2021年3月18日木曜日

ビキニ水爆での被災船 延1000隻



ビキニ水爆実験(第5福竜丸事件)


ブラボー実験(ブラボーじっけん、英語Castle Bravo)は、キャッスル作戦として1954年3月1日アメリカ合衆国によりビキニ環礁で実施された、高出力熱核爆弾を用いた最初の核実験である。実験当時としてはアメリカの最大出力の、また世界初の水素化リチウムを用いた核爆弾であった。リチウム7の核反応が想定よりも多かったことが原因で、ブラボー実験での出力はTNT換算15Mtと、事前に見積もられていた6.0Mtの2.5倍となった。これにより、ビキニ環礁の東地域で想定外の放射能汚染が発生した。

この実験による放射性降下物ロンゲラップ環礁ウチリック環礁を中心に降り注ぎ、住民は避難が3日後となったために放射線障害に苦しむこととなった。また、日本の漁船「第五福竜丸」の乗組員23名も放射性降下物に汚染され、急性放射線症候群を訴えた。ブラボー実験を契機として、世界的に大気圏内での核実験に対する反対運動が盛り上がりを見せた。

1954年5月までに6回の核実験が行われたキャッスル作戦の一環であり、同作戦のうち最も有名である。これには2つの理由がある。

ブラボー実験の成功が、爆撃機に搭載可能な、実用兵器としての水爆の出現を意味した。

アメリカの不十分な危険水域設定により、第五福竜丸をはじめとする数百隻の漁船が被曝したうえ、ロンゲラップ環礁などにも死の灰の降灰があり、2万人以上が被曝した。これはアメリカが核実験で引き起こした最悪の被曝事故である。

実験を行なった島は消え去り、深さ120m、直径1.8kmのクレーターが生じた。


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ビキニ水爆被災事件に光を当て 、被災者救済と核兵器禁止条約推進のために

 


               太平洋核被災支援センター事務局長 山下正寿

 

ビキニ核実験による被災漁船(延べ1000隻)の元船員・遺族救済を求め「ビキニ国賠 訴訟」を高知地裁に提訴した。訴訟では、証拠書類、証言、傍聴ともに被告の政府側を圧倒したが、2018 年 7 月 20 日の判決は、20 年の時効により原告の請求を棄却する不当判決だった。しかし、裁判長は判決文で、「個々の漁船員が被ばくしたこと、被曝と健康状態の悪化との因果関係を立証することが困難を伴うことが否定できない。そうすると、長年にわたって顧みられることが少なかった漁船員の救済の必要性については改めて検討されるべきとも考えられる」と漁船員の被災を認めた上で、救済の必要性について立法府と行政府に検討を求めた。6 月 11日、高松高裁で 3 名の意見書が提出され、政府の継続的不作為行為が立証された。 裁判に至る背景・動機(今号)、裁判・労災認定をめぐる現状と課題(次号)について述べたい。

 

 

第5福竜丸以外のビキニ被災船があると思っていた国民は皆無であった

 

1985 年、原爆被爆40周年の年、「幡多高校生ゼミナール」が地域の被爆者調査に取り組み、初めて第5福竜丸以外のビキニ水爆被災漁船員の存在に突き当たる。事件から30年を 経過していたが、先入観を持たない高校生や教師たちの被災船員への聞き取りによって、漁船員たちの健康異常を実感した。ビキニ事件についての国の対応は、1986年3月衆議院予算委員会での山原健二郎議員の質問に対して「資料はない」「対策を講ずることはできない」と答弁し、その後も「解決済み」「窓口はなく、資料もない」という姿勢であった。教科書にも、第5福竜丸事件としか記入されず、第5福竜丸以外のビキニ被災船があると思っていた国民は皆無であった。政府がらみの組織的で継続的な情報コントロールなしにはあり得ないことである。ビキニ事件の調査は継続され、星正治・広島大名誉教授らの科学者チームが、被災船員の歯や血液分析により放射線被災を立証し、アメリカ国務省から被災船員の人体影響記録が発見された。事件から60年後にようやく外務省・厚労省・水産庁の一部の資料が開示され、船員保険申請から「公開審理」へ、そして「ビキニ国賠訴訟」高知地裁から高松高裁への取り組みを通じて、この事件の巨大な背景に光が当てられた。

 

 被災船員の健康対策を怠った原爆症調査研究協議会

 

