行ない、一方、香港・広東からの国民政府への物資補給を絶つために広東作戦も行いました。
 日本軍は38年10月に武漢と広東を占領しますが、蒋介石政府はさらに奥地の重慶に首都を移して、あくまでも対日抗戦をつらぬきました。日本が長期にわたり中国侵略戦争を行なうことになったため、植民地朝鮮も戦時体制に動員され、朝鮮人の苦痛が強まることになりました。

 
     
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)日本軍はそれにいたるところで略奪しました。大同小麦粉工場の唯一残った倉庫と、有恒小麦粉工場とに、小麦粉や小麦や米などの穀物が大量にしまってあり、そのほかの大商店にも大量の穀物が貯えられていたのですが、日本軍が難民キャンプの人たちに強制し、毎日日本軍のために穀物や物資を運ばせたのです。
 日本軍が南京で大虐殺をやったことによって、我が同胞の被害は30万以上に達しました。その頃南京の市内も市外も、いたるところみな死体で、多くの住民の家にも屍があるのでした。正に草生す屍が野にあまねく、水く屍で秦淮河が血に染まり、とりわけ三汊河、江東門、水西門、小営などでは、数万もの人々が殺害されたのです。三汊河の木橋から河が長江に注ぐ河口まで死体がうずたかくなり、水面には無数の屍が浮き沈みしていました。(ここでは虐殺は一昼夜にわたり、そこから私は生き残ったのです)。暴虐な日本軍は、世界の人々の耳目をくらまそうと、大急ぎで難民キャンプにやってきては青壮年を捕まえて、毎日死体を埋めに行かせ、私も駆り出され15日間死骸を片付けたのでした。人手が不足していて、こんなにもたくさんをどこに埋め尽くせるでしょうか?日本軍は強く命じて全ての死体を三汊河に投げ込ませ、長江へと押し流したのです。日本の軍国主義は中国人民のこの血による債務を負っており、その罪業のほどは筆紙に尽くせません。
 日本軍が南京で大虐殺をしていたときに、私が数々の危難を経巡って、命拾いをし、今日まで活きてこれたのは、容易なことではありませんでした。今や私たちは国家として既に独立し世界の国々に伍していますが、中国人は誰一人として過去を忘れることはできず、、誰しもが家を守り国を防衛し、わが国をして主権を持って独立し、領土を保全し、人民に自由で幸福な生活をさせ得る国家たらしめるよう努めねばなりません。(段月萍が駱中洋の1987年からの手紙に基づいて整理)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)

・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)

・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)

・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)

・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月15日水曜日

侵略戦争

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?


1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の侵略戦争

1、日中全面戦争

満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。

 中国への全面侵略の開始

 1937年7月7日夜、日本軍は北京郊外で盧溝橋(ろこうきょう)事件を起こしました。日本はこれを中国軍が不法に射撃したからだという口実をつけて、一挙に華北一帯を占領しようと軍隊を送り込みました。上海では、海軍が中心となって、8月13日に戦争を起こし(第二次上海事変、淞滬(しょうこ)抗戦)、翌14日には、海軍航空隊が上海、杭州(こうしゅう)などを爆撃、続いて15日には中国の首都南京を空爆しました。
 日本の近衛(このえ)内閣は上海にも大軍を送り込み、3ヶ月にわたる激戦ののちに上海を占領しました。日本の軍部と政府は、首都南京を占領すれば中国軍は日本に屈服し、日本の支配を認めるようになると考えて、総勢約20万の日本軍を南京占領のために送り込み、1937年12月13日には南京を占領しました。この時、世界から非難された南京大虐殺事件を引き起こしました。
 

     
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)それと又、日本軍は何度もいろんな難民区へ行き男の青壮年を、無理やり広場の空き地に集めて、1人1人別々に高い机の上に立たせ、下にいる群集の中の家族に引き取らせるのでした。もし台の下に「私の息子です。私の夫です」と言う人がいれば、家につれて帰らせますが、もしも台の上に立った人に、引き取れる親族が台の下にいなかったら、日本軍が別のところに追い立てて集団虐殺するのです。私はよその省の広東人で、初めて江蘇にやってきて標準語ですらよく話せないのに、どうして親戚や家族が南京にいるでしょうか?私が台に立つ番になり調べられた時、それはちょうど陰陽の境界線に到ったかのような、正に生死の関頭に立った一刻でした。幸いなことに台の下にお年寄りが2人いて、その1人がこの男は自分の息子だと言い、もう1人がこの男は自分の甥だと言ってくれたので、私は平安にも下に降りられたのでした。この2人の私の命を救ってくれた優しい人が、1人は鄭宝さんと言い、もう1人は華正清さんと言うのが、後に分かったのですが、私はこのお2人の恩に報いるため、それ以後お2人を義父と思い、その晩年の生活の面倒を見させてもらっています。
 日本軍はそれに婦女を強姦しました。日本兵が毎日十数回も難民キャンプにやってきて、中年や壮年の婦女を刀や銃で威嚇して外へ引き出し強姦したり、輪姦したりしました。ある若い婦女が、顔に灰を塗りたくり、醜女みたいな身なりをしましたが、それでも日本兵に犯されるのは免れがたく、日本兵が来るのが多すぎたりすると、年取った婦女も害を受けるのでした。輪姦されるのが余りにも多くて、人里はなれたくぼ地に死んで難民キャンプに戻ってこなかった婦女もいたのです。
 後に私は死体の片づけに参加しましたが、女の屍数十を発見し、下半身に何も着けていなかったり、下の部分は腫れ上がったりしていて、日本軍が輪姦してから死に至らしめた証となっていました。 日本軍が南京を陥落させた後、むやみに建物を焼き、城内も城外も焔(ほのお)がめらめらと天を突き、城内の以前の外交部や、三汊河の大同小麦粉工場など、いずれも赤々と燃えていました。そのほか、下関の龍江橋の長江沿いの大通りは全部焼けただれて廃墟となったのです。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



世界は、


9条をえらび始めた。



・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)



・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)



・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)



・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)



・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月14日火曜日

上海「義挙」とユンボンギル

まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?


1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 上海「義挙」と尹奉吉(ユンボンギル・・・1908-1932)

 1932年4月29日、尹奉吉は韓人愛国団長である金九(キムグ)と朝食を終えた後、誓いの言葉を読み上げました。
 「私は、誠心誠意、祖国の独立と自由を回復するために、韓人愛国団の一員となり、敵軍の将校を殺害することを誓います」
 その日の午後1時ごろ、上海虹口(ホンキュ)公園で天地を揺るがす爆発音がとどろきました。爆発が起こったのは、上海を占領した日本軍が開催した天皇誕生日の祝賀会場でした。壇上に座っていた軍司令官・白川義則をはじめとする高官らが死傷しました。修羅場となった会場で、声を張り上げ「大韓独立万歳」と叫ぶ青年がいました。その日の朝、「敵の将軍を殺害する」と固く誓った尹奉吉でした。
 その場で逮捕された尹奉吉は軍法会議で死刑宣告を受け、同年12月19日に処刑されました。死を前にした彼は、2人の息子に遺言を残しました。

■お前たちにも血が流れ、骨があるのなら
きっと朝鮮のために勇敢な闘士となれ
太極(たいきょく)の旗(韓国の国旗)を高く掲げ
私のなきがらのない墓を訪ね
一杯の酒を注いでおくれ
お前たちは父がいないことを嘆くなかれ
愛する母がいるのだから

 一身をなげうっての尹奉吉の「義挙」に、中国民衆と国民党政府は感動し、朝鮮の独立運動を積極的に支持するようになりました。世界の人々も朝鮮の人々が日本の侵略にどれほど憤っているかを知るようになりました。

