2018年11月11日日曜日

細菌戦の系譜!!

ブログ王ランキングに参加中!

帝銀事件と登戸研究所
第19回「衛生学校記事」情報公開裁判
シンガポールで、731部隊は何をやっていたのか?
peace8(八王子)「731部隊と100部隊の現在の課題」(アミダステーション)
沈黙(横浜)
731部隊『留守名簿』(不二出版)2018年9月
京大 軍医博士論文の検証
731部隊『留守名簿』公開
ある元自衛官の回想 「化学学校の黒い霧」
第9回『化学学校記事』情報公開裁判 9月26日 16:00~東京地裁522号法廷
第10回ビザ発給拒否・集会妨害国賠訴訟【9月21日(金)11:30~東京地裁415号室】
731部隊と「要塞」遺跡を訪ねる
「明治150年礼賛式典」


●お知らせ








●「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔」
●NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」


『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』の起こし

『満洲天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶

●第4章天理村と隣接した731部隊

4、相野田健治の回想(1)-731部隊に召集

注1 満州天理村建設の準備段階から終戦間際まで一貫して関東軍の介在があったことは事実である。(1)
「一宗教団体が集合移民を入れ自力でこれを経営していこうとするのであるから、その成否は特に注目された。もしこの移民にして不成功に終わるようなことがあれば、真に将来の移民政策に影響するところ大なるものがあるので、関東軍特務部をはじめ、駐哈(ハルピン駐在)日満各関係機関は勿論、阿城県当局においても絶大の支援を寄せ、特にその施設には、多年満州にあって農場経営の権威者たる東亜勧業株式会社が、そのウンチクを傾けて当たることになった」(天理教生琉里協会編『天理村十年史』天理時報社、1944年96頁)

注2 「上官の命令は、朕の命と心得よ」(2)
軍隊の規律、軍人勅諭の言葉で「その兵馬の大権は、朕が統すぶる所なれば、その司々 (つかさつかさ)をこそ臣下には任すなれ」に由来する。

満蒙開拓団



「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」


日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第2章 地図から消えた神秘の大久野島

最初の毒ガス被害者

害を受けた人がどんどん増え、島の病院は施設を拡大せざるを得なくなった。病院には目に痛ましい包帯をした人や黒いサングラスをかけた人、手足に水泡ができて黄色い液体を流している人、また、長い間毒ガスと接しているので、顔が火傷の跡のように深褐色に変わってしまった人たちがおり、特に毒剤が体の内部に侵蝕して、気管支がスース―と音を立て、あるいは咳が止まらず、治療の方法もない慢性病となってしまった人たちであふれていた。

日本鬼子のおきみやげ


●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①

15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪

西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表


■731部隊による人体実験・細菌兵器使用

―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。

2011年には、細菌兵器による攻撃についての新資料「陸軍軍医学校防疲研究報告」の第一部60号が見つけられました。同報告では、1940~42年に中国で、731部隊が行った6つの作戦をとりあげ、使用したぺスト・ノミの量と感染者数や結果に基づいて計算した作戦効果(ぺスト・ノミ使用量別の致死数)をまとめた表が示されています。同表の結果は、裁判で認定された、損害の発生した日や場所と辻褄が合うものした。新資料は、これまで「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府に根拠がないことを暴露するものであったのです。

●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳


■公然と
以下は1942年から1943年まで政治犯としてナッツヴァイラー強制収容所に収容され、病舎のカポであったウェルディナント・ホルの証言報告の一部である。ナッツヴァイラーでは1942年10月から囚人に毒ガス実験が行われていた。
「最初のころの実験にはヒルト教授が実験に立ち会っていましたが、やがてドイツ空軍将校に代わりました。囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中へ入ってきました。彼らは下腕から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、そのとき私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された病人達は隣の部屋に行き。そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません。やけどが、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、患者たちのそばにはとてもいられないほどでした。・・・」

知ってるつもり「731部隊と医学者たち」



●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く

水俣病問題

小泉親彦と宮川米次の絆

ヒロシマからフクシマへ

宮川正

「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—

ビキニ「死の灰」世界各地へ

自衛隊とサリン

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場

●ニュース
カショギ氏殺害の録音「各国に配った」 トルコ大統領

辺野古へ土砂投入、年内実現は困難か 搬出する港が損壊

基地移設 主張は平行線 防衛相vs沖縄知事

原爆に対する日米韓の意識:韓国「防弾少年団」原爆Tシャツ問題から

「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ

松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示

“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)


真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活

●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!


●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
1928年の後半から29年の初めにかけて、不戦条約の語句をめぐる議論が続けられている間、天皇や宮中グループはそれには口を出さなかった。日本国家自身が条約を通じて(天皇の名で)参加した。平和と反軍国主義の新精神を広める代わりに、彼らは即位と、それによる排外的国家主義の風潮の強化に力を注いでいった。 第1次世界大戦を終了させたヨーロッパの休戦条約の調印10周年は、宮中グループにとって、不戦条約の平和主義を天皇その人の追求課題とし、日本国民に侵略戦争が違法化されたことを理解させる好機であった。しかし、彼に条約の公式批准(1929年6月27日)の余裕ができる前に、即位の式典が日本の国家主義を強め、そこからの脱却を困難なものにしていった。


小泉親彦と昭和天皇

近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~

近代天皇制の真髄は

福沢諭吉

神武と戦争


●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法9条を生かそう!!


2018年11月10日土曜日

細菌戦の系譜!!

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帝銀事件と登戸研究所
第19回「衛生学校記事」情報公開裁判
シンガポールで、731部隊は何をやっていたのか?
peace8(八王子)「731部隊と100部隊の現在の課題」(アミダステーション)
沈黙(横浜)
731部隊『留守名簿』(不二出版)2018年9月
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731部隊『留守名簿』公開
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第9回『化学学校記事』情報公開裁判 9月26日 16:00~東京地裁522号法廷
第10回ビザ発給拒否・集会妨害国賠訴訟【9月21日(金)11:30~東京地裁415号室】
731部隊と「要塞」遺跡を訪ねる
「明治150年礼賛式典」


●お知らせ








●「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔」
●NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」


『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』の起こし

『満洲天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶

●第4章天理村と隣接した731部隊

4、相野田健治の回想(1)-731部隊に召集

施設の周りにダイナマイトを仕掛けるための穴掘りを命じられた。山砲で施設を撃とうとしたが、頑丈にできているためそんなものでは一向に破壊できない。次は野砲だが、それも適わない。とうとう、731部隊によって編成されていた細菌飛行隊用の1トン爆弾を数人がかりで施設の中に仕掛けとして配備し、ようやく施設全体を爆破した。
父たちが作業した建屋を、息子が破壊した。何という巡り合わせだろう・・・・なぜ自分はこのような重責を背負わなければならないのだ!これが父の言う親神様の思し召しなのか。宗教の真髄なのか。罪のない人を生け捕り、実験と称して生身で殺す。それに火をつけ、あぶり殺す・・・・いったい、宗教というのは人間にとって何なんだ!―あまりの衝撃にへたりこむ相野田の耳に、遠くから「ドーン、ドーン」とすさまじい爆発音の響きが聞こえてきた・・・・・。

満蒙開拓団



「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」


日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第2章 地図から消えた神秘の大久野島

最初の毒ガス被害者

何年かの後、又1人の作業員、大隈政蔵さんがイペリットガスの原料となる塩化硫を運んでいたとき、足元の踏み板が安定していなかったのでひっくり返り、原料を頭から被った。大隈さんは人事不省に陥り病院で1ヶ月治療したが効果なく、肺が完全に焼けて苦痛のうちに死んだ。
大久野島では、このような事故の発生は枚挙にいとまがない。ある者は硫酸が目に入って失明したりした。給料がいいという事だけで、多くの農村の貧しいのうみんたちを引き付け、島で作業をさせられたのだが、戦争の絶え間ない拡大によって、化学兵器の需要がどんどん増加するとともに、危険な事故が頻繁に発生するようになった。死傷者が多くなると作業員の気分に影響するので、1937年3月、工場は大久野島神社の中に死者の供養に「殉職碑」を立てた。だが、こんなことで、作業員の心の中の暗い影を消し去ることはできるはずもなく、彼らの気持ちを落ち着かせることはできなかった。

日本鬼子のおきみやげ


●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①

15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪

西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表


■731部隊による人体実験・細菌兵器使用

―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。

731部隊による人体実験や中国各地の細菌兵器の実戦使用による被害者や遺族の一部は、日本国を相手取って謝罪と賠償を求めるために日本の裁判所に提訴しました。中国人180人が原告となった731部隊細菌戦被害国家賠償請求訴訟(1997年提訴)では、最高裁判所が2007年5月9日に国家無答責(当時は国が戦争被害について賠償する法律は制定されていなかったこと) を理由にして上告を棄却し、原告の敗訴が確定しました(www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/795/005795_hanrei.pdf)。損害賠償の請求は認められなかったのですが、 「細菌戦の事実の有無について」「は原告らが立証活動をしたのみで、被告は全く何の立証(反証)活動もしなかったので」「制約ないし問題があることを認識しつつ」証拠に基づき第一審が判決で示した戦争医学犯罪の事実の存在の認定は確定しました。

