ビキニ事件|被ばく船員の救済を求める2つの裁判にご支援を
ビキニ被爆訴訟
↑9月18日の「赤旗」より
犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げます。
平頂山事件の悲劇を二度と繰り返してはならない。
政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。
『撫順』から未来を語る実行委員会と平頂山訴訟弁護団
我们向受害者表示衷心的慰问。
平顶山惨案的悲剧决不能重演。
我们绝不允许因为政府的行为,让战争的悲剧再次发生。
抚顺告知未来实行委员会与平顶山惨案诉讼律师团
日本民衆は10日、平頂山大虐殺90周年を記念し、歴史を忘れないように呼びかけた
日本民衆は10日、日本軍による中国民間人虐殺事件である平頂山大虐殺事件90周年を記念する集会を東京で開いた。中国と外国を揺るがしたこの悲劇は、日本社会ではほとんど知られておらず、日本政府は謝罪と補償を未だに拒否している。
日本の市民団体は土曜日、東京で平頂山大虐殺90周年を記念する集会を開いた。日本の学者が悲劇の経緯や最新の研究成果について講演した。中国ではよく知られている平頂山大虐殺は日本では認知度が低い。 学者は、日本が中国侵略の歴史を避け歴史を修正する傾向を非常に心配している。
駿河台大学名誉教授の井上久士氏:「日本の高校の教科書ではほとんど触れられていませんし、普通の日本人もほとんど知りません。日本は過去を心に留めておくことによってのみ、真の友好と相互信頼の基盤を築くことができるのです。」
東京市民合唱団の、平頂山大虐殺を再現した合唱劇「再生の大地」も上演された。
「再生の地」合唱団団長の姫田光義氏:「中国人に謝罪することは、我々が直面している最も重要な問題です。」
日本で20年間にわたる請求訴訟を起こし、平頂山大虐殺生存者の正義を訴えた日本の弁護士は、訴訟の経過と困難について語った。 2016年、日本の最高裁判所は、最終審として生存者の請求を却下したが、平頂山大虐殺の事実は司法判断した。 しかし、日本政府はこれまで、無差別殺人の事実を認めず、謝罪もしていない。
平頂山事件訴訟弁護団の弁護士 大江京子氏:「平頂山事件の歴史から学んだ教訓を踏まえ、日中共同宣言の精神を再確認し、武力による問題解決をしてはなりません」。
今日会場に来た人たちの間では、日本社会が歴史的事実に目を瞑ってしまえば、歴史を反省したり歴史の教訓に学ぶことはまったくできないというコンセンサスがあります。 しかし、私たちはまた、会場に来た主に高齢者たちが次の世代に歴史の真実を伝える方法について、まだ大きな課題であることを観察しました。
731部隊元隊員の証言、飯田市平和祈念館が展示せず 市教委「事実関係に議論」
信濃毎日(9/17)
2022/08/17 11:59
戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に伝えるため今年5月にオープンした飯田市平和祈念館で、関東軍防疫給水部(731部隊)の証言などを印刷したパネル展示が取りやめられたことが16日、市教育委員会などへの取材で分かった。住民有志でつくる市平和資料収集委員会が展示を求めていたが、市教委は事実関係が確定していないなどとして見送った。現在、展示は市出身の元隊員から寄せられた医療器具や人体解剖の医学書など十数点だけとなっている。
取りやめた理由について、市教委生涯学習・スポーツ課は取材に「部隊の事実関係を巡ってはさまざまな議論がある。証言などを伝えたいという思いは理解しているが、公の施設としての展示は難しい」としている。
市平和祈念館の展示は「戦争の恐ろしさ」「戦時下のくらし」など五つのテーマに分かれている。祈念館設置に向け、同委員会はこれまでに市教委と協力して戦時中の資料を集め、展示内容についても話し合ってきた。
同委員会は「戦争の被害だけでなく、加害の歴史も伝えないといけない」と、731部隊が細菌兵器の開発を進め、捕虜となった中国人やロシア人に対して人体実験をしてきた―などとする説明文を作成。県内出身の元隊員4人の証言も文章にまとめた。市教委に証言などをパネル展示するよう求め、議論も重ねた。
だが、市教委は遺品の展示のみにとどめている。同委代表の吉沢章さん(73)=飯田市=は「県内の元隊員らの証言を通じて地域と部隊との関わりを明らかにし、戦争の姿を伝えたかったのに」と割り切れない思いでいる。
◇
【731部隊】 生物・細菌兵器の研究開発のため、1936(昭和11)年に編成された旧陸軍の特殊部隊。旧満州(現中国東北部)のハルビン近郊で秘密裏に中国、ロシア人らの政治犯や捕虜に非人道的な人体実験を繰り返し、多数を殺害したとされる。ペストやチフスなどの細菌を研究し、日中戦争で実際に使ったとされる。
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
■731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会
第1分科会
四国西南部の特攻基地ー第132震洋隊・土佐清水越基地跡を中心に
22日のフィールドワーク
番外編
似島(広島県)
日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??
戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!「こんな判決出るとは」無念の原告 疲労と失望
Нет войне!!Стоп Война!!
新聞記事からの報告(ビキニ水爆実験)
忘れられたビキニ被災者たち 裁判の報告
2022 5 7 世界の核被害問題と解決の取り組み
2022 5 7パネルディスカッションのまとめ
中満泉ビデオメッセージ
2022 5 8高橋博子講演
閉会の挨拶
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
・貴重な展示物、初めて見るものが多かった。展示物の多い割には会場が狭い。ゆったりした会場が望まれる。テーマが広いのでは。
(70代、市内)
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
世界で公式に認められた“イタイイタイ病”のカドミウム原因説を覆そうという日本の政官財学のミステリアスな“鉄の絆”の動きを追い続けたサスペンスタッチの渾身のドキュメンタリー
『30年目のグレーゾーン ~環境汚染とこの国のかたち~』 (制作 富山テレビ)
「“イタイイタイ病”というひとつの公害病を通して露呈したこの国の形というものをぜひ出したかった…」(富山テレビ青柳良明プロデューサー兼ディレクター
“イタイイタイ病”とは神岡鉱業が廃液としてタレ流した有害重金属カドミウム汚染によって富山県の神通川流域で発生した公害病だ。腎臓障害や多発骨折を引き起こすと共に全身に激しい痛みを伴う。環境汚染の恐ろしさを世界へ初めて知らしめたこの“イタイイタイ病”も裁判開始からすでに30年。だが、この間、この“イタイイタイ病”を巡って真実を覆そうとする驚くべき陰謀が企てられてきたという事実は意外に知られていない。
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
レラ菌、赤痢菌)を行う
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
第80回講習終了式に際し講習生並びに全職員に告ぐ
宮川米次
伝研改組の要点
大研究は大研究機関より
私はここに自らを顧みて、常に外観の荘厳に満足し、宏大を誇って居たのみでは満足ができませぬ。正にその内容が、この外観に相伴はなくてはなりませぬ。かかる意味よりして従来動々ともすると分かれ勝ちであった各学部を打って大団結と成し得るように、ここに努めて大なる研究部を作りました。必然的に各研究部の発揮し得る能力は大いに加わった次第で、その結果には必ずや見るべきものがあろうと期待しておるのであります。過般の主任会議に於いて新組織を満場一致可決し、即時断行する事になったのであります。諸君に於いてもその意を充分ご了解下って、益々本所の使命の達成、発展に御協力下さらんことを切望して止みませぬ。
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
北宏一郎
(資料)
1988(昭和63)年8月21日(日) 朝日新聞
旧陸軍の細菌兵器開発
東京の防疫研究室が中枢
軍医学校の極秘報告書が見つかる
「731」は実戦部隊
旧満州で密かに細菌兵器開発をしていた旧関東軍防疫給水部(満州731部隊)の部隊長、石井四郎軍医中将(終戦時)が、731部隊に先立って組織した陸軍軍医学校防疫研究室(東京都新宿区)の極秘の研究報告書が、作家の山中恒さん(57)の手でこのほど見つかった。日本の細菌戦研究については最後、米国陸軍の調査団が石井元中将らから聴取した報告などがあるが、いずれも関係者の供述が中心。関係書類は、ほとんど空襲の為に焼けたか破棄されたといい、現物が見つかったのは極めて珍しい。旧日本軍の細菌兵器開発はこれまで、生体実験で知られる731部隊が中心とされてきた。しかし、この資料によって、防疫研究室は『石井機関』とも呼ぶべき大掛かりなネットワークの中枢にあり、731部隊など「防疫」を“隠れみの”にした実戦部隊を手足に研究を進めていたことが、初めて裏付けられた形だ。
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
第4 日本民法に基づく謝罪及び損害賠償請求
2 国家無答責の法理が適用されないことについて
(2)国家無答責の原則が統治権に基づく権力行動に限定されることについて
しかし、本件のような国家の戦争行為は、他国民(敵国民)に対しては、敵戦闘力を殲滅するという意味を持つもので、このような敵国民に対する行為は「権力作用」の範疇に入らない。