    
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)私たちは大急ぎで紅卍字会の人を探しに行き、難民証を2枚発行してくれるように頼みました。あんたたちはどこの人か、と聞かれたので、広東人だとそのままに答えました。自分たちは江蘇省の人と南京人にだけ出せるので、広東人には出せない、と会の人は肯ぜず、私たちはその人にずっとぴったり引っ付いて、助けてくれと要求したのですが、応えてくれませんでした。私たちはほかにも多くの人に当たったのですが、難民証のことは解決できず、紅卍字会の人に頼んではじめて出してもらえるのだと誰もが言うので、私たちはうろうろするばかりで、万策尽きてしまい、初めに戻って又あの紅卍字会の人に会いに行きました。その人が又「あんたたちはどこの地方の人か」と聞くので、「江蘇の人間です」と答えると、「あんたたちは初め広東人だと言い、今は又江蘇人だと言い直している、やはりあんたたちに難民証は出せない」と言うのです。難民証がなければいつ何時日本軍に銃殺されるか分からないのが私たちには分かっているので、その人に付いて歩いて、その人が行く所はどこにでもくっついて行きました。歩いているうちにその紅卍字会の人が、地べたから難民証を一枚拾ってくれたのですが、これが人の命に関ることなもので、私たち2人が互いに奪い合うこととなり、結局その男に持っていかれてしまいました。私は焦って心臓をばくばくさせながら、ずっとその人の後ろにくっついて行ったのですが、その人の前方百メートルの所に、又もや実弾入りの銃を担ぎ、銃に剣をつけた日本兵が数人やってきて、真正面からこっちに歩いてきた、その正に差し迫った危機に、不意に又その紅卍字会の人が地べたから南京難民証を一枚拾ってわたしにくれたのです。どんな風だったか私には見えなかったのですが、私にはその人が私の命を救おうとしてくれたのだと思われます。服につける針と糸が無かったので、左手で難民証を左胸の前に押し付けるしかありませんでした。すぐにも日本兵が私たちの目の前にやってきて、私たちが難民証を付けているのを見、紅卍字会の人に「良民か」と聞いて、「良民です」と答えてくれました。それで日本軍が「よし、よし、行け、行け」となり、すぐに私は難民キャンプに入ったのです。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界



「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月13日月曜日

中国東北地方への侵略

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 張寒暉と抗日歌曲「松花江のほとり」

 日本が満州事変を起こすと、憤激した中国の各界の人々は、次々と大規模な抗日救国運動に参加していきました。1936年、陝西省(せんせいしょう)立西安2中(現在の陝西師範大学付属中学校)の教師であった張寒暉(1902-1946:河北省定県の出身)は、大衆の抗日救国運動に励まされて歌曲「松花江のほとり」を作曲しました。国を愛し故郷を想う気持ちのあふれたこの抗日歌曲は、学校から軍隊へ、そして万里(ばんり)の長城の内外、長江の南北へと、たちまち全中国に広まり、抗日戦争期の救国歌曲の代表作となりました。中国人民は、この歌を歌うと心が奮い立ち、抗日戦争に勝利するまで戦おうという気持ちを鼓舞されたのでした。
 張寒暉は、「松花江のほとり」の他にも「軍民大生産」など、70曲余りの抗日歌曲を作曲し、1946年3月11日延安で病死しました。張寒暉は、聶耳(ニエアル)や洗星海(せんせいかい)とともに誰もがその名前を知っている人民芸術家です。

 ■「松花江のほとり」の歌詞(澤地久枝『もうひとつの満州』より)
わが家は東北 松花江のほとり
そこには森林と鉱山 さらに山野に満ちる大豆と高粱(コーリャン)がある
わが家は東北 松花江のほとり
彼(か)の地には我が同胞 そして年老いた父と母がいる
ああ、9・18、9・18
あの悲惨な時から わが故郷を脱出し
無尽の宝庫も捨て去って 流浪、また流浪
関内をさすらいつづけている
いつの年、いつの月、私の愛する故郷へ帰れるのだろうか
いつ、私のあの無尽の宝庫をとり戻せるのだろうか
父よ、母よ、喜んで一堂に会するのはいつだろうか
  
   
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)支流の1つに来た所で、水にもぐり南へと進みました。私たちが願ったのは、第一になるべく早く日本兵の駐屯している区域から離れること、第二に民衆の船で家のあるのを一隻探して泊まり、身分を欺けるようにすることでした。みんなで20隻余りの船に乗って見たのですが、どの船にもお爺さんが唯1人眠っていました。(衣服など船にある財産を見守るのに留守をしていたのでしょう)。もう真夜中の3時か4時で、爺さん、爺さん、と何度も呼んだのですが、眠っていてびりっとも動かず、誰一人として起き出して私たちに答えてくれる人はいませんでした。その体に触って見たら冷たく、力を込めて抱き起こそうとしたら、体がこわばっていて、血がまだ流れているのもいました。その時やっと分かったのですが、留守をして船を看ていたお爺さんたち、善良な民衆たちもまた、1人又1人と日本軍に殺されたのです。それからは私たち手間取って遅くならないように、船に人が見えても、声をかけに行きませんでした。私たち艱難辛苦を経て、水路を行ったところ、ついに望みが出てきました。前の方の小さな船から赤ん坊の泣き声が聞こえ、きっとその船には人がいると断定した時は、うれしくてたまりませんでした。私たちはある船に乗るのに、2人で手足の泥をきれいに洗ってから乗ったところ、着る物がたくさんあったので、綿入れを2着それぞれ着て、庶民の恰好になり、そのまま船にいて前には行きませんでした。
 12月14日の夜が明けたばかりの頃、船の主が帰ってきて、私たちに出て行かせようとしました。私たちは岸には日本兵がいて、命の危険があるのだ、と言いました。船の主はあんたたちは難民証がないから、船にいても命の保証はし切れない、と言いました。私たちもそう聞いてもっともだと思い法雲時の難民区へ行ったら、そこにはお爺さんお婆さん、中壮年、婦女子や児童がいて、私たちはその人の群に混じって、その人たちの家の人にさせてもらいました。けれども日本兵がしょっちゅう検査にきて、着ている物をひっくり返して見せろ、手を見せろ、軍人だった痕跡があるかないか、難民証(良民証)がない奴は中国兵だ、引きずり出して殺しちまうんだ、というようなわけで、難民区の外側に、あちこちに死体がいっぱい散らばっていましたが、その人たちはこういう状況で死んだのです。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界



みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月12日日曜日

反満抗日闘争

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 4、東北人民の反満抗日闘争

 日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。

各階層民衆の抗日闘争

 満州のさまざまな階層の人たちが抗日闘争に身を投じていきました。1939年前後、日本が直接統治していた大連(だいれん)では、抗日民衆が「放火団」を組織して、日本の軍需工場や事業所を焼失させました。国民党系の地下組織は各地で秘密闘争を行いました。愛国者の伊作衡(いさくこう)は、錦州(きんしゅう)やハルビン、長春などで仲間と連絡をとりながら民衆を指導して、秘密裏に反満抗日闘争を行いました。しかし1943年に逮捕され、処刑されてしまいます。
 1941年1月、「満州国」空軍第3飛行隊の兵士85名が反乱を起こして日本軍の監視官を射殺し、抗日軍を組織しようとして、鎮圧されました。朝鮮族や満族、モンゴル族、オロチョン族などの少数民族の人たちも、東北人民とともに抗日闘争に参加しました。