●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳


■ダッハウ強制収容所の人体実験
キール大学の心理学者エルンスト・ホルツレーナ―教授と協力して、ラッシャーは300人のダッハウの囚人に「水中冷却の予防と治療」の研究を行なった。実験される囚人は、耐寒飛行服を着せられ、氷の浴槽に漬けられて肉体の機能を綿密に計測され、またさまざまな方法で再び暖める実験が行われた。この実験で約90人の囚人が命を奪われている。有名な外科医で、空軍軍医将官であったエルヴィン・ゴールバンドは、この過冷却実験の結果を1943年、『外科中枢誌』に発表した。今日までこの実験結果は国際的専門誌に引用されている。
1946年ニュルンベルグ裁判の告発が開始された時、ラッシャーとホルツレーナ―はもう生きていなかった。ルッフとロンベルグは多数の死者を出した超高度実験の罪をラッシャーだけに被せることに成功した。彼らは、共犯の疑いが極めて濃厚であったにもかかわらず、無罪を言い渡された。ジークフリート・ルッフは1965年までバート・ゴーデスベルグの航空医学研究所の所長をしていた。

84〔ダッハウ強制収容所でソ連軍捕虜に対して行われた致命的な超高度圏人体実験〕
85〔死の間際の脈拍と呼吸〕

知ってるつもり「731部隊と医学者たち」



●驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く

水俣病問題

小泉親彦と宮川米次の絆

ヒロシマからフクシマへ

宮川正

「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—

ビキニ「死の灰」世界各地へ

自衛隊とサリン

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場

●ニュース
国と沖縄県が初協議、辺野古移設めぐり

沖縄県民投票、2月で調整

東京医大“本来合格”101人 文科大臣「大変遺憾」

東京医大は救済限定 医学部入試不正の全貌を

徴用工判決が突きつける「日韓国交正常化の闇」 韓国大法院判決全文の熟読で分かったこと

「水俣病は終わらない」公式確認から60年―私たちに託されたメッセージ

松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示

“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)


真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活

●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!


●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
1928年の後半から29年の初めにかけて、不戦条約の語句をめぐる議論が続けられている間、天皇や宮中グループはそれには口を出さなかった。日本国家自身が条約を通じて(天皇の名で)参加した。平和と反軍国主義の新精神を広める代わりに、彼らは即位と、それによる排外的国家主義の風潮の強化に力を注いでいった。 第1次世界大戦を終了させたヨーロッパの休戦条約の調印10周年は、宮中グループにとって、不戦条約の平和主義を天皇その人の追求課題とし、日本国民に侵略戦争が違法化されたことを理解させる好機であった。しかし、彼に条約の公式批准(1929年6月27日)の余裕ができる前に、即位の式典が日本の国家主義を強め、そこからの脱却を困難なものにしていった。


小泉親彦と昭和天皇

近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~

近代天皇制の真髄は

福沢諭吉

神武と戦争


●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法9条を生かそう!!


2018年11月9日金曜日

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場

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        相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
                                         北宏一朗
 2002年9月神奈川県寒川町で毒ガス被害が出ました。寒川にあった旧海軍の秘密毒ガス工廠内の工事現場から「びらん性毒ガス・イペリット(マスタード)」と「催涙ガス・クロロアセトフェノン」の入ったビール瓶が発見されましたが、その際工事関係者11名が負傷しました。そのうち1名から染色体異常が見つかっています。その後「びらん性毒ガス・ルイサイトJの入った瓶も発見され総数は、802本 (2004年3月31日現在)にのぼります。そして昨年3月茨城県神栖町で毒ガスの嘔吐剤(くしゃみ剤)」による有機ヒ素化合物によって地下水が汚染され住民に重大な健康被書が出ました。水質検査によれば環境基準の450∼17,000倍の有機ヒ素化合物が検出され被書は拡大しています。更に4月神奈川県平塚市の工事現場から旧海軍の使った 「硫酸ビン (煙幕として使用)」、土壌からマスタード(イペリットのこと)、 くしゃみ剤の毒ガス成分、致死性の青酸(シアン化水素)も検出された。総数は445個(2004年3月31日まで)、現場は、相模海軍工廠平塚化学実験部の跡地、工事中に作業員が負傷し、今もって原因が明らかにされていません。更に8月には中国チチハル市で日本軍の遺棄した毒ガス(イペリット缶)で死者1名、負傷者40名以上という惨事が起こっています。9月には福岡県苅田町苅田港周辺海域で毒ガス弾の可能性の高い爆弾538個が発見されています。




 旧日本軍の作った毒ガス、戦時中は国際法違反の軍極秘の毒ガスエ場、陸軍と海軍が共に研究、開発、実戦に使用、そして隠ぺいされてきた実態…日本の侵路戦争と共に使用され、戦後なお隠し続ける化学兵器の数々、歴代政府による遺棄毒ガス処理の抜本的な対策は無にひとしく、それによって被害は今日に至るまで続いています。

 海軍の毒ガス工場・相模海軍工廠 (寒川町)で、どのような化学兵器が作られていたのか、化学実験部=海軍技術研究所(平塚)では?
 
 平塚にあった海軍技研は現在美術館、警察署、合同庁舎建設現場〔ここから大量の毒ガス(主に青酸)瓶が出てきている〕から北側高砂香料、不二家、パイロットにわたる一帯に研究、実験、製造工場等があり、毒ガス生産の規模拡大の為、寒川に大規模な毒ガス工場を作りました。海軍は毒ガスのことを特薬と名付け(陸軍は色で呼ぶ)、1号特薬(催涙)(緑)、2号特薬(クシャミ)(赤)、3号特薬甲(びらん)イペリット(黄1号)乙(びらん)、ルイサイト(黄2号)、4号特薬(致死)青酸(茶)があり、他にホスゲン(青)、窒素イペリットガス等があり、細菌兵器として11号特薬もある。兵器として砲弾、爆弾(30kg、60kg)、手投弾、噴射、雨下散布等が作られ、他に風船爆弾発火剤用エチル亜鉛(ガラス瓶)数万個、サイダー瓶に詰められた青酸1万本、そして細菌兵器の数々、敗戦時、戦犯逃れの為、そのほとんどが遺棄、隠匿され、全国に及ぶ。


 平塚にあった第2海軍火薬廠(当時東洋一と云われた規模)の相模川寄りの一角に海軍技術研究所が築地から移転し(昭和5年)毒ガスの研究・開発・製造が行われ、規模拡大の為、相模川対岸の寒川町一の宮に大規模な毒ガス製造工場を作り(昭和18年)、名称を相模海軍工廠とし、平塚め海軍技術研究所は化学実験部となり、毒ガスはもとより、生物兵器全般の研究・開発にあたりました。更に錦出張所(福島県小名浜)、多摩出張所(八王子市川口町)、上田出張所(長野県上田)を開設疎開工場としました。

―毒ガス工場の恐ろしさ―
「顔は黒く、目は赤く、肺はただれ、集会の折、駆け足で来る第2工場(イベリット)`の人達は咳が止まらず、血を吐いていた」(日川中学動員学徒証言)
「昭和20年5月頃、30名程の朝鮮少年工(16才~20才前)が宮前寮の一室で、ガスにやられ死んだ様になっていた。」(湘南中学学徒証言)
 国家総動員法(昭和13年)国民徴用令(15年)により毒ガス工場には昭和16年から20年5月まで合計21回の徴用工が配属され、2000名を超える労働者が強制的に働かされました。更に学徒動員、女子挺身隊、そして朝鮮から強制連行(徴用工と称している)した朝鮮人。


 まさか自分が毒ガス工場に連れてこられるなど誰一人思っていませんでした。更に軍機密として「生涯口にするな」と・・・・・。
動員学徒は大学生もいましたが、主に静岡、神奈川、山梨の中学生一湘南中学(藤沢)、相洋中学(小日原)、日川中学(山梨)、伊東高女(伊東)、豆陽中学(下田)、平塚高女(平塚)等でした。
 15才~16才の少年・少女も含む総数3000名以上を[海軍魂・精神棒」と書いた丸太で殴り、或いは「対抗ビンタJ等で威嚇し毒ガス生産にあたらせたのです。60kgイペリット爆弾を中心に1号特薬(催涙)、 2号特薬(嘔吐)、3号特薬甲(びらん)、イペリット、同乙(ルイサイト)、4号特薬(青酸)等が作られました。


 これらの化学兵器・毒ガス兵器はどこに送られ、敗戦時にはどこに隠匿されたのでしょうか。その多くが中国大陸へ、そして南方へ、対ソ戦用に北方に配備、最後には本土決戦用 として(決号作戦)大量の毒ガス兵器が配備されました。 陸軍毒ガスエ場の大久野島(広島)には現在も地下壕に大量の毒ガスが埋蔵されています。北海道美幌基地の地下壌にあるも60kg イペリット・ルイサイト混合爆弾(不凍)、福岡県苅田港周辺海域に放置されたまま538発にのぼる爆弾、寒川町岡田にある特殊地下壕に隠匿された各種毒ガスの原材料、毒ガス兵器、隠匿された陸・海軍の化学兵器、毒ガス兵器は今日に於いても、その毒性はおとろえることもなく地下に、地中に、海中等に眠っています。国内にとどまらず、中国をはじめ東南アジア全域に、南洋諸島に及んでいます。p2