国家無答責論は、絶対王政後の近代法治国家においては、社会契約説による「支配者と被支配者の自同性」、「国家と法秩序の自同性」を根拠とする法理であるから、ある国家とその統治権に服する当該国民との間に成立する法理である。したがって、国家の統治権の及ばない外国人との関係、国家の法秩序の及ばない外国の地には、国家無答責は適用されない。
三月十六日
午前五時起床 雪、晴 非常に寒し 一支那大人と共に大隊長の内務巡察あり
雪とは驚きの外なし 寺田の衛兵勤務の為に臨時中隊当番をする 夕方少しばかり照準監視査あり 零下十三度
午前五時不寝番の為に起こされる 背中がぞくぞくする程寒い 昨日と天地の差の如し 内地は桃が咲いた事を知らせている矢先というより、昨日考えたばかりの木々が惑わすとも書いた 寒さがやって来たのだ。多くはないが雪ではないか本当にあきれる 昨日のことを思うとね。雪の前を走る風の冷たさを窓に見るのみで身震いする
「ずっと父が嫌いだった」
ある婦人へ
裂けた腹をそらざまに
虚空を踏む挽馬の幻影が
水飼い場の石畳をうろつく
輜重隊あとのバラック街
溝露路の奥にあなたはかくれ住み
あの夏以来一年ばかり
雨の日の傘にかくれる
病院通い
透明なB29の影が
いきなり顔に墜ちかかった
閃光の傷痕は
瞼から鼻へ塊りついて
あなたは
死ぬまで人にあわぬという
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
ノミの大量生産
細菌の毒力試験の生体実験を行った
篠塚良雄
731部隊・少年隊
(略歴)
1923年生まれ
1939年 少年隊に入隊(~43年)
1944年 徴兵により関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年 関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立師衛生部に混入
1952年6月 河北省永年県において逮捕される
1956年 帰国
■この証言は埼玉(浦和)731部隊展(1994年10月)の『報告集』よりまとめたもの。
細菌培養
私たちが行ったのは、ノモンハン事件が始まった時でした。そのこともあって、私たちは病原菌の大量生産に動員されたのです。それが病原菌の大量生産に関わった最初でした。といってもこの時はまだ教育期間中ですから、細菌の「サ」の字もわかりません。実際に細菌の植え付けや掻き取りを行ったわけではありません。私に命じられたのは、細菌を培養する時に使う菌株、通称“スタム”を研究室に取りに行き運搬するという仕事でした。江島班では赤痢菌、田部井班ではチフス菌、瀬戸川班ではコレラ菌というように、研究室ではそれぞれの班で専門の細菌研究が進められていました。そこに行けば何の菌を作っているかわかりました。私が運んだ菌株にする細菌は試験管60本、一篭(かご)に60本入ったものをおおむね1日5篭運びました。何回かに分けてですが、1日にそのくらいを使いました。
日本軍政下香港(1997.7.27)
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930
3 毒ガス開発の再開
毒ガス兵器の制定と制式化
ルイサイト(きい2号)は、イペリットと同様の糜爛性ガスで、それより効力の発現が早いが、毒ガスとしての持久時間は短い。砒素を含むので砒素中毒の症状を呈する。ゼラニウムの花のような芳香があるが、強い致死効力を持つので、「死の露」とも呼ばれる。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳
第13章 毒ガスは消えず
埋めるー中国の毒ガス弾に対する処理
1953年11月2日、東北行政委員会と東北軍区は毒ガス弾を埋めることに関する意見を受理し、「敵が東北地方に遺棄した各種毒ガス弾を処理する問題について」という共同命令を発した。敦化県は日本の遺棄した毒ガス弾が最も多く最も集中した地域であったため、吉林省政府は日本が遺棄した省内の度毒ガス弾は全て敦化県に集めて処理することを決定、第1陣として敦化に運び込まれた弾薬は貨車1348両分もあった。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
釘うち拷問
残忍極まりない取り調べ
原田左中(はらださちゅう)
憲兵軍曹
〈旧部隊名〉
元関東軍第一特別警備隊第五大隊第一中隊
「この野郎、図太え野郎だ」腰のあたりを蹴り上げた。「噯呀(アイヤ)」男は低いうめき声をあげ、そのまま地面に顔を伏せた。肩は大きく波打っている。