 中国人民と肩を並べて戦った朝鮮人

 満州事変が勃発してから、満州の朝鮮人も武器を持って抗戦に立ち上がりました。満州北部には韓国独立軍、満州南部には朝鮮革命軍が組織されました。朝鮮革命軍は、中国遼寧(りょうねい)民衆自衛軍ならびに中国共産党が指導する東北抗日連軍と共同して、1938年までずっと活動しました。韓倹秋(ハンコンジュ)は、朝鮮革命軍の指導者の1人で、彼が作詞した下記の歌は、中国人・朝鮮人の連合抗戦の決意を歌っています。
 朝鮮人の中には、中国共産党の指導するゲリラ部隊、さらには東北抗日連軍に参加して、中国人と一緒に戦った人たちもいました。彼らは、日本人を満州から追い出せば、朝鮮独立の機会の到来もそう遠くないと信じたのでした。
 朝鮮人のゲリラ部隊は、武装闘争を続けながら朝鮮人の団結をはかるため、1936年から始めて、多くの地域に朝鮮人の祖国光復会を設立させました。これらの組織は1938年に日本当局に鎮圧され、瓦解しますが、戦いの意志は消えることはなかったです。

 ■中韓行進曲
 中国、韓国の同胞たち/戦いの日がやってきた/抗日決戦の時がやってきた/民衆自衛軍/朝鮮革命軍/共に生き、共に戦い、死を共にする戦友・・・・
(作詞者は、朝鮮革命軍第二方面軍司令官だった韓倹秋(ハンコンジュ)です。1937年初め、韓は、19路軍司令官・王凰閣(おうおうかく)が日本軍に捕らわれたので、部隊を率いて救出に行きましたが、王はすでに日本軍に殺害されていました。韓は一日中、泣き悲しんだすえにこの歌詞を書いたのです。韓倹秋も1937年6月、吉林省通化県の二段溝の戦闘において戦死しました。)

 
 
   
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)私たち3人は草葺き小屋に隠れていて、幸いにしばらくは殺されず難を免れていましたが、周りはみんな「ああ、のう」と絶え間ない日本兵ばかりでした。暗くなってから、不意に日本兵が1人入ってきて、私たち3人に3発撃って、出て行きましたが、3人には1つも当たりませんでした。その後すぐ、私たち相談して、ここを離れなければいけないとなりました。犬のように地を這いつくばり、頭だけ突き出して様子を伺うと、あちこちに明かりがともり、日本軍の歩哨が影法師になっていたりして、逃げようにも、天にも地にも隙間1つ見出せません。何度も考え直した挙句に、とにかく日本軍が宿営してからのことにし、水路から逃げるか、あるいは老人か子どもかのいる庶民の家まで逃げていって、その一員になるかすれば、何とか逃げおうせるかもしれない、と思いました。
 凡そ夜の11時前後に、私たち3人の内の1人が、先に壁のあなから這い出して行きましたが、その後の生死は不明となりました。とっても寒く、私たち広東から来た者は綿入れは着てなくて、冷え込んでたまらず、草葺き小屋の一角で、たまたま拾った布団わた2枚を体にかけて暖を取りました。けれども、やはり心配でたまらず、眠れる訳がありません。真夜中の2時ごろかに、不意に日本兵が2人入ってきて、軍刀をさげていながら銃は持っていないところから、輜重兵(しちょうへい)と思われましたが、その2人が古い布団わた2枚抱え、私たちのいる部屋のもう一隅で、頭からそれをかぶって眠ってしまいました。これはまずい、いつ殺害されるか分からない、と私たちは見て、直ちに壁のあなから這い出し、日本軍の明かりと歩哨とを避け、三汊河の上の方へ行きました。行ったとは言え、実際は両手両足で這って行ったのですが、三汊河一帯の大きな道も小さな巷も、ただ死体が無数に血の海に倒れているばかりでした。河辺には、死体がうずたかくなり、小山に小山が連なっているようでした。川面に一面漂っている死体はと言えば、水の流れに委ねたかのように、長江へと向かって行くのでした。
 手も足も気を付けて這って行くのですが、それでもしょっちゅう日本兵の警邏しているのに出くわします。すると私たちは面を伏せ、死体のうずたかい上に身を伏せビクともせずに、死人を装い、彼らをくらませてからまた這うのです。もっと惨めだったのは日本軍に半殺しになった人たちが少しいたことで、大声でわめきうめいているのが、涙を誘って止まないのでした。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月11日土曜日

反満抗日闘争

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 4、東北人民の反満抗日闘争

 日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。

 馬占山(ばせんざん)と嫩江(のんこう)橋抗戦

 満州事変を起こした関東軍は、遼寧(りょうねい)、吉林(きつりん)の2省をあいついで占領すると、黒龍江省(こくりゅうこうしょう)に侵攻しました。ところが嫩江橋において、黒龍江省の代理主席・馬占山が指揮する中国軍の頑強な抵抗を受けたのです。関東軍は何度か撃退された後、主力部隊と主力兵器を集中して激しい戦闘を繰り広げ、数ヶ月後にようやくチチハル市を占領しました。

 抗日連軍

 1935年前後、中国共産党の指導のもとで、満州の各地域の抗日武装勢力が連合して東北人民革命軍を編成しました。後に「東北抗日連軍」と改称して第1軍から第11軍まで、約3万人の兵力にまで拡大されました。
 これに対して関東軍と「満州国」政府は、「治安粛正(しゅくせい)作戦」(抗日勢力を撃滅して支配を安定させようという作戦)を強力に押し進めました。抗日連軍は何度も「討伐」を受けて食糧と塩、薬品などの補給を完全に断たれ、多くの兵士たちが日本軍の討伐と攻撃のたびに犠牲になりました。犠牲があまりにも大きくなったため、抗日連軍は兵力を温存するために国境を越えてソ連領内に入り、小さくなった部隊の結集をはかりました。
 1942年になると、抗日連軍の小部隊はソ連領内から満州へ戻り、日本軍の後方に深く侵入して、情報収集を行なったりして闘いを続けました。1945年8月8日にソ連が対日宣戦布告をすると、抗日連軍は満州に戻り、抗日闘争の最終的な勝利を迎えたのです。

 ▲楊靖宇(よう・せいう)
 抗日連軍第一路軍の総指揮官、1940年戦死。日本軍がその遺体を解剖してみると、胃の中には未消化の木の皮、草の根、綿などがあっただけだった。

 
   