―毒ガス、化学戦、悪魔のネットワーク―

 昭和15年、海軍技研(平塚)に陸軍参謀総長、閑院宮〈かんいんのみや〉(中国での毒ガス戦を指揮、大陸指令110号)、前年には東久邇〈ひがしくに〉が視察に訪れています。毒ガス戦将校養成機関としての陸軍習志野学校に技官を派遣。化学部隊の創設、更に陸軍技研から細菌戦の資料をとり寄せ、研究開発を進めていました。(1号兵器)。
昭和17年「決戦兵器考案ニ関スル作戦上ノ要望Jを陸・海軍で協議、昭和19年1月「大陸指令1322号、化学戦準備要綱書」に記されている「化学戦ノ準備ノ実施ニ於テハ密ニ現地海軍卜連携スルモノトスJ「秘匿名G作業卜定ム」に見られるように、陸・海軍の化学戦・毒ガス戦は両者の緊密な関係を抜きにしては語れません。

.
 相模海軍工廠、海軍技術研究所こそ、陸軍の大久野島、科研、登戸研究所と対をなす化学戦の重要なネットワークの一部と位置らけられます。
 日本政府には、陸・海軍の行った秘密の化学戦の全容を明らかにする義務と責任があり、遺棄・隠匿された毒ガスの回収・無害化を国内外にわたって一刻も早く進めなければならない。何故ならば毒ガス兵器は生きており、いつ住民に襲いかかるかわからないからです。 p2


科研を視察する昭和天皇 (中央)。
久村所長が先導している (元科研職員の小野田悦郎さん提供)

一本土決戦に備える毒ガス部隊一
環境省が発表した(`03.11.28)、昭和48年「旧軍毒ガス弾等の全国調査Jフォローアップ調査報告書によれば、神奈川県に於ぃては12ケ所、平塚(海軍技術研究所跡地)、寒川(相模海軍工廠跡地)、そしてその中に茅ヶ崎市の事案(神奈川14-9)がある。
 1983年6月4日付朝日新聞は「茅ヶ崎、旧軍の青酸ガス弾、学校跡地から発掘、作業の人やけどJと報じた。場所は茅ヶ崎市富士見町の私立「平和学園」(現アレセイア湘南)の敷地内、幼稚園の裏側、深さ2.5mの所から球状のビンが300個以上、旧海軍の青酸ガス弾と見られていたが、後に塩素系の催涙手投げ弾119個と発表され、自衛隊によらて処理されたとある。昨年平塚で発見された球状の青酸手投げ弾のことを考えると119本以外のビンの内容が不明にされたままが不自然である。この現場は昭和20年5月から海軍砲術学校があった場所とされ、 フォローアップ調査では現在の状況として、“鉄筋4階建の教育施設が建っていて、井戸水は飲用していない。旧海軍砲術学校について、学校そのものが存在していない"と記されている。p3

 敗戦直前、湘南海岸に毒ガス兵器を装備した海軍砲術学校とその部隊は幻だったのであろうか。そして毒ガスはこれだけだったのだろうか?
昭和20年4月1日、海軍大臣内令第278号海軍省内に海軍化兵戦部発足(高田利雄少将)主に相模海軍工廠北里又郎中佐、館山砲術学校大川秀四郎少佐を中心に化兵戦実施部隊の編成・整備にあたるとした。敗戦前に毒ガス部隊が突如計画されたものではなく、昭和18年館山海軍砲術学校(睦戦及び陸上対空担当の術科学校)に化兵戦の研究・教育が行われていた。p3

 昭和18年5月には、大川中佐を中心に士官2名、下士官6名を陸軍習志野学校(毒ガス戦将校養成の秘密学校)に派遣、後に彼らが、教官、教員にあたった。 この年は相模寒川本廠が完成、毒ガスの大規模生産が始まった年でもある。昭和20年6月館山砲術学校と横須賀海軍砲術学校が併合し、化兵戦の研究・教 は横須賀砲術学校の所管となった。養成要員は士官250名、要員450名であった。p3

 先の茅ヶ崎の砲術学校は、この部隊をさしており、昭和20年5月から水野大尉を長とする水野部隊100名が辻堂(平和学園)に配備され、兵舎として幼稚園を接収していた訳です。彼らは本土決戦(昭和19年4月決号作戦)の為、赤柴中将を長とする第12方面軍53軍と共に毒ガス兵器を装備して湘南海岸に配置されていた。彼らのいた平和学園から程近い辻堂海岸には、大正15年から海軍の演習場があり、ここで海軍技術研究所が築地時代から研究開発した各種の毒ガス兵器の実験を繰り返し行っていた。敵上陸を想定しての波打ち際イペリット散毒等も行われ、上記部隊員は「毒ガスマスクを付けて江ノ島までの行軍はつらかった」述懐している。

現在ここは辻堂団地、県営辻堂海浜公園になっている。決号作戦では米軍上陸地点を鹿島灘、九十九里浜、相模湾の3地点を予想(相模湾の沿岸陣地は鎌倉山と大磯の千畳敷山(現湘南平)を両肩とし、茅ヶ崎小出から藤沢の丘陵地帯に陣地(地下壕)を構築、玉砕覚悟の作戦を立てていました。ここに毒ガスは配備されていなかったのか、平塚・寒川・茅ヶ崎と本土決戦用毒ガス兵器が次々と現われ、環境省発表県下12ヶ所のうち湯河原吉浜にあった睦軍第6技術研究所 (陸車の毒ガス・細菌戦等の研究・開発機関・平塚の海軍技術研究所と密接な関係)吉浜出張所があり、敗戦後初島沖に海中投棄された(現物は今も海中にある)。相模川河口すじの海中にも大量のイペリット入りのドラム缶等が投棄されたままになっている。p3

 平塚の海軍技術研究所・相模海軍工廠(寒川)で研究開発され実戦配備された各種毒ガス兵器は上記の技官を通じ、南方ラバウル、 トラック、サイパン、フィリピン、インドネシア、南洋諸島に配備された。
 環境省は平和学園 (現アレセイア湘南)の毒ガス発見現場周辺の再調査をすみやかに行うと同時に、本土決戦用に構築された各種の特殊地下壕(寒川・岡田の全長3kmの地下壕、藤沢大場城趾公園地下壕、大磯海軍陣地等)の再調査、毒ガス部隊となった各地海兵団の実態を明らかにするべきである。p3

「旧海軍の毒ガス」に新資料 1987年4月7日(朝日新聞)
本土決戦へ相当量備  米軍報告書

 第2次大戦中の日本海軍の毒ガス兵器研究、生産などについて全容をまとめた米軍報告書が、6日までにワシントンの米国立公文書館で見つかった。致死性のびらん性ガスであるイペリットの年間生産量は終戦前の時点で、陸軍より海軍の方が多く、国内には本土決戦に備えて相当量の毒ガス爆弾を貯蔵していたほか、占領直前に海軍司令部の指示で、保管していた大量のガス爆弾を廃棄したことなども明らかになった。資料は占領期間中に米国側が当時の日本軍関係者らの尋問をもとに作成したもので、海軍の毒ガス開発、製造について詳細な資料が見つかったのは初めて。

資料の表題は『日本の化学戦についての情報報告』。常石敬一・神奈川大教授(科学史)と、長島修・立命館大教授(日本経済史)が、研究資料を調査中に、報告書とその基になった尋問所を見つけた。毒ガスの開発研究、生産、戦場への補給システムと貯蔵施設、化学戦訓練などにわかれ、全体量はA5判のリポート用紙で約650ページ以上。いずれも昭和21年5月までに米太平洋陸軍総司令部が作成、「部外秘」扱いにしていた。
 報告書によると、海軍では技術局の機関として大正12年(1923)に東京・築地に最初の化学兵器研究所を設立した。その後、神奈川・平塚の海軍火薬工場敷地内に施設を移し、昭和6年の満州事変ぼっ発後、研究規模を拡大。戦局にかげりが見え出した18年に毒ガス製造の拠点となる相模海軍工廠となった。

 同工廠の化学兵器研究部門は終戦時、300人が勤務していた。ガスマスクや防護服、汚染除去剤のほか、びらん性、くしゃみ性の各種毒ガス、催涙ガスなどを製造。陸軍の毒ガス製造所だった広島・大久野島が最盛期5千人の従業員を抱えていたのに比べると、規模は小さいが、致死性のびらん性ガス「イペリット」の生産能力は月間80トンで、19年には海軍司令部の要請でイペリット爆弾4万3千個を製造している。


 敷地の見取り図では、コンクリート壁に囲まれた約8百メートル四方に、14の実験室の他毒液貯蔵室、ガスタンク、爆弾貯蔵庫などがびっしり並ぶ。主な実験室には毒液輸送などのために線路が敷かれていた。

