2009年8月6日木曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!
●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年渡満、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。

●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

1,白地に紅く

(昨日の続き)ハルピンの朝
地図をたよりに、ハルピンの忠霊塔近くの馬家口(マーチャコ)にある斉藤さん宅を訪ねた。奥さんは笑顔で私を迎えてくれて、少し休むように言ってくれたが、そんな気にはなれず、荷物を置いてまた家を出た。
 大陸の夕日は大きかった。日本の満月なんて問題にならない大きさで、すべてを赤く染めた。人も家も木も草も、真っ赤になった。その夕暮れの中、寺院の鐘が、「カーン、カーン」と鳴り響き、私は今まで見たことのない美しい街に心打たれた。家路を急ぐロシア人が教会の前に立ち止まり、十字をきっている姿も見え、私は異国に来たことを実感した。
 家に戻ってみると、斉藤さんも12歳になる女の子も帰ってきて、私を待っていてくれた。夕食の時、部隊の話が少しは聞けるのかと思っていたが、斉藤さんは家族の前ではほとんど何も語らなかった。眠る前、2人きりになった時を見計らって、以前に病院でも聞いた「秘密部隊」「口外するな」などの簡単な説明を斉藤さんはしただけであった。私はその日は、入隊の不安のためもあって、なかなか寝付かれなかった。(明日に続く)


※新天地の部隊で何をするのか分からないは、本当に不安になるだろう!!もし、何をするのか分かっていたら、越さんは果たして731に行っただろうか?兵隊に召集されたり、731に行ったりと本当に当時の日本は暗い感じがする。今も明るくはないが!!(ノブ)

日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
化学兵器CAREみらい基金ブログ

  
大久野島(毒ガス島)

  
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南京への道:史実を守る会

  
根津公子さんのページ
  

南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

楊子貴(男、66歳)の証言
1937年の冬、日本軍が南京を占領した時、私の職業は人力車牽き(じんりきしゃひき)でした。1度中山東路の三条巷で車を牽いていて、日本兵の1人が、強引に車に這い上がって来、私は牽くしかなく、黄埔路(今の解放路)まで牽いて来たら、降りようとするので、私は車を止め、車賃を貰おうとしました。彼は横暴にも、金を払わないばかりか、すぐさま銃剣をまさぐって、私のもも猛然と一太刀刺したので、鮮血がほとばしりましたが、私は痛みを堪えて急いで車を牽いて逃げ、今でも私のももには傷痕があります。(羅○海が記録)   ○は日本の漢字に変換できない漢字。
 ※一般の庶民がまたしても、ちょっとしたことで傷を負う。日本兵は中国人をチャンコロと呼んで馬鹿にしていた。中国にはこのようにちょっとしたことで傷つけられた人がどのくらいいるのだろうか?この文章からは、傷は深いものと思えるが?
 
憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

9条がゆきわたった世界


みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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