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺



 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)群の中には熱い涙を流す者あり、大声で泣き叫ぶ者あり、不当な扱いを恨みわめく者ありで、嘆き訴える怒声が天を震わせました。私は心に思いました。17になったばかりの、こんなにも短い命で、今にも日本軍に殺害されようとしている。だけど、父母や家の人たちは私が外で殺害される様子をまだ知らないでいる。国破れて家滅びる恨めしさを私は感じましたが、同時に又人はどの道死ぬのだけれど、殺害されて死んではいまいましいとも想い、いちるの望みでもあるなら、起死回生を狙ってやろう、とも思いました。丁度その時、日本軍の親玉が私たちの殺害に刺し殺しを採用すると宣言しました。それで直ちに人の群の一番前の列から始めて、ゲートルで10人を1列につなぎ、引っ切り無しに河の水辺まで駆り立て、銃剣で刺し殺しては、河に倒れ込ますのでした。
 私は最前列から10数メートルしか離れていなくて、すぐにしばられることになりそうでした。とっさに思いついて私は、人の群の一番端っこから、大急ぎで一番後ろの列まで移りましたが、日本軍が私たち全部を殺しつくそうとする時には、最後は私の番になるのでした。私は後ろの空き地にうずくまり住民のあばら家に近づきましたが、その壁は芦の柴と泥とでできた間垣で、たくさんの人に押し付けられて、家も壁も壊れ、芦の柴が丸出しになっていました。午後の4時頃までに、三汊河で囲み込まれた兵士と民衆のうちの、7割ほどがもう殺されていました。冬という季節は、昼間が短く夜の長いものですが、空には一面に黒雲が立ち込めて、天もどんより地も薄暗く、やがて日が落ちるかのようでした。日本軍はできるだけ早く殺し尽くしてしまおうと、急に残った3割の人たちを、河辺りまで駆り立て機関銃で掃射しました。ちょうどその時、私はある人が芦の柴でできた壁をほじくって穴を開けそこからもぐり抜けて逃げて行くのを見ましたが、かなりの人が草葺き小屋の屋根を腹ばいになって逃げるのもいて、よく見えてしまうので、日本軍に機関銃で射撃され、死骸が屋根から転げ落ちてくるのでした。この機に乗じて、私と他のもう2人も芦の柴の土塀をほじくり草葺き小屋の隣の一部屋にもぐりこみ、しばらく隠れていてから、機を見て又逃げて行きました。
 まもなく暗くなろうという頃、河辺りに頻々と、機関銃の射撃のの音が聞こえていました。12月13日の午前9時から暗くなるまで、残忍野蛮な日本軍は、三汊河の沿岸で、わが軍と民との同胞2万人以上を殺害したのです。これはしかし、日本軍の虐殺のほんの一場面にしか過ぎないのです。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月10日金曜日

満州国

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 3、「満州国」の社会と経済

 日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。

植民地教育
 
 関東軍は満州を占領すると、反満抗日の教育を行なっている学校の教師と生徒を逮捕し、さらに学校を閉鎖しました。その後、植民地支配がある程度進み、秩序が安定し始めると、学校教育の回復と建設をはかるようになりました。小学校は「国民学校」と改称し、それまで合わせて6年間だった中学校と高等学校を4年間にして「国民高等学校」と名づけました。戦争政策に役立たせるために、基礎知識を学ぶ授業が大幅に削られ、実業教育の必要が強調されるようになりました。
 学校では、教師と生徒は、毎日必ず日本の天皇と「満州国」皇帝に向かって遥拝させられ、「国歌」を歌い、溥儀の『国民調』を暗唱させられました。生徒たちは日本語と修身(後に「建国精神」と改称)を学ぶことを強制され、「日満一体」「忠君愛国」の思想が注入されました。中国では、日本の統治時期に強制された「皇民化教育」のことを「奴隷化教育」と呼んでいます。
 

 ■依蘭(いらん)県国民高等学校学生の回想
 初代の副校長は中原という退役軍人で、軍閥の作風があり、いつも教師を譴責(けんせき)し、学生 を殴り、絶対君主としてふるまった。



 食糧の強制的徴収

 1939年、日本と「満州国」政府は日中戦争の長期化にともない、食糧500万トンを強制的に徴収する政策を決定しました。徴収量は毎年増加されてゆき、1945年には900万トンになりました。毎年秋の収穫期になると、当局は軍隊や警察を農村に派遣して穀物の徴収を監督したので、農民たちはやむを得ず、自分たちが食べる食糧や種まきの分まで供出しました。
 大量の穀物が軍隊の食糧として徴収されたので、都市住民の1人当たりの1ヵ月の食糧は、わずか5キロほどしかなく、ドングリなどの木の実や野草を食べて飢えをしのぐしかありませんでした。当局は一般の中国人が米を食べることを禁止し、従わない者は「経済犯」と見なして処刑することもありました。


 強制労働者の苦難

 関東軍は、満州を対ソ戦争の作戦基地にするため、1939年から「北辺振興計画」を進め、ソ連との国境地帯に大規模な軍事施設を建設するための工事を行いました。そのため生じた満州の労働力不足を解決するため、日本と「満州国」政府は、華北地方において労働者の「募集」を行いました。華北労工協会の記録によれば、1941年と1942年に「募集」された労働者は100万人前後にのぼり、その中には日本軍との戦闘で捕らえられた捕虜も含まれていました。
 「募集」とは名ばかりで実際は強制連行された労働者たちには、労働は過酷をきわめていたのに食糧はわずかしか支給されず、冬の防寒もろくになされませんでした。こうした非人間的な扱いを受けて、数多くの労働者が非業の死をとげました。

 
 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺


 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)私たち3人は日本軍は彼らを殺害しないと思って、少し後ろから三汊河まで付いて行きました。木橋まで来た時、前の方に日本軍が更に多くの兵力が布陣して、一大包囲網を形成しているのが見え、すこぶる殺気がみなぎっていました。日本軍は群の中に列から外に出るのがいるのを見つけると、銃剣で刺し殺したので、何人もが地に倒れ悲惨な叫びをあげて死にました。この突然の状況は私たちの予期に反したことで、様子からして日本軍はここで私たちへの虐殺をやろうとしているようでした。草葺き小屋に留まって、隠れていた方がずっと安全だったのに、三汊河までついてきたのは、死を求めたようなものだった、非常に悔やまれました。その時、とっさにいい知恵が浮かんで、すぐに後ろを向いて歩きました。ところが、後ろについて来ていた日本軍が、銃剣を私に突きつけてきたので、とっさに私が飛ぶように前に向き換えて、人の群に入り込んだところ、私の後ろにいた何人かの同胞が、いずれも日本軍に胸から背に銃剣で突っつかれ大声をあげて地に倒れて死に、私は一死を免れたのでした。
 私たちは三汊河の木橋の西へ数百メートル行った南の河辺まで駆り立てられて、みんな日本軍の手の内に死ぬんだと知りました。何人もが日本軍の蛮刀の辱めを受けたくないと、ある者は頭を壁にぶっつけ、ある者は河に跳びこんだ自ら溺れ死に、泳げる者は、河にもぐって逃げようとし、みんな日本軍に射撃されて水中に没しました。
 三汊河の河辺と空き地について、みんなで2万余りの中国人が包囲されたまま、日本軍は機関銃で射撃する準備を終わりました。けれども日本軍はまだ射撃を始めずに、又私たちを河辺から、岸の上(大通りより南の大同小麦粉工廠の広場)に駆り立てました。日本軍の首領で、うんと小さいのが、みんなに話(通訳つきで)をしました。「お前らはどうして恐れ多くも皇軍に刃向かったのか。お前らは有罪だ」「お前らはけしからん。どいつもこいつもスーラスーラ(死了死了=死んでしまえ、死んじまえ)」と、手を挙げ手まねで、首をはねる意を示しました。「今お前らに聴くが、どんな死に方がいいか。機銃掃射がいいか。小銃で撃つのがいいか。あるいはガソリンか焼夷弾で焼くのがいいか。それとも銃剣で刺し殺すのがいいか」。これを聞いて私は内心すごく憤慨し、日本軍が人を殺すのに、殺害される者にどういう死に方がいいかなどと聴くなんて、そんなことがあっていいんだろうか、と思いました。私たちはどうしても日本軍に全部殺害されることになりそうでした。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界



また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月9日木曜日

満州国

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 3、「満州国」の社会と経済

 日本は、「満州国」の政治と経済から科学技術および文化、教育まであらゆる分野にわたって支配し、実質的に日本の植民地のようにしていきました。そのためどんな方法がとられたのでしょうか。

 日本の資本による満州経済の独占

 満州の重要産業は、日本の国策会社である「南満州鉄道株式会社」(略称は満鉄)や日産コンツェルンの「満州重工業開発株式会社」(略称は満業)によって独占されました。金融・石炭・鉄鋼・交通・鉱山・電力などの分野において、「特殊会社」あるいは「準特殊会社」という名の国策会社をつくり、「一産業を一会社とする原則」をかかげ、中国の民族資本が入ってくることを許しませんでした。とくに1940年代に入ると、多くの中国民族資本は原料や市場の制約を受けて破産の危機に陥りました。