 総司令部の尋問に対し、海軍の元将校は「海軍ではもっぱら化学兵器の使用については防御を中心に考え、攻撃は頭になかった」と答えている。しかし、化学戦で広く使われた猛毒のイペリットの年間製造量を陸、海軍で比較すると、昭和17年以前で、陸軍1262トンに対し、海軍30トンだったのが、19年には陸軍157トン、海軍190トンと逆転。また、国内の海軍貯蔵所には本土決戦に備え、ある程度の攻撃兵器が保管されていた。


 終戦当時の海軍(航空隊を含む)の毒ガス兵器貯蔵量はイペリット(60キロ)爆弾で呉11300個、佐世保5000個、横須賀3000個、大分2300個など計約3万個。占領直前、厚木8850戸、舞鶴5000個、青森・大湊2000個など計15000個以上のイペリット爆弾と、横須賀で貯蔵していた中口径の嘔吐性ガス、催涙ガスの缶3万個が、海軍司令部の指示で廃棄された。

 報告書には海軍の化学兵器の全容のほか、陸軍側の研究、生産状況や、毒ガス研究機関だった第6陸軍研究所、化学兵器戦の訓練教育に当たった陸軍習志野学校の各見取り図、化学戦装備の写真なども一緒にファイルされていた。
 資料では「日本には陸、海軍とも独立した化学戦組織はなく、毒ガス研究も計画性はなかった。装備が十分だったのは中国遠征隊と満州・関東軍ぐらいで本土決戦でも在庫不足で大規模な毒ガス攻撃は無理だった。ドイツとの協力もほとんどなく、これ以上の詳細な調査は必要ない」と結論付けており、米国側が日本の化学戦についてまとめた最終報告書とみられる。


 日本の毒ガス作戦に詳しい栗屋憲太郎・立教大学教授(日本現代史)の話
海軍の毒ガス研究については関係者らが口を閉ざし、霧に包まれていた。まとまった報告書が見つかったのは初耳で、海軍側の解明の糸口になる基礎資料だ。終戦後の戦争裁判では毒ガスについて起訴状では触れていたが、なぜか途中から扱われなくなる。日本軍の毒ガス戦を米国側がどう見ていたかを知るうえでも、参考になる。

アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)


神武と戦争

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紀元節
2年修身の「天皇陛下」につづくのが「キゲン節」で、第1代天皇の即位を記念する日、と説明される。記紀の記述に基づくものであるが、神武の存在それ自体の信憑性が問題であるうえ、紀元節を設定した明治6(1873)年当時の学問的水準からみて、日本書紀の記す月日―辛酉年春正月庚辰朔を太陽暦に換算することは不可能であったとされる。しかし明治政府は、2月11日を万世一系の天皇統治を記念する日として、大日本帝国憲法発布をこの日に重ねたのをはじめ、御真影の下賜、金鵄勲章など、天皇への権力集中をはかる政策をこの日と関連させてきた。
 昭和において、特に紀元2600のこの日を選んで、朝鮮における「創氏改名」、台湾における「改氏名」受付けの第1日としたのは前述のとおりです。太平洋戦争においても、緒戦の作戦の鍵とされたシンガポール占領の日を、2月11日に想定していたという。

神武天皇と金の鵄(とび)
文部省はこの祝日を重視し、第2学年の修身教科書では、神武天皇とその弓の先にとまって光を放つ金の鵄の口絵を掲げた(図18)。文章の基本は前期と大差ないが、「天皇ハ、ゴジブンデ ミイクサビトヲ オツレニナッテ、イクサノ 苦シミヲ ゴイッショニ ナサイマシタ。ミイクサビトハ、天皇ノオンタメニ 命ヲササゲ、ミヲステテ ツカエマシタ」(「キゲン節」)という国民学校ならではの数行の加筆がみられる。

 私たちは、今度 みんな揃って、3年生になります。-中略―
 私たちは、先生から いろいろな お話を 聞きました。
 天皇陛下の ありがたいことが わかりました。
 天皇陛下をいただく 日本の国は、世界中で
 いちばんとうとい国であることを知りました。
 私たちは、天皇陛下に忠義を尽くし、この よい国を、
 みんなで いっそう よい国に しなければならないと 思います。

 これが1年間にわたって3代の天皇について学んだ「私たち」に教科書上の明確な文章としてではなく、先生の
「オ話」を隠れ蓑として国家が刷り込んだ説明抜きの教育の結論であった。


福沢諭吉

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「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。人間の自由平等を説いた福澤諭吉。明治の偉人だが、その実体は超国家主義者だとしたら……。『マンガまさかの福澤諭吉』(遊幻舎)の作者・雁屋哲氏が、検証した福澤のウラの顔を本誌に語った。

─「美味しんぼ」の原作者がなぜ福澤諭吉に関心を持ったのですか。

 中学高校で教わった通り、福澤諭吉は民主主義の先駆者だと思い込んでいました。ところが30年ほど前にあるきっかけから福澤の「帝室論」「尊王論」を読むと、日本国民は「帝室の臣子(家来)なり」と書かれていて驚いた。世間の福澤諭吉像を覆すような文章がどんどん出てくる。それが興味を持った始まりです。

──あの名言も実は福澤の言葉ではなかった。

 代表作「学問のすすめ」の冒頭には「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と言えり」とあります。「言えり」は伝聞体で、本人の言葉ではない。一説によるとアメリカの独立宣言の一部を意訳したとも言われている。つまり、もともと福澤の思想から出た言葉ではないのです。このことは福澤が創立者となった慶応義塾大学のウェブサイトにも明記されています。

──「まさか」ですね。

 まさに、まさかの連続でした。「学問のすすめ」だけを読んでも「分限(身の程)を知れ」「(自分の)身分に従え」など、およそ自由平等とは程遠い言葉が次々に出てくる。教育のない者を「無知文盲の愚民」と呼び、そうした人々を支配するには力ずくで脅すしかないと言いきっています。独裁者でもここまで露骨なことは言えません。

──「学問のすすめ」は、教育の大切さを説く本です。なぜ、そんなことを言ったのでしょうか。

 教育といっても、福澤は政府が政治をしやすいような人間になるために学問を推奨し、その結果、国民に報国心を抱かせようとしていた。そうなると「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は単なるキャッチコピーに過ぎません。最初にこの言葉に興味を持った人を、民主主義とは反対の方向へ導こうとする。これでは思想的な詐欺と変わりありません。「学問のすすめ」では「大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり」など、人間本来の平等を説いている部分も何カ所かある。これは人が経済的、社会的に成功するかどうかは智を持っているかどうかで、生まれつきの違いはないと福澤が考えていたからです。こうした思想は、中津藩の下級藩士だった父親が身分格差から名を成すことができなかったことが影響しているといわれています。一方で智なき愚人は嫌悪の対象とし、当時の平民を「表向きはまず士族と同等のようなれども、(中略)その従順なること家に飼いたる痩せ犬のごとし」と見下しています。

──福澤が明治15年に立ち上げた時事新報は、当時の新聞が政党機関紙化していたなかで独立を掲げ、一躍日本を代表する新聞になりました。

 ところが福澤はその新聞発行の趣旨で、自分が一番やりたいことは国権皇張だと言っています。これは日本の権力を他の国に及ぼすという意味。つまりアジア侵略です。侵略される側からしたらたまったものではありません。日本最大の新聞を発行し、慶応の塾長も務めた人間がこんなことを堂々と述べていたのです。もともと福澤の大本願は日本を「兵力が強く」「経済の盛んな国にする」こと。そのために天皇を国民の求心力の象徴として利用しました。

──富国強兵ならぬ強兵富国とは。つまり民主主義者とは正反対の考えを持っていたということですか。

 実際に、日本が朝鮮支配を進めるために福澤が果たした役割は小さくなかった。詳しくはマンガを読んでほしいのですが、朝鮮宮廷内で起きたクーデターを計画したうえで実行にも加担し、明治政府が仕掛けた日清戦争では言論であおりまくった。戦争に勝つと国権皇張ができたと嬉し泣きしています。そのうえ軍は天皇直属であり、日清戦争は外交の序開きだと言うなど、侵略している意識すらなかったのです。戦争になったら国のために死ぬことが大義だと言い、教育勅語を歓迎した人物が民主主義者のわけがありません。福澤は天皇制絶対主義や皇国思想を日本人に浸透させ、朝鮮人、中国人への激しい侮蔑心をあおった。そのレールの上を走り、日本は第2次世界大戦に負けました。アジア蔑視は、現代の日本人にまで尾を引いています。

──しかし、福澤はそうした軍国主義的な思想を自分の新聞で堂々と述べています。それがなぜいまや民主主義の礎を築いた偉人に?

 昭和に入り福澤諭吉を高く評価し、その研究に多くの時間を割いた丸山眞男氏の罪です。丸山氏は福澤の言葉のなかから、自分の都合の良い部分だけつまみ食いしました。例えば「市民的自由主義」という言葉を使っていますが、福澤の文章のどこをとってもそんな表現はない。逆に福澤が「人民は政府の馬だ」と述べた部分は一切省いている。丸山氏は福澤の文章の行間を重視したり、著書をバラバラにして再構築する方法を採ったと述べています。それでは一体、福澤が何を言いたかったのかわからなくなります。




──なんのためにそんなことを?

