2009年8月7日金曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!
●昨日は8月6日64回目の広島の原爆忌、麻生首相が非核3原則の堅持を訴えていたが、アメリカの核の傘の下では3原則もあったもんではなかろう!!自民党は国民を裏切っている!!
●原爆投下から64年。広島は6日、「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では午前、「原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」(平和記念式)が開かれ、約5万人が犠牲者を悼み、世界の平和を祈った。麻生首相は式典参列後、原爆症認定集団訴訟の原告らと訴訟終結の確認書に署名した。秋葉忠利市長は平和宣言で、「核兵器のない世界」を掲げるオバマ米大統領への支持を前面に出し、核廃絶について英語で「イエス・ウイ・キャン(絶対にできる)」と呼びかけた。 (朝日新聞)
●【俵義文(教科書全国ネット21)さんよりの情報】
横浜市と同じ8月4日に川崎市でも採択が行われました。4地区ともにこれまでどおりのということで、「つくる会」教科書は不採択でした。地元に人からの情報を以下に転載します。同じ神奈川県でも横浜市とは大きな違いがありますね。


 本日(8/4)午後2時から川崎市教育委員会臨時会が行われ、教科書採択が行われました。
結果は帝国2地区と教出2地区(これまで通り)という結果でした。

①今日の審議の中で、教科書を変えると教師への負担や子どもたちの混乱が心配されるなどの
理由でした。

②「つくる会」メンバーから教科書採択についての新たな請願が出されていました。(これまで通り、
採択の「可否は決しないという結論になりましたが)

③川崎では(横浜とちがって)傍聴者にも調査研究報告書が配布されました。それを見ると、現場
の先生方の率直な意見が見えます。曰く「天皇に関する記述が多い。」「神話に関する記述が特定
の立場に偏っている」「日本の植民地支配などの記述は偏っている」「戦争史の記述は詳しいが、民
衆の歴史における役割に関する記述が少ない」「戦争の記述について日本の加害者としての視点が
欠けている」(扶桑社、自由社の教科書に関して)  


●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年渡満、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。

●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

1,白地に紅く

(昨日の続き)秘密部隊第1日目
 次の日、私は斉藤さんと一緒に市内にある731部隊の総務部へ出かけていった。
 そこで私は面接や調査を受けた。家族の構成や政治的なことを、こと細かに突っ込んで聞かれた。それは思想調査であり、家族や親族に“アカ”がいるかを調べているのだということはすぐ分かった。秘密防衛にかなり気を使っていることを知るにつれて、何か普通ではないことが行われているのではないかという感じはした。調査は徹底したもので、最初の3ヶ月間は試用ということを申し渡され、その間は正規の雇用関係ではなく、給料も日給1円55銭の支給であるといわれた。
 私はこうして厳しい審査を経て、ハルピン駅近くの、731部隊独身者のための白樺寮に落ち着くことができた。ここはロシア人の設計による赤レンガの魅力ある建物だった。実はこの白樺寮から731部隊までは20キロ余り、赤茶けた1本の道が続いていて、私はこの道をその後、朝晩通うことになるのだった。
 白樺寮では、12畳ぐらいの広い部屋に2人、洋風ベッドにトイレ付き浴室というかなりモダンなものだった。白樺寮から平房(ピンファン)の731部隊までは、バスで40分ぐらいの道のりであったが、初めて平房の731部隊へ行った時のことを、私は今でも忘れることができない。 (明日に続く)


※白樺寮の部屋の広さといい、洋風ベッドにトイレ付き浴室という設備といい、当時としてはなかなかそのようなところに住めるものではない。いかに国家的に力を入れ、優秀な人たちを集めようとしていたかが分かる。新兵器開発のために惜しみなく金をつぎ込んだのである。国民は節約をしひもじい思いをして贅沢を禁じられていた時代である。(ノブ)

日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

諸鴻宝(男、62歳)の証言
 1937年に日本軍が入って来た時、私は満15歳で、家は倉巷99号でした。私たちは大家族でみんなで30何人もが一緒に住んでいて、母方の祖母と父方の祖母、父と母、叔父や伯父にその子や孫とたくさんでした。
 日本軍が入って来てから、焼き殺し犯しかすめと、為さざる悪事はありませんでした。行った所はどこも一面の火の海となりました。街には死体がごちゃごちゃに転がり、血痕がそこかしこでした。日本軍は中国人を粗末な草と見なし、ほしいままに殺戮しました。12月13日に、日本軍は通りを抜け横丁を縫って大掃蕩を展開し、私たちが門を閉めていても、門の外の騒々しい日本軍のわめき声やら革靴の音やらが聞こえていました。 突然、我が家の門が蹴り開けられ、日本軍の何人かが闖入して来て、猛々しく私に向かって来、私はその時3歳の弟を抱いて部屋に座っていたのですが、日本軍の1人が有無を言わせず、刀をふるって、私の頭部をやたらと斬り付け、7太刀か8太刀でしたが、私がかぶっていた綿の帽子が斬り刻まれ、途端に頭から血がどくどく流れ、ぎりぎり突き刺すような痛みを感じたと思ったら、目の前が真っ暗になってひっくり返り、あっという間に目がくらんで、人事不省になってしまいました。小さい弟が脇に放り出されたのは分かっていて、それからは何も分からなかったのです。日本軍が行ってしまってから、、母が寝台の下から出て来て、私が血溜りの中に倒れているのかを見、もう少しで気絶するところでした。お婆さんが香炉の灰を見つけて来て、みんな頭をに着けて包帯を巻いてくれました。父はこの災難に遭ったことで、明くる日から精神病になり死んでしまいました。間もなく家中で上海路の難民区に移り住みました。いくらもしない内に、頭の傷口が炎症を起こし始め、お婆さんが傷口を洗ってくれるたびに、心を痛めて忍び泣きしていましたが、旧正月が過ぎて傷口がやっとだんだんに治ってきました。私は大脳にむごい損傷を受け、今でも記憶力が余り良くなく、頭の傷痕は今尚はっきり見えるのです。これらの傷の痕には、日本軍の恐ろしい狂暴な行為が銘記されていて、私の彼らの対する骨の髄まで達している恨み憎しみが刻み込まれているのです。
(湯雲龍と劉興林が記録) ※ここでも日本刀が登場する。日本軍は庶民に対してちょっとしたことで刀を振り上げた。南京掃蕩戦では、17日の南京入城式に合わせて徹底的に掃蕩作戦を行った。

 入城式のための「残敵大掃蕩」(笠原著:『南京事件』より)
功名心にはやる松井石根(いわね)司令官と中支那方面軍司令部が17日に入城式を強行することにしたため、日本軍は14日から17日にかけて、南京城の内外で全軍をあげての徹底した「残敵掃蕩・殲滅(せんめつ)」作戦を遂行することになった。
 大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有の盛事、敵の首都への皇軍の入城」の一大セレモニーの日に、式場はもちろん、城内、城外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮鳩彦王(あさかのみやはとひこおう)中将(久邇宮朝彦親王の第8子)は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。・・・・・
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。・・・・

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

9条がゆきわたった世界


「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
 「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
 第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
 国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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