 日本人の満州移民

 日本の満州支配を維持し、日本国内の人口過剰の問題を解決し、さらにソ連との戦争に備えるために、日本は「在郷軍人(ざいごうぐんじん・・・現役を除隊した予備役の軍人)」を中核とする武装移民団を編成して満州北部に入植させました。1936年、日本政府は「満州農業移民20ヵ年百万戸送出計画」を定めました。
 日本は、人口が多くて土地不足に悩む、貧しい地域の農民を集団で満州に移住させ、満州に日本と同じ村の名前をつけて「分村」と呼びました。また「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」を編成して、多くの青少年を満州に送り込みました。
 日本の敗戦までに、日本人の満州移民の総数は約29万人にのぼりました。日本人のほかに、満州に強制的に移住させられた朝鮮人もいました。日本は「満州国」政府に対して、現地の中国人農民から土地や家を安く買い上げ、または強制的に取り上げて、日本移民に与えるように指示しました。

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺


 駱中洋(男、67歳)の証言

 1937年には、私は陸軍第64軍の156師、466旅、931団の現役兵で、南京防衛戦に参加しましたが、12月13日に南京が陥り、私たちは捕虜にされました。日本軍は南京を占領するや、たちまち大虐殺を始めました。その時の痛ましい様を思い起こしますと、いまだにありありと目に浮かびます。
 12月13日の朝、私は城内の興中門の傍らの城壁の上から、水道用ズック製パイプで城外に滑り出しました。私が逃げ出た後、道路はみんな散り散りになった兵と一般の人とで、ひしめき合っていました。私は長江を渡って行こうと思いましたが、岸辺に泊まっている何隻かの大きな汽船には、人がぎっしり詰まっていて、1人として入っていかれず、重すぎるらしく、船出もできませんでした。我々まとまりのない部隊が、上新河の方向に突っ込んで行って囲みを突破しようとしたりしましたが、どれも成功しませんでした。そこで水西門の方向に転じて前進しましたが、半分行った所で、一万人余りの身に寸鉄も帯びていない同胞が、少数の日本軍に包囲されているのを見出しました。そしてすぐ又、兵士と民衆とがたくさん、続々とやってきて、全部で2万人余りほどになりました。
 午前7時ごろ、私も人の群れの中にいて、日本兵が機関銃をたくさん、ずらりと据え付け、銃口を中国人に向け、みんなには銃口に顔を向けて、1人1人ひざまずくように命じているのを見ました。私は内心、もしも日本兵が突然機関銃で掃射したら、地べたにひざまずいている人たちは、1人も逃げられずに、全部命を落とすに違いない、と思いました。私はそこで周りの人たちに、急いでこの場を離れて逃げよう、と勧めました。けれども彼らは、「国際法で捕虜と無辜の民衆とを殺害してはならないことになっている、恐れるな」と言って私の勧告を聞かず、行こうとしませんでした。私は2人動員しただけで、3人でゆっくり移動し、歩いては止まり歩いては止まりし、何と言うことなしにしゃべっているといった方法で、日本軍が気付かないでいる隙に私たちその場を離れて、一里ほど離れた住民の草葺き小屋まで行って隠れました。
 私たちは草葺き小屋で日本軍が包囲した人の群れをじいっと見ていましたが、ひとしきりしても、日本軍はまだその人たちへの射撃は始めませんでした。けれども日本軍の増援部隊が到着するや、直ちに行動を始めて、外側を包囲している兵力を増強しました。日本軍の銃には全て剣が付けられ、小銃、軽機関銃、重機関銃の銃口を、一律に人の群に狙いを付ける射撃の姿勢がとられました。もう少ししたら、又その群を三汊河の方向へ行かせ、日本軍は両側と後ろとで銃を構えて駆り立てるのでした。・・・(続く)

 

  
 
「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより



戦争をふせぐ世界



「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月8日水曜日

平頂山事件

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 「満州国」の出現

平頂山(へいちょうざん)事件と大規模な弾圧

 日本は満州を占領した後、東北人民の抵抗闘争を弾圧しようと多くの残虐事件を引き起こしました。平頂山事件は、その一例です。1932年9月16日、抗日ゲリラに撫順(ぶじゅん)炭鉱事務所を襲撃された日本当局は、報復のために、撫順の日本軍守備隊と憲兵隊200人余りを出動させ、撫順近くの平頂山村を包囲しました。全村3000人余りの村民を一ヵ所のくぼ地に集め、機関銃を使ってほとんど全員を殺害したのです。女性や子ども、老人も一緒でした。
 こうした民衆に対する虐殺事件は、老黒溝(ろうこくこう)事件、土龍山(どりゅうさん)事件などをはじめとして、その他の地域でも多く引き起こされました。日本の憲兵は、各地で大規模な逮捕と検挙を行ない、残酷な拷問(ごうもん)を加えて自供を迫り、「反満抗日」のメンバーと見なした多くの人々を殺害しました。数多くの罪の無い人々がこのような弾圧に巻き込まれ、過酷な刑罰を受け、無念の死をとげていったのです。

 ■チチハル憲兵上等兵・土屋芳雄の証言(朝日新聞山形支局『聞き書き ある憲兵の記録』朝日新聞社より)

 伍長の助手として拷問に加わった。連日のように、なぐるけるの暴行だ。そして、木刀(ぼくとう)責めや水責め、つるし上げなどにエスカレートする。どの取調室からも、憲兵の怒号と、容疑者の悲鳴が絶え間なく聞かれた。ある軍曹が調べた王社長の背中は、一面紫色に変色してはれ上がり、たてに横に皮膚が裂け、血がにじみ出していた。それでも軍曹は拷問の手を休めなかった。

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 李高山(男)の証言

 私は本籍が広東省の茂名市後街錦光書室で、1925年に生まれましたが、11と12の時に父と母があいついで世を去りました。生活のために、私は13の時に国民党の部隊に行って、広東軍154師の三営三連で勤務兵になりました。それは丁度1937年の末で、日本軍が上海を攻めていて、私はその部隊が上海へ行って防衛任務を引き継ごうというのに付いて行きました。部隊はまず蘇州へ行くのに、鉄道線路が既に壊されていたので、歩いて進んだのですが、我々がまだ着かない前に、守備に当たっていた部隊がもう撤退してしまったので、我々も南京まで撤退して来ました。
 1937年12月13日に南京が陥落し、その日私たちは宝塔橋一帯で長江を渡って逃げようと思いましたが、川面には船がなく、渡れませんでした。夜になって、挹江門(ゆうこうもん)から城内に入ろうと思ったのに、城門が既に土嚢(どのう)でふさがれていたので、闇に乗じて、縄でよじ登って城壁を越えましたが、明くる日の朝、挹江門内の大通りで日本軍に武装解除され、捕虜になりました。私たち大群がみんな後ろ手に縛られ、暗くなって日本軍に八字山公館の何軒かの洋館へ引っ立てられ、1人と1人が後ろ向きにくくられて、家の中に立たされたのが、みんなで何百人もでした。およそ8時か9時頃に、日本軍が突然機関銃で窓から家の中の人の群に向かって猛烈に掃射し、大部分がその場で撃ち殺されました。私は身体といい顔といい一面に血しぶきを浴びましたが、傷は受けず、何人かの活きている人たちと階段に沿って2階へ逃げました。その時日本軍が一階の死んだ同胞たちの体にガソリンをまき火をつけて燃やしたので、猛烈な煙と火とが一気に2階へ吹き上げてきて、私たち何人かは2階のテラスから跳び降り急いで逃げたのですが、その内のある者は脚を折って走れず、日本軍に殺害されました。私たち6人は夜陰に乗じて壁を乗り越えある家屋の屋上に駆け上がり、屋上の高殿の後ろに隠れ、丸々5日間飲まず食わずでした。やがて向かいに泊まっていた日本兵に見つかり、私たち6人は縄で後ろ手にされ、近くの沼に連行されて、5人とも日本兵にその場で射殺されましたが、私だけ殺されなかったのは、日本軍が私をまだ余りに小さいと見たからしく(その時私はやっと13でした)、頭をなでたり、からかったりし、やがては日本軍の部隊に連れて行き、クーリーをさせました。この部隊は「金野三騎兵部隊」だったと覚えていますが、数日後に、この部隊が夫子廟の状元鏡から武漢へ転進になり、「金野三部隊使用人」と書いた紙切れを私にくれたので、私は寧海路の難民区に身を寄せました。私は南京大虐殺の生き残りで証人なのです。(劉相雲が記録)