 丸山眞男は戦後を代表する知識人。日本に民主主義を根付かせるために、あえて福澤を誤読したとも言われています。ですが、そのためにオリジナルの主張を捻(ね)じ曲げているとしたらとんでもない。多くの人は原本を読まず、丸山氏ら学者の権威に従って福澤を偉人と思い込んでいるのです。

──福澤の思想が、現代の保守政治家たちにも影響を及ぼしているのが問題だと。

 安倍晋三首相は2013年の施政方針演説で、福澤の「一身独立して一国独立す」の言葉を使い、日本を強い国にすると言いました。また日本会議は天皇を中心とする大日本帝国的な社会に戻ることを目指しています。これらの考えの最初の一歩を始めたのが福澤諭吉。つまり、福澤が明治の人々に行った洗脳はいまだ続いています。いま日本は、駆けつけ警護という訳のわからぬ言葉で、自衛隊が海外で敵と思った相手を銃撃できる国になりました。人を殺す戦争のできる強い国を目指すのは、まさに福澤の思想です。

──日本会議は皇室を敬愛する国民の心が日本の伝統にあるといいます。でも明治時代前の日本人は、殿様は知っていても天皇は知らなかった時代が長かったのでは?

 日本会議の言う日本の伝統とは討幕後の明治時代に意図的につくられたもの。大日本帝国時代のわずか80年の歴史だけをもって、日本の伝統ということ自体がおかしいのです。


(構成 桐島 瞬)
※週刊朝日  2017年1月27日号


福沢諭吉
・「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのは福沢諭吉自身の言葉ではない。福沢諭吉自身の思想を表したものでもない。
・福沢諭吉自身は、江戸時代からの封建的な身分差別意識を強く持っていた。「民主主義者」ではない。
・天皇は神聖であり、日本人はすべて天皇の臣子である。一旦戦争になったら天皇のために死ぬべきである、と主張する「教育勅語」を歓迎する福沢諭吉が「民主主義者」の訳がない。福沢諭吉は、第2次大戦に日本を引きずり込んだ「天皇制絶対主義」「皇国思想」を日本人に広く浸透させた。
・また明治維新後、明治維新は朝鮮支配を推し進め、その朝鮮支配を巡って、清に日清戦争を仕掛けたが、福沢諭吉はそれを言論で煽り、それだけでなく、自分自身、日本の朝鮮支配を進めるために、朝鮮宮廷内でのクーデタを計画し、その実行に加担した。
・福沢諭吉は朝鮮人、中国人に対する激しい侮蔑心を煽り、それが日本人の朝鮮人差別、中国人差別の意識を深め、ひいては現代までアジアの人々全体に対する差別心を抱かせる元となった。
・「軍国主義」を確立し、しかもその軍を、天皇を最高指導者とし、兵は天皇のために死ぬ「皇軍」とすることに力を尽くした。
・福沢諭吉の「大本願」である「国権皇張」を求めれば必然的にアジア侵略を導くものであって、事実、福沢諭吉は清国の侵略を強硬に主張し、「皇軍による侵略」という1945年の敗戦に至る道は、福沢諭吉が描いた通りになった。
・福沢諭吉こそ、1945年の破滅に突き進むように日本の方向を定め、人々をその方向に駆り立てた張本人の1人だった。

福沢諭吉の台湾に対する方針は、最初から変わりません。
・「欲しいのは台湾の土地であって、台湾人は眼中にない」
・「日本人を多く移住させて、台湾の殖産を日本人のものにする」
・「そのために抵抗する台湾人は容赦なく殺し尽くす」
この3つが福沢諭吉の台湾に対する一貫した態度で、台湾住民の抵抗が激しくなると、それに合わせて激烈になりますが、基本は変わることがことがありません。

旅順虐殺について
・虐殺の始まった1894年11月21日のことです。福沢諭吉の「時事新報」の12月7日付けの紙面にも、次の記事が掲載されています。
「敵兵が抵抗を試みて無残の最期を遂げたもの、多くはその屍は山のように重なり、値は流れて川となり、市街の道路は行く所敵の死体を見ない所はなく、現在この地に生存する清国人は極めて僅かである」

・福沢諭吉は外国でのこの事件の評判が気になっていました。同月30日に掲載された「我が軍隊の挙動に関する外人の批評」では、「(要約)旅順港を攻め落とした我が軍隊の挙動について外国人の中にはあれこれ非難がましい評価するものがいる。双方の戦いは激しく、敵兵に死者が多いのは怪しむに足らない。わが軍の銃剣にかかったのは、無辜の人民ではなく、軍服を脱ぎ捨て一般人に扮した清国兵である・・・開戦以来今日に至るまで、日本軍隊の挙動はほとんど完全無欠で称賛する言葉を探すのに苦労する次第だ」と、日本軍は完全無欠であると強弁しています。福沢諭吉は、旅順の虐殺はなかったものにしようという、伊藤博文以下明治政府の思惑に沿って、旅順の虐殺を否定する論説をしているのです。

朝鮮王妃閔氏虐殺について
閔氏は韓国では明成(ミョンソン)皇后と呼ばれています。時の朝鮮国王、高宗の后(きさき)です。閔氏は美貌で聡明でした。日本政府は、日本の朝鮮支配に、閔氏が邪魔だと考え、閔氏を取り除くことを決めたのです。日本政府はそれまでの井上馨公使の代わりに三浦梧楼陸軍中将を任命しました。
 三浦梧楼は、朝鮮国王の実父である大院君と親しい岡本柳之助を用いて、再び大院君を担ぎだし、大院君のクーデタを装って政権につかせ、その大院君の要請に従う形で日本軍を朝鮮王宮に送り込んで、閔氏を殺しました。1895年10月8日の事です。


1895年の12月7日の「28日の京城事変」では、
「先月28日の京城事変では、暴行を行った者の中に外国人もいたし、外国公使館の中にも関係したものいるという。現今の朝鮮は糞土の牆(糞のように汚らしい土で作った塀)であって、腐敗の頂点に達し、政府もあってもないも同然。例えて言えば、野外に遊びに出かけた若者が、謡い騒いだ挙句興に乗って無益の殺生をして憂さ晴らしをするのと変わらない。であれば、朝鮮王妃閔妃暗殺の際の王宮乱入も、今の朝鮮の国情からすれば、野外の遊興、遊びとしての無益な殺生として見るべきだろう」


・朝鮮を糞土の牆(しょう)と馬鹿にするのも、すさまじいものですが、何と福沢諭吉は、朝鮮王妃閔氏の暗殺を、若者たちが憂さ晴らしのためにする「野外の遊興、無益の殺生」と同じ事としてしまったのです。





・「独立自尊」心は「仁義忠孝」が自然にできるようになるためのものだ、と福沢諭吉は言っているのです。
福沢諭吉は「独立自尊」の心構えがあれば「仁義忠孝」を意識的に行なうのではなく、自然に行動すればそれが「仁義忠孝」になると言っているのです。
「仁義」とは授業で決められた人の行うべき道の事です。「忠」とは主君に身も心も従う事。「孝」とは親を大事にするという事だけでなく、親の言う事に従う事です。これこそ「教育勅語」の言う事そのままではありませんか。


「明治憲法」は、国の一切を統治する天皇が人民に与えられたもので、司法・立法・行政の三権が天皇の支配の元にあり、しかも天皇が、「天皇大権」と言って、軍の統帥権や緊急勅令・独立命令など、議会と相談せずに自由に行使しうる権限も認められていました。国民の権利は、法律の範囲内でしか認めておらず、手続きさえ整っていたら、国は人権を犯す法律を作ることが出来ました。
 戦前に、人々の思想を取締り、7万人の人を捕らえ、1600人を殺し(中西三洋『治安維持法下の青春』光陽出版、139ページ)、多くの人々を迫害した「治安維持法」も、明治憲法下では完全に憲法で認められていたことなのです。




『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』

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NHKスペシャル 『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』 20170813



NHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』その1  マスコミ(165)2017年8月17日・Ⅱ
命を守るべき医学者がなぜ人体実験に手を染めたのか


 きょうの未明、午前1時に再放送されたNHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』を録画しておいて見た。力作である。NHKの良心的な仕事がここにあった。
 まずは、冒頭のタイトルが出るまでを詳しく再現してみよう。

ナレーション
 関東軍防疫給水部いわゆる731部隊。戦時中、細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊です。これまで、厚いベールの被われてきたこの組織、その全貌を知る手掛かりがロシア・モスクワで見つかりました。
 【ロシア国立音声記録アーカイブの映像】

担当者の声と映像
 これは1949年のハバロフスク裁判のオリジナルの磁気テープです。

ナレーション
 当事者たちの肉声を記録した22時間に及ぶ音声テープ。終戦から4年後、731部隊の幹部らを裁くために旧ソ連で開かれた軍事裁判の記録です。

テープの音声
 マイクの前に寄ってください。
 【被告人たちの映像】

ナレーション
 細菌兵器開発のために生きた人間を実験の材料として使ったと証言されていました。

テープの音声 関東軍軍医部長の証言
 秘密中の秘密というのは、細菌戦をもって攻撃をやるという研究をやったということと、それから人体実験を行ったという、2つ点であります。