なぜ日本の漁船員の被災がこれほど徹底して隠され続けたのか。その背景には、第5福竜丸以外に被災船が拡大することを警戒した特殊な政治的な理由があった。1954年3月24日外務省で、日米双方の最高医学陣に外務、厚生省等が参加した会合が開かれる。この会議には米国側からABCCの所長のモートン博士の他、アイゼンバット博士(米原子力委員会保健部長)、米極東軍陸軍大佐、海軍大佐も参加し、日本の厚生省からは小林六造(予研所長)、小島三郎(予研副所長)らが参加している。その後、アイゼンバット博士は、アメリカ国務省に「日本における福竜丸の汚染と関連する諸問題:予備報告書」を送っている。その中で小林六造(予研所長)を連絡窓口とし、数回の接触が記載されている。特に、第5福竜丸乗組員の尿調査について、東大病院入院乗組員2名の尿の提出分析と5名が遅れて追加されたが、第1病院入院中の16名の患者のサンプルをまだ受け取っていない、と注文を付けている。 原爆症調査研究協議会は、ビキニ水爆実験による船員の放射線被災データを分析する立場にいながら、日本のマグロ漁船乗組員の内部被ばくの実態を隠蔽した。また、久保山無線局長の死体解剖と肝臓の提供などに関与する立場にあり、アメリカの核実験による人体影響調査に協力する姿勢をとり続けた。この原爆症調査研究協議会に3名の元731部隊関係者がふくまれていた。これらの人々 は、731部隊が戦時中果たした責任をアメリカに免除してもらうことと引き換えにアメリカの核戦略に協力した。「協議会」環境衛生部会委員に任命された宮川正は、12月22日、食品衛生部会で「マグロはもう大丈夫」と発表。25日厚労省がマグロ検査の中止を決定、29 日にマグロ検査の廃止を閣議決定となるが、このマグロの放射能汚染検査打ち切りの判断を下した中心人物と言われている。1956 年3月16日衆議院外務委員会参考人として参加し、宮川は第5福龍丸以外の日本人の被災について、第8順光丸等の乗組員が急性白血病で苦しんでいたにもかかわらず「これといって目立った放射線障害というものはおそらく無かっただろうと思います」と推論を展開している。

 

操業中止、回避指示をしなかった政府の不作為行為

 

高知地裁で、被告側は「海上保安庁は昭和28年10月10日、官報で、ビキニ環礁付近の海域への立ち入り禁止を告示したと主張し、また昭和29年3月27日にも官報でビキニ海域は、兵器の実験のため非常に危険であるとの告示をする等、本件核実験が行われる以前から 漁船等に周知していた」と主張した。しかし、官報の告示を見る船員は稀であり、船員に周知させるためには、マグロ漁船の拠点基地の関係機関に直接核実験の危険性を説明し、無線を通じで漁船に徹底することが不可欠だ。しかも、3月27日の官報告示日は、2回目の核実験の当日であり、「核実験のため」と記載せず「兵器の実験のため」となっている。これでは、遠洋まぐろ漁船に危険性が伝わらず、しかも周辺海域で操業していた漁船が核実験の影響を回避することは不可能である。 3月16日に、第5 福竜丸の被ばくが明らかになってから、5月まで船体放射能汚染船が98隻と記録されている。全く、船員への避難周知になっていない。事実、マグロ漁船の代表的基地三崎港での、船員への情報通知のための日刊「三崎港報」にすら、前記の官報の危険は掲載されていない。これは、第5福竜丸帰港によって、水爆実験の危険を知りながら、 海域の操業中止、回避指示をしなかった政府の不作為行為そのものであり、漁船員の被災を放置した政治責任は逃れない。

 

ビキニ事件処理と戦犯釈放が取引された日米政治決着

 

1954年12月に入って吉田内閣が倒れ,鳩山内閣となった。外務大臣も重光葵外相となり、政府与党幹事長は岸信介、いずれもA級戦犯・容疑の責任を解かれ、政界復帰したメンバーのもとで「事件処理」が加速された。日米科学者会議の開催からマグロ検査中止、そして1月4日の「政治結着」まで1カ月余りの急展開であった。日米交換文書への調印に向けて、かなり多くの展開があったことがアメリカ史の研究者・ 高橋博子さんによって、アメリカ公文書と外務省公文書が発見され、明らかになった。アメリカ政府が日本政府に見舞金200万ドルは、米議会に諮る必要のない最大限度の額として支出されていた。アメリカ政府の心理戦略の協議機関で「米政府の最高レベルで秘密工作を検討した委員会」である工作調整委員会(OCB)の承認をへて、アイゼンハワー大統領による承認のもと、対外工作本部の予算から出された。又、駐日大使アリソンと重光との会談では、ビキニ水爆被災問題の「解決」と日本の戦犯 解放とが文字通り並立する問題として議論されていた。戦犯でもあった重光外相は6項目のメモの最後に「大規模な戦犯の解放と仮出所、この問題を解決することで、米国政府の役割に対して日本の人々が好意的な態度とらせ、ほかの政府の関心事である行動の面で、われわれの関係改善に向けて実質的に貢献するであろう」と、戦犯解放によって日本人の対米観が好転することが述べられていた。 アメリカ側は今後の「汚染まぐろ放棄」も「更なる死者」にも法律上の責任はとらないことを公文中に明記するよう日本側に求めている。ビキニ事件をアメリカのためにも処理する代償に戦犯釈放を求め、そのために第5福竜丸以外の被災乗組員は、何の救済措置も受けることなく棄民として放置された。戦犯はその後釈放され、ビキニ事件は、日本の保守政治の形成に大きな影響を与えた。