  
 
「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが



平和をつくる世界



ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月7日火曜日

満州国

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 「満州国」の出現

関東軍の統治の仕組み

 日本の満州占領は、激しい抵抗にあいました。現地の一部の中国軍と民衆は、はじめは抗日ゲリラを組織し、後に抗日連軍を編成して、長期にわたる苦しい武装闘争を続けました。関東軍は抗日武装勢力を鎮圧するため、軍隊、警察、憲兵、特務機関を総動員して抗日武装勢力の活動地域を討伐させました。そのため住民に対する迫害や民衆虐殺が多発しました。
 日本と「満州国」政府は、抗日勢力を孤立させるため、村々を合併させ、村民たちを強制的に「集団部落」に移住させました。「集団部落」は、周囲を高い塀(へい)と深い堀で囲み、軍隊と警察が門を警備して自由な出入りを許さず、民衆と抗日軍との連絡を切断しました。自分の家や畑を離れようとしない民衆は、殺害されたり、家屋を焼き払われたり、田畑を荒らされたりしました。日本と「満州国」政府は、全農村に保甲(ほこう)制度(1村を1保とし、10戸を1甲として村民を組織)を実施して相互監視と警備を強化しました。もし、1人が罪を犯せば、10戸が連帯責任で罰金もしくは労役を課せられました。

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 湯必俊(男、62歳)の証言

 私の上の兄の湯必達は、1937年には25歳で、豚を殺して肉を売る仕事を手伝って暮らしを立てていました。日本軍が南京を攻めて占領した時、私たち家中で中山北路の新安旅社一帯の難民区に避難しました。
 日本軍が南京を占領した翌日、日本兵が人を捕まえに難民区に入ってきて捜査しました。兄嫁と妹が家にいて、日本兵が来たのを見て芦の柴が積み上げられてある後ろに隠れました。兄が2人を守るために、階段の入口で日本兵をさえぎると、日本兵は兄を捕まえて行きました。兄と一緒に捕まったのがみんなで5人で、その内の劉という人が明くる日逃げ帰って来て、母に「息子さんから、手紙を母に持っていってくれ、下関の方に行ったと伝えてくれ、と頼まれました」と言いました。私と母は大急ぎで捜しに行きましたが、下関一帯はあまねく死体ばかりで、どうしても兄は見つかりませんでした。
 私たちはここに住まって行けないと分かり、破れ布団をかつぎ、大方巷のアメリカのキリスト教会に避難しようと思いました。出かけて程なく、日本兵に止められ、ぴんたをなぐられ、足げりにされ、物も奪い取られてしまいました。(曹慧芳が記録)

 
 
「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが



平和をつくる世界



戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月6日月曜日

満州国

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 満州国の出現

 日本の関東軍は、満州占領を既成事実とするために、1932年3月、「満州国」の成立を急いで宣言すると、すでに退位していた清朝の皇帝・溥儀(ふぎ)をかつぎだし、名目上の「国家元首」にすえました。関東軍によってつくられた「満州国」とは、どのような「国家」だったのでしょうか。

「満州国」の性格

 日本は、日本人、満州人(満族)、漢族(中国人)、朝鮮人、モンゴル人の5つの民族が「協和」する国家を満州に建国するのだと宣伝しました。しかし実際は、関東軍は満州を中国全面侵略戦争と対ソ戦の基地にしようとしたのです。「満州国」は関東軍が統制する傀儡(かいらい)政権であり、国務院および各部門の実権は、日本人の総務庁長の手ににぎられ、各部門の次長職に就任した日本人を直接に指揮しました。これらの日本人の地位は、部(日本の省庁にあたる)、省、市の中国人の長官より上位にあり、日本人が権力を独占する仕組みになっていました。大部分の政策は日本のものを踏襲しました。「満州国」皇帝溥儀は、ただ名前だけの地位でしかなく、実際の権力は全くありませんでした。ある者は、「満州国」を頭が獅子(関東軍)で胴が羊(天皇制国家)、しっぽが竜(中国皇帝)のギリシャ神話に出てくる怪物=キメラにたとえました。
 キメラは、口から炎を吐き、大地を荒らし、家畜を略奪して去っていく、奇怪な幻想の怪物です。

 ※満州国皇帝は天意すなわち天皇の大御心(おおみこころ)に基づいて帝位についたのである。皇道連邦の中心である天皇に仕え、天皇の大御心をもって心とすることを在位の条件とする・・・それは月が太陽の光によって輝くことと同じである。【「満州国の基本理念と協和会の本質」関東軍司令部、1936年9月18日編纂『満州国史』(総論)】
 
 

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

  霍友才(男、70歳)の証言
 
私は霍友才といって、1937年には家は火瓦巷79号之5で、冬月の11日に日本軍が入ってくる前に、保長さんが私たちを北京路の難民区へ駆り立てて住まわせました。そのころ難民区へ行く人がとても多く、みんなひしめき合っていて、地べたで眠るのでした。南京が陥落して1週間余りして、日本軍が難民をみんな登録させに北京路の十字路に駆り立て、自分は何を生業にしているかを説明させました。それから、日本軍は若いのを一方に選び出し、車に押し上げ下関の江辺に引っ張って行って集団虐殺をやりました。その時、日本兵が私を車に引き上げようとしていたときに、私の叔父の店の胡麻子という大工さんが、私を自分の息子だと言って、私を取り返してくれたので、一死を免れたのでした。一緒に登録に行った謝師匠(鍛冶屋、30歳余り)と王師匠(大工、25歳)は、引き取る人がいなかったので、下関まで引っ張られて行って銃殺されました。(劉君が記録)


 
 
 
「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月5日日曜日

上海事変

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
 
 上海事変
 
 日本の満州占領に対して、国際世論の厳しい批判が集まったため、満州に傀儡(かいらい)政権を樹立しようとする日本にとって障害になりました。そこで、国際社会の注目を満州からそらすため、関東軍と日本の駐上海領事館の武官は共謀して、中国人暴徒に日本人僧侶を襲撃させる事件を企て、これを口実にして1932年1月28日、日本の海軍陸戦隊は、陸軍3個師団の増援を受け、上海の中国軍を攻撃しました。上海を防衛していた19路軍は激しく抵抗して、日本軍数万人を死傷させました。(第一次上海事変)。日中双方はイギリスの調停を受けて3月から交渉に入り、5月に「上海停戦協定」を結びました。