テープの音声 731部隊衛生兵の証言
 びらんガスを人体実験に使用して、手とか足、顔がびらんガスにかかってただれて、留置所の中に入っているのを見ました。

ナレーション
 731部隊の実験を行っていたのは、中国東北部の旧満州にある秘密研究所。生きたまま実験材料とされ、亡くなった人は3000人に上るともいわれています。
 【捕虜が柱に縛られている映像】
 なぜ、人体実験はこれほどの規模で推し進められたのか。
 【慶応義塾大学や東京帝国大学、京都帝国大学の医学資料や写真の映像】
 NHKは、国内外の数百点の資料を収集しました。浮かび上がってきたのは、軍人だけでなく、東大や京大などから集められたエリート医学者たちの、人体実験を主導していた実態でした。
 【学者の写真】
 京大出身のこの細菌学者は、致死率の高いチフス菌を研究、細菌を詰めた爆弾で、大量感染を引き起こす実験をしていました。【爆弾の図】
 【別の学者の写真】
 この医学者は、人の手や足を人為的に凍傷に罹(かか)らせる実験をしていたといわれます。【日本兵士の凍傷の写真】

テープの音声 731部隊憲兵隊員の証言
 その中国人の手を見ますと、3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました。残りの二人はただ骨だけ残っておりました。

ナレーション
 専門知識をもった医学者が集められ、組織されたことで、実験が大規模に進められていったのです。

731部隊元隊員インタビュー
 薬学博士だとか理学博士、だから731部隊っていえばねぇ、そういったその各界の権威が集まっていましたよ。

ナレーション
 命を守るべき医学者がなぜ人体実験に手を染めたのか。70年の時を経て明らかになる731部隊の真実です。

タイトル
 「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」
ナレーション
 中国東北部にある都市ハルビン。ロシア人が建設したこの国際都市は、戦争中、日本軍の拠点となっていました。【ハルビンの現在の映像】
 ハルビンの郊外20キロ、731部隊の本部跡が今も残っています【破壊された731部隊跡の現在の映像】。破壊された建物の残骸、終戦間際、存在を隠すために爆破されました。

 当時の写真です。
 部隊は、周囲数キロに及ぶ広大な敷地で、極秘に研究を進めていました。四角い形の3階建てのビルには、冷暖房を備えた最先端の研究室が並んでいたといいます。
 その中央に周囲から見えない形で牢獄が設置され、実験材料とされていた人々が捕らわれていたといいます。
 731部隊が編成されたのは1936年。当時の日本は旧満州に進出、国境を接し、軍事的脅威となっていたソ連に対抗するため、細菌兵器を開発していたのです。
 部隊を率いていたのは、軍医・石井四郎です。【731部隊部隊長・石井四郎の顔写真】
 当時、細菌兵器は国際条約で使用が禁止されていました。
 しかし、防衛目的の研究はできるとして開発を進めました。
 部隊の人数は最大3000人。【竹田宮を中心とする731部隊の集合写真】
 石井は、細菌兵器開発のため、全国の大学から医学者を集めていました。


極秘で進められた731部隊の研究
 その活動を公けにしたのが、【ロシアハバロフスクの現在の映像】終戦から4年後に旧ソ連が開いた軍事裁判、ハバロフスク裁判でした。
 裁かれたのは、731部隊の幹部や関東軍の幹部ら12人。多くの医学者が日本へと引き上げた中、逃げ遅れ、ソ連に抑留された人々でした。
 この裁判はこれまで、ソ連が公表した文書しかなく捏造だと批判する声もありました。今回見つかった音声記録では部隊の中枢メンバーが人体実験の詳細を証言していました。

テープの音声 検察側(ロシア語)
 人体実験はどのようの行われたのか、できる限り詳しく話してください。【検察側の写真】

テープの音声 731部隊衛生兵・古都証人
 昭和18年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために中国人、それから満人(注:満州人)を約50人余り人体実験に使用しました。
 砂糖水を作って、砂糖水の中にチブス菌を入れて、そして、それを強制的に飲ませて細菌に感染させて、そして、その人体実験によって亡くなった人は12~13名だと記憶しています。

ナレーション
 医学者たちの指示のもとで、致死率が高い細菌を使って、人体実験を繰り返したと語られました。

テープの音声 731部隊軍医・西俊英の証言
 ペスト蚤(注:ペスト菌に感染させた蚤)の実験をする建物があります。その建物の中に約4~5名の囚人を入れまして、家の中にペスト蚤を散布させて、そうしてその後、その実験に使った囚人は全部ペストに罹ったといいました。



生きて監獄を出たものはいない

ナレーション
 これは731部隊の隊員が持っていた中国人の写真です。【3人が杭(丸太)に立ったまま縛り付けられている写真】
 こうした人々が部隊に送られ、実験材料にされたといいます。

 当時の日本軍は、日本に反発する中国やソ連の人たちを匪賊(ひぞく)と呼び、スパイや思想犯として捕えていました。【捕虜の写真】

 ロシアで発見された資料です。【『関東軍実兵隊司令部警務部長通達』の写真】
 逆スパイにするなどの利用価値がないと軍が判断した人は、裁判を経ずに731部隊に送られたと記されています。その中には女性や子どもも含まれていたと裁判で証言されました。

テープの音声 検察側(ロシア語)
 囚人の中に女性がいましたか

テープの音声 731部隊第一部(細菌研究)部長・川島清の証言
 おりました おそらくロシア人だと思います【被告人の写真、同上】
 (以下、検察側と川島証人のやり取り)

検察 それらの女性の1人は乳飲み子を持っていましたか
川島 持っておりました
検察 人を細菌に感染させた後は、部隊で治療していましたか
川島 治療します
検察 その人間が回復した後はどうしましたか
川島 相当長い期間置きました後に また他の実験に供されるのが常であります
検察 そうしてその人間が死に至るまで実行したわけですか
川島 そういうことになります
検察 そうすると あなたが部隊に勤務中 この部隊の監獄より生きて出たものは一人もいないわけですか
川島 そのとおりであります





731部隊少年隊員へのインタビュー

ナレーション
 こうした人体実験に大学から集められた医学者たちは、どうかかわっていたのか。当時を知る元部隊員にたどり着きました。14歳の時に731部地に入隊した三角武さんです。
 【731部隊元少年隊員・三角武さんの自宅インタビュー映像】
 事実を知ってほしいと、今回初めて取材に応じました。
 部隊が保有する飛行機の整備に携わった三角さん。医学者の実験のため囚人が演習場に運ばれた時に立ち会いました。囚人は“マルタ”と呼ばれていました。

三角さん 頭、丸坊主。全部刈ってしまって丸坊主。マルタはみんな丸坊主。杭を打ってね、ずーっと杭を打って、そこにマルタをつないでおくんです。実験の計画に沿って、憲兵が連れて行って何番の杭に誰を縛るか、つなぐとかやるわけね。

ナレーション
 三角さんたちは、少年部隊員と呼ばれ、1年間、細菌学などの教育を受けました。指導したのは全国の大学から集められた優秀な医学者でした。

三角さん 薬学博士だとか、理学博士、医学博士なんて言うのが、いっぱいいますからね。だから731部隊といえばそう言った各界の権威が集まっていましたよ。そろっていましたよ。

ナレーション
 元部隊員の一人、須永鬼久太さんです。【731部隊元少年隊員・須永鬼久太さんの自宅インタビュー映像】
 これまで全貌が知られていなかった医学者たちの関与。その手掛かりとなる貴重な資料を保管していました。731部隊の戦友会が戦後まとめた名簿です。【『帝国陸軍防疫給水部編成総覧』の写真】

須永さん 京大、東大医学部、そういう所が多いですね。

ナレーション
 載っているのは731部隊に集められた医学者たちの出身大学と名前です。こうした人々は技師と呼ばれ軍の所属となっていました。




ナレーション
 私たちはこの資料だけでなく、現存する部隊名簿や論文などから技師の経歴を洗い出し、確認していきました。
 その結果明らかになった内訳です。【日本地図に大学名の映像、そこに人数が書き加えられていく】
 最も多くの研究者を出していたのは京都大学。ついで東京大学。
 【東北帝国大学1名、東京帝国大学6名、慶應義塾大学2名、北里研究所1名、京都帝国大学11名、京都府立医科大学1名、京城帝国大学2名、満州医科大学3名、その他の満州の研究所12名】
 少なくとも10の大学や研究機関から合わせて40人の研究者が731部隊に集められました。
 技師となった医学者たちは軍医と並ぶ将校クラスと位置づけられ731部隊の中枢にいました。【ピラミッド型の図のいちばん上が技師、真ん中に下士官など、最下層に衛生兵や少年隊】
 エリート医学者が部隊の研究を指導していたのです。なぜこれほど多くの医学者が731部隊にかかわることになったか。取材を進めるうちに、部隊と大学の知らぜらる関係が浮かび上がってきました。