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1954年に起きた第5福竜丸事件では、被ばく船は800隻もあったと言われているが、第5福竜丸一隻だけとしたのも宮川教授である。

731部隊レントゲン班に所属していた宮川正東大名誉教授

経歴
1913年 広島県呉市で生まれる
1937年 東京帝国大学医学部医学科卒業
1944年 731部隊レントゲン班  (終戦まで)
1946年 逓信省病院、国立東京第一病院勤務
1953年 横浜市立大学医学部教授に就任
1956年 東京大学医学部放射線科教授に就任
1973年 東京大学を停年退職、東京大学名誉教授となる。埼玉医科大学教授に就任
1978年 埼玉医科大学放射線医学教授に就任
1980年 埼玉医科大学附属病院副院長を兼務
1983年 埼玉医科大学附属病院院長に就任
1989年 埼玉医科大学学長代行に就任
1993年 埼玉医科大学名誉教授となる
2002年 逝去 88歳

宮川教授は、731部隊に所属していた前歴をずっと隠していたが、何と東大の定年退官直前にそれがバレて、退官記念講義の場で学生から厳しく追及されるハメに陥った。

---------(引用ここから)--------------

ある退官記念講演にて

ところで、最近、全日本医学生連合中央書記局で出している「全日本医学生新聞」(1973年4月1日号)がつぎのような記事を発表している。以下はその全文である。

(中略)

東大宮川教授に対する追及は、3月2日最終講義の場において大衆的に貫徹された。

公開質問状
放射線科 宮川 正教授殿

(中略)
その中で、日中戦争時における細菌兵器と生体実験を行なった731部隊の犯罪性が明らかにされ、学術会議南極特別委員会に"返り咲い"ていた元731部隊員吉村寿人、北野政次について、その生体実験を中心に検討小委員会が設けられることになりまた。これは新聞にも大きく報道されたのでご存知のことと思います。
 ところがこの学術会議の場で、宮川教授が731部隊出身であることが明らかにされました。
われわれは防衛医大の問題を考える時「医学者の戦争責任」を決してさけて通ることはできないと思います。教授は自らの戦争責任とりわけ731部隊に加わっていたことをどのように考えておられるのか、以下の点について公開の場で見解を明らかにしていただきたく思います。
1、731部隊に加わったのはいつからか、又どのような経緯でそうなったのか。
2、731部隊における教授の任務は何だったのか、そしてどのような活動を行なったか。
3、以上をふまえて教授自身、戦争責任とりわけ医学者としての戦争責任をどのように考えておられるか。
4、防衛医大設置に対してどのように考えどのような態度をとられるか。
昭和48年2月23日                 医学部共闘会議

われわれは以上の公開質問状に対し最終講義の場で回答するよう要求した。

 

医学者の"名誉"とは?