 日本の華北分離政策

 日本は満州を占領した後、さらに華北に侵略の目を向けました。1933年初め、関東軍は熱河省(ねっかしょう、1928年~1955年に存在した省)に侵入し、万里の長城を占領しました。中国軍は激しく抵抗しましたが、日本側の提案により5月に「塘沽(タンクー)停戦協定」を結び、長城の南側100キロを非武装地帯として、中国軍は撤退することを決めました。この協定によって華北侵略の足場をつくった関東軍は、1935年5月、万里の長城を越えて華北に侵入すると、支那駐屯軍と共同して「華北5省自治運動」を企て、親日政治家をかつぎあげて傀儡政権を成立させ、国民政府の勢力を華北地域から排除しようとしました。日本は華北の石炭や鉄などの資源を確保する一方で、中国全面侵略戦争の準備を進めていきました。この過程で、華北の鉱物資源が日本の支配下に入りました。



「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 鄭秀英(女、67歳)の証言
 1937年に、私の兄は七家湾の雑貨屋で見習いをしていて、20歳でした。日本の軍隊が南京に侵略してきた時、家中で大方巷の難民区に避難しました。難民区の中は数え切れないほどの人で、地べたに座るしかありませんでした。日本軍がいっぱい剣をつけた銃を両手で構えて、難民区にやってくるのをこの目で見ました。日本軍は男をみんな一緒に捕まえ、私の兄も捕まりました。日本軍は男を8列にして捕まえて行き、数千人ほどいましたから、2時間余りもかかってやっと連れ終わりました。後で男の人が1人死人の堆から逃げ戻って来て言うには、この日本の強盗たちは下関の江辺で機銃掃射し、惨死した人がたくさんいました。兄が捕まって行ってから、ずっと何の音沙汰もありません。
(戦国利が記録)

 
 
「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。

 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月4日土曜日

満州事変

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

満州事変とリットン調査団

 1931年9月18日の夜、関東軍高級参謀の板垣征四郎や石原莞爾(かんじ)らは、瀋陽の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で南満州鉄道の線路を爆破し、それを中国東北軍(張学良軍)の仕業であるとして、近くにあった中国軍の兵営を襲撃しました。続いて戦闘を拡大し、鉄道沿線の都市を次々と攻略していきました。現地の中国軍は抵抗しましたが、国民政府は「安内情攘外(あんないじょうがい・・・国内統一、強固にしてから日本と戦う)」の方針を掲げ、さらに当時、東北軍の主力部隊は満州を離れて華北に駐留していたので、日本軍の侵略を止めることはできませんでした。5ヵ月のたたずに日本軍は満州の主要な都市と鉄道沿線を占領しました。
 満州事変発生後、中国政府は国際連盟の理事会に提訴しました。国際連盟は、イギリス人のリットンを団長とする調査団を日本と満州に派遣して調査を行ない、その報告書が1932年9月に提出されました。国際連盟の総会は、リットン報告書に基づいて、満州の主権は中国にあるので、南満州鉄道附属地外の日本軍は撤収することを求める報告を採択しました。
 日本はこの報告を受け入れず、1933年3月、国際連盟を脱退しました。

 ※リットン調査書(一部)
満州の主権は中国に属する。日本軍の軍事行動は正当なる自衛行動とは認められない。(満州国)政府の指導者は、名目上は満州人であるが、実権は日本の官僚と顧問が掌握している。現地の中国人の目には、日本人の道具になっていると映っている。

 

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 陳光興(男、66歳)の証言

 1937年12月末には、私は山西路の莫千路五号の難民区に住まっていました。日本軍が南京に入ってきて難民区でみんなを捕まえたときに、ある兄弟2人の内の、お兄さんを日本軍が捕まえていき、弟が安心できずにお兄さんについて行こうとするのを、日本兵が突き飛ばしましたが、後で、やはりこの兄弟を捕まえていくのを、私はこの目で見ました。2,3日してお兄さんが帰ってきて言うには、日本軍が彼らを下関の江辺に連れて行ったとき、そこにはもう無数の一般庶民が捕まえられていました。やがて日本軍が機関銃を彼らの向けて猛烈に掃射し、たくさんの人が殺害されて血の海の中に倒れました。弟はその場で撃ち殺されました。お兄さんは銃をやたらと掃射されて傷つき、びっくりして昏倒してしまいました。日本軍が行ってしまって、気が付いたとき、身の周りは死体ばっかりでした。お兄さんは傷の痛みを堪えて這い上がり、難民区へ駆け戻って来たのです。
 難民区には、青年男女や老人や子どもがたくさん住まい、私たちは一番下の一階に住まっていて、ある日本兵が、若い娘を捜しに来たのを見ましたが、麻少徳という人がいて、その奥さんが日本軍に二階へ引っ張って行かれ侮辱にさらされ、その小さい子が泣き叫んでいて、本当に痛ましい限りでした。やがて、この婦女子は国際紅卍字会の華お姉さんに引き取られて行きました。(沈崇峰と王佩如が記録)(訳注:内容からして「国際安全委員会のヴォートリンさんが引き取られ」の意と思われる)。


 


 

    
「Imagine9」【合同出版】より



武器を使わせない世界


核兵器を全面禁止することこそ必要です。世界のNGOは、「核兵器禁止条約」をつくることを提案しており、国連で交渉を始めることを呼びかけています。
 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月3日金曜日

満州事変以前の満州

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

1931年、日本が満州事変を起こして満州(中国東北地方)を占領したのは、中国侵略戦争の前奏となりました。満州事変は、どのような状況下で、どのように起こったのでしょうか。

 満州事変以前の満州

日露戦争後、日本は資源の豊富な満州を自分たちの「生命線(国が成り立つために絶対に確保しなければならない地域)」と見なすようになり、1927年6月に開かれた東方会議で「対支政策綱領」を定め、満州を中国本土から分離する強硬方針を決定しました。
 この頃、国民革命軍による北伐(国民革命軍が広東(カントン)から北上して、国民政府による中国統一を目指した革命運動)が大きく発展し、その影響が華北地方まで達すると、日本はそれが満州に及ぶことを恐れ、急いで分離計画を実行しようとしました。
 1928年6月4日、日本の関東軍高級参謀・河本大作(こうもとたいさく)は、瀋陽付近の皇姑屯(こうことん)において、当時、満州を支配していた奉天系軍閥の首領・張作霖(ちょうさくりん)を爆殺し、混乱に乗じて日本軍を動かして満州を占領しようと企てました。しかし日本の満州分離計画は失敗に終わりました。父の後を継いだ張学良が、蒋介石の率いる中国国民政府による統一を受け入れ、その支配下に入ると宣言したためです。
 張学良は鉄道の敷設、港湾の建設と拡張、貨幣の統一など中国東北地方の建設をすすめ、日本の満州支配政策に対抗しました。日本は、国民政府の支持を受けた張学良が強大化することを恐れて、彼に対して圧力を加えると同時に、秘密裏に満州占領計画を進めました。
 関東軍は、ひそかに偵察を行なって情報を集め、満州を武力で占領、併呑(へいどん)する計画を策定します。そして再び軍事行動の口実をつくろうとしました。

 ※東方会議「対支政策綱領」・・・万一、動乱が満州・蒙古に波及し、治安が乱れて同地方における日本の地位と権益が侵害される恐れがあれば、それらがどの方面から来ようとも、防ぎ守らなくてはならない・・・・機会を逃さないで適当な措置をとる覚悟が必要である。(要約)
 

