9月18日の「赤旗」より
犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げます。
平頂山事件の悲劇を二度と繰り返してはならない。
政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。
『撫順』から未来を語る実行委員会と平頂山訴訟弁護団
我们向受害者表示衷心的慰问。
平顶山惨案的悲剧决不能重演。
我们绝不允许因为政府的行为,让战争的悲剧再次发生。
抚顺告知未来实行委员会与平顶山惨案诉讼律师团
日本民衆は10日、平頂山大虐殺90周年を記念し、歴史を忘れないように呼びかけた
日本民衆は10日、日本軍による中国民間人虐殺事件である平頂山大虐殺事件90周年を記念する集会を東京で開いた。中国と外国を揺るがしたこの悲劇は、日本社会ではほとんど知られておらず、日本政府は謝罪と補償を未だに拒否している。
日本の市民団体は土曜日、東京で平頂山大虐殺90周年を記念する集会を開いた。日本の学者が悲劇の経緯や最新の研究成果について講演した。中国ではよく知られている平頂山大虐殺は日本では認知度が低い。 学者は、日本が中国侵略の歴史を避け歴史を修正する傾向を非常に心配している。
駿河台大学名誉教授の井上久士氏:「日本の高校の教科書ではほとんど触れられていませんし、普通の日本人もほとんど知りません。日本は過去を心に留めておくことによってのみ、真の友好と相互信頼の基盤を築くことができるのです。」
東京市民合唱団の、平頂山大虐殺を再現した合唱劇「再生の大地」も上演された。
「再生の地」合唱団団長の姫田光義氏:「中国人に謝罪することは、我々が直面している最も重要な問題です。」
日本で20年間にわたる請求訴訟を起こし、平頂山大虐殺生存者の正義を訴えた日本の弁護士は、訴訟の経過と困難について語った。 2016年、日本の最高裁判所は、最終審として生存者の請求を却下したが、平頂山大虐殺の事実は司法判断した。 しかし、日本政府はこれまで、無差別殺人の事実を認めず、謝罪もしていない。
平頂山事件訴訟弁護団の弁護士 大江京子氏:「平頂山事件の歴史から学んだ教訓を踏まえ、日中共同宣言の精神を再確認し、武力による問題解決をしてはなりません」。
今日会場に来た人たちの間では、日本社会が歴史的事実に目を瞑ってしまえば、歴史を反省したり歴史の教訓に学ぶことはまったくできないというコンセンサスがあります。 しかし、私たちはまた、会場に来た主に高齢者たちが次の世代に歴史の真実を伝える方法について、まだ大きな課題であることを観察しました。
731部隊元隊員の証言、飯田市平和祈念館が展示せず 市教委「事実関係に議論」
2022/08/17 11:59
戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に伝えるため今年5月にオープンした飯田市平和祈念館で、関東軍防疫給水部(731部隊)の証言などを印刷したパネル展示が取りやめられたことが16日、市教育委員会などへの取材で分かった。住民有志でつくる市平和資料収集委員会が展示を求めていたが、市教委は事実関係が確定していないなどとして見送った。現在、展示は市出身の元隊員から寄せられた医療器具や人体解剖の医学書など十数点だけとなっている。
取りやめた理由について、市教委生涯学習・スポーツ課は取材に「部隊の事実関係を巡ってはさまざまな議論がある。証言などを伝えたいという思いは理解しているが、公の施設としての展示は難しい」としている。
市平和祈念館の展示は「戦争の恐ろしさ」「戦時下のくらし」など五つのテーマに分かれている。祈念館設置に向け、同委員会はこれまでに市教委と協力して戦時中の資料を集め、展示内容についても話し合ってきた。
同委員会は「戦争の被害だけでなく、加害の歴史も伝えないといけない」と、731部隊が細菌兵器の開発を進め、捕虜となった中国人やロシア人に対して人体実験をしてきた―などとする説明文を作成。県内出身の元隊員4人の証言も文章にまとめた。市教委に証言などをパネル展示するよう求め、議論も重ねた。
だが、市教委は遺品の展示のみにとどめている。同委代表の吉沢章さん(73)=飯田市=は「県内の元隊員らの証言を通じて地域と部隊との関わりを明らかにし、戦争の姿を伝えたかったのに」と割り切れない思いでいる。
◇
【731部隊】 生物・細菌兵器の研究開発のため、1936(昭和11)年に編成された旧陸軍の特殊部隊。旧満州(現中国東北部)のハルビン近郊で秘密裏に中国、ロシア人らの政治犯や捕虜に非人道的な人体実験を繰り返し、多数を殺害したとされる。ペストやチフスなどの細菌を研究し、日中戦争で実際に使ったとされる。
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
■731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会
第1分科会
四国西南部の特攻基地ー第132震洋隊・土佐清水越基地跡を中心に
22日のフィールドワーク
番外編
似島(広島県)
日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??