 それに対し教授はいかなる対応をしたか。
 彼はまず何より戦後20数年たった今日、"隠しおおせた"と思っていた自らの戦争犯罪が「最終講義」というまさに土壇場で曝露されたことに対し驚きと狼狽を示した。
 「最終講義は授業の場だから答えられない」といったり、
「最終講義はセレモニーでしかないから追及されるくらいならやめてしまってもよい」などと矛盾したことをいいつつ、公開質問状に回答することを拒否した。
 はては「記念すべき退官記念講演の場で私を追及するなんて君らは残酷だ」となどと泣き事ともつかぬ事をいいだす始末だった。
 戦後「医学者としての戦争責任」を何ら追及されなかったばかりか逆に医局講座制の頂点に君臨してきたこの教授が土壇場で演じたのは、自らの戦争責任を大衆の場で明らかにすることではなく、自己の"名誉"を必死で守り抜こうとする醜態でしかなかったのだ。
 細菌兵器と生体実験によって中国人民を虐殺した731部隊の犯罪性を捨象し、「最終講義で追及されることを残酷だ」としか感じとることのできない人間に「医学者」を名乗る資格はない。
 3月2日、われわれの闘いによって講演後2時間余りにわたって宮川教授に対する大衆的な追及が展開された。
 われわれの追及に対して、宮川は昭和19年4月から20年8月まで731部隊に所属していたこと、又放射線によるワクチンの研究を行なっていたことを明らかにしたが、「自分が第何部に属していたかは知らない」「人体実験はやっていない」などとうそぶき、"核心"にふれる事については「知らない。忘れた」など一切"黙秘"を押し通すことによって居直り続けた。
 そして「医学者の戦争責任」についても、すべて「戦争が悪い」「天皇の命令だからやった、反抗すれば殺されていたかも知れない」などということによって自己を免罪し、あげくの果ては「日本国民全体の中の一人としてなら反省してもよい」などと"反省"にならぬいいわけを並べたて、彼の本質を大衆の面前で曝露した。
 防衛大に対しても、「よく知らない」「自衛隊の中にも医者は必要だ」といいのがれをし"軍医養成と軍事医学研究"という指摘をつきつけられるや、「軍医の役割は大きい。軍医は必要だ」とヌケヌケといってのけた。
 このように居直る宮川教授に対する追及は、席を立つ学生がほとんどいないという熱気の中で続けられ、731部隊の戦争犯罪を大衆的に確認し貫徹された。
(以下略)
---------(引用ここまで)--------------

退官記念講義は敬意と感謝に包まれて暖かい雰囲気で行なわれるものだが、左翼系学生のつるし上げにあい散々なものになったようだ。

悪いことはできないものだ。自業自得である。

当時の左翼学生の活動すべてを肯定するつもりはないが、ここでの追及は正義に基づいたものであり、まともである。(この人たちは今どうしているのか。そして今の学生は何をやっているのか)

彼が731部隊で行なった人体実験の詳細はよくわかっていないが、肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行なったという証言がある。

退官記念講義の場で追及されても、実験内容を明らかにできないほど凄惨なものだったのだろう。

ナチスは、強制収用所のユダヤ人の生殖器に大量のX線を照射して不妊にさせるといった悪魔のような冷酷な実験を繰り返していた。
同じようなことを731部隊でやっていたことは間違いない。

亀井文夫監督の有名なドキュメンタリー「世界は恐怖する 死の灰の正体」の製作に宮川教授は協力している。
映画の冒頭でコバルト60のガンマ線を小鳥が死ぬまで浴びせる衝撃的な実験が紹介されているが、恐らく731部隊では中国人を使って同じことをしていたのだろう。示唆に富んだ実験である。

宮川教授は、「記念すべき退官記念講演の場で私を追及するなんて君らは残酷だ」と言ったが、自分が中国人に対して行なった凄惨な人体実験は残酷でなかったとでも言うのだろうか。

こんな人物に名誉教授を授与するのが東京大学なのである。

戦後、731部隊の他の隊員と同じく、彼は米国に人体実験データを渡すことを条件に免責となった。
弱みを握られているから、当然、米国原子力産業の言いなりであり、以後、彼も放射能被ばくの過小評価に協力することになる。

1954年に起きた第5福竜丸事件では、被ばく船は800隻もあったと言われているが、第5福竜丸一隻だけとしたのも宮川教授である。

宮川教授は放射線医学研究所(現・放射線医学総合研究所)の設立に尽力したが、本来は独立して研究を行なうべき放射線医学もまた原子力産業に取り込まれていく。米国・原子力産業の意向には一切逆らえないのである。

現在、放医研はIAEA協力センターに指定されているが、実質的にIAEAの傘下組織と言ってよいだろう。

前稿でも述べたが、宮川教授の弟子の弟子、たった2代下るとあの中川恵一准教授である。
マスコミに頻繁に登場して安全デマを流布している中川氏もまた731直系の御用学者なのだ。

自分の出世や金儲けのために人間をモルモットのように使う731部隊の悪魔のような伝統は、現在もしっかり受け継がれている。

731直系の御用学者が安全デマを流布して、福島の人たちを危険な放射能汚染地域にとどまらせようとしていることがその動かぬ証拠である。

731部隊関連の情報は、安倍政権・日本会議が最も闇に葬りたい事実であり、ネット上からどんどん情報が削除されている。

東大のウェブサイトに載っていた宮川教授の訃報も、私が731との関与を指摘した後、あっという間に削除された。

不都合な歴史事実を隠ぺいしようとするのは全体主義国家の典型的な特徴である。
まさに現代の焚書と言ってよい。


宮川正教授は退官記念講義で731部員だったことを暴露された

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