京都帝国大学に731部隊から多額の研究費

 最も多い11人の技師が確認された京都大学です。公文書を保存する文書館が取材に応じました。【京都大学文書館の現在の映像】

文書館の担当者
 文部省と京都大学の間の往復文書を年ごとに閉じていると、そういった資料ですね。

ナレーション
 その中から731部隊と大学の金銭のやり取りを示す証拠が初めて見つかりました。【731部隊からの特別費用の書類】
 細菌研究の報酬として現在の金額で500万円に近い金額が研究者個人に支払われていたのです。【1600円の支給を示す資料】
 受け取っていたのは医学部助教授だった田部井和(たべい・かなう)です。致死率の高いチフス菌の研究をしていた田部井。【731部隊第一課(チフス)課長田部井和の顔写真】




 731部隊設立後間もなく赴任し、研究班の責任者となります。そこでどんな実験をしていたのか。部下が証言をしています。

ハバロフスク裁判の音声テープ 731部隊衛生兵(田部井の部下)古都証人
 チブス菌を注射器でもってスイカ、マクワ(うり)に注射しました。そして、それを研究室へ持って帰って菌がどのように繁殖したか、または減ったか等を検査しました。そして、完全に菌が増殖しているのを確かめてから、それを満州人と支那人に約5~6名の人間に対して食べさせました。

音声テープ 検察側(ロシア語)
 果物を食べた哀れな人間はどうなったんですか。

古都 全員感染しました。

ナレーション
 人体実験をしていたという田部井。同じ時期、京大からは医学者7人が部隊に赴任していました。取材を進めると、教え子たちを部隊へ送ったとみられる教授たちの存在が浮かびあがってきました。【教授たちの写真】
 大きな影響力を持っていたのが医学部長を2度にわたって務めた戸田正三です。戸田は軍と結びつくことで多額の研究費を集めていたことがわかりました。それを裏付ける戸田の研究報告書です。【1943年の報告書の写真】
 陸軍などから委託された防寒服の研究で8000円、軍の進出先の衛生状態の研究で7000円…(注:ほかの委託研究費も含めて)現在の額で合わせて2億5000万円にものぼる研究費を得ていました。
 軍との関係を深めていった戸田。そのきっかけとなったのが満州事変でした。(1931年~)
 傀儡国家満州国が建国されると国民はそれを支持します。こうした世論の中で大学は満州の病院などに医師を派遣。現地の人を病気から守る防疫活動【当時の写真】のためとしてポスト争いを始めます。戸田が所属する京大からも多くの医師が派遣されます。東大や慶大などと競いながら【東大 1933年35人→1940年48人、慶応 1936年40人→1940年54人】、京大はその数を倍増させていきました。【京大 1936年36人→1942年75人】


 当時戸田は、医学者も国の満州国進出に貢献すべきだと語っていました。

医学部長・戸田正三と731部隊長・石井四郎の関係

戸田の発言【満州日々新聞1936年「移民衛生調査委員会議」より】 俳優による復元音声
 今まで未開であったところの東洋の北部を開く指導者になることは、我々に与えられた一大試金石である。

ナレーション
 こうした中、大学への影響力を拡大したのが731部隊です。巨額の国家予算が与えられていたといいます。

テープの音声 検察側(ロシア語)
 部隊の経費としていかなる金額が供出されていましたか。

テープの音声 731部隊第一部(細菌研究)部長・川島清の証言
 確実な数字はただいま記憶しておりませんが、だいたいの数字を申しますと昭和15年度におきましてはだいたい1000万円(現在の金額で約300億円)に近い予算が使われておったように記憶しております。

ナレーション
 いまの金額で年間300億円の予算。それを動かしていたのが731部隊の部隊長・石井四郎でした。京大医学部出身の石井は母校の指導教官の一人だった戸田と関係を深めていました。戸田は石井と人事の話もしていたといいます。

戸田の弟子の回顧録【雑誌『国民衛生』】 俳優による再現音声
 戸田先生が東京へ出られると石井君と3人でよく会談をした。研究の件もあれば人事の件もあり、先生はよく京大や若い人のために奔走され、そのため占領地の支那本土へも旅行された。

ナレーション
 戸田が部隊の研究内容を把握していた文書も見つかっています。教え子が書いた回顧録によれば戸田は中国の731部隊の関連施設を繰り返し訪れていたといいます。

戸田の弟子の回顧録 俳優による再現音声
 戸田先生が来ると早速高等官、将校一同を集めて学術講演会が開かれ、和気藹々と部隊の研究を推進された。

ナレーション
 戸田と関係が深い教授の研究室からは8人の医学者が、京大全体では11人が731部隊に赴任したことがわかっています。【写真】


  

ナレーション
 京大に次いで多くの研究者が731部隊に集められた東京大学。【東京大学の現在の映像】
 取材に対し、組織として積極的に関わったとは認識していないと回答しています。
 取材を進めると東大の幹部が石井と交流していた事実が明らかになりました。医学者で東大の総長を務めた長與又郎【顔写真】です。
 遺族の許可を得て入手した長與の日記です。【日記の写真】
 そこには総長時代から石井と接点があったこと、そして、退任後の昭和15年、731部隊の本部を視察していたことが記されていました。

長與の日記 俳優による再現音声
 関東軍司令部に赴き、軍医部長を訪い(おとない)、さらに司令官に面会す。平房(注:731部隊のあった所の地名)に石井部隊を訪い、石井大佐の案内にて事業の一般を見学、水だき(水炊き)の饗応を受く。

ナレーション
 この時の記録には、東大から赴任した研究者たちの名前が記されていました。東大からは戦時中、少なくとも6人が集められたことがわかっています。【「長與又郎博士歓迎会出席者」】
東大で開かれた微生物学会の集合写真、石井を囲んでいるのは、全国から集まった名だたる教授たちです。大学の幹部と石井が結びつく中で、優秀な医学者が集められていったのです。



零下50度の外に出し扇風機をあて凍傷にさせる

ナレーション
 医学者のなかには、731部隊に送られた経緯を詳細に書き残していた人もいました。
 (京都帝国大学医学部講師・吉村寿人の写真)
 京大医学部の講師、吉村寿人です。基礎医学の研究で多くの命を救いたいと医学者を志したといいます。国内で研究を続けたいと思いながらも教授の命令には抗えなかったと回想しています。

吉村の回想【「喜寿回顧」】 俳優による再現音声
 軍の方とすでに約束済みのようであった。先生は突然、満州の陸軍の技術援助をせよと命令された。せっかく熱を上げてきた研究を捨てることは身を切られるほどつらいことであるから私は即座に断った。
 ところが先生は、今の日本の現状から、これを断るのはもってのほかである。もし軍に入らねば破門するから出て行けと言われた。

ナレーション
 吉村らが送られた731部隊の秘密研究所。実験のために運び込まれた囚人は年間最大600人に上ったと言われています。【現在の研究所跡の映像】
 生理学が専門だった吉村が命じられたのは、凍傷の研究でした。当時は関東軍の兵士たちは、寒さによる凍傷に悩まされていました。【足の凍傷の写真】
 その症例と対策を探る目的で、人体実験を行っていた様子が裁判で語られていました。【凍傷実験棟跡の写真】

ハバロフスク裁判の音声テープ 731部隊軍医・西俊英の証言
 第一部の吉村技師から聞きましたところによりますと、極寒期において、約零下20度くらいのところに、監獄におります人間を外に出しまして、そこに大きな扇風機をかけまして、風を送って、その囚人の手を凍らして、凍傷を人工的に作って研究をしておるということを言いました。
 そうして凍傷が人工的にできた場合は、小さな棒でその指を叩くと、板のように硬くなると吉村は言っておりました。

ナレーション
 人間を凍傷に罹らせる実験をしたという吉村。部隊で凍傷研究を進めながら満州の医学会では論文も発表していました。【731部隊吉村の論文「凍傷について」の写真】
 論文には様々な条件に人間を置いて実験していたことが記されていました。
 絶食3日、一昼夜不眠などの状態に置いてから、零度の氷水に指を30分つけて観察していました。
 裁判では吉村の研究室で凍傷実験の対象となった人を実際に見たという証言もありました。

裁判の音声テープ 731部隊憲兵班・倉員証人
 人体実験を自分で見たのは、1940年の確か12月ごろだったと思います。
 まずその研究室に入りますと、長い椅子に5名の中国人の囚人が腰を掛けております。それでその中国人の手を見ますと、3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました。残りの2人は指がやはり黒くなって、ただ骨だけ残っておりました。それは、吉村技師のその時の説明によりますと、凍傷実験の結果、こういうことになったということを聞きました。




医学者はなぜ残忍な人体実験に手を染めたのか  マスコミ(170)2017年8月24日・Ⅲ
NHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』その5

世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。
そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した者なのです。
そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。

 これはハンナ・アーレントの有名な言葉。ナチスのホロコースの最高責任者の一人、アイヒマンのエルサレムでの裁判を傍聴して得た結論である。周りがみんなそうだったからとか、上からの命令に従っただけだとか、そのような、考えることを拒否した人間の犯す悪が最も恐ろしい悪であると喝破したのだ。
 アーレントの言うことは当然、731部隊の軍人や生体実験に協力した医学者たちにもあてはまる。ハバロフスク裁判における妙に落ち着いていて淡々とした証言態度からは、「悪の凡庸さ」を感じないわけにはいかない。
 今回は、細菌爆弾の実戦使用と、医学者たちがなぜ一線を越えてしまったのか、その背景を描いた部分を紹介する。