「起(た)てッ」。ピシリ、棍棒は男の肩に飛んだ。男は動こうともしない。「オイッ、身体検査しろ!紙切れ1枚でも見逃すなッ」博は黒い体にのしかかっていった。息を切って銃剣を構えた兵隊が1人走ってきた。「おいッ、走ってきた道に紙切れらしいものが落ちていなかったか見てくれ」兵隊は用心深く足元を見つめながらもと来た方向に帰って行く。「起てッ」。まだ起きようともしなかった。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
38年2月1日 統裁部
昭和38年度統合防衛図上研究(三矢研究)実施計画
昭和3X年3月末までの諸情勢下記の通り
2 アジアの情勢
(1)中共の食糧事情は予想外に好転しつつあり、またその軍事力は中ソ対立による援助の低下にも関わらず、相当程度の作戦に応じ得る態勢にある模様である。
中共は昨年11月、中印国境紛争に於てインドネシアに圧勝して以来、その意気は高く、中ソ論争とも関連して積極的路線を強行せんとする節が感じられ、又、ソ連のインドネシアに対する工作は逐次奏功しつつあるもののようであり、本年初頭以来、極東情勢は次のような進展を見ている。
ロ 1月下旬 英領北ボルネオにおいて、マレーシア連邦に反対する勢力の反乱とこれに対するインドネシア軍の策応の動きがあり、英国は急遽本国から約2000名の戦略陸軍を英極東軍に派遣してこれを未然に防止した。
ハ 2月上旬に至り、仏印国境、中印国境及び台湾海峡正面に逐次中共軍の集結、増強が開始された。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
Ⅳ 安保体制下の生物化学兵器
1 自衛隊の基本戦略
自衛隊の基本戦略
生物・化学戦争からの防護という戦術はある意味で物理的、化学的に不可能でないかも知れない。例えば謀略的に発生させられた悪性伝染病のまん延を最小限に食い止めたり、患者を治療したりということは可能であり、必要なことである。しかしながらこのような一般社会での生物・化学被害の防護には通常、軍隊以外の専門機関が当たることになるだろうし、生物・化学戦争の特徴が「何時誰が使用したか分からない」ことからも自衛隊の行っている生物・化学兵器(BCW)防護 ということは、国民にとって無縁なものである。昭和12年9月25日、大牟田市で発生した「爆発赤痢」の経験が示すように、事態は全く逆の結果となることは軍事目的から容易に理解できることなのである。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第3章 現実世界に向きあう
Ⅲ
原の最初の憂慮は、莫大な皇室財産に対する民衆の非難だった。彼は「皇室の富まるゝは
国の富なりとの観念を国民に起こさしむる様にならば何程多額の御収入あるも決して之を議する者なかるべし」と宮内大臣波多野敬直に語っている。階級闘争によって国内の分裂が広がる以上、君主制も論争の対象になる危険があることを原は理解していた。「米騒動」の名で知られる大衆抗議運動には、農村・漁村の民衆100万人以上と、全国37県に北海道、東京・大阪・京都の3府を加えた、それを上回る数の都市住民が参加したのである。騒動は物価高騰に対する怒りに端を発していたが、その根底には小作人に高率の小作料を要求する地主制度あった。原は皇室の「巨額の収入」を否定できなかったが、それは事実皇室が日本最大の地主だったからであり、皇室の経済活動が国民に苦難を強いていると取られないよう、以後用心しなければならなかった。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核実験
ソ連
セミパラチンスクでの核実験
1949年8月29日 初の原爆実験(長崎型)。22kt。コード名"RDS-1"。アメリカ側のコード名"ジョー(=スターリン)-1"。
1953年8月12日 『初の』水爆実験。400kt。コード名"RDS-6"。アメリカ側のコード名"ジョー4号"。
放射性降下物の分析より核融合ではなかったと言われている。
1955年11月22日 水爆実験。1.6Mt。コード名"RDS-37"。アメリカ側のコード名"ジョー19号"。
ソ連初の水爆実験成功。
ノヴァヤゼムリャでの核実験
1961年10月30日 ノヴァヤゼムリャで、史上最大の水爆実験が行われた。爆弾(ツァーリ・ボンバ)の核出力は50 Mtでファットマンの3000倍近い出力。
水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)
「北朝鮮の核実験の威力」と「史上最強の核兵器"ツァーリ・ボンバ"の破壊力」【核兵器】
●メアリーが伝えるヒロシマ
●核実験の人体実験
●核被災と核兵器禁止条約