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 樊嘉瑚(男、56歳)の証言

 1937年12月には、私たち一家は上海路の難民区にいて、私は11歳でした。ある日の午後3時頃、日本兵が突然難民区を包囲して、大捜索をやり、青年の男子は1人も見過ごしにしませんでした。20歳だった上の兄の樊嘉琳も、18歳だった次の兄の嘉珊も、日本軍に捕まって行きましたが、後で家族が引き取りに行かされました。祖母と上の兄の岳母などが、年取ったのが上のを、若いのが下のをと、それぞれ取りに行き、暗くなってやっと、日本軍は私の兄2人を手放しました。その時に捕まった人がたくさんいて、何日かして難民区に逃げ帰ってきた人がいましたが、顔一面に火傷の火ぶくれがあり、その人の言うのでは、その日捕まって行った人たちは日本軍に下関の江辺まで連行され、機銃掃射されたのですが、自分は弾に当たらず、死人の累積の中に隠れ、夜間に駆け出て江辺のわらぶきの家に隠れたのを、後で、日本兵に見つかり、ガソリンをそのわらぶき小屋にまいて火をつけられたので、それで顔が焼けただれ火ぶくれがいっぱいなのでした。
 私たちの住んでいた上海路の難民区で、ある小道の高殿で、日本兵が中国人を2人捕まえ、その1人が逃げてしまい、もう1人も逃げようとしたのを、銃で撃ち殺され、後に屍が道の脇の溝に埋められました。ほかに、ある日の夜、日本兵数人が難民区に闖入してきて、お隣の中年の婦人を捕まえていきましたが、ご主人がその時南京にいなくて、その婦人は捕まった後ずっと帰って来ず、階段の上に血の痕がたくさん残っていました。この婦人は日本軍に強姦されてから、引きずって行かれ殺害されたのです。(王瑞屏と魏福仲が記録)



 

    
「Imagine9」【合同出版】より



武器を使わせない世界


世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月2日木曜日

侵略戦争!!

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
 日本は満州事変を引き起こして満州(中国東北地方)を占領し、1937年には中国への全面侵略戦争を開始、1941年にはアジア太平洋戦争へと拡大させました。日本は足かけ15年にわたり、東アジア近代史において最も大規模な侵略戦争を行なったのです。
 日本が起こした侵略戦争の重要な特徴は、日本の軍事力や経済力および人力のすべてを動員して行なわれた、いわゆる「総力戦」であったことです。
 日本は、朝鮮や台湾などの植民地や中国および東南アジアなどの占領地から資源やエネルギー、労働力から軍事力までを根こそぎ動員して戦争に利用し、これらの地域を侵略戦争を支える基地にしました。そのため、日本は世界反ファシズム勢力の主要な敵国の1つとなりました。
 日本は又、総力戦を実施するため、日本国民に対する統制を強めて侵略戦争に動員し、国民に苦難を与えました。 
 さらに、拡大する侵略戦争の基地にするために植民地の統治を強化し、朝鮮と台湾の人々にいっそうの苦難を与えました。日本は、満州などの占領地で傀儡(かいらい)政権を育成すると、全力で抗日民衆を鎮圧しようとしました。
 日本軍は、抗日戦争を続ける中国政府と民衆に対して、無差別爆撃や三光作戦の実施、戦時国際法で禁止された細菌兵器や化学兵器の使用、労働者の強制連行や日本軍「慰安婦」の強制など、一連の戦争犯罪を行ないました。
 しかし、東アジアの人々は、屈服することなく、組織的な抵抗を行ない、民族の解放と独立を目指して反侵略戦争に立ち上がりました。中国は、厳しい条件下にありながらも抗日戦争を継続し、世界反ファシズム戦争の重要な一部になったのです。



「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 何守江(男、66歳)の証言
 1937年には、私の家は下関の宝塔橋の東でした。日本兵が南京を占領した時、宝塔橋一帯には逃げるのに間に合わなかった難民が、およそ4,5千人いて、卍字会が難民を両岸に男女に分けて集まらせていましたが、日本兵が来るなり、有無を言わせず、女の難民の中から、若い女性を十数人連れて行って強姦しました。それからは、女の子は恐くてみんな髪を剃り、男の子に扮しました。
 日本兵が下関に来た翌日に、中国人7百人余りを、次から次に宝塔橋の上に追い立て、橋から無理やり跳び降りさせたので、、橋はあまりにも高く、先に跳び降りた人はみんな墜落死してしまいました。後から跳び降りた人で、墜落死しなかったのは、日本兵が機関銃で掃射し、1人も生き残りませんでした。
 同じ日に、日本兵が2千人余りを煤炭港の大きな倉庫まで駆り立てるのも見えました。その建物にガソリンを撒き、火を放ち、2千人余りを活きたまま焼き殺したのです。青年で1人だけ、倉庫の隅の壁下に下水が通っているのを知っていて、十本の指から血をしたたらせて、やっと下水道から這い出し、焼き殺されませんでしたが、それが唯1人の生き残りになりました。
 1938年の陰暦1月の4日に、私が長江北岸の卸甲甸から長江を渡って草鞋峡(今の金陵船廠)に来たら、そこは死体でいっぱいで、どれもみんな日本兵が機銃掃射で死なせたものでした。岸から上がるなり、すぐに和記洋行に隠れ、恐くてもう出られませんでした。(李文奎と劉雯等が記録)



    
「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年4月1日水曜日

福沢諭吉

南京大虐殺を惹き起こした日本兵は、中国人をチャンコロと呼び、馬鹿にしていた。その背景には戦前から日本の新聞や言論界で活躍していた人の影響が大きいであろう。明治時代には、福沢諭吉がさかんに新聞や本などで持論を展開していた。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版)より
福沢諭吉(1834年~1901)-侵略を合理化した「文明論」
 近代の最初、日本人に世界の様子を伝えたのは、使節団の一員や留学生として欧米を体験してきた知識人たちでした。その代表が福沢諭吉です。彼は1875年に刊行した『文明論之概略』で、西洋は文明、アジアは半開、アフリカは野蛮だと書き、文明は野蛮から半開、半開から文明へと進むのだから、日本は西洋を手本に文明化をはかるべきだと強調しました。1881年には、日本はアジアの文明の中心、東洋のリーダーだから、アジアを保護しなければならない、朝鮮が文明化を受け入れなければ、強制的に文明化して、西洋の進出を食い止めなければならないと主張しています。
 しかし、朝鮮の甲申政変で開化派のクーデターが失敗に終わると、1885年、「脱亜論」という有名な論説を書きます。
 今後はアジアの文明化をすすめるのではなく、アジアと縁を切って、西洋諸国と同じような仕方でアジアの支配をすすめていこうというのです。そしてその10年後、日清戦争が起こると、これは文明(日本)と野蛮(中国)の戦いだと書きます。「文明」に対する見方が、福沢のアジアに対する視線を大きく左右していたのです。それは、近代日本のアジアに対する見方でもありました。


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

曹永興(男、75歳)の証言
 私の家は旧から傳佐路20号でした。1937年12月に、日本兵がやってきた明くる日に、日本軍は私を捕まえ、大方巷の難民キャンプに送りましたが、その時捕まったのは千人か2千人でした。晩の5時ごろに、みんな下関の江辺まで連行し、機関銃6挺で掃射しました。私は人の群れにまぎれて長江に跳び込み、漂っている死人の堆に隠れていました。12時ごろに、日本兵が行ってしまったので、岸に這い上がって、警官1人と肉売りの若いの1人とを救って、一緒に劉家湾の方へ逃げました。やがて日本兵に見つかり、2人は前を歩いていて、撃ち殺されました。私は日本の将校に捕まってその世話をさせられ、それで幸いにも死を免れました(徐偉が記録)

    
「Imagine9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと


約束した世界



「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」
 軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。
 このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。
とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。

 日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
 NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。
 その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。
日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
 また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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