Нет войне!!Стоп Война!!
新聞記事からの報告(ビキニ水爆実験)
忘れられたビキニ被災者たち 裁判の報告
2022 5 7 世界の核被害問題と解決の取り組み
2022 5 7パネルディスカッションのまとめ
中満泉ビデオメッセージ
2022 5 8高橋博子講演
閉会の挨拶
2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
原告たちのあまりに理不尽な被害
『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
メーカーと国に明らかな過失、責任のある刑事事件において、1949年初頭、死亡児の遺族へ弔慰金10万円、生存被害者へ1万円の見舞い金という額は、20年余年の隔たりがありますが1970年の無過失の被害救済に比していかがなものでしょうか。このように比較すれば補償問題が再燃することは容易にうなずけます。もちろん後者の給付額をよしとするものではありませんし、その給付額は後に改善されていきます。続いて京都市が行った被害者の実態調査(図1)が、国と樋上議員双方から紹介されます。樋上議員が紹介した内容を表3にまとめました。情報源はいずれも京都市の調査結果ですが、滝沢局長が紹介した内容を表4にまとめておきました。こうしたやりとりの後斉藤厚生大臣は、和解が裁判所の和解かどうか調べる、もしそうであれば金額が適当かどうかはともかく、国の責任としては終わっていることになる。とにかくそうしたことを調べ、検討した上で決定すると答弁し質疑は終わりました。ここで問題になるのは裁判所の和解でなければどうなると大臣は考えたのか。この事件では損害賠償請求の裁判、調停が行われていないのだから裁判所での和解など考えられないことです。会議録の上からはその検討の結果を知ることはできません。
森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
レラ菌、赤痢菌)を行う
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
実験医学雑報20巻 第6号(1936年)
学友会へ寄付
金36円95銭也 赤塚京治君
人事異動報告
昭和11年6月2日 伝染病研究所
発令月日 辞令 官職 氏名
5.1 昭和11年4月11日付願研究生入学の件許可す 藤本三郎
〃 陞敍高等官5等 助教授 矢追秀武
5.2 茨城県下へ出張を命ず 技師 城井尚義
〃 〃 事務官 檜山兼次郎
5.7 朝鮮へ出張機関の延長を命ず 技手 佐藤久蔵
5.8 神奈川県下へ出張を命ず 技手 岡本啓
〃 〃 同 栗本珍彦
5.13 東京府下へ出張を命ず 同 岡本啓
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
日本軍の毒ガス戦を支えた軍需化学企業
北宏一郎
三井財閥(三井三池染料・三井東圧・三井化学)
(軍産一体化の象徴的人物)
久村種樹(陸軍の毒ガス研究開発の中心人物)
(ウキペディアより)
滋賀県出身。近江西大路藩(蒲生郡日野町)出身の教育家久村静弥の長男として生れる。陸軍幼年学校(13期)を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し東京湾要塞砲兵連隊付となる。1908年(明治41年)12月、陸軍砲工学校高等科(14期)を優等で卒業。1909年(明治42年)9月、砲工学校員外学生となり東京帝国大学工学部火薬科に入学。1912年(明治45年)7月、東京帝国大学を卒業し大阪火薬工廠宇治火薬製造所付となる。
1917年(大正6年)8月、砲兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠検査官に就任。同年10月、欧州に出張した。1920年(大正9年)8月、陸軍科学研究所員兼陸軍技術本部員に異動。1921年(大正10年)7月、砲兵中佐、1924年(大正13年)8月、砲兵大佐に進級。1928年(昭和3年)8月、科学研究所第3部長となる。
1929年(昭和4年)12月、陸軍少将に昇進し、1932年(昭和7年)8月、陸軍科学研究所長に就任。1933年(昭和8年)12月、陸軍中将に進み、1936年(昭和11年)8月、技術本部長となった。1939年(昭和14年)3月、予備役に編入された。
1944年(昭和19年)東洋高圧工業社長。
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
第2 国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への適用による謝罪及び損害賠償請求
12 結び
第3 中国法に基く謝罪及び損害賠償請求
5 謝罪請求
細菌戦による損害は、直接的な損害だけでなく、細菌の恐怖は現在まで収まらす、被告が被害者救済を怠ってきたことにより、現在まで継続して重大な人格権への侵害を受けてきた。
この侵害の重大性は、名誉権の侵害の場合と比肩し得る。そしてこの侵害については、賠償に加えて、被告の真摯な謝罪があってこそ、初めて慰謝される。よって、原告らは、損害賠償に加え、中華民国民法195条の規定に基づき謝罪を請求する。
三月十日