ナレーション
 部隊から高額の報酬を受けとっていた京大の田部井和。【731部隊第一課(チフス)課長・田部井和の写真】
 実験室の研究から実戦使用の段階へと進んでいきます。開発したのは細菌爆弾。大量感染を引き起こす研究を始めていたのです。【細菌爆弾の図の写真】
 一度に10人以上の囚人を使い、効果を確かめたと部下が証言しています。

ハバロフスク裁判のテープ音声 731部隊衛生兵(田部井の部下)古都証人
 安達の演習場で自分の参加した実験はチフス菌であります。それは瀬戸物で作った大砲の弾と同じ型をした細菌弾であります。
 空中でもって爆破して地上に噴霧状態になって、その菌が落ちるようになってました。そして菌が地上に落ちたところを被実験者を通過させたのと、それから杭に強制的に縛り付けておいてその上でもって爆破して頭の上から菌を被せたのと、2通りの方法が行われました。
 大部分の者が感染して、4人か5人が亡くなりました。





ナレーション
 生きた人間を実験材料にした医学者たち。本来人の命を守るべき医学者はなぜ一線を越えたのか。それを後押ししたとみられるのが日本国内の世論です。
 1937年(注:731部隊編成の翌年)日中戦争が勃発。中国側の激しい抗戦で日本側も犠牲が増していきます。日本軍は反発する中国人らを匪賊と呼び、掃討作戦を行っていきます。【日中戦争の映像】
 政府もメディアも日本の犠牲を強調し、中国人への憎悪をかり立てました。【当時の新聞の写真。「暴虐極まる匪賊」「匪賊を徹底殲滅」】
 世論は軍による処罰を強く支持。匪賊に対する敵意が高まっていたのです。そうした時代の空気と研究者は無縁ではありませんでした。
 731部隊以外でも学術界では匪賊を蔑視する感情が広がっていました。それを示す資料が北海道大学で見つかりました。当時の厚生省が主催する研究会が発行した雑誌です。【厚生省予防局優性課内民族衛生研究会、『外国に於ける断種法実施状況』の写真】
 染色体を研究する大学教授の講演の記録。満州の匪賊を生きたまま研究材料としたことを公けに語っていました。

北海道帝国大学教授の講演記録【『民族衛生資料』1940年】 俳優による再現音声
 匪賊の人間を殺すならば、その報復ではないが、その匪賊を材料にしてはどうかと思いついた。死んだ者は絶対にダメである。染色体の状況が著しく悪くなる。匪賊一人を犠牲にしたことは決して無意義ではありません。これほど立派な材料は従来断じてないということだけはできます。




ナレーション
 14歳の時に731部隊に入隊した三角さん。【731部隊元少年隊員】
 匪賊は死刑囚だから実験材料として利用してよいと教えられたといいます。

三角さん こういう時代なんだからそうしなきゃ俺たちがやられるんだよと、そういった考えでしたね。だから口には出せないんです。可哀そうだとか、何だとかということは。見ても口には出せないです。出したら非国民だとやられちゃう。そういった雰囲気というか、そういった一般的な風潮がそうだったんです

ナレーション
 戦争が泥沼化していった1940年代。731部隊は遂に細菌兵器の実戦使用に踏み込みます。中国中部の複数の年で少なくとも3回、細菌を散布。細菌兵器での攻撃は、国際条約で禁止されていましたが、日本は批准しないまま、密かに使用しました

裁判のテープ音声 731部隊第1部(細菌研究)部長・川島清の証言
 私がおりました間のことを申しますと、昭和16年(1941年)に第1回、それから昭和17年に1回、中支において第731部隊の派遣隊は、中国の軍隊に対して細菌兵器を使用しました

ナレーション
 さらに民間人にまで感染を広げる目的で、中国の集落に細菌を撒いたと証言されています

川島清の証言 使われる細菌は主としてペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌であることが決定しました。ペスト菌は主としてペスト蚤(ペスト菌に感染させた蚤)の形で使われました。その他のものはそのまま水源とか井戸とか貯水池というようなところに撒布されたのであります

裁判のテープ音声 731部隊衛生兵・古都証人
 あの当時、現地に中国人の捕虜収容所が2か所ありました。その人員は約3000名と言われてました
 饅頭(マントウ)作りに参加しました。少し冷やしてからそれに注射器でもって菌を注射しました

検察側 その後は(3000個の饅頭を)どうしましたか

古都証人 その収容所へ持ってきて、それを各人に食べるようにして渡して

検察側 そして細菌の入ったその毒の饅頭を食べさせてから、中国人の捕虜をどうしたんですか

古都証人 その現地でもって解放しました

検察側 パラチフスを大量感染させる目的でしたか

古都証人 はい、自分はそのように聞きました
NHKスペシャル『731部隊の真実 エリート医学者と人体実験』その6(最終回) マスコミ(171)2017年8月30日
敗戦ですべての囚人を殺害
医学者たちには特別な列車が用意され、いち早く日本に帰国した

 番組は最後に、責任をとらずにまっ先に逃げ帰り、戦後も反省するどころか、医学界の権威として生き続けた医学者たちを静かに告発する。
 相変わらず、真実を見つめず、歴史を修正しようとする日本人への警告である。

ナレーション
 そして、戦争末期の1945年8月9日、ソ連が満州に侵攻。【当時の映像】
 731部隊は直ちに撤退を始めます。部隊は証拠隠滅のため、すべての囚人を殺害。実験施設を徹底的に破壊しました。医学者たちには特別の列車が用意され、いち早く日本へ帰国しました。
 部隊のことは一切口外するなと言われた三角さん。この時、死体の処理を命じられました。

三角さん【インタビュー映像】
 死体の処理に少年隊来いって引っ張られて行って、死体の処理を各独房から引っ張り出して、中庭で鉄骨で井桁組んで、ガソリンをぶっかけて焼いたわけ。
 焼いてね。全部焼き殺して骨だけにして、こんど骨を拾う。いや、戦争っていうものはこんなものかと、戦争ってものは絶対するもんじゃないと……つくづくそう思いましたね。ほんとにね。一人で泣いた……。

ナレーション
 人体実験を主導し、日本へいち早く帰国した医学者たち。戦後、その行為について罪に問われることはありませんでした。アメリカは人体実験のデータ提供と引き換えに隊員の責任を免除したのです。
 多くの教え子を部隊に送ったとみられる戸田正三は金沢大学の学長に就任。部隊とのかかわりは語らないまま医学界の重鎮となりました。【顔写真】
 チフス菌の爆弾を開発していた田部井和(たべい・かなう)。【顔写真】
 京都大学の教授となり、細菌学の権威となりました。
 凍傷研究の吉村寿人も教授に就任。自分は非人道的な実験は行っていないと生涯否定し続けました。

吉村寿人の回想 『喜寿日記』 俳優による再現音声
 私は軍隊内において、凍傷や凍死から兵隊をいかにして守るかについて、部隊長の命令に従って研究したのであって、決して良心を失った悪魔になったわけではない。

ナレーション
 当事者たちが口を閉ざす中でタブーとなってきた731部隊。戦後72年となる今年、その歴史が改めて問われています。
 医学者をはじめ、様々な科学者の代表が集う日本学術会議です。【日本学術会議、第173回総会の映像】
 防衛省から大学への研究資金が急増する中で、いま、大学と軍事研究の在り方が議論されています。

研究者の発言(男性)
 軍事研究=兵器研究ではないですよと、兵器研究ではない。軍事研究はもうちょっと幅の広いものだと、こういうふうな認識ではないかと私は思っています。【発言者の映像】

ナレーション
 会場では731部隊がアメリカの原爆開発と並んで取り上げられました。

研究者の発言(女性)
 科学者の責任ということです。科学者は戦争に動員されたのではなくて、むしろ歴史を見てくると、科学者が戦争を残酷化してきたという歴史があると思います。

ナレーション
 いま、私たちに問いかける医学者と731部隊の真実。それは戦争へと突き進む中で、いつの間にか人として守るべき一線を越えていったこの国の姿でした。
 今回発見された音声記録。その最後には被告たちが自らの心情を語った発言が残っていました。医学者・柄沢十三夫、人体実験に使われた細菌を培養した責任者でした。戦争が終わってから初めて罪の重さに気づいたと語っています。

ハバロフスク裁判のテープ音声 731部隊軍医・柄沢十三夫の証言
 自分は現在平凡な人間といたしまして、自分の実際の心の中に思っていることを少し申してみたいと思います。
 私には現在日本に……82になります母と妻、並びに2名の子どもがございます。なお、私は自分の犯した罪の非常に大なることを自覚しております。そうして終始懺悔をし、後悔をしております。私は将来生まれ変わってもし余生がありましたならば(泣き声)自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております。【裁判で証言する柄沢の写真】

文字
 この医学者は刑に服した後、帰国直前に自殺したと伝えられている。
(終わり)





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