逃げるように言っても 矢張り真っ白になって通り過ぎるほかに手段はなかった。分列には可愛い小学生も木銃かついで頭右を致した。父や母が外から微笑んで我が子を見守っていたことと思う。モーターサイレンのそばにて ささやかな清め場所を作って捧げ銃が終われば 大隊長所見あり 此の時の大隊長の一言一言には実になく力があり 兵隊のみでなく 地方の人と共に否地方の一員としての兵隊及び軍隊について 世界大戦の策軍なしかも重々しい原因に例を引き 此の満州問題について語られた 軍人らしいと言おうか 軍事主義的とは言い難いが多分に含んだ所見だった 武装する平和を指摘し 百年の平和はおろか五十年の平和を予想する者がおりましょうか。―然し此の熱と意気に燃えた国民と軍隊を持つ日本は いつどんな突発がおころうとも 少なく言えばこの鞍山のみは今の力で十分守ることはできると確信する。
「ずっと父が嫌いだった」
一九五〇年の八月六日
供養塔に焼跡に
花を供えて来た市民たちの流れが
忽ち渦巻き
汗にひきつった顎紐が
群衆の中になだれこむ、
黒い陣列に割られながら
よろめいて
一斉に見上るデパートの
五階の窓 六階の窓から
ひらひら
ひらひら
夏雲をバックに
蔭になり 陽に光り
無数のビラが舞い
あお向けた顔の上
のばした手のなか
飢えた心の底に
ゆっくりと散りこむ
メアリーが伝えるヒロシマ
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
ノミの大量生産
細菌の毒力試験の生体実験を行った
篠塚良雄
731部隊・少年隊
(略歴)
1923年生まれ
1939年 少年隊に入隊(~43年)
1944年 徴兵により関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年 関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立師衛生部に混入
1952年6月 河北省永年県において逮捕される
1956年 帰国
■この証言は埼玉(浦和)731部隊展(1994年10月)の『報告集』よりまとめたもの。
陸軍防疫研究室
1939(昭和14)年4月1日、「陸軍防疫研究室に集まれ」という指示を受けました。この場所は、当時は牛込区戸山町となっていましたが、現在は新宿区で数年前にこの跡地から100体以上の人骨が出てきたところです。その人骨はほとんどがモンゴロイド人種の者であるということや、人為的な処理のあとがあることなどが鑑定の末明らかになってきているようです。この人骨をめぐって現在、良識ある人々の働きによって焼却差止め訴訟が起こされています。
日本軍政下香港(1997.7.27)
(2)「学術研究」とオーラル・ヒストリー
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930
2 毒ガス使用禁止国際条約への対応
ジュネーブ一般軍縮会議準備会議
国際連盟は一般軍縮会議準備委員会を1925年12月に設置していた。審議の結果、軍縮条約案の概要についてある程度の合意が得られたので、1930年12月、連盟理事会は全般的軍縮会議の開催を決定した(本会議の開催は、満州事変開始後の1932年から)。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第13章 毒ガスは消えず
埋めるー中国の毒ガス弾に対する処理
中国東北地方の孫呉県は、人々にとって耳慣れない地名ではない。ここは日本の陸軍や化学兵器の実験を行った主な基地の1つであった。県城ではあったが、実はその歴史は古いものではなかった。1931年、日本軍が残虐非道にも東北地方を蹂躙し始めた時、ここはまだ小さな村落であった。しかし1940年から、日本は対ソ連戦争の画策から、中国の東北地方において{北辺振興」計画を推進し、「関東軍特別大演習」を行った。
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
糧穀の略奪
(冷酷非情な取り立て)
引地 章(ひきじあきら)
警察署長 警正
(略歴)
学歴 高等小学校卒業
所属 旧満国 図們警察署
年齢 54歳
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
38年2月1日 統裁部
昭和38年度統合防衛図上研究(三矢研究)実施計画
5 研究実施の要領
(1)全般
イ 方針
(イ)基礎研究は2月から3月末日までの間、状況下の研究は4月から6月末日ま
での間にそれぞれ実施するものとし、状況下の研究実施に当たっては適
宜の結節を設けて研究を進める。
基礎研究の末期及び状況下の研究の各結節ごとに合同研究を行なうもの
とし、最終回の合同研究は図上研究(兵棋)方式により実施する。
(ロ)第2項に示す基礎研究要項中、対米関係事項はその成果について別途米
側と意見交換を行なう。
(ハ)状況下の研究における自衛隊の作戦準備及び作戦実施面の研究に当たっ
ては、昭和38年度の統合及び各自衛隊年度防衛及び警備計画を適用する
ものとする。
1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊
第4代衛生学校長
『衛生学校記事』を発刊したときの、衛生学校長金原節三とはどんな人物なのだろうか?
金原節三(1901~1976)
陸軍省医事課長時代(1941.11~43.8)に731部隊から報告を受けていた。「陸軍省業務日誌摘録」
厚生省東海北陸医務出張所から衛生学校へ 1955.8.1
金原節三と細菌戦
金原の略歴を見ると、昭和16年11月に陸軍省医務局医事課長になっていて、17年に8月に軍医大佐になっている。
細菌戦資料センターの会報には、次のような記載がある。「陸軍省医務局医事課長だった金原節三元軍医大佐が、1955年に陸上自衛隊に入隊した。細菌戦部隊を指導していたのは、陸軍参謀本部、陸軍省医務局衛生課そして陸軍省医務局医事課である。金原は、「金原業務日誌摘録」に細菌戦部隊からの報告を記録している。
金原節三と武見太郎
金原と戦後日本医師会会長になり、医師会、薬剤師会、歯科医師会に大きな影響を及ぼした武見太郎は、軍隊内の先輩・後輩関係にあった。『金原節三資料目録』(陸上自衛隊衛生学校)の巻頭言は、日本医師会長武見太郎が書いている。
※彰古館には、自衛隊関係の資料も保管している!!
『軍事史研究』2010年9月
軍事史関係史料館探訪(56)
陸上自衛隊衛生学校 医学情報史料室 彰古館
喜多義人
収蔵品の多くは、旧陸軍軍医学校由来の品々と医学文献であり、『大東亜戦争陸軍衛生史』編纂の際に寄贈された史料も所蔵されている。また、衛生学校にかつて開設されていた同校戦史室が収集した戦史史料、戦後の警察予備隊から保安隊を経て陸上自衛隊に至る草創期の衛生科部隊の行動史、研究報告なども含まれている。
Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
2、 生物・化学兵器の種類と特性
生物兵器の種類・使用方法
病害動物 病害動物というのは、人体または動物に対して疾病あるいは毒素等による病害を直接与えるものと、間接的に病害を媒介、伝播するもの(学術的には、衛生動物という)の総称である。
(2)衛生動物
実際には、次のような手段によって使用されるのである。
①砲弾、ロケット弾に充填して
②航空機による手段(落下傘、爆弾、噴霧)
③気球
④その他の手段(舟の利用、宣伝ビラ、食料品、化学剤と併用)。
使用手段の詳細は、巻末資料の化学兵器の特性(陸上幕僚監部・米軍化学科部隊参考便覧)172頁、焼夷ガス及び発煙団の特性(陸上幕僚監部米軍化学科部隊参考便覧)184頁を参照していただきたい。
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第3章 現実世界に向きあう
Ⅰ
皇太子が、自分がそのなかに生まれた、入念に構成された権威秩序を、疑問なく自発的に容認したことも重要である。彼は早い時期から、自分が政治権力と軍隊指揮の領域で決定を下すことを運命づけられている立場にあることを学んできた。しかし成人して天皇の義務を負うにつれ、彼の知的関心は歴史、政治、そしてとりわけ自然科学に向けられていった。こういった別の価値や願望は、軍事が彼の日常で最大の時間を占めるのを妨げることはなかった。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.
1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響
2、戦争、
3、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象
4、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱
5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?
「日本が動かなければ」 核兵器禁止条約発効1年、各地で訴え
●核兵器禁止条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・2022年6月21日、第1回締約国会議を招集。開催地はオーストリアのウィーン。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地球を破壊する核実験
歴史上重要な核実験の一覧を次に示す。広島と長崎の原子爆弾の投下に加え、既定の兵器のその国における初の核実験、さもなければ、例えばこれまでに最も大きな核実験だったなど顕著だった核実験が含まれる。すべての核出力(爆発力)は、推定エネルギーと等価とされるTNTの質量(kt)で与えられる。
表中の「実用兵器/非実用兵器」は、実験された装置が(理論実証装置と対照的に)実際の戦闘において仮定として使われることができたかどうかを意味する。
●メアリーが伝えるヒロシマ
●核実験の人体実験
●核被災と核兵